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2006.04.22

形と実態

 ブログでいうところのネタにもならないのかもしれないが、最近ときおり考えることがあるので、書いて「形」にしてみたい。話は、形と実態ということだが、哲学的なことではない。卑近な話に近い。
 ブログのある種濃い層ではこのところ話題だった、某有名ブロガーがアレフの信者だった話だが、と「某有名ブロガー」なんて書く必要もないのだが彼自身に焦点を当てたいわけでもないので仮にそうしておく。
 この話、アレフの信者だったことを内緒にしてブログ活動をしていたが、アレフの信者であることがバレた、ということなのか、改めて考えるとよくわからない。というのは、アレフの信者であるばそれを明言することがブログ活動の条件になるわけでもないからだ。もっとも、今回の問題は、実際にはそういうことではなく、現実の政治に関係があり、そのあたりでいろいろブロガーが考えなくていけないことがあった。なので、どういうふうに問題を設定するかということが重要にはなる。まあ、そこへはこのエントリではでも踏み込まない。
 いずれにせよ、彼はアレフの信者であることを隠してブロガーとして政治的な関与をしたのか、彼はもうアレフの信者ではないのか。まあ、その形と実態を、他人がどう考えればいいのだろうか、という話だ。
 本人はアレフは退会していると言いたいようではある。では、退会とは何かなのだが、アレフの規定では退会届けを出せばいいらしい。では、彼も退会届けを出せば「形」が付くじゃないかと私などは考える。が、彼は、そういうことは意味がないんだ、まるでわかってないと言いたいようでもあり、おそらく、それは彼にとっては重要な現状認識なのだろう。
 でも、それはたとえば私には伝わってこない。むしろ、「ほぉ、これが退会届の配達証明書の写真ですか、出したのですね」というのだとよくわかる。そして彼が内心実はアレフの信仰やその関連の活動をしていても、社会に見える形があれば、とりあえず私は勧進帳をするにやぶさかではない。
 という時、私はなぜその形に結局こだわっているのだろうか。自問するがいまひとつよくわからないのだ。
 別のエグザンポー。山本七平とイザヤ・ベンダサン。ブログとかでイザヤ・ベンダサンのことを書くとそれがある種の政治的な立場表明に関与するような場合も多いせいか、イザヤ・ベンダサンは偽ユダヤ人だ、正体は山本七平だというコメントが出てくる。そう指摘することでどういう意味があるのか私などはよくわからないのだが、例えば、ウィッキペディアではこう書いてある(参照)。


正体
何人もの人物がその正体なのではないかと言われたが、後には、本を出版した山本書店の店主で「訳者」だとされていた山本七平と、米国人のジョセフ・ローラ、ユダヤ人のミーシャ・ホーレンスキーの共同ペンネームであったとされるようになった。しかし、未亡人や子息によると、事実上は山本の著作であったといい、2004年以降『日本人とユダヤ人』は山本名義でも刊行されている。また、ベンダサン名義の書物と山本名義の書物の詳細な分析が浅見定雄によって行われ、山本の著作であることはほぼ確定していると言える。

