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2006.02.28

民主党永田寿康衆院議員の謝罪、なのか?

 先ほど、国会内で行われた民主党永田寿康衆院議員の記者会見を見た。彼は心労だったかで二十三日に東京都内の病院に入院したというあたりで、同日過労で倒れた私も絶妙な、おっちょこちょいだけが通じ合える親近感をもっていた。で、この会見、なんだったのか? 私もまだ疲労感が残るせいなのか、この間、ニュースをフォローしてなかったのか、亀甲様とかスルーちゃったせいなのか、なんだかさっぱりわからなかった。
 こういうときは、ソクラテスの原則でもあるが、私に鞭、違う、私は無知、ということから愚考してみるのがいいだろう。愚考のガイドラインは今日付朝日新聞”黒塗りの怪、「送金メール」なぜ信じた? 残る疑問”(参照)としたい。

送受信者同一疑惑
 送受信者同一という奇っ怪な話。メールとされるプリントアウトの黒塗り部分の送信者と受信者が同じという、うふふな話がメディアを飛び交っていた。それって本当なのか? その話はどこから出たのか? それをオリガミスト永田は知っていたのか? いや、永田は当初知らなかったらしい。


 永田氏が16日の衆院予算委員会で手にしていたメールは、送信者と受信者は黒塗りされていた。それでも永田氏は直後の記者会見で「差出人は堀江(貴文ライブドア)前社長。受取人は社員だ」と明言していた。

 ところが朝日新聞の記事が正しければ、民主党は党として別の見解を出していた。

 ところが、党の調査で同じ文面のメールを入手したところ、送信者と受信者は、ともに永田氏への情報提供の「仲介者」のアドレスだったという。これが同じメールだったとすれば、永田氏は送金メールの「実物」を入手していなかったことになる。

 朝日新聞の同記事では、ここから「永田氏は何を根拠に「差出人は堀江前社長」などと言い切ったのかが問われそうだ」としているが、それはたいした疑問でもないし、さっきの会見でもその回答はあった。フリーランス西○○おっとっと仮にN記者とする謎のフリージャーナリスト、を信頼しており、そこからの口頭情報らしい。
 私の疑問は、まず単純に、送受信者同一だったのか? そこが会見ではっきりしなかった。あるいは、はっきりしてましたかね?
 もし、送受信者同一だったら、メーラーを使ったメールの転送ですらないことになる。そして、国会という場で国民を愚弄したメカニズムを国民は知りたいと思うのが当然ではないのか。

入手経路疑惑
 入手経路が会見でわからなかった。N記者の名前が出るかなと思ったが出なかった。ネットなどでは一部でぼこぼこボーガスが噴いているがジャーナリズム的にはFA(ファイナルアンサー)状態のように見える。オリガミスト永田はさておき、民主党はそのあたりどう考えているのだろう。
 現状では、ライブドアの関係者Aが、N記者にタレコミ、それをオリガミスト永田がゲットというスジになっている。ライブドアの関係者Aによる内部告発というのが民主党の筋書きだが、疑惑のメールのようなものには別バージョンがいくつか存在していることから、ライブドアの関係者AがN記者にタレコミのリンケージが直線ではないことも確かだろう。あるいは、N記者からオリガミストへの線が分岐しているのかもしれないが、どうだろうか。
 この点については、別バージョンをトレースしていけばわかるように思うし、それは民主党のお家の事情とかもないのだから、それほど難しいことでもないのではないかと思うが、が、が、そこが進まないように見える。
 いや、ぶっちゃけ、平沢勝栄衆院議員のパスでトレースすればいいだけのことだが、そのあたりが絶妙にきな臭い。

銀行口座はわかってんのか
 朝日新聞の先の記事を離れて会見を聞いていてもう一点私が気になったのは、疑惑の銀行口座だった。永田も民主党というか前原体制幹部はその疑惑の銀行口座を知っているということだ。そのあたりが、先週の党首討論での前原誠司民主党代表の強気の元でもあり、国政調査権の発動の連呼の元でもあった。
 こんなメールとも言えないような怪文書をもとに国政調査権を振るうというのはちょっとまともな民主主義国家市民の発想とも思えないが、大手新聞社では日経も支持していて、日経さんオイオイなのか、そうでもしなければダメなのか……微妙で納得せい、と。
 話を少し戻して、メールのようなものの問題より、その銀行口座から関連情報は出ないのだろうか。
 話の流れを見ていると、それこそが、ライブドアの関係者Aの口座でもあるのだろうなとは思うが。

おまけ……民主党ってどうよ?
 民主党ってどうよ?については、まあ、なるようになるのだろうなと思う。あと、私はこれで民主党を見限ってはいない。

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2006.02.23

些細なお知らせ

 前エントリで偉そうなことを書いてましたが、ついにこの日過労でダウン。というわけで、数日、エントリ更新を休みます。

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2006.02.22

ハイパーグラフィア

 ハイパーグラフィア(Hypergraphia)の話をブログ「Passion For The Future」のエントリ「書きたがる脳 言語と創造性の科学」(参照)で見かけた。同エントリは、「The Midnight Disease: The Drive to Write, Writer's Block, and the Creative Brain」(参照)の邦訳書の書評的な話から切り出されたもので、ハイパーグラフィアは文章を書かずにはいられない精神の病気だという流れであった。


ハイパーグラフィア(書かずにいられない病)とライターズ・ブロック(書きたくても書けない病)について、自ら両方の症状を経験した医師でもある著者が、脳科学と精神医学の視点で言語と創造性の科学に迫る。

 ハイパーグラフィアというタームは、そのジャーゴンが The Midnight Disease (深夜の病)という語感から私は洒落だろうなと思っていた。つまり、精神医学的には認知されていないと思っていた。なので、ちょっとこの機会にあらためて調べてみる、と微妙といった感じであった。
 ちなみに、MedicienNet.COMのハイパーグラフィアの定義を見ると、まず書かずにいられない強迫があるのだが、それはもうトイレットペーパーでもなんでいいから書くという感じであり、研究史から関連する脳機能についての簡単なコメントがあった。

Temporal lobe epilepsy is associated with hypergraphia. This association has been known at least as early as 1974 (Waxman SG, Geschwind N. Hypergraphia in temporal lobe epilepsy. Neurology. 1974;24:629-36). A number of prolific writer may have had temporal lobe epilepsy, including Byron, Dante, Dostoevsky, Moliere, Petrarch, Poe, and Tennyson.

 精神活動の脳機能への還元というのは米国の精神研究の大きな潮流だが、この研究については昨今のfMRIとか使う流れのものではなくペンフィールドとかそのあたりの頃のものかなという印象を持つ。とはいえ、先の書籍は二〇〇四年の刊行なので現在の流れで論じられているのかもしれない。
 広義にハイパーグラフィアということで私が思い浮かぶ人間は二人いる。バートランド・ラッセルとカール・マルクスだ。ラッセルについては昔書簡集を見て、一日なんども手紙を書いているもの変だし膨大な手紙だなと思ったからだ。しかし、今考えてみると、現代人のメールも似たようなものかもしれない。マルクスについては資本論の原典を見たときの印象だ。この人は生まれた時代が違っていたらその祖先のようにタルムードでも書いたのではないかと思った。と同時に、エンゲルスの編集した資本論とはなんだろうという深い疑問を私に残した。まあ、その話はこのエントリではふくらませない。
 私はこの極東ブログを毎日書いている。ブログはログ(日誌)でもあるから一日一エントリを書く決意でいる。その決意についてはたぶん今年の五月くらいにもう一度書くつもりでいる。ようは自分の意志の形を見たいということでもある。
 決意というのは、当然、ちょっと無理があるなという含みあり、新鋭アルファーブロガー、hankakueisuu氏がブログ「真性引き篭もり」のエントリ「一日一回の更新を怠らないブロガーを僕は信じない事にしている。そして僕は更新という作業を行う事を止めようと考えるに至った。」(参照)でいみじくも指摘していることは正鵠を射ているのだろう。

即ち、仮にブログを書いている人間というものが存在していたならば、一日にたった1つのエントリーを投稿したくらいで、ブログを書くという人間の根源的欲求が収まるはずがないのである。であるからして、1日に1つのエントリーが毎日毎日行われるようなもところには実質魂が無いのである。

 その通りと私は私について頷くのだが、もうちょっとある。私は、昔読んだ吉本隆明の教えを実践しているのだ。正確な言葉ではないが、こういうものだった……およそ物を書くなら魚屋が魚を売るように八百屋が野菜を売るようにそれが生きるための避けがたい作業であることを身体に叩き込ませるように書け……。
 書くことの魔から逃れることは可能ではないかもしれないが、根源的欲求とか実質的魂などとうのもは紛う方無き糞である。魚屋は魚を売るのが好きだが、その好きというのは、趣味でやっているのではない。趣味の延長で楽々やっているかたもいるかもしれない。それでも、その行為が生きることと同値するようなありかたで実践している。吉本隆明はそのようにものを書けと言ったのだった。大学の先生が給料をもらっている片手間に知的な事を書くのではなく……という含みもあった。
 吉本隆明のこの教えにはもう一つの側面があった。二十五時に書け、と。大衆としての生活の一日を終えて、深夜、まさにミッドナイトに睡眠を削って書けというものだった。振り返ると私はずっとそうしてきたようにも思うが、四十歳半ばを過ぎて身体管理と仕事もあってそれなりのスケジュール的にこなしているようになった。
 が、天は見逃さず。昨晩、作業場に戻ったのは二三時半も回ったところだった。取り置きのエントリもないことにしているので、あとはマジで二十五時かと呻いた。

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2006.02.21

オリガミスト永田の手紙

 日本有数のオリガミストにしてなぜか衆院議員でもある民主党永田寿康が十六日衆院予算委員会で示した折り目のないメールのプリントアウトだが、私はそのニュースを聞いたときは驚いた。同じく民主党衆議院議員馬淵澄夫がそのブログで「爆弾炸裂! 」(参照)と表現したように、爆弾は炸裂したかのようにも思えた。どこに向けての炸裂は問わないにせよ。


 出るか!?、永田爆弾!。
 永田代議士はメールを読み上げる。

「シークレット・至急扱いで処理して欲しいんだけど、おそくても31日できれば29日までに●さん宛(あ)てに3000万円を振り込むように手配してください(前回、振り込んだ口座と同じでOK)。項目は、選挙コンサルティング費で処理してね。○○○○、宮内の指示を仰いで。○○には、こちらからも伝えておくので心配しないで。堀江」(●は自民党武部幹事長二男と同じ名前)

