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2005.11.05

ブラジル銃規制国民投票失敗の雑感

 少し旧聞になるが、先月二十三日ブラジルで銃器類や弾薬の販売禁止の是非を問うという世界初の国民投票が実施され、結果はすでに報道されているとおり、販売禁止に反対が六三・八九%と多数となった。つまり、銃器類や弾薬の販売の規制は失敗した。
 夏頃(現地の実感では冬だが)までのブラジル世論の雰囲気としては、これで銃器の規制ができるという感じではあった。CNNジャパン”「銃の販売禁止」の是非、国民投票で反対派が多数 ブラジル”(参照)がこう伝えている。


ブラジル政府は昨年、銃の買い戻し計画を実施して35万丁の拳銃やライフル、散弾銃を回収した。この結果、保健省によれば死者数は8%低下。そのため、ある世論調査では、銃の規制強化を求める人々は今年初めには80%に達していたという。

 同記事では、国民投票の直前になって拍車をかけた規制反対派によるキャンペーンが功を奏したとしている。曰く、「政府はあなたをちゃんと守ってくれるのか?」ということだ。
 ブラジル直の声を伝える二十五日付けニッケイ新聞”銃器販売禁止は「ノン」=国民投票=反対派、63%と圧勝=治安対策への根強い不信感噴出=ルーラ政権への反発も”(参照)では、標題のようにルーラ政権への反発という文脈を強調していた。

これを受けた関係者らは、政府の治安対策の欠如に対する不信感が噴出した証だと指摘し、野党筋は国会スキャンダルを隠ぺいしようとしたルーラ大統領への反発であり、手痛い黒星は来年の大統領選挙に影響するとの見方をしている。

 私の印象だが、今回のブラジル国民投票の結果は米国社会のように銃を肯定的に受け止めているというより、現状の政治的な状況が大きな要因なのではないだろうか。と同時に銃犯罪と共存している社会ということでもあるのかとも思う。先のCNNジャパンの記事にはこういう数値を示していた。

 ブラジルの銃による死者は年間約3万9000人に達しており、人口がブラジルより多い米国の約3万人を大きく上回っている。
 ユネスコによると、ブラジルの銃関連の年間死者数は人口10万人当たり21.72人で、世界第2位の水準。1位はベネズエラで同34.30人だが、人口が1億人を超えるブラジルと、2500万人ほどのベネズエラでは、死者の絶対数が違うとしている。
 あるスラム街での死者数は、人口10万人あたり150人で、17-24歳の男性に限れば、その数は250人に跳ね上がる。

 これはたぶん中近東の紛争地域並と言ってもいいだろうし、逆にそういう紛争地域は、こういった事態でもなければ銃問題がクローズアップされないブラジルのような地域ともそれほど変わらないのだろう。ちなみにブラジルの交通事故の死者数も同程度のようだ(参照)。ブラジルの人口は一億七千万人程度。日本の倍はないので交通事故死亡の率も高いと言えそうだが、率でいうならフランスくらいなものではないか(昨年は大幅に縮小したが)。
 銃犯罪の数字を見るとブラジルは危険な国のようにも見えるし、実際危険な面もあるのだろうが、交通事故と同じような風景という面もあるだろう。
 私は先日のラジオ深夜便のブラジルからのレポートで今回の国民投票の話があるのかとちょっと期待して聞いていたが、なかった。暗い話はしたくないというのもあったのかもしれないが、案外他国が思うほどブラジル社会では大きな話題でもなかったのかもしれない。日本としてもこの話はそれほど話題にもならなかった。

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2005.11.04

アン・ライスの新作はキリスト

 私はアン・ライス(Anne Rice)のよい読者ではないが、彼女のことはなんとなく気になっている。なので、今週号(11・9)の日本版Newsweek”ヴァンパイアからキリストへ(The Gospel According to Anne)”の記事に、彼女がいよいよキリストを描くと知って、そう、「いよいよ」という感じがした。

cover
Christ The Lord:
Out Of Egypt
 日本のアマゾンを見たら、すでに”Christ The Lord: Out Of Egypt”(参照)の表紙写真も掲載されていた。十一月の発売というからもうすぐなのだろう。私の英語読解力では楽しめるわけもない。訳本も遅からず出るだろうが、それにヴァンパイアものもまともに読んでないのに読めるものか。そういうためらいもある。が、それでも、死ぬまでに読まなきゃなリストの一冊にはなるのだろう。
 ある程度アン・ライスをみてきた人なら、彼女がなぜキリストを描くのかという疑問はわかないようにも思えるのだが、そうでもないのだろう。彼女のファンですら、なぜという疑問はあるようだし、実際刊行されればさらにそのなぜが深まるのかもしれない。彼女はそういう存在なのだから。そういう作家である以前に。Wikipediaの項目(参照)にちょっと面白いコメントがあった。

