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2005.03.26

ヒューストン、何かおかしい(Houston, We have a problem)

 まとまった話ではない。ヒューストン、なんか変だな的な話である。
 23日に財務省が発表した二月の貿易統計で、貿易黒字は前年同月比21.7%減で二か月連続で減少。もちろん、それがどうということではない。読売新聞"貿易黒字2か月連続減少…原油高騰などで輸入金額増"(参照)では次のように説明している。


IT(情報技術)関連部品の生産調整の動きが続いているうえ、日本企業が中国に生産拠点を移し、部品などの現地調達の比率を高めているためだ。中国向け輸出は、同2・2%減の5768億円と、2001年12月以来、3年2か月ぶりの減少だった。
 一方、輸入は、原油や鉄鋼、石炭などの値上がりが響き、同11・3%増の3兆7536億円で、2月としては過去最高だった。

 まあ、そんなものでしょとは言える。特に原油高は効いたでしょう、と。ただ、同じニュースなのだが、VOA"Japan's Trade Surplus Registers Surprisingly Large Drop"(参照)では少し違ったトーンが感じられた。

Japan's trade surplus for February shrank nearly 22-percent, the second straight monthly drop. The results are worse than forecast by many economists, who say the surprising data shows Japan's exports have not recovered to the extent expected. Some economists say the recent rise in oil prices, making imports more expensive, is partly to blame.

 ここでいうエコノミストはVOAの立場から考えて海外エコノミストと見ていいだろう。すると、彼らは、この日本貿易黒字減の連続を意外と捕らえていることがわかる。新重商主義国家日本の稼ぎが予想外に悪化しているな、という含みであろう。
 先の読売の報道でも暗に示唆しているのだが、日本の貿易比重はどこから上がっているかというと、中国である。米国ではない。この構造は昨日発表された日本貿易協会「日本貿易の現状2005年版」からわかる。これを伝える日経記事"昨年の貿易額、初めて100兆円超す・対中貿易17%増"(参照)はこう伝えている。

対中国貿易(香港を含む)が前年比17%増の22兆円となり、中国は米国を抜いて最大の貿易相手国となった。日本から部品や素材を輸出、現地の工場で組み立てた製品を日本や欧米に輸出する産業構造の変化が顕著となり、貿易の対中シフトが一段と鮮明になったと分析している。

 こうした構造は米国ですら同型であり、日米は中国を生産拠点として貿易の主軸に置いている。そうなると、なにか巨大な異常が発生しうるとすれば、中国発ということにはなるだろう。
 こうしたなか、24日ロイターが、ある意味でまたかでもあるのだが、中国バブルの可能性を示唆する報道"中国でバブルの可能性、人民元相場維持に脅威 -- 人民銀行=メディア"(参照)を行なった。

中国人民銀行(中央銀行)の調査部門は、このほど公表した報告書で、不動産や製造業会でバブルが発生している可能性があり、このことが人民元の安定を脅かしているという見解を示した。中国の国営各メディアが報じた。


バブルがはじければ、銀行は巨額の不良債権を抱え込み、現在1ドル=8.28元前後に固定されている人民元の為替相場の維持が危ぶまれると、報告書は続けている。

 では人民元切り上げがあるのか? この狼少年話もさすがにうんざりはする。中国としてもこの舵取りが内政に関連して難しい。15日の中国情報局"高まる元切り上げ圧力、対応迫られる中国"(参照)が簡単にまとめている。

しかし一方で、中国側からすれば、これは世界の人民元に対する過剰評価であり、この切り上げ要求に応じられない内部事情を抱えている。高度成長を支える輸出産業へのダメージ、不良債権問題などの脆弱な金融システム、深刻な失業率、農村経済の貧弱さなど、人民元の切り上げはこれら爆弾の導火線に火をつけるほどの危険性もはらむ。

 この話がまたぞろ出てきたのは、14日の温家宝首相発言の対応という含みがあるだろう。産経記事"人民元、突然切り上げも 温家宝首相「不意突くことに」"(参照)が示唆深い。

中国の温家宝首相は十四日、全国人民代表大会(全人代=国会)終了後の記者会見で、切り上げ圧力が高まる人民元の為替政策について、切り上げに伴う影響評価を中国政府が進めていることを認めた。その上で、「いつごろ発表するか、どういった方策をとるのかは不意を突くことになるだろう」と述べ、突然の切り上げの可能性を示した。

 不意をつくというのはすごい発言だなということで、ニュースにもなったのだろう。公式な発表ではない。しかし、考えてみるに、それって不意打ち以外にはありえないのだろう。ただ、一気にどかんとくるものでもあるまい。
 このことはある意味で、織り込み済みとまではいえないにせよ、織り込まれてくる問題ではあるのだろ。貿易黒字減というのは、賢い防衛の体制ではないのかとも思えるし、むしろ、新重商主義的な方策しかとれない日本にしてみると、現状の不況も防衛策かな…ま、それは洒落です。

