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2005.09.30

サッカーくじ(toto)累積赤字が一五〇億円

 サッカーくじ(toto)の累積赤字が〇四年度決算で一五〇億円に達するというニュースがあった。それほど違和感はないし、なぜこの期に、しかもまた中央青山監査法人という裏についてもよくわからない。
 赤字をたんまり抱え込んで、totoも廃止かというとそこまではわからない。そうでもなさげ。個人的には、教育行政を担う旧文部省(現在の文科省)が博打の胴元なんかやるからだよ、ざまーみろと一貫した共産党のような印象を持ったが、考えてみるに変な話ではある。なにか面白いネタがあるわけでもないが、つらつら思うことはある。
 なにが問題なのか? 簡単そうで簡単でもない。会社経営的に見るなら売上げの推移と経営を考えればいい。朝日新聞”toto、累積赤字150億円に 会計検査院指摘”(参照)によると売上げはこうなっていた。


 totoは売り上げが年間420億円程度あれば黒字決算になる仕組みだった。ところが、01年シーズンの604億円をピークに、02年408億円、03年203億円、04年156億円と年々落ち込んだ。

 これは当初からまるでダメの推移である。ならばなぜ最初からそれがわからなかったのか、文部官僚、と思う。千葉商科大学加藤寛学長が郵政民営化推進にあたり、「武士の商法を許すまじ」と言っていたが(参照)、totoのケースは絵に描いたような武士の商法である。なにしろ他の博打の胴元のように自分らで商売する気はなく、しかもりそな銀行に丸投げしていた。その費用毎年七〇億円。所詮名前貸しのしょぼいサイドビジネスならそれでもいいのかもしれないが、初期投資に三五〇億円かかっていた。それでも、なんともならない状況というのでもあるまい。
 今回の赤字暴露はこういうカラクリらしい。

 このため、同センターは、銀行への初期投資の支払いを02年度で約20億円、03年度は70億円を先送りし、決算で費用として計上せず、今後返済する残高(03年度で約230億円)は「負債」に計上していなかった。
 こうした方法に対し、検査院は「決算書で赤字の状況がわかりにくく、不適切だ」などとして改善を求めたとみられる。
 これを受け、同センターは04年度決算で先送り分をまとめて費用計上したところ、赤字決算になるとともに、累積赤字が150億円に達したとされる。

 なんだろねコレ。ぞっとするのは、負債に計上してなかったっていう帳簿の付け方ってどうよ、橋本派じゃあるまいし。いずれ、「武士の商法を許すまじ」ではある。
 ところで、最初はダメの線は見えてなかったのだろうか。ちょっと過去の新聞を見ると、やっぱし当初からダメカモはネギをしょっていた。読売新聞”totoの行方(1)売り上げ”(2001.08.09)ではこうある。

 今年から日本のスポーツ風景に加わったスポーツ振興くじ(サッカーくじ、愛称toto)。財源に苦しむスポーツ界の“救世主”がスタートしてから約半年が過ぎた。将来的には年間2000億円の売り上げを目指して、初年度の売り上げ目標は812億円。だが、売り上げ減が続いて、その達成には“黄信号”が点灯しはじめている。その一方で、新しい財源となるくじからの助成の配分を巡って、さまざまな思惑や水面下の動きも出てきている。

 当初からダメでしょというのは、なんだかんだいっても博打なのに配当が少ないというのと、文科省権益のためだった助成金の突き上げがきつかったからだろう。たとえば、〇二年の日本体育協会の予算案は三九億七千万円、前年比で一億九千二百万円増額だが、うちtotoの助成として五億八百二十八万円を見込んでいた。こうしたスポーツ団体って今どうなってんだろうか。全市区町村に「総合型地域スポーツクラブ」をというのは頓挫しても、それはそうかなのご時世だし、くらいだが、スポーツトップ選手への強化費給付も停止期間もあったらしい。オリンピックとかにも影響はでるのだろう。
 今後のtotoの経営や関連の助成金はどうなるのかそれがどれだけの意味があるのかもよくわからないが、抜本的な経営改革がないとダメが続くだろう。販売直営はさらに危険ではないのか。
 そういえば、totoは当初からダメでしょの線で見ていて思ったのだが、あれだ、健全なスポーツのためとはいえこんなもの所詮は博打。博打をするマーケットというのはどうだったのだろうか。競馬とかもけっこう苦戦していたはずだ。とざっと公営ギャンブルのようすを眺めてみると、地方ではやはりダメダメのようだ。公営ギャンブルの目的は財源確保なのに赤字を重ねてまでやる事業ではないといった声が多いようだ。都市部ではどうかよくわからないが、長期的にはダメなのではないか(参照PDF)。
 それとただの印象だが、公営ギャンブルというのはうらぶれた年寄りという感じがする。若い世代がのめり込んでいるふうもなさげ。と思ったら若い世代はデイトレにのめり込んでいるわけか。つまり、市場全体が博打場化したから、政府統括の博打は終わったということではないのか。

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2005.09.29

米国の住宅バブルが終わるらしい

 いよいよ米国の住宅バブルが終わるらしい。すでに先月だったかクルーグマンが来春までに潰れるよとか言っていたが、グリーンスパン御大はさてどう出るか…と。二七日ロイター”長期のリスクテイクは資産価値低下につながる=FRB議長”(参照)にてご託宣。


グリーンスパン議長はシカゴでの全米企業エコノミスト協会(NABE)会合で衛星通信で講演。その原稿で、「歴史は、クレジットリスクへの懸念が低い時期が長引けば、危険資産の下落を伴う逆の動きが必ず後に続くことを警告している」と述べた。

 何をおっしゃっているのでしょう? わかんね。
 ライブドア”グリーンスパンFRB議長、米経済に楽観的な見方=投資家の安易な投機に警鐘”(参照)のほうはもう少しわかりやすい。

また、同議長は低金利の環境が長く続いていると、いつかはリスク資産の急落などでインフレが急上昇するという揺り戻しの動きが必ず現れることは歴史を見れば明らかと述べ、投資家に安易に投機に走らないよう警鐘を鳴らした。

 一般的な投機ということかなとは思うが、実際は住宅バブルのことではないのか。先月のライブドア”増谷栄一の経済コラム: グリーンスパンFRB議長、住宅バブルに再び警鐘鳴らす”(参照)ではこうあった。

 住宅バブルについては、同議長は、米国全体がバブルになっているという認識は持っていない。ただ、米国内のいくつかの地域で住宅バブルの現象が見られるという。5月のニューヨークでの講演で、同議長は「フロス(泡)」という言い方で初めて、バブルを指摘している。最近でも、7月に、同議長は住宅ローンの新商品として登場してきた「インタレスト・オンリー・ローン」という、最初の10年は金利だけの返済で済むローンや「ハイブリッド変動金利ローン」という最初の3-10年間は固定金利で、その後は変動金利というハイブリッド型の荒手のローンの利用に危惧を示した。これだと資金を容易に借りられるので、住宅ブームという“火”に油を注ぐようなものだからだ。
 また、同議長は7月に、「投資家は金利上昇リスクに無関心すぎる」とも警告している。これは、4年連続で過去最高を更新して好調な住宅販売の背景には、低金利政策の恩恵があり、個人が低金利の住宅ローンを使って、積極的に住宅購入を進めているわけだが、今後、金利が上昇し、リスクが高まる可能性があることに注意すべきだと言っているのだ。FRBは米国の政策金利であるFF(フェデラル・ファンド)金利の誘導目標を引き上げてきており、この金利上昇リスクについて、個人も含めた投資家の認識は甘いとグリーンスパン議長は指摘する。

 端的には住宅バブル終了ということなのでしょう。先日ラジオで聞いた話では、現実には低金利が誘導したというより、投機的な思惑が多いらしい。
 住宅バブルが崩壊すると、それで大変なことになるのかというとそうでもなさげ。同じソースだが、ロイター”米国は住宅価格下落に耐えられる、資産が伸び消費拡大=FRB議長”(参照)ではこう。

 グリーンスパン米連邦準備理事会(FRB)議長は、大部分の米国人が住宅で十分資産を蓄積しており、価格下落にも深刻な影響を受けることなく耐え得るという見方を示した。
 議長は、米国銀行協会の会合でのビデオ講演で、「圧倒的多数の住宅所有者は、住宅価格が下落した場合にそれを吸収するだけのかなりの資産価値を有する」と語った。

 裏付けるように、昨日の日経”米、住宅担保の現金入手急増・FRB議長が個人的に調査”(参照)では御大の手の内を見せた。

 住宅を担保に米家計が手に入れたお金の総額が昨年末で5995億ドルに上ったことが分かった。可処分所得に占める割合は7%とこの10年間で7倍に拡大した。米連邦準備理事会(FRB)のグリーンスパン議長が個人的にまとめた調査で明らかにした。

 この間の施策で米国の家計はキャッシュをだぼっと持っているということなのだろう。
 あーうらやましい…というのが率直な私の感想。
 日本の場合、これまでは土地が投機対象になったけど、住処というのは全然資産にならない。二〇年経つとゼロになってしまう。
 話がだらけるが、このところ少し暑さも引いて秋の景色を楽しみながら散歩していると、平成以前の古い家屋につい目が行く。ぼろっちいなとも思うが住んでいる人間にはどってことないのだろう。
 経済のことはよくわからないが、特にわからないのは、日本が縮小しているなら、不動産のニーズというのは全体的に減っていき、住宅はますます価値を下げるのではないのか。抜本的なところで日本の経済の発展なんてあるのか。とか疑問に思う。なんとなく思うだけだけど。で、それ以上話のオチはないです。

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2005.09.28

ダイヤモンドの恋(NHKドラマ)

 田渕久美子が脚本で更年期女性の恋のコメディで浅野温子が主人公と聞けば、見ないわけもいかないという感じがして、見ている(参照)。面白い。リアルタイムではみないのでHDRの操作ミスから第一週は見逃してしまったのがちょっと残念なところ。話はたぶん来週で終わる。今から見てもちょっと話についてけないかもしれないので、こんなエントリもなんだなとも思うが、書いてみたい。
 私は浅野温子のファンではないのだが、昭和三六年生まれの彼女はかろうじて自分の同世代的な共感に入る。物書きでいうとたしか岸本葉子が同年だったと思う。彼女のエッセイなどを読んでいてもかろうじて同じ時代を生きてきた感じがする。
 私はW浅野(古い言葉だ)では昭和三五年生まれの浅野ゆう子がティーンエージのころからのファンで高校時代自室に彼女の水着のピンナップを貼っていた記憶がある。ちなみにカレン・カーペンターとのポスターもなので、趣味は問うなでもあるが。先日浅野ゆう子をたまたま久しぶりにテレビで見て、美人は美人だろうが浅野のおばさまといった感じがした。そのとき、浅野温子もたぶん相応の歳は取っているだろうし、昭和五八年に結婚したダンナ魚住勉のとの間に早々に男子があったかと記憶している。浅野温子は大学卒業くらいの息子のいるお母さんでもあるはずだ(参照)。
 という彼女がどう恋を演じるのかというのに期待したが、見始めた二週目は役のジュエリデザイナーのつらさがてんこもりで、今日も企画はでなかったかとカレンダーにバツをつけ、そして最後に挫折していくシーンはある意味似たような経験のある自分には堪えた。そのあたりの彼女の演技はなかなかよかったので安心して見続けた。
 コメディタッチに合わせて彼女の表情も激しくなるのだが、ケバさは感じない。むしろ、そのヒューマニスティックな印象はこりゃ子どもを育てた女だなという感じもした。が、なにも女を成長させるのは子育て経験ということもないだろう。共演の加賀まりこにも、以前夫婦喧嘩をレスリングに例えた変な番組(「ケンカの花道」だったか)でも感じたが、大人の女の心の暖かさのようなものも感じた。余談だが、響鬼はまともに見てないのだが、先日ちらと見たら背の低い布施明が端役プラスαくらいで出ていて、こちらもなんかオヤジ色を出していた。
 自分の意識のレンジに入る世代の現在の恋愛というのはどういうものか気にはなっていた。この世代は、いわゆる団塊の世代というか全共闘世代と、新人類というか共通一次世代の狭間の変な無風というかシラケというか空虚さが覆っている。恋愛の風景としていうなら、「うる星やつら」のような奇妙なトラウマ(心的外傷)の上でへらへらしてないといけないような強迫がある。その点で団塊の世代とかマジ愛ルケとかでしょ、いやついてけない…という世代論にそれほどの力点はないのだが、中年の恋愛というのは若年のそれのリベンジというわけでもないがどうしてもそれと関連のある変奏にはなるだろう。そのあたり、自分の世代は今どうなんだろうと思う。
 で、そのあたりはどうか。うまく言えないのだが、田渕久美子の脚本にはコメディを反語的に使った微妙な含羞の表現がありそれを浅野がよく表現していた。視線や声なんかに、若い女ではありえないじんとくるものもある。なんとなくだが、自分らの世代は別に「恋」でもなくてもいいからそうした心情みたいなものをこっそり大切にメディアで篩いにかけていくのだろうなという感じがする。
 恋の相手の吉田栄作(参照)は私からするとちょっとミスキャストっぽい感じがしないでもない。あーだめだとも思わない。他のキャストもそんな感じだ。

cover
JR奈良線&桜井線
 そうした自分にとってのデメリットを吹っ飛ばすのは、桜井の風景だ。あの風景、桜井線と桜井の駅と三輪山…そのすべてが私にはなんか恋の対象のようにいとおしい。二十代の後半から三十代の前半私は潰せば二ヶ月に一度は奈良をほっつき歩いていた。

味酒三輪の山
あをによし奈良の山
山のまにい隠るまで
道の隈い積もるまでに
つばらにも見つつ行かむを
しばしばも見放けむ山を
心なく雲の隠さふべしや

 田渕が額田王を意識していたかはわからない。しかし、あの風景にはそうしたなにかを鼓舞する力があると思う。

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2005.09.27

石油高騰で強くなるロシア

 標題の割には雑メモに近い。この間の石油高騰でアフリカ諸国もだが、ロシアもかなりのカネが入っているようだ。それに従い、特にロシアが外交的にかなり強面に出てきたなという印象が強くなった。
 日本との関連でいえば、昨年くらいまでなら日本からの資本や技術でもう少し上手に親露政策が取れるのではないかと私は期待していたが、このところの北方領土へのロシアの態度を見ていると、それは無理かもしれないと思いつつある。
 ロシアと中国の関係で言えば、かつてのように中国からの資本を獲得したいという流れも弱くなっているようだ。むしろ、ロシアにしてみれば、武器売却先としての中国の旨味が増しているようで、先日の合同軍事練習だのはその路線なのだろう。このまま中国とロシアが軍事的に提携していくかどうかはよくわからないが、両者とも中央アジアのイスラム勢力を封じ込めるという共通利益があり、そのあたりで協調は深まるだろう。
 こうしてロシアにカネがじゃぶじゃぶ入っていくにつれ、中央アジア情勢はどうなっていくのだろうか気になるのだが、まだはっきりとした絵が浮かんでこない。
 オレンジ革命とかで沸いたウクライナも、昨今の動向を見ると、どうもEUシフトというわけにもいかず(EU自体がうまく行っていない)、元の親露政策に戻りつつあるように見える。
 同じ傾向は他の独立国家共同体(CIS)にもあるだろう。つまり、ロシアからの石油提供や資金援助によってかつてのソ連時代の再現のようになりそうだ。このままロシアがカネを得る構造が続けば、大筋では、私はそうなるのではないかと思うし、それはある意味で安定でもあるのだろう。
 とすると、昨今の中央アジアの不安定な動向は大局的には過渡期なものか、あるいは、他の国でもそうなりつつあるが、テロの常態化でもあるのだろう。
 しかし、そう見ない人もいる。例えば、先月三〇日付のワシントンポスト”War Without Remedy”(参照)では、私のこうした考えとは逆にCISなどの国家における不安定要因が増加するという指摘があった。確かに、このところの動向からするとそういう議論も成り立ちはする。


Though mostly unnoticed by the outside world, violence in the region has been escalating in recent weeks. Last week the prime minister of one republic, Ingushetia, was wounded in an assassination attempt, and a bombing derailed a train in Dagestan. In Chechnya near-daily clashes continue between Russian troops and insurgents; one ambush and bombing of a police vehicle several weeks ago killed 15.

 イングーシ共和国では首相が暗殺未遂になり、ダゲスタン共和国では線路爆破事件があった。チェチェン共和国では車両攻撃があった。

Russian and independent experts across the Caucasus are warning of the eruption of a major new war that, unlike the two fought in Chechnya during the past 11 years, would spread across the region and be waged more explicitly in the name of Islam.

