« 2005年9月25日 - 2005年10月1日 | トップページ | 2005年10月9日 - 2005年10月15日 »

2005.10.08

「人生を変える巨大プロジェクト」について

 電車の吊り広告の写真をぼんやりみていると、こりゃあ風呂に溺れた白人の赤ん坊か、あぶねーな、慣れない風呂なんぞに入れるからだよ、と一瞬思う間もなく、キャッチコピーが目に入る。「人生を変える巨大プロジェクト 母になる!」
 CREAという雑誌である。ふざけた企画だなと思う前に嫌なことと同じ記憶のカテゴリーに放り込んで忘れていたが、ふとしたことで「これ笑えるわよ」と言われ、CREAをめくってみた。ありゃま。
 ハリウッド・セレブの妊娠写真だのに続いて、ともさかりえと書いてある写真がある。女子高校生さん、その後結婚して子供産んだんだっけか、今、おいくつ? 二十六歳。というわけで、ファッショナブルに子どもを生んで育てるっていうネタが続く。さすがオヤジ文化の文藝春秋だな。こんなもの女性が読むのか。読む。そうですか。
 さらにめくっていくとこれは、タマゴクラブヒヨコクラブかという展開もあり(それほどビンボ臭さはなさげ)、なんだかわかんないなと思っていると、酒井順子の見開きエッセイがある。リードがすごい。泣いちゃいそ。


「子供は授かりモノ」時代は終わった
普通にしていては母になれない
晩婚化が進む一方のこんなこんなご時世、
そもそも私たちは母になれるのか。
『負け犬の遠吠え』の酒井順子が解説する、
負け犬予備軍の私たちの結婚・出産問題!

 内容はというと、テンプレ以上のものはないので読むだけむだっぽい。締めはこんな感じ。

あなたの身の回りには、「自然に結婚、自然に出産」というラッキーな道を歩んでいる人ももちろんいることでしょう。しかし「だから私もできるはず」と思うのは、もはや危険。「自分は本当は何がしたいのか」ということについて早くから真剣に考えなくてはならないのは、仕事のことだけではないのです。

 文中には彼女が集めたデータなのか編集部が封筒に入れて先生ご参考になってなのか、イラストに混ぜてグラフがいくつが掲載されている。ありげといえばありげなのだが、あらためてみるとふーんものではある。
 結婚に利点があるという統計を見るとこの二十年近く女性の意識はあまり変わってない。男性がジリ貧、だが、一九八七年に六九・一パーセントが二〇〇三年に六二・三パーセントというのは、それほど変化してないじゃんとも言えそう。
 母親の年齢別に見た出生数の変化というのが、想定の範囲内だが…、平成十三年に二〇歳から二四歳の出生数が十五万七〇七七人だが、平成十六年に十三万六五〇五人に減少。これに対して、三五歳から三九歳がこの間、十二万七三三六人から十五万〇二四二人と増加。そこだけ面白ろ可笑しく取り上げたというのもあるのだろうが、今後はスパムメールの標題のように「女は三十歳から」という傾向にはなるのだろう。要するに晩婚化ということ。
 国立社会保障・人口問題研究所とかの予想だと、文脈上女性についてということだと思うが、三〇歳未満の結婚が五割、三五歳までが三割、四〇歳では一割とのこと。生涯未婚者も多いのだろうが、これは要するに婚期は三五歳から四〇歳ということだ。そしてこの年代の結婚だと子どもを産むなら急げ…ということで今回のような企画が出てきたのだろう。
 こうした動向がマーケット的にはどうかなとちと考えたがまるでわからない。昨今街中でスリングに入れた赤ん坊をよく見かけるが、どういうマーケット的な変化なのだろうか。
 と、このあたりで私はCREAを放り出す。たいして面白い企画でもないし、なんか気分的にもわっというか不快に近い感じがする。気分を変えて、メールのついでにはてなを覗くと、どういう因果か、「結婚したい30代前半の独身男性です。私が結婚できない問題点を教えて下さい。…」(参照)で始まる質問に出くわす。質問中こうある。

私の結婚観は、「基本的な図式としては」夫は家族のために精一杯働き、妻は家庭を守り夫を支えるというものです。


昨今、男女同権が声高に叫ばれる一方で、昔ながらの結婚生活を望む女性も多いとも聞きます。本当に多いのなら是非私と結婚して頂きたいのですが(笑)私はそういう女性には選んでもらえないのでしょうか?

