人生ゲームから自由意志について偽科学哲学的に考える
人生ゲーム? いや、いいよ。と、その先は言葉を飲む。そんなの大の大人のするゲームじゃないよ、人生っていうのはだな云々。
![]() 人生ゲーム EX |
人生というのはルーレットかダイスのようなものではある…と若いころも思った。十代とか二十代の頃。あの頃、私は人間に本当に自由意志というものが存在するのかと考えていた。
例えば、一つのダイスを振る。六の目が出る確率は六分の一。さて、この命題は正しいか。議論を端折るが、これは命題でもなんでもないのな。あるいは特殊な様相のようなしかけを作って述語論理演算とかは可能かもしれない云々。ま、ぶっちゃけ、ダイスを振る。六の目が出た。というとき、すでに確率ではなく、事実。確率とは振る前の命題のようだが、事後に検証はできない。科学というのはこういう構造を持っているのだがこれも省略。
話は派生がある。例えば、普通のダイスを十回振って全部六が出たとする。次に六の目の出る確率は? これはもちろん六分の一。過去のヒストリーには影響されない。ま、ここも議論を端折るのだが、では確率が六分の一とはなにかというと、ヒストリーのサム、総和を意味している、ような気がする。あるいは、ヒストリーサム(history sum)から導かれたようでもある。と、諸賢お気づきのとおり、これは量子力学と同じ論理の仕組みを持っている、というか、量子力学が確率論から成り立っている。ただ、私はほんとかなとは疑っている。これも事後のダイスと同じ議論の間違いなのではないかという気もするからだ。
で、なんの話か? 人間に自由意志があるのか? 人間の意志の過程は脳のプロセスから出るような感じがする。そりゃな。すると、それはケミカル(化学)的なプロセスであり、そのような化学において、必然以外のなにかが入り込む余地があるのか。少なくとも量子力学的な不確定性の領域があるのか? いろいろ考えたが、ありそうでもある。
![]() ウイトゲンシュタイン全集 8 |
さて、ダイスを振る過程を子細に見る。それは、すべて力学的な現象として解明される。すると、その過程を子細に再現すれば、つまり、ある特定のダイス、投下距離、地上の弾性などなど、それらを子細に再現すれば、百回振って百回六の目を出すことは可能である。だよな。ここまではいい?
では、なぜ、我々は、ダイスが次回(未来)に六の目を出す確率を六分の一だと思いこんでいるのだろうか?
そこでいう確率とは、もうおわかりように、ダイスの特性ではなく、ダイスを含みこみダイスに表現される過程の複雑性に還元される。
では、その過程の複雑性は確率なのだろうか?
当然ながら、その過程の複雑性が確率であるかのようにビヘイヴ(所作)する根拠性が問われなくてはならない。数学的に言うなら、過程を子細に見るというときは、百回振って百回六が出る過程の複雑性を決定論に帰着させる有限のパラメーターが存在し、それによって、一見過程の複雑性と見えるものは、決定論的なモデルに変換されることになる。おそらく、そうした決定性モデルというのが、実際には科学と技術を支えているだろうと思うが、話を先に進める。
ダイスの現象は、かなりおそらく、有限の要素によって、そうした決定論的なモデルに還元できるはずだ。しかし、我々の日常の常識、老いたるヴ老の幻想であるが世界を営む言語ゲームのルールは、かなりたぶん、確率を要請している。
ぶっちゃけ、確率がこの世界に成立しているに違いないという確信があり、それらが現象世界において、先の決定論モデルと矛盾している。
この矛盾(世界は決定論モデルとしてしか記述できないのに我々は確率事象が存在すると直感して世界を了解している)は、たぶん、量子力学の不確実性と同型なのではないか。
あるいは、こう言えるのだろうか。ダイス過程の複雑性は、モデル世界においては有限の要素による決定論に還元されるが、モノポリーをやっているときの世界はさらに複雑な世界となるため有限要素と見なしがたい、と。
そりゃ、嘘だ。どこまで複雑になっても有限要素である限り、決定論モデルになる。
では、こう仮定できるか、ダイスプロセスには、量子力学的な不確実性がそのまま反映しているのだ、と。
そうなのだろうか?
