中央教育審議会最終答申は無意味になるのだろうが…
昨日の組閣は先日の改憲の自民党案と同じく、別に議論するほどの話題ではないように思えた。私としては、時事の話題としてはワンテンポ遅れたが、この間二十六日に出された中央教育審議会最終答申のことが気になっている。よくわからないのだ、なにがどう問題なのか。
現在日本では、公立小中学校の教職員の給与は国と都道府県が二分の一ずつ折半で負担しており、昨年度を例にすると国庫への負担は二兆五千億円になる。金額を見るとわかるように、悪い洒落っぽい命名の「三位一体改革」の三兆円規模の税源移譲に近い。というわけで狙われている。つまり、この額を地方に譲るかというのが昨年時点の問題で、中央教育審議会(中教審)はこの一年間たらたらたらと無駄な議論をしてきた。
と批難めいた言い方をするのは、この問題は経営の問題なのに経営的な思考ができるやつもいない中教審で議論すること自体ナンセンスっぽい。実際、まともな会社なら提出すべきカネと経営についてのまとめが出てこず、教育論みたいなものと、端的に言って旧文部省の権益指向みたいなものがボロっと出てきた。
当面の議論は、まず中学校分の八千五百億円を地方が求めたのだが、文部科学省は強く反対してきたし、その反対の絵柄はなんか滑稽ですらあった。
どうあるべきか。とりあえずは二者択一である。地方か文科省か。つまり、地方に譲るのか文科省が握るのか。
結論の視点から、現場はどうかなとざっくりとブログを眺めてみるとあまり議論は見えない。というか、新聞のリンクとかコピペが多い。ブログがどう世論に関わっているのかただ基盤が弱いだけなのかよくわからない。
新聞各社の見解を振り返ってみると、まず朝日新聞だが十月二十八日社説”中教審答申 文科省の代弁者なのか”(参照)では、地方側に立っている。
子どもたちの教育が大切なことは論をまたない。とりわけ義務教育はどこでも一定の水準を保たねばならない。だからといって、教職員の給与の半分を国が握っておく必要があるのだろうか。
私たちはこれまで、地方に税源を渡すことについて「義務教育も聖域ではない」「教育を変える好機にしたい」と主張してきた。
子どもたちの教育は、一定の水準を保つとともに、一人ひとりにふさわしいものでなければならない。地域ごとに中身や学級編成に工夫をこらす必要がある。そのためには、教職員の人材や財源を生かす仕事は、現場を肌で知る自治体にまかせた方がいい。
読売新聞は十月三十日社説”[義務教育費]「中教審答申に重なる地方の声」”(参照)でみるように文科省側に立っている。
答申を取りまとめた中央教育審議会の鳥居泰彦会長にしてみれば、真摯(しんし)に投げ返したボールの行方を案じるのは当然だ。政治の力で黙殺されるようでは、中教審の存在意義も疑われてしまうだろう。
現行の義務教育費国庫負担制度を維持するか、それとも地方に税源移譲し一般財源化すべきか。中教審が政府から、教育論の見地で意見を出し合い、結論を得るよう求められたのは昨年秋のことだ。100時間を超える論議の末、制度「堅持」の答申に至った。
後段、お茶をぶっと吹いてしまいそうだが、ようするに文科省に任せろというわけで、後段では実は地方の声もそうなんだという愉快な展開になっている。
朝日と読売を比べて短絡的に政治スタンスの左右でいうなら、左翼は地方指向、右翼は文科省指向ということになる。
ついでに産経新聞はというと十月二十日の社説”先生の給与 肝心な視点が欠けている”(参照)は議論が明後日を向いているのだが、文科省側に立っている。
公立小中学校の教員給与にかかわる税源移譲をめぐる問題で、中央教育審議会の義務教育特別部会は、従来通り国庫負担率を二分の一とする答申案を賛成多数で決定した。地方側はこれに強く反発しており、最終決着は小泉純一郎首相の判断に委ねられる見通しだ。
これにより、税源移譲の問題は政治決着に向かうが、肝心の教員給与の適正化の問題はまだ、ほとんど議論されていない。先生の勤務実態を適正に評価し、それをいかに給与に反映させるかという問題である。
後段も愉快で、ちょっと図に乗るとこうだ。
最近、札幌市で、教員の昇給など人事評価の基礎となる勤務評定が行われていなかったことが明らかになった。同じような実態は北海道全域でも続いており、さらに、福岡県や沖縄県でも、勤務評定が行われていないことが明るみに出た。
これまで、教員を三段階評価で一律「B」とするなど勤務評定制度を形骸(けいがい)化した例は、三重県や兵庫県などに見られたが、全く行われていないケースが表面化したのは初めてだ。いずれも、教育委員会と教職員組合の癒着が背景にあるとみられる。