 第1位委員室は一瞬静まり返る。
 爆弾、炸裂!!!
 記者さんたちが色めき立つ。
 大変なことがあらわになってきた。


 正確にいうと大変なことが露わになってきたのはその数日後である。
 私はこのニュースについてはその後フォローしてなかった。なるようになるだろうと思った。その後ブツがプリントアウトだけでメールのヘッダー情報もないと知ったときは事実上関心を失った。ヘッダー情報のないメールはメールではないからだ(参照)。
 問題はこのメールとされている物の内容より、その入手から国会までのプロセスのほうに移らざるをえない。オリガミスト永田もこの点は了解しているらしく、国会を休んでまでその解明に向けて遁走、じゃない奔走している(参照)。
 ネットの一部ではプリントアウトについての検証が進められていたようだ。そうした検証のいくつかについてはなるほどなとも思ったし、概ね正しいのではないかとも思った。例えば「シークレット」の音引きが罫線記号のような「─」ではないかといった点だ。あまりに奇妙な誤字出現であり、そうした奇妙さを生み出すのはOCRだろうなとも推測した。だが、なぜOCRなのかは皆目わからない。また、文字のつぶれ方はG3ファクシミリの情報コード化に特有でもあるので、ファクス転送された経緯もあるのだろう。いずれにせよ、この問題はラザーゲート(参照)のように最終のブツがこれというわけでもないので、そうした検証にあまり意味はないだろう。
 ブツに関しては、当然墨塗りされている部分が気になるが、すでにオリガミスト永田が入手した時点でそうなっていたという話も聞いたので、そうかと私などは早飲み込みをしていた。今朝になってみると、自民党の平沢勝栄衆院議員がおそらく同一と思われるメールのプリントアウトを公開した。これで民主党が塗った墨と最初からの墨が区別できるようになった。民主党の墨は「X-Mailer:QUALCOMM Windows Eudora Version」「問題があるようなら」「@堀江」の三点のようだ。なぜここを民主党が隠したのかだが、アナウンスはないようだが。
 この三点で私が一番気になるのは「@堀江」だ。ここは「堀」の偏の部分が墨になっていたため別の文字ではないかという推測もあった。おそらくそうではないのだろう。
 奇っ怪なのは@である。普通メールでこういう書き方はしない。@はアットマークということで英語のatの記号であることから、居場所を指すことが多い。「石垣良雄@会社」に対して「石垣良雄@自宅」という感じだ。こうしたありえない感からメールに慣れたネットの雰囲気としては、このメールは偽で決まりでしょという感じになっている。それ言うなら、標題に「至急」もあり得ないのだけど。
 私はというと、この経緯から逆にこのメールのようなものの謎は深まったなと思う。偽メールを作るならごく低レベルだが私くらいのITの知識があればもっとそれっぽくできる。しかし、そうした作為は働いていないとしか見えない。
 そうした新しい疑念でこのメールのようなものを見直すと、@が開示されたことで、本文が奇妙にインデントされていることもはっきりした。通常のメールだとこうした部分には”>”といった記号があって引用なり転送であることがわかるのだが……ということで、もしかするとこの部分は引用か転送なのかもしれない。と、考えると「@堀江」もまさに、その通り、「堀江にて」ということで、デフォルトを補うと、「誰かさん@堀江」なのだろう。「堀江の立場の権威者が出しましたよ」あるいは「堀江の名義で」という意味なのだろう。
 むしろ、推定無罪ホリエモン自身のメールではないから疑問が高まる怪文書なのではないか。
 そのあたり、オリガミスト永田はよくわかってなかったか、これを渡した側もよくわかってなかったのではないか、という意味もあって、この文書こそ厳密にトレースしてみると面白いだろう。もしかするとビックルじゃなくて京都に本社がある日本ルナのビッキー飲んじゃうような、東京人って強調すると東京人じゃないかも感が漂うような展開になるかもしれない。
 それとこの謎話ではカウンターということで早々に消えてしまうのかもしれないけど、平沢勝栄衆院議員がこの文書をゲットした経緯も私は相当に怪しいように思う。というか、検察が早々にこのメールを知らないというアナウンスを出していることや、平沢勝栄衆院議員って元警視庁防犯部長でしょ(参照)。なんか変。

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2006.02.20

マレー貘

 貘が好きだ。貘には、南米の三種類アメリカバク、ヤマバク、ベアードバクと東南アジアのマレー貘の四種類がある。属としては一つ。私はマレー貘が好きだ。なぜ貘が好きで、なかでもマレー貘が好きかということは説明しがたいが、貘好きならわかってもらえるだろう、とネットを見るとよいサイトがある。サイバラの漫画のタイトルみたいだが「ばくんち」(参照)である。ばくんち最新ニュースはこう。


■02/18
2月7日に東山動植物園でマレーバクのオスの赤ちゃんが誕生したそうです。昨年に引き続き今年もベビーラッシュの兆候か!?ウリ坊誕生嬉しいですね! (blackさんよりの情報)
なお、父親のオンジーは昨年3月に亡くなったそうです。御冥福を祈ります。

 ということなのだが、今日残念なニュースがあった。”マレーバクに襲われ飼育員が重傷 名古屋・東山動植物園”(参照)である。

 20日午前8時半ごろ、名古屋市千種区の東山動植物園のマレーバク舎で、飼育員の加藤久男さん(56)がマレーバクの成獣(体長約230センチ、体重約300キロ)に襲われ、太ももや手などをかまれて1カ月の重傷を負った。

 ニュースを聞いて、な、なぜだ、まるでそれは悪夢だ、とつぶやいたものの、出産後で気が立っていたのかなとも思った。ニュースにはそういう言及はない。

 教育普及主幹の橋川央さんは「このマレーバクは普段から興奮しやすいが、加藤さんにはなれていた。ここ数年、飼育員が動物に襲われる事故は記憶にない」と話している。同動植物園はこの日、休園日だった。

 なぜなのだろう。やはり悪夢というべきか。そういえば、「マレー獏は悪夢を見ない 夢をコントロールする民族・セノイへの旅」(参照)という大泉実成の本もあったな。
 今回の事故、飼育員のかたも災難ではあるが、動物とのつきあいはシロクマ・ピースに限らず難しい。ジョイ・アダムソンのような結果もある。貘も凶暴だといえば凶暴でもあるし。
 で、マレー貘なのだが、記事にもあるように、体重約三〇〇キロである。知ってた? でかいのだよ。Fat Pigということもないが、間近で見ると、ぷくーっとしている。が、それがまるで三〇〇キロを連想させないほど、ひょいひょいひょいっっと闊歩するのである。まるで重力の弱い夢の中にでもいるような感じだ。実に軽やか。
 そして水にもよく浮く。本当は軽いだろう、ふくらんでるだけだろとかつい思ってしまうが、三〇〇キログラム。突進されたらひとたまりもない……というけど、そういう印象は受けない。優しそうにひょいひょいひょいっっと歩くか、食っているか寝ている。貘である。貘はよい。
 貘の赤ちゃんもかわいい。これがウリ坊である。先のサイトに写真がある(参照)。パンダなんかだと生まれて間もなくはそうでもないが、しばらくすると、おまえの親はパンダだろというデザインになるのだが、マレー貘の子はウリ坊である。半年くらいするとこの縞々デザインは消えてツートンになる。カラーデプス二ビットか四ビットくらい(なわけはない)。多摩動物公園に昨年九月に生まれたダンはそろそろウリ坊を脱しつつある。
 なぜマレー貘はあのデザインなのかということについては、あれを見た動物が錯視するからだという説がある。つまりあまりに白黒はっきりした色分けなので一つの個体としては見えないのだろう。本当かどうかわからない。貘としている。

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2006.02.19

風邪の話

 風邪をひいて熱があると知人が言う。おい、それは風邪じゃないぞ、急げ、と病院へと促したところ、即インフルエンザの判定が出てタミフル。そして、一晩寝たらケロっとしていた。う、嘘というくらいシャープな効き目を見てちょっと唖然とした。もっと高熱が出てからの処方がいいかもしれないとも思っていたが、即時に判定が出るならなるほどタミフルの機序から考えて速い投与のほうがいいのかもしれない。
 もっとも身近な例とはいえ一例に過ぎないのでこれだけでどうとも言えるものではないのだろうが、こんなに効く薬というものがあっていいのかという疑問も思った。私自身が今年はインフルエンザになっていないからのんきなことを思っていられるのだろうが、これからの人類には、理想的にという限定が付くが、インフルエンザから免れた人生というのがありうるのだろう。現代人(文明社会)ではすでに寄生虫はゼロに等しくなってきている。寄生虫にもいろいろあるにせよ、サナダムシといった類の寄生虫から人類が無縁になるということはありうるのだから、インフルエンザも克服されていいのかもしれない。うーん、なんか変な感じはするが。
 インフルエンザではないが風邪については私はいろいろと民間療法を探るのがすきだ。ネットなどを見ると意外と風邪の対処の民間療法のレパートリーが少ないのだが、かといって私のレパートリーを公表してもちょっとなではあろう。ごく最近までやっていたのは、大量カプサイシンである。よく行く中華料理屋に、うへぇー唐辛子汁みたいな麺がある。人を連れて食いに行ったとき、その臭いだけでも辛くて泣けそうだと言ってが、そんな感じ。給仕のお姉さんも最初はだいじょうぶですか、これはとても辛いですよと厳密な忠告をしてくれたものだ。で、食うと汗が滲む。風邪が抜ける。ということなのだが、いい気になっていたら、先日、腹痛になった。物には限度がある。
 

cover
ぬれマスク先生の
風邪に勝つ本
 風邪の民間療法とまでは言えないのだろうが、「ぬれマスク先生の風邪に勝つ本」(参照)というのが面白い。同著者には同種の別バージョンの本もあるようなのと、この本は二〇〇〇年刊なのでちと情報が古い。タミフルについてはそのずばりの名称はなしに動向だけが期待を込めて書かれている。面白いのは、いわゆる風邪予防の通説を否定していることだ。うがいの効果は否定していないがそれほど効果はないだろうとしている。うがい液も含めてだ。これはたしか最近検証されたように記憶しているが。鼻うがいは危険なのでやめましょうともある。手洗いの効果も疑問視しているが、たしかにその効果の検証というのは見たことがないな。加湿器についても五〇%ほどまででの効果は疑問とされ、それ以上の場合は難しいだろうし、またカビの危険性を説いている。それもそうかな。
 推奨されているのが、標題にもある濡れマスクというのと嚥下を意図的に多くするというものだ。嚥下についてはなるほどそうかなとこの本を読んで私は思った。単純な話、昔の中国人みたいにちょびちょび頻繁にお茶を飲めばいいのだろう。で、濡れマスク。これが言葉だけでは説明がちょっと難しい。というかネットをひくとこの本の説明とは違う商品が出てくる。それは湿気を含んだマスクということ。鼻も覆う。ところが本書の濡れマスクは単純に言えば鼻は覆わない。口をふさぐだけ。これが案外別の効果があるかもしれない(がその話は省略)。
 実際に濡れマスク効果はどんなものかと私も試してみたのだが、なんとも言い難い。悪いとも思わないが、慣れないと違和感はあるし、慣れるまでするか?というのはある。微妙なところだ。
 いわゆる民間療法を超えた部分では、私は少しだけ漢方を学んで応用している、といっても、漢方薬を数種類使い分けるだけだ。あと、ちょっと秘密のハーブを使う。これは秘密。
 そもそもハーブというのは秘密でないといけない。どこが秘密か。壺でよく煮立てて最後に呪文を唱えながら……処女の○毛を加えるのだ。

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2006.02.18

[書評]隠すマスコミ、騙されるマスコミ(小林雅一)

 小林雅一「隠すマスコミ、騙されるマスコミ(文春新書)」(参照)の第一章に「マスコミ騙し屋」ことジョイ・スカッグス(Joey Skaggs)の話がある。彼はマスコミを騙すことを芸術活動の一環としているらしい。本書には記されていないが、彼はネットでも活動している。JoeySkaggs.comである(参照)。作品のアーカイブは同サイトで閲覧できる。
 

cover
隠すマスコミ、
騙されるマスコミ
見方によっては悪戯である。なぜ彼はそんなことをするのか。と、ネットを見たていらこの章の別バージョンがワイヤードのサイトに掲載されていた(参照)。

それにスカッグスが、このような悪戯を繰り返すのは、単に「ふざけて面白がるため」だけではない。現代社会を批判する独自の方法として、メディアをペテンにかけているのだ。その動機を、彼は次のように語る:
 「我々は生まれた瞬間から、批判的思考と分析を停止するよう教育される。家庭、学校、企業、宗教団体、あらゆる組織が、人間の批判能力を殺してしまう。それをさらに助長するのがメディアなのです。ジャーナリストは専門家でも無いのに、その報道を人々は無条件に信用してしまう。私はそれに警鐘を鳴らしたい」
 スカッグスは1960年代、ニューヨークのグリニッジ・ビレッジで絵画や彫刻などを手がける、芸術家としてスタートした。その当時の地元新聞が、ビレッジ住民に関して誤解を招く報道をして以来、メディアを懐疑的に見るようになったという。その無責任な報道姿勢を逆手に取った、作り話で逆襲を試みるようになった。
「その時から私は、絵画と彫刻という伝統的媒体を捨て、メディアを私のメディア(表現媒体)とすることに決めたのです」(スカッグス)

 こうして大手のマスコミがまんまとひっかるらしいのだが、それでもスカッグスには一つの掟がある。これはワイヤードの記事にはない。

 恐らく読者がもう一つ気になるのは、「スカッグスの行為は犯罪ではないか」ということであろう。彼自身は「絶対に犯罪ではない」と断言するが、「一回だけ逮捕されそうになったことがある」という噂もある。もし彼の作り話とメディアの誤報によって、人身事故や金銭的な被害が発生すれば、スカッグス自身も逮捕されたり、裁判で損害賠償を請求されても文句は言えないだろう。この点は彼も十分承知しており、「他人や社会に被害が及ばないよう極力注意している」という。

