学習塾小六女児殺害事件雑感
京都府宇治市の学習塾「京進」で十二歳の少女を二十三歳の同志社大学生講師が殺害した事件について、私はテレビを見ないので、いわゆる世間がどういう話題にしているのか知らない。代わりに、ネットのニュースはよく拾うほうなので刻々と報道されるニュースはなんとなく見ている。よくわからないというのが一番の思いだが、それは二十三歳の男は十二歳の少女を殺してはならぬという無意識の掟のようなものに私の心が支配されているからだろう。
![]() 誕生日の子どもたち |
この事件についてはそれ以上言うべきことはないのだろうし、エントリに書くほどでもないがと冬枯れの町を歩き、通りがかりの天やで天丼かっこみながら、そうしたせいか若いころを思い出した。自分も二十三歳の大学生だったし十三歳くらいの少女の家庭教師をしたこともあった。が、そうした経験から類推されるものはなにもない。
無意識にひっかかっているものは、ある文学的な印象のようなもので、ふと、そうだ、ミス・ボビットだと思い出す。カポーティの「誕生日の子どもたち」(参照)である。確か「冬の樹」という邦題で訳されていたように記憶するがそれは見つからず、村上春樹の新訳があった。私はこの短編をあの頃英語で読んだ。追記(12.18):コメント欄にて「夜の樹(新潮文庫)」であると教えてもらった。
![]() せつない話〈第2集〉 |
ストーリーは要約するようなものでもないし、私にはうまくできそうにもないので、アマゾンの読者評(水水酔)を引用する。
「誕生日の子どもたち」の語り手は、アメリカの田舎町に住む少年である。きのうの夕方、ミス・ボビットがバスに轢かれた、という文章で小説は始まる。少女は、ちょうど1年前、やはり同じ6時のバスで、母親とともにこの町にやってきた。映画でいえばここがファーストシーンだ。やせっぽちの10歳の女の子ながら、もう大人のコケットリーをもっている彼女は、母親をしたがえて、バスが巻き上げていった土埃のなかから姿をあらわす。遊んでいた少年や少女たちは、このミス・ボビットの風変わりなようすに度肝をぬかれて、言葉もなく見守っている。
町の人々が十歳のミス・ボビットに魅了されていくカポーティの筆致はその幻惑性をよく示していたと思う。
私はここで躊躇う。私は十歳の少女にはミス・ボビットのような幻惑の力がありうるとまでは言ってもいいかもしれない…が、この事件の文脈で語ることはできない。
私は四十八歳の男であり、社会的な存在としては殺された少女の父に近い。私がその場なら狂わんばかりだろう。ただ、事件のおそらく語られにくい部分には世間的には語りがたい幻惑のような何かがあったのかもしれないとは思う。
そういえば先日、実母を毒殺しようとしたされる少女の事件についてエントリ「極東ブログ: 母親毒殺未遂高一少女事件の印象」(参照)を書いたとき、ブログでいくつか、そんな文学やら疑似精神医学で考えるとはなんて馬鹿だろうこいつはという感じの嘲りを受けた。なるほど世の中には理解不能な事件は多いし、理解しようとする必要もあるまい。しかし私はそう思っていない、言うまでもなく。
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コメント
この事件に接して最初に思ったのは、「この馬鹿、子供と対当にやりあいやがって」みたいな感じだった。彼の教師としてのモットーは子供と同じ位置に立つことだったんだろうか。それとも、もともと彼も子供でしか無かったんだろうかと。
finalvent氏は、逆に少女に大人を幻惑する力があったのかも知れないと言う。同時にsoreha
この事件で語るべきでは無いと言いつつも。それを語ることは文学にしかなりえないと言うことだろう。
そうなのかも知れない。が、どっちかというとそう感じてしまうfinalvent氏が文学的すぎる気もする。
だって犯行自体文学的じゃ無いんだよな〜、幼稚すぎだよ、いやそんなもんかも。わからん。
私もそろそろ中年の域だけど、いつの間にか心の中にたくさんの壁を作っている。例えば10代の少女と中年男の間の壁とか。諸々の壁が高い程、自分がしっかりしていられるし、安穏に暮らせるように思う。文学者にはなれないけど。
投稿: nabe | 2005.12.12 20:26
過去に強盗致傷で逮捕されたこともあるようですし、単純に危ない人でもあったようです。
(もちろん、他人を殴るのと刺し殺すのでは全くその意味も重さも違うのですが)
投稿: スープ | 2005.12.13 06:56
あれは名前をつけるなら確かに強盗致傷ですが
実際のレベルとしては
ひったくりや窃盗の常習犯
ぐらいですね。イメージ付けには大変便利ですが。
投稿: 無粋な人 | 2005.12.13 12:06
どうもほかの女子にも「デートしよう」とか言ってつきまとって嫌われてたようですな。
リポーターが女子から直接聞き出してた。すげえな。いろんな意味で。
投稿: cyberbob:-) | 2005.12.13 13:17
おやじ超えの失敗ではないかと。
単に思春期が終わっていないんじゃないの?