カトリックの影響を色濃く反映したその独特の非日常世界観で根強いファンを獲得する反面、その世界観に付き合えない人も多い。

 読書家なら苦笑するかもしれない。というか、ブログが興隆したりアマゾンの素人評が充実したりするにつれ、読書家というもののバランスのよい批評眼が必然的に見逃してしまう、本の魂というものがあるように私は最近思う。文学というのは、そのバランスのよい評価より、狂気とも言える愛着のなかでしか見えないなにかがあるからだ。
 アン・ライスについての苦笑というのは、ただ、もうちょっと別の側面がある。先のWikipediaの段落にこう続くのが印象的だ。

アン・ランプリング(Anne Rampling)、A.N.ロクロール(A.N. Roqueloure)のペンネームがある。

 ふと気になってアマゾンでアン・ライスの売れ筋を検索したら、おやまぁであった。

  1. 「眠り姫、官能の旅立ち スリーピング・ビューティ〈1〉扶桑社ミステリー」
  2. 「眠り姫、歓喜する魂―スリーピング・ビューティ〈2〉扶桑社ミステリー」
  3. 「呪われし者の女王〈下〉―ヴァンパイア・クロニクルズ扶桑社ミステリー」
  4. 「至上の愛へ、眠り姫―スリーピング・ビューティ〈3〉扶桑社ミステリー」
  5. 「夜明けのヴァンパイアハヤカワ文庫NV」
  6. 「呪われし者の女王〈上〉―ヴァンパイア・クロニクルズ扶桑社ミステリー」
  7. 「ヴァンパイア・レスタト〈上〉扶桑社ミステリー」
  8. 「ヴァンパイア・レスタト〈下〉扶桑社ミステリー」

 そういうことだ。アマゾンだからというのはあるかもしれない。ただ、このあたりいわゆる読書家というのと読書の行為というものの奇妙な関係に隠されるなにかを結果としてアン・ライスが暴き出しているようにも思う。
 私は知らなかったのだが、二〇〇二年に夫のスタン・ライスが脳腫瘍でなくなっていた。年齢は知らないが六十歳は過ぎているだろうから早世というものではないだろう。ちょっとアン・ライスの年代を調べたら、彼女は一九四一(昭和十六)年生まれで六一年に結婚している。スタンとの結婚は二十歳だった。娘ミッシェルが生まれたのが六六年。白血病で亡くなったのが七二年というから六歳になるかというところ。母としてのアンは三十一歳のことだった。その死が創作になんらかの影響はもっていただろう。
 Newsweekの先の記事によると、一九八八年に糖尿病が原因で昏睡、二〇〇四年には腸閉塞で手術を受け、死期が近いと噂されたそうだ。

 「これからは神のためだけに本を書く」と、ヴァンパイア・クロニクルズの産みの親は言う。ボブ・ディランが神への信仰にめざめたと宣言したとき以来の、センセーショナルな「転向」かもしれない。」
 今回の新作とその続編(全3作の予定)で、従来のファンを失うかもしれないことは、本人もよくわかっている。ライスは新作の後書きで、「今までの仕事を打ち壊す覚悟ができた」と述べている。

 十九世紀のロシア文学っぽい響きでもあるし、まさにそういうことなのかもしれない。私としては、たぶんその三作を読むのだろう、自嘲を込めてだが、イエス・キリスト・オタクだし。そのあたりは、「極東ブログ: 時代で変わるイエス・キリスト」(参照)にも書いたっけ。

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2005.11.03

土の器

 はてなブックマークの注目のエントリーに「はてなダイアリー - 土の器とは」(参照)というのがあり、ちょっと不思議な感じがした。いや、もう少しコレクトに言うと、注目のエントリーというのは三ユーザーのブックマークをもってリストされるのだが、その一人が私である。二ユーザーのリストを見ているとき、ふっと拾ってみたくなったのだ。
 「土の器」とはなにか。
 はてなのキーワードにはこう書いてある。


出 典 --- 新約聖書コリント人への第2の手紙4章7節から引用の言葉。
本 文 --- しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
 本欄執筆者の表現したい言葉の意味 --- 『自分は脆弱な醜い土の器』なのだと言うことは決して忘れないようにしようと思っているのです。『しようもない奴や、だけど使って下さる方があれば、お役にも立つように努力しような。』と言う自制と自助努力の言葉として使っている。

