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2005.05.21

量的緩和政策は続行しますとも

 今朝は大手紙の社説がこぞって、量的緩和政策をテーマとしていた。ということは、経済プロパーな話題というより、お茶の間の話題というふうに理解できるだろう。朝日新聞などはできるだけお茶の間的な解説にすべくその苦慮が伺われて面白いには面白いのだが、無駄な誤解を招いているようにも感じられた。「そのうえで、日銀は量的緩和の経済効果について、もっとわかりやすく整理し、説明してもらいたい」(参照)とするのはユーモアのつもりかもしれない。いずれにせよ、お茶の間の話題というレベルで当ブログも触れることにする。
 話の発端は、二〇日の金融政策決定会合で、日本銀行の量的緩和政策の目標である日銀当座預金残高について、一時的に下限の三〇兆円を下回っても容認することにした、ということだ。議論の争点は、量的緩和政策を継続するのか、それともここらで止めろということか、ということ。毎日新聞を除いて、量的緩和政策を継続せよという主張であった。
 しかし、実際のところ、福井俊彦日銀総裁が記者会見で強調したように(参照)、量的緩和の骨格はそのまま維持され、日銀が金融引き締めに転換したとの見方を否定しているので、どう議論してもそれほど現時点での重要性はない。私などから見ると、なにがそれほど問題なのかという印象は受ける。
 読売新聞社説”量的緩和政策 デフレ完全脱却まで粘り強く”(参照)では、「世界の金融関係者は、日本銀行がどう出るのか、注視していたのではないか」と切り出しているが、私の見落としかもしれないが、世界の金融関係者が必ず読むであろうフィナンシャル・タイムズでこのニュースが注視されているふうはなかった。
 それも当然かな、という感じもするのは、極東ブログ「OECD対日経済審査報告と毎日新聞社説でちと考えた」(参照)で今年のOECD対日経済審査報告に触れたが、ここでは、2003年10月の日銀政策委員会で公表された量的緩和政策の解除の条件、つまり、インフレ率がわずかでもゼロ以上になれば解除の可能性が検討されるということに、OECDは懸念を表明している。しかも、日本の量的緩和策については、仮に消費者物価がプラスに転換しても拙速に解除しないように強調されていた。そんなことをすれば、日本経済がデフレに押し戻されかねない、とOECDは言うのである。というあたりで、日本経済の金融政策面での国際的な視点が変化するとも思えない。なので、今回の件は、この分野の日本特有のファス(fuss)のように思えるし、そのファスにはそれなりの国内事情というものがあるのだろう。
 今回の件の背景的な要因としては、先日発表された今年1~3月の実質成長率年率5.3%というのを、景気の中だるみから離脱と見る見方があるだろう。国内需要も増加しつつはあるのかもしれない。が、総じて見れば、日本経済は以前デフレのままであり、十八日日経社説”素直に喜べない5.3%の高成長”(参照)の指摘は的確だ。


第一に、消費の回復(年率4.7%増)は暖冬や台風災害で不振だった昨年10―12月期の反動増という色彩が強い。最近の小売業販売額をみると、2月が前年同月比2.7%減、3月が同0.6%増など、決して強いというほどではない。


さらに、総合的な物価指標であるGDPデフレーターが前年同期比で1.2%下落と、下落幅が昨年10―12月期の同0.4%より拡大したのは気掛かり。原油など素材価格は上昇しても全体にデフレ傾向から脱却していないことが読み取れる。

 少し古いがフィナンシャル・タイムズが四月二十六日に”Japanese economy stuck in deflation”(参照)と題する、日本のデフレについて扱った記事があった。私などには国内の経済記事よりわかりやすかった。というか、次の指摘に苦笑というか、笑った。それ以外なにができる?

Jesper Koll, economist at Merril Lynch, said Japan’s economy continued to limp along, but had not yet achieved “self sustaining, demand-driven growth.”

Under the leadership of Junichiro Koizumi, who began his fifth year as prime minister on Tuesday, Japan had at last started to grow in nominal terms, adding Y5,500bn or 1.1 per cent of gross domestic product since 2002. That compared with a nominal decline of Y23,000bn from 1997 to 2002, but was hardly spectacular, he said.

Mr Koll quipped that there had been three factors behind Japan’s growth, namely “exports, exports and exports.” Since 2002, domestic consumption had contributed just one-tenth of GDP growth, he calculated.


