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2005.02.19

しりしり

 久しぶりに料理の話でも。自分は無趣味な人間だが(笑うなって)、料理は趣味に近い。凝ったことはしない。紹介するのは、簡単な野菜料理だ。沖縄の家庭料理と言ってのだろう。しりしり、だ。専用のスライサー(卸し金)さえあれば簡単にできる。
 しりしりは、うちなーぐちで言うと、しりしりー、だろう。本土の言葉風にいうと、すりすり、だろうか。漢字を当てると、擦り擦り、かな。しかし、本土の「すり」が沖縄の「しり」になることはない。むしろ逆に、首里は「すり」に近くなる。しりしりは本土起源ではないのだろう。
 しりしりとは、同じく、しりしりと呼ばれるスライサー(卸し金)を使って、固い野菜を、千切りのように細く切り刻むことである。
 牧志を朝の十時ごろぶらぶらとしていると、道脇に座ったおばーが、青いパパイヤ(沖縄語では、ぱぱやー)を、丹念にしりしりしているのをよく見かける。そうでなければ、もやしの根切りをしている。沖縄の人は、もやしの根をきちんと取って食べる。え? うちなーんちゅだけどそうしてない? おばーにしかられるやっさ。
 おばーの使っている、しりしりスライサーは木製の板に千切りくらいにするカッターの金具がついたものである。沖縄の金物屋とかには売っている(かな)。たいていの沖縄のうちにはある。本土でも探すと、大道芸人のスライサー売り(最近見かけないか)のスライサーセットにも含まれているので、私はそれを使う。本土のはちょっと、しりしりあがりが細くなりすぎるきらいはある。
 先日ミューズリー(参照)の話を書いたが、スイスインフォ"健康食品のミューズリを食べましょう"(参照)にしりしりの話があって、驚いた。ヨーロッパでも使っているのか。


米国では1906年、ケロッグ兄弟がコーンフレークを発明。こちらは早速製品化され、今では売上90億ドルを誇る有名食品である。一方、ミューズリーは商品登録もなされず、ビルヒャーは「お金儲けは考えていなかった」とチューリヒ州立大学の医学史のエバーハルト・ヴォルフ氏。「唯一商品登録された彼の考案品は、りんごを擦り卸す金具の板だろう」と、ビジネスにはほとんど無縁に生涯を終えた。卸し金は日本の大根卸しとは違って、目が粗く、りんごは細切れのようになる。

 ミューズリの発明者ビルヒャー博士の特許はもう切れているのではないか、というのは冗談だが、なぜこれが沖縄でこんなに普及しているのだろう。アジア域でも使われているはずだが、確認せずまま、このところ旅にも出ていない。
 しりしりスライサーは、固い野菜を千切りに擦り卸すためのものだが、これが沖縄で絶対的に必要なのは、まず、パパイヤを食べるせいだ。言うまでもなく、パパイヤは沖縄では野菜だ。青く固いうちに食べる。パパイヤの生えているアジアのどこの国でもそういうものだ。グローバルスタンダードってやつ。だが、本土では通じないので、野菜パパイヤと言うこともある。これに対して、あの甘いやつがフルーツパパイヤ。沖縄人は、種類が違うのだと言う。たしかに、種類は違うのだが、試しに私も庭のパパイヤ(庭にはバナナもあった)が黄色く熟れるまで待って食べてみた。ほの甘い。そんなまずいものじゃない。喰えるよと、おばーに話したら怪訝な顔をされた。余談だが、ごーやー(ニガウリ)も黄色く熟らして喰うと中が赤く甘くなる。これは、昔のウチナーンチュはよく食べたらしい。
 で、パパイヤを擦り下ろす。素人にはそう簡単にはできない作業ではある。手を怪我しないように。擦り上がりの形状は金平牛蒡みたいでもある。これをフライパンに油をひいてくたくたになるまで炒める。どういうわけか、沖縄の人は、野菜でもなんでもくたくたになるまで炒めるのが好きなようだ。塩を振る。あらかた炒めあがったら、トゥーナーを入れる。トゥーナーというのは、本土でいうフレークのシーチキンである。トゥーナーの話は深入りしない。さらに炒めて、これで、ぱぱやーしりしりーのできあがり。旨いか? 旨くない。妊婦はこれをたーんと食わされる。お乳の出がよくなるというのである。パパイヤの汁が白く乳に似ているせいもあるのだろうが、消化を助ける働きもあるのだろう。
 パパイヤの料理といえば、八重山(やえま)の人の家を訪問したとき、生っぽいパパヤーのしりしりが出てきて驚いたことがある。サラダっぽい感じもある。「生?」と訊くと、湯がいてあるらしい。やえまではそうして食べることもあるそうだ。かかっている醤油の感じも、本島のとは違う。関西の薄口醤油に近い。これは、旨い。……と食っていたら、そうだそうだ、これってソムタムじゃん。タイ料理のあれである。タイからやえまに伝承したのか、この手の食べ物はこの一帯にあるのか、いずれにせよ、ソムタムと類似の食べ物だろう。
 野菜パパイヤは東京ではエスニック店などで売っている。雑草のように道脇からもいでこれる沖縄暮らしをしていたせいか、これって買うものか、という意識が先立って、なかなか買うことができない。
 やえま風ぱぱやしりしりに近いのは、大根しりしりだろう。大根をしりしりする。しりしりスライサーがなければ、金平牛蒡よろしく千切りにしてもいい。くどいが、しりしりは慣れないと手を怪我しやすいのでご注意。で、できた大根の生のしりしりにトゥーナーを混ぜる(ほとんど条件反射)、そして醤油を掛ける。それだけ。私は、トゥーナーではなく、ポン酢と醤油とカツ節のほうがさっぱりして旨いかなと思う。潰した梅干しと塩であえてもいい。フレンチドレッシングでもいい。なんかハーブとあえてもいい。
 本土の人にもお薦めしたいしりしりは、ニンジンしりしりである。ジンジンをしりしりする。油でくたくたになるまで、甘みが出るまで炒める。塩で味付けした溶き卵を掛けて炒め、ふっくらまとめる。卵の量はご自由に。仕上げにバターを使ってもいい。ウチナーンチュは炒り卵もくたくたになるまで炒めて、炒り卵まぶしみたいにしてしまうが、そこまでやるなって。にんじんしりしりは、上手に作れば、子供も喜んで食う(ただ、にんじんきらいな子には臭いを上手に処理する必要はあるだろうが)。三色そぼろのネタにもなる。
 もう一品。ジャガイモしりしり。ジャガイモの皮を剥く。包丁でやろうと気取らず、ピーラー使うが吉。これをしりしりする。しりしりしたら水にさらす。さらすこと10分くらいか。このプロセスが必須。そして、水をよく切って、油で炒める。塩とコショウで味を調える。別の作り方もある。最初にガーリックを炒める(参照)。そして味を整える。ベーコンのみじん切りを最初に炒めてもいい…ってそれってハッシュドポテトじゃん。そう、ハッシュドポテトだ。これって戦後沖縄に入ったのだろうか。ハッシュドポテトみたいに重く作らず、軽い感じで作ってマスタードをきかせてもいい。

