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2005.12.03

日米流行の子供の名前

 今朝ネットを漫然と眺めているとき、「かわいそうな名前をつけられてしまった子供一覧」というのを見かけた。以前も見たことはある。変わった名前が増えてきているという傾向はあるにせよ、このリスト自体は都市伝説でしょと思って気にも留めなかった。が、あらためて眺めてみると、それはそれでいいんじゃないのかという感じもした。ちなみにこんな感じ。


楽気 らっきー 礼加 れたす
来夢 らいむ 呂偉 ろい
上人 うえると 季生 きき
燃志 もやし 心愛 ここあ
騎士 ないと 留樹 るーじゅ
南椎 なんしー 心夏 ここなつ
聖来 せいら 海鈴 まりん
折雅 おるが 星光 きらり
愛舞 いぶ 紅亜 くれあ
偉大盛 いであ 紗音瑠 しゃねる
愛果夢 あいかむ 奏日亜 そふぃあ
美似夢 みにむ 茶彩羅 てぃあら
夏偉樹 ないき 実果林 みかりん
湖林檎 こりんご 響 のいず
雨 ぢぬ 出 で
奏夢 りずむ 未来 ふゅ~ちゃ
路未央 ろみお 天子 てんし
瀬詩瑠 せしる 乃絵瑠 のえる
愛深 まなみ 美羅乃 ミラノ
蘭素 ランス 理在 りある
大也(ダイヤ)&主人(モンド)(双子)
楽瑠琥(らるく)&詩慧瑠(しえる)(双子)

 面白いなと思った。自分の子供に付ける名前なんだろうから、なんでもいいじゃないか。
 そういえば、美羅乃 (ミラノ )は…と思い出した。司馬遼太郎「ひとびとの跫音(中公文庫)」(参照)の副主人公ともいえるタカジ(西沢隆二)の子がミラノとナポリだったはずだ。
 そういえば、映画「姉妹」のキャストである西沢ナポリ(参照)はタカジのお子さんであろうか。ご存命であろうか。追記(2005.12.4):コメント欄にてご健在とのインフォをもらう。
 そういえば、与謝野馨のお祖母さん与謝野晶子の息子、つまり、与謝野馨の伯父は与謝野アウギュストである。漢字も宛てあるようだが読みはアウギュストだろう。彼が赤ん坊だったころその恐るべき母が与えた美しい詩もある…。ついでに馨の伯母はエレンヌ、与謝野エレンヌである。瀬戸カトリーヌみたいな感じもするが、エレンヌはハーフではない。
 そういえば、「無想庵物語」(参照)に出てくる武林盛一の娘は武林イヴォンヌである。
 そういえば森鷗外の…やめよう…つまり、明治末期から大正時代にかけてこんな名前はごろごろしていたのであり、奏日亜、茶彩羅とかも別にそんなに変なものでもあるまい。こういうのは日本語じゃないみたいだが、漢語で梵語を写すような感じでもあり、広義の変体仮名としてもいいのだろう。漢字の字面に思いを籠めることもあるだろう。
 今年はどうか知らないが、昨年の新生児名のランキングで十位まではこんなふうだった(参照)。

男児
1位 蓮 レン
2位 颯太 ソウタ、フウタ
3位 翔太 ショウタ
3位 拓海 タクミ
5位 大翔 ヒロト、ハルト、ヤマト、ダイト、ダイキ、タイト
6位 颯 ハヤテ、ハヤト、ソウ、リュウ
7位 翔 ショウ、カケル、ツバサ
7位 優斗 ユウト、ハルト、ヒロト
7位 陸 リク
10位 翼 ツバサ、タスク

女児
1位 さくら サクラ
1位 美咲 ミサキ
3位 凜 リン
4位 陽菜 ヒナ、ハルナ、ハナ
5位 七海 ナナミ
5位 未来 ミク、ミライ、ミキ、ミクル
7位 花音 カノン
8位 葵 アオイ
9位 結衣 ユイ
10位 百花 モモカ
10位 ひなた ヒナタ


 なんとなく時代を感じさせるものがあるし、あるいはこうした世相の感覚が時代の感覚でもあるのだろう。こちらの名前は先のリストほど面白くはないが、逆に読みが難しい。学校の先生なども生徒の名前が読めないという時代にはなっているのだろう。
 米国の最近の新生児名は日本とは違ってやや古風だ。社会保障庁(Social Security Administration)にリストがある(参照)。

