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2005.11.26

[書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー)

 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)、通称「プロ倫」についてなにかを書こうと思うような日が来ようとは思いもかけなかった。「プロ倫」はただ百遍読めばいいのである。
 しかし、馬鹿につける薬はないな、プロ倫を百遍読めとばかりも言えないかもしれないご時世でもある。ま、かく言う私自身がその馬鹿の部類でもあろうから、たまに恥をさらしておくのもいいだろう。

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プロテスタンティズムの倫理
と資本主義の精神
 とはいえ、この本がなんであるかについてはさすがに省略する。ブログを書く手間はあるが、プロ倫を解説する手間はさすがにない。なので、いくつかティピカルなポイントだけ簡単に記しておく。

カルヴァン的なプロテスタンティズムの「神の選びの教義」とは何か
 これを、「神が現世における人間の努力やその成果によって人間を選別し、勝利者を救済し、弱者を地獄に落とす」と理解している人は、およそ社会学なり現代社会・政治を論じるに足りない。昔なら、岩波文庫で頭をぽんと叩いて「プロ倫を百遍読め」で終わり。
 そこで恥じて必死で十遍くらい読み、さらに恥じるのが正しい。だが、恥もせず、これを現代世界の「勝ち組」「負け組」と読み替え、惨めな「負け組」に転落したくなければ、必死に努力して、カネを儲けろとか理解する至っては…なんと形容していいものか。
 カルヴァン的なプロテスタンティズムの「神の選びの教義」とは、神が人間の現世努力いかんにまったく関わらず救済者を既決事項としている点に特徴がある。信仰心も善行も努力もまったく不要。救われようと努力するなど、神を愚弄するに等しい。

ではなぜ、そんな教義が資本主義の精神に結びつくのか
 それが世俗内的禁欲のエートスを生み出したから。おっと、勇み足過ぎた。
 これを、「選別は最初から決まっているが、人間は神に自らが選ばれていることを信じてただ偏執的にカネを稼ぐ」とかで理解しているのは、かなり好意的に言えば、微妙。
 現世の勝ち組・負け組は努力しても無駄、とかいう意味で、最初から決まっているという理解なら論外。
 まず重要なことは、選別の結果は来世(ヴェーバーはこの言葉を使っている)の問題である。なお、カルヴァン的なプロテスタンティズムでは転生の来世という意味はない。とりあえず現世に対峙される絶対的な世界と理解してもいい。そのため、現世は相対化される。人がこの世にいかにあろうが、カルヴァン的なプロテスタンティズムはまったく関心を持たない…とまで言うのは、ちょっと言い過ぎで、カルヴァンの教えを政治原理とする共同体は恐ろしい側面もある…。
 次に、「神の選択に自分があることを信じて偏執的にカネを稼ぐ」という理解は、日本人にありがちな誤解なのだが、信仰は努力ではぜんぜんないというのが重要だ。
 信じるという努力などは、カルヴァン的なプロテスタンティズムにはありえない。カルヴァン的なプロテスタンティズムにあっては、現世のありかたは、選別された人の恩寵の結果として現れるくらい。
 だから、これは、自分が世俗に対して禁欲(アスケーゼ:これは欲望を抑えるという意味ではなく「専心」に近い)であることを通し、選別への確信を深めるということだ。(くどいが、重要なのはこの確信が内面の信仰のありかただけではなくエートスとして外面的な諸活動に及ぶ点。)
 もう一点重要なのだが、カネを儲けることは、世俗内的禁欲の結果であって目的ではないということ。なによりそれが現世ではなく来世に結びつけられていることが重要。
 ではなぜそれが職業を通して現れるかというとその背景に社会構成の原理としての隣人愛の特有なモデルがある。
 いずれにせよ、こうした内面化された行動規範をエートス(倫理)と呼ぶ。エティーク(倫理)とイコールではないというのが難しいのだがそれ以上は踏み込まない。