 ふーんと思うが回答は私には当然ない。まったく思うことがないわけでもないが、うまく言葉にならない。なぜなのだろうか、もどかしい。また考え込む。
 先のCREAの話でも、ようは半数の女性は二〇代で結婚しているということであり、たぶん、少なからぬ男女は結婚後「夫は家族のために精一杯働き、妻は家庭を守り夫を支える」ということだろう…もちろんそう明確に意識してはいないだろうが。
 とすると、こうした問題がある種、言葉として意識された問題として浮かび上がってくるのは、そういう五〇パーセントに属するタイプの人が、ややずれ込んで三〇代になってきたということなのだろうか。それでも現状では婚期では三五歳から四〇歳という線がありそうには思える。つまり、その線までの、いわゆる専業主婦的家族が実際にはマジョリティとしてはあるのだろう。国の年金改革は迷走しているが基本的にはこの制度は専業主婦的家族の存在が前提になっており、それが現在崩れたかというと、なかなかそうとも言えないかもしれない。
 一般的な婚期は私が二〇代だったころに比べて十歳分くらいシフトしているわけだが、人生コースというかそういう構造の基本はそれほど変化せず、見た目の変化は案外長寿化社会の派生というだけのようにも思える。老いた親たちは、統計的に平せば、働かない子どもを食わせるカネを持っているわけだし、子どもから青年期が延長しているだけといってもよさそうだ。 
 なんとなくだが、昨今の日本社会のだめだめ化現象のようなものは、戦後がもたらした世代的な現象で、豊かな社会が継続すればけっこうレギュラーな日本人というか市民が主流になり、社会は常識的にそして沈静化するのではないか。そういえば、最近の子どもたちは子どもらしく早寝早起きだというニュースも見かけた。以前問題視されたゲームなどもあまりしないようだ。インターネットとかにのめり込んでいるローティーンもそう多くはないだろう。
 結婚問題とかでも、酒井順子が息巻いて真剣に考えろというほどでもなく、普通の人は、男女とも、四十歳くらいまでにはなんかなんとなく結論が出る、つまり、それなりに結婚するというのが今後の日本社会の落とし所か。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005.10.07

レーニン廟の話

 レーニン廟のなかに置いてあるあのミイラのことはすっかり忘れていた。今でもあるのかと問われたら、もうないっしょとか軽く答えそうだ、知りもしないのに。でも、それは今でもあるらしく、また撤去問題が起きているのだと、五日付のニューヨークタイムズ”Russia Weighs What to Do With Lenin's Body”(参照)にあった。へぇ。
 署名記事は文体が凝っている。こんな出だしだ。


For eight decades he has been lying in state on public display, a cadaver in a succession of dark suits, encased in a glass box beside a walkway in the basement of his granite mausoleum. Many who revere him say he is at peace, the leader in repose beneath the lights. Others think he just looks macabre.

 "macabre"という語はフランス語を知っている人より知らない人のほうの語感が強いのではないか。"danse macabre"を連想する。いずれにせよ、あのミイラはぞっとするよねということだ。
 今回の話としては、元ペテルブルグ税金警察次官だったゲオルギ・ポルタフチェンコロシア中央連邦管区大統領全権代表が旗振りのようだ。

"Our country has been shaken by strife, but only a few people were held accountable for that in our lifetime," said the aide, Georgi Poltavchenko. "I do not think it is fair that those who initiated the strife remain in the center of our state near the Kremlin."

 裏にはプーチンの意向があるのだろう。記事には共産党のジュガーノフ委員長の反対も掲載されているが、そのあたりにいろいろ政争があるのかもしれない。
cover
レーニンを
ミイラにした男
 それにしても、冒頭ちょっと勘違いしていたのは、ソ連崩壊時にモスクワ市長も埋葬すると言い出していてそれがぐずり、結局エリツィンが大統領だった時代に撤去の国民投票をするとか騒いでいたんじゃなかったっけ…という記憶がちょっと脳裡にあったからだ。まだ未決だったのか。
 いずれにせよ、初めて持ち上がった話でもないし、他国にしてみればどうでもいい問題でもあるのだが、と、そういえば、金日成もミイラになっていたっけなとちょっと調べ直した。大丈夫。平壌の「錦繍山記念宮殿」にいる。なんかこれに毛沢東のミイラの三体を並べると、梨の名前じゃないけど、二十世紀って感じがする。現実の社会主義・共産主義というのは実に奇怪な宗教であることを如実に示しているな。
 そういえば、鄧小平は早々に散骨してくれと遺言していたかと記憶している。最後の肩書き、中国ブリッジ協会の名誉会長として死はある意味で一貫していたかもしれないが、周恩来もそうだが、死後墓暴きのような目に合いたくないというのが本音であったことだろう。
 レーニンももちろん、こんなミイラにされたくはなかった。やったのは正教の神学生だったスターリンだ。正教神学徒で連想するのだが、「カラマゾフの兄弟」ではゾシマ長老の屍体から腐臭が発していた。あのあたりの表現にはドストエフスキーの文学力とでもいうのかものすごいものがあった。腐臭を発するゾシマこそ聖なるものであると知ったアリョーシャは…というのはあまりに話が逸れる。
 余談めくがニューヨークタイムズの記事にちょっと気になる話があった。

Depending on who is speaking about him now, he is either a hero or a beast, a gifted revolutionary or a syphilitic mass murderer. (By some accounts he died not of strokes, the official cause of death, but of an advanced case of sexually transmitted disease.)