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2005.02.18

三宅島第一次帰島から二週間が過ぎて

 読売新聞の短い記事"三宅島の新聞販売、4年半ぶりに再開"(参照)を読みながら、ちょっと物思いに沈んだ。なかなかこの問題については言及しづらいものがあるなと思う。しかし、だからこそ、ちょっと書いておこうかとも思う。まとまった意見ということではない。
 記事は標題通り、三宅島で読売新聞の販売が開始されたというもの。戸配ではなく商店での販売である。記事は自社宣伝みたいでもあるが、この島民の心情はわかる。


島内では、噴火前に唯一営業していた新聞販売店が再開しておらず、宅配も店頭販売も行われていなかった。帰島した人々の間では「新聞を読みたい」という要望が高まっていた。


 仕事帰りに立ち寄ったという銀行員中山洋さん(54)は、「活字が恋しくて、新聞が読めないのが寂しかった」と笑顔で話していた。

 私は沖縄の海辺を八年ほど転々と暮らしたのだが、当初は新聞など読みたいとも思わなかった。地域とのつながりができるとそのつながりから現地の新聞を買えのプレッシャーは来る。結局、ほとんど同じ論調にして同じ共同配信記事ばかりの二紙を取っていた。それはそれなりに面白いと言えないでもない。幸い低速の回線だがインターネットはできたし、NHKは受信できるので、本土のニュースや海外ニュースがわからないわけでもない。それでも、いつからか、なにか変だ、なんだろうと思ったのは、書籍の広告を見なくなったことだった。そう気が付いたら無性に本土の新聞を購読したくなった。書籍広告を見たいがためというとほほな理由だ。沖縄の僻地でも、本土新聞配達のためのなんとか会というがあって、でーじな金額を払うと本土の新聞を読むことができることがわかり、いろいろ手続きを進めたのだが、どんな理由だったか、結局頓挫した。そして、沖縄にはジュンク堂もない(あるわけもない)し、図書館も充実はしてないと痛切に思った。しかたがない。実家から一ヶ月分古新聞送れとでも頼んだが、リサイクルがどうので、それも実現しなかった。変な話のようだが、「活字が恋しくて、新聞が読めないのが寂しかった」というのは、だから、わかる。そして、読めるようになって、よかったねとは思う。
 三宅島住民帰島のニュースは概ね、そうしたよかったねと思うしかないように受け止めていた。幸いにしてか、報道もそういうトーンでまとめられていた。が、NHKの「あすを読む」で最新の三宅島の光景を見て私は凍り付いた。そして改めて過去のニュースを読みながら、二酸化硫黄濃度の減少が帰島のきっかけではないことを知った。災害の状況は"東京都公式ホームページ/三宅島災害情報"(参照)が詳しい。
 ではなぜ、この機に帰島ということになったのか。そのあたりは、ちょっと口ごもる感じがする。
 Yahooのテーマ別のニュース一覧に"三宅島火山活動"(参照)があり、各種の報道を経時的に読むことができるのだが、古い記事は少ない。むしろ、昨年11月28日の"避難島民が最後の交流集会 新潟の被災者に義援金も"(参照)からは、テーマは帰島が前提となっていく。その記事のトーンが、なんというのだろうか、あと三年後にこれを読んだらどう自分が思うだろうか、うまく言えない奇妙な空気のようなものを感じた。それはひとつには毎日新聞系の記事"三宅島帰島:「出征兵士を送る気持ち」 石原都知事、感想 /東京"(参照)にもつながる感じだ。石原都知事は第一次の帰島に「複雑で、うれしいと同時に戦争中の出征兵士を送るような気持ちだった」と述べ、こうつなぐ。

知事は「三宅は戦争ではないけど、決して正常な環境状況じゃないですからね。そこにいて慣れたつもりで、慣れることでどんどん体が侵食されなければいいと思うし、とにかく火山ガスが一刻も早く止まることを望みます」と話した。

 毎日新聞としては戦争を暗示させる石原都知事を揶揄したい思いも込めているのかもしれないが、私にはむしろ、率直に石原都知事の思いがうまく伝わった。そして、その先は、どうしても言葉にはできなかったのだろう。
 二週間が経過し、島民の暮らしはどうか。共同"居住地域でまたガス注意報 三宅島、村民マスク着けず"(参照)が興味深い。

 9日午前8時半、伊豆諸島・三宅島(東京都三宅村)南西部の阿古地区で、二酸化硫黄濃度が2・0ppmを超え、三宅村は火山ガス注意報を発令、村民らにガスマスクを着けて室内に入るよう呼び掛けた。1日の避難指示解除後、居住地域での火山ガス注意報は7日に同じ阿古地区で発令されたのに続き2回目。
 阿古地区では7日と同様、ガスマスクを着けずに歩く村民らの姿が見られた。その一方、民家に片付けの手伝いに行く途中だったボランティア6人は、午前10時40分に注意報が解除されるまで、錆ケ浜港の定期船待合所内に避難した。

