生活保護は国がするのか地方がするのか
ちょっと手間がないのでメモ書きみたいになる。あるいは問題が難しいので、なんとなく書かず仕舞いになりそうでもあるので、その意味でも一応触れておこう。
テーマはとりあえず単純に言えば「生活保護は国がするのか地方がするのか」ということ。私の結論も単純にすれば、地方がすればいいのではないか、というものだ。ただし、この問題はディテールが非常にやっかいだし、制度や実態の把握も難しい。現実問題としては、政府がやろうとしているようにここでゴリっと進めればいいとも言い難い。
この問題が厄介なのは、昨今の流れで見ると、この問題解決の気運が高まって出てきたというより、例の奇妙な名称の「三位一体改革」のカネの辻褄合わせで出てきたためで(八〇〇〇億円相当)、本来の問題解決のプロセス(それはそれなりにあるせよ)から導かれたものではない。ただ、こうした問題は、私としても自分でも矛盾すると自覚はするが、どっかでゴリっと進めないとどうにもならないのかもしれないとも思う。
三位一体改革のカネの辻褄合わせという点では、生活保護は国か地方かという問題は、「極東ブログ: 中央教育審議会最終答申は無意味になるのだろうが…」(参照)で触れた義務教育の問題と類似の構造がある。が、構造が類似なのに方向は非常に異なるのが面白いといえば面白い。簡単に言えば、地方は概ね義務教育費についてはヨコセと言っているのだから、生活保護費についてもヨコセと言うならすっきりする。が、そうではない。地方は、そりゃ困る、国がヤレ、と言っているのである。
そうした構図だけで言うなら、地方の言い分は矛盾していてむちゃくちゃにも思えるのだが、地方としてもそれなりのスジはあるにはあるようだ。概ねのところで言えば、省庁紐付きの各種助成金の削減を累積すれば一兆円減になるのだから、そうせい、というわけ。そうした点から言えば、いきなし生活保護は国か地方かって問い詰めかた自体スジが違っているのだ。ようするにカネをどうせい、という問題に矮小化したからしっちゃめっちゃかということでもあろう。もうちょっと国と地方の両者の思惑を読めば、今後生活保護費は増大する一方なのでババを引くのはいやよんでもある。
とはいえ、地方の言い分とかで言われる、生活保護は憲法が保障する国の義務だというのはちょっとおかしい。それはたしかに国の義務だが行政単位としての国が任務に当たれということではない。この議論はお好きな人はお好きだろうが、私は本筋として国は小さいほうがいいし、地域の生活圏から国はできるだけ遠隔化すべきだと思うでこの議論につっこむ気はない。というか、最終的なセイフティネットとしての国の機能は平時ではなくイマージェンシー(緊急事態)の対応だけ明確にすればいいだろうと思う。
それに地方の言い分がこのまま通れば、生活保護の規定も国の一律ということになり、地方の実態にそぐわないことになる。やっぱ、地方はその裁量と権限を持つべきだろう。
で、だ。ぶっちゃけ地方にはそれだけの行政の能力がないでしょというか、そうした能力を育成する助走期間もなかったでしょというのが、実態ではないのか。
とすれば、理念的に正しくてもあるいはマクロ経済学みたいに学問的には正しくても画餅になるだけで終わりというのが見えるなら、議論すら無意味になりかねない。じゃ、国が有能かというとその議論もまたお好きなかたはどうぞといった趣きではある。
結局どうかというと、国だって無い袖は振れないという現実を直視するしかないわけで、地方移譲の方向を多少なり段階的なり弾力的に推し進めるということだろう。
話の方向をちょっと変える。
この件についてNHKの解説番組を見ていたら、ちょっと気になる数値があった。識者にしてみれば当たり前なのだろうが、生活保護対象の人口だが、昭和六〇年には一四七万人。それが平成七年に八八万人となり、平成一六年に一四二万人となったというのだ。
私の庶民的な感覚からすると、平成七年あたりから昨今生活保護者が増えているのはわかる。自殺者も増えているし、生活は苦しいよな、である。が、昭和六〇年から平成七年にかけてなぜ減少していたのかが、わかるようでわからない。もっと脊髄反射七六へぇしてしまいそうなのは、昭和六〇年の生活保護者の人口が現在と同じというあたりだ。よくわからないので思いつきでいうのだが、昔のほうが社会は安定していたというなら、現在の生活保護者数の水準というのは、美しい日本の普通の状態っていうことはないのだろうか。
関連して、今回の問題の発端は、よーするにカネカネカネということで、現在の生活保護費二・五兆円はつらいよねということだが、一〇年前に比べると一兆円増えているらしい。なるほど平成七年ごろは現在より生活保護者が少ないのだから、そりゃ納得、なのだが、その前の昭和六〇年ころはどうだったのだろうか。生活保護者数が現在と同じなら同じくらいの出費? もちろん一九八五年の経済と今の経済は違うのだが、そのあたり二〇年前はどうしていたのだろうか?