 まったくの間違いとはいえないまでも、間違いと言ってもいいのかもしれないなと思う。コリント2の4-7が出典というは明白な間違いではないし、正しいと言ってもいい。だが、このキーワードの解説はおよそ聖書的な世界とはかけ離れたものだ。理由は簡単で、聖書にあっては、「本欄執筆者の表現したい言葉の意味」というのは、俗人や平信徒にはありえない。そのありえなさかげんが、たぶん日本人は通じにくい。しかしまぁ、それも文化的な相対性の問題ではあるのだろう。
 通称東ローマ帝国から権威を詐称のごとくに受け取った…かのような…ローマ・カトリックが現代西洋のキリスト教の基点にあり、そこでは聖書の解釈の権限そのものが権威でもあり、それゆえに日本人などからすれば、きやつら奇怪な分派を起こし米国に伝搬するや以下略という状況になった。
 日本の近代化というのは西洋化でもあるので、西洋のあっちこっちから散発的にキリスト教が伝搬されたが、戦後は米国が多い。終戦から遠くない時代はリベラルなキリスト教も多かったようだが、いつのまにか米国のキリスト教や日本で宗教として見られるキリスト教は、エヴァンジェリカル(福音派)が目立つのようになった。もちろん、私にはどうでもいいし、日本人の大半にもどうでもいいことだ。
 大正時代から明治時代へと遡及したように見直すと、「本欄執筆者の表現したい言葉の意味」的なキリスト者やその精神運動のようなものをよく見かける。仮想の武家の倫理のようなものが看板を付け替えたようにも思えるが、その西洋臭い時代も時折振り返ると面白い。森鷗外の墓銘は森林太郎であり、原敬もまたしかり。昨今の日本は右傾化だとか騒ぐ輩もいるが、あの時代に伸びたかもしれないリベラルな日本がひっそりと伸びているだけかもしれない。
 土の器と聖書の話に戻る。聖書は、新約聖書は純然ととはいえないし、旧約聖書にもそういう側面はあるのだが、基本的にはユダヤ教の文書であり、その世界観の中にある。土の器というときも、その世界観に還元していかないとわからないものだ。ではそれはなにか。
 少し話を端折ろう。土というのは粘土である。彼らの神は、粘土をこねこねとして神の形に似せて人間の形を作り、そこにぷーっと神の息を吹き込んだ。おかげで、人間というのは寝ているときも鼻から息が出たり入ったりする。そうしないと、元の土に戻る。もちろん、神話であり、語られる神話がそうであるように、言葉遊びでもある。土はアダマーであり人はアダムという駄洒落だ。
 この神話の人間観によれば、人というのは泥人形なのである。泥人形から人間ができるということは西洋の魔術師達がゴーレムを作成したことで知られているが、ま、そういうことだ。だから、素焼きの陶器と同じで、人間などというものは、がしょっと石に叩きつけて粉砕すれば、また土に戻る。神が創造者であり、人間が被造物、というのはそういうことだ。
 土の器には「脆弱な醜い土」といった価値判断などない。ただの粘土で創作された物なんで壊れるということだ。

陶器が陶器師と争うように、
おのれを造った者と争う者はわざわいだ。
粘土は陶器師にむかって
『あなたは何を造るか』と言い、
あるいは『あなたの造った物には手がない』と
言うだろうか。
(イザヤ45-9)

 ふとこの「土の器」という表現を英語でなんというのか、忘れていたのでネットで読み返してみた。
 私は若い頃英語の聖書を数バージョンもっていて読み返したものだった。というか、リベラルな米人クリスチャンというのはけっこうそういうことをするし、その便宜のために八冊まとめましたというような便覧書もある。比較の基本はAVと呼ばれるキング・ジェームズ版で、そして事実上の権威になっているRSVと呼ばれる米国改訂版がある。日本の昭和訳というかはRSVに依拠していたはずだ。RSVはけっこうギリシア語的にも正しい。というか、その後の翻訳は日本の共同訳でもそうだが、理解することが念頭に置かれ、意訳が多くなってしまった。意訳の聖書を読むのは私のような人間にはつらい。
 AVでは、「土の器」は、earthen vesselsとあった。よい英語である。earthenの響きがギリシア的でよい。さて、RSVではと探すと、ネットにはRSVが見つからず、ASVがあった。同じか。違いがよくわからない。訳語を見るとAVを踏襲していた。さらに最近の聖書訳では、jars of clayとあった。jarsかよ。
 手元の英語の字引(研究社)を見たら、「ジャー《★比較日本では広口の魔法びんのことを「ジャー」とよんでいるが, 英語にはこの意味はない》」と親切だかお節介な解説がある。口の広めな素焼きの壺といったものではあるのだろう。
 日本語となった「土の器」は、おそらくAV系のearthen vesselsをひいたままなのだろう。共同訳ではどうなっているかなと書架を見たら、共同訳の聖書はないや。あはは。読まないから消えてしまったか。
 さらに最近の英語の聖書を見ると、「土の器」は、perishable containersとあった。ほぉ、これはさらによい訳だなと思う。バーナンキみたいに禿げたラビたちが現代英語と格闘しているような連想もする。
 つまり、「土の器」というのは、「使い終わったら壊して自然の土に帰るようなエコな素焼き壺」なのである。イザヤ書に「手がない」とあるのは、取っ手がないということだろうか。
 ぼんやりネットを眺めたいら死海文書が収まった土器のジャーの写真がある(参照)。吊し用だろうか小さな取っ手がある。これは取っ手じゃなくて、耳? 知らんが。