 メリル・リンチのエコノミスト、コリー氏によれば、日本の経済成長の第一要因は、輸出である。第二要因は、輸出である。第三要因は、輸出である…。
 結局、いまだに「ウォルフレン教授のやさしい日本経済」で指摘されている、日本の新重商主義的なありかたに変化はないと対外的には見られている。
 そして、日本経済が輸出に依存しているということは、中国に依存していることであり、とすれば中国が国際経済にどんな問題を抱えているかという波及を日本経済も受ける…はずだが、そのあたりがよくわからないといえば、よくわからない。

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2005.05.20

[書評]希望格差社会(山田昌弘)

 以前に読んで心にひっかかったものの、そのあたりがうまく言葉にならず、もどかしく思ったまま、そういえばこの本について結局なにも書いてこなかったことに気が付いた。と、いう次第なので、いまだにうまく思いがまとまらないが、気にもなるので、書きながら、考えてみたい。

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希望格差社会
 「希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」は、副題にあるように、日本社会が勝ち組と負け組の二極化になるという、社会の危機感を社会学的に考察し、その解決策も提示したものだ。それがどうして、「希望格差社会」になるかといえば、Amazonのサイトにある日経ビジネスのレビューにあるように、とりあえず、こういうことだ。

現在の日本は職業、家庭、教育のすべてが不安定になり2極化し、「勝ち組」「負け組」の格差が拡大している。「努力は報われない」と感じた人々からは希望が消滅し、日本は将来に希望が持てる人と絶望する人に分裂する「希望格差社会」に突入しつつある。

 このまとめは誤読だ、とも思わないが、一つ重要なキーワードが抜けている。「リスク社会」だ。リスク社会があり、二極化があり、希望格差があるという連鎖が本書の骨子だと私は読んだ。
 そのリスク社会という概念だが、これはウルリヒ・ベックの「危険社会―新しい近代への道」から山田が借りているもので、こちらの書籍では標題ではリスクが「危険」と訳されている。これはもちろん誤訳に近い。虎穴に入らずんば虎児を得ずというリスクで、リスクをテイクしない人間は得るものがないという場合のリスクのことである。
 リスク社会は、単純に「努力は報われない」というのではなく、努力はそれ自体が水泡に帰す可能性のあるリスクとなる、ということだ。そして、その失敗でドツボったら負け組というわけだ。
 と、ここで、いきなり本書の枠組みからずれるのだが、しかし、負け組になってもチャレンジして這い上がることができればいいじゃん、というのはあるだろうか?
 実際、山田のこの書籍から提起を受けた形で、この四月にNHKの『日本の、これから』「格差社会」という長時間番組が放映され、山田も出演していたのだが、番組の主眼はなんといってもホリエモンだった。当然、勝ち組の代表という役回りでもある。そこで、彼は、まさに、「失敗したらやり直せばいいじゃないか、できますよ」、というふうに、なんどもぶちかましていた。
 そのあたりで、番組では話が空転したように思う。確かに、建前では、ホリエモンの言うように、再チャレンジがなんども可能だし、彼の言葉にはある種のカリスマティックな響きもあった。
 ここで私の思考は一旦止まる。
 個人的には、俺はホリエモンにはなれないよ…つまり、この私は希望をすでに失った負け組であり、しかも、ホリエモンの言葉に対抗できそうにもなく自分から負けているのである。
 再チャレンジができるから負け組は固定していないのか。
 その答えは…私は実感としては、わからない。が、しいていうと、ホリエモンの主張が結果として示唆しているのは、博打型人間の創出だろうと思う。そして、それ自体が、実は、絶望の別形態なのではないか、と私は疑っている。
 話を本書に戻す。要するに、リスク社会の出現によって、努力は必ずしも結果に結びつかず、転けたら負け組になり、二度と這い上がれへん、もう、希望なし、というのが今後の日本だというわけだ。
 確かに、生温かく日本を見ると、それはそうだなと思う。
 違和感があるとすれば、そうした社会参加の側面のリスク・テイクと二極化というのはわからないではないが、家族問題(元来山田の専門は家族社会学)に適用し、特に、結婚という家族のありかたも、社会と同型の二極化として見ていくあたりにつては、本当にそうなのか。
 というのは、私はどっちかというと吉本隆明主義者なので、共同幻想(社会)と対幻想(過程)とは別の次元だというふうにまず考える。
 だが、では、家族形成、つまり、結婚において、希望格差というのはないのか? あるいは原理的に克服できるのか? 
 そこでまた思考が停止する。いくら原理的には独立していても、実際には、結果的に山田の考察どおりでいいのだろうと思う。つまり、ダメじゃん、俺の考えなんてダメダメ、でもある。家族というものもリスク社会に取り込まれている。家族形成にも負け組がある、と。それが、結婚できない層の人々なのだと……かなり私には違和感はある。
 少し話を進める。
 こうした希望格差社会をどう是正したらいいのか?
 私の本書への理解が違うかもしれないが、ここで提言されているのは、要するに、努力を社会制度に吸収し、リスクを限定すればいい、ということだろう。比喩的に言えば、自動車教習所的社会を構築せよ、と。受講者の大方が合格できる社会にしとけと。そして、おそらく、山田は明示してないと思うが、その受講を階梯化し、その過程で徐々にセイフティーネットに人々をふるい落とす社会にしておけ、ということだろう。
 そりゃ、そうかなと思う。
 でも、たぶん、そんな社会にはなりっこないし、そういう社会を構築するための道もわからない。
 通常の近代国家の市民なら、制度とは、作為の契機として出現するし、政治活動の課題となる。でも、日本はそうならないだろう。
 そうなる気配もないどこか、逆に、リスク社会と二極化を固定し、実質の階級を構成していて、その階級から出られないような社会に着実に向かいつつある。
 個々人の自覚なりが日本の社会をそうした希望格差社会を改善する契機として存在するかと言えば、その努力も多分に無意味になるだろう。
 結局、どうしたらいいのかというと、私はわからないし、絶望しているに等しい。本当に絶望しているのかというと、そのあたりはよくわからない。毎日ブログを書いているのはなぜなんだい? どっかに希望とかを考えているんじゃないかね? と問われれば、取りあえず、なんかの希望を捨ててもいないようにも思うからだ。