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2005.03.25

横須賀基地キティホークの後継艦はなぜケネディ(JFK)か

 横須賀基地を母港とする通常型空母キティホークの後継艦について、軍事関連の概ねの予想では原子力空母かという声が強かったように思う。しかし、この数日のニュースでは、他方噂の強かった通常型空母のジョン・F・ケネディ(JFK)配備という報道が流れた。
 理由としては、地元の原子力空母反対の声を考慮したとの見方が多いようだ。23日共同"通常空母JFK配備へ キティホーク後継で米海軍"(参照)ではこう伝えている。


 後継艦をめぐっては当初、原子力型空母起用が半ば既成事実化していたが、地元横須賀市の反対などを受け、イングランド海軍長官は議会証言で、空母JFK起用の可能性を示唆していた。地元や日本政府の意向に配慮した形。
 いったん予備役にして艦載機や装備を新型に取り換えることで、通常型でも戦力向上を図れると最終的に判断した。

 この報道と同時に共同はやや奇妙とも思える報道"「正式決定でない」と慎重 後継艦にJFKで横須賀市"(参照)を流した。標題を見ると、JFK決定が覆る米側の可能性でもあるのか、共同が飛ばしたと自覚しているのかと思うが、そうではない。

政府に原子力空母の配備反対を強く訴えてきた横須賀市基地対策課の江指長年課長は「正式決定ではなく、手放しで喜べる状況ではない。予断を許さない状況に変わりはなく、引き続き政府などへの働き掛けを強めたい」と述べた。

 原子力型空母反対派の意見を考慮したというだけのことだ。実際の空母配備がJFKで本決まりなのか米側の明確なソースは見あたらないように思えた。"U.S. to replace Kitty Hawk with another non-nuclear carrier"(参照)などを見ると、むしろ米側が共同をひいている様相でもある。
 問題の背景を補足する意味で三月九日とやや古いが毎日新聞"空母キティホーク:後継艦、早急に日米協議を 米司令官"(参照)も引用しておきたい。

 クラーク米海軍作戦部長は2月10日の上院軍事委員会で、キティホークの後継に原子力空母を配備する方針を表明したが、イングランド米海軍長官は同月17日の下院軍事委員会で、退役後のケネディを予備艦にして、日本が原子力空母を受け入れない場合に再配備する可能性を示し「選択の余地はある」と述べている。


 公聴会では、マケイン上院議員(共和党)が「空母ケネディが退役すると、通常型空母はキティホークだけになる。(キティホークの退役後)日本は原子力空母を受け入れないのではないか」とただしたのに対し、ファロン司令官は「(日本は)世論としては核を嫌う傾向はあるが、(原子力空母を受け入れないという)宣言をしたことはない」と説明。その上で「どういう選択肢があるか、早急に日本政府と話し合わなければならない」と述べた。

 概ねこの原子力空母を既成事実化する方向で話は進んでいたのが、日本の国内事情が配慮されたと見る向きが日本国内では強い。
 軍事的に見れば、原子力空母の路線であっただろう。というのも、空母の配置は海軍のみならず米軍戦略の主軸となるからだ。緊張する台湾海峡と中国原潜が跋扈しはじめる東アジア海域に米軍の強いプレザンスを示すには、時代遅れともみられる通常型空母ではまずかろう。軍事評論家江畑謙介も朝日新聞"空母キティホークの後継艦は?"(参照)で、ケネディを否定していた。

 キティホークをのぞくと唯一の通常型空母であるジョン・F・ケネディ(母港・米フロリダ州メイポート)を、米海軍が06会計年度(05年10月~06年9月)に前倒しで退役させる計画を打ち出したが、たとえ退役しなくても横須賀に配備することはないだろう。ラムズフェルド国防長官が町村外相に「キティホークの後継艦は決まっていない」と答えたのは、運用上、どの原子力空母にするかは決まっていないという意味であり、横須賀に通常型のケネディが来ると考えるのは早計だ。

 結果としてこの予想がはずれた形になるのだが、むしろ、ラムズフェルドの凋落を暗示しているのかもしれない。
 軍事アナリストの神浦元彰は、やや後出しじゃんけん的な解釈にも思えるが、次のコメントをしている(参照・24日)。

これを普通の人なら、アメリカが日本人の核アレルギーに配慮した結果と考えるだろう。しかし軍事を知ればそうは考えない。やはり米海軍は無給油で高速航行できる原子力空母を、象徴的な配備の横須賀に置かないで、いつでも実戦に使える配備に決めたと考える。

