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2005.10.01

ただ飯はないよ定理の奇妙な応用に関連する悪夢

 まれにだが明け方夢を見ているまま意識が覚醒していることがある。夢の思考をそのまま続けているのだ。プログラマーをしていたときは、かなり昔のことになるが、デバッグの夢ばかり見ていた。新規に未決な問題を抱えているとそういうことがある。

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四色問題
 夢はというと四色問題についての一般向けの講義だった。四色問題を知っている人なら想像が付くと思うが、やたらとつまらない。エレファントな証明っていうかピンクエレファントだよな。
 夢の講義を聴きながら私はウンザリしている。だからぁ、解法が全然エレガントじゃないんですよぉとかぶつぶつ独り言を言う。知りたいのは、なぜこの簡素な問題がこうもエレガントではない解法になるのかということをエレガントに知りたいのであって、解法のエレガンスじゃないんですよ。あー、だからぁ解法アルゴリズムの改良(参照)じゃなくてぇ…違う!
 朝、ミューズリを噛みながら、ブレックファストティーを飲み終えても、頭の中は夢が続く。だめだこりゃ、通じねーわ、とか呟いていくうちに、次第に現実世界の思考に戻っていく。さて、世間はなにを悩んでいるのだろうか。四色問題ではあるまい。靖国問題?
 世間にもいろいろあるがサブ世間で悩み事になっているのは、あれだ。インテリジェントデザイン(ID)論への反論だよね、ってつい苦笑してしまうのだが、日本で話題になっているのは、産経新聞”「反進化論」米で台頭 渡辺久義・京大名誉教授に聞く”(参照)への反論なので、これは相手にするも稚拙(参照)。端から米国の政治問題に縮小すると話は単純すぎ。もっともID論なんてその程度ということでもあるのだろうが、ID論への反論をするならもうちょっと情報論などを含めて包括的にというか、あるいは進化論全体への目配せもあってもいいかなとも思うのだが、あまりそういう話題はない。私なんぞが下手に突っ込むとこっちもあらぬとばっちりを受けかねないので桑原桑原でもある。
 が、変な夢を見たのは、ちょっとこの話に関係する。昨晩、デンスキー(William A. Dembski、参照)の指定複雑性(Specified complexity、参照)とチョムスキー思想のことを考えていた。と、すでに厄介な話に足をつっこみつつあるが、生物の複雑性について、チョムスキーは、通常生体は余剰ある複雑性を取るのだが、人間の言語能力には例外的なシンプリシティを想定していて、なぜそうなるのか進化との関連がわからない、としている。
 暗黙の内にチョムスキー学に非進化論的な匂いを嗅ぐ学者は少なくない。ピアジェ(参照)を初めフォーダー(Jerry Fodor、参照)などもそうか。ゴリラなど持ち出して言語能力の研究なども進められているのは、非進化論的な言語能力のという仮説に反論したいのだろう。
 ま、それはそれとして、デンスキーの指定複雑性だが、これは数学的に成り立つのだろうか? ノーフリーランチ定理(参照)の応用ともいえるらしく、確かにヒューリスティック(発見的)な手法から最適解、つまりここでは強力な構造が形成されることはありえない、という標識は情報学的に明確になるものだろうか。そのあたりをぼんやり考えていて四色問題の悪夢となった。
 このあたりの話はトンデモにも近いので悪夢じゃない将来を夢みている学者さんは考察もしないかもしれないし、そんなもの端からトンデモですよというだけかもしれない。
 話はちょっと逸れる。私は悪夢から覚めて、ぼんやり秋の日を過ごしながら、いわゆる日本のID論批判に隠されているのは「自然」ではないかなとふと思った。これにはちょっと連想がある。木村資生(参照)の中立進化説(参照)だが、一般的にはWikiにもあるようにこう理解されている。

分子レベルでの遺伝子の進化は、従来のダーウィン進化論の説明のように自然淘汰により引き起こされるだけではなく、生物の生存にとって有利でも不利でもない中立的な突然変異を起こしたものが偶然に広まり集団に固定化することによっても起きるとする。

