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2005.10.31

天高くマラリアなどを思う秋

 今朝の読売新聞社説”[新型流感]「備えは大丈夫か再点検しよう」”(参照)をざっと読んだあと、変な感じがした。なんか、なんにも伝わってこないのである。もちろん表面的には危機感が表明されている。


 日本は大丈夫か。政府は、対策を再点検しておく必要がある。
 現在、最も心配されているのは「H5N1」という型の鳥インフルエンザウイルスだ。鳥同士だけでなく、人に感染することもある。病原性も強い。これまでに、ベトナムやタイ、インドネシアなどで60人以上が犠牲になっている。
 犠牲者の一部では、人同士の感染も確認されている。これが人から人に容易に感染する新型に変異すれば、数週間で世界に拡大する、と懸念されている。

 間違いではないのだけど、「日本は大丈夫か」の次に「政府は」と続くのか。政府の対応は必要だが、どうにも他人事感が漂う。
 読後しばしぼうっと窓の向こうの秋空を見ながら、そういえばこのところ卵かけご飯の話題をよく見かけるが、欧州では生卵を食べるのは禁止というニュースが日本に流れてこないようにも思う。例えばロイターだが”EU agency to advise against eating raw eggs”(参照)はこう伝えている。

The European Union's food safety agency will on Wednesday advise consumers to avoid raw eggs and raw poultry in order to prevent the spread of bird flu, an official at the watchdog said, confirming a newspaper report.

 鳥インフルエンザ予防というなら生卵が一番危険だ。もっとも、と私はまたぼけっと窓の向こうの空を見て、そんなこと日本で言う必要もないかと思う。確かに日本の状況では実際は問題ないと言っていい。むしろサルモネラ菌が問題なのだがそれとてもそれほど大きな問題でもない。
 そういえば、鳥インフルエンザ予防と限らないが、風邪の季節一番重要な予防は手を洗えということで、ざっと見たらUPI”Law would require students to wash hands”(参照)だがイリノイでは学生に手洗いをせよと規制するそうだ。余談だが日本人は手を洗うというと掌を洗うが、米人は甲を熱心に洗っている。皿洗いでもそうだが物を洗うときは裏面が重要ではある。
 とまたぼんやり空をうつろな気分で見ながら、日本にはマラリアはないなと思った。先日結核の話を「極東ブログ: 結核というトトロ」(参照)に書いたが、日本ではもうマラリアというのは聞かなくなった。よいことではあるのだろう。金鳥のサイトの”蚊を侮ることなかれ”(参照)を見ると、日本では一九五九年に消滅とある。沖縄も含めての日本だろうか。五七年生まれの私は復員兵がマラリアに苦しんでいた光景を思い出す。
 同サイトには現代世界のマラリアについてこう触れている。

マラリアという蚊が媒介する病気はご存じでしょうか? 21世紀になった現在も、熱帯を中心とした約100カ国(人口が約20億2000万人)で3~5億人が感染し、毎年、子供や妊婦等を中心とした150~270万人もの尊い命を奪っている恐ろしい病気です。しかし、感染者の大半は免疫を持っているため、全ての人が重い症状をあらわす訳ではありません。これらの国の栄養状態や、住居環境の改善が図られれば、死者も大きく減ると言われています。

 そういうことではある、というか、看過できないほどの死者数である。たしかに蚊はなぁというのとそういえばDEETの問題もあるんだが、ま、それは今日は触れない。
 今日の中国新聞には”マラリア対策に300億円 ゲイツ基金が寄付”(参照)の記事があった。

ソフトウエア世界最大手、米マイクロソフトのビル・ゲイツ会長夫妻が運営する「ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金」は30日、マラリアのワクチンや新薬の研究などのため、計2億5830万ドル(約300億円)を欧米の研究機関などに寄付すると発表した。

 寄付は今回が初めてではない。米国のマラリア撲滅への取り組みは外信を読んでいるとけっこう目立つ。日本も蚊遣などを多数アフリカに寄付している。ネットを見ていたら「蚊帳と安眠の あんみんドットコム 菊屋」(参照)という専門店に”あんみんハンカチ運動”(参照)というのがあった。もうちょっと詳細がわかるといいなとは思った。
 立ち入るといろいろ難しいのだが、マラリア撲滅には薬剤の問題もある。ざっとみたら、「熱帯病治療薬研究班」(参照)のサイトにクロロキン耐性の話があった(参照)。

 熱帯熱マラリア以外の急性期治療薬としては殆どの場合有効性を示すが、三日熱マラリアでは再燃による治療不成功例がパプアニューギニア、スマトラ、イリアンジャヤ、ミャンマー、バヌアツ、インド、ブラジルのアマゾン地域などで生じている。

 他に、「国境なき医師団」の「必須医薬品キャンペーン ~対象疾患~」(参照)にはけっこう詳しい解説がある。つまり、そういうことなんだよな、とちょっとお茶を濁す。

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2005.10.30

バーナンキ祭の後

 バーナンキ祭、正式には、バー・ナン・キ祭の後である。私のようなおっちょこちょいが出てくるのはよい頃合いである。後の祭りだとちょっとなにかとなんだが。それにおっちょこちょいは私だけではないかもしれない。政治オンチの聖人クルーグマンが政治混濁志向米ミンス党機関誌鴨ニューヨークタイムズに”Bernanke and the Bubble”(参照)というカネを払わないと読んじゃダメよ記事を出したが、それが違法転載されたり和訳されているものも、まだ祭でぇと勘違いした意気込みなのだろう。そんなの読むまでもないプリンストン大学の納豆ワークじゃんとか言うのは野暮すぎる。とはいえハイセンスなAA札を貼るのもなんだかな、と。

cover
リフレと金融政策
 というわけで、無料で読めるワシントンポスト”After Alan Greenspan”(参照)をまたーりとまで言わずともほげっとした気分で読んでみるかね。
 その前にバーナンキの紹介だが、Wikipediaを見ると…あれ、ない。へぇーないんだ(感動)。日本語には説明がないのか、なるほど。もちろん、英語のほうにはあるBen Bernanke(参照)である。ドビルパン的に呼ぶならベンバーナンキでしょう。ベンダサンでもあるし。そう、お名前はBen Shalom Bernankeというわけで特に解説は不要ですよね。どう見てもカルピスです。グリーンスパンもそうだったし…でもそのあたり解説している人いるかなとググって見たら、なし。え? 空気を嫁? そ、じゃ次行ってみよう。
 バーナンキの手短だが正式の経歴は白い家にある(参照)。日本語で比較的詳しいのは毎日新聞記事”次期議長のバーナンキ氏 就任直後に試練も”(参照)だろうか。

 ハーバード大経済学部を首席で卒業し、金融政策の研究で最先端を走るプリンストン大で経済学部長を務めた理論派。学究肌ながら、難解な経済用語を平易な言葉に翻訳できるのが持ち味だ。ブッシュ大統領は指名会見で「スピーチは洞察力が鋭く、明せきで分かりやすい」と称賛した。
 主張は大胆でも、人柄は穏やか。プリンストン大の同僚だったブラインダー元FRB副議長が「一緒に多くの論文を書き、昼食を何度もともにしたが、共和党員とは知らなかった」と振り返るように、政治色は薄い。大リーグファンで、球団を経営していたブッシュ大統領と野球談議に花を咲かせることもある。
 「米経済の繁栄と安定を持続するため全力を注ぎたい」。バーナンキ氏は指名会見で重責をかみ締めるように語った。
 家族は妻と娘2人。51歳。

 ということ。
 日本で一部祭になっているのは、「リフレと金融政策」(参照)の一般評(子母原心)あたりの空気からわかる。

 我が国ではインフレ目標政策というと、「インフレ下でインフレを抑制するために導入されたのであってデフレを阻止するために導入された前例がない」などという反対論がまかり通っているが(よくよく考えればこれはバカバカしい理屈である。だが「バカバカしい」と思わない奇妙な考えの持ち主の何と多いことか!)、本書はそのインフレ目標論研究者の、本家本元の論説である。読むべし。

 リフレ派、インタゲ派にはバーナンキが援軍のように見られているのだろう(棒読み)。彼は、アメリカ大恐慌研究の第一人者ということでもあるし、その応用はそのスジでは昭和恐慌についての新しい定説化しているふうでもある。
 金融政策としての主張は、いうまでもなく、インフレターゲット論(インタゲ)であり、彼のインタゲ理論は数学的にあまりにエレガントで人間を必要としないほどにまで洗練されてる。中央銀行の金利決定に役立つコンピューターを作ればいいのである。いやぁ、そうだったんだよね。ボーイングの飛行機の事故は人間が操縦するからであって、エアバスのように操縦はコンピューターにまかせるほうが安全なのである。そうよそうよ。
 悪い冗談言うな? そんなことはない。ワシントンポスト”Inflation: Man vs. Machine”(参照)でも伝えている。

Before Mr. Bernanke came to Washington -- and long before President Bush nominated him to run the Federal Reserve -- he proposed creating a machine to crank out the central bank's interest-rate decisions.

Ben S. Bernanke, then chairman of Princeton University's Economics Department, worked with a colleague in 2001 to design a mathematical model that could absorb economic information and recommend how to adjust short-term interest rates to keep both inflation and unemployment low.


 もっとも、今となっては、マジーこと言った俺?的な弁解もついているので、そのあたりに期待しようっていうことなんだが、ま、期待といってもね、心理学的なものではなくてというのが、冒頭触れた”After Alan Greenspan”なんかにも出ている。

In his academic writings, Mr. Bernanke has argued that central banks should set explicit inflation targets. But such targets may get in the way of other legitimate concerns; for example, heading off remote but potentially costly dangers, such as a drastic loss of confidence in the wake of a disaster.

 ご立派なインタゲ理論とかでも、現実にはまじーこともあるっしょ("get in the way of")、と。要するに危機への対応というのは理論通りにいかないでしょ、と。ボーイング的というか、ま。
 ようするに修羅場でのチカラが求められている。学歴なんかより"crisis manager"でなければならない。その点で、グリーンスパンがボルカーを継いだときに比べて、"novice"であるというのだ。

In such a research-based, quasi-academic institution as the Fed, Mr. Bernanke's intellectual horsepower confers the status needed to lead the institution successfully. But compared with Mr. Greenspan at the time of his appointment, or indeed with Mr. Greenspan's predecessor, Paul A. Volcker, Mr. Bernanke is a novice in policy circles and untested as a crisis manager. Aside from his three years at the Fed, he has served four months as chairman of Mr. Bush's Council of Economic Advisers; he has never had to manage the response to the default of a country, the collapse of the dollar or the implosion of a big hedge fund, all crises that may lie in his future. Given the shaky quality of the Bush economic team, that is a disturbing gap. Other Fed governors have more crisis experience, and Mr. Bernanke may need to rely on them.

 とはいえ、そのあたりの話はクサシ、というに近いというのが妥当な評価でもあるだろう。グリーンスパンが登場したときの市場の動向に比べれば、ワシントンポストも開口一番"YESTERDAY'S BIG economic story was the lack of a story: "というほど穏やかなものだった。
 祭はさておき。
 具体的に次はどう?というのをワシントンポストのスジから見ていくと結語のあたりの次の曖昧な記述(私には曖昧ということ)が気になる。

Equally, Mr. Bernanke has argued that central banks should not try to affect stock market and other asset prices, but there may be circumstances in which the Fed should try to do that.

 たぶん、「極東ブログ: 米国の住宅バブルが終わるらしい」(参照)でもふれた住宅バブルの問題なのだろう。目下の指標としては、「極東ブログ: グリーンスパンの難問(Greenspan's conundrum)」(参照)でもふれた長期金利の動向だろうか。

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2005.10.29

国連スキャンダルは終わったのか

 これで話が終わりというわけでもないが、ヴォルカー調査の終わりで一つの区切りはついたということで、「石油・食糧交換プログラム」を巡る国連不正についてもう一度触れておきたい。私にしてみれば、日本のメディアはこの問題を必死に隠蔽しようとしたかのように思えたものだ。
 話は二十八日付毎日新聞”イラク不正:「国連の腐敗とずさんな監査体制」浮き彫り”(参照)が詳しい。


1年半にわたる調査で浮き彫りになったのは、想像を超える「国連の腐敗とずさんな監査体制」だった。同プログラムを悪用する形で、国連経済制裁下、「旧フセイン政権が“延命”」した事実も露呈した。
 今回の報告書で、新たに英国のギャロウェー下院議員が「1800万バレル分以上の石油割り当てを受け、数百万ドルの水増し利益を得た」と指摘された。またフランスのメリミー元国連大使(91~95年)が「200万バレルの石油割り当てを受け、販売手数料として約16万5000ドル(約1900万円)を得た」とされたほか、ロシアの極右政治家ジリノフスキー氏が「7300万バレルの石油割り当てを受け、うち6200万バレル分の処分で水増し利益を得た」との指摘もあった。


いずれも「経済制裁反対や制裁早期解除に動いた」とされる人物ばかりで、今回の報告書は、アジズ・イラク元副首相が中心となり、「石油割り当て」という“武器”を利用し、66カ国2200以上の企業から18億ドル(約2070億円)の不当利益を得たからくりも白日の下にさらした。

 そのあたりがとりあえずの不正の実態であるが、一番重要なことはこの記事には書かれていない。
 二十八日付共同”ロシア企業の受注が最大 イラク石油疑惑、大物暗躍”(参照)にヒントがある。

 事業をめぐる不正事件を調べていた国連独立調査委員会(ボルカー委員長)の最終報告書が指摘した。ロシアは国連の対イラク経済制裁解除に前向きだったが、イラク側がこうした国に優先的に販売枠を割り当てていた実態が裏付けられた。

 今となってはこう言ってもそれほどトンデモ視もされないだろうが、イラク戦争反対の少なからぬ勢力がこの構図のなかにあった。そしてなにより国連が汚れていた。
 しかし、概ね終わった話のようにも見える。共同の表現を借りればこういうことか(参照)。

 独立調査委は昨年4月の安全保障理事会決議を受けて発足、「国連史上最大のスキャンダル」にメスを入れた活動はこれで終了した。

 国連史上最大のスキャンダルは終わったのか。
 私はまったくそう思わない。もっとひどい国連スキャンダルがあるではないか。と、そのとおりの標題の記事”The Worse U.N. Scandal”(参照)が二十四日付けのワシントンポストの社説にあった。

Nothing discredits the United Nations more than the continuing sexual abuse of women and girls by soldiers belonging to its international peacekeeping missions. And yet almost a year after shocking disclosures about such crimes in Congo, far too little has been done to end the culture of impunity, exploitation and sexual chauvinism that permits them to go on.

 国連のコンゴ監視団はコンゴの少女や女性に性的虐待を加えていた。すでにメディアでのニュースはネットにはないが、ブログでは「Blog for Japan」”国連コンゴ監視団が卵や牛乳と引き換えに性的虐待・買春”(参照)に当時の話が残っている。
 その後どうなったか。忘れた? ワシントンポストの記事は後日譚をこう語る。

But six months later there has been disappointingly little change in the attitudes that feed such abuse. That was the finding of a new report by Refugees International, an advocacy group that recently visited peacekeepers in Haiti and Liberia. A similar view comes from Prince Zeid, who rightly faults member states for not taking the issue seriously.

 つまり、特に変化なしという状態のままなのだ。そんなことがあっていいのだろうか。
 国際政治という視点で見れば、日本にとっても国連安保理改革ということが課題ではあるのだろう。しかし、私は、こういう問題が放置されているなら安保理改革なんてどうでもいいやとすら思う。

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2005.10.28

アフリカ貧困問題に関連する人口増加と不埒な余談

 最近アフリカの貧困に関するNHKの番組を見たが番組名を忘れた。私はテレビをリアルタイムに見ることはあまりない。HDRに貯まっているのを見ることが多く、特にどの番組というのも気にしていない。クローズアップ現代ではなかったように思う。話は凶作とエイズ禍に苦しむ人々というものだった。
 そういえば、クローズアップ現代でもこの話題は見たっけ、とサーチすると、七月四日”アフリカの貧困をどう救うのか”(参照)があり、確かにこれは見た記憶がある。


グローバル化による価格競争に巻き込まれ、アフリカの貧困化は進み、サハラ砂漠以南では、2人に1人が、1日1ドル以下という生活を強いられている。都市ではスラムが拡がり、エイズで親を失った「エイズ孤児」がストリートチルドレンとなっている。今回、先進各国はアフリカに対する債権放棄や、新たな資金援助を行う方針だが、こうした援助が貧困解消につながるかどうかは未知数だ。

 ホワイトバンドとかいう変なもののおかげで、今年はこの手の話になんだかこってり付き合ったような気がする。しかし、振り返ってみるとなんか変だなという感じはしていた。重要な論点を忘れているような気がしていた。
 とそんな矢先、二十四日付けロイター”High fertility hampers African anti-poverty drive”(参照)を読み、ああ、そうだっけなとしばし物思いに沈んだ。この記事に対応しているのか対応は別なのかわからないが、二十五日付で日本語のロイターに”人口増加がアフリカの貧困撲滅の障害に=英研究者チーム”(参照)が掲載された。日本語で読みやすいので引用する。

 ボツワナや南アフリカといった一部の国では人口はほぼ横ばいか減少傾向にあるが、その一方で、マリやソマリアなどでは、人口が今世紀半ばまでに現在の3倍にあたる4000万人に到達するとみられている。
 研究者の1人、ジョン・クレランド氏は、「人口急増が、ほとんどのアフリカ諸国で、貧困削減にとってエイズよりも深刻な障害となっている」と指摘している。

 話の要点はそういうことだ。が、なぜこんな端折った記事なのだろうか。先の英語の記事では、特徴的なアフリカの国を分けてこう説明していた。

In some African countries such as Botswana, Lesotho, South Africa, Swaziland and Zimbabwe, populations are expected to remain static or fall.

But the number of people living in Burkina Faso, Mali, Niger and Somalia could treble to 40 million each by the middle of this century.

In Uganda, the population could soar from 29 million to 127 million.


 ほっとけない世界の貧しさとかだったかなんだか忘れたが貧困のアフリカなどとしてメディアで取り上げらがちな国と実際に問題(多様ではあるが)を抱える国とは奇妙なずれがあるが、ここでもそういう印象を受ける。
 総合するとこうなるらしい。

In Asia and Latin America, family planning has reduced population growth and is credited with helping to improve prosperity. But since 1960 the number of Africans has risen from 225 million to 751 million. By 2050 it could hit 1.69 billion.

 アジアやラテン・アメリカでは人口増加と貧困の問題は収束しつつあるが、アフリカの人口増加は際立っているとのことだ。が、総人口で十七億増ということなのだろうか。
 そして、この段落の先で、貧困について、エイズ問題と人口増加は深く関係していると、研究者のジョン・クレランドは言う。

"Integration of programmes for HIV prevention and family planning could produce better outcomes than either endeavour could yield alone, thus, providing a promising solution to the problems of HIV/AIDS, high birth rates, and poverty that have affected so many African countries," the researchers added.