 とあり、そのあたりずばり書いちゃっていい時代になったのかと思って、Wikipediaを見たら、ちゃんと書いてありますね(参照)。ありゃりゃ、私もすっかり社会主義ボケしてら。

レーニンの死因は公式には大脳の動脈硬化症、あるいは脳梗塞とされている。しかし、彼を診察した27人の内科医のうち検死報告書に署名をしたのは8人だった。後の研究によって、彼は末期の梅毒に罹患していたであろうと公表された。

 時代といえば、レニングラードなんていう地名もなくなった。先の記事の締めもテンプレではあるがよろしい。

"Lenin," mused Natasha Zakharova, 23, as she walked off Red Square on Tuesday, admitting that she was not quite sure whose body she had just seen. "Was he a Communist?"

cover
ロシア革命の神話
 現代ロシア娘曰く、「このミイラの人って共産主義者なのぉ?」 ワロタ。それでいい。Wikipediaにもある。

レーニンが残した膨大な政治命令書が、ソ連末期のグラスノスチと共に徐々に公開され、その活動の研究が文書にもとづいて批判的に行うことが可能となった。それによると彼は政敵や、政策に抵抗する人々への粛清を行った事などが判明してきており、理論的にも共通点が見いだされたこともあって、レーニンの思想そのものがスターリニズムの生まれた要因の重要な核であるという批判がなされている。

 日本人にしてみれば死んだ魂に罪はない。ヴァロージャ、母の元で安らかに眠れ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005.10.06

[書評]「多民族国家 中国」(王柯)

 非常に評価の難しい本だなというのが読後の実感だが、論として見ずに簡易な便覧というか日垣隆の言うリファ本のようにとらえるなら、まず一定の水準として意義があることはたしかだ。

cover
多民族国家中国
 「多民族国家 中国」(参照)の内容は標題通り、多民族国家としての中国を扱っているのだが、この立ち位置が微妙なものだ。当初私は偏見があって、後でふれるつもりだが東トルキスタンの近況情報を得たいものの、中国様の鼻息を伺うことになるかなとも思った。が、そうとも言えない。下品な視線でいけないと思うのだが、細君が日本人らしいこと、謝辞に安井三吉(「帝国日本と華僑―日本」)と山内昌之(「イスラームと国際政治」)の名が上げられていることからも、なるほどそのあたりの線かと納得する。本書は、民族問題について日中間の今後の学術的な合意のラインというのはこのあたりかなというのの参考にもなるが、残念ながら現実の政治のダイナミズムというのはそうした合理性とは違う運動をする。
 ブログだからという醜い弁解で言うのだが本書の最大の問題は史観であろう。中国を多民族国家とするなかにこっそりと潜むイデオロギーでもある。簡単にいえば、現代中国を清朝の継承国家とするとき、清朝は中国の王朝ではなく、モンゴル継承王朝であるということだ。中国はチンギス統原理を引いた王朝のコロニーではあっても同一ではない。冗談を言っているかのように失笑される向きもあるかもしれないが、中国というものに東トルキスタン、チベット、満州、モンゴルが含まれているのは清朝を中共が簒奪したからにほからない。
 とはいえ、清朝から中共への歴史過程は非常に複雑ともいえるので、たとえばより漢族的な史観から明朝をベースに中国という歴史国家とその領域の正統性を現時点で論じるというわけにもいかない。やっかいな問題という他はない。
 中国を多民族国家とするとき、「極東ブログ: ラオスとモン(Hmong)族のこと」(参照)でモンについて触れたが、インドシナ半島に近い領域の諸民族の問題(広義に朝鮮族を含めてもいいだろう)と、清朝が中国と同様にコロニーとした東トルキスタンやチベットは、多民族として中国に包括するには異質になる。つまり、「多民族国家 中国」という扱いそのものがこうした問題を隠蔽してしまう装置になりかねない。なお、満州は清朝の故地であり、モンゴルもそれに準じる(なお内モンゴルは分断されたモンゴルである)。台湾は中国ですらない(化外)。朝鮮と琉球については微妙な位置にある。日本は千年をかけて中国に対立した。本来なら朝鮮は対中国において日本モデルを取りうる可能性もあったが、その可能性は歪んだ形で現在進行している(韓国はその意味で日本化しているのである)。
 こうした問題は本書でも表現は明確ではないが意識化はされている。

つまり、モンゴル、チベットとウイグル族以外、本来ほとんどの小数民族は、二十世紀に入る以前中国からの民族独立を求めるようなアイデンティティをもたなかったのである。

 満州が事実上無視されているのは仕方がないが、満人が漢人と異なって存在していたことは「ワイルド・スワン」(参照)などを読めばわかることだ。そして、明確な王権を維持したチベットはその王の存在ゆえにまた対中国的な外交カードとしてよく問題化される。だが、現実のところチベットが今後独自の王朝として存続しうる道は事実上はあり得ないのではないかというほど中国化は引き戻せないものになっている。
 こうしたなか、現代的な問題に持ち上がってきたのがウイグル、つまり、東トルキスタンである。本書の著者王柯は現在となっては少し古いが十年前に「東トルキスタン共和国研究―中国のイスラムと民族問題」(参照)を著しており、この問題に詳しい。こちら書籍について、アマゾンの素人評で、東京都杉並区のカワセミ生息地の袋叩きの戦後民主主義者というかたがある意味で興味深いレビューをしている。

本書の言わんとする所は、要するに東トルキスタンはソ連の策略の結果であり、ウイグル人たちには主体的力量がなかっために長続きしなかったということだ。そういう見方も可能だと思うが、それが現在、ウイグル人ら中国西方の諸民族を支配している漢民族の一人によって書かれた作品だという点が非常に気にかかる。どういう結論になるにせよ、被抑圧者としてのウイグル人に書いてもらいたいのだが、共産党政権はそれを絶対許さないでしょう。事実、ウイグル人の立場から東トルキスタンの歴史を書こうとして、がんばっていたウイグル人東大大学院留学生が一時帰国中に捕まり、反革命罪で十年以上の判決を受け服役中である。著者は学者として、これをどう見るのか聞いてみたい。自国内のエスニック・グループに自分たちの歴史を書かせない中国が、日本に歴史問題でいちゃもんをつける不条理も聞いてみたい。それから、この作品に賞を出したウィスキー会社の選考委員のレベルも問いたい。

