« ニカラグア近況 | トップページ | ウーメラで超音速小型機の飛行実験が成功 »

2005.10.10

野國總管甘藷伝来四〇〇年

 野國總管甘藷伝来四〇〇年…野國總管(のぐにそうかん)という人がサツマイモ(甘藷)を日本に伝来して四〇〇年になる…ということだが、そう説明してしまうと正確でもない。野國總管は名前ではない。野國は地名で總管は役職名。野國は現在の嘉手納町、つまり沖縄の地域だが、その時代、琉球国は日本国には所属していない。總管は尚寧王時代首里王府の進貢船の管理事務を行なう役である。呼称は松(マチュー)だったらしい(下層階級の出身ではあろう)がよくわからない。さりとて名無しというのもなんなので野國總管、または總管野國と呼ぶ。名前の考察は進んではいるようだ(参照)。
 地元嘉手納では野國總管甘藷伝来四〇〇年祭を行っている。九月末から今月の一日、二日という日程であったが、台風十九号のため延期して十五日十六日になるとのこと。嘉手納町では特設ホームページまで設けている(参照)。
 サツマイモ(甘藷)の伝来がなぜ重要かというのは、案外現代日本人にはわかりづらいかもしれない。簡単な話、サツマイモは荒れ地でも効率よく澱粉の生産ができ、飢餓から民衆を救う。内地の歴史も飢餓の状況は類似しており、サツマイモ伝来の恩人として青木昆陽(参照)が有名だ。昨今の教科書では昆陽の扱いはどうなっているか見てないが、Wikipediaにあるように、甘藷先生、芋神さまと称されたようだ。
 昆陽の号からは朱子学の印象を受けるが、伊藤東涯に私淑して古学を学んだ。江戸町家の生まれで名は敦書、通称は文蔵。東涯は言うまでもなく仁斎の長子で京都に居を構えていた。昆陽はいわば留学してまで学問がしたかったのだろうし、そこに仁斎古学のヒューマニズムの血脈を感じるといいたいところだが、東涯は父のような情熱的な古学者タイプというより(仁斎は精力絶倫でもあったらしい)、『制度通』などからわかるように中国の行政などについても知見を深める博学者的な傾向がある。昆陽がサツマイモを考察した『蕃薯考』を一七三五年に著したのもそうした学統にあったからというようにも思われるし、蘭学にまで関心を伸ばしたものそうした傾向ではなかったか。
 昆陽は、享保飢饉に際し、後に誤って暴れん坊将軍と称される徳川吉宗に対して飢饉対策の救荒作物としてサツマイモ栽培を進言。小石川植物園で試作(参照)し日本に広めた。というのだが、さて、なぜそれが「薩摩芋(サツマイモ)」と呼ばれるのか。野國總管との関連はどうなのか。そのあたりがよくわからない。
 野國總管が甘藷を伝えたのは一六〇五年、青木昆陽が『蕃薯考』著したのは一七三五年とかなりの年代差がある。琉球では十分に甘藷が栽培されていた後に日本本土で甘藷栽培が始まったということなので直接の関連はないのかもしれない。
 ではなぜ「薩摩芋」か。Wikipediaの項目(参照)にはこれが対馬を経由して朝鮮に伝搬したことは記載されているが「薩摩芋」の由来はない。代わりにこうある。


別名に、甘藷(かんしょ)、唐芋(からいも)、琉球藷(りゅうきゅういも)。

 広辞苑を見ると「日本には一七世紀前半に、中国・琉球を経て九州に伝わり普及」とある。ざっと見ても、昆陽『蕃薯考』の年代とは合わない。むしろこれは、琉球での栽培が薩摩に徐々に伝搬したもので、それが吉宗行政で促進されたということかもしれない。余談だが、薩摩揚げというのも沖縄のチキアゲと同じであり、タイ料理のトートマンプラーとも同じなので、シャムと交流のあった琉球から伝来したものではないか。その他薩摩焼酎など、いろいろ薩摩の文化はより高度な琉球の文物をリメークしたものが多いように思う。
 話が余談に逸れつつあるが、吉宗と琉球文化の関係で外せないのが、『六諭衍義(りくゆえんぎ)』の存在である。六諭は明太祖朱元璋による「父母に孝順なれ、長上を恭敬せよ、郷里と和睦せよ、子孫を教訓せよ、おのおの生理に安んぜよ、非為をなすなかれ」というものだが、これを清代范鋐が注釈したのが『六諭衍義』であり、これを琉球にもたらし琉球に普及させたのが名護親方・程順則(一六六三~一七三四)であり、この後、琉球から島津を経て吉宗に献じられた。吉宗はこれに心酔し、内地的知識人の最たる白石を斥け、室鳩巣(むろきゆうそう)を登用して、湯島聖堂で講じさせ、さらに広く寺子屋の教科書とした。つまり、ぶっちゃけ、江戸の道徳文化は琉球文化から伝来した。その他、三味線だの日の丸だの琉球からどばどば内地に流れ込むのだが、あたかも昨今の朝鮮が日本文化をリアレンジしているように、日本もまた琉球文化を近代においてリアレンジしていったようだ。
 話を野國總管に戻すが、野國總管が賞讃されるのは彼の時代ではなく子孫の時代であり、おじーでーじ偉かったやっさ的に子孫がその像を造りあげたのではないか。当然、総姓世系図は残っている。「野國總管の身分とその子孫」(参照)によるとこうだ。