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2005.05.19

はづかしきもの、色このむ男の心の内

 雑談。初夏っぽい季節になった。混雑もしていない電車に乗ると、ものうげな人々の表情が面白い。女性の白い肌も目立つ。徒然草に言うように、「九米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし」と思うだけなら、害もなき中年男の常ゆえ、免罪とされたい。男の心を指して「人の心は愚かなるものかな」とは今も変わらぬ正確な批評。「世の人の心惑はす事、色欲には如かず」ということであろう。男の心内恥ずべきと言われれば、なるほどなとも思う。が、その一線を越えてはならぬもの。
 そういえば、五月十一日の日本経済新聞コラム春秋はこう切り出していた(参照)。


 「はづかしきもの 色このむ男の心の内」。『枕草子』で清少納言はそういっている。込み入った空間で見ず知らずの男女が共に過ごすのは一筋縄では行かない。満員の通勤電車の中で作法を誤れば痴漢の冤罪(えんざい)を着せられる時代である。
 遅ればせながら、今週から関東の大手私鉄や地下鉄でも朝夕のラッシュ時に女性専用車両が導入された。「逆差別」といった批判もないわけではないが、男性の側からも誤解やぬれぎぬをなくすためには歓迎という声が多い。「色このむ男」の心を前提とすれば、男女のすみ分けは車内平和へ一つの選択肢だろう。

 一読して首をかしげた。
cover
枕草子
 「はづかしきもの 色このむ男の心の内」はたしかに枕草子にある言葉だが、春秋の筆者、「色を好む男の心の内というのは恥ずかしいものだ」と解釈して書き出したのではないだろうか。どうも文脈が変だ。
 もちろん、古典の言い回しというのは、時代時代によって解釈が変わってきてもしかたがないものだが、はっきりと「『枕草子』で清少納言はそういっている」と書く上は、その古典を踏まえないと、恥ずかしい。
cover
枕草子REMIX
酒井順子
 当然ながら、枕草子のこの文脈における「はずかしきもの」というのは、現代用例の「恥ずかしいもの」とは意味が異なり、「気後れがする」という意味だ。気が引けると言ってもいい。もっと現代風にいうなら「あらまドン引き」にも近い。私の語感だと、ばつが悪い、という感じだ。
 「色このむ男」の意味も当時はどちらかというと「恋愛が趣味っていう男」ということだから、桃尻訳は参照していないが、まとめると、「恋愛が趣味っていう男の本心を知ると、ちょっと引くわよね」ということだろう。
 実際、原典は、こうなっている。