 ワシントンポストが言うところの識者は、この地域での戦争の可能性を指摘している。
 私の考えでは、現状ではそれほどの規模の問題には至ってないし、先にも述べたように過渡期的な現象ではないかと思う。
 日本から見るとイスラム勢力というと中近東を連想するが、むしろこの地域のほうがイスラム化の動向が強く、経済的な興隆が民主化にはつながらない。ワシントンポストは先の記事をプーチン大統領の批判で締めているが、ウクライナの例を見てもそう単純な問題でもないだろう。

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2005.09.26

孤独死問題への違和感

 私はテレビをリアルタイムで見ることはほとんどないのだが、先週土曜日、台風の進路が気になって夜九時前にNHKをつけ、たまたま消し忘れていたら、NHKスペシャルが始まっていた。テーマは孤独死。タイトルは「ひとり 団地の一室で」(参照)。


 いま、全国各地の団地では、誰にも看取られずに亡くなる、いわゆる"孤独死"が相次いでいる。常盤平団地でもこの3年間で21人が孤独死した。その半数が40代、50代そして60代前半までの比較的若い世代の男性だった。

 へぇと思ったのが運の尽きでなんとなく小一時間見てしまった。
 NHK的な話の展開としては、団地のボランティア組織「孤独死予防センター」の活動をヒューマニズム的に描いていた。確かに活動されている人は立派だと思う。
 だが話の全体から受ける印象は、私には奇妙な後味を残した。もちろん孤独死という問題そのもの重要性や、未婚者・パラサイトといった人々の増える日本の未来の暗さというのもあるのだが、なにか問題設定が間違っているような印象を受けた。なんだろうかとつらつら考えてみたが、はっきりとはわからない。が、少し書いてみたい。
 まず、団地の孤独死というのが団地というもののありかたと歴史的に結びついているのだろうかという疑問がある。NHKの番組の該当番組は常盤平団地を対象にしていたこともあり、その歴史背景についてはこう説明していた。

 総世帯数5,300戸を抱える常盤平団地は、昭和35年、全国のニュータウンの先駆けとして誕生した。ダイニングキッチンや洋式トイレなど、最新の設備を備えた団地は、当時"夢の住まい"として入居希望者が殺到した。
 しかし団地は変貌してしまった。高齢化が進み、住民は年々減少。単身での入居も認められるようになり、独り身の男性などが、数多く移り住むようになった。
 長年支え合ってきた古くからの住民は、地域の絆を取り戻し、"孤独死"を防ぐために動き始めた。

 このあたりの説明が番組の映像でもぼやけていたように思う。というのは、団地住民の高齢化が孤独死をもたらしているのではないようだ。そうではなく、団地という居住のありかたが廃れ、新しくそこに流れ入る単身の人々に孤独死が発生しているようだ。
 そして、その単身の人々というのは男性が多い。さらに、番組で特に私は奇妙に思ったのだが、単身者には中国人も多そうだ。なぜなのか。言い方はよくないのだが、孤独死リスクの高い人を政治的にこうした団地に集結させているようにも見える。そうした政治はどこから発生しているのだろうか。
 別の面でこの番組で奇妙に思えたことに、番組で描かれていた孤独死は現代の平均寿命からすると高齢者とは言えそうにないというのがある。以前からそうだったのだろうか。気になったので、十年以上前の新聞を眺めてみたのだが、一九九八年の読売新聞大阪版”大阪市の「孤独死」10年で3倍 男性が多数 京都府立医大講師ら調査”(10.31)には、こういう示唆的な記事がある。

 死後一週間以上たってから自宅で見つかった「孤独死」が、大阪市内で十年間に約三倍に増え、男性が全体の八割を占めていることが、京都府立医科大法医学教室の反町吉秀講師らの調査でわかった。阪神大震災後、仮設住宅での被災者の独居死亡が問題になったが、反町講師は「被災地だけの問題ではない。社会的な要因を分析する必要がある」と話している


 反町講師らは、死後一週間以上たってから自宅で見つかったケースを独自に「孤独死」と見なして、大阪府監察医事務所が扱った大阪市内の死体検案書を分析。孤独死は八五年が七十四人、九〇年が百二十四人、九五年が二百一人で、十年間で二・七倍に急増した。死者数をそれぞれの年の国勢調査に基づく同市内の単身世帯数で割った「孤独死率」も十年間で一・九倍。
 いずれの年も男性は八割を超え、九五年は百六十一人(80%)。年齢別にみると、女性は六十五歳以上のお年寄りが占める割合が78%と多いのに対し、男性は六十五歳未満が65%で壮年世代が目立った。

 十年くらい前までは孤独死という判定に「死後一週間」という条件の含みがあったようだ。が、その後の関連記事を経時的に見ていくと、次第にそうした条件期間の意識が薄れていく。
 孤独死の記事をさらに十年間経時的に見ると、阪神大震災の仮設住宅に関連したものが多いのだが、それらを除くと、時間の推移によって、高齢者の孤独死から六十歳未満の男性へと話題の焦点が移っていくように感じられる。これらは単に話題の作り方というより、実態側の変化なのだろう。
 全体的な傾向として現時点では、孤独死は高齢者の問題というより、中高年男性の自殺などと関連しているようだ。極めて男性学的な問題にも思える。
 フェミニズムが女性学であったかどうか私はわからないが、いずれにせよ社会に根ざした性差がもたらす不平等の構造的な解明を求めたものであれば、同じ理論の枠組みからこうした中高年男性の孤独死について性の問題から説明しうるのではないか。しかし、私はそうした説明の試みを知らない。

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2005.09.25

ラーメン屋雑談

 雑談。ラーメン好きという輩が困ったものである。凝るからね。私は凝らない。あんな単純な食い物、凝る必要ないじゃん、中国人の職人が作ったちゃんとした中華麺を喰えよ、とか吹いていた。十年前である。
 が、こっそり行きつけのラーメン屋とかはあった。例えば、飯田橋のびぜん亭。ここはラーメンというより文字どおり昔ながらの支那そばといったところ。私の口にはしょっぱい。ラーメン屋の倅と行ったとき、彼は、まぁ合格、叉焼はよい、と宣った。などなど。その後、沖縄に暮らすようになりラーメンとは縁が切れた。どうでもいいことだが沖縄もラーメン屋は少なくない。そして内地と同じようにラーメンだのウチナーソバだのに凝る輩は多い。困ったものである。以下同文。
 内地に戻って三年近くなり、しだいに内地に慣れてくると、結局またこっそりラーメンとか喰うようになる。いろいろ思うことはある。凝らない点は同じ。十年前と変わったなと思うのはチェーン店だ。身近に日高屋と幸楽苑が出来た。昨晩ぶらっと幸楽苑に行くと、醤油ラーメンが二百九十円だと言う。餃子が倍増で一皿の値段だとも言う。困ったデフレだなどとリフレ派のように嘆くことはしない。原価を考えれば適正価格じゃないかと思う(なわけないが)。それを頼む。それほど不味くない。腹一杯になった(+やさぐれ感)。
 そういえば、チェーン店の食い物がそこそこに不味くない。むしろ昔ながらの蕎麦屋とかのほうが不味かったりする。変な世の中だ。システムが出来てしまえば、こういうのっていうのは、けっこうユニーバサル・デザインならぬユニバーサル食い物なのではないか。しかし、外人はこんなもの喰うか?
 喰うのである。最初は変だと思うようだが、グルタミン酸が脳を刺激するのだろうか、喰い出すとやはり喰うようになる。ニューヨーカーもラーメンを食いだした。ロンドンで今一番のレストランと言うと、ラーメン屋である。洒落じゃない。
 九日付のテレグラフに載っていた。記事は”Wagamama elbows its way on to top table”(参照)である。


It sounds like a recipe for a dining disaster. The benches are bottom-achingly hard, diners are forced to eat elbow to elbow with strangers and starters frequently arrive after the main course.

Yet despite its unconventional approach to eating, the bustling budget noodle chain Wagamama yesterday beat some of the most famous restaurants in the country to be named the capital's best eating place.


 固い椅子に肘付き合わせてラーメン喰うのがよいのだそうだ。我慢好きのイギリス人にはウケるのか。ランクではファッショナブルな日本料理屋Nobuを抜いた。
 店の名前は「ワガママ」(参照)である。いや、マジで、写真を見るに、そう看板にカタカナで書いてある。外人にワガママなんてわかるのか。

Wagamama, which means "naughty child" in Japanese, was founded in 1992 by the Michelin-starred Alan Yau and now has 34 branches across the country.

 あー全然わかってない。っていうかやっているのは中国人じゃないか。ま、いいか。ユニバーサルなんだし。
 日本語で読めるワガママの記事は、ぐぐってみると、UK Todayというサイトに”一流レストランより上位!?――ヌードル・チェーン「ワガママ」、ロンドン・レストラン・ガイドで1位に”(参照)の記事があった。
 なぜラーメン屋がロンドンで受けるのかについて、テレグラフの記事にもあるが、理由の一つは、安いからだそうだ。ほぉ、ナンボ? それが、さ、£13である。今日の価格をGoogle様に伺うとUK£ 13 = 2 594.14675 Japanese yenとのこと。二千六百円! おい、それじゃ幸楽苑ならバレーボール・チーム全員に奢ることができるぞ。っていうか、サービスの価格なんて市場が決めればいいことだから、どうでもいいか。
 ロンドンの日本人はというと、ワガママを避けているげではある。
 そういえば、以前イタリア人と飯喰ったとき、日本のビザはビザじゃないとか、タバスコはかけませんとか熱心に語っていた。米人と日本のマクドで喰ったとき、ポテトにケチャップが付いてないとか言っていた(くれというとくれるよ)。いやまぁ、こういうことはポジションによってはいろいろ言いたいことはあるものだ。
 逆みたいなのもある。日本のコーヒーは旨いと言ってた米人もいた(スタバが出来る前のこと)。日本のビールは旨いといっていた米兵もいた。そういえば、ワガママで出るビールの筆頭はアサヒ・スーパードライだ。日本食なんだし。キリンのラガーもある。私が唯一飲めるビール「豊潤」はないみたいだけど。

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2005.09.24

胡耀邦名誉回復の背後にどんなパズルが潜んでいるのか

 このエントリはいつもよりちょっとウ的思考に踏み出す。読まれるなら、ちょっと洒落かもよというのを念頭に置いていただきたい。というのも、この胡錦濤パズルは私には難しすぎる。
 話の発端は今朝の朝日新聞社説”日中ガス田 海でにらみあうよりも”(参照)がいいだろう。私はこれを一読して、ハテ?と思い、再読して、ほいじゃこのパズルが解けるかなとチャレンジしてみたくなった。
 表向きの話は、愚にも付かない日中友好論である。いわく、日本の排他的経済水域の境界で勝手にガスの抜き出しにかかっている無法者中国とこの際仲良くしーや、というのである。この日本国を舐めた平和主義こそ朝日新聞の真骨頂と言えないこともないし、あのなぁその北の領域にもっとやばいのがあるんだよという話は「極東ブログ: 日本の排他的経済水域に関連して」(参照)でも触れた。ま、朝日新聞の言うことなど真に受ける必要もないのだが、ちょいと気になるのは、表向き中国様に批判しているような修辞があることだ。大丈夫か。あとで、中国様にオシリペンペンされるよとか心配する向きもあるかもしれない。


 両国政府は共同開発以外に解決策はないと見て、協議を重ねてきた。それをよそに既成事実を積み重ねる中国側の姿勢は容認しがたい。
 中国側は、いったん作業の手を止め、協議に真剣に向き合うべきだ。幸いなことに、月末ごろに協議を再開することで両政府は合意した。日本も打開に向けて具体的な提案をすべき段階だ。


 中国側には、小泉首相の靖国神社参拝などに対する反発から、簡単には日本に譲歩したくない気持ちもあるようだ。だが、これは純粋な経済問題であり、利害の調整は可能なはずだ。
 日本との幅広い協力を進めた方が建設的だし、長期的な協力関係の支えにもなる。中国の戦略的な決断を見たい。

 朝日新聞もさすが言うべきところはちゃんと中国様に物を言うじゃないか…なーんて信じられるわきゃねーだろ、朝日新聞なんだし。
 こんなの中国様(現政権)が中国内部の政治勢力に向けて外回りに批判するために、日本のケツをツンとやってみたというだけ。中国様の本音は、日本と仲良くしてさっさとガスを中国のために掘ろうよというのと、この対立勢力である軍プラス江沢民系にもっと圧力を加えてやろう、ということだ。朝日新聞のこの社説の冒頭はこういうふうに問題が軍だと書いてあるし。

 東シナ海で中国が開発を進める海底ガス田の近くで、中国の軍艦が盛んに動き回っている。上空には自衛隊のP3C哨戒機が偵察飛行を続ける。なにやら物々しい雰囲気だ。

 ほんとにあそこからガスが出るのかよという根本的な疑念はさておくとして(ユノカルはさっさと手を引いたし)、問題は天然ガスということもだが、中国様の息のかからない「中国の軍艦」だ。こいつら、胡錦濤や温家宝が国外に出るといちいち日本と悶着起こすのがお役目っていうやつらだ。
 というわけで、パズルの一手、二手をまとめると、まず、朝日新聞は中国様の代弁をしているだけで、その代弁は中国内部の軋轢で中国様を優位に持っていくこと。そして、どうやら中国の内部に中国様の息のかからない軍勢力がいること。って、多分、江沢民+曽慶紅(参照)といった上海閥なのだろう。
 というわけで、れいの反日デモと同じ構図というかまだまだ内部でドンパチやっていてるし、中国史を見ればわかるけど中国人というのは外部が唖然としても内部の政争しか関心なくその割に外部からの見てくれを内部の権力に使う。そもそも朝貢なんてものも皇帝(中国様)が内部の批判者に圧力をかけるための行事だった。
 さて、それだけなのかこのパズル?
 というのは、この構図だけで見ると、胡錦濤=ゼンダマンじゃん、みたいに見える。もっとも日本の長期的な国益を考えると上海閥がのさばってくれたほうがなんぼかマシかもしれないのだが…。
 ここでちょっと別件みたいだが、来たる十一月二十日、北京でド派手に胡耀邦(元中国共産党総書記)(参照)の生誕九十周年の記念式典が行われる。あと十年待たないのだ。で、誰がやるのかって、胡錦濤がだね。天安門事件の引き金とも言える胡耀邦が名誉を回復するのだ。な、なぜ? 日本語で読める話としては産経系”「改革・開放」機運再び盛り上げへ 胡耀邦氏の名誉回復進む”(参照)が詳しいが、なぜへの答は次のようにへなちょこ。

 胡氏の業績が正当に評価され始めた兆しで、“名誉回復”が着実に進んでいる表れといえ、これを機に、再び改革・開放路線の機運を大きく盛り上げ、今後の経済発展に弾みをつけたい、中国政府の思惑が見え隠れしている。

 そんだけのわけねーだろ。まぁ、完璧にその線はねーだろとまでいうわけでもないが…。
 これは言うまでもなく胡錦濤の権力闘争でしか、あ・り・え・な・い。じゃ、どんな闘争か? まさか、これで天安門事件以降の江沢民フランケンシュタインの恐怖時代を転換させる、わきゃねー。
 まずかなりはっきりしているのは、指標は胡耀邦じゃなくて、趙紫陽(参照)だ、絶対。趙紫陽が十分に名誉回復すればそりゃ、中国のこの暗黒の十五年の転換はあるかもしれないが。が、そういう兆候は今のところない。ないどころか。逆がある。
 六月一日付ウォールストリートジャーナル”Still Afraid of Zhao”(参照)が趙紫陽の現代的な意味をうまく表現している。

Even five months after his passing, China's leaders remain terrified of Zhao Ziyang. Or, more precisely, of what havoc the former Communist Party chief might wreak from beyond his grave. The source of the fear this time is a samizdat manuscript that delivers his final verdict on the party that purged him and placed him under house arrest for supporting the 1989 Tiananmen protesters.

 中国の現在の権力者は依然趙紫陽を恐れているというのだ。この場合の権力者は歴史的に見れば江沢民と仲間の愉快な上海閥ということだが、この記事が示しているように、胡錦濤も該当する。

The document, secretly written by close associate Zong Fengming on the basis of extensive interviews with Zhao during his 15 years of house arrest, is believed to include denunciations of former Chinese leaders Jiang Zemin and Li Peng.

 このあたりよくわからないのだが、なんか趙紫陽文書というべきものが存在しているらしい。れいの天安門文書(参照)みたいに、そ、それがばれたら中国トホホみたいなものなのだろう。読みたいぜ。というか、すでにどっかにあるのか?
 このスジで見ていって、どれだけ信頼性があるのかわからないだが、The Jamestown Foundationというサイトに”HU BOOSTS POWER AS HE SCRAMBLES TO MAINTAIN SOCIAL STABILITY ”(参照)という記事をめっけ。ざっと読んだのだが、ようは胡錦濤も趙紫陽文書の隠蔽に絡んでいるようだ。ついでにこの記事では、胡耀邦の名誉回復は上海閥対抗と胡耀邦人材の取り込みという点を指摘している。
 というあたりで、アショーカ王である。中国情報局九月五日付”特別インタビュー:日本僑報社 段躍中氏”(参照)を思い出す。

――4月には上海などで過激な反日デモも発生しました。靖国神社問題などに関して、中国政府は日本政府をきびしく批判していますね。
段:ただ、中国政府は対日関係を非常に重視しているのですよ。胡錦涛政権樹立後の2003年、新日中友好21世紀委員会が発足しました。中国側の座長は、胡耀邦元総書記の秘書を務めたことのある鄭必堅氏です。
 胡錦涛国家主席は共産主義青年団書記を務めた経歴がある。胡耀邦氏も共産党青年団書記を長く務めました。その胡耀邦氏の秘書が21世紀委員会の座長になったということは、日中関係に臨む胡錦涛主席の意欲のあらわれと考えてよい。

 つうわけで、中国様=胡錦濤は、日本内の胡耀邦シンパを吸い寄せるように鄭必堅を置いているわけで(朝日新聞もこの関連のツテでしょうな)、先のThe Jamestown Foundationの記事のように、そういう配置を要所要所に繰り広げてきているわけだ。
 ちなみにそのシフトで中国様が日本になにを求めているかって、資源と技術とカネですよ。田中直毅21世紀政策研究所理事長もこう言っている(参照)。

 4月9日の北京、4月16日の上海での反日デモの暴徒化は、間違いなく胡錦濤政権を追い込んだ。その後5・4運動記念日をはじめとして反日デモが起きる可能性の高い日時を想定して、鎮圧への踏み出しを明らかにしてきた。政府の予算が多額に使われたわけはないが、中国政府を取り巻く内情からすれば政治的資源を相当程度使い尽くした可能性がある。
 そこまで踏み込んだのは反日デモの暴徒化は、これをきっかけとして共産党批判の声に転化しかねないという危うさを秘めているからである。1月の趙紫陽の死去以来、1989年6月4日の再現を回避するための努力が行われた。89年の場合は胡耀邦の死去に際しこれを悼む形をとった政権批判がきっかけとなった。現政権は歴史の古知から学んでいる。

 中国様の、むふっと鼻息が聞こえるようだ。
 以上、すげー杜撰なお話でした。

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2005.09.23

[書評]唯幻論物語(岸田秀)

 「唯幻論物語」(岸田秀 文春新書)を読んだ。昨晩は寝るのも忘れて読み終えた。

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唯幻論物語
 岸田の本は、たぶん二度と読むことがないだろうと思っていた。本書を待ち合わせの駅の書店で見かけて手にしたとき、「あ、またか」と思った。パラパラとめくって、「くだらね」と思ったが、その後、この本を買って読め買って読めと反復・強迫が始まった。なぜであろうか。岸田の本を読むのは、ちょっと恥ずかしいという思いと、読んでもまたかよ損したぁというのが表向きのネガティブな思いではあるが、今回はなにかが違っていた。アレである、本当の本だけが知らせる直感のようなものがあった。もっとも、このあたりの好悪や評価は人によってかなり違うのだろうが。
 なにげなくたらっと読み始めた当初は、ほぉ、小谷野敦「すばらしき愚民社会」への反論ということか、やっぱ、くだらね、とも思った。
cover
すばらしき愚民社会
 ちなみに小谷野のこの本は一読して、くだらねと読み捨てたものの、再読して評価を変えた。よい本であるし、小谷野は誠実な人文学者さんであると思う。彼にしてみれば私なんぞこの本の帯にあるように「バカが意見する世の中」の代表ではあろう、けっ、しかも、私は彼がくだらねえとする吉本隆明や小林秀雄を飽きもせず読み返す愚民でもある云々…てなことはどうでもいい。小谷野はきちんと欧米流の教育を受けた人だなとは思う。中島義道もそういうところがある。むしろ柄谷行人にはそういうデシプリンを受けてないように私は感じるし、池澤夏樹などもその教養のボーンに西洋の教養の体系性が感じられない云々…てなこともどうでもいいのだが、話を小谷野に戻して、彼は岸田秀からのこの強力なメッセージを読み解けるだろうかとは思った。
 こう言うと私にもとばっちりがくるのだろうが、「唯幻論物語」を読みながら、私は漱石の「こころ」を連想した。話がちと回りくどいが、「山本七平の日本の歴史 (上)」で漱石の「こころ」が「先生」の命を代償に「私」に残す精神性とはなにかと問うているが、「唯幻論物語」の岸田は自己の命の代償に小谷野に告げるというほどではないが、稀代の大学者が若手の知性へ向けてその知の最大の贈与をここで行なっているのだという、ぞくぞくとした感じが、私にはあった。小谷野にそれが伝わるだろうか。
 私は岸田秀は大学者だと思う。というか、本書を読みながら、二十年以上かかったが、ようやくそう確信した。これだけ精緻にフロイトを読み解いた学者はいないのではないか。岸田はラカンはくだらないみたいなことを書いているがそれは単純にただそういうことなのではないか。ラカンはフロイトをただその時代の気風や集団のモードに合わせて説いていただけだし、コアの集団は一種のカルトのようでもあった。ラカン自身、フロイトを一歩も超えていないという自覚もあっただろう。そもそも精神分析学というのはそういうものだということも岸田はよく見抜いている。岸田について強いていえば、結局この人は生涯をかけてフロイト学説という車輪を再発明しただけとも言える。が、その必然性はあるのだろう。
 本書あとがきに、岸田はこの本は最初にして最後の書き下ろしであると書いている。考えてみれば、彼はあれだけ書き散らしながら、自分からは本など書く気はなかったのだろう。言いたいことはあるし、それが本になるうれしさは当然あるだろうが、自発的に本など書く気などはさらさらなかった。しかし、人生の最終局面でそうしたわけだ。余談だが、吉本隆明も似たようなもので、書きたいと思って書いた本は「『反核』異論」(参照)だけだった。
 余談が多くなったが、本書を読みながら、「インチキ恋愛」という概念が気になった。こういう形でくっきりとまとめられたのは本書が初めてではないだろうか。
 岸田はある意味でレトリックの自縄自縛に陥りやすい。「普通の恋愛」と「インチキ恋愛」といっても、恋愛そのものが幻想でしょ、というところでドツボる。このあたりは、もっと本能論みたいなものを出してもいいだろうとは思うが、易しそうに見える岸田の説明の本質的に厄介なところだ。同じことが、「反復」にも言えるのだが、岸田は誠実なあまり、この概念をあえて充分には咀嚼していない。ついでいえば、意識の共同性についてはヘーゲルなどを読み解けば得るところは大きいだろうが、彼の流儀ではヘーゲルという車輪を再発明するしかなく、残念ながら、彼の人生にその余裕はないだろう。
 と、「インチキ恋愛」について、昨今のモテ・非モテ、ツンデレという文脈で少し敷衍してみたい、というかそのあたりのネタをこのエントリのコアにしようと思っていたが、気が変わった。誤解されるだけだろう。
 私などが言うのも僭越だが、本書にはフロイトの心髄があると思うし、学問というものが裸の姿で現れるとこうなるという奇妙な例示であると思う。

