« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »

2005.08.31

喘息患者の脳は喘息を連想する言葉に反応する

 二十九日付で海外に出ていたニュースなのだが国内報道はあっただろうか。喘息についてのニュースで、喘息の患者というのは、喘息を連想させる特定の言葉を聞くとそれに脳が反応して、喘息発作の引き金になるようだ。読みやすいところでは、BBC”How emotions spark asthma attack ”(参照)がある。
 喘息の被験者に提示された言葉は、"wheeze"、"loneliness"、"curtains"で、wheezeが喘息のぜいぜい、lonelinessは孤独、curtainsはカーテン。wheezeに脳が反応したということ。最近はやりのfMRIを使った研究だ。
 日本語だと、wheezeに相当する言葉はなんだろうかと思うが、ぜいぜいという感じだろうか。呼吸ができないよぉ、くっ苦しい、ボンベはどこどこ…といった感じか。そう、私は小児喘息だったので、こうした問題はまるで他人事ではない。
 同じく小児喘息だった人や大人になって喘息を抱えている人となんとなくこの話題で話すことがあるのだが、どうも、わかるよね、というのがある。あーこの人、喘息持っているなぁという雰囲気がわかるのである。神経質とかひ弱なという感じとは違う、なんかある種の感じだ。ちょっと言い過ぎかもしれないけど、ある物事に対する切迫感の込め方になんかある、というのともちょっと違うのだが。
 こういう話は誤解されやすいかもしれないが、小林よしのりが小児喘息だったらしく、彼はその思い出を漫画のあちこちに書き散らしている。あの感じは、現在の政治漫画以前の東大一直線とかにも表現されていたような気がする。
 小林の話で身につまされたのは、彼の幼友達で同じく小児喘息だった子の話だ。それが直接の原因というわけでもないかもしれないが、死んだ。あの子が喘息で死んだのに自分は生きているというあの感じはわかるなと思う。なんとなく、私も、自分が心のどこかで不正に生きているような気がする(そりゃそーだろとかツッコミはなしね)。
 なぜあの苦しみがあり、そしてなぜそれを自分が克服したのか? 私の場合、内面では、ある時、ある意識の持ち方をがらっと変えたような感じがするのだが、小林もそうなのではないかと思う。映画「ブリキの太鼓」の最後で主人公オスカルが、ええい大人になろうと決心するシーンがあるがああいう感じだ。もっとも、喘息患者がそうした内面の決意でよくなるということが言いたいわけではない。むしろ、そうした感性はある結果なのだろうとも思う。
 BBCのニュースに戻ると研究者のこんな会話を引いている。


"We have always known that asthma and a patient's personality and emotions are very intrinsically bound up with each other.

"We do need further research into this."

For example, whether increasing the dose of medication might help to cover tough emotional times.


 今回の研究では、直接的に喘息を連想されるキーワードが重視されたが、研究者は、喘息患者の感情の持ち方に関心を持っている。もちろん、当面は、有効な治療方法を模索するという側面ではある。
 が、これもいろいろ思い出すことがある。たしか、吉本隆明の奥さんが喘息持ちで、吉本がそれを観察したエッセイを読んだことがあった。夫としては、あーくるなという感じがわかるのだそうだ。奥さんのほうもわかっていてそれを止められないのだろうな、と夫としての吉本は見ているというものだった。このあたりの話は、吉本ファンなら誰もがしっている奥さんからの吉本評である、「あんたの背中には悪魔の羽がばたたしている」というにもつながるように思う。そして、ちょっと言いづらいのだが、この感じはある種のエロスにもつながっているように思う。
 話が散漫だが、天理教を開いた中山ミキについて以前少し調べたことがあったのだが、今でも天理教では、たすけせきこむ、という表現をしている。ミキが喘息であったかどうかは違うのではないかと思うが、このたすけせきこむ、というのは、喘息の切迫感のような不思議な表現だなと思ったことがある。こういう心のあり方が人類には必要だったのではないかなと夢想することもある。喘息は多分に遺伝的な問題なわけだが、この遺伝が人類にどういう意味を持つのか、あるいはそういう問い方は違うのかもしれないが、心に引っかかっている。
 そういえば、喘息は悪い話ばかりではない。喘息患者はがんの死亡率が低いそうだ。先月のニュースなのでネットにはもうあまり残っていないが、”Cancer deaths lower among asthma, allergy patients ”(参照)という話があった。

One good thing about having asthma or hay fever, if such a thing can be said, is that it apparently reduces the overall risk of dying of cancer, compared with the odds for people with neither of these allergic conditions, according to a new report.

 このニュースを詳細に調べると、そう言えたものでないかなという感じもするが、ま、喘息にも少し良いこともあるかもねと思ってもいいかもしれない。

| | コメント (9) | トラックバック (4)

2005.08.30

財務省理財局はどうよ論についての雑談

 入口改革論と関連して、諸悪の根源は郵政じゃないだろ財務省だろ論がある。これが私にはよくわからない。単純に理解できない点があるので意見を述べても外しているだけかもしれない。だが、軽く雑談という程度で触れてみたい。
 なお、特定の意見への反論というわけではないので誤解なきよう(あくまで意見のタイプとして扱っているだけ)。ついでに補足しておくと、公明党嫌いの私が小泉政権を支持するのは原則的に今回だけ。またどんな理由であれ(又吉さんを信じるとか)、郵政民営化に反対という意見のかたがいてもいい、それが多数ならそれが日本の現状だと私は受け入れる。それが民主主義なんだし、どうぞ、ご自由に。ただ、私の意見が参考になれば幸いかなとは思う。いずれ、各自自分で考えることのほうが重要でしょう。
 さて、郵政民営化が実施されると、三五〇兆円もの規模の銀行・保険業が、金融庁の管理下に一括される。現状のままであればこれだけ巨大な銀行・保険業が総務省管理ということになる。こうした形態は先進民主主義国ではありえないのだが、というところで、「そうでもないだろ、米国のファニーメイやフレディマック(Fannie Mae、Freddie Mac)がある」といった声も聞くが、これは銀行・保険業ではない。郵政のように国営の銀行・保険業は日本が発展途上の一時期は有益だったかもしれないが日本が先進民主主義国になった現在、これらは通常の銀行・保険業の発展を阻害するものにしかならない。ま、このあたりもいろいろ議論はあるのだろうけど、銀行・保険業は竹中平蔵が言うところの「純粋な商法上の一般法人」というのが原則になる。
 この変更によって、郵政のカネの支配が事実上総務省から財務省下に移る。
 なので、これをもって、郵政民営化を財務省の権力闘争とか陰謀と見る向きがある。この手の話は趣味の領域だと思うので、他人の趣味に口出しするのも野暮というか無粋なものだ。
 だが、少し話を薄めると、入口改革論と関連して、財投問題は入口改革じゃないだろ財務省理財局だろ論というのがある。ネットなどを見ると、国会で発言もした山崎養世ゴールドマンサックス前社長がそうした意見の代表みたいでもある。発言のようすはオンデマンドで再生できるとのことなので聞いてみた(WMP用・参照)。
 私の感想なのだが、よくわからなかった。いつの時代の話なのか、どの状況設定なのか戸惑った。
 私の理解が単純に間違っているかもしれないのだが、財投は財務省理財局が問題だろ論が、昔の話ではないなら、郵政民営化が失敗したときの議論なのではないか。
 郵政民営化が失敗し、つまり、入口改革論が失敗した場合には、確かに、財務省理財局のコントロールは重要になる。
 例えば、民主党は党としては郵政民営化を標榜してないので(小沢は郵貯・簡保の民営化支持)、仮に民主党政権で郵政民営化反対ということになれば、財投を握る財務省理財局の管理が重要になるのは当然だ。入口が断たれないので放置しておけば財投の問題が解決できない。
 だが、郵政民営化が実現した場合は、財務省理財局の出番は徐々になくなる。
 「郵政民営化に関する特別委員会 第11号」(エントリの末に資料添付)からわかることだが、財務省との関連では、現状「平成十九年度まで郵貯等による財投債の直接引き受けが経過措置として行われている」のだが、「預託金の支払いが基本的に終了する平成十九年度まで財投債等も引き受けていただいておりますが、基本的に平成十九年度で終わらせる」ということで、この時点で、財務省理財局のこの仕事は終了することになっている。
 なので、郵政民営化が実現すれば本筋としては財務省理財局を重視する必要はなくなる。
 それと、私の理解が間違っているかもしれないが、このカネは現行の郵政のカネ、つまり旧勘定のことではないのか。だとすれば、民営化された郵便貯金銀行が新勘定をもって財投債(国債)をどう扱うかという問題では、一般の銀行と同じ問題になるだろう。議論の枠組みが変わる。
 話を少しこんがらがらせてしまうのだが、一般の金融市場において、明確に政府保証が付く財投債(国債)として財務省が管理しているならそれはそれでよいのではないかと私は思う。公の事業は本質的に必要なものだ。そして、その場合重要になるのは、本来政府保証がないはずの財投機関債になる。こちらが、特殊法人にとっては主軸となる資金源となるべきからだ。だからこそこれに暗黙の政府保証がついてしまうのは困る。この話はすでに書いた。特に財投債から「今後本来あるべき財投機関債へ移行する道筋がないようにも見える」のは困った状態だ。
 以上が、財務省理財局はどうよ論についての私の理解だが、間違っているのかもしれない。
 郵政民営化は緩慢に進む改革ではあるが、郵政のカネが財投に流れる経路は断たれ、現状の財務省理財局の役割は変わる。
 以上の理解でよいとして、それでも「これまでの財務省理財局はどうよ」というのはあるかもしれない。その責任を不問にするのかという話だ。
 確かにそれは問題だなと思うが、むしろそれを確定するのは郵政民営化を進めてからのことではないだろうか。
 財務省を弁護するものではないが、郵政にあれだけどかんと民間の市場で動けないカネがあれば財務省が対応するしかなかったのかもしれない。むしろ、入口改革論でこのカネを減らしていくのは正しい改革のように思える。
 余談だが、今回の選挙で、落下傘部隊よろしく出てきた財務省出身者だが、これをもって財務省の権力拡大と見るむきもあるようだ。だが、財務省のお先を見切ったと見てもいいのではないか。

参考:「郵政民営化に関する特別委員会 第11号」


○竹中国務大臣 入り口、出口、その経路である中間、これは、繰り返し申し上げていますように、やはりそのすべてを改革しないとお金の流れは変わらないということなのだと思います。
 そのうち、資金の流れの出口につきましては、これは既に財投改革や特殊法人等の改革が進められておりまして、特殊法人等整理合理化計画の改革対象、これは百六十三法人のうち百三十五法人について廃止、民営化、独立行政法人化等の見直しを行う等の改革の成果も上がってきていると思います。
 また、十七年度の財投の再編におきまして、特殊法人等が行うすべての財投事業の財務の健全性につきまして、これは民間準拠の財務諸表も参考にしながら総点検を行った、そして、特殊法人等向けの投融資額をピーク時の三分の一程度に圧縮した、そのような出口の中間の改革も進んでおります。
 もう一つ、出口に関しては、政府系金融機関改革につきまして、平成十四年十二月の経済財政諮問会議におきまして、民間金融機能が正常化することを前提に、現行政策金融機関は、民業補完に徹して、かつ、貸出残高について将来的に対GDP比率で半減することを目指すこととしたことを踏まえまして、現在改革を進めているところでございます。
 そこで、お尋ねの入り口の部分でありますが、これまで、特に財投の制度が存在をしてきた時期においては、入り口のところでの郵貯、簡保、それが制度的にそういった財投の仕組みを通して政府系の機関に流れるという仕組みが機能してまいりました。出口のところを今小さくしているというお話を申し上げましたが、入り口のところでの郵貯、簡保の資金というのは政府が集めた資金で政府保証がついている。したがって、それについてはいわゆるリスクをとれる資産にはなれない、安全資産に主として運用せざるを得ないということでありますから、どうしてもこれまでと同じような国債とか財投の機関にこのお金が流れている。
 一言で言いますと、やはり入り口のところの資金を民営化して、リスクをとれる資産、リスクをとれる投資、つまり、民間に流れるような仕組みを入り口で同時にあわせてつくっていかないと、全体としてのこの資金の流れを官から民へと改革するということは困難である。これが、入り口、出口、中間をあわせて改革する、とりわけ入り口としての郵貯の民営化が大変重要であるというふうに考える理由でございます。
○一川委員 これは谷垣大臣の所管になるかもしれませんけれども、先日の委員会の中でのやりとりにもありましたけれども、その財政投融資改革というものに、これからその健全化に向けて取り組んでいきたいというような趣旨の御答弁をされておりましたけれども、今のこの入り口論、出口論、いろいろとございます、それから、中間的に財務省理財局も重要な役割を担ってきたわけですけれども、そういう中で、これからの財投改革というんですか、これは今の郵政民営化と絡めてどういうスケジュールでどういうふうに取り組んでいかれる方針なんですか。
○谷垣国務大臣 今、竹中大臣からもお話がございましたけれども、入り口と出口というのは絡み合っているんだろうと思います。
 今までは、要するに郵貯で集めたお金は十三年まで全額預託義務があって、それは財投に回っていくということでございましたから、その仕組みは平成十三年度で基本的には終わらせた。今、基本的にと申しましたのは、預託義務はなくしましたけれども、現実には、平成十九年度まで郵貯等による財投債の直接引き受けが経過措置として行われているわけでございます。これは、預託金の支払いが基本的に終了する平成十九年度まで財投債等も引き受けていただいておりますが、基本的に平成十九年度で終わらせる。
 そうなりますと、お金の流れの直接的な関係は切れていくということになるわけでございますから、当然、そのときに郵貯の方でも自立的な動きというものをどう道をつけていくかということがあると思いますし、私どもは、郵政の集めたお金とは別個に、残る財投、財投もまだ必要なものがこれはございますから、どうしていくかということが起きてくるんだろうと思います。
 そこで、基本的な構造としては、平成十三年に預託義務を廃止して、財投債ないしは財投機関債を発行してマーケットを通して必要なものを集めるという仕組みをつくって、今までのように、たくさん集まったらそれをそのまま必要もないものに使うという御批判がございましたけれども、そういうものを克服しようとしている。
 一方、もう一つやらなければならないことは、やはり財投機関の見直しでございます。
 それは、政策コスト分析の導入であるとか、それから貸出先の特殊法人等における民間準拠の財務諸表を導入するというようなことをやりまして、財投機関の必要性や債務償還性というものをきちっと見ていこうということでやらせていただいておりまして、先ほど竹中大臣からも御答弁がございましたけれども、平成十七年度特殊法人等向けにつきましては、ピーク時、これは平成七年に当たりますけれども、三十一・七兆ございましたが、三分の一の十一・三兆に縮減をしたわけでございます。この規模がまだ大き過ぎるかどうかいろいろ議論もあろうかと思いますが、先ほど申し上げましたような財投機関の健全性や何かを見ながら、真に必要なものは何だという道筋は、これからも常に点検をしていかなければならないと思っております。
 それから、十七年度の財投計画編成につきましては、財政制度等審議会ですべての財投事業について総点検を行っていただきまして、特に財投残高で大きなウエートを占めております住宅金融公庫、これは民間で取り組んでいる直接融資はもう廃止しよう、それから、都市再生機構についてはニュータウン事業から撤退するというような抜本的見直しを実施いたしまして、財投機関の問題点というのを一応えぐり出してきたところでございます。
 今後とも、引き続き今のような視点からきちっと見ていかなければならないと考えております。

| | コメント (18) | トラックバック (0)

2005.08.29

入口改革論のダークサイド

 気乗りしない話でもあるので書かないつもりでいたが、簡単に書いておこう。
 最初に二つお断り。一つは、この議論はそれほど重要ではないということ。もう一つは郵政民営化の重要性については大筋ですでに触れた以上はないということ。
 また、以下の話は大変に読みづらくわかりづらい。関心のあるかただけの参考としてほしい。
 後半部にトンデモな条件を入れているが明示的に入れているので、そのトンデモ度については読まれる方の判断としてほしい。
 では。
 話は「第162回国会 郵政民営化に関する特別委員会 第7号」での藤本祐司の質問に対する竹中平蔵の回答を読み解くことで進める。


○藤本祐司君 (中略)
 まず、郵貯、簡保の旧勘定、新勘定、この件についてなんですけれども、郵貯に関してなんですが、旧勘定になるのと新勘定になるのがそれぞれ幾らあって、どのような性質のものが旧勘定になって新勘定になるんでしょうか。竹中大臣、お願いします。
○国務大臣(竹中平蔵君) まず、事実でございますが、民営化前に預け入れられました郵便貯金、約二百兆円だと想定されますが、及び民営化前に締結された簡易生命保険契約、約百十兆円ぐらいと想定しておりますが、これにつきましては、通常郵便貯金等を新勘定として郵便貯金会社に承継をさせる。そして、定額貯金等の定期性の郵便貯金と、これ百五十兆円分、及びすべての簡易生命保険契約約百十兆円分を旧勘定分として機構に承継されることとしております。
○藤本祐司君 保険の方をちょっと除いて郵貯の方だけいきますけれども、旧勘定の約百五十兆円については、その管理、運用というのは機構がやると。そして、機構が実際にはその管理業務をやるということではなくて、その実際の管理業務はまた別のところがやると思うんですが、これは法的にどこに書いてあるものでしょうか、竹中大臣。
○国務大臣(竹中平蔵君) 今申し上げたことの振り分け等々の法律的な規定でございますが、次のように規定をしております。
 郵便貯金銀行に承継される通常郵便貯金については、郵政民営化法の第百七十二条第一項におきまして、「この法律の施行の際現に存する旧郵便貯金法第七条第一項第一号に規定する通常郵便貯金」、中断ありまして、これは、「この法律の施行の時において、承継計画において定めるところに従い、郵便貯金銀行が受け入れた預金となる」旨を規定をしております。
 規定はこれでよろしゅうございますでしょうか。

 まず、簡保については議論を捨象。
 ポイントは、郵貯の旧勘定の約百五十兆円の管理・運用は、機構が実際にはその管理業務をやるということではなくて、その実際の管理業務はまた別のところがやる、ということ。