 はづかしきもの 色好む男の心の内。いざとき夜居の僧。みそか盗人の、さるべきものの隈々にゐて見るらむをば、誰かは知る。くらきまぎれに、ふところに物などひき入るる人もあらむかし。そはしもおなじ心に、をかしとや思ふらむ。
 夜居の僧は、いとはづかしきものなり。わかき人々集まりゐて、人の上をいひわらひ、そしりにくみもするを、つくづくと聞き集むらむ、心のうちはづかし。

 古文は読みづらいが、それでも、まずこの文章は、「夜居の僧は、いとはづかしきもの」と続くことをおさえておかないといけない。
 意味はこんな感じだ。

 気後れするものいえば、男の本心とか、目ざとい夜勤の僧侶だ。こそ泥も物陰に隠れていても見えなければわからない。そんなふうに、深夜の暗闇に紛れて、ちょいとものを懐中へとくすねたりする人がいる。そんな気分も人によっては面白半分なのだろう。
 夜勤の僧侶というは、気が引けるものだ。深夜、若い女たちが集まって、こっそり上司の悪口を言い合っているのに、この夜勤の僧侶ったら、それをじっと聞いているのだ。それってないじゃない、ばれたらばつが悪いったらありゃしない。

 つまり、相手の本心とかばれると、こっちのほうがばつが悪いというのが「はずかしきもの」なのである。
 さらに。

 男は、うたて思ふさまならず、もどかしう、心づきなきことなどありと見れど、さしむかひたるほどは、うちすかして思はぬことをもいひ頼むるこそ、はづかしきわざなれ。

 意味はこんな感じ。

 男は、好きな女に対して、「こいつわがままで思い通りにならないし、いらつくし、気にくわねーんだよ」と内心思っているのに、実際に会っているときは、女をだましているつもりなのか、心にもないこと言って、ちやほやするから、ついその気になるじゃない。わかっていたら、引くわよ。

 ということ。男に対して言う、ガセピアの沼の「嘘つき」にも近い。
cover
桃尻語訳
枕草子
 春秋の執筆者の文脈は原典と違い過ぎるのだが、たぶん実際には枕草子を読んだことがないのだろう。昨今若者の学力が落ちたとも言われるが、日本経済を支えているビジネスマンが読む日経コラムの教養レベルは、こんなもの。
 と、他人を評すれば同じ評をこちらも受けることになるので、それはそのくらいで終えるのだが、春秋のこのコラムが言いたいことは、普通の男性でも、混雑し接触することもある電車の中では男女が一緒にいないほうがいいだろう、ということ。それはそうかもしれない。
cover
ピーター・
グリーナウェイの
枕草子
 そういえば、今日発売の週刊文春には”同乗ルポ「女性専用車両はオンナの無法地帯」大開脚に香水地獄”という面白い記事があった。副題も頷ける。エレベーターなどで私もときおり窒息しそうになることがある。他、女性専用車両では、けっこうだらしない女性が多いとも記事にあった。
 今日、電車のなかで私が見かけた女性の多くもけっこうだらしなかった。すでに驚きもしないが化粧している人もいた。大股を開いている女性が少なからぬというか、閉じている女性のほうが少なく思えたのは、私の感性が古いのだろうけど、ちょっと驚きだった。

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2005.05.18

世界経済フォーラムによる日本の男女格差調査

 日本は国際的に見ると男女格差(ジェンダー・ギャップ)の大きい国である、と言っていい。一六日に発表された「世界経済フォーラム」の報告書”Women's Empowerment: Measuring the Global Gender Gap”(参照)によると、主要58カ国のランキングでは38位と、中の下というか、下の部類になった。それだけ聞くと、先進国にあるまじき女性差別の国だよなということになるし、実際、そう言ってもそれほどハズしているわけでもないということになった。
 ざっと上位ランクキングを見るとこんな感じだ。

  1. スウェーデン
  2. ノルウェー
  3. アイスランド
  4. デンマーク
  5. フィンランド
  6. ニュージーランド
  7. カナダ
  8. 英国
  9. ドイツ
  10. オーストラリア