 皮肉ではなく、ある意味、それは、いわゆるガスとの共存ということでもあるのだろう。そして、釣客もある程度は見込めるのではないだろうか。サンスポの記事"まず島民の生活復旧を…三宅島避難解除から2週間"(参照)を読むとそんな期待も浮かぶ。
 帰島への政策転換の過程を東京新聞"追跡・三宅島災害"(参照)や他の過去ニュースで見ていくと、時系列としては、昨年の今頃行われた村長選挙が大きな節目だったのだろうと思われる。長谷川鴻(参照)前村長は、昨年、体調不良を理由に七月までの任期満了を待たず一月に辞職し、この辞職を受けて出馬を決めた元村復興調整担当課長の平野祐康氏(55)が当選した。もちろん、この村長交代が、帰島の政策転換のためだっただけとは言えないことは、平野新村長の得票状況などからも察せられる。
 平野新村長には今後も大きな課題が課せられていることだろうと思う。それがなにかとは言いづらい思いがあるし、そこを祈りに換えたい気持ちにもなる。

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2005.02.17

結局、京都議定書ってどうよ

 三回シリーズでお届けする京都議定書をどうするだが…ってシリーズにする気もなく、原油ピークアウト説のネタでもと思ったのだが、一昨日「ブルガリアといえば、ヨーグルト、琴欧州勝紀、そして…」(参照)でグリーン投資スキームを看板とした企業の奇怪な動きに簡単に触れ、昨日まさに議定書発効日に「環境税(温暖化対策税)はしばらくやめにしたらどう」(参照)を書いてみて、心に残るものがまだある。というか、考えが少しずつ変わりつつある。そのあたりを書いておきたい。結局、京都議定書ってどうよ、ということでもある。
 私は、すでにこのブログの過去の論調でもわかるように、京都議定書なんてくだらないと思っていた。最大の理由は、地球の気温変動は小賢しい人間の仕業なんぞに左右されるものではない、まして、最大の温暖化排出国である米国と中国が含まれていない国際協定になんの意味もないと考えていたからだ(米国は州単位で環境問題に取り組んでいる)。そして、この環境テーマはEUの世界戦略に関係しているのも、笑い飛ばしたい一因でもあった。
 しかし、率直に言って、考えは変わりつつある。一昨日、昨日と、どちらかというと、グリーン投資スキームや環境税に批判的なスタンスでいたのだが、いや、これは肯定的に考えるべきか、という思いが強くなってきている。温暖化ガスの抑制は地球に対して微々たる影響力あっても、無視できるわけでもないと言えるまでに研究が進んでもいるようだ。
 そして恥ずかしいことだが、私は、自然に対して倫理的でありたいとさらに願う気持ちが強い。いや、そう言って、すごいこっぱずかしい。だが私は多分ヒューマニズムを越えていけないように古風な自然愛好の心情を越えてはいけないのだろう。あと何年この地球にいられることやら。そしてさらに個人的なことだが、好きだった沖縄でも、八年の後東京に戻り、その関東の雑木林や河川の土手などを歩きながら、この自然が自分を育ててきたのだ、これに守られてきた子供だったのだと感慨深く思った。もちろん、沖縄にも自然がある。でも、自分の自然とはこういうものだったのだと強く思った。感傷域になりそうだが、特に松の木の衰えには泣きたい気持ちになる。
 ま、それはさておくとしても、京都議定書に取り組むというより、それを一環としたある倫理的な生き方をしたいと願う人が増えてきてもいいだろう。現代は、個人の美学は個人の勝手で許されるというか罵倒されるが、倫理的な生き方については、ナショナルなものしか見えなくなりつつある。が、それは違うと私は思う。日本ナショナルなものは、日本の自然とその自然を育てた伝統の後から来るものだろう。
 で、京都議定書なのだが、わかりやすい問題点は、1990年を基準にあと8年ほどで6%削減するはずが京都議定書採択後7年で8%増え、結局、14%削減が迫られるということ。つまり、現状の努力では、常識的に考えても無理がある。なので、とてつもない産業構造の変換とライフスタイルの転換が求められるはずだ。
 日本で温室効果ガスを排出している最大のセクターは言うまでもなく産業部門なので、京都議定書を推進していくには、当然、そこが改善されなくてはならない、と私は考えていた。当然、これは、産業界からは反発があり、その反発は、昨年時点までけっこう稚拙なものだった。現在、実際に議定書が発効され、産業界はどう考えているのか。
 昨日の時点では、その代表ともいえる日本経団連のアナウンスが読めなかったが、今朝は公開されている。15日付の"地球温暖化防止に取り組む産業界の決意"(参照)がそれである。ポイントは実際的な削減見込みが成立しているかということだ。


昨年11月に発表した2004年度のフォローアップ結果では、2003年度のCO2の排出量は1990年度比で0.6%の減少となり、2010年度のCO2排出量の伸び率を1990年度比±ゼロ%以下に抑えるとの目標を4年連続で達成することができた。主要業種の見通しをもとに予測した2010年度の排出量も1990年度を下回る見込みであり、各業界が推進中の様々な対策を着実に実行すれば、目標は十分達成可能である。

 これはまとめ部分なので詳論ではないが、概ね、これは正しいだろう。つまり、産業セクターでは現状の努力で「1990年度比±ゼロ%以下に抑える」ことが可能であるということであり、もう一つの側面はその程度しか削減できないということでもある。ドイツの大幅な削減と比較するとあと二歩踏み込んだ対策が必要になるだろう。が、EU全体でみればドイツが例外なのであまりそういう議論もどうかとは思う。具体的に今回のアナウンスでそのからみで問題となるのは、次の点だろう。