 しかし、これは、自然淘汰説への反論とはならなかった。

生存に不利な変異は自然淘汰によって排除されるという点では淘汰説と共通するが、中立進化説では、突然変異の大部分が、生物にとって有利でも不利でもない中立的な変化であるという事実に注目する。

 このあたりちょっと微妙なんだが、中立進化説は、要するに分子レベルでは中立といいながら、学説としては、自然淘汰説に対立せず、実際の種の規定についてはメジャーなダーウィニズムに従属することになった。
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POPな進化論
 というところで、そうか、ダーウィニズムというのは、自然淘汰説であり、ここで問われているのは「自然」か。そうか。ID説というのが擬似的に「神」なら、ダーウィニズムは擬似的に「自然」であり、この自然とは、そう、ホッブズ(参照)のいう自然状態(参照)の自然なのだろう。
 ぶっちゃけてしまえば、どっちも同じ根の西洋哲学的な対立にすぎないのではないか。ホッブズの子孫達が神を暗示するID論に忌避感を持つのは当然だが、八百万の神、直毘霊の日本人がその土俵に乗ることはないんじゃないか…。ま、今夜は悪夢を見たくはないな。

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2005.09.30

サッカーくじ(toto)累積赤字が一五〇億円

 サッカーくじ(toto)の累積赤字が〇四年度決算で一五〇億円に達するというニュースがあった。それほど違和感はないし、なぜこの期に、しかもまた中央青山監査法人という裏についてもよくわからない。
 赤字をたんまり抱え込んで、totoも廃止かというとそこまではわからない。そうでもなさげ。個人的には、教育行政を担う旧文部省(現在の文科省)が博打の胴元なんかやるからだよ、ざまーみろと一貫した共産党のような印象を持ったが、考えてみるに変な話ではある。なにか面白いネタがあるわけでもないが、つらつら思うことはある。
 なにが問題なのか? 簡単そうで簡単でもない。会社経営的に見るなら売上げの推移と経営を考えればいい。朝日新聞”toto、累積赤字150億円に 会計検査院指摘”(参照)によると売上げはこうなっていた。


 totoは売り上げが年間420億円程度あれば黒字決算になる仕組みだった。ところが、01年シーズンの604億円をピークに、02年408億円、03年203億円、04年156億円と年々落ち込んだ。

 これは当初からまるでダメの推移である。ならばなぜ最初からそれがわからなかったのか、文部官僚、と思う。千葉商科大学加藤寛学長が郵政民営化推進にあたり、「武士の商法を許すまじ」と言っていたが(参照)、totoのケースは絵に描いたような武士の商法である。なにしろ他の博打の胴元のように自分らで商売する気はなく、しかもりそな銀行に丸投げしていた。その費用毎年七〇億円。所詮名前貸しのしょぼいサイドビジネスならそれでもいいのかもしれないが、初期投資に三五〇億円かかっていた。それでも、なんともならない状況というのでもあるまい。
 今回の赤字暴露はこういうカラクリらしい。

 このため、同センターは、銀行への初期投資の支払いを02年度で約20億円、03年度は70億円を先送りし、決算で費用として計上せず、今後返済する残高(03年度で約230億円)は「負債」に計上していなかった。
 こうした方法に対し、検査院は「決算書で赤字の状況がわかりにくく、不適切だ」などとして改善を求めたとみられる。
 これを受け、同センターは04年度決算で先送り分をまとめて費用計上したところ、赤字決算になるとともに、累積赤字が150億円に達したとされる。

 なんだろねコレ。ぞっとするのは、負債に計上してなかったっていう帳簿の付け方ってどうよ、橋本派じゃあるまいし。いずれ、「武士の商法を許すまじ」ではある。
 ところで、最初はダメの線は見えてなかったのだろうか。ちょっと過去の新聞を見ると、やっぱし当初からダメカモはネギをしょっていた。読売新聞”totoの行方(1)売り上げ”(2001.08.09)ではこうある。

