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2005.09.24

胡耀邦名誉回復の背後にどんなパズルが潜んでいるのか

 このエントリはいつもよりちょっとウ的思考に踏み出す。読まれるなら、ちょっと洒落かもよというのを念頭に置いていただきたい。というのも、この胡錦濤パズルは私には難しすぎる。
 話の発端は今朝の朝日新聞社説”日中ガス田 海でにらみあうよりも”(参照)がいいだろう。私はこれを一読して、ハテ?と思い、再読して、ほいじゃこのパズルが解けるかなとチャレンジしてみたくなった。
 表向きの話は、愚にも付かない日中友好論である。いわく、日本の排他的経済水域の境界で勝手にガスの抜き出しにかかっている無法者中国とこの際仲良くしーや、というのである。この日本国を舐めた平和主義こそ朝日新聞の真骨頂と言えないこともないし、あのなぁその北の領域にもっとやばいのがあるんだよという話は「極東ブログ: 日本の排他的経済水域に関連して」(参照)でも触れた。ま、朝日新聞の言うことなど真に受ける必要もないのだが、ちょいと気になるのは、表向き中国様に批判しているような修辞があることだ。大丈夫か。あとで、中国様にオシリペンペンされるよとか心配する向きもあるかもしれない。


 両国政府は共同開発以外に解決策はないと見て、協議を重ねてきた。それをよそに既成事実を積み重ねる中国側の姿勢は容認しがたい。
 中国側は、いったん作業の手を止め、協議に真剣に向き合うべきだ。幸いなことに、月末ごろに協議を再開することで両政府は合意した。日本も打開に向けて具体的な提案をすべき段階だ。


 中国側には、小泉首相の靖国神社参拝などに対する反発から、簡単には日本に譲歩したくない気持ちもあるようだ。だが、これは純粋な経済問題であり、利害の調整は可能なはずだ。
 日本との幅広い協力を進めた方が建設的だし、長期的な協力関係の支えにもなる。中国の戦略的な決断を見たい。

 朝日新聞もさすが言うべきところはちゃんと中国様に物を言うじゃないか…なーんて信じられるわきゃねーだろ、朝日新聞なんだし。
 こんなの中国様(現政権)が中国内部の政治勢力に向けて外回りに批判するために、日本のケツをツンとやってみたというだけ。中国様の本音は、日本と仲良くしてさっさとガスを中国のために掘ろうよというのと、この対立勢力である軍プラス江沢民系にもっと圧力を加えてやろう、ということだ。朝日新聞のこの社説の冒頭はこういうふうに問題が軍だと書いてあるし。

 東シナ海で中国が開発を進める海底ガス田の近くで、中国の軍艦が盛んに動き回っている。上空には自衛隊のP3C哨戒機が偵察飛行を続ける。なにやら物々しい雰囲気だ。

 ほんとにあそこからガスが出るのかよという根本的な疑念はさておくとして(ユノカルはさっさと手を引いたし)、問題は天然ガスということもだが、中国様の息のかからない「中国の軍艦」だ。こいつら、胡錦濤や温家宝が国外に出るといちいち日本と悶着起こすのがお役目っていうやつらだ。
 というわけで、パズルの一手、二手をまとめると、まず、朝日新聞は中国様の代弁をしているだけで、その代弁は中国内部の軋轢で中国様を優位に持っていくこと。そして、どうやら中国の内部に中国様の息のかからない軍勢力がいること。って、多分、江沢民+曽慶紅(参照)といった上海閥なのだろう。
 というわけで、れいの反日デモと同じ構図というかまだまだ内部でドンパチやっていてるし、中国史を見ればわかるけど中国人というのは外部が唖然としても内部の政争しか関心なくその割に外部からの見てくれを内部の権力に使う。そもそも朝貢なんてものも皇帝(中国様)が内部の批判者に圧力をかけるための行事だった。
 さて、それだけなのかこのパズル?
 というのは、この構図だけで見ると、胡錦濤=ゼンダマンじゃん、みたいに見える。もっとも日本の長期的な国益を考えると上海閥がのさばってくれたほうがなんぼかマシかもしれないのだが…。
 ここでちょっと別件みたいだが、来たる十一月二十日、北京でド派手に胡耀邦(元中国共産党総書記)(参照)の生誕九十周年の記念式典が行われる。あと十年待たないのだ。で、誰がやるのかって、胡錦濤がだね。天安門事件の引き金とも言える胡耀邦が名誉を回復するのだ。な、なぜ? 日本語で読める話としては産経系”「改革・開放」機運再び盛り上げへ 胡耀邦氏の名誉回復進む”(参照)が詳しいが、なぜへの答は次のようにへなちょこ。

 胡氏の業績が正当に評価され始めた兆しで、“名誉回復”が着実に進んでいる表れといえ、これを機に、再び改革・開放路線の機運を大きく盛り上げ、今後の経済発展に弾みをつけたい、中国政府の思惑が見え隠れしている。

 そんだけのわけねーだろ。まぁ、完璧にその線はねーだろとまでいうわけでもないが…。
 これは言うまでもなく胡錦濤の権力闘争でしか、あ・り・え・な・い。じゃ、どんな闘争か? まさか、これで天安門事件以降の江沢民フランケンシュタインの恐怖時代を転換させる、わきゃねー。
 まずかなりはっきりしているのは、指標は胡耀邦じゃなくて、趙紫陽(参照)だ、絶対。趙紫陽が十分に名誉回復すればそりゃ、中国のこの暗黒の十五年の転換はあるかもしれないが。が、そういう兆候は今のところない。ないどころか。逆がある。
 六月一日付ウォールストリートジャーナル”Still Afraid of Zhao”(参照)が趙紫陽の現代的な意味をうまく表現している。

Even five months after his passing, China's leaders remain terrified of Zhao Ziyang. Or, more precisely, of what havoc the former Communist Party chief might wreak from beyond his grave. The source of the fear this time is a samizdat manuscript that delivers his final verdict on the party that purged him and placed him under house arrest for supporting the 1989 Tiananmen protesters.

