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2006.01.15

[書評]事故のてんまつ(臼井吉見)

 高校生のころ読もうと思って機会を逸したままだった本で、それから三〇年して読むという感じだ。話はノーベル賞作家川端康成の自殺を追ったフィクションだが、かなりの部分は事実ではあるのだろう。内容の紹介がてら帯を引用するが、あまり釣りの文言とは言えない。


72歳で自ら命を絶ったノーベル賞作家の、死の前の半年間を描いて、一生涯抱きつづけていた哀しみの根源をたどり、その人と文学に新しい光をあてた力作中編小説。

 当初雑誌「展望」(一九七七年五月号)に掲載されすぐ単行本として出版(三〇日付け)されたものの、川端家から販売差止めの民事訴訟を受け、絶版となった。臼井が謝罪し、八月一六日、和解が成立した。
cover
事故のてんまつ
 日本文学史研究の上でも貴重な資料ではあるが、「エーゲ海に捧ぐ」(参照)などと同じく、当時ベストセラーとなったこともあり、現代でも古書の入手はたやすく、価格も千円程度である。ネットの古書店でも簡単に見つかるので、気になるかたは読んでみるといいだろう。文学作品として優れているかというと私の結論としては微妙というところだ。傑作ではない。失敗作に近い。個人的にはディアスポラの信州人として信州の微妙な筆致がわかるところは多い。
 たしか小谷野敦だったかと記憶によるのだが、臼井吉見は本書が訴訟沙汰になったことで、事実上文壇から排斥されたと見ていた。私もそういう印象はもっていた。
 少し歴史を振り返る。臼井吉見については、はてなダイアリーのキーワードに年譜があった(参照)。なにかから引き写したものではないかと思うが(文学館であろう)、本書の言及は、当然のごとく、ない。

明治38年
(0歳) ●6月17日、長野県南安曇郡三田村(現安曇野市)田尻の農家に、父貞吉・母きちの次男として生まれる。

 明治三八年というと「年号年齢早見表 極東ブログ・リソース 2006年版」(参照)を見るとわかるが、一九〇五年である。昨年は誕生百年祭でもあったのだろうが、そういう話題は聞かなかった。本書の初出である「展望」は昭和二十一年筑摩書房の創刊だが臼井は事実上の立役者であり、筑摩書房の創業者古田晁とも中学時代からの友人だった。なにより、臼井は「筑摩」の名付け親でもある。筑摩は私が高校生のときに使った現代国語教科書の出版社であり、臼井はその主編纂者でもあった。筑摩書房が一旦つぶれことがあるにせよ、現在の臼井への事実上の沈黙は意図的なものか、横光利一のようにただ忘れ去られた作家なのか判断は難しい。
 本書が執筆されたとき、臼井吉見は何歳だっただろうか。年表を見て奇妙なことに気が付く。一九七四年に主著「安曇野」第五部完結し刊行したのが六十九歳である。「事故のてんまつ」はその三年後に刊行されるのだから、臼井は七十三歳である。つまり、本書執筆時は川端康成の自殺の歳とほぼ同じであった。
 川端康成の年譜を顧みる。川端は明治三二(一八九九)年生まれである。臼井より六歳年上だ。同時代を生きた二人の作家とはいえるが、年代的には臼井からは川端はかなり年上に見えたのではないだろうか。川端の死の歳を待って書かれたといえば言い過ぎではあるだろうが、臼井にしても七十年の人生経験の一つの決算のありかたではあっただろう。
 川端康成が自殺したのは、昭和四七(一九七二)年四月一六日。満で七二歳だった。はてなダイアリーのキーワード川端康成をのぞくとやや奇妙なことが書いてある。

1968年にノーベル文学賞を受賞し、『美しい日本の私』という講演を行った。その3年後に、門下の三島由紀夫の割腹自殺などによる強度の精神的動揺から、ガス自殺した。73才だった。