 そのあたりがHoax(一杯食わせる)の芸術たる所以であろう。
 顧みて我が邦や如何と田中長野県知事みたいに言いたくなる昨今でもあるが、そういうことでもなく、ただネットというメディアとマスコミのメディアとしてのシステム的な問題がただその速度によって変質してきただけなのかもしれない。ちと引用が長くなるが。

 インターネットの普及によって、メディアを流れる情報の、真実と虚構の境目が曖昧になってきた。しかもこれを冷静な目で分析し、正しい情報を伝えるべき新聞やテレビが、むしろ無責任な情報を煽る格好になっている。「美人モデルの卵子競売」や「マイクとダイアン」、あるいは第二章で触れる「ジンジャー」などのゴシップは、インターネットよりもむしろ、新聞やテレビなど伝統的なメディアが報じたことによって有名になった。ネット上を浮遊する怪しげな情報に、伝統メディアが信憑性を与えてしまったのである。

 まあ、そうかなと思うし、これはブラック・ジャーナリズムをメディアが現在のメディアが吸い込まざるをえない状況なのかとも思う。
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スキャンダルを追え!
『噂の真相』トップ屋稼業
 しかし……と言葉につまるのだが、「噂の真相」誌の記者だった西岡研介「スキャンダルを追え!『噂の真相』トップ屋稼業」(参照)がこう以下のように言うとき、やはりメディアの構造と速度の問題があるのではないかという印象は否めない。

 本書にも書いたとおり、神戸新聞社時代の私は、けっして優秀な新聞記者ではなかった。次々と起こる対事件を前にして、オロオロした揚げ句、同業他社に抜かれまくり、阪神大震災のような大災害ではただ呆然と立ち尽くす……。そんな私がなぜ『噂の真相』編集部に在職中、「則定衛東京高検事長の女性スキャンダル」と「森喜朗首相の買春検挙歴報道」という二つの大きなスクープに恵まれることができたのか? 答えは簡単だ。

 この先、解答として、西岡は自由に書けることと、彼の言うゲリラ・ジャーナリズムの可能性を述べている。
 私は同書を読むまで「噂の真相」こそブラック・ジャーナリズムであり、それがネット的な世界に蔓延してきたのが昨今の奇っ怪な情報の状況かもしれないとも考えていた。が、少し違うようだ。
 スカッグスや西岡にはあるモラルがある。それはとても古典的な世界のなにかだ。だが、ほとんど同じものでも、その個人に帰着するようなモラルが欠損されたとき、変質するだろう。つまり、ネット上を浮遊する怪しげな情報に伝統メディアが信憑性を付与することになるだろう……と、ここはうまくまだ言葉にならない。あるいは、モラルが正義の確信に置き換わったとき、真理は敗退するだろ。しかし、モラルとは真理の優位性への確信であるかもしれない。
 スカッグスがなぜ人は騙されるのかと小林が問うたとき、彼は過去の情報を忘れるからだと言っている。それはあるだろう。だが、ネットの世界というのはある意味で過去と忘却のない世界だ。あるいは過去とはただの情報である。検索することでよみがえる。そこに集合知的的ななにかが加わることで、怪しげな情報というのは独自の淘汰を遂げるだろう。
 それだけに期待できるわけでもないし、個的なモラルの行方もただ消えるものでもないだろう。

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2006.02.17

植物繊維からエタノール

 米国時間の先月三十一日だがブッシュ大統領は一般教書演説で、脱石油かつ環境問題ということだったか、エタノールに言及していた。石油王国のブッシュ様が? ということもだがさらにその製造は植物繊維によるというのだ。ふーんとリアクションすべきなのか、さすがアメリカン・ドリームの国だと感嘆すべきなのか。ざっくりネットを見ると読売新聞”エタノール普及 官民協力の米国”(参照)に関連記事があった。


 政府もエタノールの利用促進に力を入れる。精製会社に、エタノール1ガロン(約3・8リットル)あたり51セントの税額控除を与え、ガソリンとの混合を後押しする。昨夏成立した「総合エネルギー法」もエタノールの利用促進を掲げている。
 ブッシュ大統領は1月31日の一般教書演説で、無尽蔵といえる木や草などの植物繊維を原料にエタノールを製造する技術開発の重要性を強調、6年以内に新技術を実用化する目標を掲げた。

 植物繊維からエタノールというとかすかに記憶がある。調べ直すと、昨年六月のワイアード日本版の記事”米政府のエタノール政策をめぐる議論”(参照)だ。

 グロシェン氏によると、バイオマスからエタノールを製造する技術の開発に、民間企業は慎重になっているという。「誰もが、どこかが先にセルロース処理工場を建設するのを待っている」
 ただし植物のセルロースからエタノールを製造するほうがトウモロコシを使うよりも安上がりだとORNLのグラハム氏が指摘するとおり、近い将来、エタノールの経済性は変わる可能性がある。グラハム氏によると、草木の伐採で出た廃棄物は無料で入手でき、スイッチグラス(ロッキー山脈東部の至るところに生えている多年生植物)やトウモロコシの実を取ったあとの乾燥した茎や葉も安く手に入るため、バイオマスを使ったエタノール製造の原料費はかなり安くつく可能性があるという。

 このあたりの事情は経済的には油田開発と多少似ている。植物繊維からエタノールができるなら現状のようにトウモロコシから作るエタノールよりコストが下がる。ブラジルなどで実施されているサトウキビ由来よりも下がるのではないか。しかも、耕作面積に対する二酸化炭素排出抑制効果なども植物繊維のほうがよいようだ……とは言ったものの、そんな技術は可能なのか。
 ブッシュ・ブレーンとしてはいわばチキンゲーム状態になっているこの分野の開発を連邦政府としてぐっと押してみたということなのだろう。そのあたりの話もこの記事では触れている。
 それにしても六年以内に実用化とはすごいな。それが可能なら京都議定書とかそのポストとかの議論が吹っ飛ぶかも……。
 で、その見込みだが。

 アイオジェン社(本社:カナダ、オタワ)とデンマークのノボザイムズ社は、あともう少しでバイオマス技術を商業化できるところまできている。
 この2社は、酵素を使って植物の茎や葉に含まれるセルロースを単糖に分解し、これをエタノールに加工している。アイオジェン社広報担当のタニア・グリチェロ氏によると、同社は年内にも、小麦のわらとスイッチグラスからエタノールを製造するためのデモンストレーション用の発電施設の建設に着手する予定だという。

 この分野の科学に疎いので私にはこの情報をどう評価していいのかわからない。
 日本でも同種の技術は開発が進められていて、簗瀬英司鳥取大学教授が長年取り組んでいる。ネットにはソースが消えているが、山陰中央新報”木質バイオマスでエタノール生産へ”(2004.1.1)ではこう。

 簗瀬教授はテキーラの醸造に使われるザイモモナス菌が効率的にブドウ糖からエタノールを作り出すことに着目。世界に先駆けセルロースを分解する微生物から酵素を取り出し、遺伝子組み換えでザイモモナス菌に入れる技術に取り組み、これまでにセルロース分解に必要な三つの酵素のうち、二つを入れることに成功した。

 この手の遺伝子組み換えの技術は私の理解では日本は先端にあるので、案外日本のほうがこの技術を確立する可能性もあるのかもしれないが、が、というのは日本政府の肩入れはどんな具合だろうか。
 話が散漫になるが、植物繊維からエタノールという夢のような話で思うのは、デンプンから異性化糖の製造だ。この技術のおかげでサトウキビ産業というのものが壊滅したと私は理解している(違うかもしれないが)。
 沖縄でサトウキビ(ウージ)畑の近くで暮らしてきたので思い出深いのだが、そうでなくても砂糖の輸入によって沖縄のサトウキビ産業は事実上壊滅している。
 そういえば、この話は沖縄にいたころからも聞いていたのだが、環境庁はサトウキビからエタノールを作ることも検討しているようだ。例えば、”沖縄県宮古島におけるバイオエタノール混合ガソリン(E3)実車走行試験の開始及びサトウキビ由来バイオエタノール生産設備の起工について”(参照)。
 なんとなくサトウキビ産業の別の形の保護のようにも思えるが、採算性はどうなのだろうか。

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2006.02.16

[書評]夢のなか 連続幼女殺害事件被告の告白(宮崎勤)

 六日に幼女連続誘拐殺人事件で誘拐、殺人など六つの罪に問われた宮崎勤に死刑判決が確定した。初公判から数えるとこの終結まで十六年の月日が経った。長いようでもあり、自分も歳食ってきたせいか昨日の出来事のようにも思う。いや、そうではない。ある印象はビビッドであり別の印象はそれが思い出せないほどぼやけている。

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夢のなか
連続幼女殺害事件
被告の告白
 その判決の日から私はぼんやりと眺めるように彼の著書とされる「夢のなか 連続幼女殺害事件被告の告白」(参照)を机において見ていた。何か言えそうな気がしたけど、何も言えない。この本から考えるということが間違っているのかもしれないとも思ったが、では他にどういう思考の道があるのだろうか。確か、日垣隆だったかと思うが、このタイプの犯罪は結果によって処罰すべきだったという意見もあった。ちょっと考えるとそういう考えもありのようにも思うが、私はそれに与しない。罪とは人が意志をもって行うなにかであろうし、その意志を読み取ることが、礫の代用でもあるのだろう(参照)。
 わからないことばかりというのが率直な思いだが、いつか自然に捨象された思いもある。いわく、彼がスプラッタ趣味とかそういうメディアが作り出した像だ。いや、それは裁判の像でもあった。共同”宮崎勤被告の死刑が確定 初公判から16年”(参照)はこう伝えていた。

 1月17日に第3小法廷が言い渡した判決は、犯行時の宮崎被告に完全責任能力があったとする一、二審の判断を支持。「性的欲求や死体を撮影した珍しいビデオを持ちたいという収集欲に基づく自己中心的、非道な動機で、酌量の余地はない」と被告の上告を棄却した。

 いつの間にかそういう像は私の内部ではすっかり消えていたので、六日の刑確定のおりには、なんというかメディアや裁判のリアクションとの差異に奇妙なズレ感があった。そしてそのズレを可能な限り延長すれば、たぶん宮崎勤の世界認識にも近いのかもしれない。
 スポニチ”宮崎勤被告「そのうち無罪に」”(参照)の記事では判決後の宮崎をこう伝えている。

 宮崎被告は判決後、臨床心理士と面会、「何かの間違いです。そのうち無罪になります」と語ったという。

 彼の精神状態についてはいろいろと議論された。そのことはここで繰り返さない。本書は宮崎本人の著作とされているが、実際には各種のソースのアンソロジーといったもので精神科医の香山リカの解説文もあるのだが、率直にいって私には無意味に近い内容だった。同じく解説には大塚英志もあるのだが、これも私は皆目理解できなかった。私が凡庸すぎることもあるが、私の関心事にまるで触れてこないからだ……関心事……それはたった一つと言っていいかもしれない、今田勇子。
 こういう言い方をしていいのかわからないが、この犯罪はその意志という点でみれば、今田勇子の犯罪であった。しかし、そこはついに問われなかった。単純に言えばそこを問うことは裁判を虚構化しかねないものであり、そのある種のマイナスのリアライゼーションの力がむしろ世界の側をたわめていたかのように私は思う。
 本書では対談の芹沢俊介だけがそこをある程度指摘していた。

 告白文や犯行声明文が大事だという意味のひとつは今田勇子が宮崎勤であるという同定はできてないということなんです。裁判ではこの問題が見事に外されています。弁護側も検察側も触れていない。そこの部分が空白になっている。告白文や犯行声明文の緻密な分析が行われていません。とりわけ勤君イコール今田勇子を同定するための字体論や字体の検証がまったく行われていないのです。勤君は「あんな面倒っちいことはやらない」と言っているし、そこはとても気になっています。

 単純に考えればその先には冤罪説がある。しかし、それはこの月日のなかで明確な姿を見せなかった。その理由は本書に一端が触れてある。このエントリではしかし触れない。
 今日付の中国新聞のニュースだが”宮崎勤死刑囚が著書出版 最高裁判決に「あほか」”(参照)にこうある。