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2005.09.22

北朝鮮をめぐる六カ国協議共同声明について無駄に考えてみる

 北朝鮮をめぐる六カ国協議で合意された共同声明だが、私はよくわからない。わからないのに書くのがブログのよいところである。基本的に北朝鮮はこんな合意文書など気にしないおおらかな国である。一九九二年の朝鮮半島の非核化共同宣言にも調印したが無意味だった。なので、共同声明とか議論の基礎になるわけもない。ま、なんでもありなのでブログで扱いやすい、ってな洒落はこのくらいにして先に進む。
 一応、今回の声明では、核兵器と核開発計画を放棄、核拡散防止条約(NPT)へ復帰、国際原子力機関(IAEA)査察の受け入れが決まったということだが、「プルトニウム問題はなしってことで、ひとつ」ということになっているし、すでに「軽水炉の提供まで核放棄に応じない」とすかさず毎度のゴネが出てくるし、金さん愉快だな、である。ま、軽水炉は日本も使っているし四の五の言うこともないでしょとも思うが、米国や中国にもいろいろ思惑ってものがあるのだろう、っていうか、問題は米中問題なのだろう。
 で、あらためて北朝鮮問題って何が問題なのか、わけあって病院の廊下でぼんやり考えながら、やはりなんもわからないので、良心型自販機で百三十円の毎日新聞を買って、某宗教団体の広告とその息のかかった投稿を爽やかに前向きな気持ちで読んだあと、”6カ国協議:中国、圧力かけ米国に署名迫る 米紙報道”(参照)という記事を読む。こんなことが書いてあった。


【ワシントン及川正也】北朝鮮の核開発問題を巡る19日の6カ国協議の共同声明について、声明案を提示した議長国・中国が「米国が署名しなければ、合意失敗の責任を米国に押しつける」との姿勢で臨み、米側に圧力をかけていたことが分かった。20日付の米紙ニューヨーク・タイムズが米高官らの証言を基に報じた。ブッシュ政権もイラク情勢、ハリケーン「カトリーナ」の被災対策、イランの核開発問題に忙殺され、声明案を受け入れることで北朝鮮との対決を当面、回避したという。合意は米側の譲歩だったことが浮き彫りになった。

 へぇ、ニューヨーク・タイムズにね。と、帰宅してオリジナルをネットで見直したがどれが該当記事かわからなかった(どれ?)。ま、いいか。これが本当なら米国は不本意で中国はさすがね、ということなのだろう。追記:コメント欄で教えてもらいました。NYT(09.20)”U.S.-Korean Deal on Arms Leaves Key Points Open”(参照)がそれです。
 そうなのか? 外交的に見れば、とりあえず北朝鮮を国際世界の枠組みに戻したというだけでも中国の成果とも言えるのだが、さて。
 考え込んだのは、この問題、北朝鮮の非核化という枠組みで見てきたのだが、考えなおしてみると、北朝鮮の核が恐いのは日本だけだ。中国は大丈夫。「極東ブログ: 中国のちょっとわけのわからないフカシについて」(参照)でもわかるけど、中国という国は核攻撃に対して口は軽いが腹は据わっている。韓国はまさか同胞が攻撃してくるわけないじゃないかあたりまえでしょ、うんうん。ロシアは極東の地図すらよくわかってない。なーんだ、怖がっているのは日本だけじゃん。
 本音のところで日本が北朝鮮の核が恐いかというと、そのあたりはさすがに例の問題ともにいくらブログでも言いづらいじゃないですか。というか、恐くないと科学的には無意味なMDに国費をどぼどぼ注ぎ込む理由もなくなってしまうし、というか、MDの狙いである中国問題をどうするかマジで直面するのも面倒臭いものだ。
 じゃ米中間で北朝鮮を巡る問題ってなんだろと考えなおすと、北朝鮮崩壊でおきる国境間の難民問題と、国家の境界線の変更という二点なのだろう。
 難民問題はとりあえず日本にはあまり関係なので立派なことを宣う中韓にオマカセだが、国家の境界線の変更ということは統一朝鮮がどういうふうに中国にぶら下がるかという問題だ。妥当な推測をすれば、中国様にべったりということだろう。半島っていうのはくっついているってことだし。ただ、そうなるとさすがに日本も沖縄より近いところに中国様がぬっと現れるということになる。
 残る問題は、それを米国が許すかだが、よくわからない。米中間は本音では仲が良いですよとかいう人多いし。それに統一朝鮮が親中化するなら、グラジュアルに日本も親中化すればいいじゃん、というのもありかもしれない。やっぱ、そうですよね。東アジアの国は仲良くしなくちゃ。平和と友好が大切。え?チベット問題? どこの国でも内部には問題があるもんですよ、気にしない。
 …うーむ。なんかどっかで思考の道順を間違えたような結論になった希ガス。さてどこで間違えたか。

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2005.09.21

NHKクローズアップ現代「歴史教科書はこうして採択された」雑感

 昨日のNHKクローズアップ現代は「歴史教科書はこうして採択された」(参照)だった。例の、杉並区で騒いでいた歴史教科書問題である。台風で放送予定日がずれ込んでいたらしい。私はというと、とりわけこのテーマだから見るというわけでもなく、いつもどおり漫然と見ていただけだが、もしかするとネットで話題になるような話でもあるかなとは少し思った。でも、どってことのない番組だった。アレにもきちんと触れてなかった。
 NHKのサイトでの説明はこんな感じ。


来春から中学校で使われる教科書の採択が、この夏全国で行われた。4年前の前回に続いて注目を集めたのが、韓国や中国から「過去の侵略を美化している」と批判されている扶桑社の歴史教科書。今回は、市区町村では初めて杉並区と栃木県大田原市で採択された。多数の市民が傍聴に詰めかけるなか採択が行われた杉並区では、採択を決める教育委員の意見もふたつに割れ、一回の会議で決定せずに、再協議を開くという異例の展開をたどった。番組では、杉並区の教科書採択の現場を取材。採択制度の現状と課題を見つめる。
(NO.2136)
スタジオ出演 : 椿 直人
    (NHK社会部・記者)

 私はこのニュースにはそれほど関心もなかったこともあり、この番組で初めて採択の内情を知った。教育委員が五人いて、委員長を除き当初ニ対ニで意見が割れ、最後委員長の一票で採択が決定だったとのこと。私は、ふーんたった五人で決めたのか、と思った。彼らは歴史教科書以外の教科書も決めているとのことで、負担が重いといったボヤキもあった。
 委員が各教科の教科書を選択するにあたっては、教師からの意見書みたいなのが寄せられるとのことだ。これが従来は、イチオシ教科書はコレ、みたいになっていて、教育委員はそれをただ是認するというだけったらしい。が、東京都では石原知事がハッパをかけて委員が独自の選択をするようになったと番組で強調していた。
 ほいでも教師からの意見書には事実上、コレいいっすよ、みたいな評価が含まれているらしく、そのあたりをNHKが集計しなおして見せ、さらに大抵の分野でイチオシ、ニオシが選ばれているのに歴史教科書だけは違ったと番組で強調していた。歴史教科書だけ教育委員会が独自に選んだトーンを出していたわけだ。
 番組はいつものテンプレで識者みたいのを出して、ありがちな賛否両論をやっていた。教科書は実際に現場で使う教師が選べばいいといった話や、教師が選ぶからこれまでいけなかったといった話もあった。
 話を聞いていて、私は、教師が選ぶといってもその教師は地域住民が選んだといえるわけもないか、それを言うなら教育委員会の委員も民主的な選挙によるものでもないかとつらつら思った。
 話がだんだんずっこけるが、私が沖縄にいたころいくつかの町村の教育委員会でちと話をしたことがあったのだが、そのおり、教育委員会っていうのは町役場のなかにあり、これは事実上役場の一部なのだとしみじみ思った。当たり前といえば当たり前だが。
 ついでに教育委員会やPTAの歴史もちと調べた。その時の印象は、これってGHQの名残かぁというものだった。手元に当時のメモも残ってないので、あらためてネットを見渡してみると、二〇〇四年三月十八日「議事録 第12回中央教育審議会教育制度分科会」(参照)に、文脈は幼児教育とかだが、こんな話があって参考になる。

 教育委員会というのを前提にして、今お話があったように、運営について問題があるかどうかというと、それは問題がないとは言い切れないです、人間のつくった制度ですからね。それはいろいろと考えるべきだろうし、もとももと教育委員会制度ができたときのお話を、当時やっておられた方に聞いてみると、必ずしも民主的な制度と考えて手をつけたわけではないのですね。GHQから言われた。「どうなんだ」って都道府県に出してみたら、あっという間に何千という都道府県から、GHQが言うならというので、「やろう、やろう」というので始まった制度なんです。ですから、その辺の議論がきちんとできていない。それがもしかすると続いて、今日も残っているかもしれない。
 そういう意味でいえば、この制度そのものをなくすという議論ではなくて、これをどう運用して、どういうふうに民主主義につなげて、教育という観点を ―縦割りをなくしちゃえば別ですけれども、それはできないわけですから、教育という観点を代表する教育委員会を何らかの形で改善していくという議論をすべきだろうと私は思っています。

 教育委員会制度というのは、GHQが言うからやろうかね、といった軽いのりだったのだろう。PTAに至ってはもうちょっと奇怪だった。が、それはさておきとして、じゃ、GHQはなに考えていたのかというと、私の印象なんだが、やはり日本国憲法同様、連邦と州という発想だったのではないか。
 米国と日本の教育行政についてざっと見ていたら、「Education In Japan -Theoria- : Comparison-比較諸外国の教育内容行政のあらまし」(参照)というのがあった。この情報がどの程度正確かよくわからないが、日米を比べてみると、どうも教育委員会制度や教科書採択というのは、米国の州行政をベタに日本の地方にもってきた感はある。
 そういえば先の審議会にこういう話もあった。ちと長いが引用する。

○横山委員 私は教育委員会の中にまさにいる人間ですから、外から教育委員会がどういうふうに見えるかというのはよくわからないのですが、ただ、一般論として教育委員会制度に対する批判というのは、私は中から見ていて、的外れな批判が非常に多いような気がするのです。というのは、教育委員会という教育行政執行上のスタイルですね、制度。その制度自体の問題なのか、あるいは制度の内在する問題なのか、あるいは制度の運用の問題なのか。はっかり申し上げて、かなり多くの指摘というのは、運用上の問題に帰結するような気がしてしようがないのです。
 もう1点、例えば全国市長会あたりが、教育委員会制度の廃止を訴えていますが、この真意は、いろいろ話を聞いても、例えば今の市長にしても、知事さんにしても、首長選挙をやる場合には、大方の人が教育問題を争点に選挙を戦っているわけですね、実際には。当選されて、いざ公約たる教育行政に手をつけようとすると、教育委員会という壁があって実現ができない。この問題に対する不満というのは相当あるようなのです。
 したがって、今回、教育委員会制度云々という場合には、我が国において公教育を執行する体制というのはどうあるべきなのかという論からまず始めないとですね。それは現行教育委員会制度を前提にしないで、どうあるべきかという議論から始める。首長がやるという結論には私自身はならないと思うのです。当然、何らかの第三者機関的なものが必要だという方向にたぶんいくならば、その組織はどうあるべきか。一旦、教育委員会制度を全く頭から外して議論していかないと、やはり説得力ある論立てにはならぬような気がします。

 率直な印象をいうと、GHQがなんとなく残した奇妙な制度はいまだ日本にしっくりこないということでもあるのだろう。
 憲法と似たような状況ともいえるが憲法のほうはまがりなりにも半世紀以上身の丈に合うように運用してきたし、最高裁判例もある。教育制度となるとそういう歴史の積み上げというのはないのではないか。
 さらに余談だが、そういえば、「極東ブログ: 郵政民営化反対論の反対論」で匿名のかたから奇妙なツッコミをいただいていた(参照)。

>実上の原文である英文を読むとnationとstateを使い分けており、つまり、これって連邦法ではないのか

天皇が,「the symbol of the State」なのにですか?


 当然。憲法ができたとき沖縄は日本ではなかったし、あの時点では天皇は内地のシンボルでしかなかったんだよ。

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2005.09.20

農政改革でもあった郵政改革

 なにかと喧しい話題でもあるし、たいして調べもしているわけでもないのだが、この間の議論の残務整理っぽく、この話題にも少しだけ触れておこう。つまり、今回の衆院選挙は結果的に農政改革でもあった、ということ。
 話を単純にすると、今回の衆院選挙で、自民党農水族のボスキャラ自民党農林三役が揃いも揃って撃沈された。つまり、選挙前の野呂田芳成・総合農政調査会長、今村雅弘・農林部会長、松下忠洋・農業基本政策小委員長が、ぷしゅっとイリュージョン! 消えてしまった。まるで小泉総理はそこに狙いをつけたかのようだ…みたいなレトリックをふるうとろくなことがないので自粛。
 なお、農水族って何? 水族館と関係あるの? という疑問のある人は、民主党で今回惜しくも落選してしまった錦織淳元衆議院議員のサイトにある”私も農水族でした”(参照)が面白いので読まれるといいかも。面白すぎとも言えるくらい。
 とはいえ、依然自民党農水族自体は残るし、むしろ自民党が膨れたから勢力は強まるといった穿った意見もあるだろう。が、ま、ないでしょ。ボスが狙い撃ちされたも同じだし、そこまでの根性があればすでにボスでもあったろうしなどなど。そして膨れた自民党議員は旧来の自民党からすると宇宙人みたいなものでもあるだろうし、これを迎え撃つには民主党も宇宙人みたいの出してきたし(目が人間ぽくないし)、ここに星間戦争が始まるのである…ってふざけるのはさておき。
 ネットをさらっと見渡してみるとこの話題はそれほど議論はないようにも見える。アルファーコメンテーターことうんこさんも触れてなげっと。
 メディアでこの問題を取り上げたなかでは、北海道新聞”自民農水族が半減 農業団体、政治力低下を懸念 農政調査会長は造反、政策責任者ら落選”(参照)がよく伝えていた。


衆院選で自民党圧勝の陰で、農水省や農業団体に困惑が広がっている。自民党の有力農水族議員が同選挙で半減したためだ。経営安定対策の具体化など重要課題が山積する中、農業関係者からは農水族の政治力低下を懸念する声も出ている。


 年末にかけては、経営安定対策のほか世界貿易機関(WTO)農業交渉など、重要課題がめじろ押し。郵政改革の後は農協の金融部門の分離など農政改革との見方もあり、農水省は「守勢に立つことが多い農水省にとって、守ってくれる議員の力が弱まるのは痛い」(幹部)。農業団体も「調整役がいなくなり、うまく難題をまとめられるのか」と、政治力学の変化に神経をとがらせている。

 簡単にまとめれば、農水族の政治力は低下するだろうし、それによって、WTOを睨んだ今後の日本の農政の方向性がぐんと変わってくるだろう。例えば、散人先生が指摘された”日経:輸入規制、アサリなど有効・北朝鮮制裁で自民試算……柳の下のドジョウを狙う農水族”(参照)なども変化はあるだろうし、二〇〇二年の東奥日報”BSE問題で調査報告書/「政と官」切り込めず”(参照)これなんかも昔の話、というか笑話になるだろう
 私の印象ではあるが、実際のところは、新生小泉政権はそれほどWTOがらみと対米の線を除けばそれほど大きな変化はないのではないか。小泉も手加減しているふうでもある。選挙前の話だが、同じく北海道新聞”道内の農協、医師会 揺れる自民支持 「改革」波及を懸念 衆院選”(参照)では次のように記していた。

 政府の規制・民間開放推進会議は、農協から金融事業を担う信用・共済部門を切り離す改革案を検討している。このため農業団体は「郵政の次に農協を解体するつもりではないか」と疑心暗鬼。小泉純一郎首相は郵政民営化関連法案の参院採決直前、自民党農水族に「農協は郵政と違う」と語ったが、疑念は消えていない。

 日本の内政としての農政が今後具体的にどういう方向になるかというと、大筋では官僚主導になるだろうから、政府広報オンライン”農政改革(食料・農業・農村基本計画)”(参照)あたりの筋書きでもあろう。ちょっとSFっぽい印象も受ける…っていうかあまり現実感ないなぁ。

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2005.09.19

カトリーナ被害からブッシュ叩きの世相について

 カトリーナ被害からブッシュ叩きというのは、米国の現在の政治的な状況では、しかたがない面はあるだろうと思う。クローズアップ現代でも連邦緊急事態管理庁(FEMA)のリストラに根幹の原因があったふうな誘導をしていたが、当たっている面も多い。
 ただ、それをそのまま日本にずるっともってきてブッシュ叩きから米国叩き、はては小さな政府はだからイカン論とか、イラク戦争の是非とかにまでなんでもかんでもガーベッジにしてしまうのも変な感じがする。別に私はこの件でブッシュを弁護する気はさらさらないが、ちょっと違和感だけは書いておこう。
 まずブッシュ叩きは、単純に米国メディアのお商売という側面がある。十三日付TBS”米メディア、「ブッシュ叩き」の理由は?”(参照)はそのあたりをこう伝えている。


 カトリーナ関連の報道で、アメリカのテレビ局は軒並み、視聴者を増やしました。ニュース専門チャンネルCNNの視聴者は、災害前の実に3.5倍に膨れ上がったと言います。そして、その数字とまるで反比例するかのように、ブッシュ大統領の支持率は、就任以来最低の38%まで下がりました。
 「イラク政策や一向によくならない経済について、腹を据えかねていた国民が、今回、カトリーナの被害にあった貧しい人たちを助けられなかった政府に怒りを感じているのです。国民が説明を求めている時に厳しい質問をするのは、メディアの役目です」(NBCテレビ デビッド・シュースター記者)
 「9.11」以来、ブッシュ政権が掲げてきた強いアメリカ。それが国内で崩れ去るのを目の当たりにしたアメリカの人々のショックは計り知れません。そして、その衝撃がメディアの政府への批判をこれまで以上に強いものにしています。(13日18:30)

 それはそうだろうし、そしてそれは米国の事情というものだ。
 今回の人災的側面には、FEMAの機構上の問題がよく指摘される。確かにそれはそうなのだが、この機構改変にはテロ対策があり、この文脈における連邦政府と州政府の関わりはちょっとやっかいだなと私は以前思ったことがある。ちらとネットを見ると、二〇〇一年のワイヤードの記事”米司法長官:「連邦と州が協力してテロ対策の強化を」”(参照)が参考になるかもしれない。このころ連邦政府側がテロ対策に強く乗り出した。

 だが州政府は、こういったテロの脅威をさほど大きなものとは見ていない。それよりも、連邦政府がこのところ力を入れだした諸政策が、州政府の管轄権を侵すのではないかといらだちを見せている。
 「どんな攻撃も地方から発生する。そして(州政府は)連邦政府が高圧的に介入してくるのではないかということに非常に敏感だ」と、政府資金によって運営されているテロリズムに関する諮問委員会の副委員長、ジェームズ・クラッパー中将は語った。

 基本的な構図として、州政府はその管轄権の保持の点で、連邦政府の介入の権限について敏感であるということがある。まして、州政府が民主党であると、共和党色の強い連邦政府には違和感を持つだろう。この構図は今回のカトリーナ被害にもあるように思える。
 そうした視点でネット少し見回したのだが、どれほど権威があるのかわからないが”Don't blame (only) Bush”(参照)という「ブッシュだけをそんなに責めるなよ」というコラムは示唆的だった。
 まず、ふーんと思ったのだが、今回の被害に対するブッシュの態度もその政党支持でけっこう分かれる。

Asked about Bush's response to Hurricane Katrina, Americans are very partisan in their views. Among Republicans, 74 percent approve of Bush's handling of this catastrophe. Among Democrats, 71 percent disapprove. Among independents, 44 percent approve, and 48 percent disapprove.

