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2005.12.27

猫も杓子もブログの一年

 一年を振り返るという趣味があまり好きではないが、それでも今年はブログが普及した年だったなと思った。猫も杓子もブログか。とふと、「猫も杓子も」と「ブログ」の二つのキーワードでグーグルを検索したら、あれま、四万五千件もヒット。すげ。ちなみに、この二つのキーワードで、ああなんていい気分(I'm Feeling Lucky)としてみたら、”@IT:ブログブーム、猫も杓子も古川氏(マイクロソフト)も”(参照)という記事が出てきて笑った。古川さんのブログはスタイルシート・ネタとゲイツ君ネタが面白くて何回か覗いたことがある。
 ところでなんで「猫も杓子も」か。これは私の記憶では「禰宜も釈氏も」の駄洒落であった。そんな話がネットにあるかと覗いてみると、あるにはある。先日もこのサイトに出くわしたような記憶があるが「ことわざわーるど(ことわざ辞典 慣用句 四字熟語辞典 四文字熟語」の”猫も杓子も”(参照)では普通の意味と出典として「一休咄」があるが、語源というかなぜこの言い回しかという説明はなかった。いくつか見ていると、「龍光山正宝院」のサイトの”猫も杓子も”(参照)ではこう説明していた。


 仏弟子を釈子(しゃくし)といいます。お釈迦さまの弟子、お釈迦さまの教えを受け継ぐ者という意味です
 神官の長を神主(かんぬし)といいます。その神主の下の位を禰宜(ねぎ)といいます。そして禰宜の子孫を禰子(ねこ)といいます。

 釈子かとちょっとうなる。釈氏が先ではないかとふと思ったが大辞林を見ると、釈氏は釈子に同じとある。するとこれは孔子、孟子の類か。それよりもうなるのが禰子だがこの用語が江戸初期に日常語化しているのかわからない。神名には禰子があるが禰宜の子孫をそう呼んだものか。
 「一休咄」(一六六八年)の文脈は「生まれては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も」なので杓子が釈子の洒落はいい。が、猫の洒落の対応はいまひとつわからない。言うまでもなく、この歌は一休宗純のものではありえない。
 話を少しもどして、釈子と釈氏だが、釈氏というのは、氏が釈ということ。といえば、釈由美子だが、最初のその芸名を聞いたとき私は、戒名みたいな芸名だねとつぶやき、たまたまいた一同を唖然とさせたことがある。おやま。こんな話は通じないご時世。それにしても、釈氏が芸名とはと思って調べるとなんと本名であって、こんどは私のほうが驚いた。
 真宗に戒名が存在しているのも奇怪な話で、実際には真宗では戒名とは言わず法名という。これも言うまでもなく「戒」に関係しているのだがそこまではこのエントリでは触れない。で、釈だが、これはまさに氏として機能していた。親鸞も、釈親鸞であって、これに恥じて愚禿を冠する。言うまでもなく曇鸞も釈曇鸞である。ただ、釈法然という呼称は聞かないようには思う。
 曇鸞など北魏後半から北斉の浄土教徒たちは、中国的な氏、つまりファミリーのシステムを捨てて、擬似的な釈氏というファミリーを打ち立てた。釈氏にはそうした含みがあるのだが、考えてみるに、いわゆる墨家といった表現にも似たものであり、要するに中国特有の秘密結社ではあるのだろう。余談だが、こうした結社の延長に中国共産党も存在する。その意味で、中共は法輪功と本質を同じにしているからこそあの憎悪を持つ。
 またまた奇妙な蘊蓄話みたいになったが、ま、今年は猫も杓子もブログの一年ではあったな。

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コメント

おやま。ではいくつか補足を。

>釈法然という呼称は聞かないようには思う。
「法然」というのは房号なのです。よって法然上人は「法然房源空」ということになります。同じく親鸞聖人も「善信房親鸞」というのが公的名称になります。

>曇鸞など北魏後半から北斉の浄土教徒たちは、中国的な氏、つまりファミリーのシステムを捨てて、擬似的な釈氏というファミリーを打ち立てた。
浄土教徒=釈氏ファミリーというのも少々違和感があります。この時代の浄土教団の雰囲気に一番近いのはイエスズやフランチェスコなどのキリスト教修道会だと思います。

ついでに、
>戒名みたいな芸名だねとつぶやき
私は逆に親かプロダクションが宗教関係者かと最初は思っていましたね。

投稿: F.Nakajima | 2005.12.27 22:02

いい忘れていた。よって釈法然とは言わず、釈源空というのが戒名です。

投稿: F.Nakajima | 2005.12.27 22:07

題は忘れたとある落語に「猫や杓子がブログなんか作るかい、あれはもともと『女子(めこ)も赤子(せきし)も』といったんだ」という解釈がありました。「やかん」だったかなあ。

投稿: スズメ | 2005.12.27 22:34

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