環境税や経済統制的、規制的な対策には強く反対
 政府は国民や企業の自主的な取り組みを促すような施策を温暖化対策の中心とすべきであり、個人や企業の自由な活動を阻害する管理型の施策をとるべきではない。
 欧州等の他国の政策を先進的とみなして、無批判に後追いしてはならない。わが国はすでに世界最先端の省エネ国家を実現しており、産業部門の追加的な限界削減コストの大きさや、米国やアジア諸国とのグローバルな競争の激化といったわが国の実情を十分に踏まえた政策が求められる。
 環境と経済の両立への配慮を欠き、持続可能性のない一時しのぎの政策は、国民や企業の理解を得られないばかりか、産業の海外移転や輸入の増大により地球的規模での温暖化問題の解決にかえって逆行する。
 
1.環境税には強く反対
実質的な企業課税となる環境税は、わが国産業の国際競争力に大きな影響を及ぼすばかりでなく、産業界が更なる温暖化対策を進める上で不可欠な、研究開発や設備投資の原資を奪うものである。
温暖化対策予算としては、毎年1兆円を超える予算が充てられており、財源を新たに求める必要はなく、既存予算の効果的・効率的活用を考えるべきである。
 
2.わが国の実情にあわない国内排出量取引制度
本年EUで導入された欧州排出権取引制度(EUETS)は、域内貿易取引が太宗を占める欧州企業を対象とする制度であり、また中東欧諸国などに排出量の削減余地が大きい企業が存在するなど、日本とは異なる事情の中で成立するものである。
 そもそもキャップ・アンド・トレード型の排出量取引制度は、実質的にエネルギー使用量を政府が決定・管理するものであり、公平な制度構築は不可能である。またわが国企業の削減ポテンシャルを考えても認められるものではない。

 環境税の認識も間違っており、排出量取引制度を国内で反論しながら海外に推進していくという矛盾などがある。いずれにせよ、こうした未熟な議論はあたりはいずれハンマーアウトしていくしかないだろう。つまり、産業セクターの根幹を改革しなくてはならなくなる。ただし、経団連懸念しているように、場当たり的な政府にそれができるのかという不信感があるのだろうし、そこが大きな問題だとは思うので、早急に産業界に変革を期待すべきではない。
 問題はあるとしても、産業セクターは概ね見通しがあると見ていいだろう。とすると、やはり民生・運輸のセクターが大きな問題となるというスジは正しい。経団連の言葉を借りるとこうだ。

翻ってわが国全体のCO2排出量の動きを見ると、1990年度比で民生・運輸両部門のCO2排出量は20%~30%と大幅に増加しており、両部門の対策強化が京都議定書の目標の達成に向けた最重要課題となっている。

 1990年からのセクターごとの排出の変動を見ると、特に大きいのは、運輸のセクターだ。やっかいだが、ここにかなり大きな変革が求められる。民生のセクターは、端的に言って、現状より消費を縮小させるわけにはいかないので、むしろ、公的な部門をさらに縮小することが先決だろう。と、ブログのネタとしてはつまらない話になりつつはある。
 1990年からの生活の変化として私の生活感として変わったなと思うのは宅配だ。最初に言うが、宅配が悪いというのではない。むしろ、宅配は消費側からはコストゼロにしなくてはいけないとすら考えている。今後さらに消費のメインストリートに出てくるはずの通販でボトルネックになるのはそこだからだ。しかし、宅配を含めた運輸の全体像はどうなっているのか、そこは気がかりだし、私もそこをこれからワッチしていこうと思う。
 話を戻して、どうしてこんな議定書を追米というか事実上米国占領下にある日本が率先して採択したのか疑問でもあったが、先の産業セクターの努力を見ていて、当初は、軽い気持ちだったのだろうなと思うようになった。
 結果としてこの問題を放置したために、14%削減という数値が浮上したのだが、当初は6%削減でしかなかった。しかも、この6%の内、3.9%は森林吸収、1.6%は対外的な排出量取引と見ていた。これだけで5.5%になる。残りの0.5%が、日本国民の生活面と産業界の努力に課せられていた。そう、たった0.5%の話と甘く見ていたのが、ヤミ金融の金利みたいに14%に膨れてしまったのだろう。
 そう考えると、京都議定書の問題というのは、年金問題などと同じように、責めるようだが官僚のシミュレーションの甘さと無責任さが国民にじわっと広がったのと同じ構造にある。タメのようだが、ドイツと比較すると、政治の不在でもあるのだろう。
 で、結局、京都議定書ってどうよなのだが、産業セクターは大きな節目であと数パーセントの削減が迫られ、残り、民生・運輸のセクターではまず、政策的な転換による大幅削減、そして、実際に国民の努力がそれに続くのだろうと思う。そして、そこにどう環境への個人の倫理性が旧来のイデオロギーに収斂されず起立しえるだろうかが課題になる。
 これから日本は人口が縮退化し、さらに産業構造としても温暖化ガスをばかばか出す一次産業が伸びていくわけでもない。それらが大きな、産業全体の縮退の圧力となり、結果として温暖化ガス削減にも援軍とはなるだろう。

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2005.02.16

環境税(温暖化対策税)はしばらくやめにしたらどう

 というわけで、今日、めでたく、地球温暖化を防ぐための京都議定書が発効した。で、どうしようか。問題は、けっこう深刻に見える。というのも、温室効果ガスの排出について、日本は、3年後の2008~12年の5年間に、基準となる1990年に比べ、6%削減が求められている。だが、2003年度時点では8%増加していた。つまり、あと8年以内に温室効果ガスの排出を14%%も減らさなければならない。これまでも努力してきたのにそんなことが可能なのか? ざっと考えても、日本の社会の根幹部分で変更が迫られることになる。
 で、こうした大問題があるとあらぬ方向に火の手があがるものだが、その一つの動向は昨日の極東ブログ「ブルガリアといえば、ヨーグルト、琴欧州勝紀、そして…」(参照)でふれたグリーン投資スキーム看板下の企業の奇怪な動きだ。おちゃらけで書いたがまず笑っちゃうしかないでしょ。
 もう一つの爆走が環境税(温暖化対策税)だ。え? 環境税の何が悪いのか? 温暖化対策の一環として欧州ではすでに導入されているではないか。しかし…。
 いろいろ考えてみたのだが、単純に反対はできない。また、現状、日本政府がこの問題についてどこに向かっていくのかもよくわからない。時事的には財務省側では"環境税は全体の政策の中で位置付けて議論=京都議定書発効で谷垣財務相"(参照)では今後の課題としている。