 というか、そこから先、政党のイデオロギーが意見に反映していると見てもいいのだろう。
 おやっと思ったのは、次の部分だ。

The mayor of New Orleans had hundreds of school buses he did not use to evacuate citizens. His entire evacuation implementation was a disaster. The governor of Louisiana did not mobilize National Guard troops soon enough, and she quibbled with the president for a precious 24 hours over whether federal troops would be under the command of the Department of Defense, rather than herself. FEMA was totally inept initially at getting food, water, and medicine to hurricane victims. Homeland Security demonstrated bureaucratic paralysis in its handling of the crisis. Only the Red Cross seems to have come out of this unscathed in its reputation.

 単純に言えば、災害当地の施策のミスの指摘と言っていいだろう。そういう声はネットに他にあるだろうかと探すと、BBSにこういう意見があった(参照)。

If FEMA was paralized it was by the state of Louisiana, specifically the gonernor. What a crock, FEMA didn't turn away the Red Cross, the governor of Louisiana did stating that they wanted no incentive for the people to stay in the Superdome. FEMA's statement not to respond unless asked was because that is what the governor (who is the local authority) requested, not FEMA's policy.
 
And the people were "dying for lack of water and food" because the governor of Louisiana specifically refused to allow the water, food and supplies through for the reason stated above, that they didn't want the people to want to stay in the superdome. The governor was the one who tried to starve them out. The governor is the one with authority unless martial law is declared and the feds take over.
 
Some people just won't let the facts into their narrow minds. In spite of all the arguements, the Federal response to Katrina, as bungled as it was was, it was faster, more timely, and stronger than any response by FEMA in history. Now is this an arguement that the glass is half empty, or half full?

 こちらは明白に州政府側の問題点を指摘している。もちろん、BBSなので同ページには反論もあるので、こうした問題を考える上では示唆になる。
 ブッシュ擁護ですかみたいな単純な揶揄にうんざりしていることもあるが、この問題はこれ以上は立ち入らない。理由は、今回の事態と機構が私にはよくわからないからだ。少なくとも、連邦政府権限と州政府権限、また、FEMAの機構と運用とくにそのガイドラインがどのように適用されどのような限界があったのかなど、私自身としては、ベーシックな部分が整理できていない。

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2005.09.18

中秋の名月

 今日は旧暦の八月十五日、十五夜である。日本人は中秋の名月と呼ぶが、「名月」の表記は室町時代以降のことらしく、それ以前は定家の「明月記」のように明月であったようだ。確かに明るい。昨晩も「疑うらくは是れ地上の霜かと」といった趣きだった。また「仲秋」とは宛てないようだ。
 昭和三十二年生まれの私は、子供の頃十五夜祝ったものだ。薄を飾り、月見団子を供える。家には中山晋平のソノシートがあり、証城寺のたぬきばやし、兎のダンス、雨降りお月様、などを歌った。月見の喜びが子供の思いとまだ結びついていた時代だった。
 この月を朝鮮では秋夕(チュソク)として祝う。私が知る在日のかたは「お盆」と言う。確かに祝いかたを見るにお盆のようでもある。してみるとこれもまた日本統治の名残かとも疑うが、違うだろう。中国の中秋節に日本統治下の風習がかぶさったものではないか(と言えば朝鮮人は嫌がるだろうか)。いずれ中秋が基本にあったには違いない。松餅(ソンピョン)を食べる習わしも、その形状を見るに中国の月餅と同じ趣向であろう。
 私は子供時代を過ぎてから名月を殊更に祝ったことはない。二十代後半、ちと連歌などに凝ったこともあり、月を愛でるはよろしき、みたいな感じではあったが、その程度だ。沖縄に暮らすようになって、当地の観月会の盛況なことに驚いた。うちなーんちゅは観月会が好きである。飲み会の名目といえばそうだが、それでも月は欠かせない。いずれ沖縄は十月まで本土の夏のような季節が続く。アウトドアがよろしい。
 沖縄では月見団子は食べない。月餅も食べない。松餅も食べない。ふちゃぎを食べる。ふちゃぎは、ブログ「~沖縄で暮らしたい!~」”「ふちゃぎ」お届け~!”(参照)の写真を見るといいが、こんな感じの餅である。語源は吹上餅であろう。吹上が暗示するように、これは蒸し上げる。沖縄では近代内地文化の起源でなければ杵搗き餅はない。そういえば内地の月見団子も杵搗きではない。当の月では兎どもが杵搗きをしているのになぜであろうか。
 私はふちゃぎが好きになった。もっとも、もったりとしてそう喰えるものではない。しかも味はないに等しい。なので若いうちなーんちゅも好まない。が、私は小豆の香りが好きなのでそれだけで充分。以前、マクロバイオティクスに凝っていたころ、甘味なしのお萩を好んだが、そんな感じもする。そういえば、ふちゃぎとお萩は似ている。内地の彼岸のお萩とふちゃぎにはなにか関連があるのだろうか。むむむ。お萩もうちなーぐちで言えば「うふぁぎ(うふぁじ)」なので「ふちゃぎ」にも似ている。ついでに、先のブログのコメントでふちゃぎが南大門でも売られていたとあった。そ、そうなのか?


月餅 横浜中華街重慶飯店
 中国はもちろん月餅である。そしてもちろん月餅とは賄賂のことである。日本人の感覚からいえばのし紙のようなものだ。なので、今年はかなり規制が厳しいようだし、厳しくて当然だろみたいな笑えないような笑い話もよく聞く。月餅のおまけに別荘や外車が付くのだよ。
 私は月餅も好きだ。特に重慶飯店のが好きでよくオーダーしたが、ネットを見回しても通販はなさげだ。どうしたことか。重慶飯店の飯はイマイチだが、菓子類はけっこういける。月餅もずしっと重い。ちょっとこの歳になると一個は喰えないなというのが、月餅の原義である「円」の分かち合い精神によろしい。小さくカットして中国茶とともにいただく。餡は、私は、ナッツなんかのも好きだ。追記:コメント欄にて教えてもらった。「素材にこだわり指定銘菓 月餅:横浜中華街重慶飯店」(参照)です。
 中国茶といえば、この形状の分類で餅茶というのがある。餅にどう関係するかというと、餅の形にかちかちに固めてあるということだ。で、餅の形だが、これは柔らかなアダムスキー未確認飛行物体が重力算定を間違えて着地したような、あるいはエアーマックのような形だ。丸餅である。というか、餅とは丸いのが原義である。そういえば、沖縄の駄菓子でよくコンペンというのを食べたが、これの語源は薫餅であるとも聞いた。宛字のような気もするが、ペンはペイではあろう。
 中国の中秋といえば、月餅ともに忘れていけないのは、西瓜である。蓮華に彫った西瓜を捧げる。どちらも、「円(ユアン)」つまり丸いということからの連想ではあろう。が、こういう伝説もある。
 中国四千年というしょーもない嘘があるが、中国というのはしばしば遊牧民族の植民地になる地域だ。近いところでは清朝は漢民族の国家ではなく、モンゴル継承国家であった。なのでその領土が漢民族のものか、孫文はどう考えていたのかとかいった話もあるが、そんな無粋な話はさておき、モンゴル支配下の漢民族はなにかと陰に回っていろいろ呪詛をエンジョイしていたのだが、それにこの中秋の西瓜もあるらしい。西瓜を食えば種が出るものだが(中国人の西瓜種吐きを私も練習したことがあるが)、この種をただ一つだけ残すというのだ。これは日本の弘法大師の柿とは逆に、そのようにモンゴルの種よ、この一つをもって絶えよというのだ。
 なかなかの執念ではある。とか感じ入っているようでは中国人は理解できない。そういう理念とか言葉とかディスプレイ行動とかに悦に入りたいだけで、実際の西瓜の種はどうするかというと、なーに、月餅に入れて喰うのである。

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2005.09.17

郵政民営化の十年後

 郵政民営化後の日本経済でそのカネの流れがどうなるかについて考察するには、現状では、平成十七年六月一日経済財政諮問会議に提出された「郵政民営化・政策金融改革による資金の流れの変化について」(参照・PDF)という資料が重要だろう。執筆者は、跡田直澄慶応大学教授との高橋洋一内閣府経済社会総合研究所員で、両氏とも竹中郵政民営化担当相ブレーンのメンバーでもあるといわれていることもあり、政府の見解にも近いはずだ。
 前提として明確にしておきたいのは、郵政民営化は、財政危機回避やデフレ克服が当面の目的ではなく、財投改革に端を発した入口改革であることだ。簡単に言えば、無駄遣い・天下りの根である特殊法人(財投機関)に流れ込むカネを徐々に減少させ、最終的に封じることである。だが、郵貯・簡保が、第二の国家予算ともいえるような不透明な国家運営の資金源になることを断つのが目的であるとしても、現実問題としては一朝一夕にそれを断つことはできない。ウォルフレンがTIME”The Play's the Thing”(参照)で指摘しているように世界経済にとっても危険なことにもなりえる(なお、彼は郵政民営化法案を誤解している面があるようにも思える)。
 日経済財政諮問会議の該当資料の推定によれば、郵政民営化の十年後、二〇一七年度に財投に流れるカネは、二〇〇三年度の二〇〇兆円から一〇兆円にまで減少するとのこと。十年をかけての緩慢な変化ではあるが目的は達せられることになる。
 「官から民へ」という全体については同資料が次のようにまとめている。


この改革によって、2003年度と2017年度の資金循環を比較すると、家計資産に占める公的金融のシェアは26%から5%へ激減し、民間負債に占める公的金融のシェアは19%から6%へ激減するなど、資金の流れは「官から民へ」と大きく変化するだろう。

 しかし、「官から民へ」という表現も「民」のとらえ方によっては、その評価が分かれる。
 例えば、「民」を民間の銀行をターゲットにするのではなく、その先にある民間企業か国かという点で見るなら、十年後も、依然、民へではなく、国(官)への流れが大きい。
 朝日新聞”郵政民営化Q&A お金の流れは変わるのか”(参照)はそこに着目して、解説用の設問から郵貯のカネは民間には流れないという結論を誘導している。

 ところが、視野を郵政→財投の外に広げると、光景は一変する。民間金融機関から国債・地方債を通じて政府・自治体に流れるお金が、280兆円から670兆円に激増している。家計が直接国債を買う額も現在の10倍の100兆円に増加しているのだ。
 さらに、郵貯・簡保が直接買う国債・地方債も、130兆円から150兆円に増える。合計の増加額は500兆円。つまり、政府・自治体に流れ込むお金をみると、財投経由は確かに、80兆円減るものの、差し引きでは、400兆円以上も増える計算なのだ。
 これに対し、民間企業に回るお金は、民間金融機関経由が100兆円から240兆円に増え、郵貯・簡保からも最大30兆円増加する見通し。「伸び率」で見れば大きいが、家計預金の行き先に占める「官」と「民」の比率が大きく変わるわけではない。

 「視野を郵政→財投の外に広げると」という点ですでに論点の変更があるが、それでもいわゆる三百四十兆円が最終的に民間に回るわけでもなく、家計のカネも最終的には依然国へ流れているという構図は正しい。余談だが、だから巷間の奇妙な陰謀論も成り立たない。
 この朝日新聞解説記事のように、郵政民営化は、民間にカネを回すという点では効果がないという結論も引き出せる。が、ここに二つの陥穽があると私は思う。
 一つは、近未来のスパンで見るなら、最終的にこのカネが国に流れないことは日本の国家運営を危うくするだろうということ。いわゆる三百四十兆円も旧勘定となり安定運用として事実上隔離されるに等しいのだが、これは国債など国家保障のもとで運営するしかないだろう(実質的な敗戦処理だろう)。このカネをリスクにさらすわけにもいかない。また、財政危機の深刻さを思えば、財政を支援するこのカネの流れは十年程度で断てるものでもないはずだ。
 二つめは、「では郵政改革が無意味だ」と結論するには十分な程度には財投改革は進む。朝日新聞の解説も認めている。

Q では、郵政民営化は無意味なのだろうか。
A 財投改革を後戻りさせないという意義はあるだろう。「(財投と一般会計という)政府の二重性を排除できる」(跡田教授)ため、財政の透明性は高まる。「資金の通り道」とはいえ、民営化で、資金の配分に市場原理が強まり、政府の無駄遣いへのプレッシャーにはなるだろう。

 つまり、かつての利権、国家から見えない巨額のカネの流れというのは事実上終わることになる。
 つまるところ、それでいいのではないかというのが私の考えでもある。これは自由主義国家というものの根幹の制度の問題であり、市民が豊かなら社会主義国でもいいという話ではない。別の面から言えば、財政危機回避やデフレ克服は経済の分野にあるとはいえ、範疇を異にする問題でもある。郵政改革は財政危機回避やデフレ克服には役立たないという論も見かけるがそれならなおさらのこと、郵政改革はそれ自体の限定性のなかで重要性がある。
 以下は余談だ。
 経済財政諮問会議資料を巡る郵政民営化十年後の話題はこれで終わりかというと、そうもいかない奇妙な疑問が残る。大きな余談になるが触れておきたい。
 先の朝日新聞解説記事の引用部分で、カネの流れについて、絶対量より比率が着目されていたが、この資料では郵政民営化にかかわらず家計のカネの量が大きく膨れることを前提にしている。大まかなところだが、二〇〇三年では八百七十兆円であるのに対し、二〇一七年では千四百兆円に膨れている。一・六倍に家計が成長する。しかし、過去の十年を考えると、率直なところ「ありえない」感が漂う。
 資料を見るとこの効果は郵政民営化がもたらしたものではないようだ。郵政民営化とは独立して家計の成長が想定されている。この意味をどうとらえたらいいか。なお、先の朝日新聞解説記事には、結果として、家計の膨張をあてにした国債消化がありうるのかといった解説的な設問も提示されているが、とりあえずそれは郵政民営化とはまた別の話であり、財政改革とごっちゃにしないほうがいいだろう。
 いずれにせよ、資料に示されているような家計の成長が今後十年の日本で可能なのか、という疑問は残る。朝日新聞解説記事はこう言及している。

 財政改革は、郵政民営化より、はるかに大きくて複雑なテーマだ。経済の成長力や社会保障や税制のあり方など、様々な要素を考える必要がある。
 例えば、試算で前提とされている経済成長や財政収支の見通し自体、決して低いハードルではない。実質成長率は1%台半ばから2%程度。インフレ率を加えた名目成長率は3%台半ばから4%程度が想定されている。名目マイナス成長も珍しくない現状のままでは、実現はおぼつかない。

 朝日新聞は郵政民営化の話から財政改革の話へシフトし、それは無理だろうという雰囲気を醸しだしている。
 だが理論的には無理ではないだろう。さらにきつい可能性すら机上では想定できそうだ。その一例として、「日本経済にいま何が起きているのか」(岩田規久男)には、こういう想定もある。

 勇ましい掛け声だけでなく、本格的に構造改革を進めることにより、潜在成長率を四%程度まで高め、そのうえで、名目成長率を五%~七%程度に維持しようとすれば、GDPデフレータは一%~三%で上昇しなければなりません(定義により、名目成長率は実質成長率にGDPデフレータの変化率を足したものになります)。つまり、日本経済が真に復活するには、デフレを止めるだけでは不十分で、物価が一%~三%で上昇し続けることが必要でしょう。

cover
日本経済に
いま何が起きているのか
 この本の趣旨では、そうするにはインフレを誘導せよということでもあるのだが、逆にそのような想定が先の資料に含まれているのか、そこまでは私は十分には読みとれない。
 資料が暗黙の内に政府の立場を代弁しているとすれば、この想定には、弱い形でのインフレ誘導が含まれているようでもあるし、そのことは国家運営の側でも折り込まれているのかもしれない。そこが私にはよくわからないところだ。それはもちろん郵政民営化の問題ではなく、財政改革の問題でもあるのだが。
 また、インフレ誘導が暗黙に含まれているというならその実質的な増税効果を国民がどう捕らえるのか、どのように国民に提示されるのか、といった点が明確ではない。こうした経済政策は国民の意思とは別に遂行されるのかもしれない。
 関連して気になることがある。先日十三日付フィナンシャルタイムズだが、選挙後の小泉改革を論じた”Koizumi's mandate for reform”(参照)に、今後の日本の経済にこうした提言があった。

Given that growth resumed during Mr Koizumi's first term, despite the absence of serious economic reforms, his best option now is to let it run its course. However, that is not his decision alone. First, the Bank of Japan could seize on the return of even modest inflation to raise interest rates prematurely. Second, although Japan's growth depends less on exports than it did, it would not be immune to a global economic downturn.