プロテスタンティズムの倫理(エートス)がもたらすものは競争社会ではない
 プロテスタンティズムの倫理(エートス)を、「各人が負け組への没落の恐怖に怯えて上昇しようとする競争社会の倫理」、ととらえるならとんでもない見当違い。
 社会=現世の上昇など、まったくこのエートスにおいて意味はない。カネ(資本蓄積)は結果論であり、重要なのは、職業(ベルーフ)を神の呼びかけ=天職としてただ実践するだけ。
 しかも、カネはそれが数値によって現れることから、しかもそれが消費やクスネるといった欲望と結びつきやすいことから、逆に自身がいかに正確に神の呼びかけとしての職業を偽り無く実践しているかという指標になる。これが結果的に市場の規範化に結びつくのだが省略。
 よく誤解されるのだが、天職とは、自身に適合した職業とかいう意味ではぜんぜんない。この世に置かれた状況が強いる職業そのままを指す。これは結果としては、多少意外な印象もあるだろうが、共同体(ゲマインデ)の解体をもたらす。
 もう一点、言うまでもないが、こうしたエートスは富裕者と社会的低階層者とを区別しない。

米国はカルヴァン的なプロテスタンティズムではない
 これは、まさにプロ倫を丹念に読んでいただくのがいいのだが、米国のプロテスタンティズムは、ヴェーバーが諸派(デノミネーションズ)と呼んでいるものから発生している。
 もちろん、米国はごった煮的国家でもあるので個々にはカルバン派もあるが、米国史、特にその宗教史的な側面を見ていくなら、カルヴァン的なプロテスタンティズムではなく、デノミネーションズ、つまり、モルモン教などのほうがその社会学的なモデルになる。このあたりは、ジョン・スチュアート・ミル「自由論」(参照)の米国モルモン教徒への視線なども参考になる。
 私の考えだが(ヴェーバーの考えではないが)、結果として、米国がカルヴァン的なプロテスタンティズムに見えるのは、プロテスタンティズムのエートスが資本主義の精神(ガイスト)に転化し、さらにそれが海洋国家としての交易の契機から発生したものなのだろう。

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2005.11.25

フランス暴動、あれから思ったこと

 「極東ブログ: フランスの暴動について簡単な印象」(参照)で触れたフランスの暴動の話題ももうそれほどブログでも見かけなくなった。ニュースでもそれほど見かけないように思う。が、たぶん車を焼き払うといった度の過ぎた悪ふざけはなんの変わりもなくフランスの日常となっているのではないだろうか。そういえば、カトリーナ被害の話題も似たように衰弱したといった印象はある。米経済についてもいろいろ言われたが現状はなぜか好調だ。
 グローバル化がもたらす格差や移民がどうのといった議論がすべて虚しかったとも私は思わないが、旧来の左派やリベラルのイリュージョンがだいぶ含まれていたように思う。というか彼らの現実認識と理念の言葉が奇妙な乖離を遂げていたような印象も受けるし、これは言うべきではないかもしれないのだが、これらのイリュージョンは擦り切れた終末論の二番煎じといった趣きも感じられた。
 そうしたなか、ああそこまで言うのかと思ったのは、日本版ニューズウィーク11・30”フランス移民暴動の真犯人”という記事だ。このところ日本版ニューズウィークはなんかネジがはずれたようなピンボケ記事が続くので馬鹿馬鹿しいから購読辞めるかと思っていたが、ときたまこうした記事が読めるならいいかとも思えるほどだった。
 で、フランス暴動の原因はなにか。


 今回の暴動の原因を西洋とイスラムの「文明の衝突」に求めるのはまちがっている。暴動の原因はあくまでも失業問題だ。

 私もそう思う。そして、尻馬に乗って言うのだが、フランスの階級社会がもたらした事件だとかぬかしてたやつらは馬鹿じゃねーのかともこっそり思う。
 だが失業問題というだけならそれほど大したことではないし、先の私のエントリでも仄めかしてはおいた。明確に書く自信がなかったというのもあるが、むしろ失業問題というなら、その先はどうかということに対して、自動的に社会保護的な政策が浮かぶことに奇妙な違和感を感じたからでもあった。もちろん、社会は回復されなくてはならない。しかし、それが国家レベルでの保護施策を巻き込んだ形の理念として立つとき、それは違うだろうという感じがした。
 だが先の記事は問題の捨象も大きいのだが、すっきり書いていた。