被害者は何にも悪くないのに。ご冥福をお祈りいたします。
投稿: 40女 | 2005.12.13 15:51
子供は、校長や教頭に「あの先生気に食わないから変えてよ!」とか無邪気に言いますが、当の本人に取っては将来が掛かってるんですね。
最近の子供は「先生は親・PTAの圧力で潰せる」事を知ってますから、先生は学級崩壊を止められない。
黙ってじっと座ってるって退屈ですよね?子供だったらなおさらですね。「騒いでも言葉で諭すだけだから騒いじゃえ〜」当然です。それ以上の事があっても、殺すほどの事ではないとは思いますが...大人なら、子供よりも陰険な権謀術数が使えなくては。
PS.心理学者は大嫌い。人は一つの事を考えてるわけではない。
投稿: たみあーと | 2005.12.13 23:32
こんにちは。
いきなりコメントしてしまってすいません。
気になったので。
>実際のレベルとしては
>ひったくりや窃盗の常習犯
逃げるときに暴行を加えると強盗と同視されると法律に書いてあるわけですが、それは何故だと思いますか?
泥棒が見つかり逃げ切れないときに、諦めざるを得ないと考えるのと、観念せずにさらに暴力を重ねようとするのとでは、大きな壁があるからだと僕は思っています。誰も見てないから失敬するのと、目の前にいる一人の人間を傷つけてもかまわないと考えるのとでは、犯罪性、悪性、軽薄性に大きな差がある。
罪名による「イメージ」はそれほど間違っていないと思います。
投稿: ボクシングファン | 2005.12.14 06:54
ははは、そりゃ人を殴れば程度問わず「暴行罪」、
合計3点以上の交通違反をすれば「前科者」、
当たり前の話です。
投稿: 無粋な人 | 2005.12.14 12:31
>無粋な人 さん
ま、法律どうこうではなく、日本語として正確なイメージを伝える言葉を使うなら、窃盗罪+暴行罪 の方がいいかもしれないですね。
強盗致傷と言うと引ったくりDQN犯罪者のイメージなのに対し、今回の事件では著しく倫理に欠けキレやすい若者のイメージになるでしょう。
投稿: スープ | 2005.12.14 21:40
彼の人生何処で狂ってしまったのか。
始まりは両親なのか判りませんが、何処かで
立ち止まって軌道修正すべきだったのに、
心に矛盾を抱えたまま、突っ走ってしまった。
ブレーキの利かない自動車の様な彼は、障害に対して、何れ自殺するか、他の人に対して同じような事件を冒したと思います。
少女に魅力に幻惑され、逃げようとしない少女に対してアクセルを踏み込んでいく、その行き着く先は、、、。
投稿: hiro | 2005.12.16 11:07
「冬の樹」ではなく「夜の樹」という短編集が川本三郎訳で新潮文庫にあります.「誕生日の子どもたち」も収められています.
投稿: Taq | 2005.12.17 21:54
Taqさん、こんにちは。インフォ、ありがとうございます。エントリに追記しました。
投稿: finalvent | 2005.12.18 07:48