 レビューアーの言いたいことに心情的に同意したいのだが、学問というのはある方法論でこういう帰結になったという以上ではない。その意味で、所定の方法論が提示されている同書の価値を損なうものでもないだろう。
 というのはむしろ余談で、重要なのは、「多民族国家 中国」においても、「東トルキスタンはソ連の策略の結果であり、ウイグル人たちには主体的力量がなかっために長続きしなかった」という視点が基本的に継承されていることだ。
 しかし、ソ連が解体し、東トルキスタンと関連の深いウズベキスタンも独立を果たしている現在、さらにイスラム勢力が独自な世界権力に乗り出している現在、この問題はさらに複雑になる。そうした視点が「多民族国家 中国」に反映されていないわけでもないのだが、実に微妙な位置にある。むしろその微妙さが著者の学者としての良心かもしれない。
 現実の政治に戻るなら、「極東ブログ: ペトロカザフスタンまわりの話」(参照)や「極東ブログ: 石油高騰で強くなるロシア」(参照)でふれた中露のエネルギー問題と対米問題が主軸となる。日本はというと、現実的にはこうした流れに従属する以外の道はないのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.10.05

ラップ口座、だとか、Yay!

 昨日だったか朝のラジオを聞いていたら評論家の内橋克人が富裕層目当ての銀行ビジネスの話をしていた。現代日本だとどのあたりが富裕層かと思って聞いていたのだが、金融資産で一億円、十億円とかいう話になってきたので、いきなりふーんモードになってしまった。が、そこは社会派内橋克人なので、きっと貧困層がいるのになんだコラ、というオチを想定していると、そうなった。評論家というのも伝統芸能みたいなものである。
 カネかぁ、とぼんやり思うことはいろいろあるのだが、うまくまとまらない。そういえばこのところラップ口座の話題とか多かったなとニュースを見直してみると、さらにいろいろ思うが、まとまらない。なので書いてみる。
 郵政民営化反対ではトバシまくった日刊ゲンダイがこのあたりは庶民感覚的でちょこっと書いているのをみかけた。”野村証券 最低1億円の金融商品投入へ”(参照)である。


 驚きの金融商品が発売される。野村証券が9月にもスタートさせる大金持ち向けの商品で、最低預入金額が何と1億円!
 これまでも証券各社は富裕層向けの「ラップ口座」と呼ばれる金融商品を扱っていたが、最低1億円とは驚愕だ。

 だよね、驚愕だ、か。でそのラップ口座とやらだが、読売のサイトに用語説明がある(参照)。

 証券会社が、個人投資家の意向に基づいて、株式や投資信託などで資産運用と管理を行い、預かり資産残高に応じてサービスの報酬を受け取る契約の口座。主に富裕層向けで、投資一任勘定ともいう。2004年4月から規制が緩和され、証券会社本体で提供しやすくなる。

 内橋克人はもっとわかりやすく、金持ちの「お守り役」と表現していた。実際そんなところだろう。で、お守り役のビジネスだが、収入は成功報酬か歩合みたいなものになるそうだ。なんとなく変な連想が沸くがやめとこ。いずれにせよ、金持ちの「お守り役」は証券や先物には昔からいたし、郵貯も実質はそうなっていた。特に郵貯はと口が滑りそうだがやめとこ。
 ゲンダイのオチはこう。

 思い切った野村の戦略だが、1億円以上をポンと預けられる投資家が果たしてどのぐらいいるか。
 結構いるんだろうなあ……。

 います。
 どころか、ターゲット層は一億円じゃなくて三億円なんだってばさ。
 もうネットからは消えてしまったが朝日新聞”富裕層を狙い資産一括運用 野村証券、3億円以上を対象”(2005.09.24)にはこうある。

 派遣労働者やフリーターなどの増加で低所得層が拡大する一方、情報技術(IT)起業家などが出て日本では富裕層も増加。メリルリンチ日本証券の調べでは04年末時点で100万ドル(約1億1000万円)以上の純資産を持つ個人は134万人いるとされる。

 これは不動産とか入ってなくて金融資産だけなので、大金持ちと言っていいかもだが、それが人口比でみると一パーセントもいる。え、そんなにいるか? いやいるかもしれない。アルファーブロガー(参照)とやらだって平均するとそのくらいにはなりそうだ…すまそ悪い冗談ですてば。
 ついでに野村以外でもこうした富裕層狙いはトレンド。朝日新聞”メリルと三菱東京、富裕層ターゲットの証券会社設立”(参照)は標題どおりの内容だ。

 米証券大手のメリルリンチと三菱東京フィナンシャル・グループは28日、合弁で金融資産を1億円以上持つ個人富裕層に的を絞った証券会社を設立すると正式発表した。来年5月にも営業を始め、資産の運用や管理の個別相談に応じるプライベートバンキング業務(PB)を全国展開する。