 ちなみに詳細は、ランセント”What would Malthus say about AIDS in Africa?”(参照・要登録)。
 話は以上で、以下はちょっと不埒とも受け止められるかもの雑談だが、ジョン・クレランド(John Cleland)っていう名前はマジかよとちょっと思った。というのは、多少この手の文学を囓った人なら、「ファニー・ヒル(河出文庫)」(参照)を連想するだろう。アマゾンを見たら、「新訳ファニー・ヒル宝島社文庫」(参照)なんてものもあった。釣りが可笑しい。

1750年ロンドンで地下出版され、
2世紀以上を経た今も、
いまだに発禁処分にされている国もある
世界的ベストセラー。

 書かれたのは1750年頃のロンドン。
 以後、250年以上にわたって世界中で読み継がれてきた古典エロチカの傑作中の傑作『ファニー・ヒル』。
 「男と女がやることなんてファニー・ヒルの昔から何も変わってないよ」と日常的に使われるほどの世界的ベストセラー。いまだなお、その性表現が輝きを放ち続ける人類最初のメジャーなエロチック小説が、読みやすくスピード感のある超現代語訳でここによみがえる。


 そういえば、サミュエル・ピープスって同時代だっけと確認したら百年違ってますね。ご関心あるかたは、「ピープス氏の秘められた日記―17世紀イギリス紳士の生活(岩波新書 黄版 206)」(参照)あたりから、「サミュエル・ピープスの日記 第1巻 1660年 (1)サミュエル・ピープスの日記」(参照)へどうぞ。
 ああ、連想が止まらない。「我が秘密の生涯(田村隆一訳)」(参照または参照)は十九世紀か。ローマは一日してならずだが、大英帝国のスケベは五百年くらいのものか。いやそれなら日本だって以下略。

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2005.10.27

普天間飛行場の移転交渉決着

 米海兵隊普天間飛行場の移転先についての日米交渉がとりあえず決着した。大きな話題である。BBCも”US agrees Okinawa air base move ”(参照)として伝えた。この話題に反対意見以外を言えばとばっちりを受けることになるのだろう。しかし、率直な私の印象を言えば、良かったと思う。
 人事異動を繰り返しその場しのぎの無責任な対応を繰り返してきた日本の官僚たちが、今回はよく尽力したものだ。普天間飛行場という市街地の中心に居座る危険極まりない爆弾のようなものは、なんとしても撤去することを第一義に考えなくてはならない。
 もちろん地元でも本土でも今回の決着への反対はあるし、反対の理由もスジが通らないものではない。端的なところ、沖縄に米海兵隊基地はまったく無用だからだ。
 軍拡を続ける中国に近い地域に米軍の空白は云々という意見もあるが、間違っている。海兵隊の実動には佐世保の揚陸艦を必要とするからだ。沖縄の海兵隊は北九州にに移したほうが効率がよい。グアムに置いてもオーストラリアに置いても、現代ではそれほど大きな差はでない。沖縄に海兵隊がいるのは、低賃金の若者軍人のリゾートの延長に熱帯地の訓練という名目がついているだけのことだ。訓練なら亜熱帯の沖縄を選ぶ必要もない。
 米軍基地の賛成派も反対派も四軍のことをわかってないことがあるが、沖縄で重要なのは嘉手納基地の空軍だけである。嘉手納基地の返還運動などというのはよほど名目的な反対を運動を除けば、存在しない。米国としても多大な被害を出した大東亜戦争の戦勝メモリアルの島を完全に明け渡すわけもないし、アジア地域の国々の本音は米軍が日本という国家の安全弁となることだ。名目の弁は隣接の地域につけておくがほうがいいし、実質の弁は首都東京を取り巻く米軍基地の存在からもわかるだろう。
 すでにこのブログでも触れたが普天間飛行場は当初嘉手納基地に統合されるものであり、今回のケースでもそのあたりが妥当な線だと見られていた。私もそうするしかないだろうと思っていた。問題の本質は米国内の空軍と海兵隊の争いにあると考えていたからだ。
 読みが外れたのは滑走路長が関係している。今回の移転でできる滑走路は一五二〇メートルになる(参照)。当初は、二〇〇〇メートルを超える滑走路を持つ海上基地を作るという、ありえない話がフカされていた。現行の普天間飛行場の滑走路は二七〇〇メートルあり、その規模から私はこの問題を考えていたので、シュワブ陸上案で一五〇〇メートルという案が出たとき驚いた。そこまで米国を譲歩させることができるのだろうか。そしてその延長で今回の妥協案ができた。
 今回の普天間飛行場移転問題で実際のところ一番大きな米軍の意図は、オスプレイの配備だろう。オスプレイについては六日付け沖縄タイムス社説”オスプレイ12年配備/普天間飛行場”(参照)が詳しい。


海兵隊が強化計画/CH46と入れ替え・ハワイより先に
 米海兵隊が、次期主力機となる垂直離着陸機「MV22オスプレイ」を二〇一二年に、普天間飛行場に配備する計画を進めていることが五日までに分かった。同飛行場に配備されている主力のCH46E中型ヘリ二十四機は一三年までに、すべて入れ替える。CH46を航続距離や速度、輸送能力で大幅に上回る同機の導入で在沖海兵隊航空部隊の機能は強化される。一方、安全性への不安もぬぐいきれず、地元の反発は必至。同飛行場の移設論議に影響を与えそうだ。

 「移設論議」と書いているももの二〇一二年まで現行の普天間飛行場が保持される前提で話が進んでいるあたりに、うちなーんちゅの複雑な思いを汲んでもらいたいのだが、端的に言えば、あんな市街地にオスプレイを配備できるわけがなく、米軍の尻にも火がついていた。
 オスプレイについては、沖縄への配備予定のMV-22は海兵隊型だが、同じくV-22の、空軍型CV-22について触れた「航空の現代」”再確認の飛行試験完了”(参照)が参考になるだろう。さらに、ブログ「大石英司の代替空港」”オスプレイ”(参照)の話が現状の本音に近いのではないか。「ネイビーファイル」というドラマについての言及だが。

 凄いですよね。ドラマにまでオスプレイの欠陥ネタが披露される。実際に番組中、オスプレイは、こんな問題を抱えていると、アナリストが暴露するシーンまである。
 実は私は先週、いろんな所でオスプレイの話をしました。最新の航空雑誌では、いかにもうまく行っているみたいなレポートもありますが、正直、私の感触では、「使い物にならんなぁ……」という評価です。
 ただ、一つオスプレイに関して、不幸なことは、最終的に海兵隊が侵攻作戦に用いるということで、もの凄くシビアなスペックを求められたわけです。それこそ、これ以上、過酷な条件下で使われることは無かろうというほどの要求が課せられた。ああいう新しい装備に関して、それはどうだったんだろうなぁ、と思いますね。これがスペースシャトルなら、一点ものということで、強引にものにできるだろうけれど、あれはちょっと無理があった。

 言うまでもなくこんなものがあの美しい海域を去来するとなれば、よほど軍事オタのジュゴンでもないかぎり、カヌチャの夕陽も索漠たるものになるのだろう……という言い方に他人事感があるかもしれない。もちろん悪い冗談だが、大半のうちなーんちゅにとって、あの地域は、やんばるでしょ、というふうに総括されてしまう地域でもある。
 今回の普天間飛行場移転に関連して各種の米軍施設が移転となる。具体的なまとめは朝日新聞”地元沖縄は蚊帳の外、政府説明これから 「普天間」合意”(参照)の図がわかりやすい。要するに、嘉手納基地以南から米軍基地が消えたかのようになる。多くの沖縄県民が暮らす中部、南部の風景からは大幅に米軍が消えることになる。
 同時に、その空白をどう開発していくのかという大きな課題が沖縄県民に突きつけられることになる。長い時間を要した天久や美浜の開発に等しい問題が起きることになる。
 政治的に割り切って見るなら、それがとてつもなく大きな問題だということを関係者は知っているはずだ。

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2005.10.26

高齢者虐待防止法案成立への雑感

 高齢者虐待防止法案が成立する見通しとなった。組織的犯罪処罰法改正のように見送りとなるかとも思われていたが、昨日の自民党厚生労働部会で了承された。背景は、朝日新聞”高齢者虐待防止法案 一転、成立へ”(参照)によると、「法案の先送りに対し、超党派での提出を目指してきた公明党や民主党、法案の早期成立を求める関係者から強い反発が出ていた」とのことだ。
 この法案について私がどう考えるかというと、ビミョーである。まず当の問題と法案を巡る政治の力関係が今ひとつわからないせいだ。
 一般的には、当の問題、高齢者虐待については、読売新聞の二十四日付記事”殴るける、年金使い込む…高齢者虐待防げ!”(参照)のように理解されていることだろう。


 殴るける、年金を無断で使うなどの高齢者への虐待。老後生活の安心を奪うそれらの行為の防止に取り組む自治体が増えている。「高齢者虐待防止法案」の立法化の動きもあり、実効性ある対策づくりへの期待が高まっている。

 総論だけ聞いた感じではよい法律ではないかと思われるのだが、反対勢力の言い分も考慮してみたい。見送りと見られていた十八日時点の朝日新聞記事”高齢者虐待防止法案、自民が提出見送り 民主は反発”(参照)では次のように書かれていた。

 法案は、高齢者に身体への暴行や放置、財産の不当処分などの虐待が行われている場合、市町村長による自宅などへの立ち入り調査ができるほか、施設職員らに通報義務を課すといった内容。
 同日の自民党厚生労働部会では、法案の対象が介護型の施設に限られていることや市町村の施設に首長が立ち入りする矛盾などに議論が集中し、とりまとめができなかった。

 ここが私にはよくわからないのだが、「法案の対象が介護型の施設に限られている」のなら「自宅などへの立ち入り調査」とは矛盾するように思える。私の無理解かもしれないが、自宅内で進行している高齢者虐待は今回の法律の範囲外なのではないか。別の言い方をすると、今回の法案は、きわめて施設をターゲットにしたものではないだろうか。
 同記事には、目が逝ってるよ民主党前原党首による次のコメントも掲載されていた。

 民主党の前原代表は同日、「自民党の施設を運営する方(議員)から横やりが入ったと聞いている」と述べた。民主党は今国会に単独で法案を提出する方針だ。

 実際、今回自民党厚生労働部会ですりあわせができたのは、共同だと思われるが四国新聞社の二十五日付け記事”虐待防止法成立の運び/介護施設に配慮し修正”(参照)にあるこれがポイントだったのだろう。

 自民、公明、民主3党は与野党案を一本化して国会に提出することで合意していたが、18日の自民党厚生労働部会で、介護施設などに不安があるとの理由で関係議員らが反対し、いったん提出が見送られた。反対を受け、施設職員の通報義務については「虚偽、過失によるものを除く」などと修正することになった。

 以上のスジをそれなりにまとめると、高齢者虐待防止法案は対象が施設に限定されているがゆえに施設関係者がびびって政治家のケツをツンとやっていたということだろう。常識的な判断だと思われるが、施設の実態はかなりやばいというかスレスレなのだろう。
 で、だ。そう見ると、高齢者虐待という点でこの法案や政治の対処というのは意味があるのだろうかと疑問になる。
 先の読売新聞の記事のこのエピソードが気になる。

 「息子がご飯をくれない」という母親からの訴えを聞いた近所の人が、民生委員に連絡。だが、息子は、母親がぼけていると主張して世話の放棄を認めない。間もなく体調を崩した母親が入院し、その際、息子が母親の年金を使い込んでいたことが発覚。話し合いの結果、年金を母親の手に取り戻すことができた。
 「家庭内の虐待は、密室で複雑な人間関係もあり、発見が難しい。虐待の知識がある保健師が日ごろから訪問し、問題に気づいたら、関係者と連携して対応する方法が有効では」と小池さんは提案する。

 高齢者虐待の問題は家庭という密室に本質があるのではないか。だとすると、今回の高齢者虐待防止法案はどれほどの意味があるのだろうか。
 朝日新聞記事”高齢者虐待の「加害者」、3割が息子 厚労省調査 ”(2004.4.20)では家庭内の高齢者虐待実態について医療経済研究機構の調査を紹介していた。

 厚労省が、医療経済研究機構(東京都千代田区)に調査を委託。訪問介護事業所など約1万7000カ所を対象に03年10月までの1年間に家庭内で家族が虐待したとみられる事例を調べた。このうち、在宅介護支援センターと居宅介護支援事業所のケアマネジャーが回答した65歳以上の1991人についてケースを分析した。
 1991人のうち、75歳以上85歳未満が43%を占めた。最も虐待が深刻だった時点でみると、2人に1人が「心身の健康に悪影響がある状態」で、「生命にかかわる危険な状態」も10人に1人いた。
 虐待している人で最も多いのは息子で32%。次いで、息子の妻が21%、高齢者本人の配偶者が20%(夫12%、妻8%)、娘が16%。

 これは家庭内の実態ということなので、施設内と家庭内がどのような比率になっているかについては触れていない。なので、ここからは家庭内の高齢者虐待のほうが問題だとはいえない。
 そのあたりの広い実態と法案の適用後の社会がどうなるのか見えてこない。
 家庭内の高齢者虐待についてはある意味で延長された家族の問題であり、日本社会では家族が崩壊しているのだから、そうした部分を社会つまり国家統制側に回して取り扱うという方向性が暗示されている、ということだろうか。

【追記(2005.10.28)】
 エントリアップ後、コメント欄にて「法案には家庭内虐待も含まれている」との情報をいただく。この点について重要だと思うので、追加インフォがあれば、この問題に関心のある人に便宜になると思う。もちろん、トラックバックでもいいし、そうして議論を広げるほうがいいと思う。

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2005.10.25

上司がアホだと寿命が縮む

 上司がアホだと寿命が縮む…そりゃそーだ。あったりまえだろ以下略みたいな話ではあるが、それに正確に言うとちょっと違うが、ま、大筋でそういうこったで済ますネタをド真面目に研究した成果が発表された。
 ネタもとはアーカイブ・オブ・インターナル・メディスンとかいう内科では世界的に権威のある医学誌である。標題を意訳すると「仕事に不公平がなければ雇用者の心臓病は減る」という感じか。オリジナルは”Justice at Work and Reduced Risk of Coronary Heart Disease Among Employees”(参照)ということで、 Coronary Heart Disease (CHD)は冠状動脈性心臓病だが、大別して冠動脈疾患(参照)。いわゆる心臓発作というか心筋梗塞ということで、気になるかたはメルクマニュアルの同項目(参照)をご覧あれ。

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上司は思いつきで
ものを言う
 いずれにせよ、不公平な職場にいると、恋の病でもないのに、むむむ胸が苦しいということになり、寿命も縮むわな。
 この話、欧米ではけっこうなネタになっており、ABCはロイター通信系で”Unfair boss could shorten your life: study”(参照)と伝えている。こちらは、「不公平な上司のおかげで寿命が縮む」とずばりというか気を引くように書いている。
 研究を行ったのはフィンランドの医学チームで研究対象となったのは、英国公務員男性六千四百四十二人。三十五歳から五十五歳まで。規模の大きいコホート研究ということで、本来はおちゃらけにするネタではない。公正な職場での疾患のリスクはというとロイターの記事では三〇パーセント低いとのこと。
 でもそれって所詮外国と考えがちだし、実際日本でやると違うかもだが、日本でも冠動脈疾患の患者は増えているので、それほど欧米と日本で違うというものでもないだろう。
 このエントリの標題では、不公正な職場というより、「上司がアホだと」としたが、日本人の職場の実感としてはそんなかなと思うがどうだろう。ちょっと違うか。
 話はずっこけるが、そういえば先日BMJ(British Medical Journal)だったかに、早期退職者の寿命は短いみたいな研究があった。あ、これだ。”Age at retirement and long term survival of an industrial population: prospective cohort study ”(参照)。シェル石油に勤めていた人の長期の調査で、ようするに早期退職者のほうが寿命が短かったというのだ。タイムズ紙には「きつい仕事で長生きさ、でも楽しいわけじゃない(Work harder, live longer - but don't expect to enjoy it)」(参照)みたいな記事もあった。そうなんだろうかね。こちらもコホート研究。
 ま、なんとなく職場と長生きについては思うこともあるのだが、とりあえずこうした研究をみるとちゃんとした職場で長く働くというのがよさげではある。

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2005.10.24

朝鮮半島有事における戦時作戦統制権が韓国へ返還される予定

 まだ結論は出ていないので読み筋を間違えているかもしれないが、朝鮮半島有事における戦時作戦統制権について、近未来に米軍から韓国軍への返還ということになりそうだ。もっとも実際の返還や体制整備には当然時間はかかる。
 二十一日にソウルで開催された、ラムズフェルド米国防長官と尹光雄韓国国防相を中心とする米韓軍事当局者が出席した第三十七回米韓年次安保協議(SCM)後の共同声明では、戦時作戦統制権の委譲協議について「適切に加速化」(appropriately accelerate)とした。日本語で読める記事としては二十一日付読売新聞”「戦時作戦統制権」返還を…韓国側、米国防長官に提案”(参照)などがあり、背景について次のように簡単にふれている。


 韓国は朝鮮戦争(1950~53年)ぼっ発の際、韓国軍に対する作戦統制権を米軍に移譲。94年に平時の作戦統制権が返還されたが、戦時の作戦統制権は今も在韓米軍司令官が兼任する米韓連合司令官が握っている。

 朝鮮戦争については、ネットを眺めるに、日本人の若者に大東亜戦争を知らないという層があるように、若い世代の韓国人も知らないという層がありそうだ。が、事実として、あらためて言及するまでもないが、朝鮮戦争は事実上停戦はしているものの、戦争が終結しているわけではない。ちなみにWikipedeiaの「朝鮮戦争」の項目(参照)を見たら、「結局、スターリン死後の1953年7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結した。」とあるが誤記である。
 Wikipediaの同項目には、関連して、「なお、韓国はその後、30数年の開発独裁(朴政権等)を経て民主化に成功したが、北朝鮮は今なお当時の臨戦態勢のまま、世襲による一党独裁(朝鮮労働党以外にも政党はあるものの分家のような存在)が続いている。」ともあり誤解を招きやすい表現だが、現実には、韓国もある意味で臨戦状態になっており、その象徴ともいえるのが、「国家保安法」の存在だ。
 国家保安法について、話題が斜めに流れるようだが、最近韓国で話題になっている。今年七月末姜禎求(カン・ジョング)東国大学教授がインターネット新聞のコラムで「統一戦争であった韓国戦争に米国が介入しなかったら、戦争は一か月で終わったはずであり、殺戮と破壊の悲劇は起こらなかったはず」と記し、さらに九月三十日ソウル大学シンポジウムで次のように発言したことなどで、北朝鮮の賞讃を禁じた国家保安法違反に問われた。”「韓米同盟は反民族的」…姜禎求教授発言で波紋 ”(参照)より。

 姜教授は、「韓米関係の批判的検討と新しい再編」と題したテーマ発表を通じて「韓米同盟と在韓米軍のため、韓半島は絶え間なく戦争の危機に追い込まれているので、韓米同盟を撤廃して在韓米軍を全面的に撤退させなければならない」と主張した。
 姜教授は1946年、米軍政による世論調査の結果、共産・社会主義に対する支持勢力が77%だった点を例に上げ、「共産主義であれ、アナーキズムであれ、当時の大多数の朝鮮人が希望することなら、当然その体制を選ぶのが当たり前だ」と主張した。

 こうした主張は言論の自由が確保されている日本国内では取り分けどうということもなく見られるもので、韓国でそれが国家保安法違反に問われることは日本人の感覚としては、過剰な統制に見える。が、先にもふれたように朝鮮半島は現状戦時下に置かれることを考慮すると単純に割り切れる問題ではない。
 国家保安法違反容疑を受けた姜禎求東国教授は、検察が取り調べのため身柄を拘束することになったが、そこで千正培(チョン・ジョンベ)法務部長官が異例の捜査指揮権発動し、在宅捜査に切り替わった。法務部長官の命令なので検察側も従わざるをえないのだが、金鍾彬(キム・ジョンビン)検事総長はこれに反意を示す形で辞任した。経緯は朝鮮日報”「韓米同盟は反民族的」…姜禎求教授発言で波紋 ”(参照)から読める。
 話を朝鮮半島有事における戦時作戦統制権に戻すと、姜禎求東国教授の意見は突出したかのように見えるが、ウリ党の有力者でもあり盧武鉉大統領の側近でもある千正培法務部長官がこれを保護しているという点で、盧武鉉政権の考え方に近いのだろう。
 戦時作戦統制権返還後の韓国の情勢の軍事面の変化について、朝鮮日報”【戦時作戦統制権の返還推進】連合司令部解体時は戦力に「穴」 ”(参照)では次のように指摘している。

 まず、戦時作戦統制権が韓国軍に返還されれば有事の際、韓米両国軍を指揮する韓米連合司令部は解体されるほかない。米軍が他国軍の指揮を受けた前例がほとんどないという点を考慮すれば、解体は不可欠といわれる。
 連合司令部の解体は、在韓米軍の大規模な撤退へとつながる可能性もある。韓米連合防衛態勢が、韓国軍主導に切り替わって、多数の在韓米軍が駐屯する名分が無くなるためだ。在韓米軍は2008年までにおよそ3万7000人から2万4500人余に削減される予定だが、戦時作戦統制権が返還されれば、それより遥かに少ない兵力が残る見通しだ。

 韓国軍がこれを契機により独自の軍事活動ができるということは日本にとって脅威となりうるのかもしれないが、それ以前に朝鮮半島からの米軍の撤退がなにをもたらすかということが日本には先決の課題となるだろう。

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2005.10.23

結核というトトロ

 もう一昔前になる。宮崎駿のアニメについてポストモダンだかなんだか知らないが七面倒臭い議論をしているやつが同席していた。話が「となりのトトロ」(参照)に及んだので、ちと聞いてみた。作中、お母さんの病気は何だか知っているか? 頓珍漢な応答だったので、結核だよ、とのみ答え、なんだこの馬鹿、という続きを呑み込んだ。「千と千尋の神隠し」(参照)が遊女というテーマを覆っているように、「となりのトトロ」は結核を覆った物語である。
 結核といえば、医事評論家水野肇「クスリ社会を生きる」(参照)が興味深い。プロローグは「昔の結核、今の結核」という題で始まる。


結核体験
 私は昭和一ケタ生まれである。この時代に生まれた人の共通項のひとつに「結核」がある。私もご多分に漏れず、肺門淋巴腺炎(結核の一種)になり、小学校の五年と六年は半分しか学校に行けなかった。

 その後、幸いに回復し中学校にも進学でき、その後再発はないと言う。しかし、そうした結核とつきあいというのが昭和という時代そのものでもあった。私の母も従姉妹を何人も結核で亡くした。
 その時代を水野はこう語る。

 結核が全盛をきわめていたのは、日本では紡績などの産業が起こり、多数の工場労働者が誕生した明治の中ごろ以降、大正、昭和にかけてで、日本では長い間、死因では結核が一位だった。”亡国病”といわれ、特に戦時中は、結核は淘汰すべき第一の目標とされた。私たちの年代では、小学校のとき「ツベルクリン反応」を強制され、ツベルクリンが陰性(マイナス)の生徒はBCGを接種された。このBCGの評価は戦後になって有効説と無効説が対立したが、戦時中の厚生省は自信を持っていたという。

 続く段落で水野はBCGをそれなりに評価しているが、その有効性という点ではない。

 それともうひとつ、このツベルクリン反応→BCG接種という考え方は、公衆衛生学(当時は衛生学)を基礎とした厚生行政の手法として日本に定着したということがある。このことは、当時としては先進的であったが、戦後行われた公衆衛生行政の大半は、この結核の手法の焼き直しであった。


 いずれにしても、厚生省技官OBと話をしてみると、古い人ほど結核への思い入れは深い。それというのも、医学部を出て内科の教室で結核を勉強して保健所に入り、そこから厚生技官になるというケースを辿った人も多く、自分の人生と結核を切り離すことができない人が多かった。保健所所長をしていても、結核の検診のフィルムを読影しないと飯がまずいという人さえいた。

 つまり、がん検診など戦後の公衆衛生行政はすべてこの結核対処の仮説の上に成り立っていた。水野は言わないが、つまり、それは日本経済の構造と同じように、戦時体制を継いだものだったのである。大蔵省・通産省と同じように厚生省も戦後の行政に勝利したと思いこんでいる点も同じである。
 昭和三十年代後半には、結核は過去の病気となっていった。昭和三十二年生まれの私はその変わりゆく風景の一端を知っている。
 結核はどのように克服されたのか。
 水野によれば、克服の理由について、厚生省、つまり現在の厚労省の官吏たちは、こうした体制に加え、ストレプトマイシンなどの特効薬ができたことによると考えている。しかし、水野はそれがまったく別の要因、つまり国民の栄養の向上によるものだという仮説を知り、それが真相であろうと確信していく。

多くの技官は、ツベルクリン反応→BCGの接種とストマイの発明によって結核に勝ったと思っていた。それも保健所を中心とした結核行政と結核予防会との総合戦略で勝ったのだと思っていた。そういう考えの持ち主が結核予防会に多くいた。そこへ「結核患者が激減した理由は食生活の改善だ」というルネ・デュポスの問題提起は、日本の結核学者や厚生省にとっては、真偽を確かめることより、”信じたくない”と思わせるものだったにちがいない。もしも食生活の改善が結核を追放したというなら、日本の厚生省がやってきた公衆衛生行政は全面否定されることになるからである。
 私は同様のデュポス博士の発言を当時の厚生技官の幹部二、三人にも話したが、一顧だにされなかった。それはそうかもしれない。デュポス博士の考え方は、自分の人生を否定さえるようなものであったというべきだろう。

