文化戦争かな
問題はカブトムシとクワガタムシにとっては里山の存続にあることは確かだし、いわゆる四点セットは疑似問題臭いのだが、まようするに世相を覆うこのもわっとした感じは何か。と沈んでいて思うことをなんとなく書く。
先日なんかのニュースで英国イングランドのシンボルを決めようという話を聞いた。英国というのは正式名はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandだから略してUK、というように国の集まり。国旗もね、三レイヤーズ。実際スコットランドやウェールズは財政とか言語の面でもかなり自治性が高い云々だが、さてイングランドはというと案外文化的な中心的なイメージはないらしい。クイーンがいるじゃないかと日本人などは思うが彼女こそまさにUnitedでありCommonな象徴だから一に除外。つうとロンドン塔かな。れいの二階建てバスは廃止になるらしい。現在そういうシンボルを公募中らしくそしてモンティパイソンの国らしく阿呆なシンボルも集まっているようでもある。
この話が波及したかわからないのだが、先日二十六日のオーストラリアデーにちなみオーストラリアでも文化的な同一性をどう見るかという話題が多少あったそうだ。そりゃそうかもしれない。キャプテン・ウルトラがバンデル星人から逃れてオーストラリアを発見したというのを建国記念日にされてもなというのが多文化主義の様相を深めつつある現状では異論もあるかもしれない……スターウォーズじゃないカルチャーウォーズということかも。
というあたりで昨今のもわっとした世相なんだが、これって日本におけるカルチャーウォーズということなのではないかとなんとなく思った。
ネットを引くとカルチャーウォーズ=文化戦争というのは米国の現代史の文脈で語られることが多い。じゃというわけで、英語のWikipediaを引くとある(参照)。六〇年代あたりからの背景をほのめかしつつあるが、実際は九〇年代の問題という印象も伺える。
The expression gained wide use with the 1991 publication of Culture Wars: The Struggle to Define America by James Davison Hunter. In that book, Hunter described what he saw as a dramatic re-alignment and polarization that had transformed American politics and culture.He argued that on an increasing number of "hot-button" defining issues - abortion, gun politics, separation of church and state, privacy, homosexuality, censorship - there had come to be two definable polarities. Furthermore it was not just that there were a number of divisive issues, but that society had divided along essentially the same lines on each of these issues, so as to constitute two warring groups, primarily defined not by nominal religion, ethnicity, social class or even political affiliation, but rather by ideological world views.
Hunter characterised this polarity as stemming from opposite impulses, toward what he refers to as Progressivism and Orthodoxy.
ふーんという感じだが、ここで言うCultureっていわゆる日本語の「文化」というのとはちょっと語感が違っていそうだ。日本人の感覚からすると、ここでは否定されているがむしろ「イデオロギー」に近いかもしれない。いわゆる多生活様式のCultureの広義があって、そこに国ごとの差異やイデオロギーの差異がごそっと放り込まれるようだ。ふと思うのだが、日本ではこうした文化戦争が常に左翼的な文脈で出てくるのは、米国が表面的にはマルクス主義を払拭したための別の表出なのかもしれない。
文化戦争で興味深いのは同ページのBattleground issues in the "culture wars"のほう。つまり、バトルの土俵というか形式はすでに決まっていると見ていいようだ。なるほどな。そこではもう思想なりというものは無化されて後はただバトルだヘイガニみたいな世界になっているのか、米国は。
というのが、実は、昨今の日本も同じことなんじゃないか。なんとなく世間の政治話題に見えるもは日本の文化戦争の形式として定着してきたということなのでは。
ちょっと話がずれるのだが、ネットというのはそういう文化戦争の場としてはある意味でそれまで戦後知識人のタブーを顕在化する方向で進み、それゆえにさらに日本における文化戦争を増長させてきたのでは。
そういえばくだらないネタなのだが某ハーフ女子アナの母親が在日ではないかというのがあったが、そういうネタが出てきたりネタにリアクトしたりというところで、日本対特定アジア的ないわゆる対外文化としての文化戦争の枠があるのかも……と思いきや、これは実は特定アジアというものが本質的・内在的に日本化してきたことの相互的な問題なのではないか。
くだらないネタついでにボケネタなのだが、朝鮮日報に”韓国で流通する「日本産コシヒカリ」、85%が偽物 ”(参照)という記事があり、首をかしげた。
韓国で販売されている「日本産コシヒカリ米」のほとんどが偽物であることが分かった。
農村振興庁は今月30日、「コシヒカリ」と表示され流通している27のブランドのコメを調査した結果、コシヒカリが一粒も入らない、国内品種米だけのブランドが13種にも及ぶと明らかにした。
また、国内品種米の占める割合が5つのブランドで98%以上、2つのブランドで95%以上、3つのブランドで75%以上となっており、調査対象の27のブランドのうち85%の23のブランドが、事実上韓国産のコメを日本産のコシヒカリと偽って包装販売していることがわかった。残りの4つのブランドも国産のコメが少量混入しており、100%のコシヒカリ製品は国内に存在しないことがわかった。
日本語で書かれているので「国産」をつい「日本国産」と勘違いしそうだがこれは韓国産のことなのだろう。で素朴な疑問。コシヒカリを誰が食いたいのか? 在韓日本人? 実態がよくわからないのだが、韓国人には日本産コシヒカリ食べたいなというという層がはっきりと存在するのではないか。そういえば、岡田英弘先生の講義に出ていたとき先生が雑談で、トルコの文化とギリシアの文化は同じですよと言っていたのを思い出す。ラクとウゾだ。ラクとウゾの違いが文化戦争でもあるのだろう。もっとも現在両国は現在はそういう次元にはいない。
文化戦争というのは極めて特定な同質性の文化の内部に起きる擬似的な問題ではないだろうか。靖国問題にしても騒ぐだれもが戦士の霊魂というオカルト的な実在を信じているかフィクションを共有している。しかし、キリスト教徒やイスラム教徒にしてみればそんな異教徒の霊魂なんかありっこないだろゴルァだろう。そこまで文化が違えば文化戦争も起こりえない。
というかヴェーバーのいう魔術(呪術)から解放された世界が近代ならそういう問題が起こりえないだろういうところに、実は各種の文化戦争とは魔術からの最後の復讐なのではないかな。
追記(2004.2.5)
イングランドをブリテンとした誤記を修正した。
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