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2005.12.23

クリスマスが象徴する神の愚かさ

 またクリスマスが来る。毎年よくやってくるものだと思う。毎年やってくるのはクリスマスと限らないのだが、なにかとそこに刻む思いが多いのでそんな気がするのだろう。信仰という意味での宗教に私はほとんど関心を失ったが、逆に神学者ティリヒについてはその組織神学を学ぶより平易に米語で説かれた説教集のほうが歳を取るにつれ心に響くようになった。そりゃ組織神学など凡人まして日本人には理解できないからだとも思っていたが、逆なのかもしれない。ティリヒは説教においてその組織神学を越えるなにかを語っていたのではないか。
 第三説教集「永遠の今」には「考え方では大人となりなさい」という題の説教があり、終わりのほうにクリスマスの言及がある。クリスマスの際の説教であろうか。標題は凡庸なまさにお説教という印象を与えるし、最初に引かれる聖句(第一コリント一四の二〇)もそれだけ読めば特にどうということはない。訳は白水社著作集より。


兄弟たちよ、物の考えかたであ、子供となってはいけない。悪事については幼子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。

 ティリヒはこの聖句について、ある意味でティリヒらしい解釈を投げつける。

パウロは、教会に属する人びとのなかに賢い人びとは多くなく、この世における愚かな者を、むしろ神は選んでおられるという事実を指摘するのです。


ある意味では、キリスト者が現実に生きることはいかにして可能かという、問題の全体が、この神が愚かであられることと、人間が大人であることとの結びつきのなかに含まれてしまっていると思います。

 文脈がないのでティリヒが何を言っているのかわかりづらいが、おそらく文脈があっても、なかなか理解しづらいのではないか。というのは、神はこの世の愚者を選んでいる、神は愚かである、ということはなかなか受け入れがたいからだ。しかし、ティリヒはそう断言している。そしてクリスマスの意味をこう説き明かしている。

 思考における神の愚かさ、そして生活における神の愚かさ、この二つが一つに結び合わさっているのが、クリスマスの象徴においてであります。幼な子のうちにいます神、幼な子としての神、それは聖金曜日〔十字架の日〕の象徴をすでに予知し、準備するものであります。

 神の愚かさとはなにか? ティリヒはクリスマスの意味をそこに問い出している。彼は神の愚かさに捉えられたという表現もする。日常を世の大人として賢く過ごしていても、そこに覆われた神の愚かさが突然現れ、それが人を捉え、奪い去る。

どんなに学者として大成している人といえども、自分の現実存在そのものを問う思いを一度も抱いたことがないならば、人間として大人とはいえません。正当にも、自分の学問的業績においては、どんなことでも疑うのに、学者としての自分の存在、人間として自分の存在を疑うこともなくそのまま受け入れているような人間は、まだ大人ではありません。

 自分の知と経験のすべてをただ疑念と無価値の深淵のなかに落としこむことが神の愚かさであり、人の知に勝るとしている。ヘッセの「ガラス玉演戯」(参照)においても、主人公ヨゼフ・クネヒトは自己のグランドマスターとしての意義を見失い、そして一人の少年を助けるべく水死してしまう。ヘッセやティリヒたちを捉えるこの奇怪な神概念はドイツ的なものなのかもしれない。
 ところで先の第一コリントの聖句だが、実際にその文脈を読み直すと、それが「異言」についての話題のなかに置かれていることに気が付く。こう続く。

律法にこう書いてある「わたしは異国の舌と異国のくちびるとで、この民に語るが、それでも彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる」。このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである。もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信心者がはいってきたら、彼らはあなたがたを気違いだと言うだろう。

 ここで「異言」という見慣れない話が出てくる。ティリヒはこの文脈を意図してあの説教を語ったのではないかという疑念が私に沸き起こる。なるほどなという気もするが、話を「異言」に移す。
 試しに字引を引いたら、掲載されていた(参照)。

いげん 0 【異言】
(1)異なった言葉や話。
(2)キリスト教で、宗教的恍惚(こうこつ)境におちいって発する言葉。初期教会では聖霊による神の賜物と考えられ、その解釈もされた。

 誰が付けた釈かわからないが、「初期教会では」というところに万感の思いが感じられる。日本ではクリスチャン人口が一パーセント程度というありえないマイノリティのせいもあり、あまり異言が社会的に露出しない。が、この釈に反して、現代でも行われている。そして、その光景は「彼らはあなたがたを気違いだと言うだろう」とパウロが言うとおりのものである(コリントIは偽書ではない)。
cover
ポロポロ
 田中小実昌の「ポロポロ(河出文庫)」には、そのようすがまさにポロポロというつぶやきとして描かれている。
 あれはなんのだろうと自分の経験を奇怪に思うのだが、沖縄で迎えたある年のクリスマスのことだが、どういう次第か「イエス之御霊教会」(参照参照)の教会に参加した。大きなだみ声の、それでいて面白くなくヒネリも知性もない説教がひとくされ終わると、では、みなさんご一緒に、ハレルヤとつぶやきだした。それが、ハーレルヤ♪っていう感じはない。ポロポロの大音響なのである。ハレルヤハレルヤハレルヤぐゎわわわんである。説教師は、いいのです、それでいいのです、恥ずかしがらず…と誘導する誘導する。私は、死ぬかと思った。
 手元に資料がないので孫引きだが(参照)、昭和四六年文部省科学研究による、宮古島城辺町保良のサンプル調査では、全一六一世帯中、ユタ(カンガカリャー)信奉者一三一世帯、カトリック一一世帯、イエス之御霊教会八世帯、創価学会二世帯、無宗教九世帯とのこと。しかも、カトリックはイエス之御霊教会からの改宗があるらしい。
 現代の沖縄本島でもだいたいそうした形跡が伺えた。しかし、そうして知識で知るのではなく、ポロポロの大音響のなかに包まれる体験はあまりに異様だった。そこは沖縄である。子供たちもたくさんいてはしゃぎ回っていた。
 それをもって神の愚かさという皮肉を言いたいわけではない。それどこか、そこにはまさにティリヒのいう神の愚かさに捉えられそうになった私がいた。

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コメント

finalventさん、こんにちは、

以前、パウロ・コエーリョという人の「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」という本を読みました。

ISBN:4042750036

この小説の舞台はヨーロッパ、多分スペインだと思うのですが、ある街で人々が突然集団でいろいろな言葉で語りだすというシーンがありました。また、ただ一人への愛のために自分の全てを投げ打つ信仰者の姿もありました。愛とは自分に訪れるものであり、自分でどうこうできるものではないのだな、と感じました。

投稿: ひでき | 2005.12.24 11:06

知らないと言うことは、罪なこと。何でも好き勝手なことを言うものです。あなたは異言についてもイエス之御霊教会についても断片のしかもそのホンの一部分についてしかしらないのです。あなたが賢者ならば、未知の事柄に対し最良の対応は沈黙で有るべきではないでしょうか?

投稿: | 2006.11.07 12:42

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