 原因ははっきりしている。厳格な就業資格制度や起業に足かせをはめる厳しい規制に加え、フランスの誇る手厚い労働者保護法制がかえって失業問題の一因になっているのだ。


 こうした要因が相まって、ヨーロッパに新しいエリート層が形成されつつある。「雇用のある人たち」という階層である。「雇用のない人たち」を尻目に、この人たちは、過保護な労働法制によりますます恩恵を受ける。
 ドイツと同じくフランスの政府も、従業員の採用と解雇のコストを引き下げることを拒否し、硬直した労働市場の放置してきた。その結果、生涯にわたって雇用が保障されてる人がいる半面、それ以外の人たちは短期的な臨時雇用の職に就くしかない。

 日本も構造は同じだ。
 尻馬に乗って言うのだが、日本でこうした暴動が起きないのは、職がなくても若者が生きられることを社会の安全性として必死で維持してきたためであり、また若者が暴動に走れないほどに社会システムの圧力を強化したからだ。図に乗ってさらに失言しそうになるがやめとく。もう一つ引用しよう。

 しかし、イギリスで増えているのは理髪店の店員だけではない。規制緩和により、知識労働者の数も数千人増えた。それに、今回のフランスの移民暴動を見てもわかるように、いちばん危険なのは、ヨーロッパの若者にまったく働き口がない状況だ。

 日本で一番危険なのは、その状況が社会システム側の力で鎮圧されることだろう。

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2005.11.24

究極のダイエット、インチュイティブ・ダイエット!

 サンクスギヴィング・デーである。みなさん、ありがとう。どうもどうも。このエントリが気に入ったら、ここをクリックしてねというようなリンクはエントリ内にありませんし、先日学研が出したブログランキングとかいうムックではなんかのジャンルで当ブログがお目出度く七位になったり、いや、ま、ありがとう。今はなき美しい日本語で言うと、お陰様である。くるりとな、ぬけたとさ、である。いや、なかなかそうはいかないのが昨今の世界でもあるが、なんの話だっけ。サンクスギヴィング・デーだ。もうすでに食いまくっている人もいるだろう。そうだ。食うぞぉ、グレービーはどこどこ…ということもないのだが。
 しかし眼前にある、たらくふくの御馳走に対して、いったいどうしろというのだ。問題はダイエットだ。ということで、今朝の国際ニュースでついに究極のダイエットが明らかにされた。インチュイティブ・ダイエット! これだ。米国ブリガム・ヤング大学の研究者たちはついに究極のダイエットの公式を発見したのである。このダイエットはサプリメントも電気腹巻きもいらない。精神的かつ道徳的には深淵でもあるが、ある意味で実に明快である…曰く、汝の直感に従って食え。
 そうだったのだ、うぜーこと言ったり考えたり、教本読んだりグルに従ったりする必要など、なにもないのだ。直感がすべてを決める。恋愛と同じじゃないか。食うか食わないかは、食う気があるかないかだ。食う気がないと窒息してしまうぞ(寒すぎたか)。
 まじだって、ほんと。おソースはネットにはないが、ニュースならたーんとある。アルジャジーラだって報道していた。"Eat and lose weigh"(参照)がそれだ。たぶん、イスラムの教えにも反してないのだと思われる、直感的に喰え、というのはだ。
 腹が減ったら食って、腹一杯になったら終わる。それだけでアジアの人たちは太ってなんかいないじゃないか、とニュースは伝える。ほんとかよ、とか突っ込むなよな。ってか、海外旅行者なら経験あるだろうと思うが、なんで日本人はあんなにスレンダーなんだ、不思議だと、なんど問えば気が済むんだ、この○ブっていうか、である。
 なに、そんなにことは簡単ではない? どうよ?


To get on the road to intuitive eating, a person needs to adopt two attitudes, according to the researchers. The first attitude is body acceptance. "It's an extremely difficult attitude adjustment for many people to make, but they have to come to a conscious decision that personal worth is not a function of body size," Hawks said.

