« 北朝鮮をめぐる六カ国協議共同声明について無駄に考えてみる | トップページ | 胡耀邦名誉回復の背後にどんなパズルが潜んでいるのか »

2005.09.23

[書評]唯幻論物語(岸田秀)

 「唯幻論物語」(岸田秀 文春新書)を読んだ。昨晩は寝るのも忘れて読み終えた。

cover
唯幻論物語
 岸田の本は、たぶん二度と読むことがないだろうと思っていた。本書を待ち合わせの駅の書店で見かけて手にしたとき、「あ、またか」と思った。パラパラとめくって、「くだらね」と思ったが、その後、この本を買って読め買って読めと反復・強迫が始まった。なぜであろうか。岸田の本を読むのは、ちょっと恥ずかしいという思いと、読んでもまたかよ損したぁというのが表向きのネガティブな思いではあるが、今回はなにかが違っていた。アレである、本当の本だけが知らせる直感のようなものがあった。もっとも、このあたりの好悪や評価は人によってかなり違うのだろうが。
 なにげなくたらっと読み始めた当初は、ほぉ、小谷野敦「すばらしき愚民社会」への反論ということか、やっぱ、くだらね、とも思った。
cover
すばらしき愚民社会
 ちなみに小谷野のこの本は一読して、くだらねと読み捨てたものの、再読して評価を変えた。よい本であるし、小谷野は誠実な人文学者さんであると思う。彼にしてみれば私なんぞこの本の帯にあるように「バカが意見する世の中」の代表ではあろう、けっ、しかも、私は彼がくだらねえとする吉本隆明や小林秀雄を飽きもせず読み返す愚民でもある云々…てなことはどうでもいい。小谷野はきちんと欧米流の教育を受けた人だなとは思う。中島義道もそういうところがある。むしろ柄谷行人にはそういうデシプリンを受けてないように私は感じるし、池澤夏樹などもその教養のボーンに西洋の教養の体系性が感じられない云々…てなこともどうでもいいのだが、話を小谷野に戻して、彼は岸田秀からのこの強力なメッセージを読み解けるだろうかとは思った。
 こう言うと私にもとばっちりがくるのだろうが、「唯幻論物語」を読みながら、私は漱石の「こころ」を連想した。話がちと回りくどいが、「山本七平の日本の歴史 (上)」で漱石の「こころ」が「先生」の命を代償に「私」に残す精神性とはなにかと問うているが、「唯幻論物語」の岸田は自己の命の代償に小谷野に告げるというほどではないが、稀代の大学者が若手の知性へ向けてその知の最大の贈与をここで行なっているのだという、ぞくぞくとした感じが、私にはあった。小谷野にそれが伝わるだろうか。
 私は岸田秀は大学者だと思う。というか、本書を読みながら、二十年以上かかったが、ようやくそう確信した。これだけ精緻にフロイトを読み解いた学者はいないのではないか。岸田はラカンはくだらないみたいなことを書いているがそれは単純にただそういうことなのではないか。ラカンはフロイトをただその時代の気風や集団のモードに合わせて説いていただけだし、コアの集団は一種のカルトのようでもあった。ラカン自身、フロイトを一歩も超えていないという自覚もあっただろう。そもそも精神分析学というのはそういうものだということも岸田はよく見抜いている。岸田について強いていえば、結局この人は生涯をかけてフロイト学説という車輪を再発明しただけとも言える。が、その必然性はあるのだろう。
 本書あとがきに、岸田はこの本は最初にして最後の書き下ろしであると書いている。考えてみれば、彼はあれだけ書き散らしながら、自分からは本など書く気はなかったのだろう。言いたいことはあるし、それが本になるうれしさは当然あるだろうが、自発的に本など書く気などはさらさらなかった。しかし、人生の最終局面でそうしたわけだ。余談だが、吉本隆明も似たようなもので、書きたいと思って書いた本は「『反核』異論」(参照)だけだった。
 余談が多くなったが、本書を読みながら、「インチキ恋愛」という概念が気になった。こういう形でくっきりとまとめられたのは本書が初めてではないだろうか。
 岸田はある意味でレトリックの自縄自縛に陥りやすい。「普通の恋愛」と「インチキ恋愛」といっても、恋愛そのものが幻想でしょ、というところでドツボる。このあたりは、もっと本能論みたいなものを出してもいいだろうとは思うが、易しそうに見える岸田の説明の本質的に厄介なところだ。同じことが、「反復」にも言えるのだが、岸田は誠実なあまり、この概念をあえて充分には咀嚼していない。ついでいえば、意識の共同性についてはヘーゲルなどを読み解けば得るところは大きいだろうが、彼の流儀ではヘーゲルという車輪を再発明するしかなく、残念ながら、彼の人生にその余裕はないだろう。
 と、「インチキ恋愛」について、昨今のモテ・非モテ、ツンデレという文脈で少し敷衍してみたい、というかそのあたりのネタをこのエントリのコアにしようと思っていたが、気が変わった。誤解されるだけだろう。
 私などが言うのも僭越だが、本書にはフロイトの心髄があると思うし、学問というものが裸の姿で現れるとこうなるという奇妙な例示であると思う。

