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2005.10.16

[書評]記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)

 このところ思うところあって「記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)」(参照)を読み返した。訳書は一九九八年に発売されたもので、もう七年も前になる。その後読み継がれているふうもないので事実上絶版になったようだが、アマゾンの古書では安価に手に入る。文庫で復刻されるかもしれない。

cover
記憶する心臓
ある心臓移植
患者の手記
 話は、実記の体裁をとっているが奇譚と言っていいだろう。クレア・シルヴィアというユダヤ人中年女性が脳死の若い男性の心臓と肺を受けて同時移植手術を受けたところ、術後に、移植元の若い男性の性格が乗り移ったり、また睡眠中の夢のなかでその若者にあったり、その若者の記憶が乗り移ったりしたというのだ。通常、移植手術を受けた人はもとの脳死者の情報を得ることができないが、彼女は夢で知った若者の名前を手がかりに本人を突き止め、その家族に出会うことになる。
 そんな話がありえるだろうか、臓器にそれ自身の記憶が宿り、移植手術者にまで持ち越されるということが…。現代の医学の常識では当然ありえない。
 この訳書の出版時期は日本で臓器移植法が施行されて一年というころで、脳死や臓器移植がまだ社会でよく論じられたものだ。同年には柳田邦男「犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日」 (参照)も文庫化された(元は一九九五年)。
 この訳書についても出版社はそうした社会の空気を読んで出したのものだろう。だが、この話題はその後日本社会からは立ち消えたとはいわないがトーンは変わってきた。一般向けの本で思いつくのは、たとえば、二〇〇〇年の「私は臓器を提供しない(新書y)」(参照)といった素人くさい談義やいかにも新書的な「脳死と臓器移植法(文春新書)」(参照)から、昨年の、ある意味でよりディテールな「脳死・臓器移植の本当の話(PHP新書)」(参照)の変化というものはあるだろう。
 あるいはこう問い返してもいい、「現在日本での脳死移植は何例あるか知ってますか?」と。答えは十五日時点で三十九例である。意外に多いとみるか、少ないとみるか、いずれにせよある種の思いが反響するだろうし、その先に、自分自身の脳死ということも想定せざるをえない。
 話を「記憶する心臓」に戻すが、読み返してみて、そうした奇譚の真偽ということから離れて、これは非常に面白い小説だった。考えてみれば、「ティモシー・アーチャーの転生(創元SF文庫)」(参照)や「ハプワース16、一九二四」(参照)などを真偽の水準で読むことはない。「記憶する心臓」についていえば、クレア・シルヴィアという当時四十九歳(今私の歳に近い)の女性が移植手術なくしては死という局面に向かうときの心理描写やその後の生活と自己省察などは面白く、フィリップ・ロスの小説を彷彿されるようなユダヤ人らしい独特の感性の描写もある。そのことと関連しているのかもしれないが、彼女の術前術後の男性遍歴や性についての行動などもいろいろ考えさせられた。日本では四十七歳の中村うさぎの突撃ルポがネタ化される空気があるが、米人女性の五十代にとって性はとても大きな問題でもある。そうした女性としてのある生々しい生き様が訳書に掲載されているクレアの写真への関心へと結びつく。そういえば、昨日献本を戴いた「アルファブロガー 11人の人気ブロガーが語る成功するウェブログの秘訣とインターネットのこれから」(参照)などでも「中の人」への視線の意味というのはあるのだろう。クレアについては、ネットを見ると、比較的現在に近いポートレート(参照)もあった。すっかりおちゃめなおばあさんという感じもする。
cover
心臓の暗号
 余談のような話ばかりになったが、それでも「臓器がそれ自身の記憶や意識を持つのか」という問いかけを度外視して読むことはできない。日本の、とくにネットの空気では単純にID論などを否定するように、それは「トンデモ」というだけで終わりそうだ。だから、この問題をある程度学術的な意識で論じたはずの「心臓の暗号」(参照)などでも、さらにトンデモ度が高いということになりかねないし、実際のところ、こちらの本はそう評価されてしかたないだろうと私も思う。
 それでも、私より年上の全共闘世代的な「本音を言えよ」的に問われるなら、世の中不思議なことはあるし、わからないこともあると私は答える。私も四十八歳まで生きてみて、気が付くと太宰治はもとより三島由紀夫の享年を越え、来年は坂口安吾の享年も越えるのだろう。漱石も超えるかもしれない。そして次第に老いつつある身体を抱えつつ生きてみて思うのは、身体のなかには、父祖の声があるという実感だ。自分の声のどこかしらは父の声に似ている。それでもって彼が私を呼んだように呼ぶことに禁忌のような畏れも感じる。孔子は六十を耳順と言った。耳に従うとは不思議な表現だが、その歳になると身体に宿る父祖の声に従うようになるからかもしれない。

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コメント

「と」です、と前置きしておきますが、自我の座が自律神経であれば、そして自律神経に記憶に相当するものがあるなら、それは医学的にありえるかも。

投稿: Sundaland | 2005.10.16 10:26

私が創造主なら、記憶や経験のバックアップを取らない生物は作りたくないなあ。頭にHDDが乗っかってるようなもんですからね。何らかの方法で各種の臓器(心臓含む)だかどっかに分散してバックアップを取り、脳に異常が発生した場合には心臓から血液を経由して復元する、これを毎日地味に行うような設計をしたいところです。

投稿: ぽこ | 2005.10.16 12:14

バックアップ機構があってもおかしくない感じしますけどね。
人間だけに。
読みたかったのに絶版なんですねえ。。。

投稿: 円蔵@DELL98MEakaうんこ | 2005.10.17 04:14

心臓の神経節が何らかの情報の記録もしている
という話でしたかね。
脳の記憶を司るのも神経細胞のネットワークですから、
神経細胞の集まるところには情報の記録もあるかも
と考えるのは門外漢の意見ですが、
とてもオカルティックな話とは思えません。

脳と言う形で中枢が一極集中していない生物も居ますし、

人間は積極的には利用していませんが、
血液の循環の役割は全身の筋肉によっても
サポートされていますしね(直接関係ないですけど)。

投稿: 無粋な人 | 2005.10.17 13:12


 臓器の大きさ・形状等の違いから、それ自体の動作の特性があると考えれば、例えばリズムが違うだろうと考えられる。神経系を通してのレスポンスも違うかもしれない。
 一方、記憶する脳の特性もあり、それにリズムを与える心拍が変わることによって、云ってみればホログラムにおける参照光のような役割を担うものが変わることによって、引き出される像が変わる、ということも考えられそうな、られなそうな……。

投稿: しみづ | 2005.10.18 11:28

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