 幼女連続誘拐殺人事件で死刑判決が確定した宮崎勤死刑囚(43)が、拘置所から外部に出した手紙をまとめた形式の著書「夢のなか、いまも」(創出版)を18日に出版する。著書では、1月の最高裁判決を「『あほか』と思います」と批判し、判決が大きく報道されたことについて「やっぱり私は人気者だ」と感想を述べている。

 それもそうなのだろう。記事後半では本書の出版でもある創出版の話がある。創出版については知人の知人が編集に関わっていたことがあり、随分前だが死刑廃絶署名だったかしてくれと言われたことを思い出す。
 さて……とここで逡巡する。先の共同の記事には判決後の宮崎をこうも伝えていた。

決定は1日付。宮崎被告は1月17日の最高裁判決直前に共同通信に寄せた手紙で「無罪です」「良いことをしたと思います」などと主張。被害者や遺族には最後まで謝罪していなかった。

 この主張の関連は本書にもある。そしてその先に、今田勇子を私は思うのだが……うまく言葉になってきそうにない。出し惜しみメソッドとかではまるでなく、そもそもブログに書くことじゃないんじゃないかともいう思いもある。

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2006.02.15

龍井

 自分でも不思議なのだが冬場になると中国緑茶龍井をよく飲む。一日二杯くらい飲むこともある。緑茶は熱気が溜まるとして夏場や香港などでは好まれないから、これでいいのかもしれない。淹れ方は昔風。

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 ガラスのコップに龍井の茶葉を入れ、そして熱湯を注ぐ。最初茶葉は浮く。そのうち踊るように沈んでくる。三分くらいだろうか、その茶葉の踊りを金魚でも見るように眺めつつ、あらかた茶葉が沈み、珊瑚のようになったら、そう飲める熱さでもあるし、飲む。味と香りは日本茶とはもちろん違う。香ばしいのだが焙じ茶のそれではない。茶の若芽の鮮烈な香りもある。
 とそんなこと思って私が大好きな中国通の社員の多い朝日新聞のサイトを見ていたら、龍井の話があった。”西太后から江沢民さん・上海閥まで”(参照)である。

 この龍井茶の中心になる畑はいくつかあるが、中でも「獅(子)峰」。清明節前摘まれるもの(明前)を最上とし、「獅峰明前龍井」として珍重されてきた。清の終わり、西太后はこの畑に専用の18本の茶木を持ち、毎春届けさせていた。現在もその茶木が残されている。
 最近では、江沢民さんを始めとする上海閥の人たちも龍井茶を好んで飲んだ(でいる)と聞く。上海では今も一般的に龍井茶が飲まれている。また、5年ほど前まで北京・人民大会堂(中国の国会議事堂にあたる)で使われていたお茶も龍井茶であった。が、まったく新顔のお茶「得雨活茶」(江西省景徳鎮産)がとって変わった。

 周恩来も龍井が好きだったようだ。私も龍井が好きなのでこうした茶を好む人の心意気がわかるようでもある。江沢民さんとか。西太后様とかも。
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 一般的に言うと中国茶を選ぶのは難しい。あの面倒な茶商を相手にマンツーマンで中国文化の神髄をたたき込まれるというプロセスが幸いにも必要になることすらある。が、龍井は別格と言っていい。簡単に選べる。理由は簡単。国家が管理しているから。そりゃ、国家の要人が飲むのだし。中国の国家の認定品を買えばいい、それだけ。
 龍井の産地もほぼ限定されている。先の記事を引用する。

 獅子峰(通常「獅峰〈しほう〉」と呼ぶ)、梅家塢(ばいかう)、虎砲(こほう)、雲栖(うんせい)、翁家山(おうかざん)などの茶区の総称。
 「龍井」はもともと獅峰にある井戸の名。龍のようにトグロを巻きながら水が沸いていたところから、この名になったなど諸説がある。現在は、整備されてきれいになっている。
 獅峰を最上とし、代々の献上茶となっていたが、10年ほど前からお茶好きの間では、梅家塢のお茶がおいしいと評価されていた。

 そんなところかな。
 最近では龍井以外にも類似の趣向の美味しいお茶が増えてきている。ただ、なんとなく龍井に戻ってしまう。

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2006.02.14

タンカーユーエー、トルチャンチ

 ラジオ深夜便を聞いていたらベトナムからの便りということで、当地の、一歳になった子どもの行事の話があった。話者(女性)は十二年もアジア国にいてこうした行事を知らず、驚いたというのだ。
 行事はというと、一歳の子どもの前に、定規、本、ペン、お札などを置き、さて、この子は何を手に取るかというのである。手に取った物で将来の職業を占うというのだ。本を選ぶと教師、お札だとお金を扱う仕事……といったもの。
 「こういう面白い風習がベトナムにあるのは知らなかった」と彼女が言うとアナウンサーは「それはベトナム独自なんですかね?」と問いかけた。アナウンサーも知らないのだろうかと私はふと思ったが、回答は、他では聞いたことはないが中国では昔あったらしいと言うベトナム人もいた、とのこと。
 これは沖縄でいうタンカーユーエー(参照)である。朝鮮でいうトルチャンチ(参照)である。中国ではなんと言うのだったか。
 日本でも地域によってやっている。確か西原理恵子の高知でもやっている。沖縄と高知にはいくつか文化的な類似点があり、黒潮の流れと人の交流が想定されるのだが、この場合はどちかが上流であろうか。あるいはそうしたつながりはないのか。
 沖縄のタンカーユーエも朝鮮のトルチャンチも家によってはけっこう派手な祝いをする。どっちが派手かというと文化の差より家風などの差があり比較しづらい。どちらがこの風習を色濃く残しているかというと朝鮮だろうか。たいていの朝鮮人は自分が一歳の時何を取ったか聞かされて育つようでもある。
 沖縄のタンカーの様子は照屋林賢のティンク・ティンク(参照)に素朴な映像が出てきたが、普通はあんな感じだ。
 ネットをざっと見ると、一歳の祝いといえば、日本では一升餅の行事(参照)というふうでもある。が、これはまた別の起源を持つものだろう。

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2006.02.13

小さい本

 明け方のこと、夢とうつつの合間で私には海外ニュースの映像を見た記憶が残す疑問の感覚だけがあった。映像の記憶の残滓の中で、怒れるイスラムの人々が手に小さな本を持っているのだが、あれはクルアーンだろうか。あの小さいクルアーンはどこで販売しているのだろうか……販売? GEMのように豪華な装丁になっているだろうか……GEM?
 そのうちに十分に目が覚めてGEMって今でも売っているのだろうかと気になった。ネットやアマゾンをざっと見回して見つからないので、あんなものはもうなくなったのだと自分に言い聞かせるように外出しながら、その後も小さなクルアーンとGEMはどこにという奇妙なオブセッションに一日捕らわれた。
 小さな聖書というものもある。実家のどこかにまだあるのだろうが、手のひらに隠せるほどの大きさのものだ。装丁はそれほどよくない。もう随分以前のことになるが、奇妙ないきさつで長野県を旅している列車のなかで私がその聖書を読んでいると、なぜそんなところに米人女性がいるのかわからないがその聖書に関心をもったらしく、私に近づいてそれはとても大切なものだと熱心に説教した。欽定訳の聖書でいわば英語の古語でもあるので内容というより、その小さな聖書自体への思い入れが彼女にあったのだろう。ふと思うのだがあれは従軍用のものかもしれない。ベトナム戦争用のものだったのだろうか。
 同サイズの毛沢東語録も私は持っていた。ビニール製のまっかな装丁でなぜかそれより薄い実践論だったか戦争論だかも分冊になっていたのだが、てかてかのビニールのせいか、毛語録にぺたっと貼りつくのである。中国製だが日本語で書かれて読みやすかった。米帝は張り子の虎であるとか、巨大な山でも爺の意志が突き崩したという伝説のたとえなどが書かれていた。
 そういえば、中国詩選や徒然草、百人一首、奥の細道といった古典をベージュのビニール装丁にした小さな本があった。面白くて私は買って集めていた。高校生くらいのことだ。中国詩選はかなりの厚みになるが、薄いものはポケットに入る。なぜかあんなものを飽きもせず読んでいたことを思い出す。
 赤尾の豆単とかはどうなったのだろう。私はこれにはお世話にならなかったが、一冊持っていた。そういえば旺文社文庫には赤尾好夫のエッセイとかあったような記憶がある。チェイニー米副大統領のように狩猟が趣味であったと思うが。
 あの小さな本たちというのを見なくなったなと思う。
 バイブルペーパーというのか知らないが小さい本の紙はどれも破れにくいようにはできていた。

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ジェム英和・和英辞典
 いや、やっぱりGEMは今でもあるだろうと気を取り直して検索したら、あった。カタカナで「ジェム」だったのだ。英和三万三千語、和英三万一千語を収録とあるが、その程度では現代英語には足りないような気もする。"blasphemy"はでも収録されているだろうな。

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2006.02.12

罪のない者と罪を犯したことのない者

 ブログだったか他の記事だったかごく最近のことだが、ネットを眺めていて、このところ何回か、「あなたたちの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」というヨハネ八章の聖句を見かけた。いや、正確に言うと「罪を犯したことのない者が」という表現だったと思う。そのあたりで、あれ?という感じがした。この聖句の引用のされかたの文脈もあれれ?という感じがしたが、それは以前からそうでもあるのだが。
 「罪を犯したことのない者が」としている日本語の聖書があるのだろうかと疑問に思った。福音派の新改訳だろうか。自分ではカトリックの響きがするなと思って、ちとグーグル先生に聞いてみると新共同訳のようでもある。カトリック教義との妥協的な表現なのか、あるいは日本語だと「罪」という言葉につられて「犯して」という成語になっただけだろうか。手元にギリシア語の聖書がないのだがここでの「罪」αμαρτιαだろうか。ヨハネ書なのでそうなのかもしれない。
 共観福音書から外れたヨハネ書の場合、罪の概念は後のカトリック的な原罪的な響きを持つと言ってもいいかもしれない。が、「罪のない者」というこなれない日本語で聖書が示そうとしたもののと、「罪を犯したことのない者」という日本語的な表現と同じと見ていいのか。まあ、普通はどうでもいい類のことであろう。ただ、私は奇妙に考えさせられた。
 たしかヨハネ書のこのくだりは元来ルカ書にあったという説がなんとなく記憶にある。記憶違いかもしれないが、このあたりのエピソードはルカ的な響きがあり、よりコイネ・ギリシアというかヘレニズム文化圏の宗教性を私は感じる。この微妙な(ある意味でどうでもいいのかもしれない)差異は主の祈りにおけるルカ書とマタイ書の差異に対応していて、ルカ書では罪となっているがマタイ書では負債となっている。マタイ的な原始教団ではルカ的な「罪」の概念が存在していなかったことを示している。であれば、イエス時代にこの負債=罪の概念が「石を投げつける」=石打ち刑に対応するわけもない。
 では、イエスのこのエピソードの罪はなにを意味しているのか。と、これは考えるまでもなく現在でもイスラム法で行われている姦通罪の石打ち刑にほかならない。ま、ほかならないとまでは言えない微妙なものがあるのだが、概ねそういうものだ。ウィッキ先生の「刑罰の一覧」(参照)にはこうある。「高エネルギーによって人体を破壊する方法」に分類されているあたりにネタなのかというユーモアが漂う。


石打ち刑(いしうち けい)
下半身を地中に埋めるなどして身動きを封じた受刑者に対し、死亡するまで石を投げつける刑。現在でもイスラム法による処刑方法の一つになっている。

 ラジャム(rajam)というので私もうっかり写真を見たことがあり、見るんじゃなかったブラクラぁという代物であるのでリンクとかしない。
 「石打ち刑」(参照)の項も面白い。

石打ち(いしうち)とは、古代から伝わる処刑方法の一つである。石撃ちと表記することもある。死罪に値する罪人に対して大勢の者が石を投げつけるというもので、古代においては一般的な処刑方法であったが、残酷であるとして、現在ではほとんど行われなくなった。しかし、いまだにこの処刑方法を採用している地域も存在し、人権擁護団体などによる抗議の対象ともなっている。