教員給与の財源がどう配分されようが、こんな自治体に給与配分を任せていては、どんな使われ方をするか分かったものではない。これが納税者の率直な気持ちであろう。
つまり自治体なんかに任せておけない、ということで、文科省寄りと言っていい。
ついでに愉快な赤旗でも読んでみる。十月三十一日付け”国庫負担「廃止」は教育条件引き下げる”(参照)はこう。
小中学校の教職員の給与の半分を国がもつ義務教育費国庫負担制度。小泉首相は、文科相の諮問機関である中央教育審議会(鳥居泰彦会長)の「制度維持」の最終答申(十月二十六日)を無視し、廃止・削減の方向です。憲法が定める「無償の義務教育」が岐路に立たされています。
というわけで、朝日新聞と異なり共産党は文科省寄り。共産党は産経新聞と仲がよろしいようだ。
が、いずれにせよ産経新聞や赤旗がくさっていたように、結果としては、内実文科省の中教審結論は握りつぶされることになるだろう。つまり、地方にこのカネが移されるだろう。それが小泉政権の意思でもある。
ということは、朝日新聞と小泉政権は仲良しなのである。産経新聞と赤旗が仲良しというのに合わせて、面白い政治風景というか風流ですらある。
議論とか立ち位置がなんであれ、この問題は実質経営論的な問題なのに経営的なビジョンが欠落しているという状況は変わらず、大丈夫か地方、ということになるのではないか。
日本は今後少子化に向かっているが、義務教育レベルでは一教師が担当する生徒数は二十人以下に減らすべきというふうに人事的なリストラはそれほどでもないし、共産党が喜ぶようにがんがん地方税を注ぎ込んでいけばいいのだが、小中学校という建屋はリストラされてしかるべきだろうし、学区も整理するしかない。
というか、まいどながら地方で一括されるけど、そんじょそこいらの国家規模の東京と、有能な昭和の政治家を輩出した島根県と一緒くたにできるわけもない。
理念を吹くのはいいけど、現実の地域社会の運営問題として、地域の教育はどうなっていくのだろうか。というか、どう学校が経営されるのだろうか。そのあたりが、まるで見えない。
余談だけどというか、それまた風流という趣きなのだけど、文科省の「義務教育費国庫負担金の取扱に関する報道について」(参照)で文科省が朝日新聞と読売新聞に文句を言っている。文科省、必死?
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コメント
理念云々は別にして、義務教育費一般財源化→地方移譲の果てに、その金を教育費以外の、いわゆる従来型の土建政治に流し込む気マンマンな地方自治体のザコ政治家の皆さんを見るにつれ、まあロクな結果にはならないだろうなという感触はあります。
というかいませんよ、今まで通りに教育費に使おうなんて思ってる奴。
そんな所に金を流したって、彼らにはメリット無いし。
投稿: くれふ | 2005.11.03 17:40
2005.9.21の歴史教科書問題についての私のコメント(日本の教育委員会制度の発足の歴史的経緯について書いたもの)の続きを書き足しておきます。
全国の市町村に教育委員会を設置するということは、前便で説明しました通り、当時、都道府県レベルで勢力伸長の著しかった日教組勢力を市町村レベルに分断・掣肘するという、当時の政権与党であった自由党の政略的判断に基づくものでした。この結果、教職員の任命権は市町村教育委員会に移ることになりました。
また、(旧)教育委員会法では、当時、教育議会といわれた教育委員会の委員の選挙を公選で選ぶことになっていましたし、教育予算案の議会への送付権も持つなど、地方教育行政機関として首長部局から相対的に自立する権限を持っていました。
従って、確かに、日教組勢力の分断掣肘という面では、市町村への教育委員会義務設置は効果を上げることになったのですが、一方、あたかも教育委員会が地方首長の行政権から独立しているかのようなそのあり方については、その後首長側から猛烈な反対論が巻き起こってくるのです。
こうした状況をうけて、政府自民党は、昭和31年に(旧)教育委員会法の抜本改正となる「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」を制定することなります。この法律によって、教育委員の公選制は首長による任命制となり、教育委員会の予算権も首長の権限下におかれることになりました。
同時に、教育行政組織としては、文部省→都道府県教育委員会→市町村教育委員会→学校という中央集権的な指揮命令系統が確立することになりました。そして、こうした中央集権的秩序を財政的に担保するものとして、義務教育国庫負担制度が次第に拡充されていきました。