 二つの態度が必要なのだそうだ。ほぉ。最初はだ、自分の身体を受け入れろというのだ。なるほど、それは、非モテとかにも言えること…かどうか知らないが、それで二番目はなんだ?

The second attitude, that dieting is harmful, relates to the first - namely that dieting does not lead to the results that people think it will lead to.

 はぁ? なんかよくわかんね。よーするに食事になにか別の期待を抱くのはやめろということか。痩せるとか健康になるとか長生きするとか。
 どうやら、マジで考えていくと、この直感ダイエットの重要さというのは、感情の問題でもあるのだな。つまり、肥満の多くは感情的な代償として食うのがあかんということか。
 納得しない? じゃ、もう一つグッドニューズ!
 脂肪分の多い食事は大腸がん(結腸直腸がん)リスクを減らす、っていうのはどう。いやホント。ロイター”High-fat dairy food may lower colorectal cancer risk
”(参照)にあるんだよ、これが。

Women who consumed at least four servings per day of high-fat dairy foods had a 41-percent lower risk of colorectal cancer than did women who consumed less than one serving of high-fat dairy foods per day, the authors report.

 というわけで、脂肪の多い食事のほうがこの点ではベターっぽい。
 これもマジでいうと、ポイントは共役リノール酸(conjugated linoleic acid)ということでもある。つまり、脂肪酸代謝が関係している。とはいえ、概ね、低脂肪ならすべて健康っていうことはないのは確かだ。

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2005.11.23

どういう恰好で寝るべきなのか

 人生の最大の問題とは言えないが些細な問題とも言えない。あれこれ四十八年(生まれてこのかた)悩み続けてきた問題なのだが…どういう恰好で寝るか?
 そんなことが問題かよと言われると癪でもあるので、変奏すると枕の問題でもある。通販生活のメディカル枕でも解決しなかったし、低反発枕でもいまいち。ああ。しかし、ま、枕の問題をここで論じたいわけではない。
 先日、ロイターのニュースを見ていたら、"子供が寝るときの恰好は呼吸に影響を与える(Sleep position may affect breathing in children)"(参照)というのがあって、三歳児以下に限定されるのだが(そしてたぶん一歳以上だろうが)、仰向けできちんとした姿勢で寝るのが呼吸にいいとも言えないという話があった。
 ようするに、この年代の子供(英語だとトッドラーというのだが)は、好きな恰好で寝るのがよろしいという、そんなのあたりまえじゃんみたいな話ではある。ニュースになっているところを見ると、多分、欧米では子供をきちんとした恰好で寝かせるべきというのがあるのだろう。
 ネタ元はJAMA"Arch Otolaryngology Head Neck Surg"の"The Effect of Body Position on Sleep Apnea in Children Younger Than 3 Years, November 2005, Pereira et al. 131"(参照)なので関心のあるかたはどうぞ。
 でだ、子供はそういうことでよろし、と。問題は大人はなのだが、当然今回の研究ではわからない。ただ、ロイターにはこんな話があるにはあった。


Obstructive sleep apnea syndrome is a condition in which airways become blocked periodically during sleep and breathing stops for brief periods. Symptoms improve in adults with this condition when they avoid the supine position, note Dr. Kevin D. Pereira and colleagues, from the University of Texas Health Science Center at Houston, in the Archives of Otolaryngology?Head & Neck Surgery.

 ちょっと読み違えているかもだが、大人も仰向けってよくないんじゃないのか。
 というあたりで、冒頭記したように問題はどういう恰好で寝るかだ。「極東ブログ: れいの『ひざまくら』が世界のブログに苦笑を誘う」(参照)でBBC"Boyfriend pillow for Japan singles"(参照)を紹介したが、こーゆーのが解決とも思えない。いや、解決か。
 先日バングラデシュの日常生活の話を聞いたのだが、みなさん抱き枕で寝るそうだ。ほんとか。そういう国民性ってあるのだろうか。そういえばと思い出すのだが、若い頃ガーナの人と畳部屋の同室で寝泊まりしたことがあったのだが、彼は丸くなって寝ていた。そしてその上に蒲団が乗っかる。あれだ。こ・た・つ、かこれ?みたいになっていた。お国ではそういう恰好で寝るのかと訊いたのだが、答えは要領を得ない。日本は寒いんだものとか言っていた。なるほど。ガーナって蒲団っていう文化じゃないし、蒲団がないと寝るときの恰好なんてそれほど意識されないか。
 どうも話の流れが変になったが、実は、私は、人間というのは丸くなって寝る生き物なんじゃないかと長年疑っている。だが、実際に私が丸くなって寝るというわけでもない。枕だとうまく丸くなれない。
 ま、それだけの話なんだけど。