Male name, Female name
1 Jacob, Emily
2 Michael, Emma
3 Joshua, Madison
4 Matthew, Olivia
5 Ethan, Hannah
6 Andrew, Abigail
7 Daniel, Isabella
8 William, Ashley
9 Joseph, Samantha
10 Christopher, Elizabeth

 女児の名前がやや感性的に付けられているふうではあるし、「ジェイソン」などは映画の影響でリストから消えたらしい。統計外なら、変な名前というのもある(参照)。というか増えてもいるらしい。
 米国社会保障庁のこのリストだが、自分ではちょっと意外だなと思ったのはアビガイル(Abigail)。しかし、通称はアビー(Abbie)だからそんなでもないか。日本人の感覚からすると、アビガイルという名前を付けるかねでもあるが。

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2005.12.02

「覆水盆に返らず」について

 先日来、「覆水盆に返らず」という言葉が気になっている。ちょっと周りの若い者に意味を知っているかと訊くと、「お盆から流れた水はお盆には戻らない…一度ダメになったら修復できない」というような答えが返る。そういえば、これは案外英語の授業で覚えるのかもしれない。あれだ、"There's no use crying over spilt milk." 普通の英文読んでいてあまり見かけたことはない。ぐぐってみると和製英語とか日本人英語教育のコンテクストで出てくるっぽい。そういえば、"The water has gone under the bridge."はリンカーンの言葉らしいが、「覆水盆に返らず」とは意味が違う。ついでに、"That's all water over the dam."をぐぐってみると、ネイティブの用例がいくつか見つかる。田中長野県政も済んだことにしたいものだという意味ではない。
 「覆水盆に返らず」は、後悔役立たず…おっと「それは言っちゃだめよ」…後悔先に立たずの類になっているのだろう。間違いでもないのだが、と思ってWikipediaを引いたら、あった(トモロウ風)(参照)。


 太公望が周に仕官する前、ある女と結婚したが太公望は仕事もせずに本ばかり読んでいたので離縁された。 太公望が周から斉に封ぜられ、顕位に上ると女は太公望に復縁を申し出た。 太公望は盆の上に水の入った器を持ってきて、器の水を床にこぼして、「この水を盆の上に戻してみよ。」と言った。 女はやってみたが当然出来なかった。 太公望はそれを見て、「一度こぼれた水は二度と盆の上に戻る事は無い。それと同じように私とお前との間も元に戻る事はありえないのだ。」と復縁を断った。(出典は東晋の時代に成立した『拾遺記』による)
 この話から一度起きてしまった事はけして元に戻す事は出来ないと言う意味で覆水盆に返らずと言うようになった。

 ちょっとうなる。段落つながってないだろ、とツッコミ。そうじゃないよ、この成語は男女の仲が壊れたら戻らないというのが原義なのだ、ったくよぉ、というわけで、ちょいとぐぐる。その用例が先立つことがまったく知られてないわけでもない。
 三省堂の執念の大辞林を見ると、いやさすがに鬼神籠もる(参照)。故事の後にこう解している。

(1)夫婦は一度別れたら、もとには戻らないということ。
(2)一度してしまったことは取り返しがつかないということ。

 つまり、「覆水盆に返らず」は夫婦仲のありかた説いているし、そうか、というわけで壊れた夫婦仲のように世の中には元に戻らないものがあると思うのだ。壁に座った卵とか。
 私の変な感じはこれで終わりでもない。Wikipediaに戻る。

 ちなみにこの話は太公望の数多くの伝説の一つであって、必ずしも史実とは限らない。(周代に盆という容器が存在しないこと、前漢の人物である朱買臣について、同様の逸話があることなど)

 そういう解説が必要な時代か。ほいで。

 同義の別例として"覆水収め難し"、同じ意味を表す英語の諺に "It's no use crying over spilt milk." がある。

 として、"覆水収め難し"を別例としているのだが、原典が気になる。Wikipediaでは東晋代の「拾遺記」としているが、大辞林では漢書の故事とし、「拾遺記」を従としている。