谷垣財務相は、閣議後の記者会見で、温室効果ガス削減のための環境税について、「税の観点からだけ考えるわけにはいかない。京都議定書達成のための基本計画をこれから作成する。全体の政策の中で税をどのように位置付けていくかの議論だ」と述べた。

 言っていることはとりあえず正論。環境税は税の観点からだけ考えるわけにはいかないものだ。
 いくつか原則がある。第一に通常環境税は石油など温暖化ガスを排出を抑制するという意図がある。こうした税による使用の抑制としては、たとえば、欧米などではたばこは有害なので国民が吸わないように重税にしたところ喫煙者が減ったことなどがある。しかし、日本のガソリン価格がいい例だが、リッターあたり二、三円上がってもほとんど意味がない。昨年後半からの原油価格の高騰にもほとんど動じないほどの事実上の重税が課せられている。また、まさに原油価格の高騰などでこうした税は抑制という面では見えなくなる。ま、どさくさで税金取っちゃえというなら話は別だ。
 第二に、その税収がどう使われるのか。これは、端的に、どのように温暖化ガスの抑制に効果を持つのかが、見えない。誰か見えている人がいるなら教えてほしい、まじで。少なくとも、その税は、環境対策の施策の全体のなかで生きるものだが、日本では欧州に比してそういう政策はまだ存在してないとしか見えない。
 第三に、先の点にも関係するのだが、税制中立という題目だけではないにせよ、ドイツの例をみても環境税は税のための税ではなく、例えば企業への課税としても社会保障面でのバーターの援助にもなっている。だから、総合してみれば、減税とも考えられる。というか、そういう方向がまず打ち出されなくてはならない。でも、そうではないのだろうというあたりが、経団連の反応からわかる。
 話を経団連の動向に移すのだが、これはもう一年以上前だが"「環境税」の導入に反対する"(参照)という面白い意見書を出している。アウトラインはこうだ。

1.「環境税」は本格的な景気回復に水を差し、産業活動の足枷となる
2.国内空洞化を促進する一方で地球の温暖化をかえって進行させる
3.エネルギー課税は既に過重である
4.自主的取り組みを尊重し、実効ある民生対策に取り組むべきである
5.全ての国が参加できる新たな枠組が不可欠である

 一見すると真面目なように見えるが、読むとちょっと笑える。というか、一昨年の時点ではまだこんな呑気なものだったのだろう。単純にいえば、まるで環境問題が理解されていない。
 余談にそれがちだが、類似の頓珍漢は今朝の産経新聞社説"京都議定書発効 新たな国際体制が必要だ"(参照)にも見られる。

 日本の〇三年度総排出量は九〇年比8%増で、日本の義務となった6%減には14%の削減が必要になる。政府は従来の温暖化対策の評価・見直しを行い、近く「京都議定書目標達成計画」を策定する。だが「乾いたタオルを絞る」ほど省エネ努力をしてきた日本にとってこのハードルは厳しい。
 産業部門にはさらに削減を求められるが、排出が急増している運輸・民生(事務所、家庭)部門が一層の省エネ対策を担うべきだろう。風力や太陽光など自然エネルギーの比重を高めるべしとの論もあるが、効率や供給量、品質など不安材料は多い。やはり高度情報化社会を支えるのは原子力エネルギーであると認めねばならない。

 ぷっと吹いてしまうのだが、排出の最大のセクターである産業部門の抜本的な転換こそが問題なのだが、産経新聞はまるでわかってない。ホリエモンなんとかしてよ。また、「排出が急増している運輸・民生(事務所、家庭)部門」とまとめるのもなんだかなだではある。民生部門では産経には素敵な奥様くらいの発想しかないのだろうが、むしろ重要なのは、省エネ装置の買い換えの強い行政的なインセンティブだろう。さらに公共部門での構造的な省エネ対策が必要になるのだが、そのあたり、運用の問題(蛍光灯をこまめに消すんじゃねー)とシステムの問題(採光の見直しと、省電力照明にしろよ)が理解されづらい。運輸はけっこうな問題だが、このあたり、ディーゼル問題で日本国民がいつまで騙されているかでもある。ま、この手のディテールはいろいろある。
 いずれにせよ、繰り返すが、産業のセクターが大きく変わらなくてはならない。だが、ここで、多少、私も譲歩して考える。昨日の経団連のアナウンスは気がかりだ。オリジナルがまだ経団連のHPにないので日経の記事"経団連、温暖化防止で政府統制の排除求める"(参照)を引用する。

日本経団連は15日、京都議定書の発効を前に「(環境税など)経済統制的な温暖化対策には反対」とする文書を発表した。温暖化ガスの削減目標を定めた自主行動計画が効果を上げ、「産業界の2010年度の温暖化ガス排出量は1990年度を下回る見込みだ」と指摘。経団連が業界や企業への働き掛けを強めるとして、政府には企業の創意工夫を引き出す施策を求めた。

 重要なのは、「産業界の2010年度の温暖化ガス排出量は1990年度を下回る見込みだ」というのがどう科学的に裏付けられているかだ。だが、これまでの推移を見ると、また、この記事の後半を見るに、どうも、ハズシっぽい。
 しかし、経団連の言い分にも理があるようにも多少思う。というのは、エントリを起こすにあたり、14%削減!というスローガンの実態をデータや、日本の温暖化ガスの排出状況の他国との比較を見たのだが、これって年金問題やヤクザ問題みたいに手が付けられない問題ではなく、まだなんとかなる範囲にも思えた。というか、日本人は、まだまだ大丈夫なんじゃなか、と、印象を書くようだが、このあたり、14%増というスローガンと怪しい爆走を冷静に見直していいように思える。