 つまり、原子力空母の性能が上がったので横須賀配備が不要になったというのである。私は批判という意味ではないがこの指摘には疑問を感じる。もう一点。

 それと比較して、JFKの横須賀配備は北朝鮮や中国に対する象徴的な配備となる。それなら通常型空母で済ませるというのが軍事流の考えである。

 象徴的な配備にすぎないとの指摘だ。が、これは結果的にはそうだということかもしれない。
 加えて軍事アナリストの神浦元彰は整備の拠点を米軍は日本に置きたいと見ている。これに対して、軍事評論家江畑謙介はハワイか米本土だろうとしている。どちらが正解かということに私は興味はないが、日本が整備の拠点となる可能性は日本の将来を大きく変更することにはなるだろう。
 いずれにせよ、通常型空母JFKの配置ということは、日本を含むこの地域の軍事的緊張が一時的に緩和されていることを示しているとは言えるだろう。この点については極東ブログ"「反国家分裂法案」を引っ込められなかった中国"(参照)でも指摘したが中国の対応のまずさ(加えてシラクの内政のどたばた)から、結果的にEUを硬直化させ、その対中武器禁輸措置の解除が延期させたことも関連しているのではないか。
 もっとも、こうした状況の傾向は短期的なものに留まる。JFKが実際に横須賀に配置されるのは現在のキティホークが退役する2008年以降なのだが、この三年間に状況の変化がないと想定することは難しい。実際上、JFKの配備するとなれば短期的なものとなるしかない。ちなみにJFKの退役予定は2018年とされている。やや矛盾を感じないわけにもいかない。
 以上、日本サイドの情報が多いのだが、この問題は米側から見ると別の様相もあった。一端は"Navy defends decision to retire carrier "(参照)などからでもわかる。
 日本ではJFKは2018年まで現役という情報のもとで報道・考察されているが、米海軍は二月の時点で突然のようにJFKを年内に退役させるというアナウンスを出した。理由は改修費用が高すぎるというのが最大の理由だ。日本が負担するという裏はないのかとも疑問に思う。
 それ以上に米国内で問題になったのは、JFKを母港とするフロリダの状況だった。フロリダではJFKによって年間三億ドルのメリットを得ている。フロリダと言えば今回の大統領選挙を想起すればわかるが、ここにブッシュがしょっぱい乾燥梅干しを投げるわけにもいかない。フロリダでも弟ブッシュも即座に率先して反対運動に乗り出した。こうした米国内事情を考えると、実は、JFK決定は、ブッシュの都合でしょ、というのが正解、と見えてくる。なお、原子力空母に関連した内情については"Navy wants Mayport as base for nuclear aircraft carrier"(参照)が参考になる。

追記(2005.10.29)
 JKFではなく原子力空母の配備が決定された。
 朝日新聞マイタウン・神奈川 (2005.10.29)”原子力空母が来る 地元「納得できぬ」”(参照


 横須賀基地への原子力空母の配備案が浮上したのは7年ほど前にさかのぼる。だが、市をはじめ地元にはまだ余裕があった。
 米海軍が保有する空母12隻のうち、原子力型でない通常型空母はキティホーク以外はフロリダ州を母港とするジョン・F・ケネディしかない。しかし、キティホークの退役予定は08年だが、もう1隻のジョン・F・ケネディの退役予定は18年とまだ先だ。被爆国で「原子力」施設に抵抗が根強い日本が反発すれば、米国も容易には原子力空母に変更しにくい、との読みもあった。
 ところが、今年2月に風向きが変わった。クラーク海軍作戦部長(当時)が米議会でケネディを年内に退役させる意向を表明したのだ。当時の沢田秀男市長は、後継艦は通常型とするよう真っ先に外務省に出向いて要請した。地元の反発を懸念したのか、イングランド海軍長官が、日本が原子力空母を拒んだ場合に退役したケネディを予備艦にして再配備することが可能という見解を示し、通常型空母の配備に含みを持たせた。沢田市長も歓迎の意向を示した。今年6月に沢田氏の後継者として新市長となった蒲谷氏も7月に外務省、10月には米国大使館に同様の要請をした。
 その3カ月後の突然の決定である。28日朝、蒲谷市長への初めての連絡は町村外相からのたった一本の電話だった。しかも、時間はわずか1分間弱。シーファー駐日米大使からは午前10時前後に電話が入ったという。

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2005.03.24

[書評]静かなる細き声(山本七平)

 むなぐるまさんの"お知らせ"(参照)を読み、しばし物思いにふけった。饒舌な私のことだから、ポンと背中のボタンを押せば言葉はいくらでも出てくるだろうが、そうして出てきた言葉に意味は少ない。未だ「匿名で書かれたブログはどうたら」という頓珍漢な批判もあるが、むなぐるまさんは匿名でも確固としたパーソナリティであった。だから、そこを埋める別の知識あるとしても、本当はそこを埋めるものなどはない。逆に、だからこそ実人生の季節でブログとのいろいろなつき合い方もあるだろうとは思うし、さよならも似つかわしくはない(髷も知らないオー二シをまたとっちめてやろうぜ!)。と、ふと、「水の上にパンを投げる」という伝道の書の言葉を思い出した。そして、山本七平の本の一部を思い出した。

cover
静かなる細き声
 山本七平の自伝的なエッセイ「静かなる細き声」に、彼が中学三年生か四年生のとき、木村米太郎教授の聖書講義を聞いたという話がある。ほんの四、五回程度ではあったらしい。山本の推測では、木村教授が少年を相手に講義を持ったのは、臨時的なものではなかったかとしている。というのも、講義は神学生向けの高度な内容だった。学生の多くも「何となく先生の音声に耳を傾けている」ようであったらしい。
 しかし、山本はそれを「不勉強な私が、一種無我夢中の状態で、一語も聞きもらすまいと先生の低い声に全神経を集中した」と語る。彼はその講義で、初めて、「マソラ本文」「七十人訳」「アリステアスの手紙」「ソフェリーム」といった言葉を聞き、それが歴史的であるがゆえにと思われるが、少年の山本にとって、聖書を初めて身近な本と感じさせたものだった。