「漢書(朱買臣伝)」の故事から。「拾遺記」には太公望の話として同様の故事が見える。

 話を端折るが、広辞苑のほうは「通俗編]としている。大辞林が「通俗編」を取らないのはこれが、出典集だし、清代だからというだろうか。しかし、日本の辞書は概ね通俗編のパクリなので、してみるに、「覆水盆に返らず」は「通俗編」と見てよさそうだ。
 というところで通俗編では…という話になるのだが、その前に、よもやと思って、「覆水不返盆」をぐぐってみたら、あれま。あるよ。あるよどころじゃねーよ。「覆水不返」で四字熟語(成語の意味か)がある(参照)。

覆水不返(ふくすいふへん)
意 味: 取り返しのつかないことの例え。一度盆からこぼした水は再び盆には返らない。一度離婚した夫婦は元通りにはならないということ。

 ちょっと唖然。っていうか、そんなの本当にあるのか。
 「通俗編」に戻るのだが、調べるの難儀と思って、ネットを見たら、あった(トモロウ風)(参照)。

覆水難收
〔[(喝-口)+鳥]冠子注〕太公既封齊侯。道遇前妻。再拜求合。公取盆水覆地。令收之。惟得少泥。公曰。誰言離更合。覆水定難收。〔後漢書光武帝紀〕反水不收。後悔無及。〔何進傳〕覆水不收。宜深思之。〔李白詩〕雨落不上天。水覆難再收。

 というわけで、通俗編では「覆水難收」ということで、つまり、さっきはツッコミしてしまったがWikipediaの「同義の別例として"覆水収め難し"」というのも通俗編を踏まえていたことになる。
 ほいでこれを読むと、「覆水定難收」がよりオリジナルに近いと言えそうだ。これを清代では、「覆水難收」としていたのだろう。どのあたりで、日本で「覆水盆に返らず」が成立したかはわからないが、通俗編からさらに数ステップありそうな気配だ。
 通俗遍では、「反水不收」、「覆水不收」、「水覆難再收」があがっており、どうやら中国人の常識的な比喩世界でもありそうだ。ということは、現代用例があるはずである。そしてその用例があるとすれば、男女の仲を一義としているか、ただ回復困難というだけか、そのあたりが知りたいものだ。
 ぐぐっていたら、あった(トモロウ風)。王力宏についてのページ”LEEHOM'S MUSIC WORD”(参照)である。現代の流行歌のようだ。

涙不會軽易地流 イ尓也用不著歉咎
愛就像覆水難収 情又有誰能強求

涙は簡単には流したくない 君も謝る必要なんてない
愛はもとには戻らないようだ 誰が愛を無理に求めることができるのだろうか


 ほぉ、というわけで、「覆水盆に返らず」=「覆水難収」は、現代語でもあって、「愛はもとには戻らない」ということだ、……王様の軍隊をもってしても。

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2005.12.01

辺境、辺獄、リンボ

 あんた、このままだと地獄に落ちるわよ、と言われたことはない。自分はそこまで悪人ではないような気がするが、さて天国となるとおぼつかない。しかたない煩悩凡夫も弥陀にすがって倶会一処の望み…さて…世間相場ならぬ来世の相場を考えるに、私のような者は地獄でも天国でもなければ、辺境、いや辺獄、いやリンボということだろうか。
 であれば、ソクラテスにもディオゲネスにも会える。会ってみると意外に腋が臭いとかだったりするかもしれないが(特にこのふたり)。私もギリシアに半月ほどいただけで山羊とオリーブばっか食っていたら…いや問題は腋臭ではない。リンボだ。忙しい所だ…リンボ…。
 カトリックの権威、つまり神の代理人の権威をもって、秘蹟の一つである洗礼を受けぬ、善でもなく悪でもない魂は(俺とか)、ゆえに天国にも地獄にも行かずリンボに行く。ラテン語で端っこということだ。われ正路を失ひ、人生の四十八歳にあたりてとある暗き侮露愚のなかにありき。ダンテは歌う(参照)。


我等は一の貴き城のほとりにつけり、
 七重の高壘これを圍み、
 一の美しき流れそのまはりをかたむ
我等これを渡ること堅き土に異ならず、
 我は七の門を過ぎて聖の群とともに入り、
 緑新しき牧場にいたれば
こゝには眼緩かにして重く、
 姿に大いなる權威をあらはし、
 云ふことまれに聲うるはしき民ありき 


