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2006.04.14

教育基本法の改定に関心がない

 教育基本法の改定には私はまったくと言っていいほど関心がない。義務教育は市民生活を営む上でごく最低の知識の伝授さえあればいいし、それ以降は教育とは私学が基本だと考えるので、国家がこうした問題に口を挟むということがまずもって理解できない。もともとこうした法というのは憲法と同じように、国家が義務教育を怠ることがないようにその権力行使を限定し、最低義務の遂行を規定するというだけでいい。そしてその点で現行の教育基本法で欠落しているとも思えない。愛国心云々については、もう勘弁してよという感じだ。愛国心を伝えるのは日本国民の大人の倫理的な義務であり、そんなもの改まって伝えるようなものではない。各人の生き様を通して子供が察するように、そんなふうに大人が生きるだけの問題である。まして日本の愛国心の根幹はその美観である。語るだけ野暮ってものだ。国家の品格とかも薄っぺらな冊子で売るんじゃねーよと思う。
 ネットリソースには今回の改訂をまとめた”現行教育基本法と「教育基本法改正案」の比較”(参照)があるのでざっと見たのだが、「(家庭教育)第十条」とかバッカじゃなかろかと思った。


(家庭教育)第十条
(1)父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとすること。

 こんなのどうでもいいやと思うのだが、どうでもよくないと思うことがある。子供は遊べということだ。初等教育のもっとも重要なことは、遊べ、であろうと思う。
 先日、”極東ブログ: [書評]家族のゆくえ(吉本隆明)”(参照)で吉本隆明の新刊書「家族のゆくえ」(参照)についてちょこっと書いたのだが、この本のなかでとても気になっているのが、子供は遊べという彼の執拗とも言える主張だ。

 少年少女期の定義は何かといったら――「遊ぶこと」がすわなち「生活のすべて」である生涯唯一の時期だ。「生活がすべて遊びだ」が実現できたら、理想の典型だといえよう。遊び以外のことは全部余計なことだ。この理想が実現できなければ、おどおどした成人ができあがる。もちろん、わたしもそうだ。これは忘れてはならないことにおもえる。
 「遊び」が「生活全体」である、というのが本質だから、できれば遊び以外のことはやらせないほうがいい。どんな大金持ちの息子であろうと、どんな貧しい家庭の子供であろうと、生活全体が遊びの時期であるという意味では隔たりがない。みな同じだ。


 どの家庭もたいていその邪道を歩んでいると思う。だいたい母親が邪道だし、場合よっては父親だって邪道だとおもう。あるいは小学校の先生も。
 小学校の先生は勉強なんか教えなくて、子供といっしょになって遊んでいればいい。いちばんいい教育は休み時間にいっしょに遊んで、喧嘩の仕方を教えたりキャッチボールのやりかたを生徒に教えてやることだ。絶対それがいちばんいいとおもえる。

 さて、困った。
 私のような吉本主義者には、そりゃそーだ、というだけのことだが、まるで説明になっていない。なぜそれが本質なのか、おどおどとした大人にしないことがそれほど重要なのかねとか突っ込まれたら返答できるか。
 もちろん、具体的な人間の場なら返答ができる。なぜ人を殺してはいけないのかと問われたら、吉本翁は、じゃ、俺を殺してみなとその胸元ににじり寄る。それが返答ではあるだろうし、子供に遊びだけでいいのかとほざく大人には、けっと言えばいいだけのことだ。だが、それがまるで言葉としての答えにはなっていない。
 そういうものなのか。なにか、この問題には言葉の思想としてのカテゴリーエラーがあるのか。そこがよくわからない。
cover
ああ息子
 吉本はこの本のなかで、柳田国男の「軒遊び」という言葉に着目している。簡単にいえば、幼児期から学童期の中間で、親の目からそう遠くない軒で遊ぶという空間の重要性だ。確かに私などもそうした時期があった。そして子供がまさに「子+ども」であり、年長の子が「おみそ」を見ていた。
 野村進のなんでこんな本書いちゃったんだろうという雰囲気の「脳を知りたい!(講談社プラスアルファ文庫)」(参照)を私はハードカバーので読んですぐに捨てたのだが、一つだけ気になったことがあった。どっかの先生が言うに、もっとも優れた幼児教育は子供を子供のなかで育てるというのだ。進化論的に人間はそうできているとかいう補足もあったかと思う。ああ、それもそうかなと思う。
 大人は子供を大人となるべき何かのように見るが、そう見る大人というのはえてしてなんだか間違った存在としてこの世界に置かれている。人間の本来的な可能性というものがあり、それが子供の時代にかいま見せる何かであるなら、そのことに対するもっとも敬虔な姿勢で教育を捉えるとどういうことになるのか。たぶん、遊べ、であろうと思う。