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2005.11.02

母親毒殺未遂高一少女事件の印象

 事件の呼称としては、母親毒殺未遂高一少女事件となるのだろうか、四十七歳の母親に劇物のタリウムを摂取させ殺害しようとした容疑で、十月三十一日、静岡県伊豆の国市の高校一年生女子生徒が逮捕された。彼女は服毒自殺を試み十月二十一日に入院し三十一日に退院しているので、逮捕はそれを待ってのことだと思われる。現在容疑は否認している。
 昨日のニュースでは、彼女がブログに母親の容体の変化を記録していたことが十一月一日時点でわかったともあった。ブログということなら、サーバーで情報を封鎖しても少し調べるならキャッシュなどである程度わかるだろうし、この手の事件は早々にネットワーカーが調べ上げるだろう。案の定、すぐにわかった。が、私は奇妙な違和感をもった。
 ブログというは楽天日記だった。楽天日記は中学生などお子様やアフィリエート奥様、つまりCSSなどチューンできない非技術系のブロガーが多く、そのせいか政治議論なども世間並みの風情があってそれはそれで面白い。彼女は高校生のわりに化学知識などもあり理科系少女風に見られるのかもしれないが、違うだろう。
 該当ブログと思われるものをざっとみたときの違和感だが、それが男性名で書かれていたことだ。これは本当に彼女のブログなのだろうかとも思ったが、ジャーナリズム側のほのめかしのファクツをいくつか照合するに、ガチなのだろう。なぜ、男性名で? すぐに思い浮かぶのは偽装である。そうなのだろうか。
 次に男性名である虚構性から当然導かれることだが、そのブログに描かれている母親毒殺というストリーと現実を繋ぐものはなんだろうかと考えた。それはプライマリーには存在しない。ブログの記述と現実の事件を結ぶのは、ある種の思い込みに過ぎないとも言える。だが、たぶん、そこには事実に近い関連性があるのだろうという、一種の確信が私にはあるし、毎日新聞”静岡劇物事件:女子高生、ブログに母の容体 猫使い実験も”(参照)といった新聞記事もそうした前提で叙述している。


 女子生徒のブログでは、母親の容体の変化や当時の心情、薬品の購買記録などが記されていた。9月12日の欄には「今日も母の調子が悪い。2、3日前から脚の不調を訴えていたけど、遂に殆ど動けなくなってしまいました」などと書き込まれていた。「今日薬局から電話がありました。問屋が“酢酸タリウム”と“酢酸カリウム”を間違えたらしいです。すぐに取り替えるそうですが、待ちわびている」といった記述もあった。

 私の心象世界では、なぜ母を殺したのか、それがなぜ毒殺だったのか、なぜ男性名匿名で公開の心情が語られていたのか、そのあたりの疑問がうまく落ち着かなかった。
 母を殺すということは文学的な想像力を越えているものではない。継母ということならフランソワーズ・サガンの古典にして、事件の少女と近い年代に書かれた「悲しみよこんにちは(新潮文庫)」がある。継父というなら、三島由紀夫の「午後の曳航(新潮文庫)」がある。毒殺ではないが、ルイス・ジョン・カリーノが映像で描いた「午後の曳航」には、子供の憎悪がなしえるぞっとするほどの死のプロセスの暗示がある。
 もちろん、実母と継母は違うし、これらの古典文学では、大人の女の性と子供の対立が大きな意味を持っている。この事件はそうした構図とはまったく別だろうか。おそらく全くというほど別ではありえないだろうと私は思う。
 というのは、毒殺という死への関わりはそれが歴史に見られるような功利性でなければきわめて苦しみとの関与を伴うものであり、むしろ死よりもその苦しみの過程への感受を前提としているからだ。それは、おそらく性的な情念に近いものではあるだろう。現存在分析のビンスワンガーの弟子とも言えるメダルト・ボスの「性的倒錯―恋愛の精神病理学」にある描写に類似するものではないか。
 が、私の直感ではそうした古典的な情念を越える何かを、そのブログのざらっとした印象から受け取った。迂遠な表現で包まないなら、それは、無価値な存在に死を与えることになんの問題があるのだろう?という奇妙な自意識である。この意識は常人から遠いものでないのは、ダウンタウン浜田雅功が「死ねばいいのに」というギャグで覆っている笑いのなかにあることからもわかる。他者という存在の奇妙な欠落はまさにドスエフスキーが「罪と罰」で罪と呼んだものに近い。末人たちはみなラスコリニコフになったし、それをいくばくかブログが増幅させているのだろう。
 そうした思いの錯綜のなかで、彼女が少し謎をかけて他者を遠隔化したような掲示板に記した次の言葉は私には衝撃だった。

(無題)  投稿者: 岩本  投稿日: 8月28日(日)01時30分18秒
引用
さて、そろそろ僕は本当の事を話そうと思います。
余り言いたくなかった事だし、変に思われるかもしれないので暫く待ちます。
此処が最後の引き返し地点です。
帰りたい方はどうぞお早めにお帰り下さい。


帰らなかったみたいだね。
本当は大した事じゃないんだ。下らない事だよ。
それでも聞く?