 中国の現在の権力者は依然趙紫陽を恐れているというのだ。この場合の権力者は歴史的に見れば江沢民と仲間の愉快な上海閥ということだが、この記事が示しているように、胡錦濤も該当する。

The document, secretly written by close associate Zong Fengming on the basis of extensive interviews with Zhao during his 15 years of house arrest, is believed to include denunciations of former Chinese leaders Jiang Zemin and Li Peng.

 このあたりよくわからないのだが、なんか趙紫陽文書というべきものが存在しているらしい。れいの天安門文書(参照)みたいに、そ、それがばれたら中国トホホみたいなものなのだろう。読みたいぜ。というか、すでにどっかにあるのか?
 このスジで見ていって、どれだけ信頼性があるのかわからないだが、The Jamestown Foundationというサイトに”HU BOOSTS POWER AS HE SCRAMBLES TO MAINTAIN SOCIAL STABILITY ”(参照)という記事をめっけ。ざっと読んだのだが、ようは胡錦濤も趙紫陽文書の隠蔽に絡んでいるようだ。ついでにこの記事では、胡耀邦の名誉回復は上海閥対抗と胡耀邦人材の取り込みという点を指摘している。
 というあたりで、アショーカ王である。中国情報局九月五日付”特別インタビュー:日本僑報社 段躍中氏”(参照)を思い出す。

――4月には上海などで過激な反日デモも発生しました。靖国神社問題などに関して、中国政府は日本政府をきびしく批判していますね。
段:ただ、中国政府は対日関係を非常に重視しているのですよ。胡錦涛政権樹立後の2003年、新日中友好21世紀委員会が発足しました。中国側の座長は、胡耀邦元総書記の秘書を務めたことのある鄭必堅氏です。
 胡錦涛国家主席は共産主義青年団書記を務めた経歴がある。胡耀邦氏も共産党青年団書記を長く務めました。その胡耀邦氏の秘書が21世紀委員会の座長になったということは、日中関係に臨む胡錦涛主席の意欲のあらわれと考えてよい。

 つうわけで、中国様=胡錦濤は、日本内の胡耀邦シンパを吸い寄せるように鄭必堅を置いているわけで(朝日新聞もこの関連のツテでしょうな)、先のThe Jamestown Foundationの記事のように、そういう配置を要所要所に繰り広げてきているわけだ。
 ちなみにそのシフトで中国様が日本になにを求めているかって、資源と技術とカネですよ。田中直毅21世紀政策研究所理事長もこう言っている(参照)。

 4月9日の北京、4月16日の上海での反日デモの暴徒化は、間違いなく胡錦濤政権を追い込んだ。その後5・4運動記念日をはじめとして反日デモが起きる可能性の高い日時を想定して、鎮圧への踏み出しを明らかにしてきた。政府の予算が多額に使われたわけはないが、中国政府を取り巻く内情からすれば政治的資源を相当程度使い尽くした可能性がある。
 そこまで踏み込んだのは反日デモの暴徒化は、これをきっかけとして共産党批判の声に転化しかねないという危うさを秘めているからである。1月の趙紫陽の死去以来、1989年6月4日の再現を回避するための努力が行われた。89年の場合は胡耀邦の死去に際しこれを悼む形をとった政権批判がきっかけとなった。現政権は歴史の古知から学んでいる。

 中国様の、むふっと鼻息が聞こえるようだ。
 以上、すげー杜撰なお話でした。

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2005.09.23

[書評]唯幻論物語(岸田秀)