 水野はそこまで語った。それ以上は語らない。武士の情けである。古い日本人の人情でもある。でも、真実はといえば、日本の厚生省がやってきた公衆衛生行政は全面否定されるということだ。もちろん、結核は治療できるようになった。死病ではなくなった。しかし、その公衆衛生行政はナンセンスだったのである。
 結核の風景を知る私の世代が死に絶えたとき、こうした物語はただ失敗の歴史となるだろう。しかし、それまでは亡霊は生き延びる。トトロは生き延びてしまうのだ。それどころか、ただ亡霊としてのみ再生するかもしれない。
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クスリ社会を生きる
エッセンシャル・ドラッグ
の時代
 戦後の栄養向上というのは、端的に言えばたんぱく質をしっかり摂ることだ。もっと端的に言えば、朝食に卵を一個食べるということでもある(アレルギー問題はとりあえず捨象)。だから、国家が富裕であるということは安価な卵が供給できるということだ。私はマクロ経済など知らないが、国家経済の運営者がそれを知っているか知ってないかだけは見極めるようにしている。
 しかし、歴史には逆行というのが常にある。裏トトロは復活するし、伝統和食が健康食だなどいう馬鹿げた話が横行する。それでも、まだまだ日本は富裕であり、栄養は行き渡る。卵だって高価ではない。
 とすると、長寿社会になる。今の老人というのは、吉本隆明のように大正生まれの気骨もいるが概ね昭和一桁になってきた。若い頃結核を患った水野肇の世代であり、つ・ま・り、その少なからぬ人が結核菌の保菌者である。平時はなんともないが、加齢やその他の疾患で身体が弱れば結核菌が活躍しはじめる。ということは菌が出るということだ。結核検査の対象の高齢者を増やせば結核統計を変えることもできるし、産経新聞などに結核予防会の爺さんたちがぷっと吹き込んで今朝の社説”結核予防法 廃止論は唐突すぎないか”(参照)みたいなものもできる。いや、厚労省はさすがにトトロの呪縛から離れようとしているのだ。
 結核についての最新の統計は見てないが、”平成15年結核発生動向調査年報集計結果(概況)”(参照)をみるかぎり、なにが危機なのか私はわからない。むしろ結核の問題は多剤耐性菌ではないのか。そうであればその対応は質的な転換も必要になる。でも、そういう方向性は見えない。
 この問題はこれ以上踏み込むべきではないようにも思うが、Wikipediaの「結核」の項目(参照)はやや混乱した印象をうけるが、関連してBCGの問題も指摘していた。

予防策として日本ではBCGが行われているが、アメリカでは行われていない。フランスなどのヨーロッパ諸国では継続して行われている国も、中止に到った国もある。BCGを行うことのメリットは、小児の結核性髄膜炎と粟粒結核の頻度を有意に減少させることにある(有効性80%)。しかし、成人の結核症を減少させるというエビデンスはない(有効性50%)。いっぽうデメリットとしては、ツベルクリン反応を陽性化させてしまうため結核の診断が遅れることにある。結核菌の頻度が低い地域ではBCGを行うデメリットが大きいと思われる。BCGを中止したスウェーデン、旧東ドイツ、チェコスロバキア等では、中止後小児結核が増加した。残念ながら結核菌の頻度が高い(特に家族間感染が多い)日本などの地域では今後もBCGは行われてゆくだろう。

 重要なのは、BCGによって実際に結核が集団感染したとき診断や感染経路の特定が難しくなることだ。そのデメリットが大きくクローズアップされるような事態にならないといいと思う。
 この関連事項だが、日本の子どもが先進国にいくとBCGのおかげで結核患者の待遇を受けることがある。”在外事務官情報 アメリカ合衆国(ニューヨーク)”(参照)より。

当地では、ツベルクリン反応陽性者は結核感染者として取り扱われます。しかし、邦人の中には去に受けたBCG接種の影響で反応が陽性となったと思われる方も稀ではなく、これら陽性者(結核感染による陽性かBCG接種による反応か)の取り扱いが度々問題となっています。

 この問題が気になる人は海外赴任医療Q&A<FamiNet””(参照)も見ておくといいだろう。

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2005.10.22

情熱の赤いバ■、そしてジェラシー♪

 世間では大して話題にもならない些細なことがネットの一部では盛り上がることがある。今回はというと、フジ産経グループのタブロイド紙夕刊フジの記事”朝日新聞、靖国問題で社内乱闘”(2005.10.21)だ。ネットではZAKZAK(参照)に掲載されている。話は、朝日新聞社内で、小泉首相の靖国神社参拝の世論調査をまとめるにあたり、二人の社員の意見の衝突から警察沙汰の暴力事件が起きたというのだ。


 朝日本社で「真昼の決闘」-。小泉純一郎首相(63)の靖国神社参拝をめぐり、朝日新聞社員2人が激論の末、むなぐらをつかみ殴りかかるなどの大ゲンカに発展。暴行を受けて負傷した社員が、社内から110番通報し、警視庁築地署の署員が駆けつける騒ぎとなっていたことが21日、発覚した。不祥事続きの朝日は夕刊フジの取材に事実関係を一部認めたものの、「被害が軽微」と詳細には口をつぐんでいる。社員の一人は全治10日間のけがを負っており、立派な傷害事件なのだが…。

 朝日新聞嫌いの人間にしてみると愉快なネタなのだが、現状のところ夕刊フジ以外からの情報はない。2ちゃんねるをちょっと覗いてみたら案の定祭っぽくなっているがざっと見るにタレコミ情報もない。吉本芸人築地をどりワッチャー勝Pがなんか言っているかなと、うざい中国製スパイウェアが仕掛けてあるサイトを覗いたが、スルーのようだ。
 夕刊フジの記事も読めばわかるが重要な事実関係についてはわざとぼかしているし、兄貴分の産経新聞もこのネタは食ってない。
 というわけで、まったくのデマではないけどフカシっぽい話といったところ。来週の新潮・文春のフォローがあるかが気になる。
 私にも追加のネタがあるわけでもない。が、真相や背景は多少気になるので愚考してみようというか愚考に適する話題である。
 まいどながら気になるのは事実関係である。夕刊フジしか現状ソースはない。

 築地署の調べによると、今月18日午前10時50分ごろ、「暴行された」と東京・築地にある朝日新聞東京本社から110番通報があった。
 通報したのは、同社総合研究本部世論調査部に所属する30代の男性社員で、同部に所属する40代男性社員と前日に小泉首相が靖国参拝したことの是非を問う世論調査の結果を話し合っていた。


 40代社員は激怒し、30代社員に体当たりや胸ぐらをつかむなどして暴行を加えた。さらに、30代社員が携帯電話で110番通報しようとしたところ、40代社員が携帯を奪い取り、真っ二つに破壊したという。一連の暴行で30代社員は腰に10日間のけがを負った。

 まず時系列を整理したいのだが、「前日に小泉首相が靖国参拝したことの是非を問う世論調査の結果を話し合っていた」というくだりについて、「前日」は「参拝した」にかかると読み、「話し合っていた」にはかからないと読むのが自然だろう。時系列整理にあたっては、十九日付け朝日新聞も参考にした。

  1. 十七日午前、小泉首相が靖国神社参拝。
  2. 十七日、朝日新聞社が世論調査を企図(準備不十分だったのではないか)。
  3. 十七日夜から十八日にかけて電話による世論調査を実施。
  4. 十八日朝、四十男と三十男が結果についての激論。
  5. 十八日朝、四十男が三十男に暴行。三十男、腰に10日間のけが。
  6. 十八日朝、三十男が携帯電話で110番通報しようとしたところ四十男がそれを奪い破壊。
  7. 十八日一〇時五〇分ごろ、被害の三十男が朝日新聞東京本社から110番通報。
  8. 十八日昼飯前、通報を受けた警視庁築地署の署員が朝日新聞社へ駆けつける。被害届はなし。
  9. 十八日午後から夜、朝日新聞社で、世論調査結果と解説記事を入稿。
  10. 十九日、朝日新聞朝刊に、世論調査結果と解説記事が掲載。
  11. 二十一日午前、事件発覚。
  12. 二十一日午前、夕刊フジ、朝日新聞社を取材。
  13. 二十一日、午前、夕刊フジの記事入稿。
  14. 二十一日、午後、夕刊フジに同事件の記事が掲載。

 不明な点はこうだ。

  • 口論の内容や対立のポジションはどうだったか。
  • 暴行の実態。なぜ腰に怪我なのか。
  • 三十男の携帯電話による110番通報は成功したか。あるいはその後の通報か。
  • 朝日新聞社内ではどのような対処をしたか。

 三十男と四十男のプロファイルはこう。

三十男
朝日新聞社総合研究本部世論調査部に所属。
四十男
政治部出身。朝日新聞社総合研究本部世論調査部に所属。「記者」から「部員」へ格落ち。後輩は「非常に温厚な人。酒を飲んでもそのようなことをする人ではない」と言う。

 まず私の感想。
 こうした会社内の暴力沙汰というのはごく普通のことだし、十年も会社員経験のある人なら一度か二度くらいは経験しているのではないか。例えば、情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)の”暴行を働き、辞職していたテレ朝政治部長”(参照)ではテレビ朝日で起きた暴行事件をこう記している。

 テレビ朝日のS前政治部長が昨年末、途中退社していたことが判明した。
 関係者の証言によれば、本当の退社理由は暴行を働いた結果というから穏やかではない。
「昨年10月、身内の酒の席で、時事通信社から転職して来た政治部の部下を、仲間の見ている前で、“生意気だ!”とぶん殴ったんです。もともと酒乱の気があったとはいえ、今日日、例え仲間内でも暴力沙汰は許されることではないですからね」


「N報道局長が仲介に入り、一度は慰留に務めたんです。しかし、殴られた部下が逆に、“こんな会社にいられるか!!”と辞職しようとし、いくら何でも被害者の方が辞職では示しがつかないということで、部長には表向きは早期退職に応じたというかたちを取って辞めてもらったんです」(前出・関係者)

 今回の朝日新聞社の事件に似ている構図もあるが、なにも「朝日」という共通項ではなく、こんなことは世間一般よくある普通のことだ。テレ朝暴力事件でもそうだが、こうしたケースでは警察通報などはしない。内部できちんともみ消すものだ。
 むしろ、朝日新聞内暴行事件で特記されるべきは、なぜ三十男が警察通報したのかという点にあり、ざっくばらんに言えば、それは社会人としてあまりに非常識。くどいが、大人なら、この事件を聞いて三十男を責める思いが去来するだろうが、昨今の世相では口にはしないだろう。私もしない。
 朝日新聞内暴行事件でそこがイレギュラーだったのはなぜか。警察を必要とするほど身の危険を感じたかといえば、常識的に考えてもそうではないだろう。逃げるなり、大声を出すなりして人を呼べばいい程度だ。しかし、実際はそうしなかった。三十男としては自分の正統性を朝日新聞社を越えて訴えたい、もみ消して欲しくない、という意思があったと解すべきだ。
 そのあたりの三十男の心情はテレ朝内暴行事件の「殴られた部下が逆に、“こんな会社にいられるか!!”と辞職しようと」に共通する。
 であればなおさら朝日新聞社としても、この部下を押さえ込むのが、事後ながら正しいマネージメントであり、恐らくそれはすでに成立しているのではないか。つまり、終わった問題だ。夕刊フジの出遅れリーク感などからも朝日新聞社と警察では手打ちが済んでいるのだろう。
 次に三十男と四十男の対立の構図はなんだったかが気になる。前提としては、常識としてだが、暴力に至るのはその背景に怨恨など感情の累積があるものだ。それに日頃対処できない朝日新聞社という会社の現状の問題はある。が、とりあえず当面の対立に絞りたい。
 夕刊フジの誘導的な記事や十九日付けの朝日新聞記事のトーンからしても、朝日新聞社の世論調査の結果は、朝日新聞の旧来の主張からすると気まずいものだった。なのでそこが争点であることは間違いないだろう。
 この調査結果を元に社会科学的に妥当な記事を書けば朝日新聞の主張の敗北を意味することになりかねない。とすれば、この構図では、三十男が妥当な解釈をしようとしたのに、四十男がそれを阻んだ、ということではあるだろう。逆上した四十男が朝日新聞政治部出身ということも、そう考える理由の一つにはなる。
 一連のリザルトとも言える十九日の記事も見ておこう。記事は”首相靖国参拝、賛否は二分 中韓との関係「心配」65%”(参照)としてネットでも現状閲覧できる。紙面では一面掲載、トップ記事であった。

小泉首相が靖国神社を参拝した直後の17日夜から18日にかけて、朝日新聞社は緊急の全国世論調査(電話)を実施した。首相が参拝したことを「よかった」とする人は42%、「参拝するべきではなかった」は41%で、賛否が二分された。参拝に対し中国、韓国は反発を強めているが、両国との関係悪化を「大いに」「ある程度」心配している人は合わせて65%に上った。両国の反発を政府が「重く受け止めるべきだ」とした人も53%いた。参拝の評価が割れる一方で、周辺国への配慮を重視する意見の強いことが改めて示された。

 記事に明白な嘘はないものの、大学生の学部レベルのレポートですらボツでしょのお笑いもの、というか、現実認識のゆがみを風流として楽しむしかないシロモノなのだが、このホゲな味わいは、質問と回答の内実があると深まる。
 というわけで、四面に掲載された質問と回答の概要を以下に転載する。朝日新聞(2005.10.19)13版4面より。

質問と回答
(数字は%。小数点以下は四捨五入。質問文と回答は一部省略。かっこ内は9月12日、13日の調査結果)
◆小泉内閣を支持しますか。支持しませんか。
 支持する 55(55)
 支持しない 30(30)
◆いま、どの政党を支持していますか。
 自民党 42(43)
 民主党 16(19)
 公明党 4(5)
 共産党 2(3)
 社民党 2(2)
 国民新党 0(0)
 新党日本 0(0)
 自由連合 0(0)
 その他の政党 0(1)
 支持政党なし 30(23)
 答えない・わからない 4(4)
◆小泉首相は17日、靖国神社に参拝しました。あなたは、首相が参拝したことはよかったと思いますか。参拝するべきではなかったと思いますか。
 参拝したことはよかった 42
 参拝するべきではなかった 41
◇(「参拝したことはよかった」と答えた42%の人に)どういうわけで、そう思いますか。(選択肢から一つ選ぶ=択一)
 戦死者への慰霊になるから 16
 平和の誓いになるから 7
 小泉首相の信念だから 8
 外国に言われてやめるのはおかしいから 10
◇(「参拝したことはよかった」と答えた42%の人に)小泉首相は今回、本殿にはあがらないで手前の拝殿で礼をしてさい銭を投じ、玉串料の代わりに払ってきた献花料も払いませんでした。あなたは、これまでより簡略化した参拝の仕方を評価しますか。評価しませんか。
 評価する 27
 評価しない 9
◇(「参拝するべきでなかった」と答えた41%の人に)どういうわけでそう思いますか(択一)
 軍国主義の美化になるから 2
 憲法が禁止する宗教的活動にあたるから 4
 A級戦犯がまつられているから 5
 周辺諸国への配慮が必要だから 28
◆小泉首相は参拝について「二度と戦争はしない決意を表明した」「総理大臣としてではなく、ひとりの国民として参拝した」などと説明しています。この説明に納得できますか。納得できませんか。
 納得できる 46
 納得できない 45
◆小泉首相の今回の靖国参拝に対し、中国や韓国は反発を強めています。政府は中国や韓国の反発を重く受け止めるべきだと思いますか。それほどのことではないと思いますか。
 重く受け止めるべきだ 53
 それほどのことではない 35
◆今回の靖国参拝で、中国や韓国との関係が悪化することを、どの程度心配していますか。(択一)
 大いに心配している 17
 ある程度心配している 48
 あまり心配していない 28
 全く心配していない 6
◆過去の戦争で亡くなった人々を追悼するために、宗教とかかわりのない新たな国立の施設をつくるという考えに、賛成ですか。反対ですか。
 賛成 51
 反対 28

調査方法 17、18の両日、全国の有権者を対象に「朝日RDD」方式で電話調査をした。対象者の選び方は無作為3段抽出法。有効回答数は978人。回答率は50%。

cover
「社会調査」のウソ
リサーチ・リテラシー
のすすめ
 世論調査で一番の基本となる有効回答数と回答率だが、意外なほど少ないという印象を私はもった。他は、常識のある人なら読めばわかるが、誘導のテンコモリ。しかもそれがかなり誤爆しているところに風情がある。
 いろいろ解釈もできるが、なんというか、出来の悪いレポートに評を書くのも野暮ではあるので省略。
 それでも、ネットやブログなので熱く論じられる「憲法が禁止する宗教的活動」「A級戦犯合祀」「軍国主義の美化」といった諸点は、この世論調査を真に受けても、国民の一割程度。なので、そんな話題は、つまらないな、と言ってもいい時代になった。
 反面、普通の日本人の多くには、特定アジアへの心配りも忘れずにという優しい心根があることもわかる。そうした妥協点からすれば、ポスト小泉では、非宗教の国立追悼施設が落とし所ということなのだろう。

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2005.10.21

ベネズエラ近況

 ベネズエラについて昨今気になる話題のメモ。というわけで、突っ込むとなにかと複雑なベネズエラなので、さくさくと話を進める。話題の中心は、ベネズエラがいわゆる「核の平和利用」とやらに乗り出し、原子力発電所建設を進めようとしていることだ。私が最初に目にしたのは、今月の初め。読売新聞十月七日付けの記事”チャベス・ベネズエラ大統領、また米挑発 核の平和利用に関心、イラン訪問意向”を見るとこうある。


 2日に放映された国営テレビの番組で明らかにしたもので、「ブラジルやアルゼンチンが進める核の研究は正当だ。我々も平和利用を目的とした核エネルギー研究に着手しつつある」と述べた。核開発への関心がどこまであるのか真意は不明だが、ブッシュ米大統領をさらに刺激するのは間違いない。

 この時点では、チャベス大統領にありがちなフカシかなという感じだったが、その後の流れを見ているとそうとも言えないようだ。十七日付AFP”ベネズエラが核技術取得模索=数カ国に接触―米紙”(参照)ではワシントンポストの孫引きでこう伝えた。

【ワシントン17日】米紙ワシントン・タイムズは、ベネズエラ政府が核技術を取得するため、数カ国と接触したと報じた。米政府当局者は、ベネズエラのチャベス大統領(写真)が核兵器開発計画に乗り出す可能性もあるとして、懸念を強めている。

 フカシとか洒落のレベルではないようだ。同記事では、チャベス大統領を次のように的確に表現してもいる。

チャベス大統領は反米スローガンを公然と唱えるポピュリストで、軍備の増強を図っている。米当局者は「チャベスは何でもほしがる。そのための資金も持っている。新しい戦闘機も、人工衛星もほしがっている」と述べた。

 資金というのはオイルマネーだ。石油価格高騰のおかげである。面白いことにと言っていいのか、ご近所ということもあってベネズエラの総石油輸出量の約六十五%は米国向け。米国側にするとベネズエラからの石油が総石油輸入量の約十五%にもなる。数値上は、日本、朝鮮、中国のように仲良くやってくれだが、難問解決!ご近所の底力とはいかない。九月末には、米国が「ベネズエラ侵攻」を計画しているというデマのような変なニュースもあった。ちなみに九月三十日付け”米大使が反論、ベネズエラ大統領主張の侵攻計画で”(参照)とか。

ベネズエラ・カラカス――反米姿勢を強める南米ベネズエラのチャベス大統領が9月中旬、米テレビとの会見で、米国が「ベネズエラ侵攻」を計画していることを示す「文書の証拠」を入手している、と主張した問題で、同国駐在のウィリアム・ブラウンフィールド米大使は29日、そのような計画は存在しない、と反論した。記者団に語った。

 妄想じみているとか思うのはチャベス大統領と南米の情熱を知らない日本人ということで、彼は独裁の金ちゃんとも仲良くしている。九月三十日付け読売新聞”ベネズエラ、北朝鮮と関係強化合意 米との対決姿勢エスカレート”によればこうだ。

 世界第5の石油輸出国・ベネズエラのイサラ外務次官は28日、同国を訪問中の北朝鮮の楊亨燮(ヤンヒョンソプ)・最高人民会議常任副委員長と会談し、大使館の相互開設など関係強化を目指すことで合意した。また、エネルギー支援などについても協議した。
 ベネズエラのチャベス大統領は、ブッシュ米政権への対決姿勢を先鋭化させており、実際に原油支援などに踏み切り、北朝鮮と接近する事態となれば、ブッシュ大統領の神経をさらに逆なですることは間違いない。
 ベネズエラからの報道によると、楊副委員長は会談後、「大使館の開設は両国関係をさらに強固とするだろう」と述べた。エネルギー協力にも関心を示した。また、ベネズエラは来年1月に平壌に大使館を開設する方針という。

 北朝鮮とベネズエラ、それとイランもなのだが、この三人組仲良く「熊x栗x淳也のないしょ話」(参照)のように目立ったところでないしょ話を始めつつある。話題は、出会い系の話といった仲良きことは美しきかなというのではなく、もっとハードに核問題に直結していきそうだ。
 九日付けロイター”Venezuela wants Argentine nuclear reactor - paper”(参照)というふうに具体的なフカシのようなものも見え始めた。

Venezuela has asked to buy a nuclear reactor from Argentina in a request being handled like a "hot potato" in Buenos Aires because of leftist President Hugo Chavez's clashes with Washington, a newspaper reported on Sunday.