○藤本祐司君 それと、あと百六十条の第二項のところにあろうかと思います。まず、いわゆる機構法十五条第一項の契約というものに対しては、郵便貯金銀行の方に承継を、承継といいますか、法律の施行のときにおいてその郵便貯金会社を相手方として契約を結ぶということになっておろうかと思いますけれども、それはそれでよろしいんでしょうか。
○国務大臣(竹中平蔵君) 失礼いたしました。資産の振り分けでございますから、更に追加の説明が必要だと思います。
 そして、新旧勘定の一括運用を実現するために、承継時におきまして、貯金については機構とそして郵便貯金銀行との預金、特別預金を創設しまして、簡保については機構が郵便保険会社に再保険を出再することとしている。これは正に委員御指摘のとおり、郵政民営化法案第百六十条の第二項第一号、第三項第一号の規定でございます。
 また、特別預金の預入金及び再保険の保険料につきましては、それぞれ郵便貯金銀行、郵便保険会社が公社から承継する資産をもって充てるということもこの民営化法の第百六十条第二項第二号、さらに第三項第二号にまとめて書いてございます。
○藤本祐司君 今おっしゃるとおり、百六十条に関しては、要するに施行のとき、郵政民営化法の施行のときにおいては必ずそこの、今あった指摘どおり、郵便貯金銀行と契約をするということになっておるんですけれども、一方、機構法の方の第十五条の一項、こちら、第十五条の一項によりますと、「機構は、銀行その他の者との契約により当該者に郵便貯金管理業務の一部を委託することができる。」ということになっているんですけれども、要するに、百六十条で、契約というのは民営化されたその施行のときは契約をしていなければいけないと。ただ、十五条で、銀行その他、つまりここでは郵便貯金銀行という指定はしていないわけですね。だから、一般の民間銀行ともこの一部委託契約ができるということになるという解釈でよろしいんでしょうか。

 問題は、郵貯の旧勘定の約百五十兆円の運用について。この運用は直接は郵便貯金銀行につながるのではなく、扱いには契約を必要とする。しかも、この契約は、法文上は郵便貯金銀行以外にも開放されているように見えるということ。

○国務大臣(竹中平蔵君) この特別預金の例でございますけれども、これ、機構法上どうなっているかといいますと、郵便貯金資産の運用方法の一つであります金融機関への預金に該当するもの、このスキームの安全性、効率性においては、これ当然機構にとって、機構としてはこの郵便貯金銀行に委託する以外により望ましい方法というのはなかなか想定はされないわけでございますけれども、法律上の制度設計上は今委員がおっしゃったようなことは可能としております。
○藤本祐司君 要するに、法律上は、まず施行時、その施行時においては郵便貯金銀行に委託するんだということなんですけれども、それを過ぎれば別の銀行に委託することができる、可能であるということは、法律上はそうなっていて、理論上はそうなっていると。現実的にはそれが難しいというお話はありましたけれども、法律上そうであるということは、可能性は、要するにほかの銀行に委託する可能性はゼロではないという、そういうことだというふうに解釈できるんですけれども。
 そうであれば、ここはやはりきちっと、銀行その他の者との契約というのではなくて、きちっと郵便貯金銀行と書いても問題ないんじゃないかと、むしろ書いた方が安心感を与えられるんじゃないかなというふうに思うんですけれども、ここ、なぜ書いていないのかと。先ほど竹中大臣は、現実的にはそういうことはないだろうけれども銀行その他というふうに書いてあるというふうにおっしゃったんですが、そこの理由についてちょっと御説明していただきたいんですが。

 竹中の理解では、旧勘定の約百五十兆円の運用は一般銀行でも可能だが、現実的ではない。なので、藤本祐司はだったら、きちんと郵便貯金銀行に委託しろと法文化すべきと主張している。ただ、そうすると、郵政民営化とは名ばかりで、民営化後の一体感ができてしまう。

○国務大臣(竹中平蔵君) まず、これ大変技術的な問題、今丁寧に御質問してくださっていますが、なぜそもそもこういうふうに旧勘定を分けるかというと、これ政府保証が付いているからと。で、政府保証付いているところに問題、ものについては、これ民間がそのまま引き継ぐというのではなくて、そうすると負債側に政府保証が付いた預金という負債が来るわけでありますから、これはやっぱりきちっと切り離しましょうということになる。しかし、これは一括してかつての郵政の皆さんが集めたものであるし、だからその利益がちゃんとそこに帰属するようにしたい、かつ資産、負債の一体運用をやっぱり効率的に一体でやってもらいたいと、そういうそもそもの制度設計で、この部分については切り離しましょうということを、考え方として基本方針でまず述べているわけでございます。
 これを実現するために、我々は基本的には、だからこれ郵便貯金銀行に運用してもらうということを想定しているわけですが、法律上、じゃなぜそういう特定をしていないのかと。最初は特定しているけれども、途中からそうなっていないという、その御質問なわけですが、これは、あえてこれ制度のつくり方として申し上げますと、万が一に、これ万が一にでございますけれども、そこの郵便貯金銀行でその運用等々において非常に不正等々が行われたような場合等々、これは機構としては、利益を守るためにそこから、そこを避けて別のところにというようなことも可能性としてはないわけではないわけでございます。
 もちろん、先ほど言いましたように、それが現実的であるとは想定をしておりません。しかし、そういう場合も万々が一に想定をして、法律上は、制度としては、制度設計としては同様の契約をできるような制度設計にしたというふうに御理解を賜りたいと思います。

 ここが重要。
 なぜ、旧勘定と新勘定にわけるかというと、旧勘定には政府保証がつくため。つまり、現行郵貯に預けた国民の貯金は完全に政府保証が付く。逆にいうと、その国民の貯金を守るために、その切り分けとして旧勘定がある。
 しかし、その旧勘定で郵政が得た利益は、新規郵便貯金銀行が得るべきではないか、という議論がある。それはある程度納得できる。むしろ、その点では、藤本祐司が言うように、その預金ともども郵便貯金銀行にするっと移行しろという発想もなりたつ。
 なのに、そうしていないのはなぜか。
 竹中はこれは、「郵便貯金銀行でその運用等々において非常に不正等々が行われたような場合等々」の危険から国民の貯金を守るためだとしている。
 もちろん、竹中は、それが現実的に起きるとは想定していない。が、竹中贔屓にいうと、こうした法制度そのものが予防策になるという自負があるからではないか。
 ここで、大きな問題の一つが浮かび上がる。郵便貯金銀行で資金運用に不正が起こる可能性は、可能性としてはあるということ。ここは留意して先に進む。

○藤本祐司君 要するに、法律上はほかのところでもできるということだけは確認できるんだろうというふうに思いますけれども。
 それでは、郵貯の旧勘定分は十年後は、旧勘定分ですね、先ほど百五十兆円というふうに言われましたけれども、十年後、どのぐらいになるものなんでしょうか。
○国務大臣(竹中平蔵君) 機構に承継されました定額貯金等々の定期性の郵便貯金、これはもうメーンでございますけれども、この郵便貯金につきましては、最長の預入期間、これは御承知のように定額貯金十年でございます。したがって、十年経過後は法律の規定によりまして通常貯金になる。したがいまして、このことから、民営化後十年経過した段階で機構が有する定期性の郵便貯金の残高はゼロになると。したがって、基本といいますか、原則はこの十年でゼロになるというふうにお考えいただいていいわけでございます。
 ただし、実務上申し上げますと、すべての預金者が満期後すぐに払戻しを受けるわけじゃない、つまり取りに来ない人が現実問題としてはいる、こういうのをいわゆる期満預金というふうに言うと承知しておりますが、厳密には、その貯金の旧勘定の債務は十年経過後もゼロにはならないと、そういう期満貯金の存在でゼロにはならない、そのように理解をしております。
○藤本祐司君 それでは、ゼロにならない、私もそう思いますけれども、実際に取りに来なかったと、放置しているというような場合があるんだろうと思いますけれども、その分のその勘定はどこに残ることになるんですか。通常貯金だという話ですけれども、それはどこに残ることになるんでしょうか。

 重要な点は、まず、旧勘定の資金、つまり、現行の郵貯に預けた国民の貯金は、十年後には、理想的にはゼロになる、ということ。というか、これは、理論上そうなる。新規の郵便貯金銀行の新勘定に移るからだ。
 このあと、藤本祐司は忘れられたカネはどうなるといった議論を展開するのだが、これはそれほどどういう話ではないので、割愛。
 問題は、では、十年してゼロになるはずの現行の郵貯の資金はその間に民間に流れるのかという問題に移る。

○藤本祐司君 分かりました。
 それで、今回見てみますと、今、旧勘定として残り百五十兆、これについては当初、当初は百五十兆で、だんだん減っていって、限りなくゼロに近くなるという御説明なんだろうと思うんですけれども、その百五十兆については政府保証が残っているということです。
 ですから、裏を返して言えば、本当に民間の資金というふうになるというか、政府保証が付かないもの、付かないというか、完全に付かないわけじゃないんですけれども、その郵便貯金の方、貯金銀行の方に移っている五十兆、これがどちらかというと官から民へ移ったものだというふうに思うんですけれども。
 ただ、今まで何度も何度も、総理も竹中大臣もそうなんですけれども、三百四十兆円の資金が民間に移ると、という説明をしているんですが、これは実際には三百四十兆円の資金が民間に移るわけではなくて、民営化した当初、その時点では五十兆円が民間に移るという解釈になるんだろうと思うんですけれども、一般的には三百四十兆が移っているかのようにここは報じられていて、みんな割とそのように理解をされているんだろうと思います、よくメガバンク何行分だとかという話になりますからね。そうすると、五十兆というと、メガバンク大体大きいところでは東京三菱辺りだと一行分なんですけれども、その分だけが民間資金として活用されるんだということの認識でよろしいんでしょうか。
○国務大臣(竹中平蔵君) 我々もそういう、同様の御指摘を受けてから言葉遣いを大変注意をしているつもりなんですが、三百四十兆円の官の資金が民間の資金になっていく道を開くと。
 したがって、二〇〇七年四月一日の時点においては、これは今正に藤本委員が御指摘のとおりでありまして、その点に関しては、政府保証が付いた独立行政法人の預金なわけでございますから、そのものについては、これはまた要するに従来の形が残っているわけでございます。しかし、これは、徐々に徐々にこれは減っていくと。
 それで、実際に何が起こってくるかといいますと、これは満期が来ましたと。さっきの期満預金を除きますと、満期が来た分については、これは当然郵便局の、ないしは郵便貯金銀行の営業努力として、これはできるだけ新しい新勘定に預け替えてくださいよというものもあるでしょうと、ないしは、ひょっとしたら窓口の方では別の金融商品でフィーを稼ぐというのもあるかもしれません。
 しかし、そういう過程で、正に民間に徐々に徐々にこれは満期に近づくにつれて変わっていくわけでございますので、私たちが申し上げたいのは、正にそういうふうに次第に民間のお金になる道が開かれていくということでございます。委員御指摘のような誤解を招かないように、私たちは説明は注意をしなければいけないと思っております。

 つまり、法案が通れば郵政民営化が実現される二〇〇七年四月一日の時点では、三百四十兆円の資金はまだまだ民間には流れない。このプロセスは十年もの非常に緩慢なプロセスになる。
 民営化のエフェクトは非常に緩慢であるということ。
 問題は郵貯の旧勘定百五十兆円の扱いに移る。ここに重要な問題が潜んでいるように思われる。

○藤本祐司君 それと同じことなんですけれども、要するに百五十兆円というのが政府保証が付いているわけで、ここについても、法律上、機構法二十八条に定められていて運用方法というのは限られているわけなんですが、これについて言うと、公社のときよりも運用方法というのが物すごい狭まってしまっていると。
 そうなってくると、結局、最初から言っているように、政府保証が付いたものだと、国債だとか、まあ財投債も含まれるわけなんですけれども、そういったものに回ってしまう。つまり、入口の改革が出口改革につながるんだというふうに言われているわけなんですが、実際には百五十兆円というものが政府保証が付いたものであって、運用の方法が物すごい限定的になっていると、結局これは国債だとか財投債だとか、そちらに回るお金になってしまうと。多分、想定されると、だんだん減っていきますよという、多分そういうお話なんだろうと思いますけれども、少なくとも百五十兆というお金が当初残っていて、五年たってもまだそれが多分半分とか、ちょっと五十兆ぐらいになるんだろうと思いますけれども、その間はそれで回すしかなくなってくるんじゃないかなというふうに思って、ほとんど、その辺の入口の改革が出口の改革につながるのかというと、当面は全くつながらないんじゃないかなというふうに思うんですが、いかがでしょうか。
○国務大臣(竹中平蔵君) これも先ほど御説明をさせていただきました、そもそもなぜ旧勘定を分けるかということでありますけれども、私たちとしては、今までこれ政府保証が付いています。政府保証が付いているから安全資産で運用されてきました。実は、このバランスシートの借方に政府保証が付いた債務があって、貸方にそれに見合った安全資産があると。このバランスシートの固まりをやっぱり切り分けてきっちり管理していかなければいけない。これがやはり旧勘定を機構という形で承継させようというそもそもの方針だったわけでございます。
 これは、当然のことながら政府保証が、これもう約束した政府保証ですから、これはもう十年間必ずなくなるまでは付くわけでございます。政府保証が付く以上は、これはやはり安全資産で運用をしていただかなければ、国民のリスクを考えるとやはり困るということになる。そういう点から、機構の運用範囲につきましても、委員御指摘のようにそれなりの制約といいますか、運用範囲はある程度限定をしていただかなければいけないということは、この中でも、法律の中でも規定をしているところでございます。
 それが、したがって、その借方だけではなくて貸方の方、貸方だけではなくて借方の方もなかなか民間にお金が流れていかないではないかという点に関しては、これはもう政府保証のある預金、それに見合った資産でありますから、そこはやはり時間を掛けてこれを少しずつ変えていくということしかやはり私はもう方法はないのだろうというふうに思っております。
 しかし、これも説明の仕方には留意をするという、その御指摘はそのとおりであると思います。


 ここは非常に微妙なところだ。
 ざっと受け止めると、旧勘定=国民の貯金を保護するためには、安全な運用をしなければならないので、だから、安全といったら結局国債(つまり財投債)といったものにならざるを得ないだろう。そうなれば、当初想定していた入口改革論と矛盾するではないか、依然、国債(財投債)に旧勘定が流れるではないか、ということになる。
 なので、藤本祐司はここで一種勝利宣言をしてしまう。

○藤本祐司君 そうなんですよ。基本的に世の中の方の誤解というのが一杯ありまして、非常に誇張している。誇大広告みたいになっているわけなんですね。三百四十兆円が民間に流れるからもう本当に経済が活性化するんだとか、もうここで要するに政府保証が付いた、要するに国債とか財投債に回るようなお金がどんどんなくなるんだということばっかりみんながとらえて、ああ、これはいいことだというふうに思って勘違いされる方非常に多いわけなんですが、多分それはねらっているんだと思うんですよ。そういうことを言っておくと、まあ詳しい人は分かってしまうけど、詳しくない大半の人たちが、そんなことは、ああ、それはいいことだというふうに思っているという、いわゆるPRをする一つの手法としてねらっているんじゃないかなということをつくづく思うんですけれども、またそれについては後ほど、後半でまた質問したいと思っておりますけれども。
 (後略)

 タメの批判をしたいわけではないが、この勝利宣言の前の竹中の発言に戻る。
 竹中は明示せず、あえて負けを受けた形にしているが、旧勘定と新勘定が分離されているなら、国債や財投に流れるカネは、旧勘定の一五〇兆円で止まる。十年かけて入口改革は進む。
 その意味で、入口改革は緩慢だが有効ではあるだろうとは言える。
 むしろ、藤本祐司が期待しているように、旧勘定が郵便貯金銀行に直結すると、これを担保に新銀行が入口となってしまう。
 もちろん、新銀行が新たな財投債(国債)の入口となる可能性はある。むしろ、現行の民営の銀行ですら国債を買っているのだから、デフレ下の安定した運営にはそれ以外の選択はないだろうという批判もあるだろう。
 ただ、そこへ議論をシフトするのはちょっと待ってほしい。
 というのは、竹中の発言にある「安全資産で運用をしていただかなければ、国民のリスクを考えるとやはり困る」という安全資産に注視したい。
 この話は、先の、郵便貯金銀行で資金運用に不正が起こる可能性につながっているのではないか。
 以上の話の展開は、国会討論についての私の解釈であり、それほどトンデモナイといったものではないだろう。
 ここから以下、二段階でトンデモナイ話を意識してまぜる。読まれるかたを騙す意図はまったくないので、よく注意してほしい。
 まず、一段階。もし旧勘定と新勘定を区別せず、民主党が推進しているように、旧勘定をするっと新勘定に直結した場合、郵便貯金銀行で資金運用に不正が起こる可能性があるのではないか。だとすると、その旧勘定を使って行われる不正の可能性とは何か?
 そして、二段階。現状の公開資料では財投に不良債権はないとされているが、それは百兆円の規模ですでに発生しているのではないか。あるとすれば、それは、郵政の旧勘定を直撃するのではないか。
 トンデモ条件は以上の二つのみ。
 この条件が成立する際に、もっとも重要なことは、旧勘定である国民の富を防御することになるだろう。
 この問題に関心があるかたは、ここで、もういちど、この一連の竹中の答弁を読み直してもらいたい。

| | コメント (18) | トラックバック (1)

2005.08.28

それは布団じゃないだろ

 ラジオ深夜便を聞いていたら、BBCのローカルニュースで布団(ふとん)を英国から日本に輸出しているという話があった。一瞬、あっ、あれか、と思った。続いてラジオの話では、親切にもそれがどんな「布団」であるかについて解説があった。そうだ。あれは布団じゃないだろ。ではどんなものか。
 見れば、あれね、と大半の人がわかる。Google Imageで見るといい。キーワードはローマ字で「futon」である(参照)。
 スターウォーズに甲冑(ダースベーダー)だの、チャンバラ(ライトセーバー)だの花魁(パドメ・アミダラ)だのが出てくるほど日本文化が世界に広まっているせいか、ずばり日本の布団みたいな画像も出てくるが、大半は、見た目は、こりゃソファー。単純に言おう。布に綿を詰めてできているのが「futon」なのである。大抵は、背もたれのところが倒れて、ベッドにもなる。
 なんだこれはの状況は、Google(英語版)を見るとさらによい(参照)。「futon」で英語のGoogleを検索すると、いったいぜんたいこれはなんの勘違いなのかといった趣きのリストが並ぶ。が、これがグローバルスタンダードの布団ってやつだ。
 Wikipediaの布団の項目をみると洒落もなく布団の項目がある(参照)。面白くもなくヒネリもないのだが、布団へのこだわりは感じられる。


こたつで使用される敷物および掛けるものは、寝具ではないが、同じような形状であるためこたつ布団と呼ばれる。

 定義者は布団の最大属性を寝具としているのである。
 ところで、このWikipediaの項目ページの左コラムには、同一の意味の各国語版のリンクがある。そこで、Englishをクリックするのだ。じゃーん。ジニーのようにFutonが登場。
 定義はきちんと日本の布団についての説明から始まるのだが、日本を除く先進民主主義国で利用されている西洋布団(Western futon)についての言及がある。

Western futons are different from Japanese futons in several ways. They are usually filled with foam as well as batting, often in several layers, and are almost always much thicker and larger than Japanese futons, resembling a traditional mattress in size.