 今年から日本のスポーツ風景に加わったスポーツ振興くじ(サッカーくじ、愛称toto)。財源に苦しむスポーツ界の“救世主”がスタートしてから約半年が過ぎた。将来的には年間2000億円の売り上げを目指して、初年度の売り上げ目標は812億円。だが、売り上げ減が続いて、その達成には“黄信号”が点灯しはじめている。その一方で、新しい財源となるくじからの助成の配分を巡って、さまざまな思惑や水面下の動きも出てきている。

 当初からダメでしょというのは、なんだかんだいっても博打なのに配当が少ないというのと、文科省権益のためだった助成金の突き上げがきつかったからだろう。たとえば、〇二年の日本体育協会の予算案は三九億七千万円、前年比で一億九千二百万円増額だが、うちtotoの助成として五億八百二十八万円を見込んでいた。こうしたスポーツ団体って今どうなってんだろうか。全市区町村に「総合型地域スポーツクラブ」をというのは頓挫しても、それはそうかなのご時世だし、くらいだが、スポーツトップ選手への強化費給付も停止期間もあったらしい。オリンピックとかにも影響はでるのだろう。
 今後のtotoの経営や関連の助成金はどうなるのかそれがどれだけの意味があるのかもよくわからないが、抜本的な経営改革がないとダメが続くだろう。販売直営はさらに危険ではないのか。
 そういえば、totoは当初からダメでしょの線で見ていて思ったのだが、あれだ、健全なスポーツのためとはいえこんなもの所詮は博打。博打をするマーケットというのはどうだったのだろうか。競馬とかもけっこう苦戦していたはずだ。とざっと公営ギャンブルのようすを眺めてみると、地方ではやはりダメダメのようだ。公営ギャンブルの目的は財源確保なのに赤字を重ねてまでやる事業ではないといった声が多いようだ。都市部ではどうかよくわからないが、長期的にはダメなのではないか(参照PDF)。
 それとただの印象だが、公営ギャンブルというのはうらぶれた年寄りという感じがする。若い世代がのめり込んでいるふうもなさげ。と思ったら若い世代はデイトレにのめり込んでいるわけか。つまり、市場全体が博打場化したから、政府統括の博打は終わったということではないのか。

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2005.09.29

米国の住宅バブルが終わるらしい

 いよいよ米国の住宅バブルが終わるらしい。すでに先月だったかクルーグマンが来春までに潰れるよとか言っていたが、グリーンスパン御大はさてどう出るか…と。二七日ロイター”長期のリスクテイクは資産価値低下につながる=FRB議長”(参照)にてご託宣。


グリーンスパン議長はシカゴでの全米企業エコノミスト協会(NABE)会合で衛星通信で講演。その原稿で、「歴史は、クレジットリスクへの懸念が低い時期が長引けば、危険資産の下落を伴う逆の動きが必ず後に続くことを警告している」と述べた。

 何をおっしゃっているのでしょう? わかんね。
 ライブドア”グリーンスパンFRB議長、米経済に楽観的な見方=投資家の安易な投機に警鐘”(参照)のほうはもう少しわかりやすい。

また、同議長は低金利の環境が長く続いていると、いつかはリスク資産の急落などでインフレが急上昇するという揺り戻しの動きが必ず現れることは歴史を見れば明らかと述べ、投資家に安易に投機に走らないよう警鐘を鳴らした。

 一般的な投機ということかなとは思うが、実際は住宅バブルのことではないのか。先月のライブドア”増谷栄一の経済コラム: グリーンスパンFRB議長、住宅バブルに再び警鐘鳴らす”(参照)ではこうあった。