 こうしたチャベス大統領の情熱の行方をどう捕らえるべきか。ここは彼らの平和志向という言葉を信じて温かく見守っていこうというのが平和を愛する日本人であるみたいなボケを朝Pが言い出す…わきゃないよなと思うでしょ。言ってら。四日付け”【経済】石油と医者の交換も 山田 厚史(編集委員)”(参照)。

 「ベネズエラとキューバが石油と医者を交換しているのを知ってる?」
 中南米から飛んできた友人が原油問題を語りながらそう言った。
 ベネズエラは中南米最大の産油国。最大の輸出相手は米国だが、反米姿勢を強めているチャベス大統領はキューバのカストロ首相との連携を深めている。原油や石油製品を低価格でキューバに提供し、見返りに医師を派遣してもらっている、という。
 「米国メディアはチャベスを悪く書くけど、国民にはすごく人気がある」
 ベルギー人の彼は米国からの風圧に立ち向かう中南米の指導者に同情的だ。
 石油は紛争のタネや金儲(もう)けの道具になりがちだが、ベネズエラでは貧者のためにも使われているという。

 この段落の先も面白い怪電波を出しているが、世界情勢を読み解く上ではただのゴミなので、次行ってみよう、だが。さて、こうした事態をどう考えるか。
 というまでもなく、チャベス大統領下の原発なんて冗談で終わりにしたいもの。十七日付けフィナンシャルタイムズ”Countering Chavismo in a cool manner”(参照)が的確だ。

For a country with the largest oil reserves in the western hemisphere, it surely makes little sense to invest money in capital intensive nuclear power. Understandably therefore, the interest of Venezuela's President Hugo Chavez in acquiring nuclear technology - expressed most recently at last week's Ibero-American summit in Spain - will alarm his neighbours.

 "it surely makes little sense "は、「ってのはつまらん洒落だ」と訳したいところ。だが、近隣諸国が警戒するのも当然だ、と。
 で、この問題、国際社会はどう対応すべきか。

In the meantime, this is a time for patient diplomacy and low-key persuasion rather than empty threats. Wild verbal attacks favoured by the US president's more rightwing supporters such as Pat Robertson, the evangelical preacher, simply play into the Venezuelan leader's hands, confirming his anti-gringo credentials among supporters and boosting his image in a region where the US administration is unpopular. Mr Chavez thrives on confrontation. The US should not help him.

 つまり、 patient diplomacy(忍耐強い外交)が重要だということ。同じことは日本の類似の状況についても言えることであるが……ちょっとそう簡単に総括できない問題もある。

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2005.10.20

アスベスト問題を巡って その三 (米国社会と比較)

 アスベスト問題についてもう一エントリ続けたい。話は、この問題についての米国社会との対比についてだ。
 まず、昨日の「極東ブログ: アスベスト問題を巡って その二 (考える会/白石綿)」(参照)に関連するのだが、日本政府はこの問題をどう見ていたかを簡単に振り返りたい。話のきっかけとしてだが、読売新聞八月二十七日社説”アスベスト 行政の責任を避けた政府検証”を、やや長めになるが引用したい。ここでは、次のように政府の対応が批判された。


 じん肺や中皮腫(ちゅうひしゅ)の原因になるとして問題となっているアスベスト(石綿)について、各省庁はこれまで、的確に対応してきたのかどうか。その検証結果を政府が公表した。
 厚生労働省、環境省、経済産業省などがそれぞれ独自に検証した。合わせて百数十ページにも及ぶ内容である。
 政府は「関係省庁の連携は必ずしも十分ではなく、反省の余地がある」と結論づけている。だが、具体的な「反省」例はほとんどなく、大半は、過去の省庁別の対策を列挙したにすぎない。
 これでは、政府・行政責任の検証と言えないのではないか。
 国際労働機関(ILO)と世界保健機関(WHO)がアスベストの発がん性を指摘したのは、1972年だ。今回の検証によると、政府もこの当時、危険性を認識していた。
 旧労働省は、粉じんを発生しやすい石綿の吹きつけ作業や、有害性の高い青石綿の使用を禁止するなど、対策は取ってきた。しかし、アスベストの使用や製造を、一部の例外を除き全面禁止としたのは昨年10月のことだ。

 この批判は的を得ているだろうか。それを確認するには、ソースにあたってみるといい。ソースは”アスベスト問題に係る政府の対策について:平成17年8月26日(金)アスベスト問題に関する関係閣僚会合(第2回)資料”(参照)にある。
 私はざっと目を通しただけなのだが、読売新聞が政府に反省はないとしているのとは逆に、これまでの対応はやむを得ないものではなかったかという印象を持った。特に、ILOとWHOへの読売新聞の言及は、「極東ブログ: アスベスト問題を巡って その二 (考える会/白石綿)」(参照)でも触れたが、アスベストの種類についての考察が含まれていない点、本当に読売新聞が政府資料を検討したのか疑わしくも思う。なお、こうした態度は読売新聞に限定されるわけではない。
 政府資料を読みながら私が思ったのは、アスベストとして一般化される問題よりも、クリソタイル(chrysotile:白石綿)と産業に必要とされるその代替品の有毒性の問題のほうだ。なお、誤解なきように付言するのだが、私はクリソタイルが規制されるべきではないと言いたいわけではない。が、いずれその代替品が必要になるならその安全性が十分に問われていないように見えるのは不思議には思う。むしろ、今年に入ってからクボタの対応による一連の話題では、クボタ側での代替品への対応が背景になっているのではないかという疑念も若干持つ(それでクボタを責めるわけではないのでその点も誤解無きよう)。
 話を戻して、アスベスト問題は日本に限定されないのだから、「極東ブログ: アスベスト問題を巡って」(参照)でも少し触れたが、米国社会との対比について触れておきたい。といって話のネタもとは十八日のNHKラジオの話のメモによる。
 こういうことらしい。まず、米国ではアスベスト被害について連邦政府の推定は存在せず、非営利団体の推定のみがあるとのこと。当然推定は訴訟に関係しており、一九七〇年代以降七十三万人の被害者が八千四百社の企業に訴訟に及んだ。結果、企業がこの訴訟にかけた費用が七百億ドル(約八兆円)。内、賠償金や和解金などで被害側が得た額はその七割で、残りは弁護士費用に消えた。
 裁判への出費や裁判に関連する信頼の低下から株価下落によって破綻した企業数は一九七六年以降全米で七十社以上に及ぶ。
 被害者への実際の支給は、信託基金を介するらしく、実際に被害者が得るのは、要求の八割程度がカットされた残りの二割ほど。より支給を得るのに弁護士の能力が鍵になるのは、被害の因果関係を明確にするのが難しいためだ。転職などが多い被害者のケースはできるだけ多くの企業を対象に訴訟を起こすほうがよいので、効率化のために訴訟の団体も必要になる。日本とは異なり、補償について政府が関わるべきだとする社会的な動向も展開もない。
 被害者としても、国家(連邦政府)が関与し、国民に税負担をしいることを避ける傾向がある。企業も支援を国家(連邦政府)に求める動きはない。しかし、こうした状況は被害者救済という点で十分ではないため、現在国家(連邦政府)に十五兆円補償基金を求める法案が議会に上がっている。
 が、これも公費負担ではなく連邦政府からの支援はないと明記され、カネの出所は企業負担となる。なお、米国ではクリソタイル禁止の規制はなく、その検討もない。禁止の規制自体が一九九一に裁判所によって否定されている。
 以上が話のメモだが、公費負担による救済を志向する日本とはかなり異なる。
 米国の状況について、言い方は悪いが、なにが問題を推進しているかというと、被害の問題もだが、弁護士の存在だろう。実際彼らがここから大きな仕事を得ている。
 顧みて、日本はどうか。被害者救済をこの問題構図から抜いたとき、なにかが残るだろうか。
 何かをほのめかしたいわけではないが、気にはなる。
 そうした関心の背景は、例えば、日本国内の厚労省による結核対応や報道への疑念も関連している。

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2005.10.19

アスベスト問題を巡って その二 (考える会/白石綿)

 アスベストについて「極東ブログ: アスベスト問題を巡って(2005.07.17)」(参照)を書いてからなんとなく気になっていることがあり、考えもまとまっていないのだが、とりあえず書いておこう。とっかかりはこの問題の背景についてだ。前回は、七月の時点だが、こう書いた。


 アスベスト被害の問題が急速にメディアで取り上げられるようになった。被害者救済という点ではよいことなのだろうと思う。C型肝炎の問題でもそうだったが、識者は現状や予想について警鐘も鳴らしていたのだろうが、それが一般の社会問題に取り上げられるに至るには、なにか別の経路を取ることもある。今回のアスベスト騒ぎでもそのあたりが気になっていたのだが、ざっと見た限り、特に気にすべきこともなさそうだ。

 アスベスト問題が今年に入って急に社会問題に浮上する経路について、まったく気にすべきことがなかったかというと、そうでもない。ただ、よくわからないというのと、不用意に書くべきではないだろうなという思いがあった。その後、ネットやブログを見回してみてもそれほどアスベスト問題の背景の考察は見かけないように思える。それならそれでもいいのだが。
 試しに「アスベスト」をグーグルの"I'm Feeling Lucky"ボタンで検索すると、なんとも素人くさいデザインの「アスベストについて考える」(参照)というホームページが出てくる(MIDIのオルゴールが流れるには閉口した)。プロファイルもアバウトもないので一見して誰が運営しているのかわからない。「アスベストについて考える会」ということらしいのだが、この会はなんなのだろうかと疑問が湧く。
 通常通りにグーグルで「アスベスト」を検索すると次点は厚労省の「アスベスト(石綿)情報」(参照)となっているのだが、どうしたグーグル先生? 気分でも悪いのか。なぜ「アスベストについて考える会」が厚労省サイトより上位なのだろうか。SEO的な処理があるのかざっと見たがわからなかった。
 「アスベストについて考える会」とはなにかが気になるのでいくつか調べてみると、読売新聞(2005.07.21)”[論点]アスベスト災害 「労働法」超え対策急げ 大内加寿子(寄稿)”に次のようにあった。

 ◇おおうち・かずこ アスベストについて考える会 97年からアスベスト問題のホームページを開設する。「石綿対策全国連絡会議」運営委員。

 つまり、実体は「石綿対策全国連絡会議」ということだろう。なので、「石綿対策全国連絡会議」を調べると、読売新聞(2005.07.16)”石綿業界が規制に抵抗 92年の法案提出時に社会党などへ文書 大阪夕刊”に次のようにあった。

 石綿被害が表面化してきた1987年に「石綿対策全国連絡会議」が発足し、同会議は医師や有識者の意見を聞きながら「アスベスト規制法案」の国会提出を目指した。
 同連絡会議の事務局長だった伊藤彰信・全日本港湾労働組合書記長らによると、92年に社会党を中心とした超党派で法案の原案を作り、提出前の同4月ごろ、関係者からヒアリングしたが、石綿協会側は「健康への影響について誤解されている。

 また、読売新聞(1990.01.21)”石綿対策全国連絡会議”では次のようにあった。

 アスベスト(石綿)による健康破壊、環境破壊をなくそうと、1987年11月、総評の呼びかけで結成された。労働組合、市民団体など26団体で構成。アスベストを使用する機会の多い全港湾、全建総連といった労働組合、アスベスト110番で市民相談に応じているアスベスト根絶ネットワーク、日本消費者連盟、全国じん肺弁護団などが加わっている。

 短絡すると、「アスベストについて考える会」は総評が元になっていた。さすがに今となっては総評について注釈したほうがいいだろう。Wikipediaの項目(参照)にはこうある。

 日本労働組合総評議会(にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい)は、日本の労働組合中央組織。 略称、総評(そうひょう)。
 日本最大の全国的労働組合中央組織だった。 第二次世界大戦後、占領軍・連合国軍最高司令官総司令部の保護と育成の下に再出発した日本の労働運動は,当時の経済・社会情勢を背景に激しく、かつ政治的色彩の濃いものであった。


 1983年(昭和58年)には49単産、451万人、全組織労働者の36%が総評傘下にあり、その約7割は官公労働者だった。 毎年、中立労連とともに春闘共闘会議を組織し、春闘を賃金決定機構として定着させた。
 1987年に発足した全日本民間労働組合連合会(全民労連。後の日本労働組合総連合会(連合))に合流するため、1989年11月に解散した。

 これも短絡すると、総評は官公労働者が中心の労働団体で現在の連合(参照)に統合されている。
 話を戻してなぜ総評が一九八七年にアスベストを問題としたかというと、その前年にILO(国際労働機関)の条約があったからだ。地域医療研究会というサイトの”静かな時限爆弾”(参照)が詳しい。

● アスベスト条約の批准
今から約20年前、1986年にILOがアスベスト条約を作っています。青石綿と吹き付けの全面禁止、他の石綿は可能な限り、禁止か代替製品を促進するようにと。しかし日本はこの条約を批准しなかったのです。


● 石綿対策全国連絡会議結成
日本では、ILO条約の翌年、1987年に労働組合(総評)が市民団体に呼びかけて、石綿対策全国連絡会議が結成されました。

 以上が、「アスベストについて考える会」の由来に関連するファクツなのだが、気になるのは、当初の問題は「青石綿と吹き付けの全面禁止、他の石綿は可能な限り、禁止か代替製品を促進するよう」という点だ。つまり、禁止対象は青石綿に限定され、他の石綿(アスベスト)についてはそれほど厳しい規制は求められていない。
 ここでアスベスト(石綿)の種類だが、Wikipediaでは次のように分類している(参照)。なお、引用には英語名を私が補足した。

クリソタイル(chrysotile:白石綿、温石綿)
 クリソタイルの組成式は Mg6Si4O10(OH)8。クリソタイルから作られる石綿を温石綿と呼ぶ。日本では2004年10月、使用が禁止。しかし、一部の用途に限っては、2006年までその使用は認められている。2008年までには全面禁止される予定。
クロシドライト(crocidolite:青石綿)
 1995年より使用も製造も禁止。
アモサイト(amosite:茶石綿)
 1995年より使用も製造も禁止。
アンソフィライト(anthophyllite:直閃石綿)
トレモライト(tremolite:透角閃石綿)
アクチノライト(Actinolite:陽起石綿)

 内、アンソフィライト、トレモライト、アクチノライトは稀少なので産業には応用さていない。産業で利用されたのは、クリソタイル(白石綿)、クロシドライト(青石綿)、アモサイト(茶石綿)であり、危険性が特に問題視されるのがクロシドライト(青石綿)である。
 日本はアスベストの多くをカナダから輸入しているが、そのカナダ大使館の情報”クリソタイル-白石綿 (アスベスト) について”(参照)では次のように説明している。重要な事柄なので、長いが引用したい。

 「アスベスト」は広範囲な科学的及び医学的な精密調査の対象となってしまいました。とりわけ科学者は、すべての「アスベスト」が同様ではないことを発見しました。また、繊維の長さ、直径及び種類も曝露(量と期間)と同様に人間の健康に影響を与えることが分かりました。これらの知見の結果として、角閃石と呼ばれる鉱物で健康に影響する可能性のある種類は、もはや使用されていません。同様に、「アスベスト」は吹きつけ断熱材及びその他空気中に容易に放出される可能性のある製品には、すでに用いられていません。
 一方、クリソタイルは世界で用いられるアスベストの最も普通の形態であり、カナダではこの種類が唯一生産され輸出されています。建築材料、ブレーキ ライニング及び上下水道管などの製品に安全に使用することができます。これらの用途に関しては、この繊維はセメントや樹脂のような基質に封じ込められて、周囲の環境に放散されることはありません。


 角閃光石アスベストとクリソタイル繊維は物理学的、化学的及び構造的に異なっています。これらはいずれも疾患の原因となりますが、クリソタイルは低いレベルでの曝露では安全に使用できることを示す科学的根拠もあります。しかしながら、すべての形の「アスベスト」は採鉱から廃棄までのあらゆる時点で注意して取り扱われなくてはなりません。オンタリオの「アスベストの使用によって生じる健康及び安全性に関する王立委員会[Royal Commission on Matters of Health and Safety Arising From the Use of Asbestos (ORCA)]は、世界有数の信頼できる分析結果の後、1984年に最も一般的に使用されている角閃石アスベストであるクロシドライト(青石綿、crocidolite)及びアモサイト(茶石綿、amosite)を使用する製造活動を無期限に禁止すべきであると勧告しました。一方、同委員会はクリソタイルを取り扱う職業上の活動に対しては、効果的な規制の施行、及び厳格な曝露レベル(繊維1本以下/ml規制限界)を勧告しました。これはクリソタイルへの「安全な使用」の提案と解釈され、採鉱、粉砕、製造、輸送、取り扱い及び廃棄活動全体に亘る厳格な規制を含んでいます。

 カナダ大使館発のこの情報をそのまま信頼すべきではないかもしれない。ここで関心のある人は、「アスベストについて考える会」のクリソタイル(白石綿)についての情報を読み込んでみるといいだろう。
 私の現時点の考えでは、過去のクロシドライト(青石綿)の問題は重視されるべきだが、クリソタイル(白石綿)まで一括した禁止とすべきだったのか、つまり、これまでの政府の対応が一概に間違っていたとも言えないのではないか、と。
 悪性中皮腫の原因と疫学・病理学の関連、補償の主体についての日米差などについても思うことはあるがまた別の機会としたい。

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2005.10.18

靖国参拝は信教の自由の問題

 日本版ニューズウィークに掲載されているジェームズ・ワグナー副編集長のコラムを読むのは私の楽しみである。なんつうか、口の軽いスットコドッコイなところが私と似ているからであろう。日本に暮らす知的白人さんらしくリベラルな空気を読むのもうまいが、朝日新聞建屋居候三杯飯の慎みもないカナダ人大西哲光のような悪意を感じさせないのも好ましい。日本の空気が醸し出されていなければ、チラっと欧米風の常識を出してしまうところに先輩無理無理金髪染デーブ・スペクターのような好ましさも感じる。
 彼は今年の8・10/17号、つまり毎年吉例手抜きだよ「海外で暮らす」号のコラムに良いことを書いていた。”靖国参拝「ノー」に危険な落とし穴”である。ちょうど八月十五日に小泉首相が靖国参拝するかという話題が一部で関心を持たれていたころだ。このコラムは日本の政治家が靖国を参拝する問題について扱っているのだが、これほどきちんとした見解を私は日本のメディアで見たことはない。


 このコラムでは、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を非難するつもりはない。多くの人と同じように、私も彼の参拝が日本の国益につながるとは思わない。だが、仮に8月にこれまでどおり参拝しても、それは憲法で守られた権利だと私は固く信じている。
 だから、小泉の靖国参拝を憲法違反だとして、裁判に訴えた一連の動きが気がかりでならない。

 これに続いて政教分離という問題はなんたらアメリカでもなんたらとあるが割愛。そして。

 しかしどんな理由であれ、信教の自由を犯す大義名分にはならない。もし一連の訴えが勝訴に終われば、まさに信教の自由を侵害することになるだろう。
 心配しすぎだろうか? そんなことはない。首相の靖国参拝が憲法違反と判定された、どうなるか考えてみるといい。
 小泉は明治神宮にも教会にも行けなくなるのだろうか。誰の目にも見え透いていようが、「私的参拝」として強行すればいいのか。参拝を禁じられるのは、首相だけか、それとも閣僚全員、あるいはすべての国会議員が禁止されるのか。

 もちろん、反語である。
 昨日たまたまテレビのニュースを見たら、民主党の前原代表が、首相には私的参拝はありえない、と左右の歪んだ顔に逝ってしまったの眼を付けて、ほざいていた。社民・共産党や特定アジアの見解はスルーでいいけど、いったい政権を取ろうという日本の政治集団が信教の自由についてどう考えているのか私は呆れた。
 このあたり私もスットコドッコイに言うのだが、小泉首相が靖国参拝できないというなら、大平首相のようにクリスチャンの首相は教会にも行けなくなるのだろうか。
 というか、小泉の靖国参拝に反対している人にそう問うと、おそらく、きょとんとされ、「それとこれとは別」とか言うのではないだろうか。そして、「靖国神社はA級戦犯が合祀されているからダメ」と言うのではないか。
 というあたりで私の頭はどっかーんである。靖国神社がA級戦犯を合祀してようがその宗教の勝手というか信教の自由の問題だ。なにより不可解なのは、私は明治以降の国家神道を信じてないから断言するのだが、戦犯の合祀とやらは特定信仰の上の概念ではないのか。小泉の靖国参拝に反対している人ってそういう信仰世界を共有する信者なのかね。それって、君たちの信仰と信仰のぶつかり合いの問題じゃないですか、云々。
 ジェームズ・ワグナーの結論を私は支持したい。どこまでが許され、許されないの線になるのか。

 結局のところ、線引きなど不可能だ。日本国民の基本的人権を侵害せずにはなしえないだろう。

 首相が私人として特定の宗教を信じて悪い理由はないし、その活動を禁じることはできない。問題はあくまでそれが公的であったかだけが問われるべきであり、先の大阪高裁の違憲判断も、そうした公的な性格を帯びた首相の靖国参拝への警告だった。この判断では、その判定としての具体的な基準としては、参拝に公用車を使うかどうかが示されていた。
 昨日の小泉首相の私的靖国参拝についていえば、公用車という点ではよくないかなと私は思う(三木首相は公用車を使っていない)。それでも、他は概ね、そこいらのおっさんの参拝と変わるところはなかった。
 個人的な感想を足せば、あれはまずいんじゃないのというか、ユーモアということかもしれないけど、いい老人がお賽銭をポケットからポケットマネーという洒落みたいに出すのはいかがなものか。ああいう時は、懐中に収めた万札入りの封筒を投じるべきだったように思う。でも、そうすると、そこになんて記名されていたか問題になるというのだろうか。そのあたりは、信仰告白の内面のように思うが。

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2005.10.17

[書評]内臓が生みだす心(西原克成)