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2005.11.22

スービック・レイプ・ケース

 今朝のNHKラジオを聞いていて、スービック・レイプ・ケースについてだが、あれ?と思ったことがあったので、簡単にログ(記録)しておきたい。
 まず事件の概要だが、五日付け朝日新聞”米海兵隊員、フィリピンで強姦容疑 沖縄の基地所属”(参照)はこう伝えていた。


 米比両国は、ルソン島中部を中心に、10月中旬から今月1日まで合同軍事演習を実施。海兵隊員らはスービック湾に寄港中の1日夜から2日未明にかけ、知り合った女性を船外の車の中で暴行した疑い。女性が訴えて発覚したという。

 同記事には、マニラの米大使館の話として、この五人が沖縄の第三一海兵遠征部隊(31MEU)に所属していることを伝えている。一九九二年フィリピンから米軍が撤退して以降、米兵の強姦容疑事件が発覚したのは今回が初めてになる。
 朝日新聞の記事ではどちらかというと反米運動の側に視点を置いている印象を受ける。
 沖縄サイドの報道例としては、五日付沖縄タイムス”比・女性暴行/兵士はハンセン所属”(参照)がある。オキナワ・レイプ・ケースの歴史もあり、身近な問題として受け止めているようすが伺える。

 フィリピンで強姦事件を起こした米海兵隊員五人がキャンプ・ハンセン所属であることが五日明らかになり、同基地を抱える地元金武町は、綱紀粛正の効果もなく繰り返される米兵の犯罪に「人ごとではない」「基地がある以上、被害に遭うのは住民だ」など不安や怒りの声が上がった。

 沖縄県民としては、これだけでいろいろと思うことがあるのだが、非公開な情報も含まれるのでこのエントリでも踏み込まないことにする。
 読売新聞の五日付け”沖縄5米兵、比で女性暴行 告訴受け大使館に拘束 「またか…」県内に反発の声”の記事は、米軍準機関紙「星条旗」をネタ元にして、もう少し事件そのものを描写していた。

 同紙によると、10月中旬から今月1日まで米比合同軍事演習が行われ、沖縄の海兵隊員ら約4500人が参加した。5人は1日夜、マニラ北西部のディスコで女性と知り合い、一緒に飲酒後、車で連れ出し、暴行した疑いが持たれている

 「星条旗」がネタ元ということもあり、女性側にも非があったかのようなトーンを醸しだしている。
 オキナワ・レープ・ケースの際沖縄県民として暮らしていた私としては、今回も大きな問題ではあるが詳細がわからないので経緯をしばらく見ていることにした。その後、この問題の報道は国内ではあまりなく、こうした問題をフォローしている市民団体のブログなども知らない。どこかに「リベラル・ブログ」が存在するのか。
 一七日付け朝日新聞記事”比政府、米海兵隊員6人の身柄引き渡し要求 強姦疑惑で”(参照)では、この時点での事件の経緯を簡単に伝えていた。容疑者は六名である。

 合同軍事演習でフィリピンを訪れた沖縄駐留の米海兵隊員6人が、比人女性(22)を強姦(ごうかん)した疑いを持たれている事件で、比政府は17日までに、米側に6人の身柄を引き渡すよう要求した。6人は現在、マニラの米大使館の保護下にある。

 つまり現時点ではまだフィリピン側には容疑者は渡されていない。
 同記事には、この問題の本質が簡単に言及されている。

 米比間の「訪問米軍の地位に関する協定(VFA)」は「特別な場合、比政府は米側に(米兵の)身柄確保を要求する」と定めている。比政府は今回の強姦疑惑を「特別な場合」に当たると判断した。

