[書評]心とは何か(吉本隆明)
吉本隆明の講演集「心とは何か-心的現象論入門」(参照)は副題に「心的現象論入門」とあるが、これは吉本の心的現象論の入門という位置づけになると、おそらく弓立社の宮下和夫が考えたのだろう。ネットをうろついたら、その様子をうかがわせる話が「ほぼ日 担当編集者は知っている」(参照)にあった。
吉本さんの仕事を大きく分けると、3つになる。本筋は文芸批評家だが、「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」「心的現象論」という3つの大きな仕事がある。
『心とはなにか-心的現象論入門』は、この「心的現象論」の最良の入門書だ。どこをとっても面白い。吉本さんの本を読んだことのないひとでもおもしろく読めるはずだ。心というとらえどころのない対象が、こんなにはっきりと考えられるのか、という驚きと、それでもなお、果てしなく残る不可思議さ。
優しい言葉のなかに宮下和夫の相貌のような気迫がこめられていると私は思う。この本を出すにはある種の執念を必要としたのだろう。
この本は、1994年に初校のゲラが出ながら今まで7年もかかった。その間、他の出版社から数十冊の本が出るのを見送ってきた。なぜ、吉本さんはこの本にこんなに時間をかけたんだろう?
この問いかけの答えはほぼ日のサイトにはない。出版されたのは二〇〇一年。その七年近い日々の間、吉本は講演集をリライトしまくっていたかといえば、本書の後書きを読めばわかるようにそうではない。話し言葉のまどろこしさを開いた程度である。ではこの七年の時間とはなんだったか。
私は、吉本の心的現象論の挫折がその理由であると思う。だが、それを言えばマルクスだって資本論に挫折したのだ。
心とは何か 心的現象論入門 |
一九七一年は印象的な年でもある。いわゆる吉本シンパなり吉本隆明神話が形成されるのは一九六八年以降勁草書房から刊行された「吉本隆明全著作集全十五巻」によるのだが、その一九七三刊行の十巻目、思想論I「心的現象論I(書き下ろし)」は序説の別バージョンではないだろうか(この巻は私は持っていないのでわからない)。いずれにせよ、吉本シンパにとっても、心的現象論はその序説をもって終わり、「試行」の連載はいわば「情況への発言」のように終わりなき漫談といったふうに読まれていたのではないか。
私が「試行」を購読し始めたころ、当時は紀伊国屋でバックナンバーが購入できたので正確にはいつだか忘れたが、八〇年代後半にはすでに、吉本の心的現象論は三木成夫からの決定的な影響下のもとに再編成が進んでいた。すでに序説との整合は俗流フロイト説を除けばどうつながるか理解不能だった、もっとも私が馬鹿なだけのかもしれないが。
「試行」は一九九七年に廃刊となった。心的現象論漫談もそこで終わった。並行する吉本の思想深化は、これも書籍としては珍書と言ってもいい「母型論」(参照)に見られるのだが、さすがにこのエントリはそこまで触れない。
二〇〇〇年を前にし、心的現象論の最終的なかたちは、だから、結局のところ、「心とは何か-心的現象論入門」しかないということを吉本隆明自身も諦めただろう。悪口で言えばこのころから吉本にも老境というにはボケも感じられる。本書の後書きもそうした趣きが漂っていて多少気味が悪い。つまり、吉本がこのゲラを数年して読み直し、これでよいとしているのである。
全体的に読みかえした感想をいえば、現在も持続して関心をもつ主題で、わたしの精いっぱいの考えが保存されていて、現在のわたしの水準として読者が考えていただいて一向に不服はない。
本書は心的現象論入門ではなく、その最終の姿の近似と言ってもいいのだろう。
その最終の姿とはなんだろうか。
私は、三木成夫が胎児のなかに人間身体の発生の動的な構造原理を見いだしたように、それに対応する心的領域における動的な構造原理だろうと思う。が、その原理が本書で十分に描かれているわけではなく、三木成夫が胎児の時間に想定したものを吉本隆明は一歳児に投影しているのを予感するだけだ。私は、直感的には、その方向でよいのではないか、つまり、心的領域の構造生成は出産前数ヶ月から一歳くらいまでではないか、と思う。