 この本の内容は、とりあえずと限定するのだが、「内臓が生みだす心」(参照)という標題がよく表現している。人の心というものは内臓が生み出すのだというのだ。

cover
内臓が生みだす心
 現代の医学では人の心は脳が生み出すということになっているから、当然この本の主張はトンデモナイといったことになる。実際、本書を読まれるとわかるが、あちこちにトンデモナイ話がごろごろとしている。だが、これがそれぞれの端となるトンデモナイ主張をあちこちプチプチとビニールの気泡緩衝材のように潰したところで意味はない。というのは、このトンデモナイ説の背景には、巨大な一つの思想が横たわっており体系となっているからだ。…その話はこのエントリでは、まだ、触れない。なお、本書をアマゾンでみたらすでに事実上絶版になっていた。古書では購入できる。追記(2005.10.18):訂正。現時点で「内臓が生みだす心」は絶版にはなっておらず、版元に在庫が十分にあるとの連絡を受けた。アマゾンの現時点での在庫だけの問題のようだ。プレミア古書に慌てて手を出さないように。
 言うまでもなく、今日のエントリは、昨日のエントリ「極東ブログ: [書評]記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)」(参照)の続きでもある。こちらの実記とされた話では、心臓と肺を受けて同時移植手術を患者が以前の臓器を持っていた人間の意識を引き継ぐという奇譚であった。もし仮にそんなことが事実であるというなら、それはなぜか。神経免疫学者ポール・ピアソール は「心臓の暗号」(参照)で心臓という臓器にはそうしたプラスαの要因があるのだと想定した。
 「内臓が生みだす心」でも著者西原克成医師は類似の結論を出しているし、なにより、クレア・シルヴィアの「記憶する心臓」をそうした現象の証明の一つとして受け取っている。しかし、西原の考えの内実は、ピアソールとはかなり異なる。ピアソールが心臓という臓器になにか未知な要素を付加しようとしているのに対して、西原は臓器それ自体のあり方に意識を見ている。その思想をどうまとめていいのか私は戸惑うのだが、西原は生物の全体の意識の発生を生体の発生から論じ、原初的な意識を腸管による食物の選択としている。そして、この腸管が海のホヤといった単純な生物からヒトに至るまでの発生のようすを考察し、原理的に人間の腸が意識を担うとしている。
 ただし、この腸は完成された人間の臓器としての腸ではなく、進化や胎内での発生的な観点から見たもので、その点で、意識を担う腸はむしろ肺であり、「記憶する心臓」がクレア・シルヴィアが移植元の人間の意識を継いだのは、むしろ肺臓の移植によるものだとしている。

 心は心臓にも宿りますが、本当の心のありかは肺のほうです。心臓は鰓の脈管系で、肺が鰓腸の腸管上皮から出来ているためです。腸の上皮の神経と筋肉の一体となった腸の総体に心が宿ります。心臓は肺という筋肉を持たない腸管上皮の脈管系の筋肉の一部と考えることが出来ます。

 いずれにせよ、心は肺に宿るという。そんなことがありうるのか。それが医学であり、科学だというなら、実験で証拠が提示できるのか。
 それがある意味ではできているようだ。西原の医学哲学の大系がもたらす検証はある程度まで可能になっており、その明白な成果はある種奇怪な印象を与える。
 私はこのうまく話をまとめることができないのだが、この奇怪な医学というか生物学の大系は、端的に言えば、西原も明記しているようにラマルキズムでもある。進化論の歴史なかですでに決定的に廃棄されたはずのラマルクなのだが、なぜ復権するか。
 そうえばと思いWikipediaの項目(参照)を見ると、示唆的な説明もある。

今日に措いて、個体がその生涯の間に身に付けた形質が子孫に伝わるとの考えは、ラマルキズムと言われる。この考え方は、極最近までは、近代の遺伝学的知見に照らして、絶対に成立しないと考えられていたが、最近のエピジェネティクスという遺伝的機構等、幾つかの発見で、それが全く見当外れとは言えなくなった。

 西原はラマルク説のある種の復権として、重要性を重力と化生という現象に置き、個体と種の変容を説いている。このあたりの問題意識は今日発達心理学者として知られるピアジェ(参照)の同化(Assimilation)と調節(Accommodation)の考えにも近い。
 一般的な書籍として「内臓が生みだす心」を見た場合、率直のところ現代の奇書としか言えない。内容のバランスも奇怪だし、中世の魔術書でも読むかのごとく同じ説明がくだくだ循環してもいる。
 なによりトホホな印象をうけるのは、そこから導かれる治療医学のありかたがみのもんたの健康番組といった趣向であることだ。実際に西原は同番組でもドクターとして出演していたようだ。なぜそんな奇矯とも思える立場に彼がいるのかというのも、本書のなかに間接的には描かれているが、悪口で言うのではないが、医学者としては学会で干された人生だったからなのだろう。
 学問を進めていくとき、そうまれにでもなく、ある発見した問題を追及すれば学者としての道を断たれてしまうだろうなということはある。それでも前に進める学者もいる。数学者のブノワ・マンデルブロ(参照)などもそうかもしれないし、言語学者の三上章(参照)もそうかもしれない。ヴィルヘルム・ライヒ(参照)をそこに含めるべきかどうかは難しい。逆に、ライナス・ポーリング(参照)やイリヤ・メチニコフ(参照)がある意味、トンデモナイ主張をしていたことは、学問の世界では、できるだけ触れないことになっている。

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2005.10.16

[書評]記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)

 このところ思うところあって「記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)」(参照)を読み返した。訳書は一九九八年に発売されたもので、もう七年も前になる。その後読み継がれているふうもないので事実上絶版になったようだが、アマゾンの古書では安価に手に入る。文庫で復刻されるかもしれない。

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記憶する心臓
ある心臓移植
患者の手記
 話は、実記の体裁をとっているが奇譚と言っていいだろう。クレア・シルヴィアというユダヤ人中年女性が脳死の若い男性の心臓と肺を受けて同時移植手術を受けたところ、術後に、移植元の若い男性の性格が乗り移ったり、また睡眠中の夢のなかでその若者にあったり、その若者の記憶が乗り移ったりしたというのだ。通常、移植手術を受けた人はもとの脳死者の情報を得ることができないが、彼女は夢で知った若者の名前を手がかりに本人を突き止め、その家族に出会うことになる。
 そんな話がありえるだろうか、臓器にそれ自身の記憶が宿り、移植手術者にまで持ち越されるということが…。現代の医学の常識では当然ありえない。
 この訳書の出版時期は日本で臓器移植法が施行されて一年というころで、脳死や臓器移植がまだ社会でよく論じられたものだ。同年には柳田邦男「犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日」 (参照)も文庫化された(元は一九九五年)。
 この訳書についても出版社はそうした社会の空気を読んで出したのものだろう。だが、この話題はその後日本社会からは立ち消えたとはいわないがトーンは変わってきた。一般向けの本で思いつくのは、たとえば、二〇〇〇年の「私は臓器を提供しない(新書y)」(参照)といった素人くさい談義やいかにも新書的な「脳死と臓器移植法(文春新書)」(参照)から、昨年の、ある意味でよりディテールな「脳死・臓器移植の本当の話(PHP新書)」(参照)の変化というものはあるだろう。
 あるいはこう問い返してもいい、「現在日本での脳死移植は何例あるか知ってますか?」と。答えは十五日時点で三十九例である。意外に多いとみるか、少ないとみるか、いずれにせよある種の思いが反響するだろうし、その先に、自分自身の脳死ということも想定せざるをえない。
 話を「記憶する心臓」に戻すが、読み返してみて、そうした奇譚の真偽ということから離れて、これは非常に面白い小説だった。考えてみれば、「ティモシー・アーチャーの転生(創元SF文庫)」(参照)や「ハプワース16、一九二四」(参照)などを真偽の水準で読むことはない。「記憶する心臓」についていえば、クレア・シルヴィアという当時四十九歳(今私の歳に近い)の女性が移植手術なくしては死という局面に向かうときの心理描写やその後の生活と自己省察などは面白く、フィリップ・ロスの小説を彷彿されるようなユダヤ人らしい独特の感性の描写もある。そのことと関連しているのかもしれないが、彼女の術前術後の男性遍歴や性についての行動などもいろいろ考えさせられた。日本では四十七歳の中村うさぎの突撃ルポがネタ化される空気があるが、米人女性の五十代にとって性はとても大きな問題でもある。そうした女性としてのある生々しい生き様が訳書に掲載されているクレアの写真への関心へと結びつく。そういえば、昨日献本を戴いた「アルファブロガー 11人の人気ブロガーが語る成功するウェブログの秘訣とインターネットのこれから」(参照)などでも「中の人」への視線の意味というのはあるのだろう。クレアについては、ネットを見ると、比較的現在に近いポートレート(参照)もあった。すっかりおちゃめなおばあさんという感じもする。
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心臓の暗号
 余談のような話ばかりになったが、それでも「臓器がそれ自身の記憶や意識を持つのか」という問いかけを度外視して読むことはできない。日本の、とくにネットの空気では単純にID論などを否定するように、それは「トンデモ」というだけで終わりそうだ。だから、この問題をある程度学術的な意識で論じたはずの「心臓の暗号」(参照)などでも、さらにトンデモ度が高いということになりかねないし、実際のところ、こちらの本はそう評価されてしかたないだろうと私も思う。
 それでも、私より年上の全共闘世代的な「本音を言えよ」的に問われるなら、世の中不思議なことはあるし、わからないこともあると私は答える。私も四十八歳まで生きてみて、気が付くと太宰治はもとより三島由紀夫の享年を越え、来年は坂口安吾の享年も越えるのだろう。漱石も超えるかもしれない。そして次第に老いつつある身体を抱えつつ生きてみて思うのは、身体のなかには、父祖の声があるという実感だ。自分の声のどこかしらは父の声に似ている。それでもって彼が私を呼んだように呼ぶことに禁忌のような畏れも感じる。孔子は六十を耳順と言った。耳に従うとは不思議な表現だが、その歳になると身体に宿る父祖の声に従うようになるからかもしれない。

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2005.10.15

EUが移民労働者を必要としている現実

 エントリのテーマは、昨日の「極東ブログ: セウタとメリリャの不法移民問題」(参照)の続きである。昨日のエントリを書いたあと、日本人はこうした問題に関心を持たないだろうな、セウタとメリリャについてもモロッコが返還を求めるならそうすればいいのくらいの感覚だろうかとも思った。そのことが日本人の感性の問題なのだとちょっと締めに書いてみて、削除した。無駄に関心を喚起する必要もないだろう。
 そのあとぼんやりとセウタとメリリャの不法移民問題を考えていた。「なぜ」という件については、背景には世界の貧困問題があり、直接的な理由としてはスペインのレグラリサシオンとモロッコの対応がある。しかし、なにかふっきれない思いが残った。なぜ、スペインは他のEU諸国から批難を浴びてまでレグラリサシオンを継続したのか。また、なにか重要な論点忘れていたような感じがした。
 思い出した。忘れていたのは、十二日付のテレグラフ”Welcoming migrants”(参照)である。右派典型のテレグラフが「移民を受け入れよう(Welcoming migrants)」という標題を掲げたので気になってざっと読んだのだった。だいたいにおいて、右派というのは、移民に否定的なものではないだろうか。いや、日本社会の実態を見れば、労働力という点で一番移民に厳しいのは日本の労働団体かもしれない。先進国において左派は自国労働者の既得権維持に努める。
 右派・左派はしかし、どうでもいいことだ。テレグラフは示唆的なことを言っていた。セウタとメリリャの不法移民問題について私の昨日のような内容に触れたのち、しかし、問題は、複雑なのだと言う。


The reality is more complex. The latest wave of northward movement has been encouraged by the amnesty granted to 700,000 illegal immigrants this year by the Spanish government. That pardon both removed an anomaly and was an acknowledgement of Spain's need for migrant labour as its economy boomed. The shortage is not unique to the Iberian peninsula: in a report last year, the European Commission concluded that higher immigration flows were increasingly necessary in an enlarged union with a shrinking working-age population. The problem is that what the economy requires is often difficult to digest culturally. That is why politicians are reluctant to admit their country's dependence on foreign workers to sustain economic growth.

 昨今の不法移民の増加にはレグラリサシオンがあるとして、その背景には、スペイン経済が移民労働者を必要としているというのだ。そして、そうした状況はEUも同じでしょ、と。
 つまり、移民を受け入れることでEU各国は国内で各種のトラブルを抱えているものの、経済成長の側面だけで割り切ってみるなら移民労働者に依存しているというのだ。そうなのか。
 このあたりの問題は非常に複雑だ。今、テレグラフの示唆を読みながら、EU内で低賃金の労働者が少なくても、東欧やトルコなどから十分に供給できるのではないか、つまり、アフリカからの不法移民の問題とは別ではないか、という思いもする。しかし、私がその実態を数値上で確認しているわけではない。
 テレグラフの結語はある意味では単純だ。

But a balanced approach to this sensitive subject should also acknowledge the EU's continuing need for foreign labour.

 EUは外国労働者の必要性を認めるべきだというのだ。
 私の関心はEUの状況ものだが、日本についても、"a balanced approach to this sensitive subject"、このやっかいな問題に対して中庸な解決策というのが必要になるのだろうと思う。
 そういえば、二〇〇〇年ごろ国連が日本の労働力を維持したいなら移民を大量に受け入れなさいという変なレポートを出したことがあった。すっかり日本社会は忘れているし、ネットなどを見るに、昨今は、少子化なんか問題ではない、それに見合った社会にすればいいだけだ的な議論が正論のようなふりをしてまかり通っているし、それに頷いておくのも安心といったところだろう。
 だが、現実にはEUは外人労働力を必要している。日本がそうではないという理由は私にはよくわからない。

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2005.10.14

セウタとメリリャの不法移民問題

 モロッコ内にあるスペインの飛び地、セウタ(参照)とメリリャ(参照)を目指す不法難民が九月に入ってから急増している。日本語で読める情報としては六日付の毎日新聞”不法移民:「脱アフリカ」スペイン飛び地を目指せ 暴徒化、死者も--モロッコ”(参照)が比較的詳しい。


今月3、5日にはメリリャで、計1000人以上が侵入を試み、警備官を含む200人以上が重軽傷を負った。殺到したほぼ半数が不法入国に「成功」したとみられる。EU調査団は不法移民の状況や、発砲の経緯などを調べる。一方、スペインは近く、警備隊を約500人増派する方針だ。

 不法移民がこの時期増加した直積的な理由は、「極東ブログ: スペインのご事情、EU憲法とレグラリサシオン(2005.02.27)」(参照)で触れたレグラリサシオン、つまり、不法移民への大赦によるものだ。毎日新聞記事にはなぜか言及がないが、このレグラリサシオンは当初三か月を持って終えるはずだったが、八月に再開した。これが直接的な原因と見られる。
 もちろん、遠因はアフリカ、特にサハラ以南諸国の「貧しさ」にある。ロイター”Migrants leave Morocco”(参照)やBBC”Senegal migrants 'will try again' ”(参照)などから、そうした背景の物語の一端が伺える。
 興味深いのはロイター記事のなかにある、不法移民者が数年かけてモロッコにやってきたという話で、こうした逸話からはセウタとメリリャの問題は必ずしも、昨今の問題とも言えない。
 日経”スペイン、「飛び地」で不法移民の摘発強化”(参照)では次のように背景を説明している。

 飛び地の両都市はコートジボワールやコンゴ民主共和国などサハラ以南からスペインへの難民や不法移民の抜け道となっている。スペイン政府によると、2004年には5万5000人、今年に入ってからも約1万2000人がモロッコ領との境界にある柵を乗り越えようと試みたという。

 捕まった不法移民だが一旦収容所に入れれ本国送還されることになる。この作業を行うのは当然モロッコとはいえスペインの領土なのでスペイン国家が行うのだが、送還できるのはスペインと協定のある国家に限定されるため、そうした協定が少ない現状では結局スペインが事実上引き取るしかなかった。
 しかし、昨今の事態とEU側からの強い不満もあって、対応を変えつつある。どこの国の市民であれ、モロッコから入ってきたのだからモロッコに追い出せということで、この約束は従来は空文化されていたのだが、これを活用することになった。
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アンダルシア
スペインの魅力が
凝縮した土地
 ところで、そもそもなぜモロッコ内にスペインの飛び地などというものがあるのかというと、歴史の背景は面白いというかめんどくさい。気になるかたは取りあえずWikipediaのセウタ(参照)やメリリャ(参照)を読まれるといいだろう。当然ながら、日本語よりも英語の説明のほうが充実している。
 戦後日本人の感覚からすると、モロッコが「返還」を求めているのだから、スペインもこの住民を撤退させればいい、くらいのものかもしれない。

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2005.10.13

組織的犯罪処罰法改正について

 私がネットを見ている範囲では、組織的犯罪処罰法(組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律)の改定案で、共謀罪を新設(犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案)する件については、この七月ごろ少し話題になったものの、八月八日の衆議院解散により廃案となり、なんとなく話題も立ち消えた感じになっていた。が、四日に閣議決定された。
 ま、もういいよ、さっさと成立させたら、という空気なのかもしれない、というか、私もそれほど気に留めていなかった。昨日の朝日新聞社説”共謀罪法案 対象を絞って出し直せ”(参照)を読んで、ふーんと思ったくらいだ。とはいえ、昨日のラジオでもその話題があり、しばし反対意見を読み直してみた。
 まず、今回の改正についての私の意見だが、ウィーク(気弱)に賛成というものだ。つまり、そう強い信念があって支持するというものではない。支持の理由は、この件についての法務省の説明、”組織的な犯罪の共謀罪に関するQ&A”(参照)の冒頭にもあるように、平成十二年の国連総会で、国際的な組織犯罪の防止を目的とする「国際組織犯罪防止条約」がすでに採択されている以上、日本国内の法律も早急に整備すべきだろうというものだ。つまり、これは国際社会からの日本への要請なのできちんと応えるべきだし、こういう国際的な連携には横並びというか所定の理解の水準があるだろうから、国内法だけが問題というわけでもないだろうと思っている。
 とはいえ、問題があるのか。とりあえず先の朝日新聞の社説と法務省の説明と付き合わせて読み直しても、それほど問題性があるとは思えなかった。朝日新聞が指摘する一番の問題点はこういうことだろうか。


 市民団体や労働組合が「自分たちも対象にされるのではないか」と心配するのは当然だろう。
 それというのも、共謀罪の規定があいまいだからだ。「団体の活動として、犯罪を実行するための組織による遂行を共謀した者は懲役などに処する」。これが法案の骨子だ。団体には、限定がついていない。

 法務省の説明はこうだ。

すなわち,新設する「組織的な犯罪の共謀罪」では,第一に,対象犯罪が,死刑,無期又は長期4年以上の懲役又は禁錮に当たる重大な犯罪に限定されています(したがって,例えば,殺人罪,強盗罪,監禁罪等の共謀は対象になりますが,暴行罪,脅迫罪等の共謀では,本罪は成立しません)。
第二に,①団体の活動として犯罪実行のための組織により行うことを共謀した場合,又は②団体の不正権益の獲得・維持・拡大の目的で行うことを共謀した場合に限り処罰するという厳格な組織犯罪の要件(注)が課されています(したがって,例えば,団体の活動や縄張りとは無関係に,個人的に同僚や友人と犯罪実行を合意しても,本罪は成立しません)。
第三に,処罰される「共謀」は,特定の犯罪が実行される危険性のある合意が成立した場合を意味しています(したがって,単に漠然とした相談や居酒屋で意気投合した程度では,本罪は成立しません)。
(注)組織的犯罪処罰法における組織的な殺人等の加重処罰の場合と同じ要件であり,実際の組織的犯罪処罰法の組織的な殺人等の適用事例も,①暴力団構成員等による組織的な殺傷事犯,賭博事犯,②悪徳商法のような組織的詐欺事犯及び③暴力団の縄張り獲得,維持のための業務妨害,恐喝事犯等に限られています。

 比較するに一般市民には問題はないというか、メリット/デメリットを比較してメリットが高いように思われるし、日本社会でテロが勃発して被害をディスプレイし、社会ヒステリーを起こしてから泥縄式に作るよりはましではないか。
 私の考えは以上だが、ネットを眺めていて、本質的なことではないが思うことはあった。ブログなのでそのあたり雑記的に書いておきたい。
 ユーモアもあるのだろうけど、朝日新聞が反対しているから賛成したほうがいいや、みたいなリアクションもあるようだ。こういう傾向はある程度今後も進むのだろうなという感じがする。
 ネットの世界では有名なと言っていいと思うが弁護士の小倉秀夫は今回の改正に否定的な立場であったようだが、たまたまこの件の話題を取り上げたブログ”bewaad institute@kasumigaseki(2005-07-14)”(参照)のコメント欄でこういう言及を見かけた。

小倉秀夫 (2005-07-14 08:47)
共謀共同正犯とかは、刑法の教科書に書いてあることと、実際の適用というか運用というかの感覚とが大いに齟齬しているということを、弁護士は実体験として知っているので、与党議員でも、弁護士出身議員は、共謀罪については冷ややかなのではないかと思われます(「その文言で裁判所でどこまで解釈が拡張するか」ということをまず考えるところです。)。
 PCJapanは概ね2000字しか枠があたえられていないので、書ききれなかった面もあるのですが

 このあたりが反対派の胸の内ということなのかもしれない。つまり、成文法とその運用の差で危惧されることがあるのだろう。だが、そうであれば、なおさらのこと、今回の法案改正についてのシステムな問題ではないということになるだろう。
 Wikipediaの共謀罪(参照)の項目でも結語は、曖昧な印象を受けた。

結局、日本の市民がどの程度まで組織的犯罪の早期阻止を必要としており、どの程度まで自らも捜査の対象とされる危険を甘受する覚悟をしているのかという、政策選択の問題に行き着くともいえよう。

 法律的な議論がこういう結語で締められるのに、私は違和感を感じる。が、その違和感をうまく表現できないのは、「おまえさんも国家権力にしょっぴかれる可能性はあるんだぜ、『国家の罠』でも読めや」というのがある種の脅迫感を持っているからだろうし、実際のところ、市民社会のフロントにあるべき警察のあり方にそれほど信頼がもてるものでもないからだろう。生活感としても警察が現代の市民社会を守っているという実感はない。
 そうした漠然とした強権への不安と、ロンドンテロなどのテロの不安が、特異なバランスの心理作用をもたらしているのだろうし、不安と恐怖の心理ゲームがネットで増幅されるのはあまり心地よいものではない。
 もしかすると、そうした増幅のゲームは不安と恐怖に寄りすがった連帯を求めているからなのではないかとも思える。しかし、あるべきは、市民社会の側で肯定的な連帯を模索することだろう。