わかった、話すよ。


僕は女だ。

 ここで彼女が自身の偽装をしていると見る人もいるだろう。あるいは、男性的な心性の傾向があったのだろうと見るのだろう。私は、違った。私は、そのままに「僕は女だ」という言葉を受け止め、そのまま衝撃を受けた。
 私の感覚に一般性はないだろうが、この言葉はまさに、その「僕」によるものであり、「僕」が毒物をもてあそぶことで他者との関心の関係性を築こうとしていた。そして、「僕」は、その身体の感触と他者からの身体への視線においては「女」だった。
 「僕が女だ」ということが彼女の言語表出の根幹近いところにあり、むしろ肉親との心理的な関係性はその派生からくるものなのではないか。と、そう言ってしまえば、性的なアイデンティティの問題に矮小化されるかもしれない。そういう傾向がないわけではないが、ここにあるのは、女性であることの違和感ではなく、ただ、「僕は女だ」という秘密の語りであり、その語りのリアリティを保証しているのが毒物の記述であり、そして現実の人間の苦しみへの関与だった。
 先の毎日新聞記事ではこうさらっと記している。

 ブログの中では自分のことを「僕」と呼び、「一度だけ生まれ変われるとしたら、僕は植物になりたい」とも書かれていた。

 私は自分の心のなかで何かが密かに泣いているのを感じる。理由は簡単だ。私は子供のころ、生まれ変われるなら植物になりたいと感じたことがある。いや、私の場合は、自分という存在が植物の転生だと感じていた。
 もちろん、植物の転生が人の世を生きられるわけもないがそれは私のつまらない人生という私だけの物語である。私は強く他者を必要としなかった。そういうタイプの人間は世の中に少なくはない。ひっそりと植物のように生きて死ぬことをもってよしとするのだ。
 彼女は、そうではなかった。なにかが暴力的に植物の世界から女の身体を与えたのだろう。そう、それは暴力的と表現すべき体験であったことを、たぶん事件が暗示していると私は思う。

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2005.11.01

中央教育審議会最終答申は無意味になるのだろうが…

 昨日の組閣は先日の改憲の自民党案と同じく、別に議論するほどの話題ではないように思えた。私としては、時事の話題としてはワンテンポ遅れたが、この間二十六日に出された中央教育審議会最終答申のことが気になっている。よくわからないのだ、なにがどう問題なのか。
 現在日本では、公立小中学校の教職員の給与は国と都道府県が二分の一ずつ折半で負担しており、昨年度を例にすると国庫への負担は二兆五千億円になる。金額を見るとわかるように、悪い洒落っぽい命名の「三位一体改革」の三兆円規模の税源移譲に近い。というわけで狙われている。つまり、この額を地方に譲るかというのが昨年時点の問題で、中央教育審議会(中教審)はこの一年間たらたらたらと無駄な議論をしてきた。
 と批難めいた言い方をするのは、この問題は経営の問題なのに経営的な思考ができるやつもいない中教審で議論すること自体ナンセンスっぽい。実際、まともな会社なら提出すべきカネと経営についてのまとめが出てこず、教育論みたいなものと、端的に言って旧文部省の権益指向みたいなものがボロっと出てきた。
 当面の議論は、まず中学校分の八千五百億円を地方が求めたのだが、文部科学省は強く反対してきたし、その反対の絵柄はなんか滑稽ですらあった。
 どうあるべきか。とりあえずは二者択一である。地方か文科省か。つまり、地方に譲るのか文科省が握るのか。
 結論の視点から、現場はどうかなとざっくりとブログを眺めてみるとあまり議論は見えない。というか、新聞のリンクとかコピペが多い。ブログがどう世論に関わっているのかただ基盤が弱いだけなのかよくわからない。
 新聞各社の見解を振り返ってみると、まず朝日新聞だが十月二十八日社説”中教審答申 文科省の代弁者なのか”(参照)では、地方側に立っている。


 子どもたちの教育が大切なことは論をまたない。とりわけ義務教育はどこでも一定の水準を保たねばならない。だからといって、教職員の給与の半分を国が握っておく必要があるのだろうか。
 私たちはこれまで、地方に税源を渡すことについて「義務教育も聖域ではない」「教育を変える好機にしたい」と主張してきた。
 子どもたちの教育は、一定の水準を保つとともに、一人ひとりにふさわしいものでなければならない。地域ごとに中身や学級編成に工夫をこらす必要がある。そのためには、教職員の人材や財源を生かす仕事は、現場を肌で知る自治体にまかせた方がいい。

 読売新聞は十月三十日社説”[義務教育費]「中教審答申に重なる地方の声」”(参照)でみるように文科省側に立っている。

 答申を取りまとめた中央教育審議会の鳥居泰彦会長にしてみれば、真摯(しんし)に投げ返したボールの行方を案じるのは当然だ。政治の力で黙殺されるようでは、中教審の存在意義も疑われてしまうだろう。
 現行の義務教育費国庫負担制度を維持するか、それとも地方に税源移譲し一般財源化すべきか。中教審が政府から、教育論の見地で意見を出し合い、結論を得るよう求められたのは昨年秋のことだ。100時間を超える論議の末、制度「堅持」の答申に至った。

 後段、お茶をぶっと吹いてしまいそうだが、ようするに文科省に任せろというわけで、後段では実は地方の声もそうなんだという愉快な展開になっている。
 朝日と読売を比べて短絡的に政治スタンスの左右でいうなら、左翼は地方指向、右翼は文科省指向ということになる。
 ついでに産経新聞はというと十月二十日の社説”先生の給与 肝心な視点が欠けている”(参照)は議論が明後日を向いているのだが、文科省側に立っている。