 上位は北欧が多く、次にコモンウェルスが目立つ。先日の国別学力調査でも北欧はよい成績だったので、さすがに平和な時代の長い国は社会が進展するものだと言いたくなる。
 ちなみに現実の主要国で見ると、米国は17位、フランスは13位、ロシアは31位、中国は33位、という感じの並びで、日本が38位。なんとなく国の民度を表しているようでもある。これに韓国54位と続けると、ちょっと笑える。韓流とやらで韓国人男性を好む日本人女性も多いと聞くが、恋愛はいいとして、現実にその社会でやっていくのは大変かなもと思える。
 このあたりで話を終わりにしておくと、いかにも日本の新聞とかの記事のように、それげな感じがする。私は、この結果を見て、かなり違和感を持った。
 ちょっと他の国も見てみる。逆に見る。58位エジプト、57位トルコ、56位パキスタン、55位ヨルダン…というわけで、イスラム圏の国が並ぶ。そりゃ、この手の調査をするとそうなるだろうとは思う。が、これらの国をどうやって上位させるかというのは見えてこない。ここには文化圏の価値観との衝突があるだろう。それをどう考えたらいいのだろうか。国力がアップすれば自然に女性の地位は向上するとも言える側面はあるが、それは解消に向かう指針でもない。
 もうちょっと見る。イタリアは45位と日本より低い。イスラエルは37位で日本とどっこいどっこい。そして、アルゼンチン34位。スペイン27位。その国の文化的な傾向への依存が感じられる。コスタリカ18位、ポーランド19位、ベルギー20位、ハンガリー24位、チェコ25位…この当たりはロシアや中国のように社会主義圏的な要因だろう。
 いったい、どうやって調査してのかというのは、オリジナルを読んでいただければわかるが、日本語で読みやすい朝日新聞記事”男女格差の少なさ、主要58カ国で日本は38位”(参照)を引用しよう。


国連のデータや聞き取り調査などに基づき、女性に関する経済への参加度、雇用機会の均等性、政治的な決定権限、教育機会の均等性、健康への配慮の5分野を指数化して算出した。

 やや恣意的なものも感じるがそれほど間違ってもいない。指標もこんなものだろう。というか、この手の指標を使うと、北欧のようなスモールサイズで重税的な先進国が上位にくるものだ。たぶん、隠れたパラメーターは国家の適正サイズというものと、経済学でいう比較優位ではないが、移動かもしれなない。というのは、米国などは、実際にはスモールサイズの国家の集合なのだが、移動が自由なので均衡してしまう。
 ざっと見た感じでは、私の印象では、こうした指標によるこうした調査が無意味だとは言わないが、それをもって、それぞれの国がどう受け止めるかというと、文化や国家体制の基幹が問われるので現実的には洒落にしかならないのではないか。とはいえ、日本については、政治的な決定権限などで、もっとアファーマティブな施策が求められるだろう。
 ついでにというか、データを取り出して、エクセルに入れて、教育機会の均等性と健康への配慮の順位を掛け合わせた値でソートしてみた。なんでそんなことを思いついたかというと、父性的な保護国家は女性の経済への参加度、雇用機会の均等性、政治的な決定権限といったその国家での男性領域と衝突せず、それでいて福利的な立場に立つんじゃないかと思ったからだ。この思いつきの結果はこうなった。

  1. スウェーデン
  2. デンマーク
  3. フィンランド
  4. アイスランド
  5. ノルウェー
  6. 日本
  7. アイルランド
  8. 英国
  9. ウルグアイ
  10. アルゼンチン

 予想はしていたが、もう一条件で北欧とか小規模国家をフィルターアウトしてしまうと、日本は1位になる。日本は国家が女性を保護している構造を持つ国家ということは言えそうだ。そして、それに英国やアルゼンチンが続くというのは、保守的な古い国家の枠組みを持っているということなのだろう。
 もっとも、日本がこれで上位になると予想したのは、健康への配慮が3位と際立っていたからでもある。
 日本は今後、その健康への配慮の順位が落ち、女性の経済への参加度、つまり、女性に労働させるという指標が上がるようになるだろう。そのあたりはバランスしてこうした報告では日本の中の下状態を保持する機能になるだろう。
 日本でのこの分野の問題は、雇用機会の均等性や政治的な決定権限だろう。後者はアファーマティブな施策が必要だろうが、前者は制度的には改善されているし、これだけ女性教育が普及しているのにその制度が改善されないとすれば、ちょっと批判を浴びるかもしれないが、女性の社会政治意識にも問題があることになるだろう。
 日本男性の社会意識はと問われればこれは苦笑領域にある。5日の毎日新聞社説”少子化 流れが変わるとすれば男が変わるときだ”(参照)を思い出した。