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2005.10.12

DJammerを出したらHPに偉いっすよと言おう

 日本版ニューズウィークの今週号(10・19)をパラッとめくって、ま、そんな感じかなっていう感じでめくり終えようとしたとき、最後のページにDJammer(ディージャマー)の写真が載っているじゃまー、である。や、やるのか。本気か、マーク! そ、そこまでして風邪に倒れたアルファーブロガーR30さんの辛辣なエールに応えようとしているのか(参照)。追伸、お大事に(参照)。
 DJammerとはなにか。開発中はジンジャーと呼ばれていた…というのは嘘だが、実際の製品名もDJammerなのか。写真はこんな感じ(ページ右下写真)。掌に収まるサイズ。QTがある人ならここ(参照)でぐりっと見ることができ、仏陀のいさめる物欲が炸裂する。
 ニューズウィークを引用するとこんな感じ。


 電子カスタネットではない。開発元のヒューレット・パッカード(カリフォルニア州)に言わせれば、手のひらに収まる未来のエレキギターか、デジタル盤ターンテーブルだ。

 な、なんだかわからない。そりゃね。じゃ、あじゃぱー、さらに♪

DJもできればジャムセッションもできて、どこへでも携帯できる革命的な楽器というわけだ。MP3プレーヤーと特殊なセンサーを内蔵しており、これを手にけて回すと、その動作をセンサーが読み取って、プレーヤーに記憶されている音楽に変化を与える。

 とりあえずハンディなDJグッズってことでもいいのだが、そう、ダンスしながらDJができるわけでもある。
 実はこの話題この春に盛り上がって、マーク・ハードCEOの活躍とともになにげに沈没していったのだが…続いていたのか。往時の話はいかにもたこにもなワイアード”DJのスクラッチングがバーチャルに”(参照)にある。が、ここではスクラッチみたいなのがメインになっていて、あのころの英語のニュースなんかでもそんな感じではあった(WMV映像)。
 で、私はというと、DJのほうにはそれほど関心はないんだけど、このDJammerというネーミングからは、強調されているDJ以外に、オールド・マッキントッシュ・ユーザーならぴくんとくるはずだけど、JAM Sessionだよねである。今では無料配布(参照)になっているみたいだけど、ほんとに笑えたというか面白かった。Super Studio Session(参照)もだが、Bogas Productionsだ(Ed Bogasは今どうしている?)。JAM Sessionはブローダーバンドから出たお子ちゃま用なんだが、SimTunes(岩井俊雄)なんかもそうだけど、音楽の楽しさってあんなもんでもいいんちゃう?
 JAM Sessionなんだが、ようするに適当にキーを叩いていると絶妙なノリでセッションに参加できてしまう。必要なのはノリというかタイミングというか。キーボードがダサイのでその後、ちゃっちーエレキギターみたいな入力装置もあったかと思うが忘れた。
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Mixman Studio v2.0
日本語版
 JAM Sessionをさらにリミックス的にお笑いにしたのが、いや面白くしたのが、MIXMAN。日本ではヴァージョン2までしか販売されてなかったのだっけ。これがすげー笑える。早々に専用の入力装置DM2も売り出されたんで、けっこう欲しかったのだが…(参照参照)…けっこうでかいし、まさにDJのシミュレーションすぎ。
 というわけで、わたし的にはDJammerはMIXMANのDM2を改良したっていう感じを期待している。
 でも、ミュージシャンとかは使わないのだろうなという悲観というか勝手にしろというのもある。Jeskola Buzz(参照)があってチープにテクノができるし、東欧とかロシアとかこれでけっこうごきげんなんだけど、あれですよ、日本のテクノはうるさいからなぁ、ってか、機械にこだわるし。ま、配線ごにょごにょさせてボリュームだのスライダーだのいじるのが音楽っていう楽しさもわからんではないけど。

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2005.10.11

ウーメラで超音速小型機の飛行実験が成功

 昨日十日、宇宙航空研究開発機構(JAXA)がオーストラリア中南部ウーメラ実験場で超音速小型機の飛行実験に成功した。私は最初BBCのニュースで知った。
 報道写真を見るとまるでロケット打ち上げみたいで、いったいどこが超音速小型機なのかという印象を与えるが、よくみるとロケットには紙飛行機みたいなというかでっかい矢尻というかコンコルドのちっちゃくてとんがったみたいのが、ロケットと一緒に二匹の雌雄の昆虫のようにつくっている。そう、それが無人実験機で、それ自体には動力はない。全長十一・五メートル、幅四・七メートル、重さ二トン。JAXAのサイト(参照)で動画が公開されているがずどーんと打ち上げる。その後、地上から二十キロメートルあたりで切り離して落ちる。というか、滑空してマッハ二となる。どうやって着陸するか? 最後はパラシュート。ちょっとトホホ感はある。
 私が最初に読んだBBC”Japan tests supersonic jet model”(参照)にはそれほど大した内容はないが、読み進めるとわかるようにコンコルドが意識されている。国内の報道はというと、私には意外だった。ボケているように思えたのだ。
 ということで見直してみると、朝日新聞”「次世代」超音速旅客機の飛行実験、宇宙機構が成功”(参照)の記事は今日付になっていて、そう悪くない。前日の”小型超音速機、飛行実験に成功 豪州で宇宙機構”を書き換えたのだろうと思うがすでにネットにないので比較しづらい。
 読売新聞”小型超音速機、飛行実験に成功…豪州で宇宙機構”(参照)はボケ記事。毎日新聞”超音速旅客機:無人機の飛行実験が成功 JAXA”(参照)もボケ。産経・共同”超音速機の実験に成功 宇宙機構、豪州ウーメラ実験場で”(参照)もボケ。ロイター”日本宇宙機構、小型超音速機の飛行実験に成功”(参照)もボケ。日経”宇宙機構の小型超音速機、15分の飛行実験に成功”(参照)がややまし。意外とサンスポ”次世代の夢のせて飛ぶ!宇宙機構、超音速機の実験に成功”(参照)がややまし。
 どこで判断したかというと、今回の実験の意義はなにかということがきちんと書かれているかという点。ボケのテンプレ(型)はこんな感じ。


JAXAは、今回の実験機が得たデータを今後のSSTの設計に生かすとともに、ジェットエンジンを使った実験機や低騒音の実験機による新たな技術開発を目指すという。

 間違いではないけど、今回の実験について触れたことにはならない。その点、朝日新聞のリライト記事はわかりやすい。

 実験機は、スーパーコンピューターにより、空気抵抗を受けにくい形状に設計された。今回のデータを解析して、設計が適切だったかどうか検証する。今後、軽量の機体材料の研究を進めるほか、エンジンを載せた実験機で飛行実験ができないか検討する。

 しかしこれもちょっと常識を働かすと、あれ?と思うはずだ。動力がなく「空気抵抗を受けにくい形状」というのは、つまりメインは矢尻のような翼のことだ(もちろん胴体もだけど)。そして、それをなぜ実験したかというと、スーパーコンピューターに依存した新設計法が有効だったかという検証が重要だったからだ。日経はやや曖昧だがこうまとめている。

機体に設置した約800個のセンサーを使って、日本が得意とするコンピューターを使った設計技術で開発した機体に対する空気抵抗など様々なデータを集めた。

 繰り返すが、今回の実験ではスーパーコンピューターに依存した翼の設計手法が問われていたというのが重要なポイントだった。そこが日本が今後売り物にできる技術だからだ。
 JAXA自身の説明はというと、わかりやすいようなわかりづらいような理科系ですね的な話にはなっているが、要点は明確になっている。”次世代超音速輸送機の研究”(参照)より。

実験の目的
(1) CFD逆問題設計法による自然層流翼設計とその実証
(2) クランクドアロー翼、エリアルール胴体、ワープ翼の設計技術の獲得
(3) 無人機による飛行実験技術の蓄積

 問われた設計法はCFD逆問題設計法(参照)である。
 ところでなんでこんな実験を日本がやっているのか。そんな意義があるのか。というとBBC報道を読むと暗黙の内に「あるよ」というのがわかるはずだ。が、それはポスト・コンコルドという文脈である。すでに日本航空宇宙工業会フランス航空宇宙工業会は今年の六がつにポスト・コンコルドの共同開発に乗り出すことで合意をしている。
 しかし、「極東ブログ: 飛行機売ります的なお話」(参照)でも少し触れたが、航空業界では運航効率のよいボーイングB7E7型機に人気が高まっており、コンコルド・タイプの高速機の市場は見えない。ヨーロッパの威信に付き合って算盤抜きというわけにはいかない。
cover
コンコルド・プロジェクト
栄光と悲劇の怪鳥を
支えた男たち
 しかも、JAXAは二〇〇三年に九年ぶりの航空科学技術分野研究の見直しでジェット機を使う実験が凍結されるまで、コンコルド的な夢をもっていた。というのも一九六九年三月に初飛行、七六年に商用が始まったコンコルドは当初から、騒音、燃費、乗り心地といった改善が求められており、これに折しも冷戦という燃料投下があり、米国などもけっこう本気だった。ちなみに米国は現在でもX43Aという極超音速実験機の技術を持っている。日本もその流れに乗り、しかもバブルはそうした反省を遅くした。
 当時の記事を読み返すと、笑える。読売新聞”夢の超音速旅客機、実験機公開 マッハ2以上、乗客300人/三菱重工”(2001.02.09)はこんな感じ。

 コンコルドを上回る速度と輸送能力を持ち、経済的で騒音もジャンボ機並みという夢の超音速旅客機の小型実験機が9日、愛知県の三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所で公開された。
 これは文部科学省の航空宇宙技術研究所が開発中の次世代超音速旅客機で、マッハ2以上で、乗客数がコンコルドの約3倍(300人)、航続距離は約2倍(1万1000キロ)、大気汚染物質の窒素酸化物の排出量は約4分の1という想定。

 ところで、今回のウーメラの実験でも実質的な主体は三菱重工だったはずだ。そのあたりのことは、私の見たかぎりでは今回の報道にはなにもなかった。

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2005.10.10

野國總管甘藷伝来四〇〇年

 野國總管甘藷伝来四〇〇年…野國總管(のぐにそうかん)という人がサツマイモ(甘藷)を日本に伝来して四〇〇年になる…ということだが、そう説明してしまうと正確でもない。野國總管は名前ではない。野國は地名で總管は役職名。野國は現在の嘉手納町、つまり沖縄の地域だが、その時代、琉球国は日本国には所属していない。總管は尚寧王時代首里王府の進貢船の管理事務を行なう役である。呼称は松(マチュー)だったらしい(下層階級の出身ではあろう)がよくわからない。さりとて名無しというのもなんなので野國總管、または總管野國と呼ぶ。名前の考察は進んではいるようだ(参照)。
 地元嘉手納では野國總管甘藷伝来四〇〇年祭を行っている。九月末から今月の一日、二日という日程であったが、台風十九号のため延期して十五日十六日になるとのこと。嘉手納町では特設ホームページまで設けている(参照)。
 サツマイモ(甘藷)の伝来がなぜ重要かというのは、案外現代日本人にはわかりづらいかもしれない。簡単な話、サツマイモは荒れ地でも効率よく澱粉の生産ができ、飢餓から民衆を救う。内地の歴史も飢餓の状況は類似しており、サツマイモ伝来の恩人として青木昆陽(参照)が有名だ。昨今の教科書では昆陽の扱いはどうなっているか見てないが、Wikipediaにあるように、甘藷先生、芋神さまと称されたようだ。
 昆陽の号からは朱子学の印象を受けるが、伊藤東涯に私淑して古学を学んだ。江戸町家の生まれで名は敦書、通称は文蔵。東涯は言うまでもなく仁斎の長子で京都に居を構えていた。昆陽はいわば留学してまで学問がしたかったのだろうし、そこに仁斎古学のヒューマニズムの血脈を感じるといいたいところだが、東涯は父のような情熱的な古学者タイプというより(仁斎は精力絶倫でもあったらしい)、『制度通』などからわかるように中国の行政などについても知見を深める博学者的な傾向がある。昆陽がサツマイモを考察した『蕃薯考』を一七三五年に著したのもそうした学統にあったからというようにも思われるし、蘭学にまで関心を伸ばしたものそうした傾向ではなかったか。
 昆陽は、享保飢饉に際し、後に誤って暴れん坊将軍と称される徳川吉宗に対して飢饉対策の救荒作物としてサツマイモ栽培を進言。小石川植物園で試作(参照)し日本に広めた。というのだが、さて、なぜそれが「薩摩芋(サツマイモ)」と呼ばれるのか。野國總管との関連はどうなのか。そのあたりがよくわからない。
 野國總管が甘藷を伝えたのは一六〇五年、青木昆陽が『蕃薯考』著したのは一七三五年とかなりの年代差がある。琉球では十分に甘藷が栽培されていた後に日本本土で甘藷栽培が始まったということなので直接の関連はないのかもしれない。
 ではなぜ「薩摩芋」か。Wikipediaの項目(参照)にはこれが対馬を経由して朝鮮に伝搬したことは記載されているが「薩摩芋」の由来はない。代わりにこうある。


別名に、甘藷(かんしょ)、唐芋(からいも)、琉球藷(りゅうきゅういも)。

 広辞苑を見ると「日本には一七世紀前半に、中国・琉球を経て九州に伝わり普及」とある。ざっと見ても、昆陽『蕃薯考』の年代とは合わない。むしろこれは、琉球での栽培が薩摩に徐々に伝搬したもので、それが吉宗行政で促進されたということかもしれない。余談だが、薩摩揚げというのも沖縄のチキアゲと同じであり、タイ料理のトートマンプラーとも同じなので、シャムと交流のあった琉球から伝来したものではないか。その他薩摩焼酎など、いろいろ薩摩の文化はより高度な琉球の文物をリメークしたものが多いように思う。
 話が余談に逸れつつあるが、吉宗と琉球文化の関係で外せないのが、『六諭衍義(りくゆえんぎ)』の存在である。六諭は明太祖朱元璋による「父母に孝順なれ、長上を恭敬せよ、郷里と和睦せよ、子孫を教訓せよ、おのおの生理に安んぜよ、非為をなすなかれ」というものだが、これを清代范鋐が注釈したのが『六諭衍義』であり、これを琉球にもたらし琉球に普及させたのが名護親方・程順則(一六六三~一七三四)であり、この後、琉球から島津を経て吉宗に献じられた。吉宗はこれに心酔し、内地的知識人の最たる白石を斥け、室鳩巣(むろきゆうそう)を登用して、湯島聖堂で講じさせ、さらに広く寺子屋の教科書とした。つまり、ぶっちゃけ、江戸の道徳文化は琉球文化から伝来した。その他、三味線だの日の丸だの琉球からどばどば内地に流れ込むのだが、あたかも昨今の朝鮮が日本文化をリアレンジしているように、日本もまた琉球文化を近代においてリアレンジしていったようだ。
 話を野國總管に戻すが、野國總管が賞讃されるのは彼の時代ではなく子孫の時代であり、おじーでーじ偉かったやっさ的に子孫がその像を造りあげたのではないか。当然、総姓世系図は残っている。「野國總管の身分とその子孫」(参照)によるとこうだ。

総姓世系図は、總管の子孫、糸満の古堅家が保存していたものであり、この系図によりますと、總管(1世)には、一男があり、この長男が位牌にある「總管嫡子與那覇碧林(法名・二世)」であります。この碧林(法名)からは、五男(三世達)の子どもたちが誕生しています。その内の一人長男は、姓与那覇と号雪庭を名乗り医術を学び首里に移住しています。この雪庭の4世・5世の代に比嘉筑登之親雲上という比嘉姓を名乗り、その6世の代に士籍の仲間入りを果たし、士族の証である譜代が与えられています。彼らの名前には、甘藷に因んだ蕃宣とか蕃常、蕃春という名が付けられています。碧林(法名・二世)の他の4男は、その父と共に郷里野国村に住み、次男は宮城姓、三男は宮平姓、四男は平良姓、五男は与那城姓を名乗っています。

 直接的に残るのは宮平姓らしい。宮平と聞くと牛乳を連想しちゃうんだけど。

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2005.10.09

ニカラグア近況

 ニカラグア情勢について国内ではあまり報道を見かけないようだが、それほど日本にとって重要な問題でもないとされているからだろう。が、海外ニュースを見ているとこのところこの話が増えてきている。端的に言えば、ニカラグアに政変危機があるというものだ。読みやすいところでは先月三十日付だがBBC”Nicaragua 'creeping coup' warning ”(参照)がある。


Nicaraguan ministers have denounced what they say is a slow-motion coup in the country, after congress stripped them of their legal immunity.

 徐々にではあるがクーデターの兆しが見えるようだ。現政権の免責特権もすでにない。
 ニカラグア情勢は特定の関心を持っている人以外には複雑と言っていいだろうし、これが英米圏で話題になる理由も歴史的な経緯があって込み入っている。そうしたこともあり、同じくBBCだが今月五日付で”Q&A: Nicaragua in crisis ”(参照)というFAQ(想定問答集)を掲載しているが、さらに基本的な情報が必要になるだろう。
 ニカラグアについて日本語で読める基本的な情報としては最近充実しつつあるWikipediaがある(参照)。が、なぜかサンディニスタのオルテガ元大統領の記載がなく、わかりづらい。Wikipediaの年表を元に簡単に補足すると近年の政情はこうなる。

  • 1979年 サンディニスタ革命 (一種の社会主義革命)
  • 1981年 米国レーガン大統領が援助を停止(反社会・共産主義政策として)
  • 1984年 総選挙でサンディニスタ(社会主義政党)によるオルテガ政権が発足。
  • 1985年 米国レーガン大統領はコントラ(反革命勢力)を自由の戦士として支援。サンディニスタ政権に経済制裁を開始 。
  • 1990年2月 大統領選挙でサンディニスタ(社会主義)政権(オルテガ)が敗退。
  • 1990年4月 国民野党連合のチャモロ(女性)政権が発足。コントラ解体。内戦が事実上終結したかに見える。
  • 1997年1月 自由同盟(中道右派連合)のアレマン政権が発足
  • 2002年1月 立憲自由党のボラーニョス政権が発足

 前回の議会選挙は二〇〇一年一一月に行われた。結果は、自由連合四十二、サンディニスタ三十六、キリスト教道党四、保守党三、国家計画二、他六とのこと。端的に、現ボラーニョス大統領派とサンディニスタ(社会主義)オルテガ元大統領派の対立が読みとれる。
 BBCのFAQでは危機の基本構造をこう説明している。

What is the origin of the crisis?
President Bolanos took office in 2002 after a landslide victory over Sandinista leader Daniel Ortega. But members of his own Liberal Party turned against him - and joined forces with former rivals the Sandinistas - angered by the government's decision to prosecute former President Arnoldo Aleman for corruption. Aleman is serving a 20-year sentence for fraud and money-laundering, but he still commands the loyalty of many of his party's legislators.

 この説明を真に受けると、ボラーニョス大統領は自派から敵対されているということで、その理由は前アレマン大統領の汚職の刑罰禁固二十年によるとのことだ。
 だが米国よりのワシントンポストは三日付”Nicaragua's Creeping Coup”(参照)で次のようにボラーニョス大統領擁護ともとれる説明をしている。

Mr. Ortega's comeback has been accomplished through a brazenly corrupt alliance with a former right-wing president, Arnoldo Aleman, who was sentenced to 20 years in prison in 2003 for looting the national treasury. Mr. Ortega's Sandinista Party supported the prosecution, then abruptly switched sides and formed a pact with Mr. Aleman against President Enrique Bolanos, a member of Mr. Aleman's Liberal Party who bravely chose to tackle government corruption. The left-right alliance has used its majority in the National Assembly to rewrite the constitution and stack the Supreme Court.

 つまり、サンディニスタも当初は前アレマン大統領の禁固刑を支持していたが、ボラーニョスが不正追及に取り組むや掌を返した。

Mr. Ortega's goal is to force Mr. Bolanos to accept his constitutional rewrite, which transfers almost all presidential powers to Congress.

 そして憲法改正し、ボラーニョス大統領の権力を議会に移そうとしている。そのあたりが緩和なクーデターと言われるあたりだが、日本のような呑気な立ち位置からはそれでもいいんじゃないのくらいにしか見えない。

It does have one thing going for it: Eighty percent of Nicaraguans say they oppose the Ortega-Aleman pact. Nicaragua's rescue will depend on people power, inside or outside the polls.

 しかし、ワシントンポストによればニカラグア国民の八〇パーセントはこのサンディニスタの陰謀的な権力闘争を支持していないという。
 事態が悪化すれば米国による干渉が始まるのだろうし、その時点でけっこうやっかいな問題ともなるだろう。しかし、現状としては日本からどうできるものでもない。

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2005.10.08

「人生を変える巨大プロジェクト」について

 電車の吊り広告の写真をぼんやりみていると、こりゃあ風呂に溺れた白人の赤ん坊か、あぶねーな、慣れない風呂なんぞに入れるからだよ、と一瞬思う間もなく、キャッチコピーが目に入る。「人生を変える巨大プロジェクト 母になる!」
 CREAという雑誌である。ふざけた企画だなと思う前に嫌なことと同じ記憶のカテゴリーに放り込んで忘れていたが、ふとしたことで「これ笑えるわよ」と言われ、CREAをめくってみた。ありゃま。
 ハリウッド・セレブの妊娠写真だのに続いて、ともさかりえと書いてある写真がある。女子高校生さん、その後結婚して子供産んだんだっけか、今、おいくつ? 二十六歳。というわけで、ファッショナブルに子どもを生んで育てるっていうネタが続く。さすがオヤジ文化の文藝春秋だな。こんなもの女性が読むのか。読む。そうですか。
 さらにめくっていくとこれは、タマゴクラブヒヨコクラブかという展開もあり(それほどビンボ臭さはなさげ)、なんだかわかんないなと思っていると、酒井順子の見開きエッセイがある。リードがすごい。泣いちゃいそ。


「子供は授かりモノ」時代は終わった
普通にしていては母になれない
晩婚化が進む一方のこんなこんなご時世、
そもそも私たちは母になれるのか。
『負け犬の遠吠え』の酒井順子が解説する、
負け犬予備軍の私たちの結婚・出産問題!

