[書評]ブータン仏教から見た日本仏教(今枝由郎)
「ブータン仏教から見た日本仏教(NHKブックス)」(今枝由郎)は標題のとおり、ブータン仏教から日本の仏教はどう見えるかという話だ。
私はこの本をさっと読んだとき、別にどってことない本だなと思った。日本の仏教と仏教という宗教についての私の考えは、すでにこのブログになんどか書いてきたが、基本的に私は日本の仏教には批判的だ。
- 仏教入門その1(参照)
- 仏教入門その2(参照)
- 仏教入門その3(参照)
- 仏教入門その4(参照)
- 仏教入門おわり(補遺)(参照)
- 般若心経について(参照)
- [書評]砂漠と幻想の国 アフガニスタンの仏教(金岡秀友・菅沼晃・金岡都)(参照)
ざっと思い返すとそんなところか。私は日本の仏教に基本的には批判的でもあるので、今枝由郎「ブータン仏教から見た日本仏教」はむしろなじみやすかった。と同時に多少退屈な読書という感じもした。ブータンが抱える民族問題などに仏教の視点で触れてもよさそうなものだがとも思った(参照)。
今枝は翻訳書の他に「ブータン―変貌するヒマラヤの仏教王国」(参照)や「ブータン中世史―ドゥク派政権の成立と変遷」(参照)など学術的な著作があり、また、写真解説といった趣きの「ブータンのツェチュ祭―神々との交感アジア民俗写真叢書」(参照)や「ブータン・風の祈り―ニマルン寺の祭りと信仰」(参照)がある。しかし、一般向けの書籍としては本書が初めてであり、出版社側がよく企画したようすも本書から伺える。
![]() 悪魔祓い |
しかし、本書を再読して奇妙に印象が変わった。単純に言えば、私は親鸞を捨てることができるだろうか、という問いを自分に再度立ててみた。私は家の宗教ということを除けば、親鸞への関心は吉本隆明のそれに近い。広義に思想家としてもいい。その思想的な意義はどれほどのものだろうか、さっぱりと真宗の評価を下し、親鸞は別とするのか。親鸞もまた排せるものだろうか。今枝は本書でそれほど意気込みもなく、ブータン仏教との僧たちとの交流から真宗を抜け出しているように思えた。
今枝由郎はフランス人である。仏教を学ぶためにフランスに渡り、フランス人となった。彼は大谷大学での思い出からこう語る。
チベット語の稲葉先生が、二年生の夏休み前に、「本当にチベット語を勉強したかったら、まずはフランス語をしっかり勉強しないかん」とおっしゃった。その理由は、先生は第二外国語としてドイツ語を学ばれたが、晩年になって世界各地でのチベット研究の視察旅行に出られ、それまでまったく知らなかったフランスでのチベット研究が、世界の最高水準をいくものであることを発見された。
仏教を学ぶならフランス、となった理由は簡単で、中国様がチベットの叡智を世界に散らしたからである。私は、訳書が多いこともあって、ダライラマ以外にチョギャム・トゥルンパ(「チベットに生まれて―或る活仏の苦難の半生」)やチューギャル・ナムカイ・ノルブ(「虹と水晶―チベット密教の瞑想修行」)などの本をよく読んだ。トゥルンパは英米圏、ナムカイ・ノルブはイタリアといったことから欧州におけるチベット仏教の状況はある程度知っていた。池澤夏樹が「異国の客: 024 川の風景、マニフ、記憶論とチベット」(参照)で次のように語るときも、特に違和感もなかった。。
ここでチベット仏教という主題はどうだろうか。
フランスでこの宗派に再会するとは思っていなかった。
ぼくにとっては信仰ではなくまだ文化的な関心に過ぎないけれども、チベット仏教についてはこれまで多くの契機があった。
北インドの山の中で開かれたカーラチャクラの大法会に2週間に亘って参加したこともあるし、ネパール国内にあって最もチベット的なムスタン王国にも行った。
ダライラマ法王猊下にお目にかかったこともある。
『すばらしい新世界』という長篇では大事なテーマの一つだった。
この因縁がフランスまで続いていた。
ぼくが住んでいるこの家の家主のアンヌの夫はチベット文化の専門家で、今はオックスフォードでチベット学の講座を主宰している。
余談ばかりのようだが、米国のAbout.comの仏教(参照)を見ても、禅を除けば、国際的には仏教は、かなりの部分がチベット的な仏教に親和的になってきているように思える。
話を本書に戻す。再読して、二つのエピソードに心惹かれた。一つは、胎内仏である。私は奈良時代の文化が好きで二十代後半から三十代後半よく奈良を歩いたのでその仏像のいくつかが胎内仏を持つことを知っている。なので、それほど新味はなかったが、本書にはこういうエピソードがある。今枝がブータン高僧に日本の仏像を紹介したところ、「スンが奉納してあるか」と訊いたのだそうだ。
私はスンという言葉をそれまで聞いたことがなかったので、問い返すと、チベット系の仏教の伝統では仏像のなかには、仏とその教えを象徴する仏舎利とか教典を収めることになっており、それをスンと総称する、とのことであった。
その仏像には当然、スンはない。今枝はしかし、この仏像はとても有名な彫刻家によると高僧に語ると、「それではこれは仏像ではなく、たんなる木と変わらない」とそっけなく答えたそうだ。それはそうだろう。
もう一つのエピソード。今枝が日本人の知人の十三回忌の話をブータン僧にしたところ、僧はこう答えた。「あの人は、そんなに悪い人とは思えなかったが、なにか重大な悪業でも犯していたのか。」
チベット仏教でもその延長の三島由紀夫のコスモロジーでもそうだが、人は死後四十九日をもって転生する。何十年も冥土に置かれて冥福を祈られるものでもない。
いや、おそらく日本人にとって冥土とは黄泉の世界であろうし、仏教とは異質な宗教ではあったのだろう。それが神道かといえばまたややこしい話にはなる。
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コメント
>余談ばかりのようだが、米国のAbout.comの仏教を見ても、禅を除けば、国際的には仏教は、かなりの部分がチベット的な仏教に親和的になってきているように思える。
ちょっと気になるので。ここのサイトの仏説は上座部の説明でしかなく、チベット仏教が強調する「慈悲と菩提心」の説明が欠けています。ただチベット仏教関係へのサイトへリンクしているからと言う理由だけで「親和的」と解釈するのはどうかとも思いますが。
投稿: F.Nakajima | 2005.11.12 17:55
日本仏教は儒教、道教と習合した中国仏教の影響が大きい。
http://sogi-iso.jp/jouhou/sougi04/04_3_5.html
『 お位牌の起源としては、中国の儒教では位板といって40cmぐらいの木の板に、生前中の官位や姓名を書いて神霊にささげる習慣があり、鎌倉時代にこの習慣が禅宗から仏教全体に取り入れられ、神道の御霊代と融合され、故人の戒名などを刻んだ位牌となったといわれており、江戸時代中頃には一般庶民の間でも広くまつられるようになって、今日の仏教では欠くことのできない重要な役割を果たしています。』
投稿: えの | 2005.11.13 09:59