この31年の教育委員会制度改革によって、市町村教育委員会は従来通り「名目上」残されることになりましたが、しかし、その独立行政委員会としての性格は名ばかりのものとなり、長部局の一課に過ぎぬものとなり、肝心の教職員の任命権も都道府県教育委員会に移されてしまいました。
つまり、今日の教育委員会制度とは、政府自民党の日教組対策という思惑、文部省の中央集権的な教育行政組織を維持したいという思惑、それに自治体首長は教育委員の任命制と教育財政権を回復したことで当面我慢という思惑、さらに教組側は、直接の学校管理機関である教育委員会の形骸化は好都合という思惑、この4つの思惑が重なり合って今日まで維持されてきたものなのです。
こうした「地教行法」体制が揺らぎ始めるのは、昭和60年頃から、国家財政の窮迫化・硬直化を根拠として、大蔵省より国庫負担金・補助金の削減が強く主張されるようになったことと、ソビエト崩壊によって、国内における文部省対日教組のイデオロギー対立構造が終焉に向かったことがその契機となっています。
また、この時期は、「学校崩壊」という言葉や「文部省解体論」が唱えられたり、文部省中心のあてがいぶちの「管理」的教育に対して「学校選択の自由」が臨教審で唱えられるなど、「地教行法」下の硬直的な学校管理運営体制に対する国民の不満がぶつけられるようになっていました。
これに対して、文部省はそれ以降、「ゆとり教育」、「生きる力」、「体験学習の重視」、「新しい学力観」にもとずく支援的指導法の推奨、「総合的学習の時間の創設」などで答えようとしたのですが、これが学級崩壊や学力低下の原因と批判され、政策官庁としての権威をも損なうことになりました。
今日、総務省=地方自治体と文科省が、三位一体改革の一環としての義務教育国庫負担制度の存廃をめぐって激しく対立していますが、それはいうまでもなく、地方側は、国庫負担制度を文科省による教育行政の中央集権統制の手段と見なしているからです。(実際そう見なされても仕方がなかった。)
最近のニュースで、全国市長会の文科省に対する意見で「教育委員会の任意設置」を要望したが文科省はこれを無視し無回答とした、というのがありました。地方の首長にしてみれば、イデオロギー対立の時代は終わったのだから、市町村立教育委員会の存立意義を再考したいということでしょう。
それにしても、この問題に対する地方の足並みは必ずしも一致しているとはいえません。中教審の義務教育特別部会の中間報告では、中核都市の教育委員会に教職員の任命権を委譲することや、そのための広域連合(50万人口規模)の設置も提言されています。また、肝心の国庫負担制度への対応をめぐっては、地方6団体側はその廃止とそれに見合う税源移譲を求めていますが、「日本の教育を考える十人委員会」の調査によると、全国の市町村長の82%が一般財源化に反対という結果も出ています。
いずれにしても、教育行政における地方分権の論議が都道府県止まりになることは考えられず、中核都市やそれに準ずる規模で、学校の効果的な管理運営に必要な権限(人事権や教職員費を含めた教育財政権さらに教育課程編成に関する裁量権)を有する学校経営機関の設置を検討せざるを得なくなると思います。
そのためには、現在の地方における学校管理運営制度(=教育委員会制度)を抜本的に再検討せざるを得ません。当然のことながら、それは、教職員の身分のあり方から、免許制度のあり方、教科書採択のあり方、学校選択制のあり方まで含む包括的な改革にならざるを得ないと思います。
それはfinalventさんが指摘している通り(いい勘です!)、公立小中学校の経営組織をどう確立するかという問題なのです。それは否応なく現在の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の抜本改革とならざるを得ないと思います。そうした観点からいえば、国庫負担問題はその系として処理すべきことです。
が、当面の政治的判断としては、8500億の財源を、国庫負担の割合を1/2から1/3に切り下げることで調達せざるを得ない。その上で、新しい公立小中学校経営制度のあり方については、その政策立案機関の設置も含めて、しきりなおし、ということになりかねません。あくまでも私見ですが・・・。
投稿: 七平fan | 2005.11.06 21:20
朝日の論説と紙面に乗っけている情報とが微妙に食い違う気がしておもしろかったです。引用されている次の日には苅谷が答申の説明をしていましたようなところのことです。
聞いたところでは、日経は委員の間での義務教育関連の見解の一致がまだはかられていない、とか。
投稿: shaoshao | 2005.11.10 16:04