 そしてなにより西洋布団についてずばりその本質を述べている。

Most Japanese people would not recognize a Western-style "futon" as a futon.

 日本人の大半は西洋風の布団を布団とは認識できなかろう、というのだ。まったくね。
cover
蒲団・重右衛門の最後
 日本と西洋の布団といえば、忘れてならないのは、あれだ。あれだよ。田山花袋の布団だ。ちがう。「蒲団」(参照)だ。ちょっと表記を変えてある。

 小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして彼は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」

 三十六歳の竹中時雄は恋にやぶれ、女の体臭の残る蒲団をくんくんしながら泣いたという明治の大文学である。現代でいうと、村上春樹の「羊をめぐる冒険」にある別れた妻が残した下着だろうか。文学的なリアリティとしては花袋の「女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした」のほうが強い。あー、言い忘れたが、この女、芳子は十八歳ぐらいである。
cover
FUTON
 この手の話というのは、いつの時代にもあるし、意外に重要なのは、やはり布団である。英語ならfutonだということはすでに書いた。なので、中島京子の「FUTON」だ。
 そ、それでこの話のオチなのか。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2005.08.27

財投機関債を巡って

 財投機関債を巡って、この間考えたことのメモをしておきたい。
 すでに他のエントリでも書き散らしているが、私は、郵政民営化の問題について財投機関債に着目していた。なぜかというと、ごく簡単に言えば、郵政民営化とは財投改革であって、郵便事業などはとりあえず論点から外してもいいだろうと考えるからだ。
 平成十三年度以降の財政投資融資制度によって、特殊法人(財投機関)が資金を必要するときは、まず自力で政府保証なしで財投機関債を発行し(市場からカネを借りるということ)、それが足りなければという限定で、政府保証の財投債(つまり国債:税金からカネを借りるということ)でまかなうとされた。財投機関債が主、財投債(国債)が従である。
 つまり、特殊法人は財投機関債によって経営するのが正しいありかたということになる。だから、特殊法人のありかたを考えるときは財投機関債の現状と今後のありかたから考えるのが正しい筋道になる。
 そこでこの間この問題を再考していた。
 財投機関債関係で気になっていたことは二つあった。一つはこれが本来は政府保証はないとされているのに市場での振る舞いは政府保証がついているとしか思えないということ。こんな鵺のようなものが跋扈していていたら財投改革なんかできない。この曖昧なものから潰して特殊法人を整理し、より大きな問題である財投全体の問題に着手すればいいのではないか。
 また、暗黙の政府保証を発生しにくくするには、小泉やその先生である加藤寛が言うように、元になる郵政のカネの入口を絞れるのは有効かと考えていた。
 だが、ブログ「マーケットの馬車馬」のエントリ”郵貯:改革の理由(番外編) 財投機関債のお話”(参照)では、財投機関債はそれほど問題でもないということらしい。


前提条件が180度違うので、finalvent氏とは結論も全く異なってくる。財投機関債に「暗黙の政府保証」の問題がない、又はほとんどないのであれば、むしろ機関債の発行は奨励されるべきだろう。また、今回いくつかの公団のHPを見に行ったが、まだ十分とはいえないまでも、情報公開はだいぶ進んできている。これも機関債へのシフトが理由である事は間違いないだろう。

 私はこれで納得したかというと、そうでもない。だが、それ以上切り込むにはよりテクニカルな知識が必要となり、私にはわからない。追記:ブログ「bewaad institute@kasumigaseki」のエントリ”それでも暗黙の政府保証は存在する、ほか”(参照)にこの関連の有益な示唆がある。
 財投機関債関連で気になっていたもう一つのことは、本来なら特殊法人は財投機関債によって経営されるはずなのに、そうじゃない財投債への依存が依然高い。なぜなのか。また、今後本来あるべき財投機関債へ移行する道筋がないようにも見える。そういった財投債との関連の問題だ。
 この問題については、そうは言っても、たぶんその道筋は早々になくなっているのだろうなと思ってもいた。だからこそこれも入口となる郵政のカネを絞り込むために今回の民営化が必要なのだろうとも思った。これは小泉と同じ理屈である。
 小泉は案外ただの勘で入口改革論に固執しているのかもしれないが(参照)こう主張している。

 特殊法人の事業資金には、国民の皆さんからあつめた郵便貯金、簡易保険や年金の資金が使われてきました。特殊法人が無駄な事業で赤字をだしたからといって、その負担を郵便貯金に預けた国民に求めるわけにはいきません。ですから、最後は税金で負担せざるを得なくなるんです。
 この構造を改革するためには、資金の「入口」の郵政事業、資金の「出口」の特殊法人、そしてこの間をつないで資金の配分をしている財政投融資制度。これを全体として改革し、資金の流れを「官から民へ」変える、そして、民間で資金を効率的、効果的に活用してもらおう、というのが、資金の「入口」である郵政民営化から「出口」の特殊法人改革までの大掛かりな改革の狙いなのです。
 すでに、財政投融資制度については、郵貯、年金の資金全額を国に預ける仕組みをやめました。そして、道路公団を民営化し、住宅金融公庫を廃止して住宅ローンは民間金融機関に提供してもらうようにするなど特殊法人の廃止・民営化の改革を進めています。
 残された一番大きな改革が、資金の「入口」である郵政民営化です。

 私としても、財投改革のカネの入口改革をためらうこともないだろうし、先進民主主義国において国営の銀行業・保険業があるというのも異常なことなので、民営化の基準でこうしたカネの流れを開示・吟味していくといいとは思う。
 こういう私の考えに対して、郵政民営化は財投改革とは別とか、財投改革にはカネの入口改革論は不要など、いろいろ議論があるようだ。そうしたなかで、小泉・加藤寛流のカネの入口改革論がより有効なのかといわれると、私には正直なところわからない。ただ、なぜそこまでして彼らが入口改革論を避けるのかは不思議に思う。入口改革論ではだめという理由は議論されてないように思える。
 話は以上なのだが、基本に戻って、なぜ財投改革にこだわるかというと、特殊法人の役人の天下りや無駄遣いというのがあるのだが、その結果といえば、当然、まいどおなじみの不良債権がある。それがさらにどうなるかは説明は不用だろう。
 ウォルフレンはその存在を想定しつつも額の想定はしてなかった。さて昨今どのくらいだろうか。財投残高三百三十三兆円のうち百兆円くらいは不良債権化しているだろう。実態はわからない。建前上は不良債権はないとされている。
 財投の不良債権問題が表面化する前にカネの元になっていた郵政民営化が重要かとと言えば、またそこでそれは別問題だといった議論も起こるのだろう。しかし、民営化しておいたほうが敗戦処理にはよいのではないか。

| | コメント (29) | トラックバック (2)

2005.08.26

精子銀行が心の支えになるという話

 男性の癌患者にとって自分の精子を精子銀行に保存しておくことは精神面での援助になる。そういう記事がロイターに出ていた。標題は”Sperm banking gives cancer patients emotional lift”(参照)というだけなのだが、冒頭読み出して、ちょっとびっくりした。話は日本の話なのだ。てっきり米国とかのことだろうと予断を持っていた。


Sperm banking may not only preserve young cancer patients' ability to have children, but their emotional well-being as well, according to Japanese researchers.
【試訳】
精子銀行は若い患者が子供を持つ能力を保持するだけのものだけではなく、彼らの気分を快活にする上でも役立つと日本の研究者が明かにした。

 日本のニュースなんだから日本語版のグールグニュースを「精子」で検索したけど、この話題はひっかからなかった。明日にはネットのどこかに掲載されるのだろうか。研究は横浜市立大学医学部附属病院のもので、研究者名はゴルゴ13を連想させる「さいとうかずお」とあるのだが、漢字名はわからなかった。追記:コメントでいただいた情報では、横浜市立大学付属市民総合医療センター泌尿器・腎移植科の齋藤和男先生とのこと。また、オリジナル情報は、アメリカ癌学会誌「Cancer」8月1日号に掲載とのことです。
 癌の化学療法の結果、精子を作る能力が失われることがあるので、その対応として保存しておくというのは、心の支えにもなる。そうなんだろうなと思って読んでいくと、むしろ化学療法中の人にとって有益という示唆があり、そうしたことまで思い至らない自分のうかつさを恥じた。
 とはいえ、現状ではこうした場合のそれほど精子銀行の利用は普及してないようだ。せいぜい一割から二割というところらしい。
cover
スター・ウォーズ
エピソード3シスの復讐
 話のネタとしてはそれだけなのだが、このところ私はスターウォーズを1から順繰りに見ていて、昨日その順で6を終えた。この順で見るのも奇妙なものだなと思うし、ようするにスターウォーズというのはダースベーダーという悩める父の物語でもある。今回、6でアナキンが悔悛するところで、奇妙な感じがしたのだが、ルークにしてみれば、父というのは、ちょっと言い方は悪いが、精子というつながりしかない。そのつながりだけで、父と子というのだろうか。もっとも、双方の思いがそこに集約されているだけということであって、重要なのは父と子という思いの問題でもあるのだろう。
 それでもエピソード1でアナキンが発見されるときも、血が問題になっていた。つまり、精子の問題でもある。ちょっとこのあたりの感覚は、歴史的に血統を無視している日本人にはついてけないものがあるなとも思った(日本は養子縁組の文化)。

| | コメント (22) | トラックバック (1)

2005.08.25

「中国男女平等と女性発展状況」白書を巡って

 ロイターで見かけたニュースでちょっと気になることがあった。ずばりと切り出しづらい感じがするし、よくわからない。該当のニュースは、”Chinese women hold up half the sky, but many in poverty”(参照)である。標題の含みが今ひとつわからないが、中国人女性が置かれている状況は大きく改善したものの、まだ多数は貧困層にある、ということだろう。中国人の大半は農民であり、それは現状も貧困層なので、女性が貧困の状態にあるというのはとりわけ話題でもないかとは思うが、中国の女性問題には多少関心があるので、記事を読み進めてみて、困惑した。


The mortality rate of women in childbirth fell to 48.3 per 100,000 last year from 61.9 per 100,000 in 1995, it said.

Suicide, however, remains a major cause of death among women, particularly in the countryside. State media figures from 2002 showed 250,000 Chinese women took their own lives every year, a rate 25 percent higher than among men.


 前段は出産時死亡率でこれは一年でもめだって改善されている。問題は後段だ。中国人女性の主要な死亡原因が自殺だというのである。特に農村部で目立つらしい。男性と比較して二五パーセントも多い。
 日本を含め、多くの社会では男性のほうが自殺率が高いはずだし、また、農村部で高いというのはなにかの事態を暗示しているのだろうか。
 関連ニュースはないかと調べてみると英語ではいくつかあるし、英語版毎日新聞にAPの”Chinese women become more educated but lag behind in business, government”(参照)の記事があり、この問題に焦点を当てている。

BEIJING -- College attendance is up among Chinese women but millions more remain trapped in bitter poverty in rural areas where female suicide and infanticide persist despite campaigns to raise the status of women, a government report and an official said Wednesday.


The report did not mention that China has one of the highest suicide rates in the world, with some 290,000 deaths a year, or that more than half the victims are women -- most in the countryside.

Gu said in response to a reporter's question, that female suicide in China "occurs mainly in rural areas for a number of complicated reasons," including depression, family conflicts, economic difficulties and disease.


 APの記事はこの状態について社会問題が背景にあるという示唆がある。
 毎日新聞の日本語版にこの情報がないか調べてみたがネットからは見あたらないし、他も日本のジャーナリズムは注視していないようだ。
 今回のニュースの元になったレポートの側から調べると、中国サイドのCRI”中国、「中国男女平等と女性発展状況」白書を発表”(参照)があった。しかし、この問題には触れていない。同系の英文ニュースも同様なので特に日本語版で配慮したものでもなさそうだ。
 該当白書の全体は英文”Full text: Gender Equality and Women's Development in China”(参照)で読める。ざっと流し読みしたが、女性の自殺については触れていないようだ。
 というところで、先のAPのニュースを読み直して気が付いたのだが、"Gu said in response to a reporter's question"とあるので、中国女性の自殺率の問題は白書の内部ではないのかもしれない。
 このあたりの報道の絡み具合や、日本のジャーナリズムやこの問題に関心をもってよさそうな団体などの見解も現状ではまだ見あたらない。APでは"infanticide(幼児殺害)"にも言及しており、このあたりは男女の出生率が当然参照されるべきだが、よい情報は簡単には見あたらなかった。

| | コメント (9) | トラックバック (1)

2005.08.24

東洋人と西洋人では物の見方が違うらしい

 東洋人と西洋人では物の見方が違うらしい。そんなのあたりまえでしょとか言わんでくれ、抽象的な話じゃない。どうも実際に物を見るときの知覚のありかが違っているという実証的な科学実験の話なのだ。
 国内の報道で話題になっているかわからないが、海外では話題になっている。BBC”Different view for East and West ”(参照)の出だしはこうだ。


Different view for East and West
Western and Eastern people look at the world in different ways, University of Michigan scientists have claimed.
【試訳】
東洋と西洋では見方が違う
西洋人と東洋人では世界の別の方法で見ているらしいとミシガン大学の科学者たちが主張している。

 実験は、二十四人の華人と二十一人の米人が対象となり、背景を伴った動物写真や非生物の写真を見せ、その際の眼の動きをミリ秒単位で追跡したものだ。
 結果は、米人は中心の被写体を観察しようとする傾向があるが、華人はより背景も含めて見ているとなった。ふーん、である。日本の常識からしてもそんな感じかな。
 なぜそう差が出るというと、華人のほうが短期記憶が弱いかららしい。ほんとかね。というわけで、BBCの記事ではこれをネタに文化論的な話に花が咲くといった趣である。
cover
生物から見た世界
  先日、「極東ブログ: ティッシュ配りについて考える」(参照)で「生物から見た世界」について触れたが、種の差を超えて文化差のようなものでも影響があるのだろうか。
 サインティフィック・アメリカンのサイトの”Americans and Chinese Differ in Their World View--Literally ”(参照)を見ると、実験の一例の写真と視点のようすが写真で掲載されている。森の中にたたずむ虎の写真が提示されると、米人は背景より虎の眼あたりを見ている。が、華人はその全体を見ているようではある。
 武道だとどっちの視線がグッドかなとちょっと思う。相手の目は次の攻撃に備えるためだが、防御だと全体配置が重要になる。いや、見るんじゃない、フォースを使うんだ。
 ワシントンポストに掲載されたAP”Asians, Americans Show Perceptual Divide”(参照)の記事では、前回の実験での日本人についての言及もあった。

Nisbett illustrated this with a test asking Japanese and Americans to look at pictures of underwater scenes and report what they saw.

The Americans would go straight for the brightest or most rapidly moving object, he said, such as three trout swimming. The Japanese were more likely to say they saw a stream, the water was green, there were rocks on the bottom and then mention the fish.

The Japanese gave 60 percent more information on the background and twice as much about the relationship between background and foreground objects as Americans, Nisbett said.


 日本人も全体を見る傾向があると言えるだろう。なので、今回の研究とも違和感がなく、日本人も華人同様東洋人ということになる。
 引用中、米人は明るさに反応しているというくだりがあるが、近世の西洋絵画を見ると、光と物体のありかたについて、日本人にしてみるとちょっと違和感があるくらい感じられるものだ。そういえば、外人の写真のポートレートもポイントは影、つまり、光なんじゃないかと思う。ヌード写真なんかもそういう光と影の造詣性が重視されている…ような気がする。

| | コメント (22) | トラックバック (0)

2005.08.23

吉野家雑談

 牛丼はお好きですか。店を覗くとけっこう人が入っているようなので、人気は高そうだなと思う。コストパフォーマンスがいいのだろう。私は、というと、牛丼はそれほど好きではない。
 二十年くらい前は秋葉原に行ったおりは吉野家でよく食っていた。なんか懐かしい思い出につながるものはないかと、ぐぐってみたら、「嗚呼!青春の吉野家」(参照)があった。


印象に残っている店も何軒かある。たとえば中学生の頃に行った秋葉原の吉野家。いまはもうこの場所にはなくなってしまったが、この店はカウンターの中がタイル張りで、つねに水をまいてあり、店員は全員が白いゴム長靴を履いていた。彼らはカウンターの中を行ったり来たりするときに、必ず小走りに勢いをつけて走ってきて、最後はツーーーっと滑ってくるのだが、これが面白かった。

 そんなだった感じがする。
 そういえば、墓参りのとき都合のいいところに吉野家があるので食べたものだった。定食メニューみたいのを頼むことが多いのだが、これも思い返すと、BSE騒ぎの前のことだ。その後の吉野家はまるで知らない。主力商品にダメージを受けて大変なんだろうと思っていたくらいだが、そうではないらしい。時事に”吉野家に復活の兆し=2カ月連続で売上高2ケタ増、定食が心とらえる”(参照)というニュースがあった。

6月に発売した2種類の定食が客の心をとらえ、売り上げが2カ月連続で前年比2ケタ増となった。

 へぇ、それって何、と思って調べてみるがよくわからん。日経”吉野家の7月売上高、定食好調で前年比20%増 ”(参照)を見ると一品は「豚生姜焼定食」だとわかる。

6月から発売した「豚生姜(しょうが)焼定食」など定食メニュー2品目が好調なほか、豚丼の値引きキャンペーンなどで客数も13.3%増と回復した。

 気になる。こうなったら吉野家のホームページを見るしかないか。一次ソースは”吉野家|店舗のご案内|メニューを見る”(参照)あたりか。
 もう一品は「牛焼肉定食」だろうな。
 で、牛肉。なーんだ吉野家って現在牛肉扱っているんじゃん、とまでは言わない。私は吉野家の牛丼がショートプレートにこだわっていることは知っている(参照)。でも、私はそれほど牛肉は詳しくない。詳しそうなやつに、これってハラミでしょと以前聞いて、違う、と憮然げに答えてもらったことがある。気になるかたは「牛肉の部位のお勉強 」(参照)などをご覧あれ。
cover
吉野家の経済学
 なんであれ、吉野家の経営って好調なんだと思って見ていくと、私は全然知らなかったのだが、京寿司っぽい京樽って吉野家の系列だったのだね。”京樽、8年ぶり復活上場・ジャスダックに”(参照)だとこれから上場するとのこと。京樽のほうはよく食べました。
 気になってグループ企業を見ていたら(参照)、うどんの「はなまる」も吉野家の系列でしたか。
 というわけで、(株)吉野家ディー・アンド・シー (9861) の株式の情報も見ていたら、株主優待(参照)には三百円単位のサービス券がある。なるほど、それで某若手投資家は牛丼食ってるわけか。
 ところで、吉野家、吉野家と書いているけど、この「吉」の字は吉野家のそれとは違うって知ってました。あ、知ってましたか。
(ではまた。)

| | コメント (5) | トラックバック (4)