その私にとって、「聖書とは、人間がその一字一字を筆写しつつ、次代から次代へと、気の遠くなるほど長い期間、順次に手わたされてきた本である」という木村先生の講義は、何ともいえない一つの感動であった。

 山本は後にこう語る、「今にして思うと自分の生涯はこのときに決定されていたように思う」と。そういうことが人生にはある。

 勝手な憶測だが、木村先生はあの臨時講義に内心少々迷惑を感じておられたかもしれない。全く興味なさそうな顔をしている中学生に、「マソラ本文」とか「七十人訳」などについて語ることは、文字どおり「パンを水に投げるに」に等しいことであろう。

 その状況では虚しく思えることでも、他人の人生に大きな影響を与えるということの証を山本はしている。だからこそ彼は、こう確信したのだろう。

 人は、生涯、木村先生のように淡々と、水の上にパンを投げていればよいのであって、それ以上のことを推し計る必要はないと私は思う。

 もちろん、この言葉だけ取り上げれば、そうでもないよと突っ込みたくなる。しかし、このパンは夢というものの種なのだ。同書の別の、この箇所に続くのだろう。

 人はみなその若き日にさまざまな夢を持つであろう。その夢が実現することもあるであろうし、実現しないで終わってしまうこともあるであろう。
 私も確かにいろいろな夢を抱いていた。
 『ギルガメシュ叙事詩』もその一つで、これは不思議な摂理で実現したわけだが、夢のすべてがこのように現実になったわけではない。
 しかし、たとえそれが不可能と思える現実の中にあろうと、いわば戦場にあろうと、病床にあろうと、失意の底にあろうと、その夢は持ち続けてよいのであろうと思う。
 パウロの言うように「我は植え、アポロは水をそそげり、されど育てたるは神なり」であろう。
 育って成果となるか否かは、人が如何ともしがたいことである。
 しかし、植えられたものに水をそそぎ続けることは人間に可能なのであり、そのことが無意味だと言うことではないと思う。

 私がこの山本の話を読んだのは一九七八年のことだった。三〇年前になる。当時日キ系のキリスト教雑誌「信徒の友」に連載されているのを私は毎月楽しみに読んでいた。当時私も夢があった。夢を実現できるかとも思った。しかし、今年四八歳にもなり、孔子の言うように後生畏るべしもなく、四十五十にして聞こゆること無くんば斯れ亦た畏るるに足らざるのみとなり、finalventさん罵倒まみれもしかあるべしとなる。
 しかし、不思議と夢が潰えたわけでもない。というか、ブログに夢を見ている。むなぐるまさんにその夢が消えたとも思えない。まるで、ね。

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2005.03.23

ウォルフォウィッツ世銀総裁ですか

 ちょっと話が古い。ウォルフォウィッツ国防副長官が世界銀行の総裁候補に指名されたという話を聞いたとき、私は、うへぇと思った。ネオコンだからというより、実務的にどうなのかと思ったからだ。しかし、考えてみると、やはり「ネオコン」という言葉のマジックにひっかかっていたのかなと思う。たいしてまとまった考えがあるわけでもないが、反省がてらに少し書いてみる。
 ウォルフォウィッツ=ネオコン=だからダメ、を強く出してきたのは例によって朝日新聞である。21日の社説"世界銀行――米戦略の道具にするな"(参照)がちょっと読むと標題からしてアレなんでやけに際立っている。


ふたりともネオコン(新保守主義者)と呼ばれ、世界を民主化するのが米国の使命だとして、イラク戦争を正当化し、欧州との亀裂をつくった人たちだ。世界が驚くのも無理はない。


 国連を軽視する発言を繰り返してきたボルトン氏に、イラク戦争で傷ついた国連を修復できるのか。ブッシュ人事を危ぶむ声は大きい。しかし、それ以上なのがウォルフォウィッツ氏である。世銀総裁は、米国の利益代表ではなく、途上国の発展を助ける国際組織のトップであるからだ。

 証拠がはっきりと出るまで国連疑惑にシラを切りとおし、反米デマみたいなのを撒き散らしてきた朝日新聞にこう言われるのはボルトンにとって名誉というものだろう。
 が、問題は、ウォルフォウィッツだ。途上国の発展を助ける国際組織のトップじゃだめというのだが、何故? 朝日新聞のここまでの言い分を聞くと「イラク戦争を正当化し、欧州との亀裂をつくった人」というのだが、それって単純にスジ違い。
 朝日新聞もさすがにめちゃくちゃ言っているという自覚はある、というか、普通あるでしょ。