 家庭が幻滅の源泉であるとすれば、理論的には夫婦の共同責任だが、現実には男の責めに帰すべきだ。なぜ? 私はフェミニストというほどの人間ではないが、この社会で、そして家庭で女性が割を食っているのは自明だと思う。

 日本の中年男性はそんなふうに考えているわけだ。

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2005.05.17

数独やってみた

 小ネタの類だが、英国で日本発の数独(SUDOKU)が流行っているという話が、時事”英国で「数独」が大ブーム=クロスワードパズルをしのぐ?”(参照)にあった。


英国と言えば、クロスワードパズル好きが多いことで知られるが、日本の一部マニアの間で盛んな数字パズルの「数独」が最近、大人気を呼び、各紙が競って掲載、専門誌まで誕生するほどのブームとなっている。

sudoku
数独完成例
 Google Newsを引いてみるとなるほど、テレグラフ(参照)でも、ガーディアン(参照)でも話題になっていた。携帯電話でもできるというあたりも売りらしい。ま、そういうものかね、と、ふーんと思って、ま、まずは、やってみた。
 もちろん、一番簡単なのから。ニコリのパズルジャパンにある「数独のおためし問題 」(参照)からいちばん簡単なのをPDFで印刷し、ボールペンを持ちながら、飯後の眠げな頭でちょいちょいと始めた。ちなみに、ルールはこちら(参照)。
 やってみると、なーんだ、やっぱ簡単じゃんと、八割がた出来たあたりで、矛盾をきたした。むっときた。おい、ここでデッドロックっていうことは、どこまでトレースバックすればいいのか。どこまで鉄壁だったのかと検証しつつ、試行錯誤して、放り出した。自己嫌悪。
 いやまったく、よくこんなパズルが好きなやつがいるよなと思うが、振り返ると、若いころはツクダオリジナルがまだロゴを入れてない初期ロットのルービックキューブを買っていじっていたし(そのうち、任意の状態から何秒で戻せるかとかやっていた)、倉庫番とかもはまったクチではある。倉庫番、知らない? シンキングラビットってその後どうなったんだろ。
cover
数独
FORエキスパート
Vol.2
 話が逸れた。数独だが、数字を使っているが別に計算的な要素はない。アルファベットでもいいにはいいのだろうし、そうしたバージョンもネットで見かけた。やってみてわかったが、ある程度推理して、未知のマスに、たとえば、9と7という二つの数字を量子力学的に置いていく作業をすすめて、それがある条件下で崩壊して、9とか7とかになる…という感じだ。その不確定さをどこまで許して、先を進めるかというのが、このパズルの醍醐味なのかなとも思った。けっこう推理力というのが必要になるので、疲れる。
 最終的に解法された数独のマトリックスを作成するのは、プログラム的にも難しくないだろうが、と思ってネットを見渡すと、予想通りいくつか見かけた。が、一般解を導く手法は確立しているのだろうか。私なんぞ、数学が苦手でしょとか思われているフシもあり否定もしないが、基礎論なども勉強したには勉強したので、ある特定の数独が解法可能かの条件というのも若干気になった。そうした数学的な特徴付けが可能だろうとは思う。と、同時、解法可能性と難易度もなんらの関連性があるのだろうが、そのあたりはどのようにパズルが作成されているのだろうか。
 英国では一過性のブームになるのか米国とかにも広がるのか。ネットを見ると、なんとなくコモンウェルスには広がりそうな気配も感じるので、これって英国的なのかもしれない。クロスワードパズルほどの地位になるだろうか。と、いわゆるクロスワードパズルというのは、実際には、文学的な教養を必要するちょっといやったらしいゲームだがそれに比べれば数独はシンプル。
 また、数独をソリテア系に比べると、偶然という要素はない。なんか、好みと国民性というか、性格とかも関係しそうでもある。あれか、エイト・クイーンとかそんな感じに近いパズルのようにも思える。
 英国サイトなどをざらざらと見ながら、このパズル自体の知的所有権というのは日本のニコリにあるのかどうかわからないなとも思った。個別の数独のパズル自体は著作権が成り立つだろうが、これをオンラインゲーム化した場合はどうなのだろう。テトリスなども、あれがゲームだから著作権になったようなもの。最初にゲーム自体を特許にしておけばよかったんじゃないかとも、つらつらと思ったが、余計なお世話。しかし、こうした側面で日本が有名になるというのもいいことには違いない。