 雲の上の話はそんなところ。先の内橋克人は、預貯金が二百万円以下の庶民が人口の十五パーセントだというのに嘆かわしいみたいなオチにしていた。確かに、ワーキングプアとかニートとかみんなぁ仲良くやってこうぜいの庶民には関係なさげな話ではある…かな?
 ちなみに、五十代の資産平均は千五百万程度内五百万負債。六十代だと資産二千万内負債二百万。それより上は千二百万。というわけで、団塊の世代が退職金もあってどかんと資産を増やしそうな感じはする。
 億単位だとどうもふーん感が漂いまくりだが、ラップ口座は、大和証券は最低五千万、さらに日興コーディアルだと最低一千万円。一千万円だとそう遠い世界でもない。ま、私なんぞには遠い世界だが、先日ばらけた外貨をユーロにまとめにシティバンクに行ったら、店内はけっこうがらんとしていて、個人対応のシティゴールドの部屋もがらんとしているふうだった。あれいくらだったっけとパンフを見直したら一千万。そんなものかねと思った。
 話がばらけてきたが、マクロ経済学なんぞの入門書とか見ると、消費行動は一生涯の賃金の予測に比例するみたいな話があって、なーんだマクロ経済学って笑わせるじゃんかとか思ったが、そんなことをネットに書くとこっぴどい目にあうのだろうからワロタとか言えるまでもないし、きっとマクロ経済学は正しいのでしょうし、正しくするにはそういう所得の見通しが立つ政策でもあるといいし、それはあるだろうし云々…だが、実際のところは、所得見通しというより、カネ余りの五十代の世代勝ち組のマネーゲームが始まるのだろう。
 するってえと昔の長谷川慶太郎みたいのが「日経平均五万円!」とか言い出すんじゃないか…とネットをみたら、うわっマジだか洒落だかこいているのもいるげ(参照)。さて、そうなりますかね。

| | コメント (5) | トラックバック (2)

2005.10.04

ジャンクDNAが否定されると進化論はどうなるのか

 また進化論の話。そういうこと。でもお楽しみの宗教ネタはなし。話の軸は先日ニュースにもなったが、理化学研究所を中心とする同チームがまとめた二日付のサイエンス誌発表の話だ。サイエンス誌のオンラインサイトでは特設”Mapping RNA Form and Function”(参照)がある。
 Googleで見るとネット上の報道記事はすでにほとんどない。読売新聞” 遺伝情報「ゲノム」、70%に「機能」あった 理研などの国際チーム発表へ”( 2005.09.02)はこう報道していた。


従来、生命活動に役立つ部分はゲノムの2%程度とされていたが、大幅に増え、約70%で機能を持つ可能性があるという。

 報道ではゲノムの有用情報のあたりが中心となった。さらに、RNAの全体像について、次の言及があった。

 設計図であるDNAの情報からたんぱく質が作られる過程では、DNAが仲介役のRNA(リボ核酸)にいったん写し取られる=図=。解析の結果、ゲノムの70%以上でDNAがRNAを作り、大半が何らかの機能を果たしていると判明。DNAが作った全RNAのうち、53%(約2万3000個)は、たんぱく質を作らないこともわかった。

 従来はゲノムの大半を占める無意味な部分はジャンクDNAと呼ばれ、こう理解されていた。英語のWikipedia(参照)を引用する。

In molecular biology, "junk" DNA is a collective label for the portions of the DNA sequence of a chromosome or a genome for which no function has yet been identified. About 97% of the human genome has been designated as junk, including most sequences within introns and most intergenic DNA. While much of this sequence is probably an evolutionary artifact that serves no present-day purpose, some of it may function in ways that are not currently understood.

 意味をもたないゲノムの部分であるジャンクDNAがゲノムの九七パーセントに及ぶとされていた。しかし、この段落は最近の研究でそうとも言えないという話の流れにつながっている。日本語のWikipediaの同項目の解説に至っては、全体にはまだ混乱の印象も受けるが、すでに今回の理学研究所の結果も追記されていた(参照)。

 2005年、理化学研究所を中心とする国際研究グループはマウスの細胞内のトランスクリプトーム分析を行い、トランスクリプトームで合成される44,147種類のRNA中、53%に相当する23,218種類が蛋白質合成に関与しないものであること、蛋白質合成をおこなうコード配列であるセンスRNAの発現は蛋白質合成を行わないアンチセンスRNA(センスDNAと相補関係にある)によって制御されていることを突き止めた。
 この発見により、ジャンクDNAは実際には機能していることが分かり、従来のDNA観、ゲノム観を大きく転換する契機となると期待されている。

 今回発見された、たんぱく質合成に関わらないかなりの数のRNAはncRNAと呼ばれているもので、従来は数百種類程度しか知られていなかった。しかし、実際には、RNAの半数を占めていた。WikipediaではこのRNAについても非コードRNAの項目にすでに追記があった(参照)。
 さて、これが進化論とどう関係するかだが、難しい。先のジャンクDNAについてのWikipediaにはこういう古い記述が残っているのだが、そのあたりが手がかりになる。

ジャンクDNAがかなりの割合を占めるとする仮定 - 例えばヒトにおける'97%'という値 - は進化論とは決して調和しえない、という事にはには注意が必要である。細胞分裂の度に行われるこのような多量に含まれる無用の情報の複製は、役に立たないヌクレオシドの作成のため多くのエネルギーが浪費されることにつながり、生命にとっては重荷となるだろう。そのため、進化論における時間のスケールの上において、自然選択における懲罰的な損失を被る事なく利用可能なエネルギーおよび物質量を維持できるような水準に、削除的な変異による'ジャンク'配列の除去によってその量が削減されなければならない。本当に'ジャンクDNA'配列が存在しているという(現在では想定された時ほど一般的とは考えられていない)事実は、ポピュラーな科学では一般的に考えられている、よりエネルギーを維持するような自然選択の要求はそれほど厳しくないことを示唆している。