 「唯幻論物語」(岸田秀 文春新書)を読んだ。昨晩は寝るのも忘れて読み終えた。

cover
唯幻論物語
 岸田の本は、たぶん二度と読むことがないだろうと思っていた。本書を待ち合わせの駅の書店で見かけて手にしたとき、「あ、またか」と思った。パラパラとめくって、「くだらね」と思ったが、その後、この本を買って読め買って読めと反復・強迫が始まった。なぜであろうか。岸田の本を読むのは、ちょっと恥ずかしいという思いと、読んでもまたかよ損したぁというのが表向きのネガティブな思いではあるが、今回はなにかが違っていた。アレである、本当の本だけが知らせる直感のようなものがあった。もっとも、このあたりの好悪や評価は人によってかなり違うのだろうが。
 なにげなくたらっと読み始めた当初は、ほぉ、小谷野敦「すばらしき愚民社会」への反論ということか、やっぱ、くだらね、とも思った。
cover
すばらしき愚民社会
 ちなみに小谷野のこの本は一読して、くだらねと読み捨てたものの、再読して評価を変えた。よい本であるし、小谷野は誠実な人文学者さんであると思う。彼にしてみれば私なんぞこの本の帯にあるように「バカが意見する世の中」の代表ではあろう、けっ、しかも、私は彼がくだらねえとする吉本隆明や小林秀雄を飽きもせず読み返す愚民でもある云々…てなことはどうでもいい。小谷野はきちんと欧米流の教育を受けた人だなとは思う。中島義道もそういうところがある。むしろ柄谷行人にはそういうデシプリンを受けてないように私は感じるし、池澤夏樹などもその教養のボーンに西洋の教養の体系性が感じられない云々…てなこともどうでもいいのだが、話を小谷野に戻して、彼は岸田秀からのこの強力なメッセージを読み解けるだろうかとは思った。
 こう言うと私にもとばっちりがくるのだろうが、「唯幻論物語」を読みながら、私は漱石の「こころ」を連想した。話がちと回りくどいが、「山本七平の日本の歴史 (上)」で漱石の「こころ」が「先生」の命を代償に「私」に残す精神性とはなにかと問うているが、「唯幻論物語」の岸田は自己の命の代償に小谷野に告げるというほどではないが、稀代の大学者が若手の知性へ向けてその知の最大の贈与をここで行なっているのだという、ぞくぞくとした感じが、私にはあった。小谷野にそれが伝わるだろうか。
 私は岸田秀は大学者だと思う。というか、本書を読みながら、二十年以上かかったが、ようやくそう確信した。これだけ精緻にフロイトを読み解いた学者はいないのではないか。岸田はラカンはくだらないみたいなことを書いているがそれは単純にただそういうことなのではないか。ラカンはフロイトをただその時代の気風や集団のモードに合わせて説いていただけだし、コアの集団は一種のカルトのようでもあった。ラカン自身、フロイトを一歩も超えていないという自覚もあっただろう。そもそも精神分析学というのはそういうものだということも岸田はよく見抜いている。岸田について強いていえば、結局この人は生涯をかけてフロイト学説という車輪を再発明しただけとも言える。が、その必然性はあるのだろう。
 本書あとがきに、岸田はこの本は最初にして最後の書き下ろしであると書いている。考えてみれば、彼はあれだけ書き散らしながら、自分からは本など書く気はなかったのだろう。言いたいことはあるし、それが本になるうれしさは当然あるだろうが、自発的に本など書く気などはさらさらなかった。しかし、人生の最終局面でそうしたわけだ。余談だが、吉本隆明も似たようなもので、書きたいと思って書いた本は「『反核』異論」(参照)だけだった。
 余談が多くなったが、本書を読みながら、「インチキ恋愛」という概念が気になった。こういう形でくっきりとまとめられたのは本書が初めてではないだろうか。
 岸田はある意味でレトリックの自縄自縛に陥りやすい。「普通の恋愛」と「インチキ恋愛」といっても、恋愛そのものが幻想でしょ、というところでドツボる。このあたりは、もっと本能論みたいなものを出してもいいだろうとは思うが、易しそうに見える岸田の説明の本質的に厄介なところだ。同じことが、「反復」にも言えるのだが、岸田は誠実なあまり、この概念をあえて充分には咀嚼していない。ついでいえば、意識の共同性についてはヘーゲルなどを読み解けば得るところは大きいだろうが、彼の流儀ではヘーゲルという車輪を再発明するしかなく、残念ながら、彼の人生にその余裕はないだろう。
 と、「インチキ恋愛」について、昨今のモテ・非モテ、ツンデレという文脈で少し敷衍してみたい、というかそのあたりのネタをこのエントリのコアにしようと思っていたが、気が変わった。誤解されるだけだろう。
 私などが言うのも僭越だが、本書にはフロイトの心髄があると思うし、学問というものが裸の姿で現れるとこうなるという奇妙な例示であると思う。

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2005.09.22

北朝鮮をめぐる六カ国協議共同声明について無駄に考えてみる

 北朝鮮をめぐる六カ国協議で合意された共同声明だが、私はよくわからない。わからないのに書くのがブログのよいところである。基本的に北朝鮮はこんな合意文書など気にしないおおらかな国である。一九九二年の朝鮮半島の非核化共同宣言にも調印したが無意味だった。なので、共同声明とか議論の基礎になるわけもない。ま、なんでもありなのでブログで扱いやすい、ってな洒落はこのくらいにして先に進む。
 一応、今回の声明では、核兵器と核開発計画を放棄、核拡散防止条約(NPT)へ復帰、国際原子力機関(IAEA)査察の受け入れが決まったということだが、「プルトニウム問題はなしってことで、ひとつ」ということになっているし、すでに「軽水炉の提供まで核放棄に応じない」とすかさず毎度のゴネが出てくるし、金さん愉快だな、である。ま、軽水炉は日本も使っているし四の五の言うこともないでしょとも思うが、米国や中国にもいろいろ思惑ってものがあるのだろう、っていうか、問題は米中問題なのだろう。
 で、あらためて北朝鮮問題って何が問題なのか、わけあって病院の廊下でぼんやり考えながら、やはりなんもわからないので、良心型自販機で百三十円の毎日新聞を買って、某宗教団体の広告とその息のかかった投稿を爽やかに前向きな気持ちで読んだあと、”6カ国協議:中国、圧力かけ米国に署名迫る 米紙報道”(参照)という記事を読む。こんなことが書いてあった。