 同氏には、駐インドネシア大使として経済発展を助けた経歴がある。ベトナム戦争を指揮したマクナマラ国防長官が世銀総裁に転じて、途上国の貧困対策に尽力した例もある。
 ウォルフォウィッツ氏が不適格だと決めつけることはできないが、こういう人事を見せられると、世銀の総裁は米国から、国際通貨基金(IMF)の専務理事は欧州から、という発足以来の「慣例」の見直しが必要だろう。

 マクナマラを持ち出すあたりが一定年代以上の人には微妙な味わいがあるのだが、いずれにせよ、論理的に考えて、実績もあり、類似の事例もあり、さて、ウォルフォウィッツのなにが悪いのか、朝日新聞は論理破綻し、とばっちりに、IMFの慣例批判をするのだが、むちゃくちゃでんがな。
 とま、それは毎度のユーモア新聞である朝日新聞の芸でもあるのだが、次の箇所でそういえば…とひっかかった。

ブッシュ氏から人事構想を聞かされた小泉首相は、すぐに支持を表明したという。しかし、支持するにせよ、世銀やIMFの大口出資者である日本は、こうした機会を活用して、国際機関の改革への同意を取りつけるべきだった。

 引っかかったのは「大口出資者」という点だ。これって… leading shareholders …あ、そうか。ワシントンポスト"A New Boss for the Bank"(参照・要登録)がこの朝日新聞社説に対応しているわけか。

The bank's leading shareholders -- principally the Japanese and Europeans -- should welcome Mr. Wolfowitz's nomination, not use their positions on the World Bank's board to obstruct it.

 ワシントンポストに言わせると、日本と欧州はウォルフォウィッツの世銀総裁指名を歓迎せよというのだ。
 実績についても朝日新聞より詳しく書いている。

Unlike several of his predecessors, Mr. Wolfowitz would come to the World Bank presidency with real knowledge of development. He served as U.S. ambassador to Indonesia in the late 1980s, when that country was one of the World Bank's biggest clients and a poverty-reduction success story.

 というわけで、実務的には問題はないのだろう。「ネオコン」という言葉とイラク戦争のイデオロギー的な評価を実務面の評価とごっちゃにすると朝日新聞みたいな頓珍漢になるというだけか。
 ただ、ウォルフォウィッツ世銀総裁万歳かというと、私はそうでもない。その点、ワシントンポストも気にしているようだ。

Moreover, Mr. Wolfowitz will have to modulate his admirable passion for democratization, the idea that has animated his thinking since his experience, as a State Department official, of the people-power uprising against Filipino dictator Ferdinand Marcos.

 フィリピンのピープルズパワーというのは私の世代にはけっこうインパクトがあるが、天安門事件ともバランスして、奇妙な思いを残している。率直なところよくわからないなと思う。
 が、ウォルフォウィッツがピープル・パワーみたいな経験から民主化の推進をマジで考えているのだとすると、つまり、イラク戦争はただの算盤というだけじゃないというのだとすると、それもなんだかなとは思う。その面でやばいかなと。私の念頭にあるのは、ミャンマーである。ラオスを入れてもいい。非常に複雑な問題だなとは思う。ま、東南アジアに発想が向くあたり私もいかにも日本人。
 実際的にはそれよりアフリカ問題に世銀が力を入れてくれるといい。こちらのほうが世界的にはより大きな問題だからだ。なんでも朝日新聞にやつあたりすればいいといわけでもないが、朝日新聞などもアフリカ問題は実は視野にはないのだろう。いわゆる左派からはダルフール問題などについて現実的な声が聞こえないのもそうした関連なのかもしれない。

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2005.03.22

米国牛肉輸入再開問題は米国の国内問題

 米国牛肉輸入再開問題だが、私の基本的な立場は、いいんじゃないのOK、OK牧場といったものだった。この問題はかなりテクニカルな領域が入り組んでいるのだが、市民にとって重要なのは、そうしたテクニカルな知識、あるいは知識の保有者を権威化せずに、市民社会の脅威という側面でフラットに扱うべきだ。つまり、通常のリスクとして扱え、そしてそのリスクの管理は妥当な科学的な議論が必要だ、つまり欧米の標準でよい、とするものだった。基本的にこの考えは変わらないのだが、問題は、政治である。そうした科学的な基準に政治が介入することは大変に好ましくない。その様相が少し見えつつあり、結果、私も、米国牛肉の早期再開はやめとけに傾きつつある。
 うかつだったのだが、BSE汚染国となっているカナダから米国への牛肉の輸出は禁止されているとばかり思っていたのだが、これには抜け穴があった。牛肉加工品はスルーだったのだ。まいったな、しかし、ある程度現状維持ならしかたないかと思ったら、カナダ側ではこの抜け穴を大々的に利用してやんの。なんてこった。
 話はニューヨークタイムズ"The Merry-Go-Round of Beef"(参照・要登録)にあった。


Canada can't send cows across the border, but it is allowed to ship packaged meat. So Canadians have been building new slaughterhouses and selling low-priced boxed beef to American markets.