 引用に際して太字指定した括弧の部分がこの段落と整合していないように見えることは多くのかたの同意が得られるのではないか。ここは後からの追記のように思えるのでその点を除くと、この段落は、いわゆる分子進化の中立説と自然選択説の齟齬のように捕らえられていた、ということを意味しているだろう。
cover
POPな進化論
 かえって話を混乱させてしまうかもしれないが、一般向けの「POPな進化論―『進化』の謎と不思議を推理する!」(参照)ではこう書かれていた。

「(略)ヒトのDNA配列の中で、実際に遺伝情報を乗せている部分は全体の一〇%くらいしかないって。つまり、DNAの九〇%までは、何の意味も持たない、という意味において偽遺伝子なんです。一九八〇年にこの事実が発見された時にはちょっとしたセンセーションを巻き起こしましたが、これは中立突然変異の存在を主張する木村博士にとっては非常に重要な意味を持っていました。なぜなら、この偽遺伝子は、現在バリバリの現役遺伝子より、はるかにたくさんの突然変異を起こしていたんです。」
「えーと……それがなぜ、中立突然変異という仮説を支持することになるんですか?」
「もし、すべての突然変異が、生物に有利か不利か、という基準で自然選択を受けるものだとしたら、そもそも今現在、生物の生存に何の関係もない偽遺伝子の上に、自然選択の結果である突然変異の定着なんて起こるわけがないじゃないですか」
「あ! なるほど!」
「こうして、少なくとも分子レベルでは、自然選択の力にたよらない、まったく偶発的な進化というものが起こり得ることが明かになりました。(略)」

 一般向けに意図的に書かれているのだが、こうした構図は私の理解ではこの二〇年間それなりに一つのパラダイムを形成していたように思われる。
 が、今回のncRNA研究からかなりの見直しが必要になるのだろうと思う。それがどのようなものかが率直に言って私にはよくわからない。が、自然選択説がより強固になるというばかりではないようには思われる。ちょっと当てずっぽでいうのだが、これらのncRNAは不均衡進化モデルを支援するように働いているのではないかという感じがする。
 ということで蛇足だけど、不均衡進化モデルは先の「POPな進化論」ではこう面白く解説されている。

「ところが、誰もが常識として知っていたはずの、DNAの自己複製メカニズムの中に、実は古澤博士らが指摘するまで誰も気づかなかった、非常に大きな進化の盲点があったんですよ。実は、こうして二本に裂けたDNAのそれぞれの片割れにおいては、突然変異の蓄積の仕方がまったく違うんです。つまり、一揃いのゲノムから生じた二つの個体の間では、進化の速度が不均衡だということなんですよ」
(略)
「その通り。古澤博士らが実際に確認したのも、まさにそのような事実だったんです。そこで博士らは、こんなコンピュータ・シミュレーションを行ってみました。もし、この時、二本に別れたDNA鎖のそれぞれに進化速度の不均衡が非常に大きな、それこそ、百倍も千倍も違うものだったらどういうことになるだろうか、という仮説にもとづいて、実際にそのようなプログラムを走らせてみたんです。一方において、これまでわれわれが漠然と信じていた通り、二本のDNA鎖のどちらにも偶発的に、同じ確率で突然変異が蓄積される、というモデルが試されました。その結果は実に興味深いものとなりました。世代を重ねる内に、予想通り、従来の考え方に基づくモデルでは、祖先と同じ遺伝子を保つものは完全にいなくなりました。つまり否応なしに原種は消滅し、より進化した種にとってかわられたんです。ところが不均衡進化モデルの方では、何世代たっても必ず原種のままの系統が残ったんです。しかし、変化の早いものでは、従来のモデルの内もっとも進化したものをはるかにしのぐ勢いで、突然変異が蓄積されていました。このモデルを、古澤博士は、”元本保証”と形容しています。まさに言い得て妙、というとろなんでしょうね。」

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2005.10.03

寄らば大樹の陰

 些細な話でしかもちょっと思いもよくまとまらないのだが、気になることでもあるので簡単に書いておこう。先日の「極東ブログ: 長谷川憲正参議院議員の反復横跳び」(参照)の続きでもある。
 話は大樹(特定局長OBによる政治団体「大樹全国会議」)と、田中康夫長野県知事が代表の新党日本を巡る反復横跳び長谷川憲正参議院議員の余談でもある。メインの話題ではないが産経新聞記事”旧橋本派、15億円超不明 宣誓書で異例の釈明”(参照)がわかりやすい。


 先月の衆院解散のきっかけとなった郵政民営化関連法案をめぐる衆参両院本会議での造反劇。民営化反対の旗振り役だった長谷川憲正参院議員(国民新党)の政治資金収支報告書からは、特定郵便局長OBらでつくる「大樹」による文字通り「丸抱え」の実態が浮かび上がる。