 前段には消費税アップといった間違った施策は取るなという話があり、それはわかりやすい。また、全体としては経済をいじるなというのもわかる。含みとしては昨今出てきた量的緩和の出口論の牽制でもあろう。問題はこの二つの提言だが、二番目の提言のほうはわかりやすい。以前ほどではないだろうが日本は輸出依存ではなくなっているものの、また輸出志向になれば世界経済の負の影響をかぶるだろうから自制せよというのだ。中国の崩壊の含みがあるかもしれない。
 一番目の提言がわかりづらい。日銀はこの機に乗じて緩和であれインフレ誘導はやめとけ、ということなのか。そのあたりの話と背景がよくわからない。単なる私の受け止めかたの間違いかもしれない。もっともこの部分は本質的には郵政民営化とは関係のない話ではあるのだろうが。追記:この部分、コメントで指摘をいただいた。「日銀は控えめなインフレの果実すら時期尚早に刈り取って利上げに走ってしまうかもしれない。」ということで現状の弱いインフレ政策の続行を示唆している。

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2005.09.16

今回の選挙は女性の選挙だったなぁ

 衆院選が終わって二つ心にひっかかっていることがある。一つはちょこっと書いたけどそれ以上に展開するのはためらうものがあり、書かないかもしれない。もう一つは、「今回の選挙は女性の選挙だったなぁ」というものだ。
 このブログも昨今の流れだけで読まれて奇妙な誤解をされることもあるし、誤解だなんだっていうのもブログの世界では野暮なことだとは思うが、過去エントリは「極東ブログ インデックス」(参照)から日付単位だがアクセスできるようにしてある。昨年の七月参院選後のエントリもインデックスからアクセスできる。「極東ブログ: 参院選であまり問われなかった女性議員の問題(2004.07.12)」(参照)というエントリでは、私は各国における女性議員の比率について触れ、こう締めくくった。


 話が散漫になったが、ただのスローガンではなく、もっと大きな潮流として、日本でも女性がいっそう政治に大きく関与しなくてはならない時代になってきているのだろう。
 だが、率直に言えば、おたかさんのイメージではないが、女性の政治家であることがある種のイデオロギーの傾向を含むかのように見えるのは日本の問題だろう。もっと端的に問われなくてはいけない中絶問題や低容量ピルといった問題などは、女性問題のなかから置き去りにされている。原因はマイルドな左翼イデオロギーがブロックになっているようにも思えるのだが、それだけの問題でもないだろう。
 飛躍した言い方だが、女性が社会コミュニティの質を変化する主体とならなくてはならないのだろうが、今の日本の傾向としては、優秀な女性がむしろ、経済的な勝ち組に吸収されるような構造があるように見える。

 予言とかいうつもりはない。今回の衆院選で過去の自分の期待が当たっていた面とそうでもない面もある。ただ、この側面の世の中の流れを見つめていたとは思う。
 そうした点で気になるのは、経済的な勝ち組に吸収されたかにみえた優秀な女性が政治の側に回ってきたかもしれないし、そうした兆候を社会の女性が支えつつあるのかもしれない、ということだ、…そう見ることは一部から強い忌避感を受けるのだろうけど。
 選挙後の情報や総括などを見ていて、どれも女性の政治参加という視点では、あまり納得したものがなかった。基本となるのは今回の選挙での女性票の動向だが、それほど資料が見あたらない。NHK「あすを読む」での話では、男性の自民・民主の差が四十二パーセント対三十六パーセントと六ポイント差だったのに対して、女性では四十三対二十八と十五ポイントも差があった。それだけでも、今回の衆院選では女性票の流れは大きな意味をもったはずだ。
 もっともこの差については、男性層の自民支持比率と数値を比べるとわかるが、女性層において自民支持が強かったということではなく、民主党の支持が低かっただけだ。その意味では、この動向については、小泉マジックだの、単純な争点がよかっただの、ヨン様ブーム的な動向だの、といった推論は成り立たない。明確に、女性は民主党を選択しなかったのであり、マーケティングがどうのというのは洒落として、端的に民主党の政策が女性層に支持されなかったと考えるべき問題だろう。
 この女性層の支持は、いわゆる「刺客」「くのいち」という揶揄を浴びせられた女性候補への支持でもあったのだろうし、ちょっと勇み足で言うのだが、こうした下品な揶揄を繰り返した日本のマッチョ・メディアへの否定でもあった。
 今回の衆院選挙では、女性の当選者は四十三名で戦後最多となった。その半数以上を占める二十六人が自民党だった。この政治戦略もただ大衆迎合のように受け止められることがあるが、彼女らを比例上位に置いていたことは、単なる選挙イメージではなく、明確に自民党のなかにこの女性達を取り込む意志があったと理解すべきだ。しかも、彼女たちにきっちりどぶ板回りをさせている様子もうかがえた。
 女性の政治参加という点ではこれでもまだまだ途上という段階でもあるし、二大政党と言われながら、女性票が自民・民主党以外に流れる構造の意味もまだよくわからない。その流れは、もしかすると、現状の自民・民主党という枠を押し流すものになるのかもしれないのに。

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2005.09.15

「英豪によるサマワ撤退打診」ニュースはどこから出たか?

 英国軍とオーストラリア軍が、イラク、サマワからの撤退を日本政府に非公式に打診しているというニュースが、十三日朝日新聞、十二日TBS、十四日時事で流れた。
 だが、関連ニュースやその後の経緯を見ていると、誤報とまで断定できないものの、奇妙な印象を受けるので、検証とまではいかないが、ブログに留めておきたい。
 朝日新聞”英豪、サマワ撤退を打診 日本の派遣延長に影響か”(参照)のニュースの重要部分は次のとおりである。


 陸上自衛隊が派遣されているイラク南部・サマワで、治安維持にあたっている英国軍とオーストラリア軍が、サマワからの撤退を日本政府に非公式に打診していることが13日、明らかになった。12月に期限を迎える自衛隊派遣について小泉政権内では延長論が強いが、英、豪軍の撤退時期によっては、派遣継続が困難となる可能性もある。
 複数の政府関係者によると、日本も含めた3者の意見交換の場などで打診されたという。日本側は撤退しないよう求めたとみられる。撤退時期に関しては「決まっていない」としている。イラクの治安状況の悪化などもあり、各国とも派遣部隊の撤退時期を模索しているのが現状だ。この中で、サマワからの撤退案も浮上していると見られる。

 一読して5W1Hが曖昧であることがわかる。
 TBS”英・豪軍、日本政府にイラク撤退を打診”(参照)は次のとおり。

 厳しい治安情勢が続くイラク派遣をめぐって、自衛隊と同じイラク南部に駐留するイギリス軍とオーストラリア軍が、日本政府に対し、来年夏頃の撤退を打診している事が明らかになりました。日本政府は対米関係をにらみ、対応に苦慮しています。
 イラク南部の治安を統括するイギリス軍、そして自衛隊のいるサマワ周辺に駐留するオーストラリア軍からの相次ぐ撤退の打診は日本政府内に波紋を広げています。
 関係筋によりますと、両国とも、イラクでの任務が今後、終了するメドが立たないことから、新憲法下で国民投票が行われるこの10月に撤退を判断し、来年夏頃部隊を撤収させたい、という意向を水面下で日本側に打診してきたという事です。

 内容は朝日新聞記事とほぼ同じで、5W1Hが曖昧な点も同じだ。
 これに対して、十三日付読売新聞”英・豪軍、サマワ撤収を検討…自衛隊駐留に影響”(参照)はこの打診の日時をより明確にしている。

 外務省幹部は13日朝、「1、2か月前に英豪両国がサマワからの撤収を検討していると伝えてきた。撤退の時期については、明示はなかった」と語った。
 また、「英軍はイラクからすべて撤退するのではなく、比較的、治安の安定しているサマワの駐留をやめるかどうかという話だ」と指摘した。サマワで活動する自衛隊は今年12月14日に派遣期限が切れる。

 重要点は二点。まず、英軍はサマワ地域からの一部撤退を日本に打診してきたということで、朝日新聞・TBSのように全面的と言明していないもののそうしたニュアンスのある撤退ではない。もう一点は、この打診は一、二か月前のできごとだ。それをなぜ、朝日新聞・TBSはぼかしているのか。なお、時事”英豪軍、サマワ撤退を打診=自衛隊派遣延長に影響も”(参照)も読売に近い。
 ニュースのリーク元も読売新聞では外務省幹部と特定がやや狭い。また、このリーク日時が読売新聞によると十三日の朝ということで、TBSはそれ以前の時点になり、同型のニュースであるならTBSから朝日新聞に流れたのかもしれない。
 読売新聞に加えて、十四日付時事”サマワからの撤退打診を否定=任務は1年を強調-豪国防相”(参照)がさらに疑問を深める。豪州側からはそんな打診はしてないというのだ。

 【シドニー14日時事】オーストラリアのヒル国防相は14日、自衛隊が駐留するイラク南部サマワの治安維持に当たっている豪軍が非公式に日本側に撤退を打診したとの報道について、「豪軍のサマワへの派遣は(今年4月から)1年間の任務となっている。それ以外は日本側に伝えていない」と述べ、否定した。キャンベラで記者団に語った。

 こちらはソースもはっきりとしており、英軍については現状わからないようだが、豪軍についてのサマワ撤退打診については虚報と断言してもよさそうだ。
 ニュースの日付から考えると、朝日新聞とTBSのニュース・ソースはその後の読売新聞や時事とは違うようだ。いったいどこから朝日新聞とTBSはニュースを得たのだろうか?

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2005.09.14

国連改革ってアナンの辞任のことでもなさげ

 国連首脳会合が開幕した。ので、簡単に関連のネタである。昨年は日本のメディアはイラクの石油食糧交換プログラムにおける国連不正についてほとんど報道しなかった。ので、極東ブログはけっこうちくちく書いてきた。さすがに国連不正はもうバックレようもないので日本のメディアでも報道するようになったみたいだが、それでも少ない。なぜなんでしょうかね。私もこの問題への関心は薄れてきているので、昨今の状況について簡単にまとめておくだけにしたい。
 まず日本語で読めるあたりのニュースからだが、八日付の朝日新聞”アナン氏、辞任否定 各国に改革協力訴え 国連不正報告”(参照)が実に軽い。


 旧フセイン政権下のイラクへの国連人道支援をめぐる不正について独立調査委員会が「国連に指導力が欠けていた」などとする最終調査結果を報告したことを受け、アナン事務総長は7日、国連の改革に各国が協力するよう呼びかけた。自身の去就については、来年末までの任期を全うするほか、ほかの国連幹部も辞任する必要はないとの考えを示した。

 毎度ながら、なんだかよくわかんない記事だが、要するに「イラク関連で国連に不正はあったし国連はイラクに対してだめだめだった。だけど、国連幹部の不正追及もこの辺りで終わりにしたいし、アナンも責任はとらないよ~ん」ということ。いいのかそれで、って、朝日新聞は思わないのだろうか。たぶん、思わないのだろう、似たような体質だし。
 現在の国連はどうかというと、十四日付の産経新聞”きょう国連首脳会合開幕 成果文書、難航必至”(参照)がさらっと触れている。

 国連は、史上最大のスキャンダルといわれるイラク「石油・食糧交換プログラム」をめぐる不正事件で大きな打撃を受けており、アナン事務総長自身も調査対象となって、仲介などで指導力を発揮できる状況にない。
 成果文書の採択に失敗すれば、「国連に対する信頼がさらに低下するのは避けられない」(国連外交筋)状況である。

 冷静に考えると、国連は終わったと言っていいくらいかも、だが、物事冷静に考えるだけが面白いっていうものでもない。
 オモテに浮き出しているわかりやすい争点は何かというと、単純に「アナンさんヤメレ」という話である。十二日付の共同”国連事務総長「レームダックでない」・辞任を否定”(参照)が自ネタじゃなくてブログみたいな記事を書いているが、そーゆーこと。

アナン国連事務総長は12日付の英紙インディペンデントとのインタビューで「自分はレームダック(死に体)のように感じてはいない」と述べ、辞任の意思はないことを明らかにした。国連の対イラク人道支援事業「石油・食料交換計画」をめぐる不正事件で事務総長の責任を問う米国などから辞任要求が強まっていた。

 「米国などから」っていう他人事の表現がどうよだが、総じて共同は米国が国連を糾弾しているという枠で日本は関係ないかのごとくの報道を繰り返している。他にも九日付”アナン事務総長の辞任要求”(参照)はこんな感じ。

イラクへの人道支援事業「石油・食料交換計画」をめぐる不正を調べている米上院調査小委員会のコールマン委員長(共和党)は9日、国連本部で記者団に対し、不正を防止できなかった責任を問われているアナン国連事務総長について「トップとして不適格」と述べ、あらためて辞任要求を突き付けた。

 英国テレグラフもアナン辞めろの社説がこのところ続いた。十一日付”Kofi must be sacked”(参照)はこんな感じ。

The first of those reforms is to get rid of Kofi Annan, the UN's General Secretary. However genial he may be personally, he has proved himself incapable of ensuring that the UN runs in a minimally efficient and uncorrupt fashion.

 アナンは無罪かもしれないけど無能なんだからやめてくれというわけだ。九日付”If the UN is to prosper, Kofi Annan should quit”(参照)ではもう少しディテールに踏み、ボルトン新米国連大使の活動に触れていた。アナンが辞任すればいいというものでもないという話でもあった。

Meanwhile, John Bolton, the new American ambassador to the UN, has set the cat among the pigeons by suggesting numerous amendments to plans for making the world body more effective. The plans are based on recommendations from a high-level panel established, like the oil-for-food inquiry, by Kofi Annan, the Secretary-General.

 ワシントンポストはむしろアナンに焦点を当てるのを避けているよう見える。”Reforming the U.N.”(参照)より。

Again, it would be nice to believe that replacing Mr. Annan with a stellar manager would change this. But the United Nations' incompetence is hard-wired into the institution's DNA: the rules created by its member states that make it impossible for the secretary general and his top staff to hire good people, fire bad ones and move resources from unneeded programs to priority ones.

 問題はアナンじゃなくて、不正と無能は国連のDNAなのだというのだ。それもすげー表現だが。
 この前段になるが、ワシントンポストは事実上ヴォルカーも無能だと断じているに等しい。さすがにそうかもしれないなと思う。

To forge such a consensus, it's important first of all to understand what the Volcker report did not find. Despite a budget that ran into the millions, the inquiry did not nail large numbers of U.N. officials for personal corruption in administering the oil-for-food program. If it had done that, life would be easier; firing the wrongdoers might fix the problem. Instead, the inquiry found evidence of corruption on the part of just two officials, both of whom have since been forced out of their jobs. The real scandal that Mr. Volcker underlined is that the United Nations' culture is dysfunctional.

 確かに不正関与者は二人で終わりです、というわけにもいかないだろう。
 話を端折るが、国連改革というのはこのすさまじい糾弾の向こうにあるわけだが、ま、日本としてはどうなんでしょうかね。

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2005.09.13

長谷川憲正参議院議員の反復横跳び

 考えようによっては些細な話だが、気になるのでブログにメモしておこうっと。天声人語風な洒落でいうとランタナの趣きといったところか、長谷川憲正参議院議員の処世についてである。
 今回の衆議院解散に際し、長谷川憲正参議院議員は自民党を抜け国民新党の結成に加わった。だが、その後、政党をさらに鞍替えして、田中康夫長野県知事が代表の新党日本に移籍した。そして、昨日、またまた国民新党に復党した。コロコロ変わる。体力測定、反復横跳びって感じ。
 サンスポ”長谷川氏「人数あわせだった」選挙終わって再度国民新党へ”(参照)を引く。


 長谷川氏は衆院解散後に自民党を離党し、先月17日の国民新党旗揚げに参加。しかし、その後に結成された新党日本の所属国会議員(衆院は前議員)が、公選法上の政党要件の5人に1人足りなかったことから、わずか6日後の同23日付で移籍して「新党互助会だ」と批判を浴びた。
 この批判をまるまる認めた今回の復党宣言だが、長谷川氏は「当初から、選挙の時に(新党日本の)人数が足りないので応援してくれと、いう話だった。選挙が終わったので戻った」と悪びれる様子もなく平然と説明した。

 コロコロ変わった理由は、新党日本が公選法上の政党要件を満たすためだった。
 公選法上の政党要件というのは、国会議員が五人以上所属するか、または直近の国政選挙で有効投票総数の二パーセント超を満たすことだ。
 これを満たすと、寄付金について会社や労働組合からの多額の寄付を受けることができる。この要件を満たさないと個人からの寄付は百五十万円まで。満たすと二千万円まで。選挙活動も違ってくる。選挙カーだのビラだのの制限が変わる。よくわからないのだが、政見放送の条件も変わるようだ。田中康夫新党日本代表を選挙速報でよく見かけたのはそのせいか。
 しかし、そんなことは極論すればどうでもいいのだ。どうでもよくないのは、政党要件を満たすと、政党交付金が出るということだ。
 政党交付金というのは、国が政党に出すカネで、もとを辿ると国民が払った税金である。
 長谷川憲正参議院議員がひょこひょこと政党間を動いたことで、国民の税金が、田中康夫長野県知事が代表の新党日本に流れ込む。
 率直に言って今回のひょこひょこで田中康夫長野県知事が代表の新党日本はいくら貰うのだ、っていうか、血税をいくらぶんどるのか、知りたい。
 ちなみに、田中康夫新党日本代表は同党についてこう説明していた(参照)。

 独特の言いまわしで2大政党を斬った後、新党日本については「道路に面したブティック。ファッション、アクション、ミッションは極めて明確で分かりやすく、同じ目線で接客します」。新しさ、行動力、使命感を武器に、有権者の立場で考える党だとPRした。

 だそうなので、極めて明確でわかりやすく、ずばり、いくらだ?
 政党交付金の仕組みをちょいとぐぐったのだがよくわからない。参考になりそうなのは、毎日新聞”特集WORLD・大人の授業時間:新党 かつて非自民政権樹立、再編のカギを握れるか”(参照

 選挙後の「カネ」も違う。政党交付金は国民1人当たり250円で算出。国政選挙のある年は選挙の翌日を基準日(選挙のない年は毎年1月1日)として、所属国会議員数の割合と直近の選挙の得票率を基礎に年4回に分け交付される。05年度の総額は317億円で交付額(概数)は自民党154億円、民主党122億円、公明党30億円、社民党10億円、自由連合1億円。共産党は受け取りを拒否しており、算定はそもそも共産党の議員数を除いて行われている。

 何千万円って額ではないのだろうし、ネットのどっかに公開されているかもしれない。わかったら、このエントリに追記しておこう。

【追記】(2005.09.14)
 今日付の読売新聞の試算によると、今回の衆議院選挙で新党日本がゲットする政党交付金は四千万円とのこと。田中康夫長野県知事代表の新党日本は労もない名義貸しで四千万円もゲットですか。実に賢い商売選択だったようだ。
 ちなみに、読売新聞試算ではないが、ブログIrregular Expressionの試算(参照)によると、来年以降の新党日本の年間受取額を政党交付金見込み額は、一億六千万円ほどにはなるとこと。庶民からは想像しがたいビッグビジネスの新党日本ではある。