【ワシントン及川正也】北朝鮮の核開発問題を巡る19日の6カ国協議の共同声明について、声明案を提示した議長国・中国が「米国が署名しなければ、合意失敗の責任を米国に押しつける」との姿勢で臨み、米側に圧力をかけていたことが分かった。20日付の米紙ニューヨーク・タイムズが米高官らの証言を基に報じた。ブッシュ政権もイラク情勢、ハリケーン「カトリーナ」の被災対策、イランの核開発問題に忙殺され、声明案を受け入れることで北朝鮮との対決を当面、回避したという。合意は米側の譲歩だったことが浮き彫りになった。

 へぇ、ニューヨーク・タイムズにね。と、帰宅してオリジナルをネットで見直したがどれが該当記事かわからなかった(どれ?)。ま、いいか。これが本当なら米国は不本意で中国はさすがね、ということなのだろう。追記:コメント欄で教えてもらいました。NYT(09.20)”U.S.-Korean Deal on Arms Leaves Key Points Open”(参照)がそれです。
 そうなのか? 外交的に見れば、とりあえず北朝鮮を国際世界の枠組みに戻したというだけでも中国の成果とも言えるのだが、さて。
 考え込んだのは、この問題、北朝鮮の非核化という枠組みで見てきたのだが、考えなおしてみると、北朝鮮の核が恐いのは日本だけだ。中国は大丈夫。「極東ブログ: 中国のちょっとわけのわからないフカシについて」(参照)でもわかるけど、中国という国は核攻撃に対して口は軽いが腹は据わっている。韓国はまさか同胞が攻撃してくるわけないじゃないかあたりまえでしょ、うんうん。ロシアは極東の地図すらよくわかってない。なーんだ、怖がっているのは日本だけじゃん。
 本音のところで日本が北朝鮮の核が恐いかというと、そのあたりはさすがに例の問題ともにいくらブログでも言いづらいじゃないですか。というか、恐くないと科学的には無意味なMDに国費をどぼどぼ注ぎ込む理由もなくなってしまうし、というか、MDの狙いである中国問題をどうするかマジで直面するのも面倒臭いものだ。
 じゃ米中間で北朝鮮を巡る問題ってなんだろと考えなおすと、北朝鮮崩壊でおきる国境間の難民問題と、国家の境界線の変更という二点なのだろう。
 難民問題はとりあえず日本にはあまり関係なので立派なことを宣う中韓にオマカセだが、国家の境界線の変更ということは統一朝鮮がどういうふうに中国にぶら下がるかという問題だ。妥当な推測をすれば、中国様にべったりということだろう。半島っていうのはくっついているってことだし。ただ、そうなるとさすがに日本も沖縄より近いところに中国様がぬっと現れるということになる。
 残る問題は、それを米国が許すかだが、よくわからない。米中間は本音では仲が良いですよとかいう人多いし。それに統一朝鮮が親中化するなら、グラジュアルに日本も親中化すればいいじゃん、というのもありかもしれない。やっぱ、そうですよね。東アジアの国は仲良くしなくちゃ。平和と友好が大切。え?チベット問題? どこの国でも内部には問題があるもんですよ、気にしない。
 …うーむ。なんかどっかで思考の道順を間違えたような結論になった希ガス。さてどこで間違えたか。

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2005.09.21

NHKクローズアップ現代「歴史教科書はこうして採択された」雑感

 昨日のNHKクローズアップ現代は「歴史教科書はこうして採択された」(参照)だった。例の、杉並区で騒いでいた歴史教科書問題である。台風で放送予定日がずれ込んでいたらしい。私はというと、とりわけこのテーマだから見るというわけでもなく、いつもどおり漫然と見ていただけだが、もしかするとネットで話題になるような話でもあるかなとは少し思った。でも、どってことのない番組だった。アレにもきちんと触れてなかった。
 NHKのサイトでの説明はこんな感じ。


来春から中学校で使われる教科書の採択が、この夏全国で行われた。4年前の前回に続いて注目を集めたのが、韓国や中国から「過去の侵略を美化している」と批判されている扶桑社の歴史教科書。今回は、市区町村では初めて杉並区と栃木県大田原市で採択された。多数の市民が傍聴に詰めかけるなか採択が行われた杉並区では、採択を決める教育委員の意見もふたつに割れ、一回の会議で決定せずに、再協議を開くという異例の展開をたどった。番組では、杉並区の教科書採択の現場を取材。採択制度の現状と課題を見つめる。
(NO.2136)
スタジオ出演 : 椿 直人
    (NHK社会部・記者)