2005.08.22

極東ブログ、二年

 内輪ネタ。先日の十四日、極東ブログが二周年を迎えた。その日に書こうかなと思っている内に他の話題に押された。そしてそのことに気が付いた人もないほどのネタなのでスルーしてようかとも思ったが、自分なりの感傷は多少あるので少し書いてみたい。
 二年もよくやったなぁと思う。しかも休みなし。我ながら少し呆れるが、内容は別としてこういう根気というか奇妙な忍耐というのは自分にはあるのかもしれない。普通ならやんちゃ盛りの高校生のときでも私は皆勤賞を得た。高校生の時の自分にもういちど挨拶してみたい気持ちもある。やぁ、俺は変わったけど変わらないところもあるぜ。
 極東ブログは当然だがいつか終わる。有料契約なので、私がいなくなればこのブログはネットから消えてしまうだろう。それでいいやと思う反面、ちょっとさみしい気もするので、身近な人には製本にして残しておきたいような気もしていた。
 そんなおり、不思議なことに思いが通じたのか、篤志のかたから、ココログ出版(参照)にしてみませんか、謹呈します、というお話を戴いた。いろいろ考えたのだが、お受けした。嬉しいプレゼントだ。嬉しいものを素直にいただいていいじゃないかと思った。
 実際に作業にかかってみると大変なことだった。想定外というくらいのボリュームがある。なので、ココログ出版を担当されている「あさひ高速印刷」(参照)の担当のかたと相談し、随分煩わせてしまった。ソフトウエア開発でどれだけのデータの負荷に耐えられるかというテストをすることがあるが、まさに極東ブログはココログ出版の耐久力テストみたいだった。これでは、おいそれとあなたのブログを本にしますコンテストにはノミネートされないよね。え? 内容的にボツ。はいはい、わかってますよ。
 でも、できました。篤志のかた、「あさひ高速印刷」さん、ありがとうございました。

製本・極東ブログ

 書棚に入れてみた。今年の五月末まで。各巻四三四ページ全八巻。なんかの全集みたいだ。手にする。念願の縦書き製本ですよ。ちょっと泣けた。
 製本はとてもきれいにできていた。これならみなさん、ココログを使って自家製本ができます。価格も他の類似サービスに比べれば格段に安いです。なにより「あさひ高速印刷」さんは信頼できますよ。
 自家製本としては現状のベストだと思う。もちろん、市販の本のようにはいかない。編集が入らないと本はできないものである。ご存知のとおり、私のブログは誤字脱字が多い。すみません、苦手というのはあるので。
 あと、細かいところでいうと、製本時に反映されるのは本文だけなので、引用(blockquote)などは製本時のスタイルには反映されない。また、他のかたからいただいたコメントを含めるかどうかはオプション。極東ブログとしての公的な価値はみなさんのコメントのほうにあると思っているけど今回の製本は感傷トーンだし、そうでなくてもタフなので入れないことにした。
 こうしたココログ出版のような自家製本がもっと普及したら、校正と製本スタイル編集というのは独立したSOHOビジネスになるだろうなと思う。そういう世界はいつかきっとくると信じたい。
 ついでに余談めくが。今朝新聞の社説を読み、その他気になった記事をブックマークしている最中に、コメントスパムのスクラムを受けた。おやおや。最新コメント欄はいただいたコメントのアクセスの便宜を考えてのことだが、その意図が達成されない時期になったようだ。なので、トップからは外した。
 もちろん、匿名を含めてコメントはオープンにしてある。
 コメントスパムのスクラムが急増したのは、たぶん、今回私が明確に郵政民営化を支持し、小泉首相を支持したことを快く思わない人たちが増えているからなのだろうと思う。
 そして反省してみれば、極東ブログをこれまで支持してくれた人でも、この件で愛想を尽かした人もいるだろう。申し訳ない。
 でも、私は、日本人を信じていますよ。
 日本人が今回の選挙で、郵政民営化を却下し、小泉首相にノーを言うなら、私は、それを日本人の意見だとして受け止めていく。
 私は民主主義を信じている。
 言論テロみたいな真似事をするのではなく、議論をしましょう。日本と世界がどうあるべきか、ブログという民主主義の道具ができたのだから、それを使っていきましょう。
 私はおっちょこちょいだし、この手のパソコン文化に慣れているので、なんとなくブログブームのお先棒をかついでいるように思われることもあるが、いえいえ、そんなふうには自分では思っていない。

| | コメント (16) | トラックバック (2)

2005.08.21

ティッシュ配りについて考える

 「生物から見た世界」という、戦前のドイツの人が書いた本がある(正確にはちと違う)。内容は、ひどく単純に言うと、各種の生物はそれぞれ自分の視点で世界を見ているということ。当然と言えば当然。それを人間の個人差にまで広げるのもなんだが、多少なり人生を生きてみると、同じ人間で、同じ日本人とかで、同じ世界を生きていると思っていても、それぞれ勝手に違った世界を見ているものだ。私は思うのだが、街の見方までがらっと変えてしまうのは、ビラ配りと車椅子の経験だ。後者については別の機会に。

cover
生物から見た世界
 私は一度だけビラを配ったことがある。米国の核兵器に反対しようとかいうシロモノだ。お世話になった先生の手前、嫌ともいえない状況にあった。二十代前半のこと、私はノンポリだった。それでもソ連の核兵器はどうなんだろとかぽかーんと思った。さすがに参加しなかったけど、ダイインという、路上で死んだふりパフォーマンスもあった。
 ビラ配りをやってみると、けっこう大変な仕事だった。恥ずかしいのである。なんでこんなことしているんだろとか思う。そのうち、なんであれやっているんだからきちんとやろうとか思い直す。だが、ビラは受け取ってはもらえない。道行く人はすげない。などなど。もうこんなのやだなと思った。世界観は変わった。以降十年くらい、ビラを配っている人がいると必ず受け取ることにした。
 ティッシュ配りも必ず受け取っていた。ティッシュが欲しいわけではない。無料のティッシュは薄いし固いので好きではない。でも、断れない。ようやく、最近、受け取らなくなった。すみませんねぇ、と小声で言って通り過ぎる。
 先日、東京郊外の街を歩いていて、あれっと思ったのだが、ティッシュ配りの女の子が、かわいい。えっ!とかときめく歳でもないが、昔はそうだったかなと記憶を辿る。わからない。気になって他を見回してみた。あくまで傾向としては、という限定なんだけど、ティッシュ配りの女の子がかわいい。世の中どうなったのか?
cover
さおだけ屋は
なぜ潰れないのか?
 さらに考えてみる。かわいい女性のほうがティッシュ配りにとって効率がいい。だから、この作業もある種専門化しているのか。我ながら悪くない仮説だが、さてと算盤を弾く。時給はいくらだろう? 千円くらいかな。この仕事、できて三時間というところ。手取りで一日三千円。あまりよい仕事でもなさげ。その程度の額なら、ちょっと小ずるい知恵があれば別の方法でゲットできそうだし、というか、以前はそうなっていたはずだ。なにか世の中変わったのか?
 仮説を足す。ティッシュ配りの専門要員というのはいなくて、別のバイトの順繰りなんじゃないか。あるいは、実は、あの女性たちは、主婦なんじゃないか。わからん。訊いてみる? キモワルがられるよな。
 なんて思っていたら、通販生活秋号に「ティッシュ配りの徹底検証」が載っていた。辛酸なめ子まで憲法九条は禿同みたいなことを書いているおまけの冊子は速攻で捨てて、読んでみた。なるほど。
 ティッシュ配りのメッカは新宿南口だそうである。ほぉ。一個の原価は六円だそうだ。ほぉ。大阪では「毎度ぉ!」とか言って渡すらしい。ほぉ。ストレッチマンもいると効率がよろしい。嘘。
 配布専用員というのもあるらしい。私の仮説は間違っていたのか。
 肝心の時給だが、千二百円で一日三時間くらいらしい。それは上限価格だろうから、このあたりの私の仮説はあたり。
 ちょっと意外だったのは、ティッシュ配りは、街金の広告としてはあまり効果はないそうだ。街金としては親愛の気持ちの表現みたいなものらしい。そうかもしれないなとは思う。
 もっとも、ジャンルによっては効果はあるだろう。そういえば、私が三十代のころだが、人に連れられて女性がお酌する飲み屋に行ったことがあるが、女性と向き合って話題もない。とはいえにらめっこもなんなのでモヒカンっぽく「なんでここで働いているの?」と訊いてみた。答えは、ティッシュ広告で募集していたのだそうだ。そういうティッシュ見たことないなと答えると、彼女は、あんた馬鹿?みたいな唖然とした顔をした。「女性に配るのよぉ」「そうか」と答えると、彼女は苦笑した。
 今思うと、なんであれ笑わせたら勝ちだよなと思うが、当時はそんな知恵も回らないのであった。

| | コメント (11) | トラックバック (3)

2005.08.20

郵政民営化問題:ワシントンポストとフィナンシャルタイムズ

 今朝の新聞社説やネットの意見などを散見すると、郵政民営化問題を主題に取り上げるのはおかしいとか、郵政民営化問題はたいした問題じゃないといった論が目立つように思えた。いろいろな意見があってもいいと思う。なので、私は全然そうは思わない。
 ちょっと偽悪的に言うと、そんな意見、G8を構成するような先進民主主義国( leading industrial democracies)の論調では見たこともないな。もちろん、それほど各種の議論を見てないせいもあるのだろう。また、郵政民営化の問題は極めて日本の国益に関係しているので海外の意見など参考にもならないという意見もあるかもしれない。
 でも、私の考えでは郵政民営化と日本の政治の未来は、先進民主主義国にもある程度重要な問題だ。なので、日本内の意見と先進民主主義国の意見がそう食い違うというのは、ありえないんじゃないか。
 とはいえ、そのあたり簡単にワシントンポストとフィナンシャルタイムズの意見についてメモしておいてもいいだろう。
 この話題について、ワシントンポストの記事は、十四日付の”The Stakes in Japan's Vote”(参照)が妥当なところだろう。


We hope that Mr. Koizumi wins his political gamble and holds on to a parliamentary majority in the election on Sept. 11.

 まず、明確に、小泉にこの選挙で勝ってほしいとしている。こういうざっくりとした意見をいうのが米国の論調の特徴かもしれない。

The vote will be a referendum on his plan to privatize Japan's postal savings system, which has amassed an astonishing $3 trillion in deposits by offering above-market interest rates to savers; a good chunk of this capital gets used to finance pork-barrel infrastructure projects.

 ここでワシントンポストは"referendum"(レファレンダム)としている。この認識がいい。つまり、憲法制定や独立なみの民意が問われているというのだ。
 考えてみればあたりまえのことで、この選挙で日本国民の富の行く末を問うのだからそれだけの重みがある。なのに、郵政民営化問題を主題に取り上げるのはおかしいとか、郵政民営化問題はたいした問題じゃないとかいうのは、民主主義国家というものがわかってねーんじゃないかとか毒つきたくなるが、まぁまぁそんなこと言うもんじゃないよ、と。

Privatizing this system so that capital is allocated according to market criteria would boost Japan's economic efficiency. It would also deprive the ruling LDP of a vote-buying slush fund, which is why reform is at once urgent and difficult.

 これはおまけ。海外からも抵抗勢力なんて"pork-barrel infrastructure projects"と見えているわけだ。そりゃそうでしょ。
 米国側がこうした明確な態度を取るのは、世界経済を日本にも支えてほしいという背景がある。

A more dynamic Japan would buy more imports, both from the United States and from its Asian trading partners, which in turn would trim the unsustainable U.S. trade deficit. It would also allow the world economy to survive a U.S. slowdown that might come, for example, if home prices level off and mortgage refinancing slows.

 ドルがへたったときには助けてくれと言うのだ。あまりに赤裸々な本音だけど、現代の世界というのはそういうものだろう。
 次はフィナンシャルタイムズ。十一日付の”Koizumi's gamble”(参照)が標題からもわかるようにこの問題を扱っている。

The election due on September 11 essentially has been turned into a referendum on reform.

 フィナンシャルタイムズも、今回の選挙を改革のためのレファレンダムとしている。が、一見して論調はワシントンポストより醒めている。話は、民主党が勝つこともありうるだろうし、それも日本の政治には有益かもしれない、ともしている。
 が、読みづけるとそう醒めているわけでもないか。

The real risk in Mr Koizumi's move, however, lies in the possibility that neither the LDP nor the DPJ win enough seats to form a government. Mr Koizumi would then probably be replaced with a compromise candidate as leader of the LDP, who could woo the post office rebels back in order to form a government. This would hand victory to the anti-reform rebels and thereby entrench the depressing lesson that a reform-minded programme with a clear-cut ideological stance is an electoral liability in Japanese politics. Japan's democracy, not to mention its economy, would emerge impoverished.

 小泉自民党であれ民主党であれ、この選挙で十分な議席が取れなければ、自民党は不安定になり、抵抗勢力が返り咲くし、そうなれば"the depressing lesson"だぜ。気が滅入るような教訓ということになる。経済問題だけではない、日本の民主主義が弱体化するだろう…と話が進む。
 英国流でもってまわった言い方だが、民主党が圧倒するか小泉自民党が圧倒するかのいずれかしかないだろうということだ。民主党にそれができますかということでもある。
 最後の締めは含蓄深い

Building on the credit he has won for perking up Japan's economy, Mr Koizumi therefore needs to spare no effort in explaining to voters why the country's ageing population and feeble growth rate require further reforms. In doing so, he can exploit the DPJ's opportunistic decision to oppose postal privatisation, which dented its reformist credentials. Having been brave enough to create this window of opportunity, Mr Koizumi now needs to use it deftly.

 私の読みが勘違いしているかもしれないが、結論的には、フィナンシャルタイムズは、ジョンブル的に小泉を叱咤・激励していると理解したい。

| | コメント (35) | トラックバック (7)

2005.08.19

イラク内戦の危機について朝日新聞とフィナンシャルタイムズ

 今日の朝日新聞社説”イラク 内戦の瀬戸際だ ”(参照)は標題通り、イラクが内戦に陥りかねない状況について述べている。こうした視点は朝日新聞に限らず、八日付のフィナンシャルタイムズ社説”Iraq's slow slide into civil war”(参照)にもあった。このエントリでは、両紙の主張を簡単に比較してみたいと思う。
 朝日新聞社説からは状況がわかりづらい。


 憲法作りが難航しているのは、旧フセイン政権を支えたイスラム教スンニ派と、新政府で主導権を握ったシーア派や自治色を強めるクルド人勢力との間で、厳しい対立が続いているためだ。地域の自治をどこまで認めるか、イスラム教を憲法でどう位置づけるか、イラク経済を支える原油収入をどう配分するか、などで大きな溝ができているという。

 フセイン体制を支えたスンニ派に対して、シーア派とクルド人が、自治、憲法の位置づけ、原油収入で対立していると朝日新聞は言うのだが、こうした利害対立はどの国でも見られるものであり、内戦に直結するものではない。
 だが、この段落はいきなり次に続く。

 その対立を象徴するように、バグダッドを中心に、連日のようにテロの嵐が吹き荒れ、多くの市民がバスターミナルや病院などの前で犠牲になっている。
 油田地帯のある北部はクルド人が、南部はシーア派が押さえている。テロの背景には、原油収入が自分たちには回ってこないというスンニ派の不安がある。

 ここが実にわからりづらいのだが、文脈を素直に読んで判断すると、テロを行っているのは、スンニ派だということだろうか。そして、そのテロは彼らの不安から肯定されると朝日新聞は見ているのだろうか。そして結局のところ、対立は石油利権が原因という朝日新聞は主張したいように読める。
 また、この事態と米軍の関係について朝日新聞はこう述べている。

 現在の混乱は、イラク国内の政治勢力同士の対立から生じている。「外国から侵入した反米武装勢力が爆弾テロを仕掛けている」と米国が説明してきた図式は、とうに崩れているというべきだろう。米兵は敵を見失い、治安の維持という目的を達成できず、死傷者の数をふやしている。
 内戦の瀬戸際にあるイラクの状態を打開するには、どうしたらよいのか。外国軍が治安面で手助けしてイラクの自立を促すという再建策が事実上、破綻(はたん)しているという現状を、まず素直に認めることだ。そのうえで、イラク再生の道筋をもう一度考え直す時期に来ている。
 現に「有志連合」の多国籍軍から撤退する国が相次いでいる。段階的、地域的に外国軍を撤収し、不完全な統治であろうとも「イラク人によるイラク再建」に委ねることを目指すべきだ。

 つまり、米軍を含め、多国籍軍がイラクから撤退してイラク人に任せろというのだが、この主張は先の、イラク内での抗争とどう関係するのかについては触れていない。朝日新聞の主張は、スンニ派が行っているらしいテロ活動は米軍が撤退することで鎮静するということだろうか。非常識な議論に思える。
 フィナンシャルタイムズはどう事態をとらえているだろうか。

Sunni insurgents have been bent on igniting such a war since the assassination of Ayatollah Mohammed Baqr al-Hakim and about 100 Shia worshippers at the Imam Ali shrine in Najaf nearly two years ago. The strategy is explicit among jihadis such as Abu Musab al-Zarqawi, whose group appears more interested in murdering Shias than Americans.

 フィナンシャルタイムズは、スンニ派によるシーア派の弾圧は現在に始まったものではなく、二年前にも百人からの虐殺を行っていることを注視している。また、対外勢力であるザルカウイももはや米軍よりシーア派を狙っているとしている。
 これらの背景は石油利権というよりより端的に民族的な問題だろうともしている。

But it also motivates Sunni supremacists from the deposed Ba'ath party and the leading tribes, enraged that the US invasion has placed Iraq's majority Shia in the saddle.

 特に、日本ではあまり話題とされたいないが、サウジのワハブ派はシーア派を嫌悪しており、イラク内にも影響を及ぼそうとしている。

Hundreds of Saudis, raised on Wahabi totalitarianism, are flooding into Iraq to kill the "apostate" Shia.