ダイスの落下時の角の分子と机上面の分子の間に量子力学的な不確実性がありうるのだ、と?
私はそんなわけはないと思う。やはり複雑性が確率をビヘイヴしているだけだろう。
そして、となると、決定論性というのは、モデルを統制するルールのありかたに拠るだけである。
それは人生ゲームではないが、人生でもそうか、人生のルールをシンプルにバインド(束縛)すればより決定論的な人生になる…あー、そうかな。
わかんないなぁ。これがとりあえずのオチってことで、この先はまた来年のクリスマスにでも。
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コメント
ビッグバン直後の(もしくはその瞬間の)原子やあるいはトップクォークの配列が分かれば……
現在の宇宙までの化学(科学?)式が作れるのでしょう。
しかし、最後のゆずれない事情、「私は私である」という前提が崩壊したあと、人類が生き残れるとは思えません。
観測系のない物理法則を目指して飛び込むレミングなのでしょうか私たちは。
変なSFみたいな感想ですみませんが。
投稿: mori | 2005.12.25 12:27
finalventさんは「ラプラスの魔」だとか「エヴェレット解釈」の解説読んだことがありませんね。そこを押さえないと文系の頭でも「穴だらけ」って見えるんですが。
投稿: F.Nakajima | 2005.12.25 12:56
>人生でもそうか、人生のルールをシンプルにバインド(束縛)すればより決定論的な人生になる…あー、そうかな。
とは限らない。人生の全ての因果関係を解き明かしたとしても一つだけ解けないものがあります。つまりあることが起きる「因」を成立させたとしても「果」がいつ起こるのかまでは確率論の世界に入ってしまいます。
おまけに過去の人生における全ての出来事は有限とはいえ、その全ての因果がどう成り立っているのかは「ラプラスの魔」でも解析不能でしょう。
ゆえに決定論的人生の成立は不可能です。
投稿: F.Nakajima | 2005.12.25 13:20
クリスマスに長いエントリをポストすると勘繰りたくなる、俺モニタの前で1人ですが何か?
投稿: どっこいだいさく | 2005.12.25 13:28
常人にはサイコロを振る姿勢を正確に再現できないから決定論で語れなくなってカオス理論的になるという話でしょう?
そしてそういう所に確率事象が出て来る訳で、何も確率論モデルと決定論モデルが排他的である訳じゃないでしょう。
ベルヌーイの大数の法則は、ぶっちゃけいろいろサイコロを振ってみたところ、その確率はそのうち1も6も一緒になりますよ(この法則は、当然ながら事後に確認できる訳で、何も"科学は〜"まで昇華できる話じゃないでしょう。為念。)という話で、いやそうじゃない、決定論だといって、そこを人生のルールに縛ってみたところで、あれ結局縛る前と一緒だった。あはははみたいな事になるんじゃないでしょうか。
もう少しイージーに考えた方が良くないですか?
投稿: teru | 2005.12.25 14:59
F.Nakajimaさん、teruさん、こんにちは、
以下、私はfinalventさんの思考が追えていませんが、みなさんのコメントにインスパイアされるものを感じたので、ここで書かせていただきます。
視点を引いて見れば、ブラウン運動が無数の分子の衝突により生じる現象であったとしても、一定の距離の関数としてシンプルに記述可能なように、サイコロの目も多数振りぬけば6の目が出る確率を1/6とすることは可能なのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E9%81%8B%E5%8B%95
しかし、因果を作るのが仮に有限な要素であっても、ひとつひとつの花粉の粒子の動きが予測できないように、サイコロを振るという状況においては局所的にカオスが認められうるのではないでしょうか?いや、次の目になにがでるのか、どのような数字の系列になるかはかなり予想しずらい問題だというべきかもしれません。
身近にあるカオスといえば、マーケットの動きなどがあるそうです。
http://harukun1147.cocolog-nifty.com/firosofianholiday/2005/12/_____d904.html
あるいは、私の理解を一部超えていますが、人間の生理学的な働きには広くカオス的な要素が認められているようです。
http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~yamamoto/jres_7/jres_7.html
私が感じたのは、私たちは私たちの思考は線形であると信じるながら、私たちは世界を見つめるわけです。そして、見つめれば見つめるほど、さまざまな現象に非線形が出てくるということに私はせつなさを感じております。
そして、問題は、それでも私たちは「人生ゲーム」で遊ぶことが可能であると信じ、私たちはゲームを遊んでいるということです。あるいは、それが株というマーケットでも、生理現象の究明でもなんでもかまいません。ここにまさに人生の妙を感じるのですが...