本書には、ずばり「三木成夫について」という章がある。三木成夫の「海・呼吸・古代形象-生命記憶と回想」(参照)の解説でもあるのでこちらの本を持っている人には不要かもしれない。この解説記事では、三木成夫の思想から吉本隆明の思想へすでに明確に一歩が踏み出されており、三木思想の忠実な解説というよりは、その発展になっている。が、それでも、三木成夫の思想に俗流オカルト的な解釈を読む人が多いなかで、吉本がいかにも理科系男らしく読み込んだ、その上質なサマリーとなっている。そして本書の他の部分はそれに呼応してはいる。
結局、心とはなにか? 私のがさつな言葉でパラフレーズするのだが、心というものは、脳神経システムと肺という呼吸器システムの相克で生じるものだと理解したい。そして、この相克こそが、私が彼らの思想から私が受け取った部分なのだが、人の心に決定的なダイナミズムを与えている。
彼らの思想にはないのだが、これに免疫のシステムが関与したとき、人の身心の病的な領域が、人の進化の必然とその途上性の可能性を示すものとして、現れるのだろうと思う。
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コメント
一定の書物や思考範囲を狭くしすぎて、社会性が薄くなりすぎてバランスが取れていないように思える。
人間の本質的理解から細部を冒険した方が良いと思う。
現代的な知識が与えてくれたものは悲しみだけ。
投稿: 詩的日記-ブログ | 2005.11.12 16:51
>人の身心の病的な領域が、人の進化の必然とその途上性の可能性を示すものとして、現れるのだろうと思う。
いや、今の西洋思想・科学的探求だと「心とは何か」というのは結局解明できない(少なくとも予見できる未来には)と思っています。今頃になって(about.comのコラムにはでていませんが)仏教関係の唯識だとかアビダルマだとかハタ・ヨーガなどが心理学者の間で注目されるのはこれまでのアプローチの行き詰まりを感じざるを得ません。
投稿: F.Nakajima | 2005.11.13 22:26
私は科学で「心とは何か」は解明できると思いますよ。むしろ既に解明されてると言ってもいい。F.Nakajimaさんは「心とは何か」を知りたいのではなくて「心は素晴らしい」を証明したいのでは?
心理学は心を心で捉える学問で、いうなれば地球の形を知るために地面に立って辺りを見渡すようなものです。確かに景色の美しさは堪能できる。でも地球が丸いことを知るには、宇宙から地球を見なくては。しょせん地球がタマっコロなのと同様に、心なんてしょせんは神経発火のネットワーク、電気的刺激と化学反応なんですよ。でも、地球が丸かったからといって、美しさは損なわれませんよ。物理学者と写真家ほどに、科学者と心理学者のアプローチは異なっていて、まったく違うものを明らかにしようとしていると思っています。そしてどちらも正しい、と。
投稿: bamboohouse | 2005.11.15 17:09
>心なんてしょせんは神経発火のネットワーク、電気的刺激と化学反応なんですよ。
そのとおり。しかしその先に問題があります。
>地球が丸かったからといって、美しさは損なわれませんよ
ここで問題が出てきます。「地球は美しい」となぜ心は地球のことを認識するんでしょう?ただのでかい玉っころとだけ認識してもいいはずです。
投稿: F.Nakajima | 2005.11.16 20:13
おくれてしまいましたが、TB承認ありがとうございました。それから本エントリーの最後の7行、免疫に関するfinalventさんの文を引用させていただきました。問題があったらご指摘ください。最近ひさしぶりに『共同幻想論』を読み返したら思ったより面白いので感動したりしてます。自分でも意外でした…
投稿: 「独解、吉本さん」 | 2010.10.16 17:51