 浅見定雄の分析で「山本の著作であることはほぼ確定していると言える」とするあたりがウィッキペディアのお茶目なところというかどうでもいいのだが、前段の話で、「正体」と「著作」がどういう意識で書かれているかよくわからない。
 端的な話。山本七平は生存時イザヤ・ベンダサンの著作権を持っていなかったようだ。私自身は断定できないのだが、山本七平はそう言って当初自身が経営する出版社から出した「日本人とユダヤ人」について、出版社の経営者として著作権を混同することはないですよというふうに言明していた。
 実際のところイザヤ・ベンダサン名で書かれた書籍を誰が書いたかということは山本七平だろうと私も思う。問題は、そのオリジナルアイディアと著作権=コピーライトのホルダーが誰だったのかということだ。つまり、著作者という「形」は著作権者を意味するはずだ。そして、コピーライトの字義通りコピー(書籍)を作る権利のあり方が問われる。
 という線で考えると、イザヤ・ベンダサンという著作権者が山本七平の死後、その権利を山本七平の親族に譲り、それゆえにイザヤ・ベンダサン名の書籍が昨今山本七平名で復刻されるようになったと考えるのがスジのように思うが。そうしたことにこだわる私は別の意図があるのだろうと、本心はなんたらと批判されるのだろうか。
 しかし、著作権という形は法的には有効だし、重要だろうとは思う。その意義を問わないような枠組みのようなものの意味はなんだろうか。山本七平とイザヤ・ベンダサンの思想は同じということなんだろう、というところで、某有名ブロガーの信仰のような話になってくる。
 これは、宗教に関連したことなのだろうか。
 ある人がクリスチャンであるというのはどういう意味だろうか。たしか、アルファブロガーきっこはクリスチャンだと本人が書いていたと私は記憶している。カトリックだったか。で、加えて、現在は教会には行ってないとも。
 さて、こうした場合、クリスチャンとはどういう意味なのだろうか。信仰? 形? カトリックの信者ということは、プロテスタントとは違い、教会に所属している(教会や牧師を信者が養っている)ということでなく、秘蹟を受けているということになる。その秘蹟とは信仰を示すのか、「形」なのだろうか。
 靖国問題も考えてみると、そうした信仰と形に近いようにようにも思える。
 端的に、あなたは死後の世界を信じますか? 私はそう問われたら、信じないよと答えると思う。言葉の形としてそう答えるだろう。死後存続するという霊魂は信じますか?と問われれば、アコージングリーなこと言うなよとなる。ということは、靖国で祀られている実体を私は信じていないということで、それは、私にとっては無だ。というか、ある神道という宗教と自分の関わりが信仰的に問われても答えようがない。信者の問題でしょということだが、つまり、いわゆる靖国問題は私には信者たちの問題でしょという感じがする。
 この問題は国家が関連する形の問題のようにも見えるのだが、そういうなら、形としては靖国神社はやはりただの神社であろう。別に誰かが「新靖国神社」というのを立てて、ギロロ伍長とか祀っても似たようなものではないかと区別のない問題に思える。
 さてこの話、実は、オチをどうしようか考えていた。もうひとつ例を考えていた。結婚という形とその実態ってなんだろう、と。
 数年前だったが、知り合いで、結婚という形を世間様の手前取れないよねという関係をもう何年も続けていたのだが、子供たちの独立に合わせて籍を入れた。形を整えたということなのだろう。どういうことよと彼らに問いつめる気もないし、知人として私に関係するわけでもないのだが、なんかよくわからない問題ではある。で、オチなんだが、いや、そこまで行ってない。でもこのエントリは終わり。

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コメント

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これが、答え。
嫌がらせを防ぐために形があるだけ。
嫌がらせが生甲斐な人、多過ぎ。
とくに、ネット。

投稿: つまり | 2006.04.22 07:49

私もそういうことを考えたことがありますが、この場合の形とは「儀式」と呼ばれる種類のものなんじゃないでしょうか。で、考えすぎてもろくな答えは出てきそうな気がしませんで、思考停止。

日本男児たるもの一度は神の前に立って・・・という「心の問題」も最近は人前結婚式というのがはやっているようで儀式というより形式のほうがトレンドなのかもしれません。

投稿: kakipi | 2006.04.22 11:40

宮部みゆきさんの小説に「さよならに返事はいらない」という題名のものがありますが、
1.別れには相手の同意が必要
2.別れには相手の同意は不必要
3.別れると決めたら告知も不必要
のように、前提が違えば考え方も変わるでしょうね。

あ、あと中学生や高校生が恋愛感情で
「せめて“好きです”と思わせてください」
と告白する定番があります。
告知って、なぜ必要なのでしょうかね。

投稿: てんてけ | 2006.04.22 18:01

↑告知が必要なのは、言わなきゃ分からないか、言わないまま放置しておくと勝手に自分のものにする人が居るから。

 そういう人を受け入れ放置できる力量が自分にあるなら、告知は要らない。でもまあ、大概の人間は告知する(体裁を整える・防衛線を張っておく)→侵入者アリ→反応、という手順を踏まないと対応できない。

 何も言わず放っておいて違和感ありまくりな状況になったとき、そこから何の手順も手筈もなしに感性だけで解決できる人間が居るなら、そりゃまあそもそも「言葉は要らない」になってしまう。

 「形」という言い方をすることで「虚構?」「必要ないもの?」という方面に気を巡らせるのは、虚構性を過大評価しすぎ。そんなんだったら、体は「形」だから要らない。私は精神のみで生きる、とでもノタマッテ自殺なさったら宜しい。