くだらないことに関心を持つようだが、生活保護の問題が最終的にはその半分の責務が地方の問題となれば、それほど潤沢でもないカネで地方における社会・生活圏の問題として困窮者を助けていかないといけなくなる。
そういう問いを出したとき、二〇年前はどうしていたのだろうか、この二〇年間でどう変わったのだろうかというのが気になる。この二〇年私も大人として生きてきたのだが、うまくその風景というかその歴史の生活的な感触が思い出せない。
もうちょっと言うと、この問題、生活保護者数の増減という問題だけとすると、そこには隠れたパラメーターがありそうな気がするし、そのパラメーターが問われないと問題の解決にはならないのではないか、と思う。
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コメント
年金受給資格のない困窮者が減ったので、生活保護世帯数が減ったという姿があったのでは?
つまり、年金もらえない(払ってなかった)年寄り層が昔は生活保護を受けて生き延びていて、それは結構な割合だった。それが年金による補助に切り替わって生活保護は少なくなったが、その後の不況で増えたと。
今の75歳前後の人だと年金きっちり満額もらえる資格者ってのは案外少なかったとオヤジの話を聞いてると感じます。
つまり、現在の生活保護世帯そのものが老年から壮年層、若年層に切り替わってきていること、それ自体が問題のような気がします。
根拠(ソース)なしでもうしわけないですけれど^^;。
投稿: けろ | 2005.11.20 21:41
在日朝鮮人達の特権をご存知でしょうか?
年間予算枠の大半をこの在日の方々が、ほぼ無条件でもらっています。
一時期、受給者が減った頃は、戦中に渡ってこられた多くの老人が、平均寿命を全うする時期と符合します。
また、その後、増えた原因として、経済の困窮もありましょうが、在日3世にも、無条件で、生活保護を給付している現状があります。
おそらく、この在日給付者、これからも、年々増えていくものと考えます。
おそらく、対北南朝鮮対策も考え、このあたりの問題とのリンクで、在日特権を考え直す思惑があるのかと思います(税金をちゃんと払っている1納税者の願望)。
投稿: れろれろ | 2005.11.21 17:54
>昭和六〇年の生活保護者の人口が現在と同じというあたりだ。
昭和60年と平成16年の総人口に対するパーセンテージでみないと(笑
今、問題になっているのは、日本の生活保護者が一時的な受給者ではなく、死ぬまで受給者になっているということ。つまり高齢者の受給者が増えているということ。しかも平均寿命(専門的には平均余命と言った方がいいかも)は延びている。
日本の年金制度(社会保障制度)は充実してはいなかったが、それでも貧困者が少なかったのはそれを補う家族の機能が働いていたから。
しかし、近年、その家族の機能が下がってきたという事情がある。
投稿: nami | 2005.11.23 10:21
おソ-スはこの辺ね(笑
高齢者(65歳以上)のいる世帯の構成割合だけど、昭和61年→平成16年の推移は、「三世代世帯」44.8%→21.9%、「夫婦のみの世帯」18.2%→29.4%「単独世帯」13.1%→20.9%となっています。
平成16年国民生活基礎調査の概況
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa04/1-2.html
投稿: nami | 2005.11.23 11:11
在日はヤバイ
投稿: WEBおもしろ情報収集用ブログ | 2008.04.10 18:38