土の器
はてなブックマークの注目のエントリーに「はてなダイアリー - 土の器とは」(参照)というのがあり、ちょっと不思議な感じがした。いや、もう少しコレクトに言うと、注目のエントリーというのは三ユーザーのブックマークをもってリストされるのだが、その一人が私である。二ユーザーのリストを見ているとき、ふっと拾ってみたくなったのだ。
「土の器」とはなにか。
はてなのキーワードにはこう書いてある。
出 典 --- 新約聖書コリント人への第2の手紙4章7節から引用の言葉。
本 文 --- しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
本欄執筆者の表現したい言葉の意味 --- 『自分は脆弱な醜い土の器』なのだと言うことは決して忘れないようにしようと思っているのです。『しようもない奴や、だけど使って下さる方があれば、お役にも立つように努力しような。』と言う自制と自助努力の言葉として使っている。
まったくの間違いとはいえないまでも、間違いと言ってもいいのかもしれないなと思う。コリント2の4-7が出典というは明白な間違いではないし、正しいと言ってもいい。だが、このキーワードの解説はおよそ聖書的な世界とはかけ離れたものだ。理由は簡単で、聖書にあっては、「本欄執筆者の表現したい言葉の意味」というのは、俗人や平信徒にはありえない。そのありえなさかげんが、たぶん日本人は通じにくい。しかしまぁ、それも文化的な相対性の問題ではあるのだろう。
通称東ローマ帝国から権威を詐称のごとくに受け取った…かのような…ローマ・カトリックが現代西洋のキリスト教の基点にあり、そこでは聖書の解釈の権限そのものが権威でもあり、それゆえに日本人などからすれば、きやつら奇怪な分派を起こし米国に伝搬するや以下略という状況になった。
日本の近代化というのは西洋化でもあるので、西洋のあっちこっちから散発的にキリスト教が伝搬されたが、戦後は米国が多い。終戦から遠くない時代はリベラルなキリスト教も多かったようだが、いつのまにか米国のキリスト教や日本で宗教として見られるキリスト教は、エヴァンジェリカル(福音派)が目立つのようになった。もちろん、私にはどうでもいいし、日本人の大半にもどうでもいいことだ。
大正時代から明治時代へと遡及したように見直すと、「本欄執筆者の表現したい言葉の意味」的なキリスト者やその精神運動のようなものをよく見かける。仮想の武家の倫理のようなものが看板を付け替えたようにも思えるが、その西洋臭い時代も時折振り返ると面白い。森鷗外の墓銘は森林太郎であり、原敬もまたしかり。昨今の日本は右傾化だとか騒ぐ輩もいるが、あの時代に伸びたかもしれないリベラルな日本がひっそりと伸びているだけかもしれない。
土の器と聖書の話に戻る。聖書は、新約聖書は純然ととはいえないし、旧約聖書にもそういう側面はあるのだが、基本的にはユダヤ教の文書であり、その世界観の中にある。土の器というときも、その世界観に還元していかないとわからないものだ。ではそれはなにか。
少し話を端折ろう。土というのは粘土である。彼らの神は、粘土をこねこねとして神の形に似せて人間の形を作り、そこにぷーっと神の息を吹き込んだ。おかげで、人間というのは寝ているときも鼻から息が出たり入ったりする。そうしないと、元の土に戻る。もちろん、神話であり、語られる神話がそうであるように、言葉遊びでもある。土はアダマーであり人はアダムという駄洒落だ。
この神話の人間観によれば、人というのは泥人形なのである。泥人形から人間ができるということは西洋の魔術師達がゴーレムを作成したことで知られているが、ま、そういうことだ。だから、素焼きの陶器と同じで、人間などというものは、がしょっと石に叩きつけて粉砕すれば、また土に戻る。神が創造者であり、人間が被造物、というのはそういうことだ。
土の器には「脆弱な醜い土」といった価値判断などない。ただの粘土で創作された物なんで壊れるということだ。
陶器が陶器師と争うように、
おのれを造った者と争う者はわざわいだ。
粘土は陶器師にむかって
『あなたは何を造るか』と言い、
あるいは『あなたの造った物には手がない』と
言うだろうか。
(イザヤ45-9)
ふとこの「土の器」という表現を英語でなんというのか、忘れていたのでネットで読み返してみた。
私は若い頃英語の聖書を数バージョンもっていて読み返したものだった。というか、リベラルな米人クリスチャンというのはけっこうそういうことをするし、その便宜のために八冊まとめましたというような便覧書もある。比較の基本はAVと呼ばれるキング・ジェームズ版で、そして事実上の権威になっているRSVと呼ばれる米国改訂版がある。日本の昭和訳というかはRSVに依拠していたはずだ。RSVはけっこうギリシア語的にも正しい。というか、その後の翻訳は日本の共同訳でもそうだが、理解することが念頭に置かれ、意訳が多くなってしまった。意訳の聖書を読むのは私のような人間にはつらい。
AVでは、「土の器」は、earthen vesselsとあった。よい英語である。earthenの響きがギリシア的でよい。さて、RSVではと探すと、ネットにはRSVが見つからず、ASVがあった。同じか。違いがよくわからない。訳語を見るとAVを踏襲していた。さらに最近の聖書訳では、jars of clayとあった。jarsかよ。
手元の英語の字引(研究社)を見たら、「ジャー《★比較日本では広口の魔法びんのことを「ジャー」とよんでいるが, 英語にはこの意味はない》」と親切だかお節介な解説がある。口の広めな素焼きの壺といったものではあるのだろう。
日本語となった「土の器」は、おそらくAV系のearthen vesselsをひいたままなのだろう。共同訳ではどうなっているかなと書架を見たら、共同訳の聖書はないや。あはは。読まないから消えてしまったか。
さらに最近の英語の聖書を見ると、「土の器」は、perishable containersとあった。ほぉ、これはさらによい訳だなと思う。バーナンキみたいに禿げたラビたちが現代英語と格闘しているような連想もする。
つまり、「土の器」というのは、「使い終わったら壊して自然の土に帰るようなエコな素焼き壺」なのである。イザヤ書に「手がない」とあるのは、取っ手がないということだろうか。
ぼんやりネットを眺めたいら死海文書が収まった土器のジャーの写真がある(参照)。吊し用だろうか小さな取っ手がある。これは取っ手じゃなくて、耳? 知らんが。
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コメント
新共同訳です
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ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
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ちなみに、はてなのキーワードで用いられている訳文は日本聖書協会発行の「小形(ママ)英和対照新約聖書」(1975)にある日本語口語訳と全く同じです。ご参考まで。
投稿: uumin3 | 2005.11.03 21:56
>神が創造者であり、人間が被造物、というのはそういうことだ。
なるほど、やっと得心がつきました。
どうも日本の牧師さんがおっしゃることと、外国からのキリスト思想の書籍の間には差があるがと思っていましたがこういうことだったんですね。
日本的キリスト教だと「神による救済」ばかり強調され「神の被造物だから義しくない者(神を信じない者)は壊される」というのが抜けている。
親鸞思想の影響がこういうところで出てくるとは思わなかった。
投稿: F.Nakajima | 2005.11.03 22:31
インドにゃ行ったことないんですが、かの地では街頭で売られているミルクティを飲み終えると、その器を路上にたたきつけて粉々にすると聞きました。
投稿: synonymous | 2005.11.04 12:12
土の器に造花を飾る詩人の覚悟のように
劣化した美しさを感じました。
投稿: 詩的日記-ブログ | 2005.11.04 16:32