 住宅バブルについては、同議長は、米国全体がバブルになっているという認識は持っていない。ただ、米国内のいくつかの地域で住宅バブルの現象が見られるという。5月のニューヨークでの講演で、同議長は「フロス(泡)」という言い方で初めて、バブルを指摘している。最近でも、7月に、同議長は住宅ローンの新商品として登場してきた「インタレスト・オンリー・ローン」という、最初の10年は金利だけの返済で済むローンや「ハイブリッド変動金利ローン」という最初の3-10年間は固定金利で、その後は変動金利というハイブリッド型の荒手のローンの利用に危惧を示した。これだと資金を容易に借りられるので、住宅ブームという“火”に油を注ぐようなものだからだ。
 また、同議長は7月に、「投資家は金利上昇リスクに無関心すぎる」とも警告している。これは、4年連続で過去最高を更新して好調な住宅販売の背景には、低金利政策の恩恵があり、個人が低金利の住宅ローンを使って、積極的に住宅購入を進めているわけだが、今後、金利が上昇し、リスクが高まる可能性があることに注意すべきだと言っているのだ。FRBは米国の政策金利であるFF(フェデラル・ファンド)金利の誘導目標を引き上げてきており、この金利上昇リスクについて、個人も含めた投資家の認識は甘いとグリーンスパン議長は指摘する。

 端的には住宅バブル終了ということなのでしょう。先日ラジオで聞いた話では、現実には低金利が誘導したというより、投機的な思惑が多いらしい。
 住宅バブルが崩壊すると、それで大変なことになるのかというとそうでもなさげ。同じソースだが、ロイター”米国は住宅価格下落に耐えられる、資産が伸び消費拡大=FRB議長”(参照)ではこう。

 グリーンスパン米連邦準備理事会(FRB)議長は、大部分の米国人が住宅で十分資産を蓄積しており、価格下落にも深刻な影響を受けることなく耐え得るという見方を示した。
 議長は、米国銀行協会の会合でのビデオ講演で、「圧倒的多数の住宅所有者は、住宅価格が下落した場合にそれを吸収するだけのかなりの資産価値を有する」と語った。

 裏付けるように、昨日の日経”米、住宅担保の現金入手急増・FRB議長が個人的に調査”(参照)では御大の手の内を見せた。

 住宅を担保に米家計が手に入れたお金の総額が昨年末で5995億ドルに上ったことが分かった。可処分所得に占める割合は7%とこの10年間で7倍に拡大した。米連邦準備理事会(FRB)のグリーンスパン議長が個人的にまとめた調査で明らかにした。

 この間の施策で米国の家計はキャッシュをだぼっと持っているということなのだろう。
 あーうらやましい…というのが率直な私の感想。
 日本の場合、これまでは土地が投機対象になったけど、住処というのは全然資産にならない。二〇年経つとゼロになってしまう。
 話がだらけるが、このところ少し暑さも引いて秋の景色を楽しみながら散歩していると、平成以前の古い家屋につい目が行く。ぼろっちいなとも思うが住んでいる人間にはどってことないのだろう。
 経済のことはよくわからないが、特にわからないのは、日本が縮小しているなら、不動産のニーズというのは全体的に減っていき、住宅はますます価値を下げるのではないのか。抜本的なところで日本の経済の発展なんてあるのか。とか疑問に思う。なんとなく思うだけだけど。で、それ以上話のオチはないです。

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2005.09.28

ダイヤモンドの恋(NHKドラマ)