 突っ込みどころ満載とまでは言わない。筆記者がよくわかってないのだろうなという感じはする。さらに。

聖書に見られる例
石打ちに値する大罪としてレビ記 20章に挙げられているのは、おおむね以下の通りである。
・モレクに自分の子供を捧げる者
・霊媒や予言を行う者、また、彼らに相談する者
・自分の父母の上に災いを呼び求める者
・姦淫、同性愛、獣姦など、倒錯した性行為を行う者

 言うまでもなく聖書の世界もイスラム法もいわゆる旧約聖書の上に乗っかっているので、こうした石打ち刑が出てくる。英語では、stoningと単純に「石」の動詞形というのが英語圏での馴染みの深さを物語っている。
 なぜ石打ち刑なのか?
 そのあたりがこのエントリのネタなのだが、先の聖句を日本人の多くは義憤に駆られたバッシングのように受け止めているのではないかなと思うのだが、石打ち刑の背景にある思想はそうではない。そのあたりは、申命記を読むとわかる(というか申命記なんて読まれないのだろう)。申命記(21)より。

 もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。

 ポイントは「町の人は皆、彼を石で撃ち殺し」ということで、町の皆がそうすることが責務となっているということ。その死と流された血の責務を皆で負うということだ。死刑の執行者を他人に委ねるのではなく、自分たちが皆負うというのが重要な点であり、これが陪審制度の思想的な背景にもなっている(はず)。
 そしてそれを行うことで共同体の悪を除くということになっており、恐らくヨハネ書の「罪なき」の罪はこの悪の概念に近いのだろう(「罪犯す」は罰に対応するから)。
 ちなみに、マタイ書における悪の概念は……とやっていくのは控える。それどころか、もうこのエントリも終わりにしよう。

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2006.02.11

パートタイマーの労働組合

 ラジオを聞いていたらイトーヨーカドーのパートタイマー一万五千人が労働組合に加入したという話があり、えっと思ってその背景はどうなのだろうかとネットを見たのだが、よくわからない。年末「極東ブログ: セブン・ミレニアム統合メモ」(参照)を書いてから、この関連の問題が気になっていた。
 現状ネットのリソースとして、「イトーヨーカドー 社会的責任CSR パートタイマーへの配慮」(参照)を見ると、二〇〇五年度の報告ということもあるが、その兆候への示唆は読みづらい。


 現在、イトーヨーカドーのパートタイマーは労働組合に加盟していませんが、パートタイマーへの評価制度や店舗閉店時の対応などについては、労使双方による確認を行っています。
 また、労働組合では「パートタイマーがやりがい・働きがいをもてる環境づくりが当社の発展に不可欠」という考えのもと、パートタイマーとの懇談会や支部交流会などを実施しているほか、労働組合が開催している支部レクレーションにも参加していただいています。また、パートタイマーの労働組合への加入についても継続して取り組んでいます。

 大量のパートタイマーの労組加入はイトーヨーカドー経営側の支援があったのだろうか。そしてそれは例の合併などと関連があるのだろうか。
 この話が気になっているのは、先日のイオンの労組のことが念頭にあったからだ。先月三十日共同”イオン労組、パート8割に 新たに4万4000人加入”(参照)では表題のとおり多数のパート労働者の労組加入を伝えていた。

 スーパー業界最大の労組「イオン労働組合」(新妻健治委員長、組合員約3万人)が、今夏までに組合員の加入対象を勤務時間月120時間未満のパート社員約4万4000人にまで新たに拡大する方針であることが30日、分かった。

 既加入パート労働者一万六千人(勤務時間月百二十時間以上)と今回の大量加入でイオン労働組合の八割がパート労働者になる。ということは、事実上、パート労働者の組合といってもいいものができあがる。
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ノーマ・レイ
 率直な印象を言えば、喝采といったところだ。ノーマ・レイではないが、“UNION”である。階級社会を打破するみたいなイデオロギーにまみれながら実質押しやられてきた底辺の労働者こそ連帯しなければならないと思う。
 こんなことを言えばまたぞろ左翼とか言われるのだろうが、自分も流しのプログラマーをやっていた経験から労組がいかに実際の労働者の声を聴かなかったについて私は一生払拭しない恨みをもっている。労組を労働者が打ち倒す時が来ればいいのにと思っていた。
 現在ですらサラリーマンの八割には労組はない。その構造が大きく変わるのだろうか、昨今のパート労働者の労組加入はそういうことか……と妄想から覚めれば、たぶんそうでもないのだろう。
 労組側の現在の課題は組織率ではないだろうか。労組の衰退は激しい。それが、今回のイオン労組の場合はこれで組織率が二五%から六〇%にあがる。こうした変動が全体に及べば票田にすらなるかもしれない。まあ、それだけで、うへぇというものでもないだろう。労働者のための政治運動は、それ自体では否定されるべきものではない。
 この傾向は潮流となるのだろうか。
 昨年の厚生労働省発表勤労統計調査結果ではパートの労組組織率は三・三%となきに等しい。たぶん、今年の発表でもまだ大きな変化はないだろう。
 まとまったリソースはないかと探していると、「日本労働研究機構」(参照)「第7回 JIL労働政策フォーラム 労働組合は今後とも労働者の代表たりうるか? -雇用形態の多様化と労使関係-」(参照)というのがあった。でも、二〇〇二年ということもあってか、なんかリアリティは感じられなかった。

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2006.02.10

男の子はなぜ女の子より劣るのかってそりゃ

 今週の日本版ニューズウィークのカバーは「男の子はなぜ女の子より劣るのか」である。さて、男の子はなぜ女の子より劣るのかって問われるなら、私は即答できる。そりゃ女の子が男の子より優れているからだよ。私なんか幼稚園から大学……そして社会に出てからも痛感していることだ。こんなことに疑問をもつやつがいることが不思議……とまでは言い過ぎかもしれないが、知能という点では総じて女のほうが男より頭がいいとしていいのではないか。少なくとも私なんかそういう前提で生きている。
 ただ現実の社会の場になるとある種の一般的な男のバカと一般的な女のバカの一般的特性というのが強くなって、そこを超える知的に優秀な人とそうでもない私のような人という差異のほうが大きくなる。ほかにも権力のシステムがあったりするので、社会ではあまり一般的な知性の男女差というのは問題にならなくなる。
 問題になるのはやっぱり学校だろう。平均的なサンプリングをしたら女子が知的に優れているのは圧倒的なんじゃないかと私などは思うのだが、と言いつつ、たぶん日本の調査とかだとそういう結果は出て無くて、だもんでブログの批判にありがちなんだけど、事実に基づかないことケロケロ書くじゃないゴルァとか言われてそういう統計を見せつけられるのでしょう。でも、そういう統計があってもあんまり信じられないと思うのだが、その先の議論は、当然、しづらい。
 ということろで今週のニューズウィークのカバーストーリーなんだが、いや痛快。統計的にも女子が知的に優勢。誤差の範囲とかじゃない。しかも、それが事実ということでこれってどうよと議論が発展し、やっぱ脳が違うでしょということになってきた。脳だよ、脳。知性とかの議論で脳が出てきちゃったらFA(ファイナル・アンサー)でしょ。


 30年前、「男らしさ」は社会的な産物だとフェミニストは論じたが、最近の科学者は脳内の化学物質の影響が大きいと考えている。男の胎児は受胎後3カ月のうちに男性ホルモンの生産を開始。それ以後、脳は胎内でテストステロンの影響を受ける。
 「脳の男女差が生じるのは、そのせいだ」と言うのは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のアーサー・アーノルド教授。だが、詳しいメカニズムはわかっていない。

 メカニズムがわかったらどうするのだろう。わかるってことがありうるのだろうか。いずれにしても、なんか議論はマジでも洒落でも袋小路になっている。
 ニューズウィークの記事も後半では、やけくそみたいに気質や家庭環境も考えようというのだが、気質っていうのはおそらく脳に還元されるのではないか。じゃ、家庭環境?
 というあたりで、記事にふーんという話があった。米国でということなのかもう少し地域が限定されているのかちとわかりかねるのだが。

離婚家庭やシングルマザーの増加で実の父親が身近にいない環境で育つ男の子は増える一方。その数は今や4割にのぼる。
 「父親」を持たない思春期の少年は、地図をもたない探検家のようなものだと、心理学者は指摘する。家庭が貧しかったり、学業になやんでいる場合はとくにそうだ。

 四割ってことはあるのか。ほんとならすごいもんだなと古風な私は思う。
 日本ではどうだろう一割に満たないのではないか。そして、米国では初等教育の教師ってイコール女性でしょ。もうなんていうか女の王国に少年がとらわれているかのごとき状況か……違うかもだけどね。
 なんつうかあれだ、仮面ライダー鼾じゃないけど、少年よぉ♪的な状況では、知性がどうのいう以前の問題だな、まあ、ロバート・パーカーの「初秋(ハヤカワ・ミステリ文庫)」(参照)でも読めや的気分になってくるがその点は日本は違う……そうかな。
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妻の王国
家庭内“校則”に
縛られる夫たち
 日本でも少年の置かれている状況は依然「妻の王国―家庭内“校則”に縛られる夫たち(文春文庫)」(参照)的状況ではないだろうか。少年よぉ♪旅立つ前に立ち小※だ♪みたいなことが重要ってこともないだろうか。ないのだろう。そういう問題じゃない、と。
 じゃ、どういう問題なのかというとよくわからんが現代社会で求められる知性自体が男女差を捨象した前提となっているので議論はカテゴリカル・エラーを出すばかりなのだろう。つまり、男女差じゃないよ、個々人の差だよというなんかちょっとイデオロギーっぽい感じのだな。
 実際のところ、米国で知性の明確な男女差が出てもまだ社会システムの問題とまでされていないし、それ以前に実質的な階級差の問題に消えてしまうだろう。また、家庭に父親象がないという問題は知性よりもっと深刻な別の問題ではあるのだろう。

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2006.02.09

社会と国家とイスラム法

 イスタンブル郊外を車の窓から見ていて随分荒れた住居、スラムが多いなと思ったはもう十年も前のこと。現状は知らないが、こうした地域でイスラム原理主義が活発なのだという話を聞いて当時関心をもった。この地域のイスラム原理主義は、昨今メディアの伝える過激なものではなく、互助的な社会原理らしい。こうした関心から、パレスチナのハマスにもそういう側面があることも私はある程度納得できる。
 イスラム教圏が近代化の立ち後れ状態にあるとき、あるいは国家の福祉的な施策の立ち後れがある場合、その社会はそのまさに社会機能の必要性から、こうした復古的な原理主義に立ち返らざるを得ないところがある。しかたがないと言えるのだが、問題ははたしてそうは言ったものの、「近代化の立ち後れ」なのかは考えるとむずかしい。
 イスラム教圏を国家という区切りで見るとその最大の領域はインドネシアである。中東やアフリカの諸国でもなく、ましてイスラム教徒移民が多いとされる昨今の欧州の諸国でもない。そして、その福祉的なイスラム原理主義の活動の特徴はインドネシアに見られるのだが、そこで民主化と経済的な発展がどうやらねじれた兆候を示しだしているようだ。
 ソースを示して丁寧に議論すべきなのだが、メモ的に話を簡単にする。
 民主化と経済発展が地域に振興することでその地方自治制が高まる。それは原則としてはよいことなのだが、結果、その地域社会にイスラム法が復権してしまうらしい。
 日本人などからするとイスラム圏の社会にイスラム法があっても文化の選択なのだからそれでもいいのではないかと考えがちだし、直接日本への利害の問題もない。だが、考えようによってはいくつか困った兆候がこうしたインドネシアの社会に見られるようだ。例えば、女性のスカーフが法による義務となり、キリスト教会は排除される。特にキリスト教会の排除については、実際にはそれまでも非認可だったらしく、従来どおりの法規制でも排除せざるをえないのだが、そこはやはりアジア的というかある種の伝統的な融通性があり、また軍政ということでの近代化を遂げていたインドネシアでもあり、事実上の国法的な保護が暗黙の了解であった。そのあたりが地域社会の興隆で揺らぎだしているようだ。
 話を単純にするのだが、例えば、ある女性がスカーフは嫌だ、といった場合、その地域社会の掟は彼女を守らないことがありうる。なにが彼女を守るのか? これは国家の法でなくてはならず、国家がまさに社会と対立して市民を保護しなくてはならない。
 ここで近代国家の法の公義というものが、ある意味で原理主義的に顔を出す。というか、その顔を出さなくては近代国家たりえない。そして、それは社会=イスラム法、に原理的に対立するしかない。
 別の言い方をすれば、社会=イスラム法が国家=イスラム法になるということを、近代国家という原理主義が許さないということでもある。
 現実の個々の社会問題の局面では、当然それらはすべて社会という場で行われるので、社会のルールに妥協することになるのだが、その個人を社会にすべて帰属させるのではない近代国家をどう問い出すかということは本質面で妥協を許さないところがある。