衆皆かれを仰ぎ衆皆かれを崇む、
 われまたこゝに群にさきだちて彼にいとちかき
 ソクラーテとプラートネを見き

cover
ダンテ神曲
永井豪
 嗚呼、七重の高壘、そは、羅馬の教育科目たりし三文(文法、修辭、論理)四數(音樂、算術、幾何、天文)をあらはせるなり。Gram. loquitur, Dia. vera docet, Rhet. verba colorat. Mus. cadit, Ar. numerat, Geo. ponderat, Ast. colit astra. なに? 知らぬ? 「極東ブログ: 教養について」(参照)を読めてば。
 というわけで我が一定住処ぞかしたるリンボであるが、これが無くなってしまうというのだ。民営化するわけでもないらしい。ロイターによると”ローマ法王に「辺獄」の教義からの削除を要請へ=国際神学委”(参照)こうだ。

国際神学委員会は、「辺獄」の教えをカトリック教義から削除するようローマ法王に要請する。イタリアのメディアが伝えた。


 死去7カ月前の昨年10月、前ローマ法王のヨハネ・パウロ2世は、この教えについて、「より論理的かつ啓発的な」表現を考えるよう同委員会に提案していた。

 というわけで、ヨハネ・パウロ二世の願いでもあったのかもしれないが、その当時の国際神学委員会長は現ローマ教皇ベネディクト十六世でもあった。我が任という思いはあったのかもしれない。
 リンボが無くなると私のような者の居所がなくなってしまうので大変なニュースなのだがあまり日本では話題になっていないので、西洋人の世界を覗くと、やっぱ大問題じゃん。右のテレグラフ”Now it's the turn of limbo to be cast into oblivion”(参照)も左のガーディアン”Babies to be freed from limbo”(参照)も大きく扱っているということだが、テレグラフのこのタイトル、シェークスピアのパロディかで私のごとくおちゃらけっぽいが、ガーディアンのほうはこの問題の核心をずばり言うわよっぽい。そ、赤ん坊。ガーディアンの記事ではこう。

Limbo was concocted in the 13th century as a solution to the theological conundrum of what happened to babies who died before they were christened.

 いや、テレグラフの記事ではもっとずばり胎児…。

Catholics also believe that because fertilised ovum and aborted foetuses have human souls they, too, go to limbo.

 というわけで、ぶっちゃけを想像するに、この幼き魂のリンボの住民はみなデフォで天国入りというわけで、現在世界の状況を考えるにそこに力点を置きたいということではないか。
 それと今後はカトリックは南米やアフリカに伸びていくことからも、こうした教義の変更がなにか重要なのではないか。
 よくわからないが、自分としては、地獄はちょっと嫌かも。

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2005.11.30

世間知というのは「それは言っちゃだめよ」ということ

 マンションの耐震強度偽装問題関連のお題の一つに「誰が悪い」がある。この変奏というか本来は別スジなんだけど、民営化志向に問題がある=小泉は悪いぞ、というパターンもある。ま、あるというだけ。
 おまえさんはどう考えるのかね、と訊かれるなら、所定の手順で現行法の範囲で悪いヤツというのが決まるのでそれで決めればいいのではないか、というか、民主主義というか自由主義の世界では手順の正統性が正義に近似である云々。で、今回の事件は所定の手順を越えるものがありそうだというなら、そうかもしれない。なのでそれを解決するために政治がある。政治が機能すればいい。緊急の課題は住民の安全ということなんで、リスクを判定して国なり地方自治なりが退避先住居を提供しないといけないのではないかと私は思う。そういう動向があるのか知りたいのだが、わからない。リスクの判定が低いとされているからとも思えないのだが、そこはわからない。自分にしてみるとジャーナリズムが機能してないようには思う。
 その他のことは、それほどは私は関心ないというか、あまり私の利害に関わらない。でも、世間の空気が濃ゆーくなれば気にはなる。というなかで、ブログ「R30::マーケティング社会時評」”ファイナンスした人が責任取れば?”(参照)を一読して、びみょーな気分になった。ご主張は、ぶっちゃけ、銀行が責任を持てばということなのだが、これは現行法の枠ではないので、今後はそうしたらということだと思う。で、これだ。