 オキナワ・レイプ・ケースでもそうだし、その後も沖縄で起きた同種の事件でもそうだが、駐留と訪問の差はあれ日本国も地位協定の問題を抱えている。フィリピンでの今後の展開によっては日本国が影響を受けないわけはない。
 また、同記事には、「司法当局は23日から始まる予備尋問に6人を召喚した。」ともあるが、このあたりまでが私の脳裡にあったことで、この先が今朝のラジオでの話になる。
 自分でも事件の読みが迂闊だったのだが、この発端は被害者であるフィリピン女性の告訴であった。どのようにその告訴が可能だったかということまで私は想像せず、その後のフィリピン政府からの容疑者の引き渡し・取り調べの要望があったとの構図から、事件発端時には米軍側が動いて容疑者の海兵隊員六名をおさえていたのかとなんとなく思っていた。
 が、そうではなかった。最初に容疑者の身柄をおさえたのはスービック港の警備当局であり、これを聞きつけた在比米国大使館の口頭要請のみで米国側に移した。
 つまり、最初はフィリピン側に容疑者が拘束されていたことと、米軍引き渡しの手順はそれほど厳格なものとは言えなかったようだ(結果として米軍に渡すとしてであれ)。
 こうした事態が発覚したのは、ワゴン車の運転手(英文報道などによると脅されていらしい)など目撃者も多いためだ。
 英文のニュースをブラウズするとフィリピン・サイドのニュースだと思うが”6th US soldier in Subic rape case a mystery”(参照)などのように事件そのものに解明されていないこともあるようだ。
 今後の展開だが、先の朝日新聞記事にもあるように、二三日にフィリピン司法当局による尋問が予定されており、この機に合わせた抗議デモが予定されている。
 どの程度のデモになるのかネット側から見た感じからはわからない。もともとアロヨ政権への不満は強いものの、これまでなにかとかこつけて行われたデモは今ひとつ力不足という印象だった。そうした印象からすれば、当座の情況としては同じような流れになるだろうかとも思う。

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2005.11.21

ハーフとかレミとか

 先日料理の話っぽい「極東ブログ: スパイスあれこれ」(参照)を書いたとき、蛇足に平野レミのことをちょっと書いてそれでも余談が過ぎるなと思って削った。彼女は…、「英語であそぼ」や新幹線のアナウンスの声で有名なクリステル・チアリも(ちがいます)、安室奈美恵もそうか…「クオーター」……と書いて、あれ?ヤバイ? 共同通信の辞書も入れているATOKは別にコーションを出さなかったが、あー、たぶん、「ハーフ」は、ダメ? と、特にコーションは出ない。使っていいのか? ちなみに「混血児」とやったら、即座に《記:注意 不快用語等》と出てきた。どうせいと?


なるべく「父が日本人で母がドイツ人という国際児童」などと具体的に書くように心がける。

 はい。ま、なるべくそう心がけるだ、イシシ。
 そういえば、と思い出して、Wikipediaの「差別用語とみなされることがある言葉一覧」(参照)を見ると微妙ではある。

ハーフ、混血、あいの子
日本人と外国人の間に生まれた子供。また、違う種類の動物の間に生まれた子供の場合はあいの子も使われるが、いずれも差別用語あるいは不快感を与える用語として、放送での使用は控えられている。

 どうやら「ペコポン侵略」と同じようだ。ついでに「ハーフ」の項目(参照)を見たら、こうある。

3 日本人と外国人など人種、国籍あるいは民族の異なる男女間に生まれた子供。著名人では岡田真澄、宮沢りえ、加藤ローサ、ダルビッシュ有など。主に日本のみで使用され、純血思想による呼称であったり、「半人前」という意味を持つことから、差別用語ではないかとの意見がある。近年では、欧米で一般的に用いられる混血という意味のミックス(mix)や、二重のルーツや文化を持つという意味のダブル(double)に変えようとする動きがある。しかし、ダブルという呼称は、在留アメリカ軍と沖縄に住む日本人との混血児が通う、創価学会の「アメラジアン・スクール」で使われていた呼称である。沖縄が抱える基地問題を背景としており、本来は、生まれてから一つの文化の中で育ったものには当てはまらない。ハーフと日本人の子供はクオーター(四分の一、1/4)と呼ばれる。