 私はこのニュースにはそれほど関心もなかったこともあり、この番組で初めて採択の内情を知った。教育委員が五人いて、委員長を除き当初ニ対ニで意見が割れ、最後委員長の一票で採択が決定だったとのこと。私は、ふーんたった五人で決めたのか、と思った。彼らは歴史教科書以外の教科書も決めているとのことで、負担が重いといったボヤキもあった。
 委員が各教科の教科書を選択するにあたっては、教師からの意見書みたいなのが寄せられるとのことだ。これが従来は、イチオシ教科書はコレ、みたいになっていて、教育委員はそれをただ是認するというだけったらしい。が、東京都では石原知事がハッパをかけて委員が独自の選択をするようになったと番組で強調していた。
 ほいでも教師からの意見書には事実上、コレいいっすよ、みたいな評価が含まれているらしく、そのあたりをNHKが集計しなおして見せ、さらに大抵の分野でイチオシ、ニオシが選ばれているのに歴史教科書だけは違ったと番組で強調していた。歴史教科書だけ教育委員会が独自に選んだトーンを出していたわけだ。
 番組はいつものテンプレで識者みたいのを出して、ありがちな賛否両論をやっていた。教科書は実際に現場で使う教師が選べばいいといった話や、教師が選ぶからこれまでいけなかったといった話もあった。
 話を聞いていて、私は、教師が選ぶといってもその教師は地域住民が選んだといえるわけもないか、それを言うなら教育委員会の委員も民主的な選挙によるものでもないかとつらつら思った。
 話がだんだんずっこけるが、私が沖縄にいたころいくつかの町村の教育委員会でちと話をしたことがあったのだが、そのおり、教育委員会っていうのは町役場のなかにあり、これは事実上役場の一部なのだとしみじみ思った。当たり前といえば当たり前だが。
 ついでに教育委員会やPTAの歴史もちと調べた。その時の印象は、これってGHQの名残かぁというものだった。手元に当時のメモも残ってないので、あらためてネットを見渡してみると、二〇〇四年三月十八日「議事録 第12回中央教育審議会教育制度分科会」(参照)に、文脈は幼児教育とかだが、こんな話があって参考になる。

 教育委員会というのを前提にして、今お話があったように、運営について問題があるかどうかというと、それは問題がないとは言い切れないです、人間のつくった制度ですからね。それはいろいろと考えるべきだろうし、もとももと教育委員会制度ができたときのお話を、当時やっておられた方に聞いてみると、必ずしも民主的な制度と考えて手をつけたわけではないのですね。GHQから言われた。「どうなんだ」って都道府県に出してみたら、あっという間に何千という都道府県から、GHQが言うならというので、「やろう、やろう」というので始まった制度なんです。ですから、その辺の議論がきちんとできていない。それがもしかすると続いて、今日も残っているかもしれない。
 そういう意味でいえば、この制度そのものをなくすという議論ではなくて、これをどう運用して、どういうふうに民主主義につなげて、教育という観点を ―縦割りをなくしちゃえば別ですけれども、それはできないわけですから、教育という観点を代表する教育委員会を何らかの形で改善していくという議論をすべきだろうと私は思っています。

 教育委員会制度というのは、GHQが言うからやろうかね、といった軽いのりだったのだろう。PTAに至ってはもうちょっと奇怪だった。が、それはさておきとして、じゃ、GHQはなに考えていたのかというと、私の印象なんだが、やはり日本国憲法同様、連邦と州という発想だったのではないか。
 米国と日本の教育行政についてざっと見ていたら、「Education In Japan -Theoria- : Comparison-比較諸外国の教育内容行政のあらまし」(参照)というのがあった。この情報がどの程度正確かよくわからないが、日米を比べてみると、どうも教育委員会制度や教科書採択というのは、米国の州行政をベタに日本の地方にもってきた感はある。
 そういえば先の審議会にこういう話もあった。ちと長いが引用する。

○横山委員 私は教育委員会の中にまさにいる人間ですから、外から教育委員会がどういうふうに見えるかというのはよくわからないのですが、ただ、一般論として教育委員会制度に対する批判というのは、私は中から見ていて、的外れな批判が非常に多いような気がするのです。というのは、教育委員会という教育行政執行上のスタイルですね、制度。その制度自体の問題なのか、あるいは制度の内在する問題なのか、あるいは制度の運用の問題なのか。はっかり申し上げて、かなり多くの指摘というのは、運用上の問題に帰結するような気がしてしようがないのです。
 もう1点、例えば全国市長会あたりが、教育委員会制度の廃止を訴えていますが、この真意は、いろいろ話を聞いても、例えば今の市長にしても、知事さんにしても、首長選挙をやる場合には、大方の人が教育問題を争点に選挙を戦っているわけですね、実際には。当選されて、いざ公約たる教育行政に手をつけようとすると、教育委員会という壁があって実現ができない。この問題に対する不満というのは相当あるようなのです。
 したがって、今回、教育委員会制度云々という場合には、我が国において公教育を執行する体制というのはどうあるべきなのかという論からまず始めないとですね。それは現行教育委員会制度を前提にしないで、どうあるべきかという議論から始める。首長がやるという結論には私自身はならないと思うのです。当然、何らかの第三者機関的なものが必要だという方向にたぶんいくならば、その組織はどうあるべきか。一旦、教育委員会制度を全く頭から外して議論していかないと、やはり説得力ある論立てにはならぬような気がします。

 率直な印象をいうと、GHQがなんとなく残した奇妙な制度はいまだ日本にしっくりこないということでもあるのだろう。
 憲法と似たような状況ともいえるが憲法のほうはまがりなりにも半世紀以上身の丈に合うように運用してきたし、最高裁判例もある。教育制度となるとそういう歴史の積み上げというのはないのではないか。
 さらに余談だが、そういえば、「極東ブログ: 郵政民営化反対論の反対論」で匿名のかたから奇妙なツッコミをいただいていた(参照)。

>実上の原文である英文を読むとnationとstateを使い分けており、つまり、これって連邦法ではないのか

天皇が,「the symbol of the State」なのにですか?