 内容はというと、テンプレ以上のものはないので読むだけむだっぽい。締めはこんな感じ。

あなたの身の回りには、「自然に結婚、自然に出産」というラッキーな道を歩んでいる人ももちろんいることでしょう。しかし「だから私もできるはず」と思うのは、もはや危険。「自分は本当は何がしたいのか」ということについて早くから真剣に考えなくてはならないのは、仕事のことだけではないのです。

 文中には彼女が集めたデータなのか編集部が封筒に入れて先生ご参考になってなのか、イラストに混ぜてグラフがいくつが掲載されている。ありげといえばありげなのだが、あらためてみるとふーんものではある。
 結婚に利点があるという統計を見るとこの二十年近く女性の意識はあまり変わってない。男性がジリ貧、だが、一九八七年に六九・一パーセントが二〇〇三年に六二・三パーセントというのは、それほど変化してないじゃんとも言えそう。
 母親の年齢別に見た出生数の変化というのが、想定の範囲内だが…、平成十三年に二〇歳から二四歳の出生数が十五万七〇七七人だが、平成十六年に十三万六五〇五人に減少。これに対して、三五歳から三九歳がこの間、十二万七三三六人から十五万〇二四二人と増加。そこだけ面白ろ可笑しく取り上げたというのもあるのだろうが、今後はスパムメールの標題のように「女は三十歳から」という傾向にはなるのだろう。要するに晩婚化ということ。
 国立社会保障・人口問題研究所とかの予想だと、文脈上女性についてということだと思うが、三〇歳未満の結婚が五割、三五歳までが三割、四〇歳では一割とのこと。生涯未婚者も多いのだろうが、これは要するに婚期は三五歳から四〇歳ということだ。そしてこの年代の結婚だと子どもを産むなら急げ…ということで今回のような企画が出てきたのだろう。
 こうした動向がマーケット的にはどうかなとちと考えたがまるでわからない。昨今街中でスリングに入れた赤ん坊をよく見かけるが、どういうマーケット的な変化なのだろうか。
 と、このあたりで私はCREAを放り出す。たいして面白い企画でもないし、なんか気分的にもわっというか不快に近い感じがする。気分を変えて、メールのついでにはてなを覗くと、どういう因果か、「結婚したい30代前半の独身男性です。私が結婚できない問題点を教えて下さい。…」(参照)で始まる質問に出くわす。質問中こうある。

私の結婚観は、「基本的な図式としては」夫は家族のために精一杯働き、妻は家庭を守り夫を支えるというものです。


昨今、男女同権が声高に叫ばれる一方で、昔ながらの結婚生活を望む女性も多いとも聞きます。本当に多いのなら是非私と結婚して頂きたいのですが(笑)私はそういう女性には選んでもらえないのでしょうか?

 ふーんと思うが回答は私には当然ない。まったく思うことがないわけでもないが、うまく言葉にならない。なぜなのだろうか、もどかしい。また考え込む。
 先のCREAの話でも、ようは半数の女性は二〇代で結婚しているということであり、たぶん、少なからぬ男女は結婚後「夫は家族のために精一杯働き、妻は家庭を守り夫を支える」ということだろう…もちろんそう明確に意識してはいないだろうが。
 とすると、こうした問題がある種、言葉として意識された問題として浮かび上がってくるのは、そういう五〇パーセントに属するタイプの人が、ややずれ込んで三〇代になってきたということなのだろうか。それでも現状では婚期では三五歳から四〇歳という線がありそうには思える。つまり、その線までの、いわゆる専業主婦的家族が実際にはマジョリティとしてはあるのだろう。国の年金改革は迷走しているが基本的にはこの制度は専業主婦的家族の存在が前提になっており、それが現在崩れたかというと、なかなかそうとも言えないかもしれない。
 一般的な婚期は私が二〇代だったころに比べて十歳分くらいシフトしているわけだが、人生コースというかそういう構造の基本はそれほど変化せず、見た目の変化は案外長寿化社会の派生というだけのようにも思える。老いた親たちは、統計的に平せば、働かない子どもを食わせるカネを持っているわけだし、子どもから青年期が延長しているだけといってもよさそうだ。 
 なんとなくだが、昨今の日本社会のだめだめ化現象のようなものは、戦後がもたらした世代的な現象で、豊かな社会が継続すればけっこうレギュラーな日本人というか市民が主流になり、社会は常識的にそして沈静化するのではないか。そういえば、最近の子どもたちは子どもらしく早寝早起きだというニュースも見かけた。以前問題視されたゲームなどもあまりしないようだ。インターネットとかにのめり込んでいるローティーンもそう多くはないだろう。
 結婚問題とかでも、酒井順子が息巻いて真剣に考えろというほどでもなく、普通の人は、男女とも、四十歳くらいまでにはなんかなんとなく結論が出る、つまり、それなりに結婚するというのが今後の日本社会の落とし所か。

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2005.10.07

レーニン廟の話

 レーニン廟のなかに置いてあるあのミイラのことはすっかり忘れていた。今でもあるのかと問われたら、もうないっしょとか軽く答えそうだ、知りもしないのに。でも、それは今でもあるらしく、また撤去問題が起きているのだと、五日付のニューヨークタイムズ”Russia Weighs What to Do With Lenin's Body”(参照)にあった。へぇ。
 署名記事は文体が凝っている。こんな出だしだ。


For eight decades he has been lying in state on public display, a cadaver in a succession of dark suits, encased in a glass box beside a walkway in the basement of his granite mausoleum. Many who revere him say he is at peace, the leader in repose beneath the lights. Others think he just looks macabre.

 "macabre"という語はフランス語を知っている人より知らない人のほうの語感が強いのではないか。"danse macabre"を連想する。いずれにせよ、あのミイラはぞっとするよねということだ。
 今回の話としては、元ペテルブルグ税金警察次官だったゲオルギ・ポルタフチェンコロシア中央連邦管区大統領全権代表が旗振りのようだ。

"Our country has been shaken by strife, but only a few people were held accountable for that in our lifetime," said the aide, Georgi Poltavchenko. "I do not think it is fair that those who initiated the strife remain in the center of our state near the Kremlin."

 裏にはプーチンの意向があるのだろう。記事には共産党のジュガーノフ委員長の反対も掲載されているが、そのあたりにいろいろ政争があるのかもしれない。
cover
レーニンを
ミイラにした男
 それにしても、冒頭ちょっと勘違いしていたのは、ソ連崩壊時にモスクワ市長も埋葬すると言い出していてそれがぐずり、結局エリツィンが大統領だった時代に撤去の国民投票をするとか騒いでいたんじゃなかったっけ…という記憶がちょっと脳裡にあったからだ。まだ未決だったのか。
 いずれにせよ、初めて持ち上がった話でもないし、他国にしてみればどうでもいい問題でもあるのだが、と、そういえば、金日成もミイラになっていたっけなとちょっと調べ直した。大丈夫。平壌の「錦繍山記念宮殿」にいる。なんかこれに毛沢東のミイラの三体を並べると、梨の名前じゃないけど、二十世紀って感じがする。現実の社会主義・共産主義というのは実に奇怪な宗教であることを如実に示しているな。
 そういえば、鄧小平は早々に散骨してくれと遺言していたかと記憶している。最後の肩書き、中国ブリッジ協会の名誉会長として死はある意味で一貫していたかもしれないが、周恩来もそうだが、死後墓暴きのような目に合いたくないというのが本音であったことだろう。
 レーニンももちろん、こんなミイラにされたくはなかった。やったのは正教の神学生だったスターリンだ。正教神学徒で連想するのだが、「カラマゾフの兄弟」ではゾシマ長老の屍体から腐臭が発していた。あのあたりの表現にはドストエフスキーの文学力とでもいうのかものすごいものがあった。腐臭を発するゾシマこそ聖なるものであると知ったアリョーシャは…というのはあまりに話が逸れる。
 余談めくがニューヨークタイムズの記事にちょっと気になる話があった。

Depending on who is speaking about him now, he is either a hero or a beast, a gifted revolutionary or a syphilitic mass murderer. (By some accounts he died not of strokes, the official cause of death, but of an advanced case of sexually transmitted disease.)

 とあり、そのあたりずばり書いちゃっていい時代になったのかと思って、Wikipediaを見たら、ちゃんと書いてありますね(参照)。ありゃりゃ、私もすっかり社会主義ボケしてら。

レーニンの死因は公式には大脳の動脈硬化症、あるいは脳梗塞とされている。しかし、彼を診察した27人の内科医のうち検死報告書に署名をしたのは8人だった。後の研究によって、彼は末期の梅毒に罹患していたであろうと公表された。

 時代といえば、レニングラードなんていう地名もなくなった。先の記事の締めもテンプレではあるがよろしい。

"Lenin," mused Natasha Zakharova, 23, as she walked off Red Square on Tuesday, admitting that she was not quite sure whose body she had just seen. "Was he a Communist?"

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ロシア革命の神話
 現代ロシア娘曰く、「このミイラの人って共産主義者なのぉ?」 ワロタ。それでいい。Wikipediaにもある。

レーニンが残した膨大な政治命令書が、ソ連末期のグラスノスチと共に徐々に公開され、その活動の研究が文書にもとづいて批判的に行うことが可能となった。それによると彼は政敵や、政策に抵抗する人々への粛清を行った事などが判明してきており、理論的にも共通点が見いだされたこともあって、レーニンの思想そのものがスターリニズムの生まれた要因の重要な核であるという批判がなされている。

 日本人にしてみれば死んだ魂に罪はない。ヴァロージャ、母の元で安らかに眠れ。

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2005.10.06

[書評]「多民族国家 中国」(王柯)

 非常に評価の難しい本だなというのが読後の実感だが、論として見ずに簡易な便覧というか日垣隆の言うリファ本のようにとらえるなら、まず一定の水準として意義があることはたしかだ。

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多民族国家中国
 「多民族国家 中国」(参照)の内容は標題通り、多民族国家としての中国を扱っているのだが、この立ち位置が微妙なものだ。当初私は偏見があって、後でふれるつもりだが東トルキスタンの近況情報を得たいものの、中国様の鼻息を伺うことになるかなとも思った。が、そうとも言えない。下品な視線でいけないと思うのだが、細君が日本人らしいこと、謝辞に安井三吉(「帝国日本と華僑―日本」)と山内昌之(「イスラームと国際政治」)の名が上げられていることからも、なるほどそのあたりの線かと納得する。本書は、民族問題について日中間の今後の学術的な合意のラインというのはこのあたりかなというのの参考にもなるが、残念ながら現実の政治のダイナミズムというのはそうした合理性とは違う運動をする。
 ブログだからという醜い弁解で言うのだが本書の最大の問題は史観であろう。中国を多民族国家とするなかにこっそりと潜むイデオロギーでもある。簡単にいえば、現代中国を清朝の継承国家とするとき、清朝は中国の王朝ではなく、モンゴル継承王朝であるということだ。中国はチンギス統原理を引いた王朝のコロニーではあっても同一ではない。冗談を言っているかのように失笑される向きもあるかもしれないが、中国というものに東トルキスタン、チベット、満州、モンゴルが含まれているのは清朝を中共が簒奪したからにほからない。
 とはいえ、清朝から中共への歴史過程は非常に複雑ともいえるので、たとえばより漢族的な史観から明朝をベースに中国という歴史国家とその領域の正統性を現時点で論じるというわけにもいかない。やっかいな問題という他はない。
 中国を多民族国家とするとき、「極東ブログ: ラオスとモン(Hmong)族のこと」(参照)でモンについて触れたが、インドシナ半島に近い領域の諸民族の問題(広義に朝鮮族を含めてもいいだろう)と、清朝が中国と同様にコロニーとした東トルキスタンやチベットは、多民族として中国に包括するには異質になる。つまり、「多民族国家 中国」という扱いそのものがこうした問題を隠蔽してしまう装置になりかねない。なお、満州は清朝の故地であり、モンゴルもそれに準じる(なお内モンゴルは分断されたモンゴルである)。台湾は中国ですらない(化外)。朝鮮と琉球については微妙な位置にある。日本は千年をかけて中国に対立した。本来なら朝鮮は対中国において日本モデルを取りうる可能性もあったが、その可能性は歪んだ形で現在進行している(韓国はその意味で日本化しているのである)。
 こうした問題は本書でも表現は明確ではないが意識化はされている。

つまり、モンゴル、チベットとウイグル族以外、本来ほとんどの小数民族は、二十世紀に入る以前中国からの民族独立を求めるようなアイデンティティをもたなかったのである。

 満州が事実上無視されているのは仕方がないが、満人が漢人と異なって存在していたことは「ワイルド・スワン」(参照)などを読めばわかることだ。そして、明確な王権を維持したチベットはその王の存在ゆえにまた対中国的な外交カードとしてよく問題化される。だが、現実のところチベットが今後独自の王朝として存続しうる道は事実上はあり得ないのではないかというほど中国化は引き戻せないものになっている。
 こうしたなか、現代的な問題に持ち上がってきたのがウイグル、つまり、東トルキスタンである。本書の著者王柯は現在となっては少し古いが十年前に「東トルキスタン共和国研究―中国のイスラムと民族問題」(参照)を著しており、この問題に詳しい。こちら書籍について、アマゾンの素人評で、東京都杉並区のカワセミ生息地の袋叩きの戦後民主主義者というかたがある意味で興味深いレビューをしている。

本書の言わんとする所は、要するに東トルキスタンはソ連の策略の結果であり、ウイグル人たちには主体的力量がなかっために長続きしなかったということだ。そういう見方も可能だと思うが、それが現在、ウイグル人ら中国西方の諸民族を支配している漢民族の一人によって書かれた作品だという点が非常に気にかかる。どういう結論になるにせよ、被抑圧者としてのウイグル人に書いてもらいたいのだが、共産党政権はそれを絶対許さないでしょう。事実、ウイグル人の立場から東トルキスタンの歴史を書こうとして、がんばっていたウイグル人東大大学院留学生が一時帰国中に捕まり、反革命罪で十年以上の判決を受け服役中である。著者は学者として、これをどう見るのか聞いてみたい。自国内のエスニック・グループに自分たちの歴史を書かせない中国が、日本に歴史問題でいちゃもんをつける不条理も聞いてみたい。それから、この作品に賞を出したウィスキー会社の選考委員のレベルも問いたい。

 レビューアーの言いたいことに心情的に同意したいのだが、学問というのはある方法論でこういう帰結になったという以上ではない。その意味で、所定の方法論が提示されている同書の価値を損なうものでもないだろう。
 というのはむしろ余談で、重要なのは、「多民族国家 中国」においても、「東トルキスタンはソ連の策略の結果であり、ウイグル人たちには主体的力量がなかっために長続きしなかった」という視点が基本的に継承されていることだ。
 しかし、ソ連が解体し、東トルキスタンと関連の深いウズベキスタンも独立を果たしている現在、さらにイスラム勢力が独自な世界権力に乗り出している現在、この問題はさらに複雑になる。そうした視点が「多民族国家 中国」に反映されていないわけでもないのだが、実に微妙な位置にある。むしろその微妙さが著者の学者としての良心かもしれない。
 現実の政治に戻るなら、「極東ブログ: ペトロカザフスタンまわりの話」(参照)や「極東ブログ: 石油高騰で強くなるロシア」(参照)でふれた中露のエネルギー問題と対米問題が主軸となる。日本はというと、現実的にはこうした流れに従属する以外の道はないのだろう。

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2005.10.05

ラップ口座、だとか、Yay!

 昨日だったか朝のラジオを聞いていたら評論家の内橋克人が富裕層目当ての銀行ビジネスの話をしていた。現代日本だとどのあたりが富裕層かと思って聞いていたのだが、金融資産で一億円、十億円とかいう話になってきたので、いきなりふーんモードになってしまった。が、そこは社会派内橋克人なので、きっと貧困層がいるのになんだコラ、というオチを想定していると、そうなった。評論家というのも伝統芸能みたいなものである。
 カネかぁ、とぼんやり思うことはいろいろあるのだが、うまくまとまらない。そういえばこのところラップ口座の話題とか多かったなとニュースを見直してみると、さらにいろいろ思うが、まとまらない。なので書いてみる。
 郵政民営化反対ではトバシまくった日刊ゲンダイがこのあたりは庶民感覚的でちょこっと書いているのをみかけた。”野村証券 最低1億円の金融商品投入へ”(参照)である。


 驚きの金融商品が発売される。野村証券が9月にもスタートさせる大金持ち向けの商品で、最低預入金額が何と1億円!
 これまでも証券各社は富裕層向けの「ラップ口座」と呼ばれる金融商品を扱っていたが、最低1億円とは驚愕だ。

 だよね、驚愕だ、か。でそのラップ口座とやらだが、読売のサイトに用語説明がある(参照)。

 証券会社が、個人投資家の意向に基づいて、株式や投資信託などで資産運用と管理を行い、預かり資産残高に応じてサービスの報酬を受け取る契約の口座。主に富裕層向けで、投資一任勘定ともいう。2004年4月から規制が緩和され、証券会社本体で提供しやすくなる。

 内橋克人はもっとわかりやすく、金持ちの「お守り役」と表現していた。実際そんなところだろう。で、お守り役のビジネスだが、収入は成功報酬か歩合みたいなものになるそうだ。なんとなく変な連想が沸くがやめとこ。いずれにせよ、金持ちの「お守り役」は証券や先物には昔からいたし、郵貯も実質はそうなっていた。特に郵貯はと口が滑りそうだがやめとこ。
 ゲンダイのオチはこう。

 思い切った野村の戦略だが、1億円以上をポンと預けられる投資家が果たしてどのぐらいいるか。
 結構いるんだろうなあ……。

 います。
 どころか、ターゲット層は一億円じゃなくて三億円なんだってばさ。
 もうネットからは消えてしまったが朝日新聞”富裕層を狙い資産一括運用 野村証券、3億円以上を対象”(2005.09.24)にはこうある。

 派遣労働者やフリーターなどの増加で低所得層が拡大する一方、情報技術(IT)起業家などが出て日本では富裕層も増加。メリルリンチ日本証券の調べでは04年末時点で100万ドル(約1億1000万円)以上の純資産を持つ個人は134万人いるとされる。

 これは不動産とか入ってなくて金融資産だけなので、大金持ちと言っていいかもだが、それが人口比でみると一パーセントもいる。え、そんなにいるか? いやいるかもしれない。アルファーブロガー(参照)とやらだって平均するとそのくらいにはなりそうだ…すまそ悪い冗談ですてば。
 ついでに野村以外でもこうした富裕層狙いはトレンド。朝日新聞”メリルと三菱東京、富裕層ターゲットの証券会社設立”(参照)は標題どおりの内容だ。

 米証券大手のメリルリンチと三菱東京フィナンシャル・グループは28日、合弁で金融資産を1億円以上持つ個人富裕層に的を絞った証券会社を設立すると正式発表した。来年5月にも営業を始め、資産の運用や管理の個別相談に応じるプライベートバンキング業務(PB)を全国展開する。

 雲の上の話はそんなところ。先の内橋克人は、預貯金が二百万円以下の庶民が人口の十五パーセントだというのに嘆かわしいみたいなオチにしていた。確かに、ワーキングプアとかニートとかみんなぁ仲良くやってこうぜいの庶民には関係なさげな話ではある…かな?
 ちなみに、五十代の資産平均は千五百万程度内五百万負債。六十代だと資産二千万内負債二百万。それより上は千二百万。というわけで、団塊の世代が退職金もあってどかんと資産を増やしそうな感じはする。
 億単位だとどうもふーん感が漂いまくりだが、ラップ口座は、大和証券は最低五千万、さらに日興コーディアルだと最低一千万円。一千万円だとそう遠い世界でもない。ま、私なんぞには遠い世界だが、先日ばらけた外貨をユーロにまとめにシティバンクに行ったら、店内はけっこうがらんとしていて、個人対応のシティゴールドの部屋もがらんとしているふうだった。あれいくらだったっけとパンフを見直したら一千万。そんなものかねと思った。
 話がばらけてきたが、マクロ経済学なんぞの入門書とか見ると、消費行動は一生涯の賃金の予測に比例するみたいな話があって、なーんだマクロ経済学って笑わせるじゃんかとか思ったが、そんなことをネットに書くとこっぴどい目にあうのだろうからワロタとか言えるまでもないし、きっとマクロ経済学は正しいのでしょうし、正しくするにはそういう所得の見通しが立つ政策でもあるといいし、それはあるだろうし云々…だが、実際のところは、所得見通しというより、カネ余りの五十代の世代勝ち組のマネーゲームが始まるのだろう。
 するってえと昔の長谷川慶太郎みたいのが「日経平均五万円!」とか言い出すんじゃないか…とネットをみたら、うわっマジだか洒落だかこいているのもいるげ(参照)。さて、そうなりますかね。

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2005.10.04

ジャンクDNAが否定されると進化論はどうなるのか

 また進化論の話。そういうこと。でもお楽しみの宗教ネタはなし。話の軸は先日ニュースにもなったが、理化学研究所を中心とする同チームがまとめた二日付のサイエンス誌発表の話だ。サイエンス誌のオンラインサイトでは特設”Mapping RNA Form and Function”(参照)がある。
 Googleで見るとネット上の報道記事はすでにほとんどない。読売新聞” 遺伝情報「ゲノム」、70%に「機能」あった 理研などの国際チーム発表へ”( 2005.09.02)はこう報道していた。


従来、生命活動に役立つ部分はゲノムの2%程度とされていたが、大幅に増え、約70%で機能を持つ可能性があるという。

 報道ではゲノムの有用情報のあたりが中心となった。さらに、RNAの全体像について、次の言及があった。

 設計図であるDNAの情報からたんぱく質が作られる過程では、DNAが仲介役のRNA(リボ核酸)にいったん写し取られる=図=。解析の結果、ゲノムの70%以上でDNAがRNAを作り、大半が何らかの機能を果たしていると判明。DNAが作った全RNAのうち、53%(約2万3000個)は、たんぱく質を作らないこともわかった。

 従来はゲノムの大半を占める無意味な部分はジャンクDNAと呼ばれ、こう理解されていた。英語のWikipedia(参照)を引用する。

In molecular biology, "junk" DNA is a collective label for the portions of the DNA sequence of a chromosome or a genome for which no function has yet been identified. About 97% of the human genome has been designated as junk, including most sequences within introns and most intergenic DNA. While much of this sequence is probably an evolutionary artifact that serves no present-day purpose, some of it may function in ways that are not currently understood.

