[書評]「多民族国家 中国」(王柯)
非常に評価の難しい本だなというのが読後の実感だが、論として見ずに簡易な便覧というか日垣隆の言うリファ本のようにとらえるなら、まず一定の水準として意義があることはたしかだ。
![]() 多民族国家中国 |
ブログだからという醜い弁解で言うのだが本書の最大の問題は史観であろう。中国を多民族国家とするなかにこっそりと潜むイデオロギーでもある。簡単にいえば、現代中国を清朝の継承国家とするとき、清朝は中国の王朝ではなく、モンゴル継承王朝であるということだ。中国はチンギス統原理を引いた王朝のコロニーではあっても同一ではない。冗談を言っているかのように失笑される向きもあるかもしれないが、中国というものに東トルキスタン、チベット、満州、モンゴルが含まれているのは清朝を中共が簒奪したからにほからない。
とはいえ、清朝から中共への歴史過程は非常に複雑ともいえるので、たとえばより漢族的な史観から明朝をベースに中国という歴史国家とその領域の正統性を現時点で論じるというわけにもいかない。やっかいな問題という他はない。
中国を多民族国家とするとき、「極東ブログ: ラオスとモン(Hmong)族のこと」(参照)でモンについて触れたが、インドシナ半島に近い領域の諸民族の問題(広義に朝鮮族を含めてもいいだろう)と、清朝が中国と同様にコロニーとした東トルキスタンやチベットは、多民族として中国に包括するには異質になる。つまり、「多民族国家 中国」という扱いそのものがこうした問題を隠蔽してしまう装置になりかねない。なお、満州は清朝の故地であり、モンゴルもそれに準じる(なお内モンゴルは分断されたモンゴルである)。台湾は中国ですらない(化外)。朝鮮と琉球については微妙な位置にある。日本は千年をかけて中国に対立した。本来なら朝鮮は対中国において日本モデルを取りうる可能性もあったが、その可能性は歪んだ形で現在進行している(韓国はその意味で日本化しているのである)。
こうした問題は本書でも表現は明確ではないが意識化はされている。
つまり、モンゴル、チベットとウイグル族以外、本来ほとんどの小数民族は、二十世紀に入る以前中国からの民族独立を求めるようなアイデンティティをもたなかったのである。
満州が事実上無視されているのは仕方がないが、満人が漢人と異なって存在していたことは「ワイルド・スワン」(参照)などを読めばわかることだ。そして、明確な王権を維持したチベットはその王の存在ゆえにまた対中国的な外交カードとしてよく問題化される。だが、現実のところチベットが今後独自の王朝として存続しうる道は事実上はあり得ないのではないかというほど中国化は引き戻せないものになっている。
こうしたなか、現代的な問題に持ち上がってきたのがウイグル、つまり、東トルキスタンである。本書の著者王柯は現在となっては少し古いが十年前に「東トルキスタン共和国研究―中国のイスラムと民族問題」(参照)を著しており、この問題に詳しい。こちら書籍について、アマゾンの素人評で、東京都杉並区のカワセミ生息地の袋叩きの戦後民主主義者というかたがある意味で興味深いレビューをしている。
本書の言わんとする所は、要するに東トルキスタンはソ連の策略の結果であり、ウイグル人たちには主体的力量がなかっために長続きしなかったということだ。そういう見方も可能だと思うが、それが現在、ウイグル人ら中国西方の諸民族を支配している漢民族の一人によって書かれた作品だという点が非常に気にかかる。どういう結論になるにせよ、被抑圧者としてのウイグル人に書いてもらいたいのだが、共産党政権はそれを絶対許さないでしょう。事実、ウイグル人の立場から東トルキスタンの歴史を書こうとして、がんばっていたウイグル人東大大学院留学生が一時帰国中に捕まり、反革命罪で十年以上の判決を受け服役中である。著者は学者として、これをどう見るのか聞いてみたい。自国内のエスニック・グループに自分たちの歴史を書かせない中国が、日本に歴史問題でいちゃもんをつける不条理も聞いてみたい。それから、この作品に賞を出したウィスキー会社の選考委員のレベルも問いたい。
レビューアーの言いたいことに心情的に同意したいのだが、学問というのはある方法論でこういう帰結になったという以上ではない。その意味で、所定の方法論が提示されている同書の価値を損なうものでもないだろう。
というのはむしろ余談で、重要なのは、「多民族国家 中国」においても、「東トルキスタンはソ連の策略の結果であり、ウイグル人たちには主体的力量がなかっために長続きしなかった」という視点が基本的に継承されていることだ。
しかし、ソ連が解体し、東トルキスタンと関連の深いウズベキスタンも独立を果たしている現在、さらにイスラム勢力が独自な世界権力に乗り出している現在、この問題はさらに複雑になる。そうした視点が「多民族国家 中国」に反映されていないわけでもないのだが、実に微妙な位置にある。むしろその微妙さが著者の学者としての良心かもしれない。
現実の政治に戻るなら、「極東ブログ: ペトロカザフスタンまわりの話」(参照)や「極東ブログ: 石油高騰で強くなるロシア」(参照)でふれた中露のエネルギー問題と対米問題が主軸となる。日本はというと、現実的にはこうした流れに従属する以外の道はないのだろう。
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