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コメント

 遊べ遊べって言うのはある程度金持って暮らし向きが豊かな環境でのことだろ。
 そじゃない環境で生きてる奴はどうなのさ?
 家が貧しくて子供が率先して働いて家計を助けるような家の子はダメか? という話に摩り替わってもおかしくなかろう。

 具体的に遊ぶか否かの問題もあるかもしれんけど、要は生活の中に遊び感覚を盛り込みませんか? ってだけのことで、「家が貧しくて子供が率先して働いて家計を助けるような家の子」でも、それが遊びだと思っているような奴は「遊ばずとも遊ぶ」よ。

投稿: 私 | 2006.04.15 22:59

大人がきちんと責任を取る社会を示すことが、
最も手っ取り早い教育かと。

投稿: bc | 2006.04.17 04:14

国家の品格というのは、どうやら武士道精神について語っているらしい
ですが(わたしは、流し読みしかしませんでした)、そもそも武士って
かつて日本の人口の何パーセントを占めていたのだろう、と首を傾げてしまいます。

つまり、日本人の伝統について語っていると
見せ掛けているにもかかわらず、じつはそれは武家の伝統について語っているにすぎない
というケースが、これに限らず結構あるよなぁと
最近、感じるようになってきました。

投稿: てけてけ | 2006.05.16 19:15

http://gray.ap.teacup.com/123ja8119/img/1163754221.jpg
http://gray.ap.teacup.com/123ja8119/img/1163939177.jpg
http://gray.ap.teacup.com/123ja8119/img/1163841236.jpg
運輸省事故調査委員会報告書の写真です。
「きれいな爆弾」の現実です。地獄です。このような核兵器は廃絶すべきです。
これがその「瞬間」に中性子線によって圧力隔壁という金属に金属疲労として投影された
「映像」です。
我々はこの現実に目を背けるべきではありませんし二度と繰り返してはなりません。


放射線強化型水素爆弾による地獄の瞬間は地上にも放射されました。下部組織に刻
印されているためいたるところで見られます。

http://gray.ap.teacup.com/123ja8119/img/1166080689.jpg
http://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/1901rjtt-to-roah/1810651.jpg
乗客は「きれいな爆弾」により昇華されました。この惨状が正当化できる理由はありえませ
ん。被弾の瞬間の機内の「映像」は限りない悲壮に満ちております。「きれいな爆弾」の地
獄が繰り返されることがあってはなりません。

投稿: | 2006.12.15 07:53

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» そだ [売文日誌]
 雑多なもの、不協和と言うものを重視する考えを何かストイックなもの だと想像する向きはあるだろうという気がするけれど、そしてそういった タイプのものもあるのはあるけれど、自らがそれであるところの力に可塑 的にしておけるだけの余力があるという「遊び」のタイプもあるのはある。 遊びというのは「色々やってみる事」そのものが擬似的な目的となる状態 であって、それは力が目的を取らないと言う事を了解するために相応しい。 色々やってみてもし出来たのならそれをひたすら受容する。ここには全く 柔軟な力がある。柔軟... [続きを読む]

受信: 2006.04.14 22:14

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