 クルドについても対外的に不穏な背景がある。トルコ・サイドのクルドの関連があるからだ。

Turkey is on a hair-trigger to enter northern Iraq if the Kurds move further towards independence.

 こした事態の認識に対して、フィナンシャルタイムズは、朝日新聞のように米軍の撤退を説くということはしていない。むしろ、米軍の楽観視を危険な兆候と見ている。
 とはいえ、フィナンシャルタイムズも現状ではスンニ派の国政参加をより促すべきだろうとしているだけで、有効な提言はできていない。

| | コメント (14) | トラックバック (2)

2005.08.18

ロナルド・ドーア先生のフィナンシャルタイムズ寄稿

 エントリを起こすような話でもないけど、それを言うならこれまでもけっこうどうでもいい話を書いてきたので、ちょっこし、ロナルド・ドーア先生が先日八日のフィナンシャルタイムズに寄稿した”A contemporary dilemma haunted by history”(参照)について触れておこう。

cover
日本型資本主義と
市場主義の衝突
日・独対
アングロサクソン
 批難する意図はないのだが、この寄稿がなんとも奇妙な形で日本のブログに引用されているみたいなのがよくわからない。ので、曖昧な言い方になってしまうのだが、その受け止め方は、まるで郵政民営化は欧米の陰謀だといったふうでもある。
 決まり切って冒頭が引用される。

Koizumi's Snap Election: a contemporary dilemma haunted by history
By Ronald Dore

Koizumi Junichiro, Japan's prime minister, has lost the vote on his grand scheme to privatise the country's post office with its vast savings pool and will go to the polls. For now, the village-pump communitarian face of Japanese conservatism has won out over anti-bureaucratic, privatising radicalism. The global finance industry will have to wait a little longer to get its hands on that Dollars 3,000 billion of Japanese savings.


 この冒頭は、私のブログのエントリに溢れるどうでもいいような余談の枕話にすぎないのだが、なにか面白いのだろうか。試訳してみる。

小泉首相の脊髄反射的選挙:歴史に拘泥する現代の矛盾
ロナルド・ドーア
 日本の首相小泉純一郎は、巨額の貯金を抱えた日本郵政公社を民営化するという基本計画が信任されなかったので、選挙に持ち込んだ。現状では、村落依存の日本の保守派が持つ共産主義者的な側面が、反官僚主義や民営化改革主義に打ち勝った。世界の金融産業が、日本の抱え込んだ三兆ドルを取り扱えるようになるのはもうしばらく待たなくてはならないだろう。

 というわけで、で?というくらいの話の枕だ。
 が、引用最終文の"get its hands on"というのを、「手を付ける」だから「せしめる」と訳して、だから日本の富の三兆ドルをかすめ取ろうとしている、と解釈したのか。そう訳せないことはないとは思うし、日本語がお達者な変人ドーア先生でもあるのでその含みがないとは言わないし、自分の訳がいいとは思わないけど、それでも、その解釈にはちょっと絶句する。
 というのは、この短い段落を見るとわかるけど、日本人は保守派という共産主義者のためにカネを吸い取られていたという含みがあるし、官僚制や民営化に反対する勢力がそうした共産主義者に負かされちゃったよというトーンがある。ので、そうした文脈からはそう勝手に誤解のできる話ではないと思うのだが。
 そしてなにより、この寄稿、この冒頭はただの枕なんだよ。こう続く。

But the snap election next month is likely to focus as much on the dire state of Japan's relations with China and Korea as on privatisation. Here at issue is the other face of Japanese conservatism: the reluctance to feel guilty about the war. The key symbol of that reluctance has been Mr Koizumi's visits to the Yasukuni shrine in Tokyo to pay respects to Japan's war dead.

 というわけで、小泉首相は郵政民営化問題で選挙を問おうとしたのだけど、中韓関係の泥沼状態のほうが注目されるかもよ、と話が続き、実際のところ、この寄稿は全文読んでみると、そういう話が続いている。
 くどいけど、ドーア先生のこの寄稿のテーマは全然郵政民営化じゃない。フィナンシャルタイムズが扱った郵政民営化の記事を取り上げたいなら、同じく八日付けの”Closing the piggy bank”(参照)のほうがいい。こっちは正式に社説だし。

There is a chance the bill will not make it. That would provoke a political crisis when Japan has more pressing things to worry about.

The post office is the world's biggest bank and insurance company, which happens to own a side business delivering mail. The main point of privatisation is to encourage better allocation of its huge Y350,000bn (£1,800bn) pool of savings. The post office funnels these into government bonds, encouraging politicians to spend beyond their means, and into a murky second budget that pays for roads, bridges and sundry political favours.


 というわけで、日本の行く末をごく普通に憂慮しているし、郵政のカネの正体を"a murky second budget"ときっちり書いている。
 話をドーア先生の寄稿に戻す。
cover
働くということ
グローバル化と
労働の新しい意味
 この寄稿は、郵政民営化を扱ったものではないというので、その文脈で引用したりするのは無意味なのだが、さて当のテーマである日本の歴史問題として読むと、これが中国様の息がかかりぎみのフィナンシャルタイムズにしてはなかなかいい線のお話になっていた。簡単に言うと、中韓や朝日新聞みたいなその日本内シンパの歴史認識とは明確に違っている。日本の戦争についてこう言っている。

It was a racial war, but the Japanese had no genocidal project equal to the Nazis' systematic slaughter of Jews and Gypsies.

They were racists, yes, but all imperialists were racists.


 日本の戦争に人種問題は関係していたが、欧州のようなものではなかったし、帝国主義の時代とはそういうものだとさっぱりとドーアは割り切っている。
 じゃなぜ問題になるのか。

The big difference was that the Japanese came too late. And lost. The winners could declare the imperial age over, cede their colonies and claim they had saved the world for freedom and democracy.

 日本が帝国主義の潮流に乗ったのは遅かったし、なにより、負けたからだよ、というわけだ。そのとおり。英国みたいに戦争に勝っていたら、帝国主義の時代は終わったとか言える(言うだけだけど)わけだ。
 じゃ、なぜそうさっぱりと日本は割り切れないのか。

Why would mainstream Japanese politicians hesitate to talk in these terms? Probably because it would upset too many powerful Americans.

 というわけで、日本を負かした米国人が恐いのでしょうというわけだ。
 いやはや、まったくそのとおり。ということで、この先のオチになるキ※タマねーのか河野洋平の話は割愛して、このたるいエントリもおしまい。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2005.08.17

スティーブン・ヴィンセントが最後に伝えたこと

 少し旧聞になる。今月の3日のことだ。イラク南部バスラで、米国人ジャーナリスト、スティーブン・ヴィンセントの遺体が発見された。頭部を何度も銃撃されての死だ。彼は、その前日に通訳のイラク人女性とともにテロリストに拉致されていたらしい。事件の背後関係や詳細については、はっきりしてないようだが、彼が著名なジャーナリストであるために狙われていたようでもある。もっと限定的に、七月三十一日付のニューヨーク・タイムズの寄稿が原因であったのかもしれない。
 イラクはどうなっているのか。ヴィンセント殺害の背景は何か。
 今日のニュースによると、イラクの正統政府樹立につながる新憲法の起草作業が一週間ほど延期されたらしい。が、いずれにせよ憲法成立は大詰めにきている。そのため、その後のイラク政府への影響力維持を狙って反政府活動が盛んになっており、その巻き添えで、米兵の死者も増えてきている。が、気になって国内のニュースを見ると、こうした動向は単純に反米活動としてまとめられているふうでもある。
 ヴィンセントによるニューヨーク・タイムズの寄稿”Switched Off In Basra ”(参照)は、こうした状況に必然的に示唆深いものになっている。彼は英軍とともに行動しながら、イラクの現状をレポートしている。ポイントは、宗教勢力による民衆の圧政にある。イラクの警察組織までもが宗教的な勢力活動の一端となっているようだ。そしてその最悪な状況について、噂を交えてこう書いている。


An Iraqi police lieutenant, who for obvious reasons asked to remain anonymous, confirmed to me the widespread rumors that a few police officers are perpetrating many of the hundreds of assassinations --- mostly of former Baath Party members --- that take place in Basra each month. He told me that there is even a sort of "death car": a white Toyota Mark II that glides through the city streets, carrying off-duty police officers in the pay of extremist religious groups to their next assignment.

 こうした状況に英米兵は、それは多文化の宗教の問題だとして関わっていない状況も報告されている。ヴィンセントはこの状況にこう述べている。

In other words, real security reform requires psychological as well as physical training. Unless the British include in their security sector reform strategy some basic lessons in democratic principles, Basra risks falling further under the sway of Islamic extremists and their Western-trained police enforcers.

 彼は微妙な書き方をしているので、私もちょっと自分なりの敷衍を避けたいように思うが、それでも、現在のイラクの地だからこそ、"democratic principles"の価値が強く再認識されていたとは言えるだろう。
 ヴィンセントの事実上のブログの最後は、”In the Red Zone”の”THE NAIVE AMERICAN”(参照)にある。今となっては痛ましい思いがする。
 この遺書となったエントリをどう読むべきか。
 テレグラフ”Don't leave Iraq alone”(参照)はこう取り上げていた。

Mr Vincent wrote of one telling conversation in which a young, secular Iraqi woman railed against the stupidity and misogyny of the religious parties, and asked her American companions exasperatedly: "How can you say you cannot judge them? Why shouldn't you apply your own cultural values?"

 英語が読みづらいかもしれないが、あえて試訳はつけない。
 テレグラフは、ヴィンセントが記したそのイラクの人の問いかけに、"Indeed so."と答えた。もちろん、英国の状況がテレグラフの主張の背景にはある。

In fact, many Britons who supported the war - including significant voices on the British Left - did so for strongly moral reasons. Saddam Hussein had repeatedly defied international law and effected the vilest tortures upon the Iraqi people. The fact that the West had shored up his regime for strategic reasons in the past, and later let down those Iraqi Shi'ites who dared to rebel in 1991, was no argument for doing so in perpetuity.

 イラク戦争は正しかったかという議論は尽きない。が、テレグラフは簡素にこう言っている、英国民が戦争を支持したのは、"moral reasons"、道徳的な理由からだった。
 暴虐があるとき、人は、道徳的な理由で戦争を起こすことがある。こうした話の関連は”極東ブログ: [書評]戦争を知るための平和入門(高柳先男)”(参照)で触れたので繰り返さない。
 イラクの現状というとき、そこでジャーナリストがどう生きてどう死んだのかは私には重要に思える。命をかけて、最後になにを問いかけたのか。それをどう受け止めるべきか。私は、安易に考えるべきではないと思う。
 とばっちりのような言い方になってしまうが、ブログ「ニュースの現場で考えること」の今日のエントリ”「イラクの子供がこんな死に方をするときに」”(参照)を読んで、私は落胆した。

私は、このイラク戦争を支持する人の気が知れません。なぜっかって? 「支持」するとは、それを認めることです。積極的支持か、消極的支持か、そんな言葉遊びは別にして、上記のエントリにあるような当事者(犠牲者たち)と面と向かった際、その相手の目を見て、「おれはこの行為(=あなたの肉親が殺された戦闘行為)を支持しているんだ」と言い放つことと同義です。

そんなことは、私はできない。だからイラク戦争もそれに加担するあらゆる行為や言説を、私は支持しません。


 私は、このエントリに、「なぜ、即断せず考え続けないのか」と反論したい。
 なぜ、一人のジャーナリストが命をかけて、ニュースの現場であげた声を聞かず、教条主義に陥ってしまうのかと問いたい。

| | コメント (6) | トラックバック (3)

2005.08.16

郵政民営化のダークサイド

 郵政民営化のダークサイド…その暗黒面…とはいえ、半分はネタです、最初に断っておくけど。ただ、釣りとか意図しているわけでもないし、おふざけというのでもなく、一連のエントリで「ウォルフレン教授のやさしい日本経済(カレル・ヴァン ウォルフレン)」(参照)に触れた手前、ウォルフレンの関連議論で気になるところをちょっとメモしておくというくらいのこと。タルネタに近いエントリだ。
 私のスタンスとしては、郵政民営化賛成っていうかそれっきゃないでしょ、だから、小泉続投支持ということに変わりはない。
 むしろ、このエントリはウォルフレンと私の考えの相違のような意味合いのメモにしたい。
 とはいえ、まず、ウォルフレンの意見と私の考えとで、あまり相違していない点から。それは、郵政民営化は緩やかに行うべきことと、具体的に詳細な提案が必要になるということの二点だ。しいてもう一点加えると、郵政民営化が決定され、小泉続投となってもそれほど日本がバラ色になるわけもないということ。もっともそうならなかったら、世界に真の夜がやってきてしまうかもだが…いや、そうもならないか。海外のこの日本の問題への視線からするとそれほどは大問題ともされていない。つまり国際的にはそれほどは大問題でもない。
 さらに、ウォルフレンの指摘するダークサイドの話に入る前の長枕になるが、もうちょい。
 彼は、郵政のカネを第二の国家予算として、こう述べている。


 この巨額な資金による「第二の予算」は、日本の経済構造の発展のなかで、いろいろと重要な役割も果たしてきましから、突然止めてしまうことはできません。ですから、郵貯システムを民営化するのなら、このシステムをどのように運営、管理していくのかを現実に即して考え、提案しなければなりません。現在、郵便貯金は、財務省の資金運用部が集め、一元管理し、運用しています。この資金を使って何をすべきなのか、いろいろな考え方が可能です。

 当然の注だが、郵貯のカネは、現在では、財務省管理下の財投債(事実上国債)と財投機関債(政府保証はないとされているが疑わしい)に分かれている。
 ここで問題になるのは、むしろ、情けないことに今回の民主党の提案(マニフェスト)だ。預入額をいきなり減額するというのだが、正気か。朝日新聞”民主、マニフェストに郵政改革案 公社は維持、郵貯縮小”(参照)によるとこう。

民主党の郵政改革案は、郵貯資金が特殊法人の無駄遣いにつながっていることを指摘。民間資金を公的部門に流す役割を必要最小限に抑えることを目的とする。そのため、郵貯の預け入れ限度額をただちに700万円に引き下げた後、段階的に500万円まで引き下げることを明記する。

 「ただちに」っていうが、「それって取り付け起きないのか」というのはさておき、即座に竹中郵政民営化担当大臣に叩かれた。TBS”竹中担当相、民主党の改革案を批判”(参照)より。

 竹中郵政民営化担当大臣は民主党が郵便貯金の限度額を直ちに700万円に引き下げる計画を打ち出したことについて、「8万人の首切りプランだ」と改めて批判しました。
 竹中大臣は「(郵便貯金の限度額を700万円に引き下げると)活動、資産、収益が縮小する。単純計算で26万人の3割カットで8万人の削減」と述べ、民主党が郵便貯金の限度額を700万円に引き下げるプランについて、「郵政公社の事業規模が縮小し、職員の雇用が維持できない」と批判しました。

 私はこれを聞いて、だめだな民主党というより、竹中がさっと民主党政権下で首切りされる人数を弾いたことに驚いた。逆に言えば、竹中は自プランでは現状の郵政の雇用を検討しているのだろう。もっとも率直に言ってその詳細を私が知るものでもないし、その詳細でどういう結果になるのかもわからない。
 本題に移る。
 ウォルフレンの話で気になること、いわば郵政民営化のダークサイドはこういう話だ。少し長いがやはり引用しよう。

 私は首相になる前の小泉純一郎と、郵貯の民営化について長い時間をかけて議論したことがありますが、少なくとも四年前、彼は根本的なところを、資金運用の二つの役割も、なぜ郵貯があるのかについても理解していませんでした。
 彼が初めて郵貯民営化を主張したとき、このアイデアはどこから出たのか、と私は考えました。おそらく当局の担当者が長期的に考えていくうちに、思いついたものでしょう。担当者自身、自分たちでしてしまった間違った投資を隠すために使おうと考えていたのが、将来ひょっとすると、政府の資金源である財政投融資(郵貯はその主要部分です)が底をつくかもしれない。そこで、二〇〇〇三年に郵政事業を公社にしようと計画したのではないでしょうか。

 言うまでもなく当局というのは大蔵省であり現在の財務省だ。
 ウォルフレンの話を続ける。

 そして郵政を公社化した後で、旧・国鉄のような形で民営化をすすめようとしているのかもしれません。旧・国鉄は世界最大規模の赤字垂れ流し企業でしたが、それを「民営化」することによって、株式を売り、新しい資金創造ができました。NTTが民営化されたとき、その株式総額は、ドイツ一国の株式市場全株式総額を超えると言われたものです。これだけ円を経済に投入する方法があったのかと驚かされました。
 それは新しい形での「創造的な」帳簿つけでした。日本の当局は、歴史上最大の創造的な帳簿つけ名人なのです。

 この話は彼の説明では別カ所につながる。

郵貯制度の民営化はそれほどリスクの多いビジネスではないと思います。
 日本では、これまでも、本当の意味の民間の企業ではない「民間企業」が生まれています。それらは株式化することで利益を上げる以外は、民営化される前の旧態依然とした公社の体質をほとんどそのまま受け継いだ「疑似民間企業」です。
 郵貯もそうなってしまう可能性があります。郵貯を民営化し、実際の企業である中間的な企業を作って、これまでと大差ないシステムをつくってしまえば、非常に「創造的な」会計処理も可能になります。そこで実際に持っている以上のお金があるというイメージを作り出すことも簡単にできます。

cover
ウォルフレン教授の
やさしい日本経済
 さて、このウォルフレン説だが、与太なのだろうか?
 私は、率直にいうとそこがよくわからないし、腹黒い言い方をすれば、たとえそうであってもそれでいいのではないかという感じはする。
 世界は現在カネ余り状態だし、日本がたんまり築き上げた米国債を見かけ上日本に引き戻すようなトリックがそれで可能になるのではないか、とそんな気もする。
 ここでウォルフレンの与太かの話をさておき、関連した、私の懸念もついでに書いておきたい。
 先ほどウォルフレンの話に「現在では資金の流れは違うよ」と指摘した。つまり、無駄遣い・天下り特殊法人も、政府保証のない財投機関債で資金を金融市場を介して得ているのだから、かつてのような「第二の国家予算」といった郵政問題はない、という話がある。これがけっこうネットで支持の高い経済学者までもマジで言っているみたいなので萎えるし、名指しで批判しようものなら面倒なことになるので一般論とするが、現状を考えれば、財投機関債が政府保証なしのわけがない。
 また、財投機関債が買われているのはデフレの結果論だという話もある。私はそれも嘘なんじゃないかと思う。それを証明するためにも、一端、本気で政府保証を外すという意味で郵政民営化を進めてみたらどうかと思う。
 しかし、重要な問題はそれではない。もし私の予測が正しく、財投機関債ががたがたと消えていくとして(その事態は危険なことなので暫時行う必要があるだろうが)、そうなると、特殊法人の資金繰りは結局以前のように財投債(国債)だけとなるのだが、そのカネはどうするのという問題が残る。別の言い方をすれば、政府保証がないとされる財投機関債が成立するくらいなら、そりゃあんさん、民間企業になりなさい、ということだ。そうもいかないのが国家だ。
 当たり前のことだが、国家は採算の合わない事業もしなくてはならないし、そのための資金も必要だ。そしてそれは結局、国債になるというなら、そして結局、カネのあるところに頼むしかない。ということで、郵貯が「創造的な」会計でカネを保持して見せるというのも、そう悪いことではないのではないか(…ネットで人気の金融政策で結局課税と同様の効果で国民のカネをかすめとっていくよりも…)。
 他のダークサイドとしては郵政民営化は年金問題を実質的に解決しないための壮大な煙幕かもしれないなという思いはある。国のビギーバンクには年金もあるからだ。が、その話は今日は触れない。
 余談ついでだが、ネットでよく見かける外資が郵政のカネを狙っている説は笑い飛ばしていい与太だろう。むしろ、これだけのカネを扱えるファンドマネージャーが日本にいないのだから、外資に助けてもらうしかないでしょ、というべきなのではないか。

| | コメント (15) | トラックバック (10)