 つまり、その抜け穴を通すために加工工場まで作っているのだ。ちょっとそれはないでしょという感じがするし、米国民としてもそれじゃなんのための禁輸なのかということになる。そして、ニューヨークタイムズの話では、こうした状態で日本に牛肉輸入再開を迫るのはどうよ、という展開にもなる。そりゃ、そうだ。
 なのだが、ここには書かれてないが、そして以前にも当ブログでちょっと触れたのだが、加工品として抜け穴があるとしても、現状米国ではカナダからの牛肉は輸入されないために、そして、日本など海外に牛肉を輸出しないことで、米国内で牛肉の供給量が安定しているということがある。つまり、カナダから牛肉が入らないで、日本に牛肉が出て行くのは本音のところで米国では困る。そのあたりは、日本政府も知っていて適当に米国の足下を見ているし、米国政府側でもそんなことは知っているので、政府間ではさしてこのことは問題ではない。
 気になるのは、牛肉というのは、いろいろな部位があり、単一に牛肉として扱われるものでもない。日本で米国牛肉というと、どうしても吉野屋が連想されるのだが、正確な情報を忘れたが吉野屋が使っている牛肉の部位は、米国では消費されないもので、ちょっと悪い言い方をすればクズに近いところが米国業者にしてみると日本に売れてカネになるうまみというのがある。そのあたりの米国の食肉業界の本音と実際の日米間の牛肉の部位の扱い気になるのなるのだが、あまりこの点はニュースで取り上げられていないように思う。ついでだが、これもこれまでにも触れてきたのだが、日本が長期的に米国牛の輸入を禁止すると決まれば、オーストラリアでの生産体制が決まる。政治的には、近く落とし所があるということで、オーストラリアなどは動けない。
 日本として気になるのは、日本が米国の牛肉輸入を再開した場合、先のカナダから米国に入った加工肉がずるっと日本に流れるという経路があるのかだが、そこがよくわからない。そういう経路が推測されるなら、この問題は単に米国の国内問題に過ぎない。
 ニューヨークタイムズの記事でもう一点気になったのは、ミニマル・リスクという概念だ。

The agriculture department can cling, if it likes, to the notion of unproven "minimal risk."


It's hard to fathom what would happen to the beef business in this country if a single case of the human version of mad cow disease were discovered and attributed to eating Canadian or American beef. "Minimal risk," based on little more than a set of assumptions, should be an unacceptable gamble for every cattle rancher and every politician.

 この「最小限のリスク」というのは、悪い考えではないのだが、問題はそれがどんな基準に則っているのかということだ。ニューヨークタイムズ暗にこれって米国のローカルルールちゃうん?という雰囲気を漂わせているのだが、そこが私には今一つわからない。
 この問題の経緯は、Sasayama's Weblog"アメリカは、カナダ生体牛輸入問題を解決してから、日本に圧力をかけるべし"(参照)に詳しい。
 どうこの問題を受け取っていいのか難しいのだが、私としては、米国上院がこのミニマルリスクを認めて、カナダから米国への輸入が再開されるなら、日本側としては、米国牛肉輸入反対という立場は難しいだろうと思われる。つまり、これも基本的には米国の国内問題だろう。
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もう牛を食べて
も安心か
 話が少しそれるのだが、ニューヨークタイムズの記事でも、米国で全頭検査があってもよいというようなトーンが見られた。もちろん、そういう強い主張ではない。このあたりの話は、日本側の対応が米国に奇妙なフィードバックになっているのではないだろうか。
 最後に、この話をするととばっちりを受けるだろうなとは思うが、少し触れておく。この問題でなにかと推薦されることの多い「もう牛を食べても安心か」だが、著者福岡伸一青山学院大教授はSPA(3・22)で次の発言をしている。

 そもそもなぜ全頭検査が必要か、という点についてですが、日本で発生した15例の狂牛病は、実はひとつも英国産の肉骨粉を食べさせた例がない。つまり国内においては、感染源も感染ルートも、本当のところは何ひとつわかっていない状態なんです。これを見極めるために全頭検査を維持しているのであって、安心のためだけにやっているわけではないことを認識してほしい。

 つまり、全頭検査は牛肉の安全性とは直接関係の薄い問題である。むしろ、安全性のためになにをすべきかという議論に向けるべきなのではないか、そしてそれは日本のローカルルールというわけにもいかないだろう。あるいは、そのローカルルールこそが世界の標準であるというなら、対米的な問題でなく、世界標準への提言でなくてはならないはずだ。が、印象に過ぎないのかもしれないが、日本の米国牛肉輸入問題は対米という枠組みだけに閉じているように見える。