爺くさいっすかね。
投稿: ひでき | 2005.12.25 16:56
賽の目の話をされると、ウォーシミュレーションっ子だった自分としては「あれは操るモノ」という確率論や学に喧嘩をふっかける連中しか見たことが無かったです。
「要は6出しゃいいんだろ、6。ホレ」
1:4でも、DE出されると嫌な気分になります(1:5辺りからEX)。
投稿: きんげいと | 2005.12.25 17:22
神様はサイコロを振らないけど、人間は神様じゃないからってことですね。いくら束縛モデルを構築しても人工の神様に生身で祭り上げられても居心地が悪そうだから運命や確率といって一定のカオスを飲み込んでいる方が生きやすいはずのに、現代社会は苦しいほうに進んでいくのはなぜだろうかと。
投稿: to | 2005.12.25 19:30
置きザイすればいいじゃない
馬鹿じゃないの?
投稿: 雀士 | 2005.12.25 22:14
確率的現象と見做されるのは、過程が複雑だということより、初期状態の些細な違いが、結果に大きな違いをもたらすからでしょう。初期値は有限の精度でしか知り得ないわけですから。
量子論は、決定論的ですよ。物理法則が波動関数しか規定していないだけです。確率が出てくるのは、波動関数の二乗ノルムが物理量の確率分布とされているところですよね。
投稿: 粘着電脳研究家 | 2005.12.26 00:48
プレイヤーはひとりではないからなあ。
ダイスをふればゴールに近づくけれど、それが目的でもないんだし。
投稿: cyberbob:-) | 2005.12.26 07:55
これだけ書ける人が「ラプラスのデーモン」ごとき知らんはずないでしょう。
私は晩年のアインシュタインが確率論的量子力学に猛反発していたということは知っていたのですが、その具体的な主張は知りません。
この記事をよんで、アーなるほど決定論的宇宙論って言うのはそういうことなのかと思わず納得してしまいいました。
投稿: だいぶつ | 2005.12.26 10:06
万事は未定と決定されているとはこれ如何に、ですね。
しかし確率が未来を過去の決定事項として取り扱う技術だと
考えれば矛盾しないのではないでしょうか。
未来は単純にそして漆黒の不明なのだと思います。
人生ゲームのゴールってまずもって「死」なんでしょうけど
考案した方はやっぱまずいよなあってはぐらかしたんですよね、きっと。
でも死がゴールであってもゲーム性は変わらないはず。
そしてルーレットであれゲームマスターが持つ乱数表であれ毎度の出目が
偶然だろうと必然であろうとやはり変わりないんじゃないでしょうか。
プレイヤーにとって分かんない部分がゲームの物理を支えていると。
だからむしろ自由でない意思とは何かを考える方が難しいのでは。
投稿: papepo | 2005.12.26 12:17
だから偽科学哲学的にって言ってるじゃないですか。
途中の能書はオチのためのふりなんですから。
人間万事塞翁馬。
投稿: chacha | 2005.12.26 18:55
確実に理論は有るはずだけれどリソース(知恵、処理能力、時間)が足りないから結果として予測不可能 という風に受け取りました。
よく「人の感情は理屈じゃない」って言葉に反感抱いて先の文章を考えていました。
天気予報もこれに当てはまるのではないでしょうか?いつか的中率99%になると信じています。
投稿: サルガッソー | 2005.12.27 00:41
~的
は、予防線だから、何とでも解釈できるよね
投稿: 無粋な人 | 2005.12.27 11:54