2005.08.15

小泉独裁批判が意味すること

 郵政民営化が参院で否決されたことで、小泉総理は衆院のほうを解散した。それは傲慢であり独裁的だという批判をよく聞いた。私はそれにアンビバレンツな思いを抱いている。が、どちらかというと、小泉が行使した権力こそが現在の状況下では総理のリーダーシップに必要な条件をなすのではないかと思うからだ。そのあたりを少し書いておきたい。

cover
ウォルフレン教授の
やさしい日本経済
 話はまた「ウォルフレン教授のやさしい日本経済(カレル・ヴァン ウォルフレン)」(参照)から切り出したい。この本で著者ウォルフレンは、日本の政治経済問題を扱うにあたり、アカウンタビリティ(accountability)という言葉を多用している。もともとこの言葉を流行らせた張本人が彼なのだから当然と言っていいかもしれない。彼はアカウンタビリティを「説明責任」としている。これは、「なぜこういう政策をとったのか」をきちんと説明・開示する能力であり、これが日本ではもっとも欠落しているとして日本の政治・経済システムを批判する。

 アカウンタビリティの問題は非常に根深いものがあります。日本は現代に至る数百年の歴史のなかで、このシステムを持つことがありませんでした。日本の政府、権力機構にあっては、結局誰がいちばん権力を持ち、誰がいちばんリーダーシップを発揮しているのかわからないという状況でした。
 たとえば朝廷や大臣たちは名目上は権力を握っているはずですが、実際には誰が重要な決定をしているのか、誰が影響力を持って全体を動かしているのかはっきりしない。実質的な最高権力者をたどって、そうではない人を消去していくと誰も残らないという結果になってしまう。こうした権力の分散化は、千何百年たった現在も変わっていないように見えます。
 正式には、内閣総理大臣と閣僚がすべての政府機関の長となって行政をコントロールすることになっているはずですが、実際に選出された政治家にはシンボル的な権力しかありません。誰が総理になっても、閣僚になっても変わらないのが実情です。

 私たち日本人はそのことをよく知っている。まさに、誰が総理になっても、閣僚になっても変わらないのが実情です、ということを。
 ウォルフレンは日本人とこの問題を語りつづけ、そのようすをこうまとめている。

 ディスカッションをするとき、人によっては「状況はもう絶望的です」と結論づけることも時折ありました。なかには、「日本人は本当の危機が迫って否応なく対処を迫られない限り、この問題から脱却できないのではないか」という極端な意見を持っている人もいました。

 この本を読むと、ウォルフレン自身、その極端な意見に近いのではないかと私は思うが、重要なのは「本当の危機」だ。が、話をもう少し戻す。
 小泉になにが出来たか? 何もできないという意見を十分に否定することは難しいだろうと思う。そして、それは誰が総理になっても何もできないという公理のようなものの必然的な帰結である。ウォルフレン自身もこう小泉を語る。

 小泉首相は、彼が首相になってから何カ月もの間、多くの人が期待していたことを、実現できていません。しかし、それは彼のせいではありません。これは日本の政治経済の仕組みから来ている問題なのです。

 少し長くなるけど、とても重要なのはこの仕組みなので、さらに引用したい。

しかし日本の政治が抱えている問題は、トップのリーダーシップ欠如にあるわけではありません。日本の政治の構造は、リーダーシップの資質を備えた人たちであっても、その指導力を政策立案の形で発揮できないようになっているのです。政治家が政治システムの周辺に追いやられてしまっているというのが、日本の政治の構造なのです。
 日本では、公式には政治家がコントロールしているとされていますが、実際に権力をもっているのは政治家ではなく官僚であり、官庁です。
 日本には政治のエリートが存在します。これはビジネスのヒエラルキー構造のトップと、官僚機構のトップの人たちから構成されています。そして彼らは、何らかの形で自民党に結びついています。
 つまり、欧米諸国に確立されているような政治のリーダーシップは、日本ではほとんど存在しないということです。政治家が自ら政策立案にイニシアティブをとろうとした途端に、彼は政治のシステムから引きずり下ろされてしまうのが、日本政治のシステムです。

 ここで合いの手を入れると、今まさに小泉が引きずり下ろされるかの瀬戸際でもある。
 続けよう。

 ですから、小泉首相が真の構造改革を実現できなかったとしても、彼の責任を問うてはいけません。小泉首相は一生懸命改革しようとしています。そこでは、日本の総理がリーダーシップとしての資質を持っていないという批判も、まったく的外れです。日本の統治システムの構造を変えない限り、政治家のリーダーシップは実現されないからです。

 なので、こうなる。ウォルフレンはこう言う。

しかし小泉首相をひどい首相だと言うつもりはありません。過去数十年の歴代首相も、同じようなものだったのですから…。

 まったくダメなのか。どうしたらいいのか。
 ウォルフレンは次のようなプランを出した。二〇〇一年のことである。彼のプランが実施されない怒りがこの本を書き上げたのだと言っていいのだろうとは思う。

 私が本書で説明してきたことを小泉首相が十分に理解していたならば、そして今の暗い日本を、新たな経済的活力に満ちた元気いっぱいの日本に変えたいと本気で思っていたのであれば、二〇〇〇一年の参院選のときに衆院選も同時に実施することができたはずです。衆議院を解散して総辞職した後、新党を結成する道もあったはずです。そうしていたならば、彼はおそらく衆院選で勝利をおさめていたことでしょう。そして、野党のかなりの数の議員と自民党の一部議員が彼に協力するようになっていたでしょう。そのような劇的かつ勇気ある行動に出ていたら、本当の意味で効果的な政策転換を実行できる態勢になっていたはずです。
 私は、彼が首相になってから数週間のうちに受けたいくつものインタビューで、これらの点をすべて指摘しました。世論調査で彼の支持率が途方もなく高かったころでしたが、そのときからもう、彼が思いきった行動に出ないかぎり真の改革の可能性はないことがわかっていたからです。

 そして、この文脈が先の「しかし小泉首相をひどい首相だと言うつもりはありません」と続く。
 ウォルフレンは正しいだろうか。正しかっただろうか?
 私はウォルフレンは間違っていたのだと思うし、小泉首相は正しかったのだと思う。いや、ようやくそう思うようになった。
 なぜか。
 ウォルフレンが頼みとしているのは、結局のところ、「世論調査で彼の支持率が途方もなく高かった」というあの熱狂である。私は、あの熱狂のなかで小泉に強権が行かなくてよかったのだと考える。それこそが衆愚政治であり、民主主義が独裁を生む道なのだと考えるからだ。
 むしろ、今、彼の正しさが本当に問われ、罵倒まみれになり(おかげでこちたらまでとばっちりがくる有様だが)、そうした多事争論のなかで彼をあらためて国民が支持できるかということが国民の決意になるのだと思う。
 そして、このエントリでは十分に触れられないが、私は今決断を必要とする危機的な状況になっていると思う。
 ウォルフレンも先の統治システムの説明に続けてこう言っている。

 同じように、首相を公選制で選ぶというシステムも、近い将来実現されることはないでしょう。しかし、政治的な緊急事態が生じた場合には導入されることがあるかもしれません。日本周辺の不確実な政治情勢を考えれば、緊急事態の可能性も否定できません。

 別の言い方をすれば、国民がその危機をどれだけ認識しているかによって、統治システムの変更を起こすようなリーダーシップの確立を必要としているかがわかるのではないか。
 もちろんそこを強調すれば一種の脅しのようなトーンになるだろうから、衆院選と関連づけてその危機を問いたいとは、私は、さらさら思わない。

| | コメント (23) | トラックバック (8)

2005.08.14

郵政民営化反対論の反対論

 それほどリキをいれた話ではないので適当に。六月三〇日の読売新聞に千葉商科大学加藤寛学長が”郵政民営化 反対論封じる5つの原則”という寄稿をしていた。ネットにはソースはないようだ。私も郵政民営化に賛成だが、率直に言うと加藤の意見に全面的に同意というものでもない。が、わかりやすいといえばそうかなとも思うので、参考までに紹介と自分のコメントをまぜて書いておきたい。

cover
税金を払う人使う人
加藤寛・中村うさぎの
激辛問答
 郵政民営化反対論封じる五つの原則というのだが、こんな感じ。

1. 座して死を待つな


 したり顔の評論家がよくいう。「せっかく郵政公社になって頑張っているのだから、あと2年くらい様子をみたら」と。この人は、今の公社がぬれぞうきんを絞って利益を出していることを知っているのだろうか。2年続けて黒字となったが、このままでは次第に衰退していくのは明らかだ。電子情報の時代に、郵便離れが進み、国際宅配便でも後れをとった。

 このあたり私はよくわからないのだが、「郵政公社の採算は問題ない、だから、民営化しなくてよい」とする意見がある。これに対して、上記のように加藤は反論している。私はこの論点にはあまり関心がない。
 やや混乱した印象を受けるが加藤はさらにこう議論をつなげる。前提は郵便局をなくせというわけではないというのだ。

 郵便局は過疎地域でも、スーパーやコンビニを展開せよ、というから無理がある。それよりも地方自治体の事務代行(全国で5兆円市場)をすればいい。介護センターになったり、ワンストップ・サービスを明確に位置づけてもいい。地方の仕事はこれから確実に増えるからこそ、過疎地域の郵便局は必要なのだ。

 私は郵便局の存続にも関心ない。無用なものは自然に淘汰されればいいだろうくらいしか思わないのだが、「地方自治体の事務代行(全国で5兆円市場)」というのは魅惑的でもあるな、ほんとかなとは思う。

2. 二兎(物流と金融)を追う者一兎も得ず


金融と物流産業とは別の世界の原理である。物流のネットは大切にしよう。しかし金融は、官から民に移すべきである。官がカネを集めて国民の金融をせき止めてはならない。

 私にはこれも当たり前なので、端から三事業の一体化は考えてもいない。
 むしろ、これも加藤の余談のほうが面白い。

個々の郵便局は三つの窓口(郵便・簡易保険・郵便貯金)を一体として運営しており、複式簿記を利用していない。つまり近代的経営管理ができていない。今や世界は、国際会計基準で合意し、遅れた日本の金融を排除する動きもある。

 え?ほんとかである。それじゃ中国様と同じレベル…すべてがそうなわけはないか。さて、それってほんとかなと思い返すになんか本当っぽいな。このあたり、民営化論以前の問題のようにも思える。

cover
立国は私なり、公にあらず
日本再生への提言
3. 敵は本能寺にありとして目をそらせるな、臭いは元から断て
いくら公的金融の“出口”である財政投融資を改革したとしても、出城(財投機関)は落とせない。本丸(郵貯と簡保)から援軍がきて挟み撃ちになるからだ。本丸がある限り、出城の改革は中途半端になる。
 これはまったく同意。というか、この話しか自分は関心ない。これについては、思いのたけを半分くらい「極東ブログ: 郵政民営化は重要な問題だと思う」(参照)で書いた。あとの半分はまだ書いてない。

4. 武士の商法を許すまじ


公務員改革も、身分保障が行き過ぎればストのやり放題になる。郵政改革が不首尾に終われば、いくら税金に依存しないとはいえ公務員として威力を温存してしまう。

 私はこの論点もそれほど関心はない。が、この点については先日のエントリのコメントなどで示唆をいただいた。公務員についてはいろいろ思うことがあるが、特に強い思い入れはない。

5. 地方のカネは地方で使え
 これが面白いのだが、この最後の一点は加藤はまだ実現していないと考えている。とすればまともな原則でもないのだが、それでも、面白い。


将来を考えれば特に「地方のカネは地方で使え」の第五原則にたって地域分割へ向かって修正されることは正しい。これができれば、郵貯・簡保の巨大な資金をどう使うか、民業圧迫にならないかといった初歩的反対論は消滅する。

 これには私は同意。というか、日本国憲法というは、事実上の原文である英文を読むとnationとstateを使い分けており、つまり、これって連邦法ではないのか、と考える自分にしてみると、日本は州に解体したほうがいい。日本が州に解体できれば、その従属でいろいろな権力に再組織化が必要になるだろう。

| | コメント (38) | トラックバック (8)

2005.08.13

塩の話

 塩の話。食塩ってやつ。と書き出ししてみて、ふと聖書の句が浮かぶ。
 「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」(マタイ5-13)
 日本人はここで沢庵とか白菜の漬け物とかでイメージしてしまうのではないか。あるいは、それほど気にせず、「ふーん、そりゃそうだ、塩がきいてない料理はまずいからな、クリスチャンというのは、世間の調味料みたいなもんか」と理解しているのではないか。

塚本訳聖書
塚本訳
福音書
 その解釈が間違いだとは言わない。が、塚本訳だとたしかこれを、肉の保存料とし、その肉は神に捧げられたものだとしていた。つまり、世の中はすべて神に捧げられるものでありそれを保つのがクリスチャンだと言うのだ。徹底的に聖書を読み込んだ塚本なのでそうかなとも思うが、捧げ物とまで解釈できるかなという疑問はちょっと残る。
 それでも聖書の世界つまりセムの世界、いや現代風のアラブの世界から西欧の世界までと言っていいだろうが、そこでは塩は肉の保存料というのが基本であり、セム的の世界を現代風に引き継ぐユダヤやイスラムの世界では肉はコシャやハラルとして聖職者が関わって初めて食い物になる。肉というのは極めて宗教的な存在であり、塩もそこに位置づけられるのだろうと思う。つまり、塩というのは、調味料というより保存料としての効き目が重視されているのだろう。
 軽い話を書こうと思ったのに、いきなしうざったい話が多くなったな。すまん。
 ま、話は塩だ。
雪塩
雪塩
 先日「作家」の日垣隆の有料メーリングリストで宮古(正式にはみゃーく)の雪塩の共同販売の話があった。日垣が太鼓判でうまいというのである。売れたか。売れた。けっこうな申し込みがあったというか、予定した在庫は空になったそうだ。私は、苦笑とはまではしないしその価格なら申し込んでもいいかなと思ったが、雪塩はようするにカネさえ出せば楽天で購入できる。
 雪塩については、「ギネス公認宮古島の海の恵み「雪塩」」に成分表のようなのがあり、確かにミネラル分が多いなとは思う。が、私は、これは成分とか味かというより製法がポイントで、曰く、サラサラのパウダー状が使いやすいというかその形状だと口当たりがいいのだろうと思う。天ぷら屋で「お塩でお召し上がりください」とか言われるときの塩とかに向いている。
粟国の塩
粟国の塩
 日垣を批判する意図はさらさらないが、関連の話で伝統的な塩の製法を守るとか言うのがあり、それなら、「粟国の塩」というのが向いているかなとは思う。これは最初から湿気を吸っていて昔の塩というのは、こういうものだったのかと思わせるものがある。粟国の塩は私も沖縄暮らしでよく使っていたし、東京に行くときはよくお土産にした。評判はよかった。
 粟国の塩はうまいか。率直に言うと、私はよくわからない。雪塩もそうだ。基本的に海塩はあまりうまいと思ったことがない。青菜に塩をしたり魚を塩煮(マース煮とかアクアパッツァ)にするときは使う。が、私は塩の良し悪しがわからない。味オンチなのかもしれない。私は自分の食うパンは自分で作るが、粟国の塩を入れるとうまくパンができないなと思う。当たり前かもだが、海塩を使うと一種の硬水みたくなる。海塩はどの塩がいいかというより、どう料理に馴染ませるかが重要なんじゃないかと思うのだが。
 実は私は料理に塩をそれほど使わない。代わりに塩味には醤油を使う。日本食では塩を使う機会が少ないと思うのだが、この話は別の機会に書こう。
 とはいえ、塩がないと困るので、どうするかというと、適当な塩を使っている。「伯方の塩」とか「赤穂 あらなみ塩」とかだ。適当。ただ、これらは振り塩には使わない。また、料理の調味であとひと味塩がというときも振り塩を使う。
アルペンザルツ
アルペンザルツ
 ステーキとか食うのに振り塩で使っていて便利でいいなというのは、「アルペンザルツ」だ。これは岩塩を細かくしてさらっとするようにできているらしい。三枚に下ろした魚に塩とかにも便利だ。料理は塩振り三年というけど、これだとさらっと均等に塩を振ることができる。この並びの「ハーブ入り岩塩 アルペンザルツ 」もよく使う。卵焼きとかに振ってもいい。ドレッシングの塩味にも使える。
 岩塩は適当な大きさのをペッパーミルのようなソルトミルで使うのが基本のようだが、私はこれはうまくいかなかった。
 いずれにしても、私は岩塩が好きだ。こういうのは単に好みの問題もあるのだろう。岩塩といえば、トルコの内陸を旅行したおり、途中で塩の湖というところに立ち寄ったが、湖の岸は氷のような塩の結晶でできていた。舐めてみてしょっぱいのだがうまいなとも思った。
 岩塩らしい岩塩もいいなとは思うが日本では売ってない。というかそこまで興味はないのだが、あらためて楽天を見たら「モンゴルの岩塩」というのがあった。ちょっと高いなという感じはするが気にはなる。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005.08.12