 そして、日本の最大の問題は、こういう事件が起こったときに真っ先に個人の一般消費者を保護するというルールが、そもそもないことだ。ブログ界隈でも出ていたが「ヤバイマンションを買ったのはお前が間取り図を読んで構造がおかしいと気づかなかったからだろう」的な議論がすぐに出てくる。これは、絶対におかしい。消費者というのは、そのことに気がつく奴もいるかも知れないが、気がつかないレベルだから「消費者」なのである。構造というのは、表からは見えないものだ。それに気がつくのがマンション購入の前提というのでは、個人を法人事業者と対等にみなしているということにほかならない。そんなの、あり得ないじゃん。でも、日本ってこれを「あり得ない」と思う人がほとんどいないんだなあ。残念ながら。一応民法とかにはそう書いてあるんだけど。

 保護するというのは、先に私が行った退避の意味ではない、と思う。ま、それはそゆこと。で、ここでの保護というのは、消費者がこういうやばい物件を買わないようにする、ということだと理解する。
 ほいでこのご主張などだが、正論である。今やスリランカである。ヤバイマンション買ったやつが悪い自己責任論は間違っているというのだ。そりゃ、そーだ。
 で、こっからが私のエントリの話である。上は前フリね。
 で、こうした正論がぶたれると、「ヤバイマンション買ったやつが悪い」論は黙るしかない。もうちょっと正直に言うと、この手の議論はパターンなのでそのあたりを避けるのがブログ炎上をしないコツであって某所や某所や某所で言われている炎上回避作はあまり機能しないというのは別のお話。
cover
マンション買って
部屋づくり
 だ・け・ど…と微妙な気分になるのはここだ。マンションはフツーの人には安くない。だからこそ保護が必要云々はそりゃそう、だけど、高くない買い物をするときフツーの人はびびるというか慎重になるし知識を集めようとする。なぜ?あたりまえでしょ、ババひいたらやばいじゃん…おっとぉ言ってしまったな、コロンボ君、君の勝ちだ。ここでぽろっと世間知というものが露出する。
 世間知というのは正論にはなれないし、公言しちゃだめなものだ。というか、およそ公言する資格が与えられていない。回転ドアを通るときは子供の手を離しちゃだめよ…なぜってXXX 、鬼も十八な娘さんがそんな胸を強調したかっこでクラブに行っちゃだめよ…なぜってXXX 、マンションを買うときは管理組合をよく考えなさい…なぜってXXX 以下略。
 私はここで明言しておかないといけない。今回の耐震強度偽装物件を買った人にそうした世間知が足りないと言いたいのではないということ。逆だ。世間知というのはそういうふうに他者を追いつめるように機能してはいけない。
 ただ、世の中をフツーに暮らしていくにはこうした世間知が必要になる。Dirty dozensは罵倒だけのゲームでもない。そうしたなかに世間知は隠れる。隠れかたも伝えているかもしれない。世間知というのは公言されないものだ。正論にはなれない。
 それでも大人というのはときたま汚れてこそっと世間知を言わないといけないこともあるようにも思うが、そのあたりはよくわからない。よき本はさりげなく伝えることもある。親は子供にこっそり伝えないといけないようには思う。

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2005.11.29

耐震設計について十年前を思い出す

 昨日のエントリを書いたあと、耐震設計について十年前のことをぼんやり思い出し、つらつらと考えてみた。
 私はあの頃、なぜ高架が断ち切れたのだろうかと疑問に思っていた。ありえないと当時思っていたのだが、写真にはそのありえないが写し出されていた。耐震設計が間違っていたのか、手抜き工事だったのか、私の記憶ではこの問題はその後曖昧になっていったように思う。
 科学というものはどのような巧緻な理論でも事実の前に棄却される可能性を持つ。高架は切断された。それが事実だった。耐震設計とはなんだったのだろうか。
 考えても埒が明かないことでもあるので、十年前の新聞をざっと眺めてみて、そうだそうだと思い出した。一九九五年三月二九日付読売新聞に伯野元彦東洋大学工学部教授(当時)の”信頼できる耐震設計とは”と題する寄稿がある。そうそうこんなのだった。


 大災害となった今一つの原因は、耐震設計の方法にあると思う。最もポピュラーな構造物の耐震設計法は、構造物の重量に、設計震度と呼ばれる〇・二を乗じて行われる。例えば、重量が十トンの構造物なら、二トンの力を水平方向に静かに加え、変形が許容範囲内に収まるように柱の太さとか鉄筋量などを設計する。
 この方法は、そもそも関東大震災に無傷で残った日本興業銀行本店などの耐震設計に用いられていたもの。同行の水平地震力は自重の〇・一三倍だったが、震源から七十キロも離れていることもあり、より安全に〇・二倍を採用するようになった。よく言われる関東大震災級の地震でも大丈夫――の言葉の由来だ。

