所帯と世帯
書棚の整理をしていたら「日本の漢語 その源流と変遷(角川小辞典)」(参照)が出てきて、しばらくめくっていたら、所帯と世帯の話があり、このところなんとなくこの言葉の使い分けが気になっていたので該当項目をざっくり読み、少しぼんやり考えた。
「所帯持ち」とは言うが「世帯持ち」とは言わない。「一世帯当たりの」とは言うが「一所帯当たりの」とは言わない。「所帯じみた」とは言うが「世帯じみた」とは言わない。「母子世帯」とは言うが「母子所帯」とは言わない。
言い分けの用例をつぶやいていると、その違いの生活感覚はわかるが、さてどう説明するのかとなると難しい。とりあえず、お役所言葉で戸のことが世帯とは言えるのだろうが、所帯という言葉の庶民的な含みをどう言い表すか。所帯と言えば「女房子ども」と続くようでもあり、男が働いて家族を食わせるといった世界観のようでもあるが。
ウィッキペディアに「世帯」(参照)があった。
世帯(せたい)とは、
1、実際に同一の住居で起居し、生計を同じくする者の集団。
2、一家を構えて、独立の生計を営むこと。所帯(しょたい)とも言い、結婚することを「所帯を持つ」とも言う。
3、生活に必要な家や道具。
以下、1の意味における「世帯」ついて詳述する。
とあり、もっぱらお役所言葉的な部分に絞られていくのだが、次義として所帯の同義としている。ここでは「~すること」という言わば、事的対象が「所帯」ということなのだろう。それに対して、物的対象が「世帯」か。それでいいのかといった疑問は感じる。それと、3の「生活に必要な家や道具」は所帯道具の略か。
字引を見る。gooの大辞林の「所帯」(参照)はこう。
しょたい 【所帯/▽世帯】
(1)一家を構え独立の生計を営むこと。またその生活。せたい。
(2)家庭での暮らし。暮らし向き。
「―のやりくり」
(3)住居および生計を一つにして営まれている生活体。せたい。
「―数」「男―」「大―」
(4)もっている財産や得ている地位。身代。
「竹沢が―を没収して、その身を追ひ出されけり/太平記 33」
どうもあかんなこれはという感じだ。世帯を引くと同じ項目が出てきたし。
気になるのは、太平記の用例を見ると、propertyの語感に近いか。もっとぴったりの英語があったような気がするが。このあたりが古義なのかなという印象を大辞林は与えるわけだが、それ以前に太平記の用例が「所帯」なのか「世帯」のかわからない。
「日本の漢語」はその点、つまり歴史主義の部分は詳しい。古い用例として吾妻鏡の「所帯職」を提示している。読み下すとこう。
去る五日季弘朝臣所帯職を停め被れをはんぬるの由。仙洞より源廷尉義経に仰せらる。
「所帯職」という用語には違いないが、さてどのような職種かというと、文意からわかるようにそうではない。ただ、職というだけのことだ。「所帯職を停め」は「停職」というだけのこと。すると「所帯」とは何か?
「日本の漢語」で示唆されているように、これはさらに「職を帯ぶる所の」と読み下せる。つまり、特に意味はない。が、吾妻鏡では、所帯職から離れて所帯だけで、所領を意味する用例も出てきている。細かい話を端折れば、十三世紀には今日の所領の意味で「所帯」という言葉が確立しており、おそらく鎌倉幕府(政府)の時代の社会のあり方を反映しているのだろう。
ここまでをまとめると所帯というのは所領、領地を意味していたののだろう。では、それが、現在の意味にどう変遷したのだろうか。中世狂言のスクリプトにはすでに、今日の意味に近い「所帯」があるのだが、そこまでの変遷はよくわからない。それほど時間をかけた変遷ではないようだ。少し考えれば、領地に人が従属していたというこのようにも思えるが、あまりに粗っぽい推論になる。
「世帯」のほうはどこから出現したか? 中世狂言のスクリプトの異本ですでに「所帯」と「世帯」の混同が見られるようだ。とりあえずは、「所帯」が「世帯」に変化したのだろうが、そのその変遷は狂言のスクリプトということからも想像されるように、音価の同一性だったのだろう。つまり、「しょたい」の音価が「世帯」でもあったのではないか。雑な考察だが、「先生」を「しぇんしぇー」というような「しぇ」の音価に近かったのかもしれない。
「日本の漢語」ではさらに面白い考察を加えている。「世帯」の表記に「世諦」があり、その意味の関連があるのではないかというのだ。
「世諦」の意味だが、とgooを見ると「世間一般の立場での真理。俗諦。」のみで解が薄い。「俗諦」とあるが、これは「世俗諦」の略でもある。こちらの意味はこう(参照)。
ぞくたい 【俗諦】
〔仏〕 世間の人々の考えるこの世の真理。現世的真理。世間的知恵。世諦。世俗諦。
⇔真諦
つまり、「世諦」とは庶民の真理、極東ブログで言う所の世間知に近いかもしれないが、そうした価値観というより、その価値観に束縛されている時空として捉えるといいだろう。というのも、真諦が仏教の世界に対応するように、「世諦」は俗世でもあるのだろう。
そう考えると、現代日本の「所帯」のコノテーションは「世諦」に近いように思われる。非モテ論を純粋に繰り返すとか栗先生のようにモテを追求するより、世の中ってものはこんなものさと女房を見つけ子をなす(女なら旦那を以下略)という「世諦」であろう。つまり、そういう生き様が所帯じみたというのはまさに、世間の人々の考えるこの世の真理の反映なのだろう。
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