郵政民営化は重要な問題だと思う

 「ウォルフレン教授のやさしい日本経済(カレル・ヴァン ウォルフレン)」(参照)の書評もどきを書いたのは昨年の一二月一二日だった(参照)。昨今の状況に合わせて、二〇〇二年五月に出されたこの本を読み返していろいろ思った。

cover
ウォルフレン教授の
やさしい日本経済
 エントリを書くに当たって、私のモチーフは、単純である。郵政民営化に意義を認めるというものだ。
 ネットなどを見回しても、民主党をはじめ、郵政民営化は問題ではないという意見が予想通り出てきた。だが、私は問題だと思う。
 ウォルフレンはその点をこの本で特に重視しているとはいえないが、再読するに示唆となる点は示していた。

 学習院大学の奥村洋彦教授は「日本は、家計資金の半分以上が、政府の金融機関たとえば郵貯とか年金関係で吸収されてしまうような異常な資金の循環をやめるべきだ」(「公的金融偏重の資金循環是正なくして金融再生なし」『論争東洋経済』二〇〇一年三月)と述べています。
 奥村教授は、このようなお金の循環は資本主義経済では異常なものだと見ています。そして内容的には、日本では家計部門から産業部門へのお金の流れがあるという非常に重要な指摘をしています。実際、日本の家計部門の貯蓄は、高度成長期、日本の産業に体系的な形で流されました。
 郵貯から公的な部分にお金が流れている、というのは、「第二の予算」と呼ばれるお金の流れです。第一の予算のように国会で承認する必要はありませんが、年によっては公式な国家予算と同じぐらいの規模か、ことによるとそれ以上かもしれません。
 不透明なので正確にはつかめませんが、それほど多額であることに間違いはありません。日本の郵貯は世界最大の銀行と言われるほど規模が大きく、きわめて重要です。これは日本のシステムが機能する上で大きな拠り所になっています。

 ウォルフレンが日本経済について見るとき最大のポイントは、家計部門が国家(官僚)を通して産業部門に従属になる点、そして、その国家(日本)が新重商主義(物を外国に売って外貨を稼ぐ)を方針としているという二点だ。
 単純に言えば、郵貯・簡保を解体すればこの仕組みを支える大きなカネの流れが止まる。
 もちろん、ウォルフレンも他の部分で指摘しているように、すでにそれが第二の国家予算となっているがゆえに、早急に制止させることは危険でもある。
 さて、ここで問題がある。すでにこうした議論は過去のものとなったのか、ということだ。つまり、郵貯・簡保が国家の第二の予算となるという悪弊はすでにシステム的に解消されているとする議論は正しいのか。
 二〇〇一年四月「資金運用部資金法等の一部を改正する法律案」の施行により、旧大蔵省資金運用部が廃止され、これに伴い郵便貯金や年金積立金などを預託する制度も廃止となった。そして、官僚天下り・無駄遣いの温床である特殊法人は、政府保証のない財投機関債を発行して金融市場から自主的に資金調達を行うことになった。それができない場合は、政府保証で財投債で資金調達を行う。どちらも、調達先は金融市場ということになる。ちなみに財投債というのは、政府保証なんだから、つまり、国債である。国債というのは、国民の借金であり、これはいずれ税金という形で国民に解決が向けられる。
 繰り返すが、この図柄をそのまま受け取れば、財投債(国債)とは違い、特殊法人の財投機関債は政府保証がないので国家(官僚)との関連も断ち切られる。
 そしてこの図柄に郵貯・簡保の問題はなくなったかに見える。
 が、そうなのか?
 まず、この財投機関債がアテにする金融市場というのは実は郵貯・簡保である。また、財投機関債は本当に政府保証はないのか? それ(政府保証)があればつまりこいつ(財投機関債)の正体は郵貯・簡保をアテにした国債(やがて重税に化けるもの)である。
 このあたりの問題は率直に言って私にはよくわからない。単純な話、財投機関債が政府保証かすらよくわからない。ウォルフレンが言うように「不透明なので正確にはつかめません」という感じもする。ついでに言えば、どうやら、財投機関債以外にも類似の金蔓があるようでもある。
 ただ、わかることはある。無い袖は振れぬの原理から言えば、特殊法人に流れる無責任なカネの入口を閉じてしまえばいいということだ。郵貯・簡保が民営化されれば、原理的には、そうなる。
 郵政民営化は大した問題じゃない論には、別の変奏もある。こうだ。現状の郵政民営化法案では、民間となった新会社も財投機関債や財投債の購入が自主的に継続できる。なので、この点をついて、新会社が財投債(国債)や財投機関債(正体不明)が大量購入されるなら、問題の構造は依然変わらないということになる。よって、郵政民営化は意味がない、と。
 私はそう思わない。
 民間化後にそんなもの(実質国債)を大量購入できるという仮定はそれほど確かなものだと思えないからだ。
 私が、郵政民営化問題はたいしたことじゃない論に一番違和感を持つのは、その内実に詳しいからというより、衆院でのどたばたの経過を思うからだ。
 「極東ブログ: 郵政民営化法案問題をできるだけシンプルに考えてみる」(参照)でも触れたが、衆院でもめにもめたのは、民営化後、いったん市場で売られた金融二社(郵貯・簡保)の株式を、持ち株会社傘下の郵便や窓口網の両社が買い取ることを認め、持ち株会社が完全処分の義務を果たさなくてもペナルティーを科さないとする抜け穴についてだった。
 そこまで、反対勢力がその抜け穴に躍起だったのに、なのに大した意味ないとは、私は到底思えないのだ。
 むしろ、メディアでは既決事項のような抜け穴があると報道したが、これは法文ではなく私的な合意文書に過ぎない。自民党の旧態勢力をぶっとばせばこんなものは反故になる。
 というわけで、私の結論は単純だ。郵政民営化すべきだ。そしてそれは重要な課題だ。

| | コメント (10) | トラックバック (8)

2005.08.11

マレーシアのスモッグ(ヘイズ)

 昨日からGoogle NewsがRSSを配信をはじめたので、RSSリーダーから同種のTopixを外して入れ替えてみた。かくしてぼんやりと世界のニュースのヘッドラインなどを眺めていると、マレーシアのスモッグの話がひっかかった。読みやすいのはBBC”Malaysia haze triggers emergency”(参照)だろうか。標題を見てもわかるように、このスモッグだが、ヘイズと呼ばれている。
 スモッグというと日本では自動車の排気ガスなどが連想されるが、ヘイズの場合は森林火災や焼き畑農業などが主な原因である。
 というわけで、ヘイズの話はマレーシアやインドネシアから毎年のように聞くのだが、どうも今年はかなり深刻になっているようだ。


Malaysia has declared a state of emergency after air pollution in parts of the country reached danger levels.

 「危険レベル」というのは、PL法との知識のある人ならドンビキのレベルでもある。注意、警告といった段階ではなく人命に関係してくる。
 邦文のニュースはないかと検索すると、「アジア・欧州経済情報/NNA: Global Communities」(参照)の十一日付のマレーシアのニュース(参照)で”ヘイズ収まらず、首都圏「危険レベル」[社会]”という記事があった。gooのサイトにも同記事がある(参照)。

インドネシア・スマトラ島の森林火災などによる煙害(ヘイズ)が10日、クアラルンプールを中心に拡大した。首都圏、スランゴール州などで視界が1キロメートル以下に悪化。スランゴール州政府はクラン、シャアラム、スバンジャヤ、プタリンジャヤの大気汚染が「非常に危険な状態」に達したと発表。環境局(DOE)は「大気汚染はモンスーン(偏西風)・シーズンに入る10月まで続く」とみて注意を呼び掛けている。

 gooでは四日付の関連で”【マレーシア】 首都圏でヘイズ拡大、森林火災が原因[社会]”(参照)もあった。

インドネシア・スマトラ島の森林火災や、クアラルンプール郊外のサイバージャヤ周辺の泥炭層(ピート)火災によるヘイズ(煙害)が2日、首都圏はじめ国内各地に拡大した。午前中から視界は徐々に悪くなり、午後4時ごろから急激に悪化。屋外を歩くと煙の臭いが感じられるようになり、ハンカチで口と鼻をふさぐ通行人も多く見られた。環境局は「南西季節風(モンスーン)の影響により、今後数日間はヘイズが続くだろう」とみている。

 基本的には森林火災なのだろう。
 被害から考えると大変な問題なのだが、私は、この手の森林火災は基本的には自然な状態ではなかったかと理解している。ソースは忘れたが、オーストラリアの森林火災についてなにかの記事を読んだとき、そういう説明があった。
 ぐぐってみると、”オーストラリアの火災”(参照)が一番にヒットした。

 火災は生態系における自然現象の一つです。それはこの風光明媚な海浜公園の多様な生息環境にとっても同様です。しかし、火災が動物の個体群に及ぼす複雑な影響については、よくわかっていません。最近オーストラリア東部で発生した大規模な森林火災は、生物多様性の損失に対する防火対策の役割について人々の関心を高める結果となりました。例えば、近年ではお粗末な防火体制のせいでオーストラリア固有の鳥類2種が絶滅し、今も50種以上の鳥類に計り知れない脅威を与え続けています。デビッド・リンデンマイヤー博士は、予め計画された火災に加え、記録に残っている歴史上の火災に対して動物がどのように反応したのかを調べています。過去のデータと実験データを結びつけることによって、資源管理者は防火対策と保全対策の両方を併せて立案できるでしょう。

 基本認識としては森林火災というのは自然現象なのだろう。そして、オーストラリアの場合は、人間以外の視点になるが、マレーシアではそうもいかない。
 こういう問題もあまり単純なものではないなとは思う。ということで、さしてエントリのオチもない。ただ、スモッグというと、これから一週間の東京はよいなと思う。帰省者ラッシュの後東京の人口や活動が激減する。私はこの時期の東京がけっこう好きだ。富士山もよく見えるし。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005.08.10

公明党と共産党に関連して

 最初に誤解なきようお断りなのだが、私にとって、公明党と共産党はどっちが嫌いか甲乙つけがたいほど嫌いな政党なのだが、このエントリは政治的な意図をもって貶めるという趣旨ではない。もっとも、こんな弱小ブログにそんな影響力もないだろう。この二つの政党に関連してなんとなく気になることがあるので書いておきたい、というだけだ。

cover
創価学会
 公明党だが、先日の都議会選でもそうだし、今回の衆院選挙でも結果的にキャスティング・ヴォートの位置になるだろう。つまり、その政策が国政に強い影響力を持つことになる。
 背景に創価学会という宗教団体を持つ公明党なので、政教分離なり、その宗教団体の利害が国政に反映するのは好ましくないなどといった視点で批判されがちだ。が、私は、概ね公明党は無害な政党なのではないかというか、世相の流れに流されている政党なのだろうと考えつつある。流れとは、昨日の「極東ブログ: [書評]自民党の研究(栗本慎一郎)」(参照)で自民党について触れた点と関連する。つまり、権力の主体が、農漁村ベースの旧保守か都市民の新保守かということが問題で、公明党は後者の都市化の流れから大枠で逸れることはできないだろうということだ。
 新潮新書の島田裕巳著「創価学会」のまとめが穏当だろうと思うが、創価学会というのは地方から都会に流れた人たちの互助組織に近い。言い方はよくないのだが、完全なマイノリティでもなくそれほど逼迫した状況でもない非都市民が都市に適応するための政治運動と見てよいように思う。イデオロギー的には無色に近いのだろう。
 その意味で、公明党からは、国政を左右するという点で突飛な政策が出てくるわけもなく、突飛という点では地域振興券といったお笑いが出てくるくらいだろう。もちろん、背景の宗教団体やその支持層を結果的に保護する政策色は強いだろうが、その点では新保守の自民党側で薄めることは可能ではないかと考えたい。むしろ、そうした新保守のなかに公明党を解体する受け皿のようなものをそろそろ用意したほうがいいのではないかとも思うが、この点についてはそれ以上言及しない。
 共産党については、中国共産党が内実をすっかり入れ替えたように、日本共産党も内容を入れ替えなければ、そろそろ歴史的にお役目を終えた政党でもあるし、社民党と同様に実質的な政策はゼロ、というか、およそ政策実施に伴う責任性を完璧に回避したので、その発言はもはやエンタテイメントの領域に近い。むしろ、より過激な政治運動を緩和する緩衝になるのかもしれないのがメリットかもしれない。
 が、国政から離れると、都市部や農漁村部でパッチワークのように共産党は強かったりする。その強さについては、地べたに立ってみるといろいろ思い当たることはあるが、それらが国政的なレベルに持ち上がるかというのが、強いて言えば、問題になる。
 大筋で言えば、持ち上がるためには、公明党同様に都市部の新保守層の利害を包括しなければいけないのだが、そういう芽は現状ではあまりなさそうだ。
 関連して、共産党については、それほどは世間で話題になっていないようだが、先月二十一日筆坂秀世元政策委員長が離党していた(参照)。筆坂は一昨年六月にセクハラ問題の責任を取り参院議員を辞職していたが、さらに共産党からも離れることになった。ベタ記事に近いニュースからは執行部の党運営に反発とある。
 政策委員長という要職からもわかるが、いうまでもなく筆坂は不破哲三議長、志位和夫委員長、市田忠義書記局長に次ぐ共産党の実力者だった。日本共産党史を見れば、野坂参三の例もあるように幹部が更迭されるのは別段珍しくもないが、それらは明白な除名処分だった。が、筆坂の場合は、自らの意志による離党であったというのが気になる。どのような思いだったのだろうか。
 この話は、政局ネタとしては前回の衆院選で終わったことなので、呑気にこんなブログに書ける面もあるのだが、あらためて過去記事を見なおすとやはり気にはなる。”筆坂議員辞職 身内の不祥事は真相あいまい 共産、一貫性欠く”(読売新聞2003.06.25)ではこう伝えていた。

 自ら発表し、議員辞職という措置をとり、党の自浄能力を示した格好だが、実は、共産党は綱領を改定し、現実・柔軟路線をアピールした二十三日の中央委員会総会で、常任幹部会委員でもある筆坂氏の解任を決めていた。にもかかわらず、発表を二十四日まで伏せていた。同党の閉鎖性の一端も明らかになった格好だ。筆坂氏自身、談話の紙を出しただけで、記者団の前に姿を見せなかった。
 こうした共産党の対応ぶりに、「事実関係が何も分からないというのは国民に理解できない。比例代表選出議員として選んだ人に説明が必要ではないか」(上野官房副長官)と、有権者に十分説明する必要があるとの指摘が出ている。

 さらにネットを調べていく真偽のわからない怪情報などもあり、途方に暮れる。
 とはいえ、こうした問題で共産党を批判したいというのがこのエントリの趣旨ではないので、その真相の推察はしない。
 広義に見れば、筆坂秀世元政策委員長は、自民党の旧保守に対応するような農漁村的な代表の位置にあり、結果的には共産党内部の都市派との権力闘争ではなかったかというふうにも思える。
 共産党の内部についてはそれほど関心もないのだが、大枠で各種の政治動向を決定しているのは、ここでも農村部と都市部の利害の対立ということかもしれないなという思いがする。

| | コメント (18) | トラックバック (1)

2005.08.09

[書評]自民党の研究(栗本慎一郎)

 日本の大きな変革に立ち会っているのだろうなと思う。日本のありようが日本国民に問われたということはいいことだ。日本国民はどう答えるだろうか。というところで、さて情報戦がばしばしと始まるのだ。
 迎え撃つ小泉首相の原点は明快だ。”衆議院解散を受けて 小泉内閣総理大臣記者会見”(参照)より。


 私は、今、国会で、郵政民営化は必要ないという結論を出されましたけれども、もう一度国民に聞いてみたいと思います。本当に郵便局の仕事は国家公務員でなければできないのかと。民間人ではやってはいけないのか。これができないで、どんな公務員削減ができるんでしょうか。どういう行政改革ができるんでしょうか


言わば、はっきりと改革政党になった自民党が、民営化に反対の民主党と闘って、国民はどういう審判を下すか聞いてみたいと思います。だから解散をしました。

 つまり、郵政民営化に賛成ですか、と。
 そこで、情報戦の敵方の先陣は論点ずらしに出てくる。曰く、そこが問題じゃない、そんなことは大した問題ではない、と。そして、偉そうな理屈がついたり、専門家めいたフカシがはいる。
 しかし、その時点で倒錯ではあろう。国政というのはシンプルなものだからだ。
 そのことを小泉総理はよく理解して勝負に出ている。

私は、この郵政民営化よりももっと大事なことがあると言う人がたくさんいるのも知っています。しかし、この郵政事業を民営化できないでどんな大改革ができるんですか。

 この問題を明快にクリアできずに、何ができるのか、と。
 たしかに、私はその通りだと思う。民主党を含めて反対勢力をうまく炙り出したという点で、緒戦は勝ったとすら思う。
cover
自民党の研究
 そして、これから、さらに情報戦が始まる。
 情報戦は、端的に言えば、虚像だ。そうではない、実像はどこにあるのか。
 ぼんやりと考えながら、そういえばと書庫を覗くと、栗本慎一郎が病に倒れる前、一九九九年に書いた「自民党の研究―あなたも、この「集団」から逃げられない」があった。捨てたと思ったのだがある。めくってみた。面白いといえば面白い。参考になると言えば、そういう面もある。例えばこれ。関係というのは、旧保守と新保守の関係だ。

 したがって、やがて日本経済が危機を脱したということになれば、この関係は分裂し、自民党の粒状化が始まることになる。自民党は、旧保守の牙城たる農漁村をいかに完璧に押さえても、衆議院の過半数を占めることはできない。旧保守を中心に自民党の運営がなされても、選挙が近づき、これでは政権が維持できないとなったとき、いとも簡単に新党ができる可能性が高い。
 いうまでもなく、都市型、国際型新党である。
 少なくとも二〇〇五年までに、自民党はあるひとつの総選挙のまえに分裂することは必至である。

 二〇〇五年は当たり。と、これだけ読むと、恐ろしいほどの切れ味の予言ということになる。が、この予言は新保守の核が小沢一郎になるだろうと続く。だから、栗本の予言の全体は、九月一一日以降、そしてさらに半年後くらいにはっきりするだろう。
 私は小沢を十年間一貫して支持したが、もう小沢の目はないんじゃないかと思うようになった。しかし、かつての思いから言うと、分裂が必要なのは民主党のほうだ。民主党から小沢の勢力が今回の事実上の小泉新党に合流して公明党を叩き出すというスジを望みたいが、まともに考えるなら、そうはならないだろう。栗本も、原則論的に、そう言っている。