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2006.02.08

駆け落ちは恋の花道とか

 シャッター通りというほどでもないが、実家に向かう昔懐かしい町のあちこちを歩くと小さな商店はほとんどなくなっている。しかたないのだろう。懐かしさに思い出に沈んでいると、かつての商店にいた人たちの顔なども鮮明に思い出す。いい顔があったな。美人の奥さんや肉体労働で鍛えた旦那もいた。今の自分の歳よりも若かったのか、あの人たちは、と思っているうちに、ふと彼らの少なからぬ人たちが駆け落ちだったんじゃないかと思った。そう思ってみると、彼らは奇妙に色っぽいというかセクシーな人たちであった。そうか、駆け落ちか。駆け落ちはよいな。恋の花道っていうものがあるとすれば駆け落ちか……さて。
 林秀彦のテレビドラマ「名門私立女子高校」の脇役で落ちぶれた老人の教師がいたが、彼が人生の思い出の最良のものは女房を担ぎだして駆け落ちしたことであった……とかだったか、そんな話だった。駆け落ちが人生の誇りではあった。担ぎ出すあたり伊勢物語のようでもあるな。
 そういえばトルコだったか別のユーラシアの部族だか、これと決めた女を担ぎ出して駆け落ちするのが正しい婚礼というの風習があるらしい。もちろん伝統的な行為らしく数日して戻ってきて集落の祝福を受けるのだそうだ。
 恋の行動様式にはそういう駆け落ちみたいな原型のようなものがあるのかもしれないが、日本の歴史でいうなら、駆け落ちは戦後の風景だったのではないだろうか。そう考えるとあのセクシーな人たちの時代と辻褄が合う。女房を担ぎ出してというほどではないとしても、気分としては同じようなものだった人たちも多かっただろうし、昭和三十年代都市近郊に流れ込んだ若夫婦の大半にはそうした思いに共感したものがあったのだろう。言い方を変えれば恋が、駆け落ちが、必要な時代だった。
 今は時代が違う。駆け落ちなんてものをとんと聞かない……あるのか。大学のときに女友だちがアイルランドに駆け落ちしたがどうしているやら。現代では駆け落ちがあっても物語になるだろうか。まずもって結婚は許さんとかいう役柄が無理無理のようでもあるし、いや……とここで考え込むのだが、現代の晩婚化というかその気風の背景にあるのは、彼や彼女たちの心のなかのなにかが結婚は許さんと言っているんじゃないか……どうだろう。
 いろいろ理屈はつくのだろうが、人というのは案外無意識の心に縛られているものだし、なにかの禁忌の行為というのは、それを心が禁じているものだ。洒落でいうのだが、無意識のなかのなにかが結婚は許さんというとき、その心を蹴って駆け落ちみたいなことはできないのか。どうも話があさってに向いてきたな。話を変える。
 きっこ様、ちがった、紀子様、ご懐妊のこと。お目出度い話という他はない。実家によったおりちと母と茶飲み話をした。私が言うに、三十九歳でお子様とはたいしたものだが、それって世間の言葉で※かきっ子って言うのじゃないか、といきなり母に叱られた。しかし四十の※かきっ子って言うじゃないか。なお叱られた。叱る者がいるうちは私も日本人の道を踏み外さないのであろう。
 テレビドラマ「肝っ玉かあさん」こと大正庵の女将の名はいさ子とかで五十三歳の娘というのだったと記憶しているが、はてそれはその母親の歳だっただろうか。もしかして父親の歳か、というあたりで歩きつつ昔の町を見ながらまた風景を見つつ、そういえば老人の男に色っぽいおかみさんみたいな夫婦というのがいくつかあった。友だちの家もそうだった。お父さんそれともお爺さんとか子どもながらに聞いてはいけない雰囲気があった。

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2006.02.07

「新たな食料・農業・農村基本計画」は何処へ

 農政のニュースがなかなか見えづらいように思うが、「新たな食料・農業・農村基本計画」(参照)が今年に入ってじりじりと動き出している気配を感じるので、この時点でのメモをしておきたい。この大枠のタイムテーブルは次のように五カ年計画みたいに見える。


 今後の政策推進の指針となる食料・農業・農村基本計画については、食料・農業・農村基本法において、食料・農業・農村をめぐる情勢の変化、施策の効果に関する評価を踏まえ、おおむね5年ごとに見直すこととされています。
 この基本計画については、前回策定時(平成12年3月)からおおむね5年が経過すること、また、農業の構造改革の立ち遅れなど危機的な状況が深まってきていることから、平成15年8月、新たな基本計画の策定に向けた作業に着手し、同年12月には、農林水産大臣から、食料・農業・農村政策審議会に対して、このための諮問が行われました。

 内容については「新たな食料・農業・農村基本計画」にまとまっているのだがざっと読んだ感じでは問題がつかみづらい。特に大臣談話が要領を得ない(参照)。日本語を学べとは言わない。日本語の問題ではなく論理とか情報整理とかプレゼンテーションとかの問題だからだ。しかし、このあたり問題についてメディアというかジャーナリズムというかいまいち仕事してなげな雰囲気は感じる。
 粗っぽい言い方になるのだが、背景にあるのはまずウルグアイラウンド(参照)。ここで農産物の貿易規制は関税のみということになる。これにWTO(参照)で関税にも規制がかかり、ほぼ間違いなく上限設定ということに向かう。コメの関税率七八〇%というのはもうありえないでしょう、と。
 いわばこの外圧で農政が抜本的に変化しなくてはならないのだが、ここでいう農政とはなにかというと、これも粗っぽい言い方になるのだが、農家への補助金の撒き方ということだ。従来なら国際市場を事実上遮断していたことや米の買い上げなどがあり、システムとしてカネが農家に流れ込むようになっていた。しかし、このシステムはもう終わり。しかし、農家にカネを流さなくてはならないのは、東の空から朝日がのぼるのと同じくらい自明なことなので、さてどうカネを農家に渡すか……ということでみなさん知恵を絞った結果、外国から四の五の言われないいい方法を思いついた。カネ、直接あげればいいじゃん、そんだけ。
 価格支持政策から所得支持政策とも言う。で、そのプランが「経営所得安定対策等」(参照)ということなのだが、これがまたよくわからない。要するに、カネを直接農家にあげるんだけど、カネが足りないということらしい。なので、あげる農家を選別ということになる……わけにもいかない。そんなタブーに触れようものならホリエモンはホリのなか、ブログには糞米到来となってしまう。タブーに触れちゃいけない。というわけで、こーゆー時は農家のみなさんに考えて結論を出していただく方式にするわけでこれで揉め事が局所化される……のかな。揉め事なんて滅相もない。タブーはタブーである。ところで農家のみなさんといってもマレー貘としすぎなので、集落営農ということにして、こうなる(参照)。

ひとつの農家では解決できない地域の農業のいろいろな
問題を集落のみんなの知恵と力を合わせて解決し、
農家も集落もみんなが良くなる農業を進めていくこと、
そしてより豊かな集落づくりにつなげていくこと、
それが集落営農です。

 いいなぁ農村の和やかさ。しかし、ニュース的に取り上げるとちょっと娑婆の香りになる。例えば、陸奥新報WWW-NEWS「県選出国会議員と農業者が意見交換会/青森 約140人が参加、与党議員らが集落営農取り組み促す」(参照)はこう。

 自民党県連会長で元農水相の大島理森衆院議員は「価格維持政策は、もはや世界的には認められない」とし、直接支払い制度に移行する経営所得安定対策の狙いを説明。「最大のカギは(対象となる)集落営農づくりだ」と取り組みを促した。
 一方、民主党の横山北斗衆院議員は「小泉内閣は農業者をも、勝ち組と負け組に色分けしようとしている」と批判。共産党の高橋千鶴子衆院議員は「(同対策には)基本的に反対」とし、「価格と所得補償の二本柱で予算を組むべきだ」と主張した。

 ここはそれ諸悪の根源は小泉政権とか自民党とかいうことでひとつ……というのはブログ的な世界とか言っちゃうわけにもいかない。しかし、問題はようするにカネだという本筋をとらえ、無い袖は振れないとか言わないで、袖にたんまりカネを入れることを考えていくのもよろしいのではないか、というのが農政問題だったら……。
 ニュースでもブログとかでもこの話題あまり見かけないような気がすること自体気になるようなならないような。

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2006.02.06

ムハンマド風刺画騒動雑感

 ムハンマド風刺画騒動にもあまり関心が向かなかったのだが、基本的にこの手の風刺漫画自体に関心がなくなったこともあるかもしれない。
 いや関心を持っていた時期はあって、というか、当初ハヤカワで出ていた「進化した猿たち(新潮文庫)」(参照)は全巻読んでいた。高校生くらいの時だっただろうか。その後、自分自身英語圏の文化との関わりのなかに置かれたとき、こうした一コマ漫画のコアのイメージというのがいろいろと文化の理解に役立った。文化の背後にある思考法・フレームのようなものをよく示していた。
 森田拳次(参照)の作品もよく読んでいた。この人のセンスは国際レベルだなと思っていた。最近の森田拳次の作品といえば「マンガ・ぼくの満洲」(参照)だろうか。個人的には「丸出だめ夫」(参照)が好きだったが再読してみるとどうだろうか。関係ないが、「がんばれロボコン」(参照)は石森章太郎か。なんか時代だな。
 ムハンマド風刺画騒動を国際問題として見た場合、日本人はどう考えるべきかというと、「カワセミの世界情勢ブログ: 欧州とイスラム世界のムハンマド風刺画騒動」(参照)の、特に追記に尽くされている感があり、付け足すこともないように思えた。


実際に今回は小国デンマークの一新聞が発端であるに過ぎない。それをゼロもしくはそれに近い状況にしようと試みるには、法規制以外の方法はない。欧州の多くのメディアがそれに危惧を抱くのは当然過ぎるほど当然だろう。

 ふと気になるのは、ソースを持ってくるのが面倒なので記憶によるだが、最近英国で特定宗教を侮蔑することを禁じる法律ができたはずなので、そのあたりの関連はどうだろうか。
 ついでにぶっちゃけ的に言うと、現在反感を持って騒いでいるイスラム教徒たちにどうすることもできないのだろうし、そのことがやはりイスラム教の本質的な部分に関わっているのではないかと思える。まあ、それ以前に多分に、インターネットのメディアというもの興隆と欧州における移民の問題はあるのだろう。
 カワセミさんの指摘のなかで、「比喩が難しいが、日本人としては皇室に対する態度に重ねてそのような発言になっているのではないだろうか」というくだりがあり、そのあたりの比喩的な理解というのは実にやっかいだ。私の好きなミスター・ビーンのコントに壁に貼った英国皇太子チャールズの写真を壁ごと切り取るという不謹慎きわまるネタがあり、あれを爆笑につつむ英国民のセンスは実に高度なものだと思う。が、それを日本の皇室でやられたらと思うと私の感性としては許容できない。もっとも、外国人が日本の皇室を愚弄する漫画などいろいろあるし、それはそういうものかと思うだけだが。
 話が散漫になるが、日本版ニューズウィークには日本をからかう一コマ漫画がよく掲載されるが、その出典のほうが逆に笑えることが多い。お里が知れるというやつ。総じて、アジアの新聞社の一コマ漫画というのはなんとも言えない微妙なものがある。例えば、「第7回アジア漫画展>出展作家紹介」(参照)などを見るとそれ自体がアートの文脈のようでもあり、苦笑とまで言わないがリアクションに難儀する。
 このリスト中に「ナデロ先生」(参照)の李泓雨があり一九四九年生まれとある。もうちょっと年上の人かと思った。この手の独自の笑いの境地にある日本の代表といえば植田まさし(参照)だが、一九四七年生まれ。まあ、そんなものなのか。ちなみに、この機にウィッキ先生を読むと、一九六九年中央大学文学部哲学科卒業とある。意外といってはいけないのだろうが、その哲学と青春記を読んでみたい気がする。すでにあるのだろうか。