 田渕久美子が脚本で更年期女性の恋のコメディで浅野温子が主人公と聞けば、見ないわけもいかないという感じがして、見ている(参照)。面白い。リアルタイムではみないのでHDRの操作ミスから第一週は見逃してしまったのがちょっと残念なところ。話はたぶん来週で終わる。今から見てもちょっと話についてけないかもしれないので、こんなエントリもなんだなとも思うが、書いてみたい。
 私は浅野温子のファンではないのだが、昭和三六年生まれの彼女はかろうじて自分の同世代的な共感に入る。物書きでいうとたしか岸本葉子が同年だったと思う。彼女のエッセイなどを読んでいてもかろうじて同じ時代を生きてきた感じがする。
 私はW浅野(古い言葉だ)では昭和三五年生まれの浅野ゆう子がティーンエージのころからのファンで高校時代自室に彼女の水着のピンナップを貼っていた記憶がある。ちなみにカレン・カーペンターとのポスターもなので、趣味は問うなでもあるが。先日浅野ゆう子をたまたま久しぶりにテレビで見て、美人は美人だろうが浅野のおばさまといった感じがした。そのとき、浅野温子もたぶん相応の歳は取っているだろうし、昭和五八年に結婚したダンナ魚住勉のとの間に早々に男子があったかと記憶している。浅野温子は大学卒業くらいの息子のいるお母さんでもあるはずだ(参照)。
 という彼女がどう恋を演じるのかというのに期待したが、見始めた二週目は役のジュエリデザイナーのつらさがてんこもりで、今日も企画はでなかったかとカレンダーにバツをつけ、そして最後に挫折していくシーンはある意味似たような経験のある自分には堪えた。そのあたりの彼女の演技はなかなかよかったので安心して見続けた。
 コメディタッチに合わせて彼女の表情も激しくなるのだが、ケバさは感じない。むしろ、そのヒューマニスティックな印象はこりゃ子どもを育てた女だなという感じもした。が、なにも女を成長させるのは子育て経験ということもないだろう。共演の加賀まりこにも、以前夫婦喧嘩をレスリングに例えた変な番組(「ケンカの花道」だったか)でも感じたが、大人の女の心の暖かさのようなものも感じた。余談だが、響鬼はまともに見てないのだが、先日ちらと見たら背の低い布施明が端役プラスαくらいで出ていて、こちらもなんかオヤジ色を出していた。
 自分の意識のレンジに入る世代の現在の恋愛というのはどういうものか気にはなっていた。この世代は、いわゆる団塊の世代というか全共闘世代と、新人類というか共通一次世代の狭間の変な無風というかシラケというか空虚さが覆っている。恋愛の風景としていうなら、「うる星やつら」のような奇妙なトラウマ(心的外傷)の上でへらへらしてないといけないような強迫がある。その点で団塊の世代とかマジ愛ルケとかでしょ、いやついてけない…という世代論にそれほどの力点はないのだが、中年の恋愛というのは若年のそれのリベンジというわけでもないがどうしてもそれと関連のある変奏にはなるだろう。そのあたり、自分の世代は今どうなんだろうと思う。
 で、そのあたりはどうか。うまく言えないのだが、田渕久美子の脚本にはコメディを反語的に使った微妙な含羞の表現がありそれを浅野がよく表現していた。視線や声なんかに、若い女ではありえないじんとくるものもある。なんとなくだが、自分らの世代は別に「恋」でもなくてもいいからそうした心情みたいなものをこっそり大切にメディアで篩いにかけていくのだろうなという感じがする。
 恋の相手の吉田栄作(参照)は私からするとちょっとミスキャストっぽい感じがしないでもない。あーだめだとも思わない。他のキャストもそんな感じだ。

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JR奈良線&桜井線
 そうした自分にとってのデメリットを吹っ飛ばすのは、桜井の風景だ。あの風景、桜井線と桜井の駅と三輪山…そのすべてが私にはなんか恋の対象のようにいとおしい。二十代の後半から三十代の前半私は潰せば二ヶ月に一度は奈良をほっつき歩いていた。