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2005.09.12

二〇〇五年衆院選挙結果

 驚いた。昨晩八時になったのでいつになくリアルでテレビのスイッチを入れたらNHKに尋常でない表示がある。自公三〇〇、ですか。しばし見ているとマジだ。そして結果は自民単独で二九六議席。これが自民党自身完璧に想定外だったことは東京ブロックの比例リストが足りずに、社民党のしかも保坂展人に流れるというお笑いからもわかる。
 で、「オメーさんの予想(参照)はどうかね?」ということだが、自民圧勝、単独過半数というあたりは、ま、かろうじて合格ラインか。ホリエモンの落ちも当てたしな。この間の極東ブログのスタンスとしても、それなりにスジは通ったかなとも思う。
 しかし、私は自民単独議席数二四〇と予想したわけで五十議席も外した。ということは、ハズシはハズシ。というわけでなんでこんなに外したかだが、予想のロジックをトレース(読み直し)してみて、強弁するわけではないが、率直のところ大きな見直し点はない。現状の統計を見直してもこれはまったく想定外だというものもない。いわゆる無党派層が自分の予想より自民党に流れたことが小選挙区制度だとこれだけの地滑り(Landslide)起こすのだなとは反省。が、各小選挙区の状況を大局的に俯瞰して予想するには勘というくらいしかない。実際、予想で辛勝から圧勝へと補正したのは私の勘だった。この時点で産経などから三〇〇という数字も出ていたがそれは信頼していなかった。今後も、私としてはこうしたスタンスはそれほど変わらないとも思う。というか、ここで今回の結果を自民単独三〇〇とかの「ネ申」の予想をすることは私にはできないだろう。
 勘がそれほどは働かなかったのはバイアスもある。私が基本的に民主党の支持者であり、今回のような憲法改正まで視座に収めるような衆院(下院)の自公与党勝利を率直には受け入れがたい。私は、わけのわからない批難もされたが、それほど小泉の支持者でもないし、まして公明党を是とするわけでもない(憲法改正批判者は公明党が最後の砦だろうけど)。
 結果の数値以外に今回自分が外したなという他の部分を見ていくと、まず投票率の増加がある。六七・五パーセント(前回より約七パーセントアップ)になったし、七〇パーセントいくかもなという思いもわずかにあったが、率直なところ六〇パーセントちょいくらいではないかと思っていた。それが小選挙区制のシステムの無理解と相まって最終議席数の予想を狂わせた。余談めくが、今回の結果をもって衆愚政治だの小泉マジック、催眠術とかいうやつは小選挙区制度というシステムの理解を放棄しているだけ、というかその時点で思想の自滅だよと思う。ついでにいうと今回の選挙はマーケティングの勝利だんなてのもタワケだと思う。
 それにしても、この投票率の高さは、日本人は、やるときはやるものだなと思わせるに足る。これなら本当に日本に危機がくればそしてリーダーさえあれば日本はきちんと日本人としてまとまって行動ができるだろう。すごい国だなと自国を誇りに思う。他国も内心はビビったのではないか。中国様など偉そうに言っても、民衆の総意の上にある権力ではない。ただの軍政に過ぎない。いずれは南米のように解体するしかないだろう。少子化とはいえ日本はまとまった国民としては今後もアジアの最大パワーでは有り続ける。だからこそ日本の未来は厳しい。
 これも関連しているのだが民主党がここまでボロボロになるとも思っていなかった。昨晩の岡田を見ていて「笑え、ジャイアントロボ!」とか言いそうになってしまう。民主党は小泉の術中にはまったみたいな反省をしているようでは今後もダメダメだろう。今回、元・民主党支持の私から見て本当にまいったなと思ったのは、マニフェストが機能してないことだった。岡田はマニフェストから逸脱して爆走を繰り返した。理由はいくつかあるが、郵政民営化反対というとき具体的な対案の法案を提示できなかったのはやはり政策政党としてはダメというしかない。立て直しはきついだろうなとは思う。が、民主党も初心に帰ればいい。これまでが僥倖だった。
 自滅した民主党に加え、参院。やったぜ、こいつらお笑い集団だ、イラネ、と率直に思う。報道を見ていてもあまり指摘されてないようだが、参院の一票格差のゆがみが今回の参院の迷走を招いた。良識の府ならそれらしく一票格差を是正し、議員自体も半分くらいに縮小したほうがいい。真面目に言うと、参院は憲法上は不要でもないのだから、それなりの見識が出せる場であってほしい。でも、たぶん、だめでしょ。
 後は余談のようなことだが、ブログと選挙だが、それほど関係なかったと思う。選挙が近づくにつれ変なトラバやコメントが増えると言ってのけたブログもあるが、そんな印象はうけるし、私もけっこう無体な誹謗中傷を受けた。今後はこうした傾向がさらに増長するのだろうと思う。が、対応のしようもないだろう。ブログは変な意見を増幅するシステムでもある。
 雑誌や新聞や出版界のオピニオンとかは今回の選挙でくっきり負け組になったと思う。朝日新聞はすでに成仏の領域にあるが、読売新聞も中曽根に転けたあたりで迷走したし、雑誌系も文藝春秋や新潮などわけのわからないタマぶっ放しまくった。女性候補のスキャンダル・ネタも下品過ぎっていうか、おまえらボケすぎ。
 いわゆる偉そうな識者もけっこう転けた。というか、プチ・インテリあたりが「衆愚政治だ」とかほざいて、さらにルサンチマン度を深めて、それがブログとかに溢れてうざくなりそうな悪寒(オメーもそ?まぁまぁ)。この傾向はいわゆるふっきれちゃった右派にも言える。西尾幹二とか小林よしのりとかなんか、振り切れ、ま・す・た。というか、この振り切れ右派の裏の動きの縦糸があるように思う。
 個別の選挙では、ムネオやうどん屋のねーちゃんの比例での復活は完璧に想定内。どってこともない。永岡洋治衆院議員の弔いで出た永岡桂子候補は比例で当選したが、地場で見ると中村喜四郎に八千票近い差で負けた。重苦しいものを感じる。
 私は気分的にはまだ沖縄にいるような感じもするのだが、嘉手納統合を率先して進めていたワタブーオレンジ革命の下地幹郎が復活。良かったねと言いたいところだが、実態はナーガトーヤラムルワカランで白保台一の票を食ってみました。白保(公明)はそれなりに見識のある平和主義者ではあると思うが。辻元疑惑の関連者だろの照屋寛徳は入り、東門美津子は落ちた。西銘恒三郎も入った。

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2005.09.11

藻前ら、どんな卵料理が好きか?

 自慢ではないが私は世事に疎くて、書店に並んでいる今週号のステラの表紙の茶髪のおねーさんのドアップを見てつい「これって、あれ、韓国人のユンソナっていうのでしょ」とか言ったらそばにいたものに「ゴマキよ」と言われた。「ゴマキってモーニングなんとかで作詞の盗用とかしてた子か?」と続けると「違うわよ」と言われた。以下略。
 なもんで、「サニーサイドアップ」とか言われても、私は知らないよ。っていうか、本物のサニーサイドアップなら知っているぞ。若い頃修道院に暮らしていた私は卵料理ならすぐに十品くらいは作れる。いや、修道院というのは嘘で、トラピストなんですが、ってさらに嘘だが、卵料理のほうはそれほど嘘でもない。
 というわけで、喪男でもできる卵料理を紹介しよう。きっと、役立つはずだ(何故と問うなよ)。
 の、前にこれ”Poll: How do you like yor eggs?(参照)”を見れ。「藻前ら、どんな卵料理が好きか?」というのだ。米人のアンケートだ。


Raw 0 (0%)
Over Easy 19 (19%)
Sunny Side Up 14 (14%)
Hard Boiled 1 (1%)
Deviled 6 (6%)
Scrambled 32 (33%)
Poached 6 (6%)
Other, you insensitive clod! 20 (20%)

 全部わかりますか。私はわかりますよ。では解説。

生卵(Raw)
 これが米人ではゼロ・パーセント。私も一時期米人文化に染まったので喰えなくなった。が、子供のころはエリザベスサンダーホームの朝食ではないが喰ってはいた。新鮮なのに上等の醤油だとたしかにうまい。お薦めは以前もしたけど伊勢醤油(参照)。
 しかし考えてみると、シャーベットとか菓子とかだと結局生卵を使ってはいるか。そういえば、昔はオロナミンセーキというのがあったが今でもあるだろうか。知ってる? 飲むとメガネが落ちるんですよ。
 生卵のキモさをめいっぱい味わいたい人にはバタイユの「マダム・エドワルダ」なんかもお薦め。うへぇ。

両面焼き(Over Easy)
 これは日本ではターンオーバー(Turn Over)とか言われている。簡単にいうと両面焼きってやつ。どうやって両面焼くかというと、次の目玉焼き(Sunny Side Up)をひっくりかえして焼く。というけど、ここがワザ。というのは、この時当然というか、半熟な黄身が潰れるのだけど、この潰し具合が味に関わるわけだ。私は、これに懲りまして、けっこう上手ですよ。
 ちなみになんでこんなことをするかというと理由はたぶん二つ。一つはこれ、ハンバーガーに挟む用なのでそれに合わせている。もう一つは衛生の問題。生卵は衛生上危険というのは米人の常識なんで火をよく通す。

目玉焼き(Sunny Side Up)
 二個使わなければ目玉焼きじゃないとかのコメントはなしですよ。これはま、日本でもありげ。で、これが料理としてみれば火のコントロールがけっこう難しい。ポイントはフライパンだと思う。肉厚のフライパンを使えや。お薦めはクリステルのフライパン(参照)。楽天を見たら売り切れ。ほいでも、iPod nanoよりクリステル買っとけ。
 火のコントロールの次に難しいのが油と水蒸気。水蒸気というのは、仕上げを蒸し焼きにするテクがあるわけだけど、これもへたにやると白身がなんか、やわらかプラスチックみたいになってしまう。
 ところでブログで話題の目玉焼きに何をかけるかだが、私は、もちろん、醤油です。ハーブ塩(参照)も使うけど。塩だけだとちょっと卵が臭い。

ゆで卵(Hard Boiled)
 これはけっこう難しいんですよ。普通に作るなら水から茹でる。塩をちょいと入れておく。くらいは常識として、意外に知られてないのが、新鮮な卵を使わないこと。これはマジ。新鮮な卵だと茹でたあとでうまく剥けないのだ。
 茹でたら冷水で冷やして剥くのだがさて何分? How long?
 これで困るのがホテル。ってか、それが困るようなホテルの経験は若いうちにしておくとよいかも。答えは、ま、黄身が半熟(Medium boiled)ならファイブ・ミニッツ、固ゆでならテン・ミニッツでしょうか。Five-minutes, pleaseとか言うとよいかも。
 ゆで卵の食べ方というと「広島や卵食ふとき口開く(西東三鬼)」みたいなのがニッポンだし、米国なんかのハードボイルドっていうかなんでもありかもだけど、なんつうか西欧的にはそうしない。ゆで卵はゆで卵の入れ物に載ってくるのでその上部を割る(ホテル割られていることが多いはず)。ほいでスプーンで掬う。割られてなければどう割るかについてはいろいろ問題がある。ま、スプーンで叩けや。世の中には専用の卵割り鋏というものもあるがネットでは見あたらない。なんて呼ぶのだ? 追記:トック・ウフ、エッグトッパー、エッグシェルカッター(コメント欄参照)。
 あー、味付けだが、普通は塩かだが、ブルーチーズもイケる。もちろん醤油は旨い。

デビルド・エッグ(Deviled)
 そういえば日本ではこれはあまり名前としては有名ではない。が、多分、見ればわかる。あれだよ(参照)。 半割ゆで卵に黄身をサラダ風にして乗せたあれだ。イースターの定番だったか。
 ところでこれがなんでデビルド(悪魔処理)なのかなのだが、粉々にするあたりではないか。

炒り卵(Scrambled)
 炒り卵と書いて、ちがうよなと思う。違う。すごく違う。スクランブルド・エッグはもっとべとーっとクリーミーにする。パンとかのディップみたいなものだ。
 これははっきり言ってすごい難しい。ポイントは油(オリーブオイル)かなと思う。ま、この話はこれ以上立ち入らない。

落とし卵(Poached)
 日本人はあまりやらないみたいだが、私はよくやる。あまり上手ではない。新鮮な卵を使うとよい。湯を沸かして酢を少し入れる(酸味付ではない)、火を消して、静かに卵を落とす。大きいスプーンで静かに落とすのがよいと思う。
 すぐに白身が固まる。黄身のかたまり具合は慣れ。半熟がよい。湯から取り出すときは、アク取りみたいので水を切って掬うこと。
 私は醤油で食うの好きだが、和風ダシでもよいかとも思う。

オレの好みはココにはねーよ(Other, you insensitive clod!)
 そんなもんかねである。

 さて、以上が米人風ではあるが、おおっ、卵焼きはどうした?っていうのが日本人だろ。これは卵焼き器があればそう難しくない。作り方などは大竹まことの「こんな料理で男はまいる。」がよい。ってか、この本はけっこうお薦め。

cover
いつものたまごと
じゃがいもで
Spain
 オムレツ、スペイン卵、温泉卵、茶卵など、あー、北京風、スペイン風…もあるか、うへぇ、まだまだレパートリーはあるがちょっと飽きたのでまたの機会でもあれば。
 そういえば卵料理のお薦めの本は「いつものたまごとじゃがいもで…Spain」と思って、アマゾンをみたら、プレミアになってら。

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2005.09.10

人間の脳は進化の途上

 私はちょっと勘違いしていたのだが、人間の脳はまだまだ進化の途上、というネタは日本で報道されていたっけ?
 勘違いというのはあれだ、なんとなくこっちの話とごっちゃにしていた。朝日新聞”チンパンジーのゲノム概要解読 ヒトの能力解明手がかり”(参照)とかAP”チンパンジーのゲノム解読、ヒトの遺伝的進化の解明へ”(参照)とか。
 こっちの話は、朝日の記事だとなんか要領を得ないが、APだとニュース的にはチンパンジーと人間は遺伝子的にはそれほど変わらない、というような話だ。この分野にある程度関心を持っていた人ならどれほどどってことでもないネタではある。ネタ元は一日付のネイチャーということになっている。APだとこんなふうにもある。


 シアトルにあるワシントン大学医学部のロバート・ウォーターストン博士は、次のように述べた。「一覧表が手に入ったので、次はこれを解明する必要がある。問題になるのは1つの遺伝子ではない。遺伝子の変化の積み重ねを解明することになるだろう」
 ウォーターストン博士は、『ネイチャー』誌の9月1日号や、同日付の『サイエンス』誌オンライン版に掲載されている関連論文の1つを中心になってまとめた人物だ。

 それほどこのニュースに関心はなかったのだが、東亜日報”ヒトとチンパンジー、案外遠い ”(参照)であれっと心にひっかかってはいた。ネタ元が同じなのに話が逆みたいでもあるからだ。

 チンパンジーは思ったよりヒトに近くないことが確認された。
 世界2大科学専門誌である米誌サイエンスと英誌ネイチャーが、1日の電子版でチンパンジーの遺伝子に関する最新の研究成果を同時に発表した。

 ただ、この記事は整理されてない印象もあった。というのは別ネタも混ぜているからだ。

 ネイチャー誌には米コネティカット大学のサリー・マクブレティ博士チームが、世界で初めてチンパンジーの化石を発掘したことも発表された。50万年前にできたケニアの堆積層からチンパンジーの歯の化石を3個発掘したのだ。
 発掘の場所からは、現生人類の化石も見つかっている。そのため、今回の発見は、チンパンジーと人類が500万~800万年前に共通の祖先から分かれ、別々に違う場所で生きてきたという従来の仮説に反するものだ。

 で、エントリ冒頭に戻って私の勘違いなのだが、この話と昨日付のニューヨークタイムズ”Brain May Still Be Evolving, Studies Hint”(参照)と同じネタ元の関連ネタかなとかちょっと思っていた。ま、それは違う、というわけだ。

Two genes involved in determining the size of the human brain have undergone substantial evolution in the last 60,000 years, researchers say, leading to the surprising suggestion that the brain is still undergoing rapid evolution.

The discovery adds weight to the view that human evolution is still a work in progress, since previous instances of recent genetic change have come to light in genes that defend against disease and confer the ability to digest milk in adulthood.

It had been widely assumed until recently that human evolution more or less stopped 50,000 years ago.


 つまり、定説だと人間の脳の進化は五万年くらい前に終了しているということだが、今回の研究だとそうじゃなくて、まだまだ進化の途上だというのだ。
 ネタの面白さという点では、RxPGニュース”Human Brain Is Still Evolving”(参照)が勝る。例えば、こっちの記事では研究者の興味深い発言をリードにしている。

"Our studies indicate that the trend that is the defining characteristic of human evolution - the growth of brain size and complexity - is likely still going on. If our species survives for another million years or so, I would imagine that the brain by then would show significant structural differences from the human brain of today."

 つまり、未来の人類の脳というのは現在の人類の脳とは異なるものだろう、というわけだ。
 基本的には脳構造、もっとざっくばらんに言えば、その外見ということでもあるのだろうが、それでもその機能差もあるだろうから、ちょいとSFチックではある。
 人類は今後も数万年単位での生存が可能だとすればどのような脳を獲得するのだろうか。その高次な能力とは、あれかなとかつらつら思うことはある。が、自分の脳の限界はこの程度だし、現存人類の知能が過渡的な状況にあるというのは、マジで考えつめていくとけっこう変な感じはする。

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2005.09.09

二〇〇五年衆院選挙予想

 さて、気の進まぬ選挙予想をしてみよう。外れたら大笑いってやつだ。実にブログ向きじゃないか、ね。
 で、結局どうよ? どうよってどうよ?