 当然。憲法ができたとき沖縄は日本ではなかったし、あの時点では天皇は内地のシンボルでしかなかったんだよ。

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2005.09.20

農政改革でもあった郵政改革

 なにかと喧しい話題でもあるし、たいして調べもしているわけでもないのだが、この間の議論の残務整理っぽく、この話題にも少しだけ触れておこう。つまり、今回の衆院選挙は結果的に農政改革でもあった、ということ。
 話を単純にすると、今回の衆院選挙で、自民党農水族のボスキャラ自民党農林三役が揃いも揃って撃沈された。つまり、選挙前の野呂田芳成・総合農政調査会長、今村雅弘・農林部会長、松下忠洋・農業基本政策小委員長が、ぷしゅっとイリュージョン! 消えてしまった。まるで小泉総理はそこに狙いをつけたかのようだ…みたいなレトリックをふるうとろくなことがないので自粛。
 なお、農水族って何? 水族館と関係あるの? という疑問のある人は、民主党で今回惜しくも落選してしまった錦織淳元衆議院議員のサイトにある”私も農水族でした”(参照)が面白いので読まれるといいかも。面白すぎとも言えるくらい。
 とはいえ、依然自民党農水族自体は残るし、むしろ自民党が膨れたから勢力は強まるといった穿った意見もあるだろう。が、ま、ないでしょ。ボスが狙い撃ちされたも同じだし、そこまでの根性があればすでにボスでもあったろうしなどなど。そして膨れた自民党議員は旧来の自民党からすると宇宙人みたいなものでもあるだろうし、これを迎え撃つには民主党も宇宙人みたいの出してきたし(目が人間ぽくないし)、ここに星間戦争が始まるのである…ってふざけるのはさておき。
 ネットをさらっと見渡してみるとこの話題はそれほど議論はないようにも見える。アルファーコメンテーターことうんこさんも触れてなげっと。
 メディアでこの問題を取り上げたなかでは、北海道新聞”自民農水族が半減 農業団体、政治力低下を懸念 農政調査会長は造反、政策責任者ら落選”(参照)がよく伝えていた。


衆院選で自民党圧勝の陰で、農水省や農業団体に困惑が広がっている。自民党の有力農水族議員が同選挙で半減したためだ。経営安定対策の具体化など重要課題が山積する中、農業関係者からは農水族の政治力低下を懸念する声も出ている。


 年末にかけては、経営安定対策のほか世界貿易機関(WTO)農業交渉など、重要課題がめじろ押し。郵政改革の後は農協の金融部門の分離など農政改革との見方もあり、農水省は「守勢に立つことが多い農水省にとって、守ってくれる議員の力が弱まるのは痛い」(幹部)。農業団体も「調整役がいなくなり、うまく難題をまとめられるのか」と、政治力学の変化に神経をとがらせている。

 簡単にまとめれば、農水族の政治力は低下するだろうし、それによって、WTOを睨んだ今後の日本の農政の方向性がぐんと変わってくるだろう。例えば、散人先生が指摘された”日経:輸入規制、アサリなど有効・北朝鮮制裁で自民試算……柳の下のドジョウを狙う農水族”(参照)なども変化はあるだろうし、二〇〇二年の東奥日報”BSE問題で調査報告書/「政と官」切り込めず”(参照)これなんかも昔の話、というか笑話になるだろう
 私の印象ではあるが、実際のところは、新生小泉政権はそれほどWTOがらみと対米の線を除けばそれほど大きな変化はないのではないか。小泉も手加減しているふうでもある。選挙前の話だが、同じく北海道新聞”道内の農協、医師会 揺れる自民支持 「改革」波及を懸念 衆院選”(参照)では次のように記していた。

 政府の規制・民間開放推進会議は、農協から金融事業を担う信用・共済部門を切り離す改革案を検討している。このため農業団体は「郵政の次に農協を解体するつもりではないか」と疑心暗鬼。小泉純一郎首相は郵政民営化関連法案の参院採決直前、自民党農水族に「農協は郵政と違う」と語ったが、疑念は消えていない。

 日本の内政としての農政が今後具体的にどういう方向になるかというと、大筋では官僚主導になるだろうから、政府広報オンライン”農政改革(食料・農業・農村基本計画)”(参照)あたりの筋書きでもあろう。ちょっとSFっぽい印象も受ける…っていうかあまり現実感ないなぁ。

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2005.09.19

カトリーナ被害からブッシュ叩きの世相について

 カトリーナ被害からブッシュ叩きというのは、米国の現在の政治的な状況では、しかたがない面はあるだろうと思う。クローズアップ現代でも連邦緊急事態管理庁(FEMA)のリストラに根幹の原因があったふうな誘導をしていたが、当たっている面も多い。
 ただ、それをそのまま日本にずるっともってきてブッシュ叩きから米国叩き、はては小さな政府はだからイカン論とか、イラク戦争の是非とかにまでなんでもかんでもガーベッジにしてしまうのも変な感じがする。別に私はこの件でブッシュを弁護する気はさらさらないが、ちょっと違和感だけは書いておこう。
 まずブッシュ叩きは、単純に米国メディアのお商売という側面がある。十三日付TBS”米メディア、「ブッシュ叩き」の理由は?”(参照)はそのあたりをこう伝えている。


