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2006.02.13

小さい本

 明け方のこと、夢とうつつの合間で私には海外ニュースの映像を見た記憶が残す疑問の感覚だけがあった。映像の記憶の残滓の中で、怒れるイスラムの人々が手に小さな本を持っているのだが、あれはクルアーンだろうか。あの小さいクルアーンはどこで販売しているのだろうか……販売? GEMのように豪華な装丁になっているだろうか……GEM?
 そのうちに十分に目が覚めてGEMって今でも売っているのだろうかと気になった。ネットやアマゾンをざっと見回して見つからないので、あんなものはもうなくなったのだと自分に言い聞かせるように外出しながら、その後も小さなクルアーンとGEMはどこにという奇妙なオブセッションに一日捕らわれた。
 小さな聖書というものもある。実家のどこかにまだあるのだろうが、手のひらに隠せるほどの大きさのものだ。装丁はそれほどよくない。もう随分以前のことになるが、奇妙ないきさつで長野県を旅している列車のなかで私がその聖書を読んでいると、なぜそんなところに米人女性がいるのかわからないがその聖書に関心をもったらしく、私に近づいてそれはとても大切なものだと熱心に説教した。欽定訳の聖書でいわば英語の古語でもあるので内容というより、その小さな聖書自体への思い入れが彼女にあったのだろう。ふと思うのだがあれは従軍用のものかもしれない。ベトナム戦争用のものだったのだろうか。
 同サイズの毛沢東語録も私は持っていた。ビニール製のまっかな装丁でなぜかそれより薄い実践論だったか戦争論だかも分冊になっていたのだが、てかてかのビニールのせいか、毛語録にぺたっと貼りつくのである。中国製だが日本語で書かれて読みやすかった。米帝は張り子の虎であるとか、巨大な山でも爺の意志が突き崩したという伝説のたとえなどが書かれていた。
 そういえば、中国詩選や徒然草、百人一首、奥の細道といった古典をベージュのビニール装丁にした小さな本があった。面白くて私は買って集めていた。高校生くらいのことだ。中国詩選はかなりの厚みになるが、薄いものはポケットに入る。なぜかあんなものを飽きもせず読んでいたことを思い出す。
 赤尾の豆単とかはどうなったのだろう。私はこれにはお世話にならなかったが、一冊持っていた。そういえば旺文社文庫には赤尾好夫のエッセイとかあったような記憶がある。チェイニー米副大統領のように狩猟が趣味であったと思うが。
 あの小さな本たちというのを見なくなったなと思う。
 バイブルペーパーというのか知らないが小さい本の紙はどれも破れにくいようにはできていた。

cover
ジェム英和・和英辞典
 いや、やっぱりGEMは今でもあるだろうと気を取り直して検索したら、あった。カタカナで「ジェム」だったのだ。英和三万三千語、和英三万一千語を収録とあるが、その程度では現代英語には足りないような気もする。"blasphemy"はでも収録されているだろうな。

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コメント

「はてな」のおとなり日記より飛んできました。毛沢東語録・・・というのが、あまりになつかしくて・・・。

 中国展かなんかで意味不明のまま買って、私も持っておりました。当然今は行方不明ですけど。

投稿: shibayoh | 2006.02.15 17:50

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