 当時これを読んで思ったことを思い出す。そうか、耐震設計というのは経験科学なのだな、ということだ。関東大震災という歴史経験によるものだったのか、と当時思った。
 この算定法が十年後の現在も利用されているかどうか私は知らない。利用されているのではないかと思って読み進める。
 伯野教授は、ロサンゼルス震災で高架が落ちたことについて、その頃、日本は大丈夫だと考えていたらしい。というのは、日本の高架の耐震性はロスの五倍あるからだった。

 日本の五分の一の耐震力しか考えていなくてこの程度の被害で済んでいる。それなら、五倍の耐震力を考えて、しかも桁(けた)落下防止装置も設置している日本の高速道路が、落ちるわけはない――ロスの惨状を前に、そんな思いが頭をかすめて「大丈夫」と答えたことを覚えている。だが、現実には大被害が起きた。

 そうなのだ。あの時の科学は「大丈夫」と答えるしかなかった。しかし、事実は別の答えをしたのである。科学者はありえないと自分につぶやいても、そう発言することはない。次の仕事が待っている。
 彼はこう答えた。

 原因はいろいろあるだろう。根本的なものは、実際に起きる現象と耐震設計方法の違いにあるのではないか。実際には構造物は、地震によって瞬間最大値八〇〇ガル以上の地面の揺れで大揺れに揺れて壊れた。一方、設計は約二〇〇ガルを、構造物に「静かに水平に」加え続けても壊れないようにしていただけだった。
 要は、この「二〇〇ガルを水平に加え続けても大丈夫」な構造物が、瞬間的にではあるが、八〇〇ガルを超えるような複雑な地面の揺れに耐えるかどうかという問題に帰着する。

 長いエントリが書きたいわけでもないし、ベタな引用ばかりするわけにもいかないので話を端折るが、私の素人な疑問は、現代の耐震設計は現実には十分に耐震でないこともありえるのではないか、ということだ。
 科学者ならどう考えるか。伯野教授はこの先に実験してみたいと述べていた。そうだろう。経験科学ならやってみないとわからないことがいろいろあるのだ。
 現在の耐震設計の科学背景を知らないので、素人言になるのだが、最大加速度だけが議論されているなら、そうではない自然の力を私は見てきたことになる。倒壊を起こす力は共振にも関連する。ブランコをゆらすようなものだ。弱い力でも共振で振れは大きくなり、強い力を持つ。一般家屋は小さいので高周波で共振するが、大きなマンションなどは低周波の影響を受けるだろう。…直下型なら低周波は少ないのだろうか。
 わからない。この十年間にその実験が進められたのかも知らない。
 ごく一般論で言えば、人は天災から免れるものではない。人災なら免れうる。耐震データ偽造は人災の元になる。対処は必要だ。そして、実際の災害には別の人災も起こりうる。そのことは、二年前”極東ブログ: 「どこに日本の州兵はいるのか!」”(参照)で触れた。