 カトリーナ関連の報道で、アメリカのテレビ局は軒並み、視聴者を増やしました。ニュース専門チャンネルCNNの視聴者は、災害前の実に3.5倍に膨れ上がったと言います。そして、その数字とまるで反比例するかのように、ブッシュ大統領の支持率は、就任以来最低の38%まで下がりました。
 「イラク政策や一向によくならない経済について、腹を据えかねていた国民が、今回、カトリーナの被害にあった貧しい人たちを助けられなかった政府に怒りを感じているのです。国民が説明を求めている時に厳しい質問をするのは、メディアの役目です」(NBCテレビ デビッド・シュースター記者)
 「9.11」以来、ブッシュ政権が掲げてきた強いアメリカ。それが国内で崩れ去るのを目の当たりにしたアメリカの人々のショックは計り知れません。そして、その衝撃がメディアの政府への批判をこれまで以上に強いものにしています。(13日18:30)

 それはそうだろうし、そしてそれは米国の事情というものだ。
 今回の人災的側面には、FEMAの機構上の問題がよく指摘される。確かにそれはそうなのだが、この機構改変にはテロ対策があり、この文脈における連邦政府と州政府の関わりはちょっとやっかいだなと私は以前思ったことがある。ちらとネットを見ると、二〇〇一年のワイヤードの記事”米司法長官:「連邦と州が協力してテロ対策の強化を」”(参照)が参考になるかもしれない。このころ連邦政府側がテロ対策に強く乗り出した。

 だが州政府は、こういったテロの脅威をさほど大きなものとは見ていない。それよりも、連邦政府がこのところ力を入れだした諸政策が、州政府の管轄権を侵すのではないかといらだちを見せている。
 「どんな攻撃も地方から発生する。そして(州政府は)連邦政府が高圧的に介入してくるのではないかということに非常に敏感だ」と、政府資金によって運営されているテロリズムに関する諮問委員会の副委員長、ジェームズ・クラッパー中将は語った。

 基本的な構図として、州政府はその管轄権の保持の点で、連邦政府の介入の権限について敏感であるということがある。まして、州政府が民主党であると、共和党色の強い連邦政府には違和感を持つだろう。この構図は今回のカトリーナ被害にもあるように思える。
 そうした視点でネット少し見回したのだが、どれほど権威があるのかわからないが”Don't blame (only) Bush”(参照)という「ブッシュだけをそんなに責めるなよ」というコラムは示唆的だった。
 まず、ふーんと思ったのだが、今回の被害に対するブッシュの態度もその政党支持でけっこう分かれる。

Asked about Bush's response to Hurricane Katrina, Americans are very partisan in their views. Among Republicans, 74 percent approve of Bush's handling of this catastrophe. Among Democrats, 71 percent disapprove. Among independents, 44 percent approve, and 48 percent disapprove.

 というか、そこから先、政党のイデオロギーが意見に反映していると見てもいいのだろう。
 おやっと思ったのは、次の部分だ。

The mayor of New Orleans had hundreds of school buses he did not use to evacuate citizens. His entire evacuation implementation was a disaster. The governor of Louisiana did not mobilize National Guard troops soon enough, and she quibbled with the president for a precious 24 hours over whether federal troops would be under the command of the Department of Defense, rather than herself. FEMA was totally inept initially at getting food, water, and medicine to hurricane victims. Homeland Security demonstrated bureaucratic paralysis in its handling of the crisis. Only the Red Cross seems to have come out of this unscathed in its reputation.

 単純に言えば、災害当地の施策のミスの指摘と言っていいだろう。そういう声はネットに他にあるだろうかと探すと、BBSにこういう意見があった(参照)。

If FEMA was paralized it was by the state of Louisiana, specifically the gonernor. What a crock, FEMA didn't turn away the Red Cross, the governor of Louisiana did stating that they wanted no incentive for the people to stay in the Superdome. FEMA's statement not to respond unless asked was because that is what the governor (who is the local authority) requested, not FEMA's policy.
 
And the people were "dying for lack of water and food" because the governor of Louisiana specifically refused to allow the water, food and supplies through for the reason stated above, that they didn't want the people to want to stay in the superdome. The governor was the one who tried to starve them out. The governor is the one with authority unless martial law is declared and the feds take over.
 
Some people just won't let the facts into their narrow minds. In spite of all the arguements, the Federal response to Katrina, as bungled as it was was, it was faster, more timely, and stronger than any response by FEMA in history. Now is this an arguement that the glass is half empty, or half full?

 こちらは明白に州政府側の問題点を指摘している。もちろん、BBSなので同ページには反論もあるので、こうした問題を考える上では示唆になる。
 ブッシュ擁護ですかみたいな単純な揶揄にうんざりしていることもあるが、この問題はこれ以上は立ち入らない。理由は、今回の事態と機構が私にはよくわからないからだ。少なくとも、連邦政府権限と州政府権限、また、FEMAの機構と運用とくにそのガイドラインがどのように適用されどのような限界があったのかなど、私自身としては、ベーシックな部分が整理できていない。