味酒三輪の山
あをによし奈良の山
山のまにい隠るまで
道の隈い積もるまでに
つばらにも見つつ行かむを
しばしばも見放けむ山を
心なく雲の隠さふべしや

 田渕が額田王を意識していたかはわからない。しかし、あの風景にはそうしたなにかを鼓舞する力があると思う。

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2005.09.27

石油高騰で強くなるロシア

 標題の割には雑メモに近い。この間の石油高騰でアフリカ諸国もだが、ロシアもかなりのカネが入っているようだ。それに従い、特にロシアが外交的にかなり強面に出てきたなという印象が強くなった。
 日本との関連でいえば、昨年くらいまでなら日本からの資本や技術でもう少し上手に親露政策が取れるのではないかと私は期待していたが、このところの北方領土へのロシアの態度を見ていると、それは無理かもしれないと思いつつある。
 ロシアと中国の関係で言えば、かつてのように中国からの資本を獲得したいという流れも弱くなっているようだ。むしろ、ロシアにしてみれば、武器売却先としての中国の旨味が増しているようで、先日の合同軍事練習だのはその路線なのだろう。このまま中国とロシアが軍事的に提携していくかどうかはよくわからないが、両者とも中央アジアのイスラム勢力を封じ込めるという共通利益があり、そのあたりで協調は深まるだろう。
 こうしてロシアにカネがじゃぶじゃぶ入っていくにつれ、中央アジア情勢はどうなっていくのだろうか気になるのだが、まだはっきりとした絵が浮かんでこない。
 オレンジ革命とかで沸いたウクライナも、昨今の動向を見ると、どうもEUシフトというわけにもいかず(EU自体がうまく行っていない)、元の親露政策に戻りつつあるように見える。
 同じ傾向は他の独立国家共同体(CIS)にもあるだろう。つまり、ロシアからの石油提供や資金援助によってかつてのソ連時代の再現のようになりそうだ。このままロシアがカネを得る構造が続けば、大筋では、私はそうなるのではないかと思うし、それはある意味で安定でもあるのだろう。
 とすると、昨今の中央アジアの不安定な動向は大局的には過渡期なものか、あるいは、他の国でもそうなりつつあるが、テロの常態化でもあるのだろう。
 しかし、そう見ない人もいる。例えば、先月三〇日付のワシントンポスト”War Without Remedy”(参照)では、私のこうした考えとは逆にCISなどの国家における不安定要因が増加するという指摘があった。確かに、このところの動向からするとそういう議論も成り立ちはする。


Though mostly unnoticed by the outside world, violence in the region has been escalating in recent weeks. Last week the prime minister of one republic, Ingushetia, was wounded in an assassination attempt, and a bombing derailed a train in Dagestan. In Chechnya near-daily clashes continue between Russian troops and insurgents; one ambush and bombing of a police vehicle several weeks ago killed 15.

 イングーシ共和国では首相が暗殺未遂になり、ダゲスタン共和国では線路爆破事件があった。チェチェン共和国では車両攻撃があった。

Russian and independent experts across the Caucasus are warning of the eruption of a major new war that, unlike the two fought in Chechnya during the past 11 years, would spread across the region and be waged more explicitly in the name of Islam.

 ワシントンポストが言うところの識者は、この地域での戦争の可能性を指摘している。
 私の考えでは、現状ではそれほどの規模の問題には至ってないし、先にも述べたように過渡期的な現象ではないかと思う。
 日本から見るとイスラム勢力というと中近東を連想するが、むしろこの地域のほうがイスラム化の動向が強く、経済的な興隆が民主化にはつながらない。ワシントンポストは先の記事をプーチン大統領の批判で締めているが、ウクライナの例を見てもそう単純な問題でもないだろう。

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2005.09.26

孤独死問題への違和感

 私はテレビをリアルタイムで見ることはほとんどないのだが、先週土曜日、台風の進路が気になって夜九時前にNHKをつけ、たまたま消し忘れていたら、NHKスペシャルが始まっていた。テーマは孤独死。タイトルは「ひとり 団地の一室で」(参照)。


 いま、全国各地の団地では、誰にも看取られずに亡くなる、いわゆる"孤独死"が相次いでいる。常盤平団地でもこの3年間で21人が孤独死した。その半数が40代、50代そして60代前半までの比較的若い世代の男性だった。

 へぇと思ったのが運の尽きでなんとなく小一時間見てしまった。
 NHK的な話の展開としては、団地のボランティア組織「孤独死予防センター」の活動をヒューマニズム的に描いていた。確かに活動されている人は立派だと思う。
 だが話の全体から受ける印象は、私には奇妙な後味を残した。もちろん孤独死という問題そのもの重要性や、未婚者・パラサイトといった人々の増える日本の未来の暗さというのもあるのだが、なにか問題設定が間違っているような印象を受けた。なんだろうかとつらつら考えてみたが、はっきりとはわからない。が、少し書いてみたい。
 まず、団地の孤独死というのが団地というもののありかたと歴史的に結びついているのだろうかという疑問がある。NHKの番組の該当番組は常盤平団地を対象にしていたこともあり、その歴史背景についてはこう説明していた。