|

« 北朝鮮をめぐる六カ国協議共同声明について無駄に考えてみる | トップページ | 胡耀邦名誉回復の背後にどんなパズルが潜んでいるのか »

「書評」カテゴリの記事

コメント

ウェーバーが「アジア的宗教の一般的性格」の中で、主に日本を中心にアジアを分析し、
アジアの最大の特徴は、西洋の経験科学
では決して測ることの出来ない、
グノーシス(霊知)がアジアのコアとなって
いる、ということを述べていますが、
その限界性の認識がある学者とない学者
がいますね…。おそらく、この限界性の
認識がないと、日本の恋情は分析できない
かなと個人的には思っております。

投稿: kagami | 2005.09.23 16:44

少し敷衍!読みたい!「誤解されるだけ」って何をいまさら(;´Д`)
是非!!

投稿: き | 2005.09.23 17:45

このエントリーからの抜き書きを、以下のコメントに使わせていただきました。

“岸田秀 公式サイト掲示板”の「唯幻論について」というフォーラムの《『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』について》に対する2007/5/28のコメントで、次のような形です。

【… から抜き出します。
*******************************************************
岸田の本は、たぶん二度と読むことがないだろうと思っていた。
     …
   〈14行略〉
     …
私などが言うのも僭越だが、本書にはフロイトの心髄があると思うし、学問というものが裸の姿で現れるとこうなるという奇妙な例示であると思う。
*******************************************************
以上のような彼の見方が、今回の、
『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』についての“ビミョーな書評”
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/05/post_cfbf.html
につながっていると思われます。】

投稿: SeaMount | 2007.05.28 06:00

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: [書評]唯幻論物語(岸田秀):

» 岸田秀『唯幻論物語』 [タカマサのきまぐれ時評]
■『ものぐさ精神分析』にはじまる一連の「唯幻論」ないし「史的唯幻論」とよばれる 独自の理論を展開してきた、もと 和光大学教授 岸田秀さんの『唯幻論物語』(文春新書)がでた。はじめての かきおろしである。... [続きを読む]

受信: 2005.10.13 19:16

» [史的唯幻論][心理] 『史的唯幻論』シリーズ−その7:岸田秀『唯幻論物語』書評 [SeaMountの雑記と書庫]
■「深いがわかりやすくて、いろいろと腑に落ちる■ …そもそも精神分析は、常識的な人間理解をいくらか深めたものだという ◎ 今まで書いたのは、 『唯幻論』シリーズ−その1:まずは、『唯O論』揃い踏み 『唯幻論』シリーズ−その2:『唯仮論』と『唯幻論』 『(史的)唯幻... [続きを読む]

受信: 2007.10.04 14:19

« 北朝鮮をめぐる六カ国協議共同声明について無駄に考えてみる | トップページ | 胡耀邦名誉回復の背後にどんなパズルが潜んでいるのか »