 資金面と並んで目を引くのは「大樹」と同後援会の一体性だ。長谷川憲正後援会の事務所、事務担当者は大樹全国会議と同一。さらに長谷川氏の東北、東海、北陸の地域ごとにつくった後援会と大樹の各地方本部は住所、代表者、会計責任者、事務担当者、その連絡先、さらに政治資金収支報告書の届け出時期までが同じで、筆跡もうり2つだった。

 つまり、長谷川憲正参院議員は、カネの面から見ると大樹、つまり特定局長OBそのものだったわけだ。
 具体的なカネはこう。

 政治団体「大樹全国会議」は2004年参院選で、旧郵政省OB長谷川氏の擁立を決めた直後の同年1月、長谷川憲正後援会に2000万円を寄付。東北、東海、信越、北陸の各地方本部が1―4月に計470万円をその地域の長谷川氏の地方後援会にそれぞれ寄付している。

 カネの流れ自体については図解している朝日新聞記事”郵便局長どっと献金 法案阻止資金準備、大樹向け14倍”(参照)がわかりやすいだろう。というか、面白い。
 とはいえ、長谷川憲正参院議員を巡るカネの流れをどう読み解くかはそれほど簡単でもないと思う。基本的には、前回当選後に所属した旧橋本派からの資金援助がないので、大樹から吸い上げるしかなかったとは言えるのだろうが、はたして主体は大樹だったのか長谷川憲正参院議員だったのか。ちょっとうがった言い方をすれば、結果的に見れば大樹は下手を打ったのだが、そのシナリオを描いていたのは誰だろうか。
 個人的に気になるのは、「極東ブログ: 長谷川憲正参議院議員の反復横跳び」(参照)でも触れたが、公選法上の政党要件を満たすと、寄付金の限度額が変わる。結局、国民新党から田中康夫長野県知事が代表の新党日本へ移籍さらに、反復横跳びで国民新党へと長谷川憲正参院議員はひらひらしたわけだが、国民新党にいるなら別に公選法と寄付金限度額についてはそれほど問題はない。が、助成金目当てということだけかもしれないが、他に理由があるなら、なぜ新党日本へ横跳びしたのだろうか。というか、そこまでして大樹の化身長谷川憲正参院議員御大自らがひらりと横跳びした。しかも、それは、国民新党というより田中康夫長野県知事が代表の新党日本を利することが目的でもあった。なにか解せない。大樹の旨味がなくなったので、潤沢そうな綿貫民輔の国民新党に戻ったということだろうか。しかし、綿貫民輔とても旧橋本派なので今後のカネ入りはしょぼいだろう。
 大樹の今後も気にはなる。「最強の集票マシン」と言われ、全国津々浦々に二十四万人の党員党友を集めていたわけだが、そのまま地方利権ということだけになれば、国政への影響といった見地からすれば崩壊に近いだろう。そうなのだろうか。
cover
自民党の研究
 ところで旧橋本派だが、政治資金収支報告で十五億円不明という愉快な話を出してきたが、これらの集金システムは基本的には土建屋さんからの献金だったのだろう。以前も紹介したが栗本慎一郎「自民党の研究―あなたも、この「集団」から逃げられない」(参照)では、カネの仕組みを簡単に説いている。ま、日本人の常識とも言えることだが。

 「おかみっちゃん」こと岡光序治前厚生次官が、彩グループという福祉利権屋が受けた「まる投げ」の発注工事から浮かせた金を吸い取っていた事件は記憶にまだ新しいが、一部の利権政治家や官僚を結びついた業者は、話を仲介した政治家には阿吽の呼吸で「返して」くるのだ。
 つまり、そのような工事は、政治家や官僚にキックバックしても儲かる金額で落札されているのだ。高すぎる工事・建設費が指摘されるのは、このためである。
 一般に、土木・建築工事の契約を取ってくれた政治家へのリベートは、三パーセントと相場が決まっている。一〇〇億円で三億円、一〇〇〇億円で三〇億円だ。バブルのころ、いかに建設関係の族議員や、それを束ねる大物政治家が儲けたかはいうに及ばない。官僚はそれを知っていて、工事の契約を政治家の関係先に回す。これではまるで、政治家に直接金を渡すのと同じである。工事の金は税金であるが、そんな意識は毛頭、持っていない。

 道路関係は今後の旨味は減ってくるだろうし、旧橋本派は弱体化するだろう。こうした箱物媒介の寄付金構造はどの省庁と限らないが、基本的な構図として今回の選挙で財務省が強化され、難しくはなったことだろう。ま、その財務省が問題だよねというのはそうなんだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.10.02