 そういえば、沖縄で暮らしているときそういう言いかえ運動がよくあったなと思い出す。当時の自分の生活圏にも何人もクオーターがいた。というか、ハーフはその母の世代になるから。彼ら彼女らは……というところで、さて、沖縄の話をするとまた嫌われるか。はてなダイアリー「perish the thought!」”[雑感]カタカナはわかりません”(参照)でも言われたしな。ってことで、パス。
 話を戻して、平野レミだが、そういえばと思ってアマゾンで彼女の父平野威馬雄の本のリストを見てみたら、「エプタメロン―ナヴァール王妃の七日物語(ちくま文庫)」(参照)がトップ。そして、威馬雄先生お得意のお化けの話が画家で平野レミの兄の平野琳人の共著で並ぶ。
 怪著「陰者の告白(ちくま文庫)」(参照)は絶版らしく古書にプレミアがついていた。
 なにより平野レミの名前の由来を暗示する「レミは生きている(ちくま文庫)」(参照)は古書でもプレミアつけても買えないみたいだ。こういう本こそ中学生くらいに読んでおかないといけないと思うのだがと、同書と威馬雄先生のことを思い出すとなんか泣けてきそ。
cover
家なき子
 レミという名前自体は、「家なき子(河出文庫)」(参照)のあのレミである。ちなみに、同文庫の訳者の一人福永武彦は池澤夏樹の父である…云々。
 英語ではハーフはなんと言うのか? まるで思いつかない。"half"とかベタでいうわけもあるまい。そういえば、この「ハーフ」という和製英語は、私の歴史的な語感が確かなら、「オンリー」と同じ地平のものだろう。こちらの言葉は消えた。消えていい。
 英語では"mixed"とでもいうのか…どうもそんな気もしない。沖縄での米兵と日本人母の子供を幾人か思い出すが、特になんと呼んでいたか思い出せない。英語では特に言わないような気がする。うちなーんちゅのおじーたーに言わせるとクオーターもみんな「あめりかー」だった。別に差別意識もなんにも感じられなかった。「たーちまちゃー」とか「がっぱやー」とか「かんぱちゃー」とか言うのとそれほど変わらない。おっと、そういう話はやめとこ。