 総世帯数5,300戸を抱える常盤平団地は、昭和35年、全国のニュータウンの先駆けとして誕生した。ダイニングキッチンや洋式トイレなど、最新の設備を備えた団地は、当時"夢の住まい"として入居希望者が殺到した。
 しかし団地は変貌してしまった。高齢化が進み、住民は年々減少。単身での入居も認められるようになり、独り身の男性などが、数多く移り住むようになった。
 長年支え合ってきた古くからの住民は、地域の絆を取り戻し、"孤独死"を防ぐために動き始めた。

 このあたりの説明が番組の映像でもぼやけていたように思う。というのは、団地住民の高齢化が孤独死をもたらしているのではないようだ。そうではなく、団地という居住のありかたが廃れ、新しくそこに流れ入る単身の人々に孤独死が発生しているようだ。
 そして、その単身の人々というのは男性が多い。さらに、番組で特に私は奇妙に思ったのだが、単身者には中国人も多そうだ。なぜなのか。言い方はよくないのだが、孤独死リスクの高い人を政治的にこうした団地に集結させているようにも見える。そうした政治はどこから発生しているのだろうか。
 別の面でこの番組で奇妙に思えたことに、番組で描かれていた孤独死は現代の平均寿命からすると高齢者とは言えそうにないというのがある。以前からそうだったのだろうか。気になったので、十年以上前の新聞を眺めてみたのだが、一九九八年の読売新聞大阪版”大阪市の「孤独死」10年で3倍 男性が多数 京都府立医大講師ら調査”(10.31)には、こういう示唆的な記事がある。

 死後一週間以上たってから自宅で見つかった「孤独死」が、大阪市内で十年間に約三倍に増え、男性が全体の八割を占めていることが、京都府立医科大法医学教室の反町吉秀講師らの調査でわかった。阪神大震災後、仮設住宅での被災者の独居死亡が問題になったが、反町講師は「被災地だけの問題ではない。社会的な要因を分析する必要がある」と話している


 反町講師らは、死後一週間以上たってから自宅で見つかったケースを独自に「孤独死」と見なして、大阪府監察医事務所が扱った大阪市内の死体検案書を分析。孤独死は八五年が七十四人、九〇年が百二十四人、九五年が二百一人で、十年間で二・七倍に急増した。死者数をそれぞれの年の国勢調査に基づく同市内の単身世帯数で割った「孤独死率」も十年間で一・九倍。
 いずれの年も男性は八割を超え、九五年は百六十一人(80%)。年齢別にみると、女性は六十五歳以上のお年寄りが占める割合が78%と多いのに対し、男性は六十五歳未満が65%で壮年世代が目立った。

 十年くらい前までは孤独死という判定に「死後一週間」という条件の含みがあったようだ。が、その後の関連記事を経時的に見ていくと、次第にそうした条件期間の意識が薄れていく。
 孤独死の記事をさらに十年間経時的に見ると、阪神大震災の仮設住宅に関連したものが多いのだが、それらを除くと、時間の推移によって、高齢者の孤独死から六十歳未満の男性へと話題の焦点が移っていくように感じられる。これらは単に話題の作り方というより、実態側の変化なのだろう。
 全体的な傾向として現時点では、孤独死は高齢者の問題というより、中高年男性の自殺などと関連しているようだ。極めて男性学的な問題にも思える。
 フェミニズムが女性学であったかどうか私はわからないが、いずれにせよ社会に根ざした性差がもたらす不平等の構造的な解明を求めたものであれば、同じ理論の枠組みからこうした中高年男性の孤独死について性の問題から説明しうるのではないか。しかし、私はそうした説明の試みを知らない。