総姓世系図は、總管の子孫、糸満の古堅家が保存していたものであり、この系図によりますと、總管(1世)には、一男があり、この長男が位牌にある「總管嫡子與那覇碧林(法名・二世)」であります。この碧林(法名)からは、五男(三世達)の子どもたちが誕生しています。その内の一人長男は、姓与那覇と号雪庭を名乗り医術を学び首里に移住しています。この雪庭の4世・5世の代に比嘉筑登之親雲上という比嘉姓を名乗り、その6世の代に士籍の仲間入りを果たし、士族の証である譜代が与えられています。彼らの名前には、甘藷に因んだ蕃宣とか蕃常、蕃春という名が付けられています。碧林(法名・二世)の他の4男は、その父と共に郷里野国村に住み、次男は宮城姓、三男は宮平姓、四男は平良姓、五男は与那城姓を名乗っています。

 直接的に残るのは宮平姓らしい。宮平と聞くと牛乳を連想しちゃうんだけど。

|

« ニカラグア近況 | トップページ | ウーメラで超音速小型機の飛行実験が成功 »

「歴史」カテゴリの記事

コメント

江戸の道徳文化にはあまり詳しく
ないのですが
「おのおの生理に安んぜよ、
非為をなすなかれ」
というのはギリシア的で素敵な感じの
自然道徳訓ですね~。

投稿: kagami | 2005.10.10 14:13

>母に孝順なれ
父母だと思います。
わが娘は小学校で暗記させられています。全然行動はともないませんが。(笑)

投稿: やんばる原人 | 2005.10.10 16:45

やんばる原人さん、こんにちは。ご指摘ありがとうございます。

孝順父母
尊敬長上
和睦郷里
教訓子孫
各安生理
毋作非為

投稿: finalvent | 2005.10.10 17:02

ウィキペディアの記述によると、日の丸の起源は、"江戸後期に薩摩藩の船印だったものが、幕府開国後、島津斉彬の進言により日本国共通の船舶旗となった"(要約)ということらしいですが、逆に(多分それ以前の歴史が問題なのでしょうが)、琉球起源という説はざっと検索した限りでは見つけられませんでした。その辺が分かる、なにか適当な本とかサイトとかありますでしょうか?

投稿: katshi | 2005.10.10 19:48

katshiさん、こんにちは。

まずは、これをご覧ください。
http://www.geocities.jp/ugushiku/doc1/flush.html

他にも進貢船を描いた各種屏風絵なども同様です。しかし、これを日の丸起源として学術に考察したものは存在しないのではないかと思います。

(トンデモ説と言われるでしょうが、私の推論はこの日の丸は元来は船首の目玉模様であり、これはつまり、目玉です。何の目かというと蛇の目です。三種の神器の鏡もたぶんあれは蛇の目です。平安時代の内地の絵巻などを見ると金の日の丸を見かけますが、蛇の目の特徴を出しています。蛇の目というのは、太陽の光を反射して光る、つまり、太陽の化身です。さらについでに言うと、三輪山は蛇がとぐろを巻いた山…ま、こうした研究はいつの日か研究されればいいなと思いますが、私が生きている限りではトンデモ説でしょう。)

投稿: finalvent | 2005.10.10 20:46

おぉ、これはまさに一目瞭然ですね。目から鱗のレスありがとうございました。

後段の「トンデモ説」の是非は凡才の私には分かりかねますが、リンク先に書かれていた、「武力によって薩摩は琉球に侵略し、その対外貿易権を奪い、そこからの収益を得るために、琉球王国の体制をそのまま温存させ、自己の影を隠ぺいする間接的な搾取方式をとっていた」。そ の た め、琉球の旗を偽装したという説は非常に説得的ですね。このことが一般的な知見になっていないのは、公的な歴史の意味とか差別の構造とかが関係しているのかも知れませんが、それはまた別の話ですね。。

今後もブログの更新を楽しみにしております。

投稿: katshi | 2005.10.10 21:37

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 野國總管甘藷伝来四〇〇年:

« ニカラグア近況 | トップページ | ウーメラで超音速小型機の飛行実験が成功 »