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2006.02.05

東横イン社長と司馬温公

 東横インの不正改造問題にはそれほど関心が向かなかった。以前からわかっていたことをこの時期におもてにしたのではないか、誰が今回のプロデュースをしたのだろうか。耐震偽装のように死者も想定されるという問題ではないが、それでもこうした問題はさっさと対処すべきだろう。そのくらいの関心だったのだが、たまたまニュースで西田憲正東横イン社長の談話の映像を見た。かなりの人が見たのだろうと思うが、「認識はあったが、行政指導で終わると思っていた。時速60キロで走るところを67、68キロで走っていいと思っていたのは事実」「身障者利用客室は年間1、2人しか利用がない。駐車場があると見栄えが悪く、使い勝手も悪いと思った。やってしまったことは仕方ない」という映像である。あきれた人だなと思うより、よくこんな見識で世間を渡ってきたものだ、それまで幸運でしたね、しかし、その世間を舐めた幸運を世間が許すわけもないでしょうと思った。そして、私はふと司馬温公を思った。
 西田社長は司馬温公を知らないだろうか。西田社長の歳は五十九。今年もまだ二月初旬であるからおそらく昭和二十三年生まれであろう。つまり、戦後の世代だ。ギブミーチョコレート世代ではないが、都会で育ったなら少年期は闇市の雰囲気の残る時代であり、戦前からの伝統的な道徳が廃れ始めた世代でもある。学問をしたこともない人であろうから、司馬温公も知らないかもしれない。

cover
だれが中国を
つくったか
 司馬温公がその時連想されたのは、たまたま日記で中国の歴史とは歴史の体裁をしたイデオロギーに過ぎず、漢民族とやらの歴史が始まったのは明代以降のことであると放言をしたものの、はてなブックマークだったか別のリンクだったかで、根拠はなんだという疑問を見かけた。確かに通説ではないのだから、説明が必要か。必要だとすればなにから説明すればいいか。重要なのは資治通鑑であるが資治通鑑の意味と元時代、朱元璋といった説明するのは難儀なことだな思ってぼんやりしていた。本朝通鑑や林羅山と連想して脱力してくる。それ以前に現代日本人は司馬温公のことを知っているだろうか。
 グーグルをひいてみた。これはなんかの間違いではないかと思うのだが、司馬温公のキーワードでひっかかるのは八件であり、だぶりを除くと五件。やはり間違いではないかと思い、今度は司馬光で検索すると八百五十五件。多いと言えば多いがそれでも少ない気がする。追記:コメント欄で指摘していただいた。司馬温光で検索していたため。
 司馬温公より司馬光の時代かもしれない。その違いには万感の思いがある。歴史学は進歩したのかもしれないが、歴史の感覚は変化していく。西田憲正社長を責められるものではないな。いや、歴史の感覚というのはそいう個別の知識の問題でもないから、普通の世間知があればいいだけかもしれないが。
 なぜ司馬光ではなく司馬温公なのか。字引を見たら、「司馬光の異名」「司馬光の尊称」とのみありすげない。マイペディアには次のように説明している。

中国,北宋の政治家,学者。字は君実,諡は文正公,通称を司馬温公。進士に合格後,約20年間地方官を歴任。のち中央に進出したが,王安石が神宗の庇護の下で新法を断行したのに反対し,一時中央から退いた。以来15年,神宗の後援で資治通鑑の編集に専念し,政治に介入することがなかった。哲宗即位後,旧法党の首領として中央政府に再登場し,旧法を復活させたが,数ヵ月で没した。

 人は司馬光とは呼ばない。司馬温公と呼んだ。彼の徳を慕ったからである。皮肉に見れば資治通鑑というイデオロギーの大成者でもあったが、民衆はそう考えていたわけではない。司馬温公という語感には必ず、破甕救児がつきまとう。江戸時代の庶民はあらゆるところで破甕救児を見た。陽明門「唐子遊び」にも含まれている(参照)。
 破甕救児をグーグル先生に訊いてみる。六件。うち「司馬光・破甕救児文様【うまか陶】」(参照

 司馬光が幼時、多くの子供と遊んでいた時、ひとりの子供が水の入った大甕に落ちて溺れそうになった。
 多くの子供は驚いて、いっせいに逃げ散った。司馬光はその時、あわてずに石をもって甕を撃った。すると甕から水がほとばしり出て、落ちた子供は死なずにすんだ、というお話し。

 絵柄としては「一口法話:司馬温公のかめ割り図-黒羽山 大雄寺」(参照)のほうがわかりやすいかもしれない。
 破甕救児図柄の皿などはなんらかの呪術であったかもしれないし、このイメージ自体イデオロギー的な背景は本朝通鑑に通じるものがあるがゆえ近代に廃れたかもしれない。
 それでも、為政者は破甕救児を掲げた。金持ちはその絵柄を尊んだ。あえて損をしても幼き者・弱き者たちの命を優先して守るということの表明であった。

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2006.02.04

日本人が日本語など学ぶ必要はない

 ブログとかに向いたくだらないテーマに「英語を学ぶ前にしっかりとした日本語を学べ」とかいうのがある。あまりのくだらなさに即終了でもいいように思うのだが、当方もくだらないブログなんでそんな雑談を。
 英語はできたら勉強したほうがいいと思う。語学というのは向いている人間とそうでない人間があるので、私みたいに向いてないのはいくら勉強してもダメ。それでも語学というか他国語というのはそれに触れてないとますますダメになるというか、システムの保守みたいなのが必要になる。イーデス・ハンソンだったか米国に行くとしばらく言葉が出ないと言っていた。ネイティブでも使ってないとうまくいかない。ある種のバイリンガルというかバイリンガル的な他国語修得者は脳のスイッチみたいなをカチっとやる必要があるように思う云々。
 ほいで日本語とやらの重要性。これが皆目わからん、とまでは言わないが、人は置かれた環境のなかで十分に言語活動をするものではないか。それだけのことではないか。敬語が廃れるのはそれが不要な人間関係の社会になったからというだけで、言葉の側の問題ではない。
 しっかりとした日本語とやらには、なんとなくだか書き言葉の含みがあるようにも思う。いわく、ちゃんとした日本語を書けとか、文章をうまく書くにはとか云々。それはたしかに技能というべきものかもしれないが、普通人間は文章などを書く必要はない。というか必要な文章は書けるものだし、そういう文章というのは形式が決まっているのだから、必要に応じて慣れればいい。ブログの文章術とか……そんなもの必要があるのかよくわからないが、書いてれば結果がブログというだけのことだ。
 話がかく続かない。
 論理的で音の響きのよい日本語の名文を繰り返し音読・暗誦・筆写せいとか、無意味だと思う。言葉というのは、まず誰かの言葉だからだ。言葉を愛するのではない。その誰かを愛することだ。愛というのは単純に言えば抱きしめることだから身体というものが要るのだが、不思議なことに愛というのはそこを少し超える。少し超えたところに肉声があり、その人の魂の声というものがある。
 私は親鸞の身体も肉声も知らないが、「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」というつぶやきに親鸞という人を感じる。親鸞を愛する。親鸞という人の生き様の経験に自分の思いを重ねる……愛のなかでその言葉がある。
 言葉があるのではなく言葉の先に人がある。肉声がある。「其の謦咳を承くるが如く、其の肺腑を視るが如く、真に、手の舞ひ、足の踏むところを知らず」とダンス・ダンス・ダンス。
 そういう愛に巡り会うかどうかは運命が決めるものだし、運命の過酷さは時を超えた人の言葉を誘い込むものだ。だが、それが幸せというものでもない。そんな言葉など不要な人生のほうがどれほどましかわからない。
 と、ここで少し矛盾したことを言うのだが、そういう誰という人を失った人の思いというか、魂となった言葉に、まさに魂のようななにかが残る。読み人知らずという歌の言葉がそうだ。「青柳の張らろ川門に汝を待つと清水は汲まず立ちどならすも」……歌謡であろう。歌われているような純情ではなく、酒席のような戯れで歌われたものであろう。しかし酒の上の戯れであれ「あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む」という旅人のような屈曲はない。誰もが純情だった。若い日に恋をした。地団駄を踏んだ。誰とも知れぬ歌謡が残った。梁塵秘抄の、遊びをせむとや生まれけむ、の言葉は遊女の魂だ。どの遊女とも知らぬが遊女らの思いの肉声のようなものが言葉に残った。
 誰の言葉でもない、ただの言葉のなかに、名もない人の喜びや悲しみが込められて、そうして日本語が残る。そういう日本語のただ中で日本人は生きている。そりゃそうだ、恋があり喜びがあり哀しみがあるのだから言葉が紡がれるほかはない。言葉を尊ぶのではなく、生きる経験が言葉のなかに溶かされていくだけなのだ。
 私はいわゆる美しい日本語とやらが嫌いだ。経験を離れた言葉などない。言葉に収斂されない経験などもない。
 私は「すてき」という言葉の不思議を思う。今の日本人も「すてき」という。今の若い子も言うのではないか。まさに愛の営みのさだなかで言うではないか。すてき、と。
 だが、私はその言葉の由来を知らない。気になっていろいろなおりに語源を探って皆目わからない。でもこの言葉が日本人に継がれそこに命が宿っていることは知っている。それだけでいいのだが……私は思う、これは現代の2ちゃん語のようなものではなかったか。
 江戸時代に中国かぶれした知識人をせせら笑ったねらーみたいなやつらが、すばらし的、して、す的、すてき、となった希ガス。
 あるいは、「す的」ではなく「素敵」かもしれない。そう敵だ。敵というのは現代の日本語ではエネミーの意味しかなくなったが、字引には残っている。大辞林を引く。


 3)遊里で、客が遊女を、また遊女が客をさす語。相方。「重ねて逢ふ迄の日をいづれの―にも待ちかねさせ/浮世草子・一代男{六}」

 恋の相方が敵である。
 いや、恋というのとは違うのかもしれない。でも、あの男が敵であり、あの女が敵だ。その間には恋のようなものがあり、その恋のようなものが「敵」から「素敵」に残ったのかもしれない。わからない。
 まあ、わからんでもいいことだろう、恋があるなら、恋の相手があるなら。日本語など学ばなくても、そのときいささかのくるいもなく、日本人は恋の相手に、すてき、と言える。

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2006.02.03

骨付き牛肉のこと

 誤解されるかもしれないけど、これは黙っているのもなんだし、簡単にだけ書いておこう。れいの骨付き牛肉のこと。
 まず、米国産牛肉の輸入再開前に米国の食肉処理施設へ農水・厚労両省係官を派遣して査察を行う方針を決めていた件についてだが、私はこれは変な話だなと思った。
 いくつか含みがあるのだが、一つは「さるさる日記 - 泥酔論説委員の日経の読み方 2006/01/31 (火) 08:13:32 BSE、農相の説明責任は重い 2」(参照)の指摘に共感した点だ。


 よく考えてみれば分かることですが、解禁前に対日輸出の処理ラインをいくら調査しようが、対象となる日本向けの食肉がまだラインに乗ってないのですから、「一体、何を調べるの?」という全く無意味な出張になるわけです。
 川内議員の「誘導質問」に気がつかず、うっかり「輸入再開以前に」と回答してしまった農水省は、後で辻褄を合わせるため実質上の輸入直前に担当官を現地入りさせたのではないでしょうか。
 こう言った事情が予め判明していたならば、手順を経て答弁の修正を川内氏に告げるのが筋だったわけで、これが農水省のポカであり、これらの経緯を説明せずいきなり自らの責任云々と言い出した農水相の粗雑な答弁もポカであると言わざるを得ません。