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2005.02.15

ブルガリアといえば、ヨーグルト、琴欧州勝紀、そして…

 ブルガリアといえば、ヨーグルト、琴欧州勝紀、そして……あまり思いつかない。身近な人間にも訊いてみた。「ダイヤモンドの加工品がいいのよ…」とのお答え。あ、そこでストップ。話は、そっちの方向ではなく、明日発効される京都議定書のことなのだ。
 地球の平和を守るため、みたいな、地球温暖化を防ぐため、と言われる京都議定書が明日16日、発効する。今朝の朝日新聞社説の言葉を借りれば「気候変動枠組み条約が生まれて13年、京都会議で議定書が採択されてから7年がたつ」とのことだが、議定書については最初から米国を抜いてロシアが入れば発効できるようにしくんだため、プーチンが「こ、これは使えるじゃん」とかえって日和らせる材料になってしまった。
 その間、欧州では温暖化防止の施策が進んだ。特に、ドイツ。緑の党もけっこうまともっぽくなった。まったくドイツって国は目標が決まるとなんでもやってしまうのか…ということでもないのだが、実質後進国だった東ドイツを吸収したことをこればかりは好機にして、二酸化炭素排出量が少なく制御できたようだ。京都議定書もクリアできる模様。他、前世紀に戦争経験がなく市民社会がヨーグルトみたいに発酵してんじゃないかぁの北欧などでも、進んだ。
 で、なぜブルガリア。そうそう。ブルガリアが環境対策の先進国か、ということはない。むしろ問題は日本だ。日本は、京都議定書の枠組みでは、1990年の二酸化炭素排出量(約11億トン)を基準として、第1約束期間である2008年から5年間で温室効果ガスの平均排出量を6%削減すると約束した(内、森林による吸収が3.9%)が、お立ち台、じゃない、お立ち会い、1997年に9%を越えた。え?である。いやいや、日本だって努力はしている。2003年には8%になった。やったぜ、1%も減った。あと、14%減らせである…虚しい。ダメじゃんである。見込みなし。
 少なくとも現状の努力の継続では無理ということは判明した。2008年といえばあと3年。そこから5年で14%がくんと減量するにはアトキンズダイエットしかない…というような妙案はないか、じゃなくて、マジ、すげー産業構造と生活のあり方を変えなくてならない。
 で? いや、全然どうしていいかわからない。今朝の朝日新聞社説"議定書発効――地球守る「百年の計」を"(参照)でも標題を見てもわかるように、あと数年先の未来を百年後でいいじゃんにしている。戦中の朝日新聞みたいに戦争イケイケというのも困ったものだが、最初からこんなとほほでいいのだろうか。ま、もっともおやびんの中国が環境問題に関心ないしそのあたりをぼかしたいという意図もあるのかもしれない。それに憎き米国だって京都議定書を離脱しているし、と。


 しかも、米国は議定書から離脱し、ブッシュ大統領は、復帰することはないと明言している。最大の排出国である米国が「中国やインドなどへの義務付けがない」と反発し、2位の中国は「まず米国など先進国が義務を果たすべきだ」と言い返す。これでは限界がある。
 2010年には、両国で世界の二酸化炭素排出量の37%を占めるとの試算もある。ちなみに日本は4%弱だ。第2期は米国のほか、中国などにも何らかの規制の網を広げる手立てが欠かせない。

 って問題は足もとの日本なんだけど。と、その点は昨日から前編後編のスペクタクルにしている日本経済新聞社説がちょいマシ。今朝の"京都議定書発効(下) 温暖化防止で日本モデルを世界に示せ"(参照)ではこうまとめている。

 目標達成に向けて大事なことは、環境という価値を経済にしっかり組み込み、市場メカニズムを活用して排出削減が加速される仕組みを早急につくりあげることだ。排出削減すれば経済的価値が生み出され、削減できないのなら経済的な負担を強いられる。こんな仕組みでおのずと温暖化防止が進む社会をつくりあげなければならない。

 なーんかはどうでもいくてぇ…。要点はこっち。

 政府は地球温暖化対策推進大綱を練り直し、3月にも京都議定書目標達成計画をまとめる。あいまいだった大綱の政策は、計画への切り替えでもっと具体性を持たせて個別に達成すべき目標を明示し、実効性のあるものにすることが必要だ。日本は議定書の行方を模様眺めしていたから、経済的手法を取り入れた制度づくりが遅れており、その整備も急がなければならない。
 例えば「排出権取引」は、産業界が排出枠設定を嫌って国内制度は未整備のままだ。日本経団連は自主行動計画で業界ごとに目標を設定、排出削減に取り組んでいる。しかし目標が達成できなくても、ペナルティーがあるわけではない。最終的に勘定合わせが不明朗にならぬよう、排出枠を設定して透明性の高い取引制度で削減を進めるべきではないか。

 具体的に施策として「排出権取引」はどうよ、と。
 で、ブルガリアはどうした? そうそう。ブルガリアと日本は国家間の枠組みとして、初めて排出権取引が合意されている。つまり、ブルガリアから温室効果ガスの排出権を日本が買い取り、ブルガリアはその代金で省エネルギ投資を実施しすることで温室効果ガスを削減するというわけだ。公式文書は官邸HP"日本国とブルガリア共和国とのパートナーシップに関する共同声明"(参照)にある。

16.双方は、京都議定書が、気候変動に対する国際的枠組みの強化において極めて重要な要素であることを認識しつつ、京都議定書の下で、共同実施及び排出量取引において日本の民間部門も参加した二国間協力に対する期待を表明した。

