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2006.02.18

[書評]隠すマスコミ、騙されるマスコミ(小林雅一)

 小林雅一「隠すマスコミ、騙されるマスコミ(文春新書)」(参照)の第一章に「マスコミ騙し屋」ことジョイ・スカッグス(Joey Skaggs)の話がある。彼はマスコミを騙すことを芸術活動の一環としているらしい。本書には記されていないが、彼はネットでも活動している。JoeySkaggs.comである(参照)。作品のアーカイブは同サイトで閲覧できる。
 

cover
隠すマスコミ、
騙されるマスコミ
見方によっては悪戯である。なぜ彼はそんなことをするのか。と、ネットを見たていらこの章の別バージョンがワイヤードのサイトに掲載されていた(参照)。

それにスカッグスが、このような悪戯を繰り返すのは、単に「ふざけて面白がるため」だけではない。現代社会を批判する独自の方法として、メディアをペテンにかけているのだ。その動機を、彼は次のように語る:
 「我々は生まれた瞬間から、批判的思考と分析を停止するよう教育される。家庭、学校、企業、宗教団体、あらゆる組織が、人間の批判能力を殺してしまう。それをさらに助長するのがメディアなのです。ジャーナリストは専門家でも無いのに、その報道を人々は無条件に信用してしまう。私はそれに警鐘を鳴らしたい」
 スカッグスは1960年代、ニューヨークのグリニッジ・ビレッジで絵画や彫刻などを手がける、芸術家としてスタートした。その当時の地元新聞が、ビレッジ住民に関して誤解を招く報道をして以来、メディアを懐疑的に見るようになったという。その無責任な報道姿勢を逆手に取った、作り話で逆襲を試みるようになった。
「その時から私は、絵画と彫刻という伝統的媒体を捨て、メディアを私のメディア(表現媒体)とすることに決めたのです」(スカッグス)

 こうして大手のマスコミがまんまとひっかるらしいのだが、それでもスカッグスには一つの掟がある。これはワイヤードの記事にはない。

 恐らく読者がもう一つ気になるのは、「スカッグスの行為は犯罪ではないか」ということであろう。彼自身は「絶対に犯罪ではない」と断言するが、「一回だけ逮捕されそうになったことがある」という噂もある。もし彼の作り話とメディアの誤報によって、人身事故や金銭的な被害が発生すれば、スカッグス自身も逮捕されたり、裁判で損害賠償を請求されても文句は言えないだろう。この点は彼も十分承知しており、「他人や社会に被害が及ばないよう極力注意している」という。

 そのあたりがHoax(一杯食わせる)の芸術たる所以であろう。
 顧みて我が邦や如何と田中長野県知事みたいに言いたくなる昨今でもあるが、そういうことでもなく、ただネットというメディアとマスコミのメディアとしてのシステム的な問題がただその速度によって変質してきただけなのかもしれない。ちと引用が長くなるが。

 インターネットの普及によって、メディアを流れる情報の、真実と虚構の境目が曖昧になってきた。しかもこれを冷静な目で分析し、正しい情報を伝えるべき新聞やテレビが、むしろ無責任な情報を煽る格好になっている。「美人モデルの卵子競売」や「マイクとダイアン」、あるいは第二章で触れる「ジンジャー」などのゴシップは、インターネットよりもむしろ、新聞やテレビなど伝統的なメディアが報じたことによって有名になった。ネット上を浮遊する怪しげな情報に、伝統メディアが信憑性を与えてしまったのである。

 まあ、そうかなと思うし、これはブラック・ジャーナリズムをメディアが現在のメディアが吸い込まざるをえない状況なのかとも思う。
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スキャンダルを追え!
『噂の真相』トップ屋稼業
 しかし……と言葉につまるのだが、「噂の真相」誌の記者だった西岡研介「スキャンダルを追え!『噂の真相』トップ屋稼業」(参照)がこう以下のように言うとき、やはりメディアの構造と速度の問題があるのではないかという印象は否めない。

 本書にも書いたとおり、神戸新聞社時代の私は、けっして優秀な新聞記者ではなかった。次々と起こる対事件を前にして、オロオロした揚げ句、同業他社に抜かれまくり、阪神大震災のような大災害ではただ呆然と立ち尽くす……。そんな私がなぜ『噂の真相』編集部に在職中、「則定衛東京高検事長の女性スキャンダル」と「森喜朗首相の買春検挙歴報道」という二つの大きなスクープに恵まれることができたのか? 答えは簡単だ。

 この先、解答として、西岡は自由に書けることと、彼の言うゲリラ・ジャーナリズムの可能性を述べている。
 私は同書を読むまで「噂の真相」こそブラック・ジャーナリズムであり、それがネット的な世界に蔓延してきたのが昨今の奇っ怪な情報の状況かもしれないとも考えていた。が、少し違うようだ。
 スカッグスや西岡にはあるモラルがある。それはとても古典的な世界のなにかだ。だが、ほとんど同じものでも、その個人に帰着するようなモラルが欠損されたとき、変質するだろう。つまり、ネット上を浮遊する怪しげな情報に伝統メディアが信憑性を付与することになるだろう……と、ここはうまくまだ言葉にならない。あるいは、モラルが正義の確信に置き換わったとき、真理は敗退するだろ。しかし、モラルとは真理の優位性への確信であるかもしれない。
 スカッグスがなぜ人は騙されるのかと小林が問うたとき、彼は過去の情報を忘れるからだと言っている。それはあるだろう。だが、ネットの世界というのはある意味で過去と忘却のない世界だ。あるいは過去とはただの情報である。検索することでよみがえる。そこに集合知的的ななにかが加わることで、怪しげな情報というのは独自の淘汰を遂げるだろう。
 それだけに期待できるわけでもないし、個的なモラルの行方もただ消えるものでもないだろう。

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コメント

あまり関係ないですが、ホリエモンが過去の失敗例を知っているから失敗するわけがないと言っていたのを思い出しました。

投稿: | 2006.02.18 22:42

瓢箪から駒、嘘からマコト。
事実上流布し共有された認識が事実であるかどうか?なんて当事者以外には関係ないのではないかと思う。
神話なんてそんなモノでは無かろうか。
人は信じたい事を信じるし。

投稿: トリル | 2006.02.18 22:56

大変おもしろい記事です。
現在「きっこの日記」がネット上でたたかれていますが、こうしたブログ・メディアの是非を判断するよい材料だと思います。

投稿: ひでまさ | 2006.02.19 01:08

筒井康隆が、「新聞記者に取材されたら口からでまかせ嘘八百を並べ立ててやればよい。なぜなら彼らは裏をとるのが仕事だからである。それに彼らは言ってもいないことを書くからである」という意味の事をどこかに書いていました。

私はこの言葉を深く心に刻んで記者が取材にくる日を心待ちにしていますが、不幸にしてまだ取材をうけたことはありませんw

投稿: p | 2006.02.19 10:19

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受信: 2006.02.18 23:53

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