 三島由紀夫の割腹自殺は昭和四五(一九七〇)年十一月二十五日。葬儀は翌年一月二十四日になされたのだが、この時の葬儀委員長は川端康成だった。川端が文学界の長にいたということよりも、文学美学の志向において三島由紀夫は川端康成の事実上の弟子を任じていたことが大きいだろう。川端もそれを認めてはいただろう。そして当時の文学界的には川端の死は三島の死の翌年という雰囲気はたしかにあったことだろう。
 ここで話が少しそれるのだが、川端は三島をどう評価していただろうか。どちらも文学的な資質は病者に近いものがあり、そのあたりで川端は三島を認める感じはあっただろうが、案外三島は文学の体をなしていないと見ていたかもしれないと思う。そう思うのは、私が今年四九歳になるからだろう。
 三島由紀夫は大正十四(一九二五)年生まれ。私の父は大正十五年、吉本隆明は十三年生まれ。私の父の世代になる。三島由紀夫が自死したのは四五歳。そして、今の私からすると、まさしく彼の文学は青年の文学の延長でしかないように見える。たしか、三島は川端を評するおり、川端のノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」の仏界・魔界から魔界入りがたしを引いて魔界の人だとしていた。存外に三島は川端ほどの魔人ではない自身への焦燥のようなものがあったのではないかと思う。余談ついでだが、三島由紀夫が埋葬されたのは一月十四日。四十九日が過ぎたその日であるが、この日こそは三島由紀夫の誕生日であった。埋葬される日を自分の誕生日から逆算して自死したしたたかさは、今の私にしてみると狂気的な思想というより、やはり特異な不達・焦燥感だったのではないか。
 本書に関わるが、魔人川端の死はどうであったか。臼井の描写の前に、たまたまであるがネットで伊吹和子の「川端康成の瞳」(参照)を見つけた。このようなものが公開されているとは驚いた。伊吹証言は分断的には臼井証言と表裏をなすものでもある。

 昭和四十七年四月十六日の日曜日、北鎌倉の東慶寺で、その年の田村俊子賞の授賞式があった。毎年、命日であるこの日に、お墓のあるこの寺で行われる式である。北鎌倉の駅から境内に至るまで、桜、連翹(れんぎょう)、桃、木蓮等々の花が咲き満ち、青々と晴れ渡った空がひときわうららかであった。
 式の後、同じ墓地にある高見順氏のお墓にも詣で、帰りに川端先生のお宅に寄ろうか、と思っていると、同じ授賞式に出席しておられた立原正秋氏と、宇野千代氏とに呼び止められた。


 先生の急逝を聞いたのはその夜遅くであった。
 編集長の指示で、サイデンステッカー氏と同乗した車で駆けつけると、顔馴染みの福田家の女将さんが、泣きながら案内して行き、先生の顔にかけられた白布を取ってくれた。
 先生は、白い布の中で眠っておられた。はっと声を呑むほど安らかで、幼児のようなあどけない寝顔であった。父の死を見た七歳の時以来、私はどれほど多くの死顔に逢っただろう。しかし、こんなにうつくしい、こんなに穏やかな死顔は初めてだと思った。
 十八日の密葬の時、私は例によって出版関係の人達と一緒に、雑事を手伝っていた。


 何日かして会社の人が、不思議な経験をした、と私に話をした。彼は鎌倉に住んでいるのだが、あの日曜日、七里ヶ浜の先まで魚釣りに出かけていたそうである。「輝くほどよく晴れた青空だったよね」と彼は言った。私が立原氏の庭から眺めた空のことである。
「そう、そうなんだよ。波も穏やかでね、いい気持で岩の上にいて、夕景になって江の島の方を見たら、美しい雲が光って、こんなきれいな夕焼け雲は見たことない、とびっくりしたんだよ。そしてしばらくしたら、急にその雲が赤紫とも茜色とも、何とも言えない色に変って、風がざあっと吹いたと思ったら、何百とも知れない千鳥が、どこからか一斉に飛び立ったんだ。それが、発表された川端先生の死亡推定時刻に合うんだよ。あの時なくなったんだと、僕は思いますね……」