 公立小中学校の教員給与にかかわる税源移譲をめぐる問題で、中央教育審議会の義務教育特別部会は、従来通り国庫負担率を二分の一とする答申案を賛成多数で決定した。地方側はこれに強く反発しており、最終決着は小泉純一郎首相の判断に委ねられる見通しだ。
 これにより、税源移譲の問題は政治決着に向かうが、肝心の教員給与の適正化の問題はまだ、ほとんど議論されていない。先生の勤務実態を適正に評価し、それをいかに給与に反映させるかという問題である。

 後段も愉快で、ちょっと図に乗るとこうだ。

 最近、札幌市で、教員の昇給など人事評価の基礎となる勤務評定が行われていなかったことが明らかになった。同じような実態は北海道全域でも続いており、さらに、福岡県や沖縄県でも、勤務評定が行われていないことが明るみに出た。
 これまで、教員を三段階評価で一律「B」とするなど勤務評定制度を形骸(けいがい)化した例は、三重県や兵庫県などに見られたが、全く行われていないケースが表面化したのは初めてだ。いずれも、教育委員会と教職員組合の癒着が背景にあるとみられる。
 教員給与の財源がどう配分されようが、こんな自治体に給与配分を任せていては、どんな使われ方をするか分かったものではない。これが納税者の率直な気持ちであろう。

 つまり自治体なんかに任せておけない、ということで、文科省寄りと言っていい。
 ついでに愉快な赤旗でも読んでみる。十月三十一日付け”国庫負担「廃止」は教育条件引き下げる”(参照)はこう。

 小中学校の教職員の給与の半分を国がもつ義務教育費国庫負担制度。小泉首相は、文科相の諮問機関である中央教育審議会(鳥居泰彦会長)の「制度維持」の最終答申(十月二十六日)を無視し、廃止・削減の方向です。憲法が定める「無償の義務教育」が岐路に立たされています。

 というわけで、朝日新聞と異なり共産党は文科省寄り。共産党は産経新聞と仲がよろしいようだ。
 が、いずれにせよ産経新聞や赤旗がくさっていたように、結果としては、内実文科省の中教審結論は握りつぶされることになるだろう。つまり、地方にこのカネが移されるだろう。それが小泉政権の意思でもある。
 ということは、朝日新聞と小泉政権は仲良しなのである。産経新聞と赤旗が仲良しというのに合わせて、面白い政治風景というか風流ですらある。
 議論とか立ち位置がなんであれ、この問題は実質経営論的な問題なのに経営的なビジョンが欠落しているという状況は変わらず、大丈夫か地方、ということになるのではないか。
 日本は今後少子化に向かっているが、義務教育レベルでは一教師が担当する生徒数は二十人以下に減らすべきというふうに人事的なリストラはそれほどでもないし、共産党が喜ぶようにがんがん地方税を注ぎ込んでいけばいいのだが、小中学校という建屋はリストラされてしかるべきだろうし、学区も整理するしかない。
 というか、まいどながら地方で一括されるけど、そんじょそこいらの国家規模の東京と、有能な昭和の政治家を輩出した島根県と一緒くたにできるわけもない。
 理念を吹くのはいいけど、現実の地域社会の運営問題として、地域の教育はどうなっていくのだろうか。というか、どう学校が経営されるのだろうか。そのあたりが、まるで見えない。
 余談だけどというか、それまた風流という趣きなのだけど、文科省の「義務教育費国庫負担金の取扱に関する報道について」(参照)で文科省が朝日新聞と読売新聞に文句を言っている。文科省、必死?

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2005.10.31

天高くマラリアなどを思う秋

 今朝の読売新聞社説”[新型流感]「備えは大丈夫か再点検しよう」”(参照)をざっと読んだあと、変な感じがした。なんか、なんにも伝わってこないのである。もちろん表面的には危機感が表明されている。


 日本は大丈夫か。政府は、対策を再点検しておく必要がある。
 現在、最も心配されているのは「H5N1」という型の鳥インフルエンザウイルスだ。鳥同士だけでなく、人に感染することもある。病原性も強い。これまでに、ベトナムやタイ、インドネシアなどで60人以上が犠牲になっている。
 犠牲者の一部では、人同士の感染も確認されている。これが人から人に容易に感染する新型に変異すれば、数週間で世界に拡大する、と懸念されている。

 間違いではないのだけど、「日本は大丈夫か」の次に「政府は」と続くのか。政府の対応は必要だが、どうにも他人事感が漂う。
 読後しばしぼうっと窓の向こうの秋空を見ながら、そういえばこのところ卵かけご飯の話題をよく見かけるが、欧州では生卵を食べるのは禁止というニュースが日本に流れてこないようにも思う。例えばロイターだが”EU agency to advise against eating raw eggs”(参照)はこう伝えている。

The European Union's food safety agency will on Wednesday advise consumers to avoid raw eggs and raw poultry in order to prevent the spread of bird flu, an official at the watchdog said, confirming a newspaper report.