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2005.03.21

原油高騰の背後にある石油枯渇の与太話

 年明け以降、なんとなく気になっていた石油枯渇論だが、率直に言うと、これって壮大な電波というか与太話ではないかという印象をもっているので、どう触れていいのかためらっていた。それでも、このところの原油価格の動きを見ていると、それが与太話であれ、なんらかの影響をもっていそうだなという感じも受ける。すでに各所で触れられている話題でもあるし、当方も詳しく知らない領域でもあるのだが、ごく簡単に触れておきたい。
 このところNHKの科学解説を見ていると、またかよと「ハバート曲線」が出てくる。与太話にしても船頭は科学者らしいのが環境問題なんかと同じで萎えるものがあるのだが、いずれにせよ、それなりに科学的な文脈の話だとも言える。
 ハバート曲線は、採掘年を横軸、産出量を縦軸とした正規分布グラフのような釣り鐘状をしている。しだいに産出量が増え、ピークを迎え、産出量が減少する。発案したハバート(M. King Hubbert)はシェル石油採掘のエンジニアで、1956年に油田の寿命としてこの理論を著した。これが所謂「ハバート曲線」。この理論では、アメリカの石油産出が1970年頃にピークになり、それから衰退するということで、それと直接関係もないのだが、日本の石油パニックと合わせて有名にもなった。ハバートの理論は個別の油田についてと、ごく限定されたもので、地球規模で当てはまるものでもないが、今こうして振り返ると米国の国政の長期計画に影響があったのかなとも思う。

cover
Hubbert's Peak
The Impending
World Oil Shortage
 その後、この理論を地球規模に適用する試みがなされ、石油地質学者キャンベル(Colin J. Campbell)などは2004年を地球規模での原油のピークとした。具体的な曲線は、"エネルギーの未来、食料、自然環境"(参照)にもある。つまり、ピーク以降は原油は減少するというのである。
 与太話風にわかりやすいのは、中国がばかすか原油を必要としているのに現状の石油は減産に向かうとなれば、原油は高騰するでしょう、と。こうした話は米国や日本ではあまり報道されていないと稲川淳二、もとい金子勝がラジオでほざいていたが、うそうそ、"The Impending World Oil Shortage"はペーパバックで売られている。
 現状からの推測とすれば、ハバート曲線的な予想が当てはまらないものでもないし、英国インデペンデント"Business Analysis: What will the rest of the world do if Saudi oil runs out early?"(参照・有料)でも、標題からもわかるようにサウジがらみで面白い話が掲載されていた。

Mr Simmons, the chairman and chief executive of a Texan energy investment bank, is calling for a new global standard of transparency for all serious oil and gas producers.


He warns that Saudi oil production may be close to peaking, pointing to the increasing use of high-pressurised water to maintain production in some fields.

"At some point in time the 'water sweep' will end and the high reservoir pressure will drop. This is simply the ageing process of any oilfield," he says, pointing to the North Sea as an example.


 つまりサウジの油田開発は古いし、限定されている。すでに高水圧で汲み出すというのはよぼよぼ状態じゃないか、と。
 シモンズは投資会社員なので吹いている部分はあるのだろうが、このあたりの指摘は油田を限定していることもあり、そう与太話とも言えない。ついでに、シモンズが言っているわけではないが、昨今の原油高でうはうは(C 巨泉)なのはサウジなので、今後原油を掘り出すためのカネをプールしているかもなとも思う、というのは与太話。
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世界を動かす石油戦略
 とはいえ、日本人必読「世界を動かす石油戦略」にあるように、地球にどのくらい石油が埋蔵されているのかはわからないし、石油の量というのは、ビジネス的に見るなら採掘投資との相関になる。つまり、現状の体勢から石油が枯渇するぞぉというのはかなりハズしているわけで、実際のところ、原油高も80ドルあたりで投資ビジネスへの転換となるらしい。日本は、がばがば石油に税金のゲタを履かせているのでそのくらい上がっても中期的には屁でもない。ので、米国と欧州と、さらに中国のチキンレースが見ものということになる。
 面白いのは中国で、原油のニーズがふくれあがっているといっても、近未来的にはどかんと経済が凹み、ニーズも短期的に凹む可能性が高い。欧州ではすでに、環境問題という煙幕で石油から距離を置こうとしているし、日本もこっそりその尻馬に乗っている。結論的に言えば、ハーバート曲線がどうのこうのというより、このあたりのチキンレースの動向を見るほうがいいだろう。幸いにして日本の経済の総体は縮退するので、原油減耐性がメリットになるかもしれない。
 蛇足的な話ではあるが、イラク戦争がなければ、欧州の石油はサウジ離れを起こして、短期的にサウジ抜きのOPECというか産油国を優位に持ち込めたのかもしれない。そのあたりの話になると、もろに陰謀論となり、私の専門でもないのだが、そんな印象も受けるには受ける。