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2005.11.28

姉歯設計建築事務所による耐震データ偽造事件雑感

 ブログは時代のログ(記録)ということもあるので世間の大きな話題についてはお付き合いというかできるだけスルーしないでおこうと思う。というわけで、今更姉歯設計建築事務所による耐震データ偽造事件だが、私はなんだかよくわからなかった。なので雑感、メモ程度。
 ここまでの意図的な偽造というか偽造を取り巻く構造もすごいなとは思うが、杜撰な施工を含めてよくあることなのではないかという感じが私はしていた。阪神大震災後、なぜこんなに死者が出たのかという疑問も個人的にあり、中村幸安「コウアン先生の人を殺さない住宅―阪神大震災「169勝1敗」の棟梁に学べ」(参照)など一連読んだが、これらの建築Gメン的な示唆は興味深いといえば興味深いのだが、いざその提言となると現代日本の実情にはそぐわないようにも思えた。またこの本と限らないのだが、マンションについては論点の立てたかになにか腑に落ちない感じもしていた。
 私事めくが、この間私は八年沖縄で暮らし、沖縄の家がいちいちスクラッチから設計されること、内地からの設計者が多いことなど奇妙にも思えた。それと、基本的に沖縄のカネは土建に落ちるので、羽振りのいいあたりのゴチの末席にいると必ず設計関連がくっついているのでいろいろ裏話っぽい話なども聞いたりした。うまくまとまらないのでふーんという感じではあるが、コンクリートで設計する家っていうのは案外危険かなとも思った。
 在沖時代でも時折東京に行くのだが、そのたびに東京の街ににょきにょきとマンションが立つのにも驚いた。こんなところにもというところにもマンションが立つのでその変遷にも土器の形態のように関心を持つようになった。と同時にマンションがどう地域社会を変えていくのかというのも知るほどに面白かった。が、その話はここではしない。
 マンション形状の変遷で私が今でも興味深く見ているのはエレベーターと通路の関係である。私の認識違いかもしれないが、バブルや億ションという時代にはできるだけ通路を否定しエレベーターが縦にのみ専有されるふうだった。が、それがしだいに変わっていった。通路が増えてくる。横断の通路を作るとマンションは昔風の団地になってしまうわけで、そこをどう団地に見せないように設計しているものなだなと思ってあれこれ眺めていた。
 そのうち規模にも関心の軸を移した。マンションとして一括される建築物という認識でいいのかなんとなく疑問に思うようになった。三百から四百人くらいになにか大きな差があるようにも思う。仮にそこで分けて小規模型と大規模型とする。同じマンションではくくれないのではないか。
 話を戻して、今回の事件だが、あーこれは小規模型だなと私は思った。この場合は、コミュニティ的な配慮が十分に機能しないという感じがする。つまり、その存在が地域社会にとっての追加であって、既存地域社会に変化をもたらすものではない…学校とか流通とかの地域社会の構造を変えず付加物になる。
 で、そうした場合、地域社会が結果的に強いるモラルのようなものも希薄になるだろうし…話を略すが…小規模型は見栄えはよく品質の悪いという傾向を持つようになるだろう、と。
 私が単に事実関係を間違っているだけかもしれないが、そうした状況では品質に関わる偽造などが発生するのはある程度しかたのないことではないのか、というか、それは地域コミュニティや自治的性質をもった住居群とは異なり、より一般商品的な商品なのだろう、とそう思えた。あまりくっきり言うと批判されるだろうが(そう割り切れる問題でもないだろうし)、地域社会の存続に関わる問題なのか高額な商品なのか、という問題ではないか。今回は後者なのだろう。高額な商品が安い時には安い理由があるものだ(あるいは不当ともえる利潤などがある)。
 が、社会問題として多くの人が関心をこの事件に持つのは、そこにどうしても、特定地域に暮らす社会の構成員として地域社会の危険性がないか不安を覚えているからではないか。
 話が少しずれる。今回の事件で、私はあまり映像を見ないのだがそれでも、NHKで姉歯建築士がたんたんと語るのを見て奇妙に思った。ネットを眺めるとポイントはズラかどうかでもあるようだがというのは冗談として、奇妙な印象を受けた。およそ罪責感が伝わってこない。そしてそれを取り巻くどたばたにもそうした感じはない。なんか、姉歯建築士の背景に魑魅魍魎がいるかのごとく感じられるし、そうした背景についてネットなどでトバシ情報が錯乱するのだろうな、また宝塚線の問題のように上をひたすら叩け的社会ヒステリーかな、どうでもいいやオレは寝よ、という感じではあった。
 そうしたなか、ほぉっと思ったのは「筆の滑りまくるリベラルブロガーのネタ日記」ではなく、この耐震強度の偽造問題を国土交通省が公表する二日も前に、元国土庁長官の伊藤公介衆院議員が小嶋ヒューザー社長とともに国交省を訪問していたという話だ。なるほど、発表時点で裏はできていたわけで、姉歯建築士も自分の書き割りはこのくらいと思っただけなのだろう。
 あまり物事はっきり言うものでもないが、今のところ私が思うのは、これはそれほどたいした社会問題ではないのではないか、ということだ。が、そう言ってしまえば震度五で倒壊するマンションの住民のことを考えないのかとかその住民は死んでもいいのかとか、そうした住民でもない人から詰問されそうだ。
 私は生まれてこのかた幸いにも震度五を越える地震を経験したことはない。一応その震度がどのくらいの影響を身体や構造に与えるか頭では知っているだけだ。現実の大震災が発生すれば、強度設計が現状で万全とされていても倒壊するマンションもあるだろう。しかし、地域社会はびくともしないと思うし、そうであれば、そうした大規模災害時の被害が最小限に防げると思う。