 鳥インフルエンザ予防というなら生卵が一番危険だ。もっとも、と私はまたぼけっと窓の向こうの空を見て、そんなこと日本で言う必要もないかと思う。確かに日本の状況では実際は問題ないと言っていい。むしろサルモネラ菌が問題なのだがそれとてもそれほど大きな問題でもない。
 そういえば、鳥インフルエンザ予防と限らないが、風邪の季節一番重要な予防は手を洗えということで、ざっと見たらUPI”Law would require students to wash hands”(参照)だがイリノイでは学生に手洗いをせよと規制するそうだ。余談だが日本人は手を洗うというと掌を洗うが、米人は甲を熱心に洗っている。皿洗いでもそうだが物を洗うときは裏面が重要ではある。
 とまたぼんやり空をうつろな気分で見ながら、日本にはマラリアはないなと思った。先日結核の話を「極東ブログ: 結核というトトロ」(参照)に書いたが、日本ではもうマラリアというのは聞かなくなった。よいことではあるのだろう。金鳥のサイトの”蚊を侮ることなかれ”(参照)を見ると、日本では一九五九年に消滅とある。沖縄も含めての日本だろうか。五七年生まれの私は復員兵がマラリアに苦しんでいた光景を思い出す。
 同サイトには現代世界のマラリアについてこう触れている。

マラリアという蚊が媒介する病気はご存じでしょうか? 21世紀になった現在も、熱帯を中心とした約100カ国(人口が約20億2000万人)で3~5億人が感染し、毎年、子供や妊婦等を中心とした150~270万人もの尊い命を奪っている恐ろしい病気です。しかし、感染者の大半は免疫を持っているため、全ての人が重い症状をあらわす訳ではありません。これらの国の栄養状態や、住居環境の改善が図られれば、死者も大きく減ると言われています。

 そういうことではある、というか、看過できないほどの死者数である。たしかに蚊はなぁというのとそういえばDEETの問題もあるんだが、ま、それは今日は触れない。
 今日の中国新聞には”マラリア対策に300億円 ゲイツ基金が寄付”(参照)の記事があった。

ソフトウエア世界最大手、米マイクロソフトのビル・ゲイツ会長夫妻が運営する「ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金」は30日、マラリアのワクチンや新薬の研究などのため、計2億5830万ドル(約300億円)を欧米の研究機関などに寄付すると発表した。

 寄付は今回が初めてではない。米国のマラリア撲滅への取り組みは外信を読んでいるとけっこう目立つ。日本も蚊遣などを多数アフリカに寄付している。ネットを見ていたら「蚊帳と安眠の あんみんドットコム 菊屋」(参照)という専門店に”あんみんハンカチ運動”(参照)というのがあった。もうちょっと詳細がわかるといいなとは思った。
 立ち入るといろいろ難しいのだが、マラリア撲滅には薬剤の問題もある。ざっとみたら、「熱帯病治療薬研究班」(参照)のサイトにクロロキン耐性の話があった(参照)。

 熱帯熱マラリア以外の急性期治療薬としては殆どの場合有効性を示すが、三日熱マラリアでは再燃による治療不成功例がパプアニューギニア、スマトラ、イリアンジャヤ、ミャンマー、バヌアツ、インド、ブラジルのアマゾン地域などで生じている。

 他に、「国境なき医師団」の「必須医薬品キャンペーン ~対象疾患~」(参照)にはけっこう詳しい解説がある。つまり、そういうことなんだよな、とちょっとお茶を濁す。

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2005.10.30

バーナンキ祭の後

 バーナンキ祭、正式には、バー・ナン・キ祭の後である。私のようなおっちょこちょいが出てくるのはよい頃合いである。後の祭りだとちょっとなにかとなんだが。それにおっちょこちょいは私だけではないかもしれない。政治オンチの聖人クルーグマンが政治混濁志向米ミンス党機関誌鴨ニューヨークタイムズに”Bernanke and the Bubble”(参照)というカネを払わないと読んじゃダメよ記事を出したが、それが違法転載されたり和訳されているものも、まだ祭でぇと勘違いした意気込みなのだろう。そんなの読むまでもないプリンストン大学の納豆ワークじゃんとか言うのは野暮すぎる。とはいえハイセンスなAA札を貼るのもなんだかな、と。

cover
リフレと金融政策
 というわけで、無料で読めるワシントンポスト”After Alan Greenspan”(参照)をまたーりとまで言わずともほげっとした気分で読んでみるかね。
 その前にバーナンキの紹介だが、Wikipediaを見ると…あれ、ない。へぇーないんだ(感動)。日本語には説明がないのか、なるほど。もちろん、英語のほうにはあるBen Bernanke(参照)である。ドビルパン的に呼ぶならベンバーナンキでしょう。ベンダサンでもあるし。そう、お名前はBen Shalom Bernankeというわけで特に解説は不要ですよね。どう見てもカルピスです。グリーンスパンもそうだったし…でもそのあたり解説している人いるかなとググって見たら、なし。え? 空気を嫁? そ、じゃ次行ってみよう。
 バーナンキの手短だが正式の経歴は白い家にある(参照)。日本語で比較的詳しいのは毎日新聞記事”次期議長のバーナンキ氏 就任直後に試練も”(参照)だろうか。