日本人と進化論

 昭和の時代のことだが、永六輔だったか天皇に和服を着せようと提言していた。日本の天皇なのに和服姿というのはないという穿った話だった。宮中儀礼や婚礼の装束も和服のうちでもあろうが、いわゆる和服ではないだろう。天皇の着流しなどは想像もつかない。天皇家は諸事欧風である。日常の食事には和食も当然あるだろうが、かしこまった席では欧風と決まっているはず。明治時代が作り出した日本というのはそういうハイカラなしろものなのだが、平成も十七年にもなるとなんとなく近代日本というか日本というイメージが随分変わってきたような気がする。
 昭和天皇は生物学者でもあった。戦中も自室にダーウィンの肖像を掲げていたと聞く。その業績は同じく生物学者である今上陛下の業績とともに新江ノ島水族館(参照)に展示されている。科学者としての昭和天皇のありようは、北一輝をして「クラゲの研究者」と呼ばわしめたほどだ。
 昭和天皇はダーウィニスト、つまり、ダーウィン進化論者であったか。そりゃ、問うまでもない当たり前ことだ。しかし、日本の戦前、天皇は現人神と言われていたのにその当人がダーウィニストということがありえるのだろうか。いや、そんな疑問を持つ日本人はいなかったし、現在でもほとんどいないのではないか。
 日本の生物学といえば、明治時代に東大で生物学を講じたモース(Edward Sylvester Morse)が端緒であろう。今日では大森貝塚の発見者として日本の初等教育では教えているようだが、彼こそは日本に初めて進化論をもたらした。
 で、どうなったか、日本における進化論教育の影響である。いや、どってことない。日本人はモンキートライアル(参照)などということは起きなかった。人間は猿から進化した、で? なにか疑問でも。
 かくして明治以降日本の知識人はみな進化論を学んだ。山本七平と小室直樹の対談集「日本教の社会学」にこういう話がある。


山本 その例として、こんなおもしろい話があるんです。つまり天皇的ファンダメンタリストがあれば、進化論を否定しなくちゃおかしいですよね。天皇がサルの子孫であるというのは容認できないでしょう。あれは神の子孫のはずでしょう。
小室 ところが誰も問題にしない。
山本 そればかりか不思議なことに、戦争中、平気で進化論を教えているわけですよ。だから私、フィリピンの収容所でアメリカ兵に進化論の説明をされて、こっちははなはだしゃくにさわるわけなんです。このアホ、なにいってんだと。中学校程度の知識をもって、おれに進化論を説明するとはなにごとだ。だから逆にそのときビーグル号かなにかの話をしてやったんです。そうすると相手は驚いちゃうわけです。ところが、先方は「それじゃ、おまえたちは現人神がサルの子孫だと思っていたのか」と。
小室 日本人、誰もこの矛盾に気がつかない。
山本 気がつかない。アメリカ兵にそこを指摘されたとき、こっちはあっと驚くわけです。つまり天皇が現人神だといっていた国には、進化論はあるはずがない、彼らから見ればそれが論理的帰結ですから一所懸命、進化論の説明をしているわけです。
小室 逆に進化論を信ずれば、天皇が現人神であるはずがない。だからどっちか片方信ずるってことはあり得ても、両方いっぺんに信ずることはないと。
山本 あり得ない。じゃ、なぜ日本教において両方いっぺんに信ずるのか、これが日本的ファンダメンタリズムのいちばんの基本問題になるわけですね。

 山本七平は戦後、この問題を考え続けた。「静かなる細き声」ではこの問題をこう展開した。

 徳川から明治に移るころ、日本の学生が進化論の話を聞いても少しも驚かず、これが逆に外人教師を驚かしたという話を聞いた。
 進化論は科学のはずである。人々はそれを科学だから信じたのであろうか。
 これは少々考えにくい。というのは当時のさまざまな事例は、日本人が決して科学的ではなかったことを示している。
 これはことによったら、日本の伝統的な宗教的世界観・人間観に、何かの点で進化論とマッチする考え方があり、その宗教の延長線上で進化論を受け入れて、それを科学だと信じたということではないだろうか。

 そして彼は江戸時代の思想のなかに、「一種の草木変じて千草万木となり、一種の禽獣虫魚変じて千万種の禽獣虫魚変となる」といった考えを見つけた。鎌田柳泓は言う。

これを以ってみれば天下の生物有情無常ともみな一種より散じて万種となる者なるべし。人身の如きも其初唯禽獣胎内より展開変化して生じ来るものなるべし。

 山本七平はこういう思想が江戸時代に普及しえたことに日本人の進化論への態度と科学への態度について再考していく。
 彼はこう問いなおす。それは「科学」なのだろうか、と。

 その背後には、「科学」ないしは「学」なら信ずるかもしくは敬意をはらうが、宗教なら軽蔑するか問題にしない、といった心的状態があるように思われた。
 一体この「科学」という言葉はどういう意味なのであろう。「占いは科学だから信ずる」という言葉の「科学」は、私には、どう考えても「サイエンス」の意味とは思えなかった。
 これはきっと、仏心を本心と言いなおして、非宗教的な表現にしながら宗教的内容をもっているのと同じように、何かを科学と言いなおしているのである。
 そしてこの「科学」という言葉に、何か宗教的なものがあるから、その人はそれを信じているに相違ない。
 日本における伝道の障害になっているものは、おそらく「科学」と言いかえられた「何らかの宗教的なもの」なのである。

 ここで山本七平が「日本における伝道の障害」といっている背景には、なぜ日本にはキリスト教が根付かなかったかという問いがあった。
 彼は、日本にキリスト教が根付かなかったのは、それが「科学」と言いかえられた「何らかの宗教的なもの」による宗教対宗教の対立ではないかと見ている。そして、日本人とっての進化論の受容というのも、実は、ある種の伝統的な宗教的な世界観の表出にすぎないだろうともしている。
 昭和天皇がダーウィニストであることに違和感のない精神性こそ日本文化そのものであり、そして、たぶん、山本七平が指摘した状況は、なお現代日本にも、若い人にすら、当てはまっているように思える。

| | コメント (31) | トラックバック (13)

« 2005年9月25日 - 2005年10月1日 | トップページ | 2005年10月9日 - 2005年10月15日 »