 意味をもたないゲノムの部分であるジャンクDNAがゲノムの九七パーセントに及ぶとされていた。しかし、この段落は最近の研究でそうとも言えないという話の流れにつながっている。日本語のWikipediaの同項目の解説に至っては、全体にはまだ混乱の印象も受けるが、すでに今回の理学研究所の結果も追記されていた(参照)。

 2005年、理化学研究所を中心とする国際研究グループはマウスの細胞内のトランスクリプトーム分析を行い、トランスクリプトームで合成される44,147種類のRNA中、53%に相当する23,218種類が蛋白質合成に関与しないものであること、蛋白質合成をおこなうコード配列であるセンスRNAの発現は蛋白質合成を行わないアンチセンスRNA(センスDNAと相補関係にある)によって制御されていることを突き止めた。
 この発見により、ジャンクDNAは実際には機能していることが分かり、従来のDNA観、ゲノム観を大きく転換する契機となると期待されている。

 今回発見された、たんぱく質合成に関わらないかなりの数のRNAはncRNAと呼ばれているもので、従来は数百種類程度しか知られていなかった。しかし、実際には、RNAの半数を占めていた。WikipediaではこのRNAについても非コードRNAの項目にすでに追記があった(参照)。
 さて、これが進化論とどう関係するかだが、難しい。先のジャンクDNAについてのWikipediaにはこういう古い記述が残っているのだが、そのあたりが手がかりになる。

ジャンクDNAがかなりの割合を占めるとする仮定 - 例えばヒトにおける'97%'という値 - は進化論とは決して調和しえない、という事にはには注意が必要である。細胞分裂の度に行われるこのような多量に含まれる無用の情報の複製は、役に立たないヌクレオシドの作成のため多くのエネルギーが浪費されることにつながり、生命にとっては重荷となるだろう。そのため、進化論における時間のスケールの上において、自然選択における懲罰的な損失を被る事なく利用可能なエネルギーおよび物質量を維持できるような水準に、削除的な変異による'ジャンク'配列の除去によってその量が削減されなければならない。本当に'ジャンクDNA'配列が存在しているという(現在では想定された時ほど一般的とは考えられていない)事実は、ポピュラーな科学では一般的に考えられている、よりエネルギーを維持するような自然選択の要求はそれほど厳しくないことを示唆している。

 引用に際して太字指定した括弧の部分がこの段落と整合していないように見えることは多くのかたの同意が得られるのではないか。ここは後からの追記のように思えるのでその点を除くと、この段落は、いわゆる分子進化の中立説と自然選択説の齟齬のように捕らえられていた、ということを意味しているだろう。
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POPな進化論
 かえって話を混乱させてしまうかもしれないが、一般向けの「POPな進化論―『進化』の謎と不思議を推理する!」(参照)ではこう書かれていた。

「(略)ヒトのDNA配列の中で、実際に遺伝情報を乗せている部分は全体の一〇%くらいしかないって。つまり、DNAの九〇%までは、何の意味も持たない、という意味において偽遺伝子なんです。一九八〇年にこの事実が発見された時にはちょっとしたセンセーションを巻き起こしましたが、これは中立突然変異の存在を主張する木村博士にとっては非常に重要な意味を持っていました。なぜなら、この偽遺伝子は、現在バリバリの現役遺伝子より、はるかにたくさんの突然変異を起こしていたんです。」
「えーと……それがなぜ、中立突然変異という仮説を支持することになるんですか?」
「もし、すべての突然変異が、生物に有利か不利か、という基準で自然選択を受けるものだとしたら、そもそも今現在、生物の生存に何の関係もない偽遺伝子の上に、自然選択の結果である突然変異の定着なんて起こるわけがないじゃないですか」
「あ! なるほど!」
「こうして、少なくとも分子レベルでは、自然選択の力にたよらない、まったく偶発的な進化というものが起こり得ることが明かになりました。(略)」

 一般向けに意図的に書かれているのだが、こうした構図は私の理解ではこの二〇年間それなりに一つのパラダイムを形成していたように思われる。
 が、今回のncRNA研究からかなりの見直しが必要になるのだろうと思う。それがどのようなものかが率直に言って私にはよくわからない。が、自然選択説がより強固になるというばかりではないようには思われる。ちょっと当てずっぽでいうのだが、これらのncRNAは不均衡進化モデルを支援するように働いているのではないかという感じがする。
 ということで蛇足だけど、不均衡進化モデルは先の「POPな進化論」ではこう面白く解説されている。

「ところが、誰もが常識として知っていたはずの、DNAの自己複製メカニズムの中に、実は古澤博士らが指摘するまで誰も気づかなかった、非常に大きな進化の盲点があったんですよ。実は、こうして二本に裂けたDNAのそれぞれの片割れにおいては、突然変異の蓄積の仕方がまったく違うんです。つまり、一揃いのゲノムから生じた二つの個体の間では、進化の速度が不均衡だということなんですよ」
(略)
「その通り。古澤博士らが実際に確認したのも、まさにそのような事実だったんです。そこで博士らは、こんなコンピュータ・シミュレーションを行ってみました。もし、この時、二本に別れたDNA鎖のそれぞれに進化速度の不均衡が非常に大きな、それこそ、百倍も千倍も違うものだったらどういうことになるだろうか、という仮説にもとづいて、実際にそのようなプログラムを走らせてみたんです。一方において、これまでわれわれが漠然と信じていた通り、二本のDNA鎖のどちらにも偶発的に、同じ確率で突然変異が蓄積される、というモデルが試されました。その結果は実に興味深いものとなりました。世代を重ねる内に、予想通り、従来の考え方に基づくモデルでは、祖先と同じ遺伝子を保つものは完全にいなくなりました。つまり否応なしに原種は消滅し、より進化した種にとってかわられたんです。ところが不均衡進化モデルの方では、何世代たっても必ず原種のままの系統が残ったんです。しかし、変化の早いものでは、従来のモデルの内もっとも進化したものをはるかにしのぐ勢いで、突然変異が蓄積されていました。このモデルを、古澤博士は、”元本保証”と形容しています。まさに言い得て妙、というとろなんでしょうね。」

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2005.10.03

寄らば大樹の陰

 些細な話でしかもちょっと思いもよくまとまらないのだが、気になることでもあるので簡単に書いておこう。先日の「極東ブログ: 長谷川憲正参議院議員の反復横跳び」(参照)の続きでもある。
 話は大樹(特定局長OBによる政治団体「大樹全国会議」)と、田中康夫長野県知事が代表の新党日本を巡る反復横跳び長谷川憲正参議院議員の余談でもある。メインの話題ではないが産経新聞記事”旧橋本派、15億円超不明 宣誓書で異例の釈明”(参照)がわかりやすい。


 先月の衆院解散のきっかけとなった郵政民営化関連法案をめぐる衆参両院本会議での造反劇。民営化反対の旗振り役だった長谷川憲正参院議員(国民新党)の政治資金収支報告書からは、特定郵便局長OBらでつくる「大樹」による文字通り「丸抱え」の実態が浮かび上がる。


 資金面と並んで目を引くのは「大樹」と同後援会の一体性だ。長谷川憲正後援会の事務所、事務担当者は大樹全国会議と同一。さらに長谷川氏の東北、東海、北陸の地域ごとにつくった後援会と大樹の各地方本部は住所、代表者、会計責任者、事務担当者、その連絡先、さらに政治資金収支報告書の届け出時期までが同じで、筆跡もうり2つだった。

 つまり、長谷川憲正参院議員は、カネの面から見ると大樹、つまり特定局長OBそのものだったわけだ。
 具体的なカネはこう。

 政治団体「大樹全国会議」は2004年参院選で、旧郵政省OB長谷川氏の擁立を決めた直後の同年1月、長谷川憲正後援会に2000万円を寄付。東北、東海、信越、北陸の各地方本部が1―4月に計470万円をその地域の長谷川氏の地方後援会にそれぞれ寄付している。

 カネの流れ自体については図解している朝日新聞記事”郵便局長どっと献金 法案阻止資金準備、大樹向け14倍”(参照)がわかりやすいだろう。というか、面白い。
 とはいえ、長谷川憲正参院議員を巡るカネの流れをどう読み解くかはそれほど簡単でもないと思う。基本的には、前回当選後に所属した旧橋本派からの資金援助がないので、大樹から吸い上げるしかなかったとは言えるのだろうが、はたして主体は大樹だったのか長谷川憲正参院議員だったのか。ちょっとうがった言い方をすれば、結果的に見れば大樹は下手を打ったのだが、そのシナリオを描いていたのは誰だろうか。
 個人的に気になるのは、「極東ブログ: 長谷川憲正参議院議員の反復横跳び」(参照)でも触れたが、公選法上の政党要件を満たすと、寄付金の限度額が変わる。結局、国民新党から田中康夫長野県知事が代表の新党日本へ移籍さらに、反復横跳びで国民新党へと長谷川憲正参院議員はひらひらしたわけだが、国民新党にいるなら別に公選法と寄付金限度額についてはそれほど問題はない。が、助成金目当てということだけかもしれないが、他に理由があるなら、なぜ新党日本へ横跳びしたのだろうか。というか、そこまでして大樹の化身長谷川憲正参院議員御大自らがひらりと横跳びした。しかも、それは、国民新党というより田中康夫長野県知事が代表の新党日本を利することが目的でもあった。なにか解せない。大樹の旨味がなくなったので、潤沢そうな綿貫民輔の国民新党に戻ったということだろうか。しかし、綿貫民輔とても旧橋本派なので今後のカネ入りはしょぼいだろう。
 大樹の今後も気にはなる。「最強の集票マシン」と言われ、全国津々浦々に二十四万人の党員党友を集めていたわけだが、そのまま地方利権ということだけになれば、国政への影響といった見地からすれば崩壊に近いだろう。そうなのだろうか。
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自民党の研究
 ところで旧橋本派だが、政治資金収支報告で十五億円不明という愉快な話を出してきたが、これらの集金システムは基本的には土建屋さんからの献金だったのだろう。以前も紹介したが栗本慎一郎「自民党の研究―あなたも、この「集団」から逃げられない」(参照)では、カネの仕組みを簡単に説いている。ま、日本人の常識とも言えることだが。

 「おかみっちゃん」こと岡光序治前厚生次官が、彩グループという福祉利権屋が受けた「まる投げ」の発注工事から浮かせた金を吸い取っていた事件は記憶にまだ新しいが、一部の利権政治家や官僚を結びついた業者は、話を仲介した政治家には阿吽の呼吸で「返して」くるのだ。
 つまり、そのような工事は、政治家や官僚にキックバックしても儲かる金額で落札されているのだ。高すぎる工事・建設費が指摘されるのは、このためである。
 一般に、土木・建築工事の契約を取ってくれた政治家へのリベートは、三パーセントと相場が決まっている。一〇〇億円で三億円、一〇〇〇億円で三〇億円だ。バブルのころ、いかに建設関係の族議員や、それを束ねる大物政治家が儲けたかはいうに及ばない。官僚はそれを知っていて、工事の契約を政治家の関係先に回す。これではまるで、政治家に直接金を渡すのと同じである。工事の金は税金であるが、そんな意識は毛頭、持っていない。

 道路関係は今後の旨味は減ってくるだろうし、旧橋本派は弱体化するだろう。こうした箱物媒介の寄付金構造はどの省庁と限らないが、基本的な構図として今回の選挙で財務省が強化され、難しくはなったことだろう。ま、その財務省が問題だよねというのはそうなんだが。

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2005.10.02

日本人と進化論

 昭和の時代のことだが、永六輔だったか天皇に和服を着せようと提言していた。日本の天皇なのに和服姿というのはないという穿った話だった。宮中儀礼や婚礼の装束も和服のうちでもあろうが、いわゆる和服ではないだろう。天皇の着流しなどは想像もつかない。天皇家は諸事欧風である。日常の食事には和食も当然あるだろうが、かしこまった席では欧風と決まっているはず。明治時代が作り出した日本というのはそういうハイカラなしろものなのだが、平成も十七年にもなるとなんとなく近代日本というか日本というイメージが随分変わってきたような気がする。
 昭和天皇は生物学者でもあった。戦中も自室にダーウィンの肖像を掲げていたと聞く。その業績は同じく生物学者である今上陛下の業績とともに新江ノ島水族館(参照)に展示されている。科学者としての昭和天皇のありようは、北一輝をして「クラゲの研究者」と呼ばわしめたほどだ。
 昭和天皇はダーウィニスト、つまり、ダーウィン進化論者であったか。そりゃ、問うまでもない当たり前ことだ。しかし、日本の戦前、天皇は現人神と言われていたのにその当人がダーウィニストということがありえるのだろうか。いや、そんな疑問を持つ日本人はいなかったし、現在でもほとんどいないのではないか。
 日本の生物学といえば、明治時代に東大で生物学を講じたモース(Edward Sylvester Morse)が端緒であろう。今日では大森貝塚の発見者として日本の初等教育では教えているようだが、彼こそは日本に初めて進化論をもたらした。
 で、どうなったか、日本における進化論教育の影響である。いや、どってことない。日本人はモンキートライアル(参照)などということは起きなかった。人間は猿から進化した、で? なにか疑問でも。
 かくして明治以降日本の知識人はみな進化論を学んだ。山本七平と小室直樹の対談集「日本教の社会学」にこういう話がある。


山本 その例として、こんなおもしろい話があるんです。つまり天皇的ファンダメンタリストがあれば、進化論を否定しなくちゃおかしいですよね。天皇がサルの子孫であるというのは容認できないでしょう。あれは神の子孫のはずでしょう。
小室 ところが誰も問題にしない。
山本 そればかりか不思議なことに、戦争中、平気で進化論を教えているわけですよ。だから私、フィリピンの収容所でアメリカ兵に進化論の説明をされて、こっちははなはだしゃくにさわるわけなんです。このアホ、なにいってんだと。中学校程度の知識をもって、おれに進化論を説明するとはなにごとだ。だから逆にそのときビーグル号かなにかの話をしてやったんです。そうすると相手は驚いちゃうわけです。ところが、先方は「それじゃ、おまえたちは現人神がサルの子孫だと思っていたのか」と。
小室 日本人、誰もこの矛盾に気がつかない。
山本 気がつかない。アメリカ兵にそこを指摘されたとき、こっちはあっと驚くわけです。つまり天皇が現人神だといっていた国には、進化論はあるはずがない、彼らから見ればそれが論理的帰結ですから一所懸命、進化論の説明をしているわけです。
小室 逆に進化論を信ずれば、天皇が現人神であるはずがない。だからどっちか片方信ずるってことはあり得ても、両方いっぺんに信ずることはないと。
山本 あり得ない。じゃ、なぜ日本教において両方いっぺんに信ずるのか、これが日本的ファンダメンタリズムのいちばんの基本問題になるわけですね。

 山本七平は戦後、この問題を考え続けた。「静かなる細き声」ではこの問題をこう展開した。

 徳川から明治に移るころ、日本の学生が進化論の話を聞いても少しも驚かず、これが逆に外人教師を驚かしたという話を聞いた。
 進化論は科学のはずである。人々はそれを科学だから信じたのであろうか。
 これは少々考えにくい。というのは当時のさまざまな事例は、日本人が決して科学的ではなかったことを示している。
 これはことによったら、日本の伝統的な宗教的世界観・人間観に、何かの点で進化論とマッチする考え方があり、その宗教の延長線上で進化論を受け入れて、それを科学だと信じたということではないだろうか。

 そして彼は江戸時代の思想のなかに、「一種の草木変じて千草万木となり、一種の禽獣虫魚変じて千万種の禽獣虫魚変となる」といった考えを見つけた。鎌田柳泓は言う。

これを以ってみれば天下の生物有情無常ともみな一種より散じて万種となる者なるべし。人身の如きも其初唯禽獣胎内より展開変化して生じ来るものなるべし。

 山本七平はこういう思想が江戸時代に普及しえたことに日本人の進化論への態度と科学への態度について再考していく。
 彼はこう問いなおす。それは「科学」なのだろうか、と。

 その背後には、「科学」ないしは「学」なら信ずるかもしくは敬意をはらうが、宗教なら軽蔑するか問題にしない、といった心的状態があるように思われた。
 一体この「科学」という言葉はどういう意味なのであろう。「占いは科学だから信ずる」という言葉の「科学」は、私には、どう考えても「サイエンス」の意味とは思えなかった。
 これはきっと、仏心を本心と言いなおして、非宗教的な表現にしながら宗教的内容をもっているのと同じように、何かを科学と言いなおしているのである。
 そしてこの「科学」という言葉に、何か宗教的なものがあるから、その人はそれを信じているに相違ない。
 日本における伝道の障害になっているものは、おそらく「科学」と言いかえられた「何らかの宗教的なもの」なのである。

 ここで山本七平が「日本における伝道の障害」といっている背景には、なぜ日本にはキリスト教が根付かなかったかという問いがあった。
 彼は、日本にキリスト教が根付かなかったのは、それが「科学」と言いかえられた「何らかの宗教的なもの」による宗教対宗教の対立ではないかと見ている。そして、日本人とっての進化論の受容というのも、実は、ある種の伝統的な宗教的な世界観の表出にすぎないだろうともしている。
 昭和天皇がダーウィニストであることに違和感のない精神性こそ日本文化そのものであり、そして、たぶん、山本七平が指摘した状況は、なお現代日本にも、若い人にすら、当てはまっているように思える。

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2005.10.01

ただ飯はないよ定理の奇妙な応用に関連する悪夢

 まれにだが明け方夢を見ているまま意識が覚醒していることがある。夢の思考をそのまま続けているのだ。プログラマーをしていたときは、かなり昔のことになるが、デバッグの夢ばかり見ていた。新規に未決な問題を抱えているとそういうことがある。

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四色問題
 夢はというと四色問題についての一般向けの講義だった。四色問題を知っている人なら想像が付くと思うが、やたらとつまらない。エレファントな証明っていうかピンクエレファントだよな。
 夢の講義を聴きながら私はウンザリしている。だからぁ、解法が全然エレガントじゃないんですよぉとかぶつぶつ独り言を言う。知りたいのは、なぜこの簡素な問題がこうもエレガントではない解法になるのかということをエレガントに知りたいのであって、解法のエレガンスじゃないんですよ。あー、だからぁ解法アルゴリズムの改良(参照)じゃなくてぇ…違う!
 朝、ミューズリを噛みながら、ブレックファストティーを飲み終えても、頭の中は夢が続く。だめだこりゃ、通じねーわ、とか呟いていくうちに、次第に現実世界の思考に戻っていく。さて、世間はなにを悩んでいるのだろうか。四色問題ではあるまい。靖国問題?
 世間にもいろいろあるがサブ世間で悩み事になっているのは、あれだ。インテリジェントデザイン(ID)論への反論だよね、ってつい苦笑してしまうのだが、日本で話題になっているのは、産経新聞”「反進化論」米で台頭 渡辺久義・京大名誉教授に聞く”(参照)への反論なので、これは相手にするも稚拙(参照)。端から米国の政治問題に縮小すると話は単純すぎ。もっともID論なんてその程度ということでもあるのだろうが、ID論への反論をするならもうちょっと情報論などを含めて包括的にというか、あるいは進化論全体への目配せもあってもいいかなとも思うのだが、あまりそういう話題はない。私なんぞが下手に突っ込むとこっちもあらぬとばっちりを受けかねないので桑原桑原でもある。
 が、変な夢を見たのは、ちょっとこの話に関係する。昨晩、デンスキー(William A. Dembski、参照)の指定複雑性(Specified complexity、参照)とチョムスキー思想のことを考えていた。と、すでに厄介な話に足をつっこみつつあるが、生物の複雑性について、チョムスキーは、通常生体は余剰ある複雑性を取るのだが、人間の言語能力には例外的なシンプリシティを想定していて、なぜそうなるのか進化との関連がわからない、としている。
 暗黙の内にチョムスキー学に非進化論的な匂いを嗅ぐ学者は少なくない。ピアジェ(参照)を初めフォーダー(Jerry Fodor、参照)などもそうか。ゴリラなど持ち出して言語能力の研究なども進められているのは、非進化論的な言語能力のという仮説に反論したいのだろう。
 ま、それはそれとして、デンスキーの指定複雑性だが、これは数学的に成り立つのだろうか? ノーフリーランチ定理(参照)の応用ともいえるらしく、確かにヒューリスティック(発見的)な手法から最適解、つまりここでは強力な構造が形成されることはありえない、という標識は情報学的に明確になるものだろうか。そのあたりをぼんやり考えていて四色問題の悪夢となった。
 このあたりの話はトンデモにも近いので悪夢じゃない将来を夢みている学者さんは考察もしないかもしれないし、そんなもの端からトンデモですよというだけかもしれない。
 話はちょっと逸れる。私は悪夢から覚めて、ぼんやり秋の日を過ごしながら、いわゆる日本のID論批判に隠されているのは「自然」ではないかなとふと思った。これにはちょっと連想がある。木村資生(参照)の中立進化説(参照)だが、一般的にはWikiにもあるようにこう理解されている。

分子レベルでの遺伝子の進化は、従来のダーウィン進化論の説明のように自然淘汰により引き起こされるだけではなく、生物の生存にとって有利でも不利でもない中立的な突然変異を起こしたものが偶然に広まり集団に固定化することによっても起きるとする。

 しかし、これは、自然淘汰説への反論とはならなかった。

生存に不利な変異は自然淘汰によって排除されるという点では淘汰説と共通するが、中立進化説では、突然変異の大部分が、生物にとって有利でも不利でもない中立的な変化であるという事実に注目する。

 このあたりちょっと微妙なんだが、中立進化説は、要するに分子レベルでは中立といいながら、学説としては、自然淘汰説に対立せず、実際の種の規定についてはメジャーなダーウィニズムに従属することになった。
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POPな進化論
 というところで、そうか、ダーウィニズムというのは、自然淘汰説であり、ここで問われているのは「自然」か。そうか。ID説というのが擬似的に「神」なら、ダーウィニズムは擬似的に「自然」であり、この自然とは、そう、ホッブズ(参照)のいう自然状態(参照)の自然なのだろう。
 ぶっちゃけてしまえば、どっちも同じ根の西洋哲学的な対立にすぎないのではないか。ホッブズの子孫達が神を暗示するID論に忌避感を持つのは当然だが、八百万の神、直毘霊の日本人がその土俵に乗ることはないんじゃないか…。ま、今夜は悪夢を見たくはないな。

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