 ハーバード大経済学部を首席で卒業し、金融政策の研究で最先端を走るプリンストン大で経済学部長を務めた理論派。学究肌ながら、難解な経済用語を平易な言葉に翻訳できるのが持ち味だ。ブッシュ大統領は指名会見で「スピーチは洞察力が鋭く、明せきで分かりやすい」と称賛した。
 主張は大胆でも、人柄は穏やか。プリンストン大の同僚だったブラインダー元FRB副議長が「一緒に多くの論文を書き、昼食を何度もともにしたが、共和党員とは知らなかった」と振り返るように、政治色は薄い。大リーグファンで、球団を経営していたブッシュ大統領と野球談議に花を咲かせることもある。
 「米経済の繁栄と安定を持続するため全力を注ぎたい」。バーナンキ氏は指名会見で重責をかみ締めるように語った。
 家族は妻と娘2人。51歳。

 ということ。
 日本で一部祭になっているのは、「リフレと金融政策」(参照)の一般評(子母原心)あたりの空気からわかる。

 我が国ではインフレ目標政策というと、「インフレ下でインフレを抑制するために導入されたのであってデフレを阻止するために導入された前例がない」などという反対論がまかり通っているが(よくよく考えればこれはバカバカしい理屈である。だが「バカバカしい」と思わない奇妙な考えの持ち主の何と多いことか!)、本書はそのインフレ目標論研究者の、本家本元の論説である。読むべし。

 リフレ派、インタゲ派にはバーナンキが援軍のように見られているのだろう(棒読み)。彼は、アメリカ大恐慌研究の第一人者ということでもあるし、その応用はそのスジでは昭和恐慌についての新しい定説化しているふうでもある。
 金融政策としての主張は、いうまでもなく、インフレターゲット論(インタゲ)であり、彼のインタゲ理論は数学的にあまりにエレガントで人間を必要としないほどにまで洗練されてる。中央銀行の金利決定に役立つコンピューターを作ればいいのである。いやぁ、そうだったんだよね。ボーイングの飛行機の事故は人間が操縦するからであって、エアバスのように操縦はコンピューターにまかせるほうが安全なのである。そうよそうよ。
 悪い冗談言うな? そんなことはない。ワシントンポスト”Inflation: Man vs. Machine”(参照)でも伝えている。

Before Mr. Bernanke came to Washington -- and long before President Bush nominated him to run the Federal Reserve -- he proposed creating a machine to crank out the central bank's interest-rate decisions.

Ben S. Bernanke, then chairman of Princeton University's Economics Department, worked with a colleague in 2001 to design a mathematical model that could absorb economic information and recommend how to adjust short-term interest rates to keep both inflation and unemployment low.


 もっとも、今となっては、マジーこと言った俺?的な弁解もついているので、そのあたりに期待しようっていうことなんだが、ま、期待といってもね、心理学的なものではなくてというのが、冒頭触れた”After Alan Greenspan”なんかにも出ている。

In his academic writings, Mr. Bernanke has argued that central banks should set explicit inflation targets. But such targets may get in the way of other legitimate concerns; for example, heading off remote but potentially costly dangers, such as a drastic loss of confidence in the wake of a disaster.

 ご立派なインタゲ理論とかでも、現実にはまじーこともあるっしょ("get in the way of")、と。要するに危機への対応というのは理論通りにいかないでしょ、と。ボーイング的というか、ま。
 ようするに修羅場でのチカラが求められている。学歴なんかより"crisis manager"でなければならない。その点で、グリーンスパンがボルカーを継いだときに比べて、"novice"であるというのだ。

In such a research-based, quasi-academic institution as the Fed, Mr. Bernanke's intellectual horsepower confers the status needed to lead the institution successfully. But compared with Mr. Greenspan at the time of his appointment, or indeed with Mr. Greenspan's predecessor, Paul A. Volcker, Mr. Bernanke is a novice in policy circles and untested as a crisis manager. Aside from his three years at the Fed, he has served four months as chairman of Mr. Bush's Council of Economic Advisers; he has never had to manage the response to the default of a country, the collapse of the dollar or the implosion of a big hedge fund, all crises that may lie in his future. Given the shaky quality of the Bush economic team, that is a disturbing gap. Other Fed governors have more crisis experience, and Mr. Bernanke may need to rely on them.

 とはいえ、そのあたりの話はクサシ、というに近いというのが妥当な評価でもあるだろう。グリーンスパンが登場したときの市場の動向に比べれば、ワシントンポストも開口一番"YESTERDAY'S BIG economic story was the lack of a story: "というほど穏やかなものだった。
 祭はさておき。
 具体的に次はどう?というのをワシントンポストのスジから見ていくと結語のあたりの次の曖昧な記述(私には曖昧ということ)が気になる。

Equally, Mr. Bernanke has argued that central banks should not try to affect stock market and other asset prices, but there may be circumstances in which the Fed should try to do that.

 たぶん、「極東ブログ: 米国の住宅バブルが終わるらしい」(参照)でもふれた住宅バブルの問題なのだろう。目下の指標としては、「極東ブログ: グリーンスパンの難問(Greenspan's conundrum)」(参照)でもふれた長期金利の動向だろうか。

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