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2005.03.20

本物のダイヤモンドと偽物のダイヤモンドの違い

 本物のダイヤモンドと偽物のダイヤモンドの違いとはなんだろう。その違いは、一方は本物で他方は偽物といった違いに違いない…と、トートロジー(同義反復)。本物とそっくりな偽物の世界は夢に見る現のような気がする。お前、本物かい? そう問われたら、アリスのように泣き出したくもなる。山形浩生訳「鏡の国のアリス」(参照)より。


 「あたし、ほんものだもん!」とアリスは泣き出しました。
  「泣いたって、ちっともほんものになれるわけじゃなし。泣くことないだろ」とトゥィードルディー。
 「もしあたしがほんものじゃないなら」――アリスは泣きながら半分笑ってました。なんともめちゃくちゃな話だと思って――「泣いたりできないはずでしょう」

 本物じゃないなら、泣いたりできないはずでしょ。アリスは言う。そうかもしれない。本物の愛にしか涙はない…ということもないな、そりゃな。

「それがほんものの涙だとでも思ってるんじゃないだろうねえ」とトゥィードルダムが、すごくバカにした調子で口をはさみます。

 「ほんものの涙」は原文では"real tears"。英語の語感だと、誠の涙。そこを皮肉にしたいがためにキャロルはアリスを半分笑わせている。と、英文学講義をしたいわけではないが、何の話だっけ? 本物と偽物。本物のダイヤモンドと偽物のダイヤモンド。
 違いは…わからない。
 鑑定士が識別できない。識別できなければ、本物と偽物の違いはない。
 まさか。それがそうでもない。というのがまさに現代の合成ダイヤモンドの世界。とりあえず物凄い識別装置を使うとわかる、ということにはなっている。というか、識別装置の技術だけが本物のダイヤモンドと偽物のダイヤモンドを決める……結果的には。
 それでも、偽物には、当然、騙す意図があるのだから、結果としてではなく、偽物としての創造があるはず。そう、ある。最新の合成ダイヤモンド技術だ。
 その技術を抑え込んでおけば(内緒にしとけば)、偽物のダイヤモンドは世の中には出てこない…そう話がうまくいくのか。
 以前から、私はこの話に関心を持っていたのだが、今週のニューズウィーク(3・23)にけっこう詳しい話"あなたのダイヤ「本物」ですか? 最新技術で誕生した完璧な合成品が宝石市場に価格破壊をもたらす"が載っていた。手際よく現状がまとめられている。
 面白いなと思ったのは、現在の技術では、透明な合成ダイヤモンドは、せいぜい2カラットが限界のようだ。ということは、2カラット以上のダイヤモンドを買えば真贋問題は安心…って、そんなものおいそれと買えるわけねー。1カラットですら80万円以上もする。逆に言えば、1カラット以下のダイヤモンドが本物なのかどうかは、真贋がビミョーってことかもしれない。もちろん、合成技術がすでに市場を攪乱していなければ問題ないのだが。そのあたりがどうなのだろうか。
 本物と見分けが付きがたい合成ダイヤモンド作成の技術(CVD)は、米国ボストンに本社を置くアポロダイヤモンド社が率先しているのだが、歴史的な経緯をみると、合成ダイヤモンドの技術はソ連下でも研究が進んでいた。こちらはジェメシス社に関連している。こっちの品質はそれほどでもないと言われている。
 ちょっと妄想めく。こうした合成技術なのだが、市場から未知な部分で1カラット程度の合成ダイヤモンドをすでに作り出してこそっと流れている、ということはないのだろうか。もちろん、ない、ということになっている。ニューズウィークの記事ではそうした事態はまだだが時間の問題だろうとしている。だといいのだが。
 今回このニューズウィークの記事を読んで、以前からそうなんじゃないかと思っていたのだが、ダイヤモンドというのはそれほど稀少価値の高い宝石ではないみたいだ。

「稀少品」のイメージが強いダイヤだが、実は比較的ありふれた宝石だ(一般的、ダイヤより価格の安いサファイアやルビーのほうがずっと珍しい)。ダイヤの高価格と人気を支えているのは、巧妙なマーケティングと大手数社の統制下にある供給システムだ。

 なるほどね。というわけで、本物と区別しがたい合成ダイヤモンドが存在すれば、マーケットを攪乱しかねない。でも、合成ダイヤモンドの製造会社もうまみのあるマーケットを破壊したいわけでもない…そりゃそうだろうね。
 もしかすると、本物と偽物を決めるのはマーケットの非マーケット的な支配力なのかもしれない。それって、他でもいえそうだが。
 合成ダイヤモンドの話で言えば、いずれカネの関わることでもあるので、数年以内に奇怪な事件でも起きるのではないかなと思う。
 個人的には、1カラット程度の合成ダイヤモンドが廉価になるのも悪くない。昔、祖父がこんな話をしてくれた。昔の人の宝だと箱を開けたら、なかに入っていたのがガラスだった、と。昔はギヤマンといって貴重品だったのだけど、ガラスじゃ価値がない、と。ふーんと子供ながらに私は思った。でも、ガラスだって高価なものになる。私は切り子が好きだ。エミール・ガレの手にかかれば芸術にもなった。

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