 これだけじゃよくわかんない。より詳しくは国際協力銀行"ブルガリア共和国政府と京都メカニズムに関する協力に合意~初めての共同実施(JI)における協力~"(参照)を一読されたし。
 ま、そういうわけだが、ようするにこれがグリーン投資スキーム(GIS:The Green Investment Scheme)(参照)というやつだ。
 簡単に言うと、ブルガリアは現状、おめーなんかまだEUに入れるわけにはいかないよ~んとされているのを日本が目を付けた。チャンスじゃん、ブルガリアは京都議定書の目標値をかなり下回っているから、ね・ら・い・目である。
 さすが日本、お目の付け所が違いますな、というのも、実際のところ、以前なら、資源もない国なんか相手にしなかった日本だけど、言っちゃ悪いけど、夢があり若く貧しい人間だけが革命を担えるのであるという毛沢東主義みたいに、貧乏未開発国それが君たちの資源だみたいなことになったわけだ。しかも、省エネルギー関連設備の導入や建設事業に日本の企業が参入できるってウマ~である。
 というわけで、ブルガリでうまくいったら、次はロシアだ。バイカル湖まで進めぇって違うか。お商売、お商売。でも、南進策もあり。南方の国の島国にどかーんと原発でも作ってやっかぁ! 
 おっと、それじゃ、政府も業界も作っておかなくては納豆、というわけで、日本温暖化ガス削減基金(JGRF:Japan GHG Reduction Fund)もできました(参照)。なんか、それって、スジ、違ってねとか思うけど、それはそれとしてウォッチ。なにもそれだけで悪いっていうものもない。ただ、本筋とは違う。
 本筋の国内の二酸化炭素排出削減は…ということだが、なかなかそこに行かず、環境税へとなんかスジ違いかも話はまだ続くのだが、このエントリはここまで。

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2005.02.14

ヴァレンタイン・デー…起源を知れば、いー感じぃ

 クリスマスは冬至の祭である。建国記念の日は春節である。ヴァレンタイン・デーについてははっきりとはわからない。でも、こんなところでしょという、お話を書いておこう。
 ヴァレンタイン・デーの起源について、歴史家は概ね古代ギリシアのゼウスとヘラの婚礼月(ガメリオン)に由来すると見ている。ギリシア文化をパクった古代ローマでもこの月を婚礼の月と呼んでいたようだ。そのあたりから、現在のヴァレンタイン・デーに関連付けられたのだろうと思われるが、実際にこの日がカトリックの聖者ヴァレンタインに関連づけらたのは欧州が中世に入ってからのことで、カトリックとしてもこの日は聖ヴァレンタインを祝う日とはしていない。つまり、これについては異教の祭としているに等しい。
 ヴァレンタイン・デーが古代ギリシアに由来するとしても、14日という日付についてはギリシア文明には直接遡及できそうにもない。ギリシアのヘラ神、またそれをパクったローマ神話のユノ神を祝う日とも言われるが、その翌日15日、古代ローマではルペルカリア祭として豊穣の神ルペルクス(Lupercus)を盛大に祀るので、おそらくこちらが実際の起源なのだろう。
 ルペルクス神は、神話学ではファウヌス(Faunus)神と同一視されているというか、エイリアス(別名)のようだ。ファウヌス神は、二月(如月)を表す英語Februaryの語源になっている。つまり、二月はファウヌスの月という意味だ。
 余談だが、Februaryの発音は、つい字面に引かれて「フェブラリー」みたいに発音する日本人が多いが身近に生粋の、頭はいいけどつまりちょっとたらんかな的な米人がいたら発音させてみると面白い。彼らは「フェビュラリー」と言うはずだ。この字面の発音は米音ではできないのである。

cover
火の鳥
冨田勲
 ファウヌス神はローマ神話に取り入れらているが、直接的には、エトルリアの神話に由来するらしい。ローマ人はその言語であるラテン語も古典ギリシア語をパクってつくったほど表面的にはギリシア文明を継承しているが、こうした傾向は一種の劣等コンプレックスみたいなものではないか。現在日本人は呑気に「ローマ字」と言っているが、このアルファベットも、もともとギリシア文明に精通していたエトルリア人を経由してローマ人がパクったものである。エトルリア人とその文明にはいろいろ謎が多いが、そこまで余談に突っ込むわけにもいかない。
 エトルリアの文明に由来すると見られるファウヌス神だが、おそらくこの神はエトルリア起源というより、古代ギリシア文明の神話に由来するものだろう。ギリシア神話では、この神はパン(Pan)神として知られている。トリビア的な話をすると、日本語にもなっているパニック(panic)は、パン神が引き起こすとーんでもねーことというのが語源だ。そう、パン神はけっこう碌でもないことをするというか、ま、そんな感じなのである。その感じはこういう感じだ。
cover
 パン神は、上半身は人間だけど下半身は山羊で、角と蹄をもっているアレである。明治時代の日本の文学者たちはこれを「牧神」とか訳している。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」はステファヌ・マラルメの詩「牧神の午後」に由来するが、これだね。と書いたものの、こんなふうに芸術的な文脈で書くと気高いおフランスみたいに誤解されるが、実態は、違う。どう違うのか…といい解説の絵はねーかなと、ぐぐると。"ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲 :小林Scrap Book"(参照)が大変によろしい。リンク先の絵をよくご覧あれ。これだ。ふっ、ふらちなぁ、というのが牧神の基本イメージなのである。Wikipediaにもよろしい写真があったので貼っておく。クリックすると気になる部分がもうちょっと大きく見えるはずである。
 話がヴァレンタイン・デーからすごく離れてしまったみたいだが、いやいやそうずっこけて書いているつもりはない。要するに、ヴァレンタイン・デーの本質はパン神のこの、いー感じぃ、なのである。なにしろ、上半身は人間だけど下半身は山羊である。うちなーんちゅなら、ヒージャーやっさである。食ったら慌てて冷水を飲むなである。
 というわけで、チョコのネタもちょっと考えていたけど、それはパスしよう。日本や米国のチョコレートは最近では、vegelate(ベジレート)と言われるらしいってな話などは、別の機会にでも。