 厳密に言うと調査できる点はいくつかあった。この点は後で触れる。問題なのは、むしろ次の点。

 しかも、この「調査」なるものがどのような権限に基づき、どのような法的責任があるものか根拠もよく分からない代物なんですね。
 そもそも、輸出品を監督・管理するのは米側であって、もしそれに瑕疵があればその責任はアメリカにあります。
 日本には輸入品を検査する権限はありますが、相手国まで行って輸出のお手伝いをする必要は全くありません。
 「調査」したにも関わらずそれに瑕疵があった場合、日本も責任の一端を担わなければならず、これは貿易の原則として如何なものかと思います。

 このあたり農水・厚労省はどうするつもりだったのかよくわからない。
 わからないことはまだあるので話をサクっと進める。
 今回の査察ではどうも奇妙な感じがつきまとう。一月三十一日日経社説”BSE、農相の説明責任は重い”(参照)にこうあるのだが。

 ところが、実際に係官が米国へ出向いたのは、輸入再開を決めた昨年12月12日の翌日、13日であった。後に特定危険部位の背骨をつけたまま日本に牛肉を出荷した施設は査察の対象外だった。

 この施設について日本のメディアはあまり報道しない印象を受けるが、Atlantic Veal & Lamb, incである。ここは厚労省がマークしていたはずなのだ。平成十六年六月四日”国内に流通する米国産牛肉等に係る調査結果について(最終報告)”(参照)より。

 検疫所及び都道府県等を通じて米国から既に輸入された牛肉及び牛由来原材料を用いた加工品について個別に調査を行った結果、特定部位である子牛の脳約40キログラムのほか、せき柱の混入又はそのおそれのあるTボーンステーキ、一次加工品のスープ原料、牛脂及び牛骨粉、二次加工品のカプセルに入れられた食品等が確認され、回収又は販売自粛を指導した。

 この「2 Tボーンステーキ」の特定部位混入有りでトップ・トレーディング(株)輸入、ATLANTIC VEAL & LAMB INC. CATELLI BROTHERS, INC. MARCHO FARMS INC. で三四一キログラムとある。
 そうでなくても、同社は米国大手のヴィール加工メーカーでもあり、ヴィール加工には骨が入ることを農水・厚労両省は知っていたはずだ。
 別に陰謀論でなくても、なんでAtlantic Veal & Lamb, incを査察対象から外していたのか疑問に思うのが当然だろう。
 で、外した理由は両省から明示されていないが、恐らくヴィール(Veal)だからでしょということではないか。
 このあたり日本の報道に疑問を持つのだが、Vealについての解説がなされていないように思われる。
 Vealは子牛の肉であり、米国では月齢三十か月未満の子牛の肉では脊柱除去処理をしない。だから米国はいかんと思い込む日本人は多いのではないかと思うが、この対処はグローバル・スタンダードであり、日本ルールは過剰な検疫などで輸入を妨げる世界貿易機関(WTO)のルール違反とされてもしかたがない。
 もちろん、日本側では月齢二十か月でBSEが検出されているとし、私の判断でもそれは認めるべきだとは思うが、これも国際的にはこの検査は標準とされていない。であれば、日本は貿易で独自ルールを主張するのではなくそれがグローバルのルールなのだと主張していかなくてはならないはずなのだが、その気配はまるでない。
 今回違反とされたヴィールだが、月齢四ヵ月半であり、現状の国際的な食肉処理から見てBSEの疑惑はありえない。安全性という点では問題にしようもないのだが、話はもちろんそういうことではなく、ルール違反だということだ。米国および欧米は社会契約が重視されるのでルール(契約)違反とされれば反論はできなくなる。ちょっと陰謀論的に言えば、日本もうまく立ち回ったなということであり、実際のところ米国は内心はそう見ていることを日本も心得ておいたほうがいい。
 問題はまだある。
 以上の話からも理解されると思うが、対日という枠組みでは食肉処理という点では問題ではあるのだが、食肉加工の点では別になる。そのあたりが日本の報道は故意に混同させているのだろうかという印象を持つ。例えば、一月二十二日毎日新聞社説”米国産牛肉 日本の消費者が見放すぞ”(参照)より。

 そして今回、リスク管理の段階で、特定危険部位が混入した米国産牛肉が確認された。つまり、食品安全委員会によるリスク評価の問題ではなく、米国と日本で適正なリスク管理が行われているか否かが問われている。

 こうした記述を読むと、米国では食肉処理がまずいがゆえに特定危険部位が混入したといった印象を受ける。だが、今回写真などで見るブツは、混入というより誰が見てもあまりのあっけらかんとした背骨がどーんと入っているというもので、およそ処理ミスというにはありえないジョークのレベルに近い。
 米国報道を見るとそういう文脈ではなく、Veal hotel rackの配送ミスとして受け止められている(参照)。

Japan suspended imports of U.S. beef Jan. 20 after finding a veal shipment containing backbone, which Asian countries consider at risk for mad cow disease.

The cut, veal hotel rack, is consumed in the U.S. but not allowed in Japan.

The mistake has endangered millions of dollars in potential sales to Japan, which reopened its market to U.S. beef only weeks ago


 こうした言い分をそのまま是とするわけではないが、問題は骨付きは当然のヴィールなんだから配送ミスでしょと考えるのが食肉に慣れた米国人の受け止め方だろう。
 私もこれは配送ミスではないかと思う。もちろん、そうした配送ミスが許されるものではない。
 話を進める。これが配送ミスかどうかという点について多少判断を保留したとして、最後に残る疑問はいったいこれはどういうカット肉として送られたのか?
 そう思うのも、私はオーストラリア・ワインが好きで以前ケースで輸入していたのだが、ケースともなると個人輸入とはいえちょっとした輸入業者みたいな手続きをする。で、こうした貿易には税の問題とそれ以前に何を送ったかを示すためにinvoiceが必ず付く。それを見ると何が送付されているかがわかる。余談だがオーストラリアでは当時ワインの輸出促進をしているので関税の払い戻し分があった。
 今回問題のヴィールがVeal hotel rackなのかそれ以外なのか、いずれにせよ、invoiceになんと記されていたのか。この話の関連は某サイトに不確か情報があるのだが不確かなのでリンクしない。
 また、それ以前に、日本側としては月齢四歳半のヴィールのカットに際して脊柱除去処理を義務づけていたのだろうか。
 別の言い方をしよう、脊柱除去処理をしたVeal hotel rackなんてありえたのか?
 骨を除去したTボーンとか想定できますか?

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2006.02.02

中国様のちょっとした小ネタかな

 ちょっとした小ネタといったニュースなのだろう。なので、国内の新聞社・通信社の報道を私は見落としているのだろう。いや、もしかして、そこは大人の都合というので報道はなしとか。いや、全然ないわけではなく、話は、中国情報局”中国銀行:元幹部ら4億$横領、ラスベガスで資金洗浄”(参照)にさらっと掲載されている。


中国銀行の元支店長ら5人が、4.85億ドルを着服した上で、ラスベガスのカジノを通して、マネーロンダリング(資金洗浄)を行っていたなどとして、31日に米国で起訴された。2月1日付でボイス・オブ・アメリカ(中国語版)などが伝えた。

 日本円にすると五七〇億円くらいか。中国様にしてみるとふーんなくらいのはしたガネなのだろうか。事件の規模というか重要性がよくわからないのだが、不正開始が一九九一年というから十五年。年間だと三八億円……金利を設定するならどの程度かもよくわからない。
 この犯罪では奥さん同伴ということなのだが、同記事では四人は移民法違反などの疑いですでに当局に身柄を拘束されているとこのこと。ちょっとこれだけではニュースがいまいちわからないこともあるが、なにしろネタ元は一日付のボイス・オブ・アメリカ中国語版なのだそうだ。え?
 ちなみに英語版のVOAの中国関連のニュースを見たが該当ニュースは見かけなかった。とはいえ、このニュース、別段それほどマイナーというわけではなく、BBC”China bankers in US scam charge ”(参照)とかCNN”Chinese bankers, wives indicted”(参照)、ヘラルド・トリビューン(ブルームバーグ)”Ex-China bank managers indicted ”(参照)とごくありふれたニュースである。というか、そろそろ日本国内でも報道が出るころかなと思っているのだが……。
 CNNのニュースを見ると奥さん同伴というより偽装結婚のようだ。

They allegedly planned to immigrate to the United States with their wives and gain citizenship through schemes involving phony documents and sham marriages.

 よくわからないのだが、カネもって米国にトンヅラということだったのだろうか。そのわりには長期にわたり組織的だし、なんで今頃事件化するのかよくわからない。いやワタシ的には、「オリエンタルカジノ」とか「ギャラクシーカジノ」とか「サンズカジノ」とかの名前がマスコミに登場するようになってから、ゆっくりと中国金銭洗浄の続報を書こうかと思う今日この頃なのだが……なんてフカせるほど事情は知らない。いくつか英文のニュースを読んでもこのニュースの裏というのもよくわからない。
 裏なんてないのかもしれない……が、それでもなんでラスベガスなんだろうか。何となく思い当たるのはマカオのカジノに投入される米国資本の増大だ。すでに中国のカジノ用の資本を上回っているようでもある。というあたりで、カネ……金……といえば隣の金さんのことも連想するのだが、そこまで愉快な話をふかしてもなんだし、このエントリはおしまい。

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2006.02.01

官製談合について

 東京地検特捜部がライブドアにつづき防衛施設庁を落とした。なんでこの時期にとか、また額賀かよといったささやきも、防衛庁を防衛省に格上げなんて百年早いわはっはとかいう笑い声も聞かれないほど鮮やかな仕事である。
 こんな官製談合なんて道路公団副総裁の橋梁談合とか成田国際空港重機メーカー談合とかその気になれば恣意的にいくらでもほっくりかえせると誤解している人もいるかもしれないが、けしてそんなことはない。耐震偽装問題に関連した、民間検査機関イーホムズの審査担当者十人が全員市役所などで建築確認業務に携わった公務員OBだったとかいう天下り構造にこの問題の一端があるのだと考えることは昨今のアルファーブロガーでもしないことだ。
 こうした官製談合疑惑のタネというのはあちこちにあるかのようにも思えるものだが、いざその実態を詳しく見ていくと真実が明らかになるものなのだ。一例を挙げよう。
 昨年八月のことだが、東京警察病院の移転・新築工事の入札に談合があるのではないかという噂が飛び交った。工事の発注元は警視庁職員の福利厚生を目的とする財団法人「自警会」である。常識的に考えてもこれは警視庁職員OBの組織と見てよく、すわ官製談合ではないかという疑惑の目が向けられたのもしかたがない面はあるだろう。ちなみに工事は、東京都中野区中野四丁目約二万平方メートルの敷地に新たに病院棟と宿舎棟を建設するというもので、当初の予定価格は約一二〇億円。総額として見ればたいした額ではない。自警会は六月時点で業者を公正に公募し資格審査を行い、四共同企業体(JV)を入札参加業者に選定していた。
 しかしそこは社会正義を担う警察である。こうした疑惑そのものに社会的に配慮しなくてはならないものだ。即座に自警会は予定入札をとりあえず延期することを決め、入札参加予定の業者を招集し詳しく事情を聴くことにした。
 結果はどうかといえば、談合の事実は確認できなかった。根も葉もない風説に過ぎず、しかも国策との関係すらない。そもそも社会正義を担う警察の関連に官製談合などありうるはずもない。それでも、こうした風説自体もさらに考慮する姿勢を示すために、入札に当たっては「慎重に対応する必要がある」と明言した。中断された入札も仕切り直しとなり、約百億円で共同企業体(JV)が落札した。落札率も約九〇%であった。
 朝日新聞や読売新聞など一部の新聞はこうした風説を新聞社に寄せられた情報としてニュースに流していたが、真実が明らかになるに従い、その後の報道というものはなくなった。当然の結果である。官製談合などどこでもやっているというのは大きな間違いであり、まして警察に疑惑の目を向けるというのはジャーナリズムにもブログ界にもあってはならないことだ。諸悪の根源や黒幕ということに庶民は正義の関心を向けるべきなのである。
 それでも、警察病院の建設にはなにかと例外が多いのではないか(参照)といった声もネットで見かけることがあるがこうした指摘を正しく理解するにはマスメディアの報道とは異なったネットリテラシーというものが求められるのは当然だろう。もっとも、ネットの情報にはネタが多過ぎるというのであれば、それはそれでなにかと困るのではないか。

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