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2005.11.27

墓地の森、あるいは森の墓地

 先日、ラジオ深夜便でベルリンの最近の墓事情の話を聞き、興味深く思った。「OKWave ドイツのお葬式」(参照)でも識者が触れていたが、ドイツは従来は土葬が多い。だが、ラジオの話では、最近は土葬だと費用がかかることや、子供のない人が増えているといったことなどから、火葬が増えているとのことだ。
 火葬になれば広い土地も要らない…とも日本の墓を見ても言いかねるのだが、さらにドイツでは本人の生前の意思として遺灰の共同墓地化も進んでいるとのことだ。それで墓地のために広い土地は必要なくなり、墓地の空き地が目立つようになったそうだ。結果、墓地の整理・閉鎖が進んでいるとの話もあった。
 とりわけ、へぇと思ったのだが閉鎖される墓地は、最後の埋葬時から三十年後となる規則だ。話の詳細をうまく理解できない点もあるのだが、その時点で土葬死体を火葬にし、共同墓地化するようでもある。
 話が前後するが埋葬の費用は土葬だと二千五百ユーロに対して火葬だと千五百ユーロ。日本の感覚からすれば大差はないというか、日本の埋葬事情はかなりとんでもない事態になりつつある。そういえば、先日はてなダイアリー「antiECOがいるところ」”先祖代々の墓を守るのは誰ですか?”(参照)という問題提起があったが、都市というか都市流入民にしてみれば祖先の墓はかなり整理されている。
 子供のない人にとって墓はどう維持されるかというのもドイツでもやはり問題のようだが、それ以前はどうしていたのか。ゲマインデ的な管理があったのだろうか、あるいは教会が関わっていたのか。そういえば昨年の猛暑でフランス人に多くの死者が出たのだが、子孫があっても引き取り手のない死体が多く、問題ともなっていた。概ね、子孫が墓に関わるということは減少していくとしか言えないのだろう。
 話の後段に墓地の森の話題があった。あるいは森の墓地と言うほうがいいのだろうか。生前に森の特定の樹を選び、死んだらその樹の元に散骨というか遺骨を埋めるのである。現在ベルリンにはないが広まるだろうかとも言っていた。
 私の率直な印象は、あ、それもいいかなというものだった。私はフロイトに傾倒したのだが、たしか彼はロンドンの公園に散骨されたと記憶している。いいなという思いが私にはある。が、実際に自分の死や死に纏わることはたびたび想起して未だに恐怖におののくせいか、情けないことに、どう散骨してくれと言い出せない。いや、その前に世事が多く積み重なることだろう。
 森の墓地についてネットになにか補足話題があるだろうかとざっと見渡したがなかった。墓地の森は別のキーワードでもあるようだ。いろいろ当たっているうちに、ゲーテ研究所の”A Final Resting Place in a Quiet Forest - Alternative Funerals ”(参照)にこの話題があった。


Traditional Christian funeral rites are becoming less significant in Germany. More and more people are deciding in favour of alternative forms of funerals. Many are turning to forest burial grounds, where urns are buried at the roots of trees in the countryside.

 詳細が多少わかった。ラインハルトヴァルトである。いばら姫だな。

There are already six such woodland burial grounds in Germany. Reinhardswald, covering an area of 120 hectares, was the first to open in 2001. The Catholic Church opposes the idea, offered by a company in Darmstadt. The German Bishops’ Conference criticises it, saying that it is based on an avowal of "natural religion" and "lacks key elements of a humane and Christian burial". For its part, the Evangelical Church expressed cautious approval. Under certain circumstances, the woodland burial ground idea "is at least not totally incompatible with the fundamental Christian belief in the dignity of (remembering) the deceased".

 すでに二〇〇一年から試みられているらしい。カトリックは当初反対していたがプロテスタント側はある程度容認でもあるらしい。ドイツにおけるカトリックとプロテスタントの分裂はそれ自体も面白いのだが、双方とも現代という時代に十分に応えているとは言い難いようにも思うし、プラクティカルな神学というのもなさそうではある。
 余り軽々しく言うべきでもないが、森の墓地というか墓地の森は、日本でも広まっていくのではないだろうか。

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