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2005.05.16

シンガポールのカジノ雑感

 注視したほうがいい時事の話題もあるがよくわからないことが多い。というわけで、ずっこけ、たるい話。シンガポールのカジノ。
 先月十八日シンガポール政府は自国内にカジノ設立する方針を決定した。建設地は二カ所。セントーサ島(本島と橋でつながっている)は当然として、シンガポール中心部ビジネス街近くマリーナベイ地区は意外といえば意外。
 滅菌されたシンガポールになぜカジノ?だが、単純に観光産業の振興だ。アジアの観光業が昨年6.5%アップしているなか、シンガポールは17%減と取り残され、もうカジノしかないでしょということになった。投資額三千五百億円、雇用創出見込み約三万五千人、経済成長率は1.5%アップする…との試算だが、ほんまかいな。とはいえ、開業は2009年とのことなので、そう遠い未来の話でもない。
 FujiSankei Business i.”シンガポールでカジノ導入に不安の声 「観光の目玉」と政府は推進”(参照)では、しかたないかも感を次のようにまとめていたのが面白い。


“建国の父”で、元首相のリー・クアンユー顧問相は「健全な国際都市というイメージがシンガポールのセールスポイントだった時代もあったが、もうそれだけでは不十分だ」とカジノ導入に理解を示している。

 この決定に至るには国を挙げての議論があったようだ。建前上シンガポールは多民族多宗教国家であり、特にイスラム教はカジノの利用は宗教的に禁られている…と、そのあたり、逆にシンガポールのメリットであると考えられているのかもしれないが。
 華人のカジノ好きはマカオの現状を引くまでもない。民族性なのだろうか、あるいは日本人や朝鮮人でも同じなのだろうか、そのあたりはよくわからない。
 個人的な話だが、以前、台南の浜辺を本省人の人と散歩していたら、安っぽいスマートボールみたいのがあり、大人が興じていた。なんでこんなものをと思ってなんとなく見ていたら、彼が笑ってやってごらんというので、やってみた。面白くもないよと言うと、彼はさらに笑ってルールを知らないからとねと言うのである。というわけで、ディープなルールを教わったが、それに従って興じることもなかった。
 そういえば、海外でホテルでぼーっとしてフロントのお姉さんにどっか暇つぶしはないと聞いたらカジノでしょやっぱりという感じで勧められた。ま、そういうものなんだろうなと思いつつ。それはいいやということで教会巡りをした。そちらのほうが性に合っている。の、だ、が、この歳こいてカジノは苦手というのも野暮なことではあった。さらに、そういえば、子供のころ祖父が賭け事についてじっくり伝授してくれたことがあった。いいか、遊ぶカネを決めておく。そのカネがなくなったら帰れ。運がないときはどんなにやってもダメだ。…よい教訓だったかわからない。
cover
カジノゲーム入門事典
 以前仕事をしていた同僚がフランス暮らしでカネがなくなって、じゃっていうのでカジノで稼いだと言っていた。呆れた。が、話を聞くと、特に変な手もなく稼ぐことができるようでもあった。と、書棚をみると、チェスだのバックギャモンの本と並んで、「カジノ教本 愛蔵版」(参照)や「カジノゲーム入門事典」(参照)が並んでいる。というわけで、関心だけはある臆病者というやつだ。
 「カジノゲーム入門事典」の著書は松田道弘と谷岡一郎つまり、これはそれだけで名著であることがわかる。学問的な雰囲気も漂っているのは、谷岡一郎大阪商業大学学長さすがの一冊でもあるからか。

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2005.05.15

沖縄本土復帰記念日

 今日は沖縄本土復帰記念日だが何十周年という節目でもないせいか、大手新聞でも社説で触れるところがなかった。社説執筆者が単に失念していただけのことかもしれないし、こんなのネタにならないよ、と見なされたのかもしれない。どっちだろうか。私も、なぜかこの話題に今日触れたいとも思わないのだが、昨日の琉球新報の記事を読んでしばし天を仰いだ。
 記事は”「核密約」遺書でわびる 密使として関与の故・若泉敬氏”(参照)だ。標題を見て推測がつく人も多いだろう。