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2005.02.13

[書評]オレさま・ワタシさまってやつは(藤臣柊子・青柳和枝)

 この本、一言で言えば、DV(ドメスティックバイオレンス)を内側から、女の側から見た本である。すさまじい。私のように男の側で見るなら、自慢でもなく私は吉本隆明みたいにDVとはとんと縁もなくマイバッグを下げてスーパーに行く男なのだが、が、それでもこの本に描かれているダメ男に、男というものの情けない本質がこれでもかと描かれていることを了解する。ああ、男というのはこういうもの。

cover
オレさま・ワタシ
さまってやつは。
 この本面白いのか? 文句なく面白い本である、とは言えない。広く社会に読まれるべき本、とも言えない。教養人なら読まないと恥ずかしい本だとは、さらに言えない。ただ、私はこの本を繰り返し読んだし、また読むだろう。一種の奇書だし、文学を越えるもののようにも思う。というか、私にとって文学というのはこちらの方向を向いたもので、昨今の愛を称えて涙する系はちょっとパスしたい。
 なんとなく最近の大衆書の方向は純愛っていうのか、そっちに向いているし、このブログを始めたころからいつかこの本について書こうと思ってたものの、空気を読めみたいになんとなく機を逸してきた。その内、どうやら絶版になったようだ。でも、おかげでアマゾンから古書で安く購入できる。それと、電子書籍のパピレスでもダウンロード販売をしている(参照)。たぶん、電子化に合わせて書籍を潰したのだろう。
 DVだけに特化すると重くてどうしようもないこともあるのか、藤臣柊子のマンガが入っている。マンガの入り方は、一応この本のコンセプト、つまり、自己中心的な「オレさま・ワタシさま」ってこうだよね、という感じである。藤臣も鬱を抱え、離婚経験などもあり、もうちょっと深いところが描けるんじゃないかと初読で思ったが、ま、そういうものでもないだろう。話は、ようするに、青柳和枝の壮絶なDVの再婚生活の実録だ。
 青柳和枝は1958年生まれというから私より一つ年下だが、書籍には生年がないので、私は自分より二三歳上かなと思っていた。高校生にもなる大きな娘がいるせいもあるのだが、考えてみたら、同じく一つ年下の日垣隆を思うまでもなく、私なんぞ大学生の娘がいてもおかしくない。というか、大学時代の恋愛でそのまま結婚していたら、あるいは社会に出たときのなんかの幸運でやけっぱちな結婚をしていたら…とあれこれ思う。私と限らず、私の周りでも同じようなものだ。30歳ちょっと過ぎた当たりで、一群はばたばたと離婚した。私は青春時代にひどい恋愛をしたし、人生もうお終いと思っていた(ま、今でも)ので、ある意味山本夏彦のように死びとのように世相を見ながらも、30代は若さもあるので云々、という次第だった。私の話などどうでもいいのだが、青柳が出会う男は、ある意味で、そんな私のような男だったなと思う。
 彼女はこう物語を始める。

むかしむかし、あるところに、
結婚はもういいわというオンナと
結婚にたいしてくたびれてしまったオトコがいました。
ふたりはもともとの知り合いで、
たまに食事をする友だちでした。
半年ぶりに会って食事をしたとき、
オトコは勤務先が倒産し、無職でした。
オトコは、日本をベースに、
いろいろな国を放浪して生きていきたいと思っていました。

 で、同じ仕事をしながら、「一時の感情でもりあがって結婚する歳じゃない」けど、暮らして見みようと思うようになる。

オトコの言葉に納得したオンナと子供は、
家族というかたちを取って、
いっしょに暮らすという選択をしました。
そして仕事も、生活も、何もかもいっしょの毎日が始まりました。
どこにもあるような、
ごく普通の、家族というかたちで。
しかし。
ひとつだけ違っていたのは、オトコはオレさまだったのです。

 もちろん、「オトコの言葉に納得したオンナ」というのは欺瞞だろう。また、生活が破綻していく理由が「オトコはオレさまだった」からとして、どこにでもある家庭がうまく行くというわけでもない。もちろん、ここでアンナカレーニナを引用する趣味もない。
 男の側からみると、これは、やっていけないという感じの共感もある。そのあたりが、DVというふうに総括していいのかわからない。家族幻想が問題なのだというようなインテリ様はさらに邪気退散でもある。
 目次の引用というのもまぬけだが、なにかとこってりとトピックがある。

オレさまはお金がお好き
好み・センスも、オレさまが一番
記念日だってオレさま・ワタシさま
オレさまは食にこだわる
電話の回数がオレさま指数
オレさま攻撃は弱い者へ
内ヅラと外ヅラのギャップ
ひどいことをしたあとは、やさしいオレさま
オレさまスイッチの入り方
なにかとモノに八つ当たり
オレさま・ワタシさまの必殺だんまり作戦
殴るオレさま・暴れるワタシさま
実は依存体質のオレさま・ワタシさま
キレるオレさま・ワタシさま
オレさま・ワタシさまの最終手段

 と、話はある種の痴話でもあるのだが、実は、なにげない伏線がはってあって、最後のエンディング(最終手段)に向かっていく。「電車男」とはまったく逆の、爽快感というのでも脱力感というのもないのだが、インパクトがある。でも、スポイラーはしないことにしよう。いくつかのクライマックスを引用するのもやめとこう。なんとなく、これって映画にしたら面白いかとも思うが、見る人は少ないだろう。
 アマゾンの読者評をなにげなく見ていたら、こうあったのが印象的だった。

結局、ワタシもその後離婚しましたが、同じ悩みを抱えてるひとには、この本を渡して「あなた一人ががんばらなくていいんだよ」って言ってあげたい。どん底の頃のワタシを支えてくれた大事な一冊で、今も本棚に常駐しています。~

 なるほどなと思う。私も、なぜか、今も本棚に常駐していますよ。(著者青柳和枝へ、あるいは同年代の女性へのエールの気持ちもあるし。)

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