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2005.09.25

ラーメン屋雑談

 雑談。ラーメン好きという輩が困ったものである。凝るからね。私は凝らない。あんな単純な食い物、凝る必要ないじゃん、中国人の職人が作ったちゃんとした中華麺を喰えよ、とか吹いていた。十年前である。
 が、こっそり行きつけのラーメン屋とかはあった。例えば、飯田橋のびぜん亭。ここはラーメンというより文字どおり昔ながらの支那そばといったところ。私の口にはしょっぱい。ラーメン屋の倅と行ったとき、彼は、まぁ合格、叉焼はよい、と宣った。などなど。その後、沖縄に暮らすようになりラーメンとは縁が切れた。どうでもいいことだが沖縄もラーメン屋は少なくない。そして内地と同じようにラーメンだのウチナーソバだのに凝る輩は多い。困ったものである。以下同文。
 内地に戻って三年近くなり、しだいに内地に慣れてくると、結局またこっそりラーメンとか喰うようになる。いろいろ思うことはある。凝らない点は同じ。十年前と変わったなと思うのはチェーン店だ。身近に日高屋と幸楽苑が出来た。昨晩ぶらっと幸楽苑に行くと、醤油ラーメンが二百九十円だと言う。餃子が倍増で一皿の値段だとも言う。困ったデフレだなどとリフレ派のように嘆くことはしない。原価を考えれば適正価格じゃないかと思う(なわけないが)。それを頼む。それほど不味くない。腹一杯になった(+やさぐれ感)。
 そういえば、チェーン店の食い物がそこそこに不味くない。むしろ昔ながらの蕎麦屋とかのほうが不味かったりする。変な世の中だ。システムが出来てしまえば、こういうのっていうのは、けっこうユニーバサル・デザインならぬユニバーサル食い物なのではないか。しかし、外人はこんなもの喰うか?
 喰うのである。最初は変だと思うようだが、グルタミン酸が脳を刺激するのだろうか、喰い出すとやはり喰うようになる。ニューヨーカーもラーメンを食いだした。ロンドンで今一番のレストランと言うと、ラーメン屋である。洒落じゃない。
 九日付のテレグラフに載っていた。記事は”Wagamama elbows its way on to top table”(参照)である。


It sounds like a recipe for a dining disaster. The benches are bottom-achingly hard, diners are forced to eat elbow to elbow with strangers and starters frequently arrive after the main course.

Yet despite its unconventional approach to eating, the bustling budget noodle chain Wagamama yesterday beat some of the most famous restaurants in the country to be named the capital's best eating place.


 固い椅子に肘付き合わせてラーメン喰うのがよいのだそうだ。我慢好きのイギリス人にはウケるのか。ランクではファッショナブルな日本料理屋Nobuを抜いた。
 店の名前は「ワガママ」(参照)である。いや、マジで、写真を見るに、そう看板にカタカナで書いてある。外人にワガママなんてわかるのか。

Wagamama, which means "naughty child" in Japanese, was founded in 1992 by the Michelin-starred Alan Yau and now has 34 branches across the country.

 あー全然わかってない。っていうかやっているのは中国人じゃないか。ま、いいか。ユニバーサルなんだし。
 日本語で読めるワガママの記事は、ぐぐってみると、UK Todayというサイトに”一流レストランより上位!?――ヌードル・チェーン「ワガママ」、ロンドン・レストラン・ガイドで1位に”(参照)の記事があった。
 なぜラーメン屋がロンドンで受けるのかについて、テレグラフの記事にもあるが、理由の一つは、安いからだそうだ。ほぉ、ナンボ? それが、さ、£13である。今日の価格をGoogle様に伺うとUK£ 13 = 2 594.14675 Japanese yenとのこと。二千六百円! おい、それじゃ幸楽苑ならバレーボール・チーム全員に奢ることができるぞ。っていうか、サービスの価格なんて市場が決めればいいことだから、どうでもいいか。
 ロンドンの日本人はというと、ワガママを避けているげではある。
 そういえば、以前イタリア人と飯喰ったとき、日本のビザはビザじゃないとか、タバスコはかけませんとか熱心に語っていた。米人と日本のマクドで喰ったとき、ポテトにケチャップが付いてないとか言っていた(くれというとくれるよ)。いやまぁ、こういうことはポジションによってはいろいろ言いたいことはあるものだ。
 逆みたいなのもある。日本のコーヒーは旨いと言ってた米人もいた(スタバが出来る前のこと)。日本のビールは旨いといっていた米兵もいた。そういえば、ワガママで出るビールの筆頭はアサヒ・スーパードライだ。日本食なんだし。キリンのラガーもある。私が唯一飲めるビール「豊潤」はないみたいだけど。

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