 A 小泉負け (岡田の勝ち)
 B 小泉辛勝
 C 小泉圧勝

 メニューはこのくらいか。新党日本とかは? ま、スペシャルオーダーってことで。
 まず、A列車で行こう、はない。Bランチは行ける、だろう。辛勝は数値的には過半数というラインで二百四十一議席で、これは公明党コミ。
 参考までに、解散前議席は、自民党二百四十九と公明党三十四。合わせて、二百八十三。しかし、郵政民営化反対が自民中三十七。なので、これを引くと、自公郵政民営化本隊は二百四十六。つまり、デフォで見ても辛勝ラインは楽勝。今回の衆院選が前回に比べて自民不利というふうでもないのでそう見てもいいのではないか。
 すると、BからCのスケールをどこに取るかというか、圧勝って何を意味すんねん、ということになる。これは、郵政民営化国民投票という意味合いで見れば、小泉自民単独過半数を差していいだろう。すると、二百四十一。これに鉄板の公明が三十四加わるので、自公隊二百七十五ということになる。これが可能か?
 郵政民営化自民本隊は二百十二。なので、小泉劇場効果であと二十九取れるかというのが今回の選挙の見所ということだろう。
 取り分の先は、小選挙区(三百)か比例区(百八十)か、だが、どうか。
 党を決める比例区については、小泉追い風と言われているわりには、党支持率では自民党が伸びているふうでもない。朝日新聞の情報を見ると、五、六日の状況だが、自民党の支持は安定せず全体としては時間推移とともに低下傾向がありそうだ。代わりに民主党は無党派を食って向上している(参照)。この感じからすると小泉劇場効果は終わったと見てよく、自民が現状優勢とはいえ、概ねのところ、比例区では自民党が前回選挙に比べて優勢とまで見るのは難しい。
 小選挙区はどうか。とりあえず…と留保するが、注目の郵政民営化反対組三十三選挙区の状況だが、これも朝日新聞の情報だが、当初誰もが思った「そりゃ漁夫の利の民主党」という流れは出てないようだ(参照)。それだけで民主党はつらい。とはいえ、この流れで選挙に突入するかというと、未決の無党派層が四割いるようなので、結局、その動向が勝敗を決める。つまり予想は難しい。しいていうと、傾向としては民主党に流れそうでもある。
 小選挙区全体はどうか。ここは多分に選挙のプロ人の領域なので私には皆目わからない。百票からの精度の票読みの積み上げが必要になるが、そりゃできないですよ。
 代わりに、自分の政治観を交えず、一生活者の実感で補足。とすれば、小選挙区選挙というのは本来は政党政策が問われるべきものとはいえ、実際はその地域の権力関係だけが決定的。その関係の構造はそう簡単には変化しない。私を一投票者としてのみの例にすると、今回はいつもとは違う投票行動を取るが、「なんだかコイツに入れるのはやだな」感は漂う。余談だが、だから、ホリエモンは落選すると思う(とはいえ、外人記者対談では亀井は思いっきりずっこけたのでこのパワーが最後のダメを決めるかもとはちょい思う)。
 ついでに、私の周り(都市民)のノンポリな人間(年配層多し)の話をなにげに聞いてまわってみると、それほど小泉劇場の効果はない。むしろ、この間の小泉への幻滅感は大きいようだ。が、それが民主党支持に結びついているわけでもない。意外だったのだが、公明党はどうとさぐりを入れてみると、詳細な本部の指示がないでアバウトな行動を取っているらしい。この点はなるほどねと思った(それって本質は無党派なのではないか)。
 以上の流れから単純に推論して、小泉圧勝ラインはあるか? あまりなさそうな感じがする。
 ところでメディアは何と言っているか。あえて産経系を覗いてみる。
 産経”衆院選終盤情勢 自公300議席うかがう 民主、都市部で苦戦(09/07) ”(参照)は、標題からもわかるように、自公で三百という威勢のいい数字が上がっている。ま、その手のフカシはどうとでもなるのだが、気になるのはこっち。


ただ、投票態度を明らかにしていない有権者が比例代表で約二割、選挙区で約三割もおり、情勢が大きく変わる可能性もある。

 「大きく変わる可能性もある」としているものの、意外と変動要素が絞り込まれている感があり、それが自民党優位の流れを形成しているふうでもある。
 あとは空気をどう読むか、サプライズはあるか、くらいか。
 空気といえば株価だが、これはもう圧勝ラインを読んでいるというか、脅している。総選挙はてな(参照)は民主党の流れだったよなとか、気になってちょいと見たら、あれま。
 サプライズとしては、木曜日の文春・新潮あたりに隠し球があるかと期待したら、ダメダメ。特に、文春は亀井と同じような考えをしているのがわかって、ワロタ。日米の台風関連の情報がどう影響するかとも思うが特にどうということもなく、台風十五号も選挙日に影響しそうにない。対外的には、中国様も民主党に余計な助け船を出してくれるほど愚かではないし、金さんも藪さんと同じく仲良く静観中。
 サプライズの可能性としては、民主が最後の流れを作るかだが、マニフェストにもない癖球を岡田がぼこぼこ出してくるあたりが選挙民に受けるか、爆走ですねと笑われるか。
 さーて。
 冷静に見ていると、小泉辛勝ちょいくらい。メディアに踊らされると小泉圧勝。
 私はというと、ただの勘だが、小泉圧勝弱くらいかなと思う。つまり、自民単独二百四十。
 なぜ? だから、勘ですよ。勝負の詰めは勘。小泉はただ者ではない勝負師の一世一代の大勝負というか三世かけた大勝負かもしれないと思うあたりの情に眼がくらんだ(カリスマ)。ついでに、もうちょっと勝てば公明党を圧倒できるし(すでに圧倒している感はあるにせよ)。
 ま、そんなところ。
 余談だが、「さぁ、みんな選挙に行きましょ」とか言う声も聞くが、そんなことこそ自分で決めるべきことで他人がどうこう言うもんじゃないだろ、とか。

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2005.09.08

郵政民営化法案余話

 このエントリでは郵政民営化は正しいかみたいな話をする気はない。雑談というかトリビアといった類。ぶくまをかせぐ、郵政民営化をわかりやすく説明するといった話でもない。もっと、なんというか、たるーい話である。では、ゆるゆると。
 先日四日付のニュースだが、日本経済新聞の二日付朝刊に掲載された、郵政民営化法案に関する民主党の全面広告について、自民党は翌三日、広告内容に事実に反する間違いがあるとし、訂正と謝罪を求める通告書を民主党の岡田代表あてに送付した。ニュースの扱いとしては些細なものだった。そんなものだろう。
 自民党にかちんときたのは民主党の次の主張のようだ(参照)。


(自民党の郵政民営化法案は)『民営化』の名に値する法案なのでしょうか。民営化会社は今後10年間100%政府出資の会社であり、新たな国有株式会社をつくり出すことになります。

 これに対する自民党の言い分はこうだ(幹事長談話)。

 郵政民営化によって新たに設立される郵便貯金銀行及び郵便保険会社の株式については10年の移行期間内に段階的に全部処分することが法律(郵政民営化法案7条2項及び同62条1項)で義務付けられています。
 したがって、「10年間100%政府出資の会社」が設立されるわけでないことは明らかであり、民主党の広告は全く事実に反します。

 くだらねとか率直な意見を言うのは控えることとして、重要なのは新規の国有会社は十年で消滅するという点。株式が全部売却されて国営というのは語義矛盾。
 とすると民主党のツッコミ所というのは、その十年が問題だということか(余談だが売却されるから外資に乗っ取られるとかいうトンデモ話にはついてけませんってか日本の株における外人の状況を見れ)。
 民主党から反撃があった。日経”民主、自民の民主広告批判に反論”(参照)より。

民主党の枝野幸男幹事長代理は4日、(中略)「持ち株会社が100%政府出資であり続ける可能性が残っている。記述に何の問題もなく、批判は的外れだ」と反論する回答書を送付した。

 話を真に受けると、十年後にも政府持ち株会社である可能性があるから、自民党から言いがかりをつけられたが、もとの主張のままでよいのだ、というのだ。ほぉ。つまり、民主党の要点は、十年後も国有会社が存続するという点にあるわけか。
 思わずくだらねとか呟くのは控えることとして、これで話は終わりかなと思ったら、六日だがくすぶっていた竹中御大は吠えた。日経”竹中氏、民主に広告の訂正要求”(参照)より、民主党広告について。

「国会で株式の完全処分について質問していながら虚偽の広告を打った」と批判した。民営化法案は2017年3月末までに政府の保有株式を段階的に処分するとしており、「訂正と謝罪を求めなければならない」と強く抗議した。

 渦中の人、竹中としてはどうしてそう曲解されるのかと思ったことではあるのだろう。
 この問題は、郵貯・簡保が国の持ち株となる可能性があるのかとかいう問題とも見られる。
 こうした話は二日付の読売新聞社説”[郵政改革]「資金の流れを変える案はどれか」”(参照)にもあった。

 与党案は政府出資の持ち株会社を設立し、傘下に郵便、郵便局、貯金、保険の4会社を収める。貯金、保険の金融2社の株式は10年以内に完全処分する。民営化をテコにして資金を民間で循環させるという内容だ。
 問題点もある。持ち株会社は金融2社の株式を買い戻しできる。買い戻せば、政府による2社への関与が復活する。資金運用に政府の干渉が続き、資金の流れが大きく変わらない恐れもある。

 こういうのになんと言っていいのか迷うのだが、郵貯・簡保の買い戻しの可能性というのは自民党の党内合意であって、法案の内容ではないというのを読売新聞社説子はわかっていないのだろうか。
 っていうか、もしかすると、民主党もそのあたりをごちゃごちゃにしているのではないだろうか。
 どうなんすかね。
 先日コンビニに買い物に行ったら民主党のマニフェストを貰ったので郵政改革について読んでみたが、十年で郵貯・簡保の株が売却されるという話はなく、依然この国営会社から国債にカネが流れるという解説図があった。そりゃ、流れますよ。第二の国家予算を一気にストップできるわけはない。旧勘定は依然国債消化になるだろう。
 でも、民主党のマニフェストは旧勘定と新勘定の違いがわかっていないか意図的に曖昧にしているなという印象は受けた。この話の要点は旧勘定が固定されてもう増えないという点とそれが事実上の禁治産者扱いになるということだ(敗戦処理だな)。言うまでもないが、旧勘定が市場に流れるという話はないので、そのカネが原因で民間が潤うという話もない。
 そういえば衆議院解散は憲法違反だとかいう愉快な話もあった(参照)。お笑いはさておき、衆院を解散させるのではなく、参院で摺り合わせはできなかったという話も聞く。が、摺り合わせの内容とは、衆議院のどんずまりのどたばたで見たように、買い戻し可能という自民党内の合意を法案に盛り込むということなるのはわかりきったことだ。それを法案に盛り込めば、この法案は否決されるまでもなく死ぬ。今後重要なことがあるとすれば、自民党にその党内合意を実現させないことではあるのだろう。
 が、すでに自民党内合意は法案と同じだと見ているからこそ出てくる議論というものもあるのだろう。世の中いろいろではある。

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2005.09.07

チェルノブイリ事故の被曝死者報道について

 国際原子力機関(IAEA)、世界保健機関(WHO)、国連開発計画(UNDP)の専門家グループが、五日、一九八六年のチェルノブイリ原発事故の被曝死総数を約四千人と推定する報告書を発表し、昨日は国際的な話題となっていた。というのは、これまで数万人規模と推定されていた死者数をはるかに下回ったからだ。事故は悲劇的なものだったが、今回の推定が正しければ、従来想定されていた被害より少なくてよかったとは言えるだろう。
 このニュースについて国内外のニュースを何の気なしにざっと比べ読みしていて、奇妙なことに気が付いた。朝日新聞の報道のトーンが他と異なるのである。特に以前の死者の総定数の表現が違う。
 まず比較として一般的な報道としてロイター”チェルノブイリ事故、直接被爆の死者は推定下回る56人=調査”(参照)をあげておこう。


8つの国連機関などからなるチェルノブイリ・フォーラムは5日、1986年のチェルノブイリ原発事故で直接被爆して死亡した人はこれまでのところ56人で、それまでの一部試算を大きく下回ったとの報告を発表した。


報告は、「事故により数万から数十万人が死亡したと言われていたが、それは正確ではなかった」と結論付けた。

 この報道はIAEAが発表している”Chernobyl : The True Scale of the Accident”の概要(Digest Report)(参照)とも合致している。該当箇所は次である。

The report’s estimate for the eventual number of deaths is far lower than earlier, wellpublicized speculations that radiation exposure would claim tens of thousands of lives.

 つまり、数万人(tens of thousands of lives)と明記されていて、数千人というオーダーでは明白にない。参考までに、ワシントンポスト”Report: Effects of Chernobyl Not as Dire as Expected”(参照)とニューヨークタイムズ”Chernobyl's After-Effects Not as Dire as Predicted, Report Says”(参照)の記事もその標題からも話題のポイントがわかるだろう。
 ここで比較として朝日新聞の該当記事”チェルノブイリ事故の被曝死者4千人 IAEAなど報告”(参照)を見ると、標題に話題性が反映していないのはいいとして、冒頭は次のように書かれている。

 国際原子力機関(IAEA)などの専門家グループが5日、86年4月に旧ソ連(現在のウクライナ)で起きたチェルノブイリ原発事故について、直接の被曝(ひばく)による死者数を推計4000人程度にのぼるとする報告書を発表した。これまで数千人から数十万人と様々な調査結果が出されていたが、専門家による推計として、6、7の両日、ウィーンで開かれる国際会議で協議される。

 些細なことにこだわるようだが、朝日新聞のこの「これまで数千人から数十万人と様々な調査結果が出されていた」という様々な調査結果はなにを指しているのだろうか? つまり、どの過去の調査報告に今回四千人と推定されたような「数千人」があったのだろうか。もちろん、この表現がまたまた「捏造」だと指摘したいわけではなく、それらの推定値の情報はどこかにあるのかもしれない。だが、それが朝日新聞の記事だけに強調されているということは指摘できるだろう。
 加えて、該当記事全体を読むとわかるが、予想をはるかに下回るというロイター記事やIAEA発表にある重要な文言が含まれていない。そこがニュース性の根幹だがなぜ朝日ではスルーされているのだろうか。
 もっともこの点がスルーというのは、日経新聞記事”チェルノブイリ事故、死者は最大4000人・国連報告”(参照)も類似だが、これはベタ記事に近く、朝日新聞記事のように「数千人」という過去推定値は含まれていない。
 さらに参考として、読売新聞記事”チェルノブイリ被ばく死亡4千人、専門家グループ報告”(参照)でも標題は朝日新聞に類似だが、死者想定を下回る件についての明言は含まれている。BBCも”Chernobyl 'likely to kill 4,000' ”(参照)との穏やかな標題だが、内容はむしろ従来推定との差異に焦点が当てられている。
 なお、こうした今回の推定がチェルノブイリ事故の被曝者支援を妨げるものではないことは言うまでもない。

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2005.09.06

カトリーナ被害を経済面からのみ見ると

 先ほど朝日新聞記事”排水作業が本格化、死者1万人説も 米ハリケーン被害”(参照)を読んだ。標題からも想像以上の被害が伺われ、痛ましく思う。すでに各所から批判されているように人災といった側面もあっただろう。
 今回の災害の全貌はまだわからないが、その経済への波及についてはある程度推測されつつあり、四日付のワシントンポスト”Disaster Economics(災害の経済学)”(参照)が扱っていた。一読して、やや意外な印象を受けた。印象的なのは最初の段落の最後にある次の一文である。


The truth is that natural disasters disrupt economies surprisingly little.

 米経済への波及は少ないというのだ。これは今回の災害へのコメントというより、巨大な経済を抱える国家の一般論的な認識らしい。

In a huge economy, the destruction of even an entire city's worth of capital stock represents only a modest financial blow, however great the loss of communities and memories.

 人的な被害については回復できないことがあるが、経済の側面に限定して見るなら、一都市の壊滅も国家経済にはそれほどの影響はもたらしえない。記事にもあるが、ニューヨーク証券取引所の時価総額(昨年九月)は十七兆八千億ドル(約千九百六十兆円)であり、現在推定されているハリケーン被害額をこの株式相場に相当させれば、〇・六パーセントの降下である。
 それはそうなのかもしれない。が、私の印象としては少し奇妙な感じがしないでもない。また、いろいろ想起されることもある。逆に株価の変動というのは米国の数都市を吹っ飛ばすほどかなとも思うが、よくない連想ではある。
 いずれにせよ、ワシントンポストが指摘しているように、今回の災害の経済面での波及は一年程度で吸収されるうるものとみてよさそうだ。つまり、これによって米経済の凋落が始まるといったことはない。
 これに続く話では、むしろ、災害を契機に経済は強化される面が指摘されている。今回のケースでは米社会は石油の浪費を減らす方向に進むべきだったのかもしれないが、この点については冷静に考えるとややがっかりするような対策も出ている。いずれにしても、規模の面からすれば限定的ではあるのだろうが。
 現段階での最悪の事態とはなにかという点についてワシントンポストは、米国民が経済の自信を失い、消費にためらいが生じ、それが引き金となって景気後退するという点をあげている。が、それはないだろうともしている。

The worst case is that Americans lose confidence in the economy and sharply rein in their spending, triggering a recession.

 理由は米経済は失業率も低く健全であるからだというのだ。それもまたそうなのかもしれない。
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大きな森の小さな家
インガルス一家の物語(1)
 私は子供のころ「大草原の小さな家」というテレビ番組を好んで見た。ハリケーンによって被害を被る話もあった。あの話の元気づけと、今日のワシントンポストの記事のトーンはあまり変わらないような印象も受ける。これが米国という国なのかなとも思う。

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2005.09.05

ペトロカザフスタンまわりの話

 深読みするといくらでも深読みできる話でもあるが、先月二十二日、中国の石油最大手、中国石油天然ガス集団(CNPC)がカザフスタン油田に権益を持つペトロカザフスタン(カナダ)の買収を発表した。買収額は、四十一億八千万ドル(四千六百億円)。ペトロカザフスタンの時価総額に二割ほど積んだのは、インドもここを狙っていたからとも言われている。
 もっとも、ペトロカザフスタンの原油生産量はカザフスタン全体の十二パーセント、日量十五万バレルとのことで、それ自体で原油ウハウハというものでもない。日経”中国石油、加ペトロカザフスタンを4600億円で買収”(参照)では、この買収で「原油が豊富に埋蔵されているカスピ海の油田開発事業へ参画する道が開ける」と指摘している。むしろそっちが本命なのだろう。
 同記事には、「カザフスタンから中国新疆ウイグル自治区を結ぶ石油パイプラインの建設を進めている実績も評価され、ペトロカザフの取締役会がCNPCの提案を受け入れた」とある。これに合わせて、産経系”独山子石油化工が中国最大級の製油所建設 ガソリン不足解消へ期待”(参照)といった話もある。当然ながら、中国にとっては、中国新疆ウイグル自治区が地政学的にさらに重要になってきた。
 地政学的なリスクからすれば、ナザルバエフ大統領(参照)が独裁しているカザフスタン自体のほうがはるかに高いようにも思われる。なので、中国としては着々と手を打っているつもりなのでもあろう。五月にはナザルバエフ大統領を北京にお持て成しなどもしていた(参照)。七月には逆にナザルバエフ大統領がカザフスタンに胡錦濤主席を迎えた。余談だが、カザフスタン新首都の設計は黒川紀章とかもあって(参照)日本ともなにかと関係が深い。
 結局、この動向って何? というのをフィナンシャルタイムズが先月二十四日扱っていて面白かった。標題もずばり"Beijing's Great Game"(参照)である。グレートゲームといったら、ディプロマシー・マニアも関心を持つのも当然かもである。
 二つの側面があるとフィナンシャルタイムズは言う。


First, China's eagerness to buy access to foreign oil and gas for its growing economy has not been in any way diminished by the failure of CNOOC's financially and politically more ambitious bid for Unocal of the US. Second, Washington has yet to come to terms with China's emergence as a big energy importer in competition with the US and other consumers.

 一つはユノカルはこけたものの中国様はめげないということと、もう一つは中国が米国を初めとして主要な原油輸入国の競争に参戦したということ。中央アジアを巡る争奪戦(グレートゲーム)が始まる。
 このゲームをフィナンシャルタイムズがどう見ているかというと妙に皮肉っぽい。

US officials are right to declare that Chinese policy on energy and foreign affairs should ideally be based on morality and justice. The vital business of oil procurement, however, is the last place to look for such a change of heart. And the west has barely begun to set a good example.