 この描写に嘘があるとは私は思わない。むしろ、その美の光景は決定的なものだったかもしれないと思う。江藤淳が評論「小林秀雄」で、若い日の小林秀雄の自殺前の遺書のような詩文を読解していくのだが、小林が自死に至らなかったのは、海が美しくなかったからだ、という部分を強調していた。ある種の若い感性なら説明するまでもないが、美しい光景があれば死ねるものでもある。
 本書は、俗に言うなら、川端の自死の原因は、若い女性への恋慕の敗北によるとするものだ。初読後、私が思い浮かんだ言葉は「ツンデレ」であった。自分がいかれているなと思うが、そして、「不幸萌え」が接いだ。冗談のようだが、たぶん現代の若い人が本書を読めば、ツンデレ論と不幸萌えになるだろう。不幸萌えっていうのが現代にあるかどうかわからないが。
 「事故のてんまつ」の事故は川端の自死だが、「てんまつ」は本書の主人公でもある十八・九の女性に川端が不幸萌えを起し、自滅したと言えるように思う。とこなれない表現でいうのもなんだし、さらに話がお下劣になるのだが、2ちゃんねるなどを以前見たとき、ブス専というのがあって、考えたことがある。ブス萌えというのがあるのかどうか知らないが、美人でなくても、ある若い女性の不幸な境遇に萌えてしまうという心性がある。これはただ萌えて思慕するというのではなく、その女性が不幸に耐えてツン状態であるのに、いじいじと心理的に虐待的に接することで萌えてしまうという……とんでもない心性だ。この心性については、もう少し議論もできるが、まあ、そういうものなんだろうなと思う。私にはこの心性はそれほどないが、宇多田ヒカルの最近の歌にある種不幸萌えの美を味わうことはある。
 臼井吉見にはこの感性はほぼない。そのため、主人公のツン的心性にそのまま乗っかってしまっい、「眠れる美女」と「片腕」(参照)をばっさりと捨てている。臼井は冷徹な批評眼からその近似に接近したものの、その魔の領域を文学的に仕上げることなく評論の擬態をしたために本書は社会的に失敗したのだろう。
 臼井の眼は内的な了解は伴わないまでも事態を正確に見ていた。彼は山口瞳をこう引用していた。

……最後まで少女と心中したいと言っていたのは、冗談ではなく本音であり、それ以上強い願望であったと思う。私は川端さんの自殺の真因は、誰かに失恋するとまでは行かなくとも、少女と戯れることの出来なくなった肉体の衰えに絶望したのではないかという気がしてならないのである。

 山口には山口なりのもう少し思いがあっただろうし「わたしの読書作法」(参照)なども考慮されなくてはならないだろう。ただ、山口は魔人ではなかった。
 本書では、川端の自死の事件から川端康成という文学者の内面に接近しようとして、慣れもしない奇妙な精神分析論のようなものも出てくる。この議論、石川啄木に関わるもので、私も思うことはあるのだが、本書の批評方法論としては、失敗している。
 あと、二つの事項をメモしてこのエントリを終わろう。一つは、川端康成の都知事選応援の話はもう少し深い子細があるように思えた。もう一つは、川端康成の妻への臼井の考察だ。臼井は川端康成の年譜に夫人とのなれそめの経緯が十分にないことに疑問を感じている。が、この点については、川端の死後、秀子夫人による「川端康成とともに」(参照)である程度明かになっている。ネットを見ると、”川端康成「新婚時代」を歩く”(参照)という記事もあり、これを見れば、誰もがあることに気が付くだろう。
 臼井吉見が亡くなったのは昭和六十二(一九八七)年、八十二歳。しかし、昭和五六(一九八一)年、七六歳のときに再発した脳血栓で左半身不随となる。この時点で文学者の生命は絶たれていたに等しいだろう。幸い「獅子座」は二部まで執筆できた。そういえば、私はこの作品も読んでいない。人生の宿題を思い出す。
 川端秀子が亡くなったのは、二〇〇二年九月九日。九五歳。その長命は川端康成が残した最強シールドであったといえば皮肉な言い方になるが、それはそれとして川端康成が示した愛のインカーネーションでもあっただろう。

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コメント

konokon_ponと申します。
Yahooの知恵袋に三島氏と川端氏の自殺に関していろいろ検索していたら、こちらのサイトにたどり着きました。
引用させていただいたのが、かなりの行数になってしまいましたので、当サイトの主催者様に事後になってしまいましたが、お知らせいたします。

もしよろしければ。ご意見も書き込みいただければ幸いです。
勝手に引用して身勝手なお願いですが、よろしければお願いいたします。
三島と川端の自殺に共通項は?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1488856029

投稿: konokon_pon | 2012.06.12 02:08

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