World 3.0 という雑想
このところ一人ぼんやり虚空を見つめながら、なんどか思い、そして苛立つ。もうちょっとなんとかフォーマルに考えられないものか…。World 3.0 という雑想である。バージョン1の世界があり、バージョン2の世界がある。切れ目は、私にとっては明確である。カール・ポランニが「大転換」(参照)と呼んだそれだ。この本は実家に置いてきた。けっこう難解な本なので自分でも理解したとは思わない。代わりに書架にある、漫談風の高須賀義博の「マルクス経済学の解体と再生(御茶の水選書)」(参照)をぱらぱらとめくって読む。塩沢由典との対談などなんだか冗談のように面白い。オリジナルは一九八四年『思想の科学』に掲載されたもので、八四年は私などにはついこないだのようにも思うが、もう二十年経ったのか。
塩沢 高須賀さんは、「マルクス・ルネッサンス」を一九六八年パリの五月革命以降に顕著に見られるようになったマルクス経済学に対するアカデミズムからの妥協点としていますが、このとらえ方はかなり独自なものですね。今一度説明して下さい。
高須賀 (略)
ベリー・アンダースンは、この五月革命は、実践と理論が分離していた西欧マルクス主義がそれを克服する「一つの底の深い歴史的転換点」とみています(『西欧マルクス主義』)が、この評価は少し甘すぎると思います。五月革命は本当の革命的実践に結びつかず、「マルクス・ルネッサンス」をもたらしたにすぎないというのがわたしの判定です。これは五月革命が「知性の反乱」であったことと関係しています。五月革命は現代社会の過剰抑圧に対する重大な異議申したてだったのですが、それはマルクーゼ的にいえば、革命の主体たるべき労働者階級が体制内化され「一元的人間」にされてしまった状況のもとで、社会的存在としては「遊民」である知識人や学生によって担われたものでした。(略)それゆえこれに対する体制(エスタブリッシュメント)側の対応は、マルクス主義に対するアカデミズムの妥協で足りたわけです。(略)
今読むとギャグかよ、という感じもするし、「現代社会の過剰抑圧に対する重大な異議申したて」という問題意識はさらに悪化しただけではある。そして日本ではどうだったか。とりあえず苦笑して言葉が出てこない。
塩沢 シンポジウムのなかで「マルクス・ルネッサンスを担った人達は従来のマルクス主義者とは違う人達だ」といわれてますね。なぜ従来のマルクス主義者は新しい動きの蜷手になれなかったのでしょう。
高須賀 「マルクス・ルネッサンス」の特徴の一つは、マルクス解釈権が一党(一個人)によって独占されていたスターリン時代の一枚岩のマルクスが復活したのではなく、多様なマルクスが登場してきた点にあります。それゆえ思想的問題としての「マルクス・ルネッサンス」の焦点は、スターリン教条主義からの脱却にあります。一度でもスターリン主義にコミットしたものは厳しい自己清算を経ないと「マルクス・ルネッサンス」の担い手にはなれません。(略)
ギャグだよなとさらに思う。スターリンの延長にレーニンをおいて共産党の名の変更を共産党の党首に求めるようなけたたましいギャグだってできないわけではない。高須賀自身はどう思っていたかしれないが、マルクス・ルネッサンスが遊民の知的お遊びであればその先にはなにもあるわけがないのだ。
と、高須賀も、そして塩沢もというべきか、森嶋通夫的な数理モデルのなかにマルクスの再定義をとりあえず見たいと思っていたのだ、あの頃。しかし、この本にあるようにスラファの先から出てきたものは、サミュエルソンに言わせれば「剰余価値率がプラスであるのは利潤率がプラスの場合だけである」という、はいはいワロスワロスになっていった。その先は、私は知らない。あるとき、ぷっつりと関心が失せた。いや、高須賀がそっちの方向ではなく、貨幣という特殊商品についてどう思想を繋いでいくだろうか、十年してあるいは二十年して見てみたいものだとは思った。そして二十年は過ぎた。
このように貨幣商品金は特殊な役割をもった例外商品であるがために、一般商品とは決定的に異なる。第一に、貨幣商品金は一般商品と同一基準で生産されるにもかかわらず、価格を持たない。第二に、一般商品は生産され、交換され、最後には消費されてその任を終わるのに対して、貨幣はあくまで市場にとどまる。第三に、一般商品とは異なって、貨幣は、資本主義の理念型においてすら、国家が深く関与する。価格標準の決定権と鋳造は国家主権に属し、信用制度は中央銀行を中核として整備され、中央銀行の政策には国家が影響を与える。
ああ、そうだ。そして二十年して国家は超国家的な国家となり、国家の関与性に知識が忍び込んでその関与に知性をかさねた壮大な与太話が舞い飛ぶ。与太なんだから水でもぶっかけてやれとも思うが、なかなかね利口な装いとなっていて物言えばこちとらが馬鹿みたいだというか馬鹿なんだろう。でも、高須賀があげたこの奇怪な特性から私が目をそらすわけでもない、ロートルだし、俺。