 米国は原油争奪について偉そうなことは言えないよというのだ。やけに中国様に肩入れするものだなとも思うが、普通の経済活動と見れば、原油争奪戦自体はどってことでもないのだろう。
 私はフィナンシャルタイムズの見方とは違い、米国は別の危機への布石をしているようにも思えるのだが、米国自身は表立ってあまりそうした素振りを見せてないようでもある。

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2005.09.04

[書評]砂漠と幻想の国 アフガニスタンの仏教(金岡秀友・菅沼晃・金岡都)

 私の書架に「砂漠と幻想の国 アフガニスタンの仏教」(金岡秀友・菅沼晃・金岡都)という対談本がある。一九七七年の初版だ。ネットの古書店を見ると、まだ入手可能でもあるようだ。内容は標題からわかるが、アフガニスタンの仏教を巡っての話が主軸になっている。アフガニスタンにソ連が侵攻する以前の様子もよくわかって面白い。私がこの本を買ったのは、密教への関心から金岡秀友に関心を持っていたことと(参照)、仏教というのはヘレニズム宗教なのではないかという漠たる思いからだった。
 世界がタリバンに関心を持つようになってから、私もアフガニスタンのことが気になり、なんとなく折に触れて読み返すことがある。昨日も自室でぼーっとしながら書架を見ていてこの本に気がつき、また手に取ってみた。
 アフガニスタンの仏教といっても、パキスタン領のガンダーラ地方とも関連が深いように現在の国境で区分されるものではない。パキスタン側の地域シルカップ(参照)には重要な仏教遺跡クナーラ塔(参照)があり、ここはクナーラ伝説で有名である。
 本書にも引かれているが、クナーラ伝説はこういう話である。アショーカ王の子、クナーラ王子は、美男聡明ということもあり、実母亡き後、若い継母に色仕掛けで言い寄られるが、王子はこれを諫めた。継母は逆恨みをして、夫である王を騙し、クナーラ王子を僻地に追放した。しかし王子は僻地をよく治め評判を高めた。継母はさらに怒り、謀略で王子を罪人とし、その刑罰として、両眼をえぐり山野に追放した。王子は流浪の身となり、歌うことで命をつなぐのだが、ある日、その歌が王の耳に入る。王はそれが息子の声であることを知り、また妻に騙された自分を後悔した。どうしたらよいのか。王は阿羅漢(仏教の聖者)に息子の目が見えるようになるように懇願した。阿羅漢は民衆を集めなさいと王に答えた。そして、阿羅漢は仏教の根幹教義である十二縁起を説法すると、民衆は感涙極まった。阿羅漢は王に言った、その涙を集めて王子の目を洗いなさい。すると、王子の目は元に戻った。
 話は後世のアラビアン・ナイトを彷彿させるが、そういう関連もあるようだ。こうした仏教説話はジャータカ(参照)として収集され、今日では日本では上座部仏教系で知られるようになるのだが、クナーラ王の話でもそうだが、原点は索漠としたアフガニスタンの地ではなかったか。

cover
ブッダ
 銀面女の話も本で紹介されている。こんな話だ。バラモンのカースト(階級)に生まれた銀面女は、女に生まれたことを悔やみ悲しんだ。その人生は苦労を積み重ねるもので、最後は自分の乳房を切って人に与えて死んだ。その善根因果で願いが叶い次の転生ではバラモンの男に生まれた。そして、今生にあってはさらに善根を積むべく、我が身に千の穴をあけ、飢えた動物の子の糧とさせ、死んだ。三度目の転生では王に生まれたので、人々に善政を施した。が、誰も供養しない虫たちもいることを知り。虫たちにこの身を捧げるため、山に入り、虫に血を吸わせて死んだ。かくして四度目の転生に仏陀となった。
 ジャータカではないが本書にはこんな説話も引かれている。スルーパ王という王がいた。王は妻子をつれて山に修行に入ったところ、先に修行した叔父から、欲を断ち切らなくては真理は得られないと告げられた。また、真理がマントラ(偈)にあることも知ったスルーパ王は、叔父にそのマントラを請うと、叔父は腹が減って言えないと答えた。そこで、スルーパ王は息子を差し出すと、叔父はその息子を食った。さらに妻も差し出させ、食った。それでも教えてはくれない。しかたがない。この身を食ってもよい。だがその前にそのマントラを教えてくれと懇願した。すると、ようやく叔父は教えたのだが、スルーパ王は食われた。とその時、王は帝釈天に変わったという。
 こうした話は日本人の心性としてはドンビキという感じだろうか。しかし、アフガニスタンの古い仏教というのはこういう感じのものだっただろうし、その地の風土というのはそういうものなのだろう。金岡秀友の対談相手である菅沼晃はこう言っている。

 しかし、そういう説話を聞かされても日本人はピンときませんね。身を猛獣に投げ与えることにしても美談だとはとても思えない。しないでもいい苦労を、好んでしているのじゃないか、そんな感じさえします。
 それもわが身を飢えるのもののために捧げるのならまだしも、わが子をトラに与えて供養したとか、頭や首を切りとって供養したという話にいたっては、とういてついていけない気がします。

 旅を想起した対談は同じく菅沼晃のこうした言葉で締められる。

 さて、アフガニスタンからパキスタンへ遺跡をめぐりながら重ねた旅行も、このあたりでピリオドを打つことになりますね。アショーカ王がその勢力を誇った地域からすると、その何十分の一にも足りないほどの間を歩いたのに過ぎません。しかも、民族の精神を支えて生きつづける日本の仏教に比べて、すでに遠い昔、砂漠の中に埋もれ去っていったその西アジアの仏教を廃墟の中に訪ねながら、私は人間の精神と風土という問題を、改めて考えずにはいられませんでした。

 捨身と暴虐を背景とした古代のアフガンの風土のなかで仏教は陶冶さてきた。しかし、日本人もその仏教もそうした原風景のようなものに立ち向かうほどの精神性は持ち合わせてはいないのだろう。

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2005.09.03

Google Earthで六本木ヘリポートも見えた

 Google Earth(参照)で今回のハリケーン(カトリーナ)によるニューオーリンズ近郊の海岸の被害を見て圧倒された(参照)。と同時に、Google Earthがこうしたツールにもなるのかということに、技術に対する人類の意識変化を促進するとでもいうような、奇妙な感覚もあった。ブログを見回してみると、ブログ「earthhopper」に”ニューオーリンズ近郊の海岸の惨状”があり、写真も掲載されている(参照)。これがGoogle Earthだと、同一場所のオーバーレイになり、災害前と後が直感的にわかる。
 話は変わるが、そういえば、Google Earthだと、あれはどのくらい見えるのかなと気になったので調べてみた。あれというのは、六本木七丁目にある米軍のヘリポートである。Google Mapでも見えるので、それほど隠しているわけでもないなと以前思ったことがある。
 ちなみにGoogle Mapを借りているはてなマップではこんな感じだ(参照)。GPSデータでは35.66326742661621,139.72549438476562である。
 サテライトビューからマップに切り替えてみるとわかるが、ここには特になにもない。マピオンでも見てもそんな感じ(参照)。MapFanだともっとわかりやすく灰色にしてくれている(参照)。まぁ、あそこは日本じゃないから日本の地図には載らないのだろう。
 六本木で朝を迎えたことのある人と限らず、あそこからばたばたヘリが行き来することはよく知られているだろう。ぐぐってみたら案の定、いろいろと喧しい反対運動がある。それももっともなことだが、話としては、「狷介老人徘徊日記」というサイトの「在日米軍ヘリポート」(参照)が面白い。ちなみに、このサイトの主は誰かと思ってトップを見てちょと驚いた。ついでに、別サイトだが、「挙動不審レポ:六本木トンネル」(参照)の話も面白かった。
 というわけで、Google Earthで六本木のヘリポートを見たのだが、おやっというくらい解像度は高く、地図の印象からだと、げ、こんなものが東京の真ん中にあるのかよ感が出ていて面白い。GPS情報は、35.6633,139.7255である。少し南側から傾けてみたのがこんな感じだ。

heliport

 そういえば、Google Earthで丸見えで困ったという話が先日韓国の中央日報の記事にあった。”グーグルが世界を覗く”(参照)である。


 青瓦台(チョンワデ、大統領府)と国家情報院、国軍機務司令部など主要保安施設の衛星撮影写真がインターネットを通じて無制限に公開され、青瓦台が対策に乗り出した。
 世界最高の検索サイトであるグーグル(www.google.com)は最近、全世界を対象に衛星写真情報サービスである「グーグルアース」(earth.google.com)を始めた。誰でもグーグルアースにアクセスしてプログラムをダウンロードすれば、米国や欧州、日本はもちろん韓国の衛星写真を見ることができる。地図を拡大したり縮小したりできるほか、世界主要都市の名前を検索窓に入れればすぐに該当の都市の衛星撮影写真が表れる。


 問題は国内法では主要保安施設に対する衛星撮影写真公開が厳格に禁止されているのに、海外検索サイトのサービスに対して国内法が何の効力も発揮できないという点だ。

 青瓦台のGPS情報は37.586,126.975のあたりのようだ。
 日本人としてはふーんというくらいの印象しかもたないだろう。このページにはコメント欄があり、それを読むと予想したような日本人の印象が載っている。
 いろいろ見ていくと、北朝鮮なんかもそれなりに見えているので面白いと言えば面白い。「激しくお勧め! Google Earth」というページ(参照)にもいろいろ情報があった。

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2005.09.02

スポーツ選手にも喘息患者が多いらしい

 一昨日に続いてまた喘息の話(参照)。喘息のことを考えているとつい喘息のニュースに目が行く。今日の話は、スポーツ選手の喘息についてだ。
 ニュースはロイター”Elite athletes may have asthma and not know it”(参照)だ。標題をベタに訳すと「優秀なスポーツ選手は喘息をもっているかもしれず、しかもそれを知らないかもしれない」ということ。
 身体が屈強なスポーツ選手なのに喘息なの?と不思議に思う人がいるかもしれないが、喘息持ちのスポーツ選手は、けっこういる。元になった専門誌”Thorax”の報告”Impact of changes in the International Olympic Committee Medical Commission criteria for asthma (国際オリンピック委員会による喘息の医学委員会基準変更の影響)”(参照)によると、オリンピック競技者の九パーセントから五五パーセントだという。ちょっと数字がアバウト過ぎかとも思うが、そうらしい。特に冬季競技と水泳に多いらしい。冬場と水泳というとなんとなく喘息と関係しそうな気もする。
 ちょっとぐぐってみたら、喘息持ちの有名選手(”Famous Athletes with Asthma”)(参照)という記事もあった。私はスポーツ観戦にうといでの誰が有名だかわからないが、リストを見るといるもんだなという感じは受ける。
 話をロイター記事に戻すと、こうした喘息持ちのスポーツ選手は、運動誘発性喘息の対処として、けっこうステロイドの吸入薬をほいほいと利用しているらしい。なお、運動誘発性喘息というのは、運動後におきる喘息発作でたいていはしばらくすると発作は収まる。ついでに、小児喘息の運動誘発性喘息については”アレルギー情報センター | ガイドライン | 小児気管支喘息”(参照)などを参考にするといいと思う。
 ステロイドは当然ながらドーピングにも関連するため、オリンピックでは喘息持ちのスポーツ選手は予め医師の診断を添えて申告しておくことになっていたが、この判断基準が変更され、ドーピングに関係ない喘息の吸入薬についても規制対象になるらしい。
 この背景調査で、喘息の吸入薬が安易に利用されていて問題だということに併せて、明確な本人の自覚はないものの喘息を持つ選手も少なくはないらしいというがわかったそうだ。
 喘息を知らずにスポーツ選手になるという話に興味をおぼえる。
 個人的な話だが、私も中学高校と陸上をやっていたが、その背景には、小児喘息で失われた幼年期時代の運動能力を回復したいというような思いがあった。小学生時代ずっと駆けっこは苦手だと思いこんでいたが、訓練していけば、中学時二年生のときには、クラスで二番くらいの俊足にはなった。一番のやつはもう遺伝的に違うんだろなと思うし、所詮自分の運動能力は偽物だと思ったのでライバルとかは思わない。でも、あのとき、一番の彼がいなかったら、自分はなんかスポーツとかに適性があると思いこんだだろうか。よくわからないが、喘息を持つ子供がスポーツ選手になるというのは共感することが多い。

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2005.09.01

朝日新聞「虚偽メモ」事件に思う

 朝日新聞が早々に捏造を認めて、ネットの世界ではもう終わった感のある「虚偽メモ」事件だが、どうも腑に落ちない。ネットというかブログでの取り上げ方もなんとなく平べったいというか、昨日の毎日新聞社説に続く読売新聞社説、産経新聞社説と、ただ、水に落ちた犬は叩けという以上はないように思えた。
 ま、朝日新聞だしな、汚名のリストを更新しましたかということで大筋の理解は間違いないし、私も朝日新聞を弁護したいわけではないが、なんか変だ、と思う。懲戒解雇処された記者についても冤罪とまでは言わないが(もともと法的な犯罪でもないが)、中国文化革命的に汚名を着せられているような印象を持つ。なので、エントリでは私が書く部分ではN記者としたい。N記者(二十八)は「功名心だったかもしれない」と話しているというが、自分の行動を「かもしれない」とだけして語らないのも不思議な印象を受ける。
 すっきりとした結論が見えず、まただらっと書くので読みづらくなると思うが、書いておきたい。なお、基本となる該当の朝日新聞の謝罪記事は”「虚偽のメモ」で記者解雇 誤った記事、本紙が掲載”(参照)である。
 この事件が大きくニュースになったおり、私も、事の概要は読んだものの、それほど関心をもたなかった。というのは、ちょっと言い方は悪いのだが新聞記者の飛ばし記事なんてそれほど珍しいことではない。特に地方関連のニュースはそうだ。そして、このニュースで捏造された問題の重要性も理解できなかった。単純な構図からすれば、田中康夫日本代表、もとい、長野県知事の批判発言が端緒にあるので、田中側の意図があるのではないかと思った。
 ネットの騒ぎを見ているにつれ、違和感が増してきたので、基本的なところでわかる範囲を調べなおしてみた。まず、きっかけとなった田中知事の発言だが、私の印象なのだが、今回の事態を想定していないように受け止められた。発端となった八月二十三日の知事会見(参照)を読み直すと、田中知事は「なお、1点だけ朝日新聞の方にご校正をお願い申し上げたいというか不快感を表明させていただきたいと思います」として、これを校正、つまり、デスク段階のエラーだと基本的に認識している。
 この田中知事の指摘に対して、朝日新聞側は、今回処分されたN記者ではなく、”鈴木逸弘氏”が「そこの部分は朝日新聞としてきちんと取材してますが・・・」と頓珍漢な答えをしている。鈴木記者としても、あれ?という感じではなかっただろうか。あるいは、この会見ではN記者も出席しており、質問もしている。N記者の質問に対する田中知事の応答からは、彼がN記者を比較的懇意に見ているようにも受け止められる。田中知事としては、問題記事がN記者に由来するとはやはり考えていなかったのではないだろうか。
 朝日新聞内部での問題はこの二十三日以降、田中知事の指摘を持ち帰るかたちで検討された。そして公式アナウンスと呼ぶには薄っペラなファックス一枚だけなのだが出たのは一週間後だった。この一週間に朝日新聞内部でなにがあったのか。経緯は該当の朝日新聞謝罪記事からはわかりづらい。むしろ、毎日新聞”朝日新聞記者の情報ねつ造:「功名心だったかも」 推測で情報メモ”(参照)がわかりやすい。


 社内調査によると、西山卓記者は長野総局長らを通して政治部から亀井、田中両氏が「(8月)中旬に2人が会っていた」という情報について情報があったら知らせてほしいと頼まれていた。
 記者は20日、長野県塩尻市で開かれた車座集会で取材をしたが、国政に関する話は出なかった。その後、田中知事に対する直接取材をしなかったが、2人が長野県内で会談していたと知事から取材できたかのような虚偽の情報をメールにし、総局長や県政キャップ、政治部記者に送った。

 ”虚偽メモ”ができるいきさつは、こうらしい。

 1 東京の朝日新聞政治部から長野総局長に依頼があった。
 2 依頼の内容は「八月中旬に亀井・田中が会っていた」について情報が欲しい。
 3 依頼は長野総局からN記者に渡された。依頼の形式は不明。
 4 N記者は田中知事を取材できるチャンスがあったのにしなかった。
 5 N記者は”虚偽メモ”をメールで、長野総局長、県政キャップ、政治部記者に送った。

 「県政キャップ」というのがよくわからないのだが、まず、気になるのは、”虚偽メモ”が私信のようなメールではなく、同報メールのようになっていることだ。なぜそのような形式になったのだろうか。
 その疑問は、最初のN記者への情報の依頼の形式につながる。東京の朝日政治部はどのような形式で長野総局長に依頼したのだろうか。電話だったのだろうか、メールだったのだろうか、ファクスだったのだろうか。返信の形態から考えてメールだろうと推定していいだろう。そして、恐らく、これは、東京の朝日政治部から長野総局長に宛てたメールを「メモ作っておいてね」という感じでN記者に転送したのではないか。この推測が正しければ、メモ作成に至る経緯では長野総局長が主体的に情報に関わっていない疑いがあり、それは先の知事会見での鈴木逸弘氏の頓珍漢なリアクションと整合しているように見える。
 次に、依頼の内容はどのようなものだったのだろうか? つまり、依頼された内容は、次のどちらだっただったのだろうか。

 1 長野県で八月中旬に亀井・田中が会っていたのか。
 2 八月中旬に亀井・田中が会っていたがそのときの田中の反応はどうだったか。

 タメのリスト設定のようだが、処分後の報道からすると、1ということで話が進んでいるのだが、その後のN記者の行動からは1が抜けた2だけの可能性もあるように思える。
 実際、長野県ではなく東京だが、亀井・田中は会っていた。これは事実だ。N記者もそれを知っていた。
 東京の朝日新聞政治部側としては、東京の自民党サイドで充分な情報収集ができなくなっていた状況がある。これは八代議員情報の特オチなどからも推測できる。なので、長野県の田中サイドの情報が欲しいということではなかったか。
 N記者はこの依頼をただそういう田中側の補足情報という話の枠組みで受け取ったのではないか。そう考えると、N記者が田中知事に再取材しなかった行動が理解できる。N記者にしてみれば、田中知事の発言・行動はよくわかっているつもりだったという思いがあっただろう。
 一連の動きのなかで、主導的な役割にいるのは誰だろうか?
 明白に、東京の朝日新聞政治部の記者である。
 それどころか、問題の記事を書いたのは、東京の朝日新聞政治部の記者だろう。
 私の推測だが、朝日新聞内には一種の身分差別のようなものがあり(これは朝日新聞と限らないが)、上位の東京の政治部の判断にはただ従うだけという条件付けができていたのではないか。N記者としては、東京の朝日新聞政治部が言うのだからという以上の吟味の発想はなかったのではないか。
 結果的に朝日新聞は虚偽記事を出したわけだが、誰が処罰されるべきか? 実際に記事を書いたであろう、東京の朝日新聞政治部の記者が処罰対象になるべきではないのか。悪い言い方だが、N記者はパシリである。パシリに責任を取らせるだろうか。
 実際に処分になったのは次のとおりだ。


 懲戒解雇処分にしたのは長野総局の西山卓記者(28)。取材報道の責任を問い、東京本社の木村伊量・編集局長と金本裕司・長野総局長を減給、更迭。持田周三・政治部長と脇阪嘉明・地域報道部長をそれぞれ譴責(けんせき)、曽我豪・政治部次長を戒告処分とした。さらに編集全体の責任を問い吉田慎一・常務取締役編集担当を役員報酬減額(10%、3カ月)処分とした。

 そこに東京の朝日新聞政治部の記者はない。
 一応機構上、東京本社の木村伊量・編集局長は減給にはなった。彼の責任はアンカーマンとして当然ではあるが、なぜN記者の処分が重く、そして、実際の記事作成に深く関与している東京の朝日新聞政治部の記者がスルーされているのだろうか。また、この構図は、朝日新聞・NHK問題での社会部副部長という肩書きはあるが本田雅和記者のプロテクトにも似ている。
 仮定に仮定を重ねているように聞こえるかもしれないが、この処分決定のための空白の一週間だったのではないか。
 若いN記者には今後もジャーナリストの現場で活躍してほしいと私は思うし、田中康夫がある一定の政治権力を維持するなら骨くらい拾ってやってくれとその人情に問いたい。すでに、骨拾いは朝日新聞内でできているというなら、それはそれで、以上の疑惑の構図を補強するものかもしれないが、ま、人情の内だ。

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