 著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の中で沖縄返還交渉において、自らが佐藤栄作首相=当時=の密使として核持ち込み密約にかかわったことを告白した元京都産業大学教授・若泉敬氏(1996年死去=享年66歳)の遺書の写しがこのほど、関係者の手により明らかになった。遺書は1994年6月23日の日付で、県民と、当時の大田昌秀県知事(現参院議員)あて。この中では、核持ち込み密約にかかわった自らの責任を悔い「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁(自決)します」と記されている。

 「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(参照)を書き終えた若泉敬が強く自決の意思を持っていたことは、彼に関心を持つ人なら知っていたことであるので、それほど驚きでもない。と言いたいところだが、「嘆願状」と題された十行便箋五枚という遺文は公開されていないしその予定もないのかもしれないが、その引用部だけ見ても、私には鉛のようなものが胸にずしんと来る。三島由紀夫の死は文学者だということでいろいろ語られるが、私の浅学のせいもあるだろうが、若泉敬の自決をそれに比して論じたものを読んだことはない。もちろん、結果的に若泉敬は自決はしなかったし、そのありかたは三島由紀夫とは違うものだと論じることはできる。しかし、本質は同じだ。昭和の日制定で浮かれて立っている、昨日の産経新聞社説”昭和の日 話し合いたい歴史の誇り”(参照)や読売新聞社説”昭和の日 歴史を語り継ぐ日としたい」 ”(参照)は私には耐え難い醜悪さを感じるし、その耐え難さの全容に深く関わった人間には自決もあるだろうと思う。
 なぜ今この事実が確認されるのか。もちろん、今日の本土復帰記念日の、日本国での意義の薄れようも背景になるだろうが、これまでおそらく秘してきた大田昌秀元沖縄県知事(現参院議員)の思いも気になる。だが、この件については記事では次のようにあっさりと説明されている。

 若泉氏の同墓苑参拝に立ち会うなど、92年から亡くなる直前まで取材した琉球朝日放送(QAB)報道制作局長の具志堅勝也さん(50)がこのほど、同氏の弁護士から遺書の写しを入手した。具志堅さんは「いつも沖縄のことを気に掛けている人だった。本土復帰は良かったのかと質問を受けたこともある。密約は県民にとってありがたい話ではないが、歴史の裏に隠された真実を知ってほしい」と話した。

 沖縄に深く関わった人間なら、これでとりあえず得心がいくだろう。というのは具志堅勝也さんは若泉敬の生前から密着取材と言っていいほど深くこの問題に関わり、ドキュメンタリー作成や記事も執筆されてきた人だからだ。その仕事は明確に若泉敬の意思を伝えるものだった。
 私は、その取材によって公開されたものだと思うが、衝撃的な一枚の写真を見た。若泉敬は後年、戦没者遺骨収集に精力的に関わったがそのおりの写真だ。沖縄で暮らしてみるとわかるが、遺骨収集は現在も継続されており沖縄県民の有志が地味に継続的に参加している。写真は数点あり、遺骨収集をする若泉敬の写真なのだが、私がショックで記憶が歪んでいるのかもしれないが、その一枚で、若泉敬は白装束で骨箱を抱き、遺骨を口に咥えていたように記憶する。こういうことは公開に書いていけないのかもしれないのでぼかすが、私は若泉敬の精神はすでに異常なのではないかとまず思い、そして恥じた。そういえば、三島由紀夫の自決の際も佐藤栄作は同種のことをさらりと口にした。しかし、この狂気こそが正気なのかもしれない。当時イザヤ・ベンダサンは三島の檄文が理路整然としたのもであることを淡々と説明してみせた。小林秀雄はじっとその正気に耐えていた。大著「本居宣長」がその遺文から起こされていることはその結実でもあっただろう。
 結果として若泉敬は墓苑での自決を思いとどまり、その二年後膵臓癌で死去した。史学的には若泉敬の著述は歴史の事実と見なされるだろう。
 そのことはつまり、米軍は、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地をいつでも使用できる状態に維持し、さらに有事が想定される際は、日本政府と名目的な事前協議はするだろうが、核兵器を沖縄に再び持ち込めるとしたということだ。私は嘉手納基地を通り過ぎるたびにここに核兵器がまどろんでいるのだろうかと思った。いや、もう撤去されているという沖縄によくある”極秘”情報を酒席で聞いたこともあるが。
 もちろん、密約の存在をキッシンジャーは言下に否定した。日本の外務省もこの秘密を公開する気はない。

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