そして、ぼけきった自分が高須賀義博の「マルクス経済学の解体と再生」をつらつら読むに、ふと違った風景のようなものも見えてきた。高須賀は私が当時思っていたよりカール・ポランニに傾倒していたのだと思った。
『大転換』(一九五七年)におけるポランニーの優れた着想の一つは、資本主義の経済システムの自立性を擬制的であるとした点にある。彼によれば、経済システムは本来社会システムの下位に置かれねばならぬものであるのに、資本主義は経済システムのなかに社会システムが埋めこまれてしまうことを原理的に要請する社会である。これが完全に達成されれば、経済システムの自立性は社会構成原理として確立されるが、それは本来無理である。ここに彼は資本主義の歴史性あるいは過渡的な正確をみる。それゆえに資本主義は、彼が「社会的防衛の原理」と呼ぶ異質の原理を導入して変質してゆかざるをえない。
まあ、そういうことだ。しかし、そうはならなかった。ポランニの弟子筋のドラッカーはたぶん、その原理性の一つに戦後日本の企業経営のようなモデルを夢想していた。そしてそこからさらにサードセクターと呼ぶ現代のNPOの原理性を問いつめていった、テクノロジーと市場を見つつ。しかし、それが、特異なローカルなモデルを除けば、うまく実を結んだようには見えない。それどこかその成功にはどこかしらカリスマを必要としているかに見えるのは不思議でもある。
大転換、つまり、World 2.0 は経済システムのなかに社会システムを埋め込むことであった。そしてそれには、強く貨幣が関与し、そして貨幣は強く国家と国家を操作する知を求めた。そしてその知が知性たる高等遊民を、まるで火に集まる蛾のように集めても不思議ではない。しかし、遊民など無害だし、あらかじめ敗北が決められているようなという洒落にしてもそう外れでもない。
問題は、むしろ、超国家的な国家と、超貨幣的な貨幣の運動だ。それは、どこに地球をもっていくのだろう。というポエムな響きからわかるように、私の話も与太な領域に入りつつある。そして、与太といえば、石油だろ、そりゃ。
原油価格が上がった。理由は…以下略というくらいなものだ。奇怪なのは投機のスジだ。私はなんとなく四〇円以上は投機でしょと当初思っていた。ま、流れを見て五〇円くらいかな。でも七〇円とか六〇円とかは投機でしょとかは思う。よくわらんが。
いずれにせよ、がぼがぽと無駄に儲けた金が世界にぶふっと溢れて、そしてどこへ行くのか、おーいである。答えは理念的には簡単だ。カネがカネを産むところへだ。というあたりで、途上国への投資とかとかとか思っていたのだが、あれだな、どうも高度資本主義の国に環流しているのだな。トンデモ? そうだったらいいだろう。高度資本主義の国がカネをもっと必要としているのだから、ジャブッと増やしてみたらみたいなリフレ派を世界規模でやってみましたということなんじゃないのか。
というあたりで、どっかで World 3.0 になってしまったのか。いやいや、World 2.0 の奇妙なドンヅマリを見ているのか。さて。
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コメント
finalventさん、こんばんは、
今日、中国の方々とお話をする機会がありました。なんというかはっとしたのは、中国でも日本でも現金がいくらでも集まり得る状況にあるのだということです。担保だの、金利だの、為替だの、株価だの、スワップだのとさまざまな要因はあるにせよ、現代においては現金を集めるだけならいくらでも集まるのだと思い知りました。現金は情報の流れとなって世界を駆け巡っているのです。
まがりなりにもリアルで仕事をしていて感じるのは、現金というのは現金のままでは儲からないというごく当り前のことです。私のまわりの世界では、現金はちゃんとものの売り買いに通用し、企業会計においては現金で何かに投資することで、利潤を得ることができます。しかし、現金が箪笥預金のような形でそこにあるだけでは一銭も生みませんし、なにも生産しません。そんな足の遅い現金は少数派で、必要な期待感さえあれば、必要なだけ現金が集まってしまう現実がすぐそこにあるのも、またいつのまにかリアルになっているのですが、お金が世界中にあふれてしまえば一体お金を積み上げて何が買えると言うのでしょうか?積み上がったお金は将来にも価値を持ち得ると信じられるのはなぜなのでしょうか?現代では、お金の量とはコンピューター上の記憶でしかないのに。
あまりに門外漢の意見であり、あまりにまとまりがつきませんが、横井庄一さんが焚き付けに軍票をつかったという話をして一旦失礼します。また、考えがまとまったらまいります。
投稿: ひでき | 2005.11.13 21:59