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2005.11.20

生活保護は国がするのか地方がするのか

 ちょっと手間がないのでメモ書きみたいになる。あるいは問題が難しいので、なんとなく書かず仕舞いになりそうでもあるので、その意味でも一応触れておこう。
 テーマはとりあえず単純に言えば「生活保護は国がするのか地方がするのか」ということ。私の結論も単純にすれば、地方がすればいいのではないか、というものだ。ただし、この問題はディテールが非常にやっかいだし、制度や実態の把握も難しい。現実問題としては、政府がやろうとしているようにここでゴリっと進めればいいとも言い難い。
 この問題が厄介なのは、昨今の流れで見ると、この問題解決の気運が高まって出てきたというより、例の奇妙な名称の「三位一体改革」のカネの辻褄合わせで出てきたためで(八〇〇〇億円相当)、本来の問題解決のプロセス(それはそれなりにあるせよ)から導かれたものではない。ただ、こうした問題は、私としても自分でも矛盾すると自覚はするが、どっかでゴリっと進めないとどうにもならないのかもしれないとも思う。
 三位一体改革のカネの辻褄合わせという点では、生活保護は国か地方かという問題は、「極東ブログ: 中央教育審議会最終答申は無意味になるのだろうが…」(参照)で触れた義務教育の問題と類似の構造がある。が、構造が類似なのに方向は非常に異なるのが面白いといえば面白い。簡単に言えば、地方は概ね義務教育費についてはヨコセと言っているのだから、生活保護費についてもヨコセと言うならすっきりする。が、そうではない。地方は、そりゃ困る、国がヤレ、と言っているのである。
 そうした構図だけで言うなら、地方の言い分は矛盾していてむちゃくちゃにも思えるのだが、地方としてもそれなりのスジはあるにはあるようだ。概ねのところで言えば、省庁紐付きの各種助成金の削減を累積すれば一兆円減になるのだから、そうせい、というわけ。そうした点から言えば、いきなし生活保護は国か地方かって問い詰めかた自体スジが違っているのだ。ようするにカネをどうせい、という問題に矮小化したからしっちゃめっちゃかということでもあろう。もうちょっと国と地方の両者の思惑を読めば、今後生活保護費は増大する一方なのでババを引くのはいやよんでもある。
 とはいえ、地方の言い分とかで言われる、生活保護は憲法が保障する国の義務だというのはちょっとおかしい。それはたしかに国の義務だが行政単位としての国が任務に当たれということではない。この議論はお好きな人はお好きだろうが、私は本筋として国は小さいほうがいいし、地域の生活圏から国はできるだけ遠隔化すべきだと思うでこの議論につっこむ気はない。というか、最終的なセイフティネットとしての国の機能は平時ではなくイマージェンシー(緊急事態)の対応だけ明確にすればいいだろうと思う。
 それに地方の言い分がこのまま通れば、生活保護の規定も国の一律ということになり、地方の実態にそぐわないことになる。やっぱ、地方はその裁量と権限を持つべきだろう。
 で、だ。ぶっちゃけ地方にはそれだけの行政の能力がないでしょというか、そうした能力を育成する助走期間もなかったでしょというのが、実態ではないのか。
 とすれば、理念的に正しくてもあるいはマクロ経済学みたいに学問的には正しくても画餅になるだけで終わりというのが見えるなら、議論すら無意味になりかねない。じゃ、国が有能かというとその議論もまたお好きなかたはどうぞといった趣きではある。
 結局どうかというと、国だって無い袖は振れないという現実を直視するしかないわけで、地方移譲の方向を多少なり段階的なり弾力的に推し進めるということだろう。
 話の方向をちょっと変える。
 この件についてNHKの解説番組を見ていたら、ちょっと気になる数値があった。識者にしてみれば当たり前なのだろうが、生活保護対象の人口だが、昭和六〇年には一四七万人。それが平成七年に八八万人となり、平成一六年に一四二万人となったというのだ。
 私の庶民的な感覚からすると、平成七年あたりから昨今生活保護者が増えているのはわかる。自殺者も増えているし、生活は苦しいよな、である。が、昭和六〇年から平成七年にかけてなぜ減少していたのかが、わかるようでわからない。もっと脊髄反射七六へぇしてしまいそうなのは、昭和六〇年の生活保護者の人口が現在と同じというあたりだ。よくわからないので思いつきでいうのだが、昔のほうが社会は安定していたというなら、現在の生活保護者数の水準というのは、美しい日本の普通の状態っていうことはないのだろうか。
 関連して、今回の問題の発端は、よーするにカネカネカネということで、現在の生活保護費二・五兆円はつらいよねということだが、一〇年前に比べると一兆円増えているらしい。なるほど平成七年ごろは現在より生活保護者が少ないのだから、そりゃ納得、なのだが、その前の昭和六〇年ころはどうだったのだろうか。生活保護者数が現在と同じなら同じくらいの出費? もちろん一九八五年の経済と今の経済は違うのだが、そのあたり二〇年前はどうしていたのだろうか?
 くだらないことに関心を持つようだが、生活保護の問題が最終的にはその半分の責務が地方の問題となれば、それほど潤沢でもないカネで地方における社会・生活圏の問題として困窮者を助けていかないといけなくなる。
 そういう問いを出したとき、二〇年前はどうしていたのだろうか、この二〇年間でどう変わったのだろうかというのが気になる。この二〇年私も大人として生きてきたのだが、うまくその風景というかその歴史の生活的な感触が思い出せない。
 もうちょっと言うと、この問題、生活保護者数の増減という問題だけとすると、そこには隠れたパラメーターがありそうな気がするし、そのパラメーターが問われないと問題の解決にはならないのではないか、と思う。

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