 ここで述べてる「形と実態」は、単に字義通りに捉えるなら「形式」「現実」なのかもしれんけど、「形→外形等捉えうるもの」「実態→自己の意思・精神」に摩り替わる可能性も、ある。言葉の問題として。

 そのへんごっちゃにしてしまうと、考えなくていいことまで考えて思考の泥沼に足を取られる。物事はひっくり返して考えさえすればいいってもんでも、ない。

投稿: 私 | 2006.04.23 02:50

「形と実態」という風に分けて考えることが出来るなら、
「形は実態」「形も実態」という風にくっつけて考えることも出来る。

 あいうえお50音を全部お試しでくっつけてみて、「形ぺ実態」「形ぬ実態」みたいな意味通じない用語を勝手に開発したとしても、そこで強引に意味を見出すなら、もしかして新用語が誕生するかもしんない。

投稿: 私 | 2006.04.23 03:17

エントリーを読んでいて、養老 孟司さんが書いた「機能と構造」に関する記事をなんとなく思い出しました。

投稿: sesoko | 2006.04.23 07:28

人前結婚式を選択する理由は、まず第一にコストが低いからですよ。それと、過剰な演出をそぎ落として最小限(最大限?)の形式を重んじる、というような心持もあったりしつつ年内に人前式をやる予定です。正しいかどうかは分かりません。

投稿: ZUBARI | 2006.04.23 08:29

あ。やっぱりZUBARIあらためゴーフといいます。んでは。

投稿: ZUBARI | 2006.04.23 08:41

三度失礼します。

>最小限(最大限?)の形式を重んじる

最小限(最大限?)の儀式を重んじる

と訂正です。言い直してもあまり変わらないかもしれませんが。

投稿: ゴーフ | 2006.04.23 08:47

虚栄を形だと思いこみ、暗示から実態を思い込む。
頭がいい人ほと、はまってしまう穴だね。
言葉には指し示している実態があるのに、
言葉をぐるぐる回していくうち、実態からかけ離れて、
いつのまにか、虚栄を虚栄とわからならくなる。
とくに、国家的虚栄ほど、庶民を苦しめるものはない。


(ちなみに、
恋愛は虚栄を入り口にしている、
結婚は虚栄を抜けきれないなら悲劇しかない。)


だからこそ、言葉を長期間休む必要がある。
新聞社の人って、本当に休暇をとっているのだろうか?
常に過熱しているから、見えなくてなっている。
虚栄をよく知ったほうがいい。
虚栄を楽しんだほうがいい。
休暇とは、こういう日々。
新聞社の人に限らない。
一番やばいのは、ブロッガーだ。

投稿: つまり | 2006.04.23 08:53

著作権の話を延長し、飛躍すると、

やはり「神」は復活する。

となる。私的には。ダカラナニ?

投稿: 妙訝 | 2006.04.28 18:56

アレもん信者脱会の「形」に引っかかりを感じるのは、
当人が「形」を整えることを「拒否」し、
その点から話をそらそうとしているように思えるからでは?

つまり、その人自身が引っかかって、こだわっているので、
見ている方にもそれがビンビン伝わって来て疑問に思うのではないかと。

  脱会したなら脱会届け出すくらい当たり前だろ?
  なのに、ナゼそれをしないのか?
  出来ないのならなぜか?

  それより、ナゼ、その話を避けようとするのか?
  (避けようとするのは、何か理由があるのか?)

そんなふうに、頭の中で、疑問が渦巻いて行くような。

元々アレな信者って、すぐに話そらそうとするし、
テロもやってるわけだから、疑問の余地大アリ。

なのに信者って、そういう世間の見方も拒否する。
ガチガチのカルト信者とは、話にならんのです。

だから、彼らがアホな盲信をする自由は認めても、
またテロをやらかす自由は認めない。
ある程度見張ってないとすぐに人集め、
金集めを再開するので、タチが悪い。
だまされたい人も世の中には多いし、困りもんですね。


宗教は麻薬だ。だけど共産主義も最悪のクソ宗教だ。
信じる人がみんな天国に移住してくれたら
地球は平和になりますよ。きっと。
でも彼らは天国には行けそうにもないので、
残念ながら実現しないでしょうけど。(笑)

投稿: 初見 | 2006.04.30 00:46

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