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2005.09.18

中秋の名月

 今日は旧暦の八月十五日、十五夜である。日本人は中秋の名月と呼ぶが、「名月」の表記は室町時代以降のことらしく、それ以前は定家の「明月記」のように明月であったようだ。確かに明るい。昨晩も「疑うらくは是れ地上の霜かと」といった趣きだった。また「仲秋」とは宛てないようだ。
 昭和三十二年生まれの私は、子供の頃十五夜祝ったものだ。薄を飾り、月見団子を供える。家には中山晋平のソノシートがあり、証城寺のたぬきばやし、兎のダンス、雨降りお月様、などを歌った。月見の喜びが子供の思いとまだ結びついていた時代だった。
 この月を朝鮮では秋夕(チュソク)として祝う。私が知る在日のかたは「お盆」と言う。確かに祝いかたを見るにお盆のようでもある。してみるとこれもまた日本統治の名残かとも疑うが、違うだろう。中国の中秋節に日本統治下の風習がかぶさったものではないか(と言えば朝鮮人は嫌がるだろうか)。いずれ中秋が基本にあったには違いない。松餅(ソンピョン)を食べる習わしも、その形状を見るに中国の月餅と同じ趣向であろう。
 私は子供時代を過ぎてから名月を殊更に祝ったことはない。二十代後半、ちと連歌などに凝ったこともあり、月を愛でるはよろしき、みたいな感じではあったが、その程度だ。沖縄に暮らすようになって、当地の観月会の盛況なことに驚いた。うちなーんちゅは観月会が好きである。飲み会の名目といえばそうだが、それでも月は欠かせない。いずれ沖縄は十月まで本土の夏のような季節が続く。アウトドアがよろしい。
 沖縄では月見団子は食べない。月餅も食べない。松餅も食べない。ふちゃぎを食べる。ふちゃぎは、ブログ「~沖縄で暮らしたい!~」”「ふちゃぎ」お届け~!”(参照)の写真を見るといいが、こんな感じの餅である。語源は吹上餅であろう。吹上が暗示するように、これは蒸し上げる。沖縄では近代内地文化の起源でなければ杵搗き餅はない。そういえば内地の月見団子も杵搗きではない。当の月では兎どもが杵搗きをしているのになぜであろうか。
 私はふちゃぎが好きになった。もっとも、もったりとしてそう喰えるものではない。しかも味はないに等しい。なので若いうちなーんちゅも好まない。が、私は小豆の香りが好きなのでそれだけで充分。以前、マクロバイオティクスに凝っていたころ、甘味なしのお萩を好んだが、そんな感じもする。そういえば、ふちゃぎとお萩は似ている。内地の彼岸のお萩とふちゃぎにはなにか関連があるのだろうか。むむむ。お萩もうちなーぐちで言えば「うふぁぎ(うふぁじ)」なので「ふちゃぎ」にも似ている。ついでに、先のブログのコメントでふちゃぎが南大門でも売られていたとあった。そ、そうなのか?


月餅 横浜中華街重慶飯店
 中国はもちろん月餅である。そしてもちろん月餅とは賄賂のことである。日本人の感覚からいえばのし紙のようなものだ。なので、今年はかなり規制が厳しいようだし、厳しくて当然だろみたいな笑えないような笑い話もよく聞く。月餅のおまけに別荘や外車が付くのだよ。
 私は月餅も好きだ。特に重慶飯店のが好きでよくオーダーしたが、ネットを見回しても通販はなさげだ。どうしたことか。重慶飯店の飯はイマイチだが、菓子類はけっこういける。月餅もずしっと重い。ちょっとこの歳になると一個は喰えないなというのが、月餅の原義である「円」の分かち合い精神によろしい。小さくカットして中国茶とともにいただく。餡は、私は、ナッツなんかのも好きだ。追記:コメント欄にて教えてもらった。「素材にこだわり指定銘菓 月餅:横浜中華街重慶飯店」(参照)です。
 中国茶といえば、この形状の分類で餅茶というのがある。餅にどう関係するかというと、餅の形にかちかちに固めてあるということだ。で、餅の形だが、これは柔らかなアダムスキー未確認飛行物体が重力算定を間違えて着地したような、あるいはエアーマックのような形だ。丸餅である。というか、餅とは丸いのが原義である。そういえば、沖縄の駄菓子でよくコンペンというのを食べたが、これの語源は薫餅であるとも聞いた。宛字のような気もするが、ペンはペイではあろう。
 中国の中秋といえば、月餅ともに忘れていけないのは、西瓜である。蓮華に彫った西瓜を捧げる。どちらも、「円(ユアン)」つまり丸いということからの連想ではあろう。が、こういう伝説もある。
 中国四千年というしょーもない嘘があるが、中国というのはしばしば遊牧民族の植民地になる地域だ。近いところでは清朝は漢民族の国家ではなく、モンゴル継承国家であった。なのでその領土が漢民族のものか、孫文はどう考えていたのかとかいった話もあるが、そんな無粋な話はさておき、モンゴル支配下の漢民族はなにかと陰に回っていろいろ呪詛をエンジョイしていたのだが、それにこの中秋の西瓜もあるらしい。西瓜を食えば種が出るものだが(中国人の西瓜種吐きを私も練習したことがあるが)、この種をただ一つだけ残すというのだ。これは日本の弘法大師の柿とは逆に、そのようにモンゴルの種よ、この一つをもって絶えよというのだ。
 なかなかの執念ではある。とか感じ入っているようでは中国人は理解できない。そういう理念とか言葉とかディスプレイ行動とかに悦に入りたいだけで、実際の西瓜の種はどうするかというと、なーに、月餅に入れて喰うのである。

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