 小泉の家は、祖父、父、本人と三代続く保守政治家の家系だ。だが、もともとの本業は、横須賀の港を仕切る沖仲士などの集団の親分だった。ある意味で、清水次郎長がそうであったように、それこそ本物の侠客である。少し若いころの小泉に三度笠でもかぶせて、長い楊枝をくわえさせたら、中村敦夫(参議院議員、俳優、作家)よりよく似合う。
 小泉は、小沢のように政党の改革とか政治の改革などといったことはいわない。関心すらないといっていいだろう。一方、小沢は、まずは理念と大きな政治方向を押し出して、前へ進もうという政治家である。小沢のほうが少数派であり、小泉は自民党の保守政治家である。
 そういうわけで、小沢と小泉がいっしょになることはなかった。今後もないだろう。

 もっとも、栗本は二者の合流に六年前だが未練は持っていた。
 同書は森喜郎と小泉の関係についても美しいエピソードを描いているが、この背景を知ると缶ビールと乾いたチーズの話も含蓄深い。
 さて、エントリを書いてみて思ったのだが、どう大衆情報操作がなされても、小泉が折れても、新保守の流れが止まるわけもないな。つまり時期だけの問題で、今回が好機となるのか、混乱からさらに焦土に近くなって立ち上がるか、それだけのことかもしれない。そう考えると、それほど意気込む戦いではない。ここで勝てたら儲け物。

| | コメント (6) | トラックバック (11)

2005.08.08

インドにおける野良牛問題

 問題は、野良牛である。今世界の人々が注目しているのは、まさにこの問題だと言っても過言ではない。いや日本国内では九月一一日の衆院選挙のほうが重要だという意見もあるかもしれない。しかしここは世界を大局的に見る必要がある。BRICSを代表するインド。その首都ニューデリーの未来に立ちふさがっているのは、街に溢れる野良牛である。
 野良牛をどうしたらいいのか。それは依然大問題であるとともに複雑な問題でもある。日本の野良犬処分のようなわけにはいかない。日本人なら誰でも知っていることだが、インドの多くの州では野良牛を殺すことは法律によって禁止されている。
 現在ニューデリーには約四万頭の野良牛がいると推定されている。もちろん、その他の動物もいる。猿(その潜在的な危険生について別途エントリを起こしたい)、羊、犬、そして公園にはリスなど、仏陀の涅槃に集まったこの敬虔なる衆生はそこにずっと同じ衆生である人間と共存しているのである。だが、問題も起きる。まず、彼らと人間とでは交通ルールが違う。交通事故も起きる。もっとも私がコルカタで見た野良牛たちはきちんと交通ルールを守っていたと証言しよう。
 人間と野良牛とには、双方に共存を理解しえない勢力が存在する。人間と人間ですら共存は難しいのだからしかたがないことだとはいえ、今年に入って野良牛が人間を突き殺すという悲しむべき事件も起きた。裁判となり高裁判決も出た。
 野良牛の弁護側の反応については書類を見てないのでなんとも言えないのだが、ニューデリー高裁の判決は明快だった。市に対して野良牛の退去を命じたのである。なので、市としても野良牛を市街からの撤去に乗り出した。しかし、事は順調に進んでいない。撤去しても戻ってくるらしい。
 野良牛をどうしたらいいのか。今月に入って、斬新な展開があり、世界が注目した。ブロガーなら欠かさずワッチしているはずのエキサイト、世界びっくりニュースでもこの六日に”野良牛を捕まえた人に賞金 インド”(参照)はこう伝えている。


町を徘徊している野良牛を捕まえ、州が管理する収容所に連れてきた人に対して賞金2千ルピー(約5,140円)が支払われることになった。

 懸賞付きということだ。なお、ニュースのオリジナルは”Earn easy cash in your spare time!”(参照)である。
 BBCも大きく取り上げていた。”Cash bounty on stray Indian cows ”(参照)。ところで、記事を読んでいただくとわかると思うが、おカネが儲かる牛(cow)なので、cash cowといういう駄洒落のオチがあるのかと期待すると虚しい。
 以上、世界のニュースから現在の野良牛の深刻な状況が伝わってくるのだが、それにしてもなぜ? なぜ、かくも野良牛がいるのか? 昔からいたけど、それが近代化に伴って問題とされるようになったのか。
 先日のNHKラジオの話では、どうも真相はそうではないらしい。
 私が理解したところでは、問題の真相は牛乳と財投債のようだ。とはいえ財投債についてはこのエントリでは触れない。
 なぜ牛乳なのか。
 十分な放牧地を持たない零細な酪農業者が、市街で草を食わせてその場で牛乳を売る、という生産と販売のありかた、つまり広義の産業構造と福祉の構造が、一見野良牛問題に見える問題の背後にある。
 市当局としても郊外に放牧地を用意しているのだが、その費用やなんだかんだでこうした業者と牛の移転はうまくいってないとのこと。なにより、そうして解決できる頭数は五千頭くらいなので、全体的な解決にはなりそうにない。
 ふと思ったのだけど、野良牛を捕まえる賞金というのは零細酪農業者の援助金なのではないか。

| | コメント (12) | トラックバック (1)

2005.08.07

参院否決なら、衆院を解散して国民に信を問えばいい

 政局について特に私にネタがあるわけでもないが、事ここに至って、一国民としての思いを少し書いておきたい。
 郵政民営化法案のキモについては、「極東ブログ: 郵政民営化法案問題をできるだけシンプルに考えてみる」(参照)で触れた。ので繰り返さない。
 政局についてだが、結論を先に言うと、郵政民営化法案が参院で否決ということになれば、衆院を解散して国民に信を問えばいい。私は小泉首相を支持する。
 原則としては、良識の府であるはずの参院で否決されたら、法案を廃止なり、見直しなりをすべきだろう。しかし、内閣として、廃止にしたくないし、これまでも最大限譲歩したので見直すべき点はないとしている。であれば、国民に再度問えばいいという以外に私は考えられない。それに反対するというのは、国民の意思が現れるのを恐れていることになる。
 これに放言を足す。私は参院は基本的には国の未来の決断を問うとき、不要だと考えている。しかも、参院は国民の一票が不公平に配分されたままであり、国民の良識を代表しているとはいいがたい。もちろん、コンサルト的な意見を出すという意味はあるだろうし、それが今回予想される否決であるというのを認めないわけでもない。
 だから、やれ。解散しろ。
 これで新しい衆院が出来て多数をもって可決し、あんな参院は不要だったなということになれば、国政の改革にもよい。あるいは、国民が、小泉首相を支持しない、郵政民営化法案を潰すというなら、それも国民が決めたことだ。
 具体的には、現状の選挙の動向からすると、雰囲気だけの民主党に有利というふうに読める。これに公明党はすでにどうでもいいから勝ち組に乗るとしているのだから、小泉支援の自民党の勢力が一気に瓦解するということもあるだろう。
 ただ、そこまでして民主党は郵政民営化法案反対で通すのだろうか。私は、自分の不勉強だと言われてもいいが、民主党が明確な対案を出したことなど知らない。私は、基本的に民主党の支持者だが、今回は小泉を支持する。
 話としてはそれだけ。
 具体的な政局の動向予想というわけではないが、橋梁談合問題のその後が気になる。これまでの日本の政治・産業風土からすると、官僚サイドからの逮捕者まで出すとは思えないのだが、そこまで押した。これは小泉の意志なのだろう。このことは、そこまでできるある種の力を暗示しているのだろうし、つまり、その力がこの政局でも出てくるのではないか。

| | コメント (26) | トラックバック (20)

2005.08.06

戦争を忘れないということの裏にあること

 ブログを長く書いているとネタがなくなるものだという。そうかもしれない。戦後六十年の節目ということで、いろいろ思うことがないわけでもないが、このブログでは、昨年までにその手の話題をよく書いたような気がしている(参照)。もうさしあたって書くことはない…そうだろうか。
 今朝は八時十五分にNHK総合のテレビをつけた。式典の映像はそこにあった。特に変わった印象は受けなかった。小泉総理の挨拶には真剣な響きはなかった。
 式の中継が終わり、そういえば原水協と原水禁は今も分裂したままだったかとグーグルをひいてみた。そのようだ。二つのグループで統合した行動が取れないのに平和を求めるものなんだなと皮肉な思いも去来するが、それにもそれほど関心はない。
 なにか心に引っかかっているものがある。なんだろう。毎日新聞”チョムスキー教授:人類は核戦争に着実に近づいている”(参照)の記事が少し気になっている。


 原爆投下はおぞましい犯罪だ。個人的には東京大空襲はさらにひどい犯罪だと考えている。しかし、戦争犯罪を定義したのはニュルンベルク裁判だった。枢軸国の行為のみを戦争犯罪、平和に対する罪、人道に対する罪と定義し、大都市への空爆など連合国もした行為は定義から除かれた。

 思い起こすと個人的にお会いする機会は逸したが、チョムスキー先生とも長いつき合いか。日本では当初べ平連がらみで受け止められていたようにも思う。そういえば、ご本人直ではないだろうが、沖縄にいたときは沖縄を支援するメールも戴いた(無くした)。九・一一以降、日本では突然若い世代にも人気を得ているようだが、いい意味でも悪い意味でもチョムスキーは変わっていない。その言語学理論のようにいつも不自然なまでにリゴラスな側面がある。毎日新聞の記事で東京大空襲に触れているのもそうした側面からなのだろう。
 そういえば、先日の一日は長岡大空襲の日だった。長岡戦災資料館(参照)のサイトではこう説明してる(参照)。

 昭和20年(1945年)8月1日の午後10時30分ころから翌2日の午前0時10分までのおよそ1時間40分間、長岡はアメリカの爆撃機B29による焼夷弾爆撃を受けました。
 投下された焼夷弾の量は925トン、163,000発余りの焼夷弾が文字どおり豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。
 この空襲により、市街地の約80%が焼け野原となり、学童約300名を含む1,470余名の尊い生命が失われました。

 通称裏日本の空襲としては、被害は七月一九日福井大空襲(死者約約千六百人)に次ぐと言えるのかもしれないが、投下焼夷弾は長岡のほうが多かった(福井空襲は九千五百発)。
 他に裏日本の地域での空襲はない(追記:ここは間違い。同日の富山空襲があります。また、八・一四土崎空襲などがあることをコメントで教えていただきました)。しかも原爆投下スケジュールも決定済みの八月一日になぜ長岡を狙ったのか。そして、長岡大空襲が事実上最後の大空襲となった。このあと目立った空襲といえば、六日未明の阪神空襲があるが、死者は百四十五人(参照)。規模は小さい。そして、同日の朝、広島には原爆が投下された。
 なぜ長岡が狙われたのか。当時の人は山本五十六の墓があるからだと思ったようだ。長岡空襲というサイト(参照)はこう記しているが、他にも類似の記事は見られる。

当時、「長岡は山本五十六元帥の墓地が有るので、国民の戦意喪失を目的として空襲を受けた」と噂された。

 しかし、先日私は暑い暗闇のなかでじっと思っていたのだが、狙ったのは墓ではあるまい。嫌な汗が身体から吹いた。むしろ生家を狙ったのであり、その類縁の血統を絶やそうと米国は狙ったのではないか。報復というよりもっと残虐が意志がそこのあったのではないか。
 Wikiの山本五十六の項にはこうある。

 彼の生家は長岡空襲で焼失し、現在は山本記念公園となっている。ここには復元された生家や胸像が建っている。この胸像はもともと全身像で、かつては霞ヶ浦にあった海軍航空隊にあったものであったが、終戦後の1948年に密かに霞ヶ浦に投げ込まれ、後に引き上げた際胸部のみを長岡の山本元帥景仰会が貰い受け、ブロンズ像に鋳直したものである。また、公園の向かい側には山本五十六記念館がある。

 墓についてはこうある。

彼の墓は多磨霊園と故郷・長岡の長興寺にあるが、後者にある墓は2004年10月23日の新潟県中越地震で倒壊し、翌2005年4月に復旧した。

 米人が墓を狙うことはないだろう。
 しかし、と、ここで私は闇にせせら笑われるように、問いかけられる、そんなことは実証できまい、と。
 そうだ。たぶん、実証できない。戦争や戦後に纏わる多くの欺瞞はかならずしも実証できない。だから、それらは妄言とされる。
 しかし、そういうものだろうか。
 「松代大本営の保存をすすめる会」(参照)のサイトに長岡空襲の経験者の次の話がある(参照)。

アメリカ軍の資料の中に、山本五十六の生地だから長岡を襲撃するとの文言は全くありませんと聞き、驚きました。

 その驚きの意味は語られていない。
 私はどう考えたらいいだろうか? 歴史学的な見地からすれば、長岡大空襲の目的が山本五十六の類縁の血を抹消するための報復だったとは言えない。しかし、私は、それが長岡大空襲の意味であると疑うことができない。
 この思いはどう解消されるのだろうか。
 私の山本五十六の評価は低い。理由は単純である。真珠湾を決定的に壊滅しなかったからだ。奇襲は成功した。石油が封鎖された日本において博打的とはいえ最善の戦略だった。しかし、そこで終わった。山口多聞(参照)が進言した壊滅的な攻撃は遂行しなかった。海軍内の話とすれば南雲忠一(参照)が日本の勝機を潰した。しかし、その最終的な責任は山本五十六にある。
 言えば奇矯な話になるのだろうから洒落を交えて言うが、日本はあの戦争に勝てた。ハワイを完全に封鎖すれば米軍は日本と停戦に持ち込む以外はない。そういう可能性を日本から引き出すかも知れない血を米軍は恐れたのだ。私はその思いがうまく否定できない。
 いうまでもなく、戦争を抽象的にとらえるなら、すべきではない。しかし、その話も、もう「極東ブログ: [書評]戦争を知るための平和入門(高柳先男)」(参照)で書いたから、繰り返さない。

| | コメント (43) | トラックバック (3)

2005.08.05

iTunes Music Store(アイ・チューンズ・ミュージックストア)が始まった

 昨日、待望の、と言っていいと思う、iTunes Music Store(iTMS:アイ・チューンズ・ミュージックストア)のサービスが始まった。このブログを読まれているかたにiTMSについて基礎的な解説は不要かもしれないが、ようするにアップル社によるインターネットを使った日本向けの有料音楽配信サービスだ。こうしたサービスは従来からもあったが、マッキントッシュやアイ・ポッド(iPod)といった、ソフトウェアとハードウェアの一体化製品を出す同社のファン層は、パソコン好きのある中核に存在しているのでネットでは話題になる。
 今回のサービスは、簡単な話、パソコンがあれば、自宅にいて一曲二百円で曲が買えるというものだ。洋物だと百五十円もある。米国では同種のサービスは一曲で一ドルを切るので、日本だと割高だなと思う反面、同種の日本国内サービスに比べると安いといった視点もあるだろう。結局どっちかというと、日本のこの市場ではしかたがない。よく善戦したともいえるだろう。というのも、CD一枚が国内だと新しいものではなぜだか三千二百円くらいする。これに十二曲くらい入っている。一曲だと、二百五十円くらいかということになるから、二百円に比べると安い。
 それにすでにこの手のサービスが先行していた米国でも議論になっていたが、CD一枚だと駄作もコミということになるので、インターネットによるばら売りではさらに割安感が出る。他方、作り手としてはアルバム制作のコンセプトが活かされないというデメリットもある。余談だがその隙間をぬって紙ジャケCDが国内で流行ったがどうもそれが逆に米国に影響しているようでもある。LP時代に音楽を聴いて育った私から上の世代には、ジャケットに強い思い入れを持つ。
 ネットで購入する曲は相対的には安いと言えるとして、根にある問題はCD一枚がなぜ三千二百円かということだ。DVDなら市場原理に従ってその半額には落ちる。映像までついて半額なら、DVDから音だけ引っこ抜いてしまえばいいじゃないかと、パソコン好きなら考えるだろうし、それは実際にそう難しくできる。当ブログでは解説はしない。もっとも、「そう難しくなく」とはいえ、一般のパソコン利用者にはハードルはかなり高い。
 iTMSの国内登場によって、CDで販売されていた音楽がこれからはインターネットで販売される、と、とりあえずは理解していいのだが、音楽好きにしてみると、ちょっと言葉は悪いが、ネット販売の曲はそれほど音質にこだわらないポップスくらいしか使えない。音質はMDよりはちょっと音がいいかなくらいだが、CDのオリジナルには劣る。しかも、iTMSでは音楽の再生はパソコン(ノイズが多すぎ)かiPod(音質はよくない)を想定しているので、音質面ではかなり本質的な限界が存在する。それでも、米国の動向を見ると、この音質でいいや、イコライズしてでっかいスピーカーで流してしまえというようでもある。
 それと、パソコン内でデータ・ファイルとして購入した曲は他のパソコンでは再生できない。ややこしい制限がある。
 サービスは昨日から始まった。私は、ちょっと勘違いして本格サービスは翌日(つまり今日)からだと思っていた。アップル社の製品とは長いつき合いになる私としては、こうしたサービスに初日から手を出すとろくでもないことになるなと知っているが、いち早く手を出したふうな「R30::マーケティング社会時評」”iTunesMusicStoreにがっくり”(参照)のエントリを読み、はてな?という印象をもったので、アイチューンズ(iTunes)を起動してみた。
 素で起動すると米国サービスが出たのでちょっと苦笑した。お知らせメールのアドレスで起動しなおすと、日本語サービスになった。通信チェックにサンプルをゲットしてみるかと操作しているうちに、会員登録しろということになり、ままよと済ませた。
 さしあたって欲しい曲はない。弘田三枝子の「人形の家」がよいなと思ったが、ミコちゃんものかなというアルバムが一つしかない。あ、これは、と思い、松任谷由実で検索すると、ない。が、荒井由実なら五、六個アルバムが出てくる。そういうことだ。洋物ではPeter,Paul & Mary とかThe Brothers Fourとかはない。Bob DylanやCarly Simonもほとんどない。検索のしかたがよくないのかもしれない。実はこのあたりの曲は、別系のサービスですでに存在することを調べてあるので、そんなものかという感じがするだけだ。
 結局、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」を買った。二百円。シングルCDで余計なものコミで買うよりは安いので、今後はシングルCD市場はかなり衰滅するのではないか。
 私は米国の通信サービスも利用しているので、こうした音楽配信サービスを使うのは初めてではないが、日本語できちんと提供されてみると随分違った印象を持った。この感じはなにかなと記憶を辿ると、そうだジュークボックスだなと青春時代を思い出して胸がきゅんとした。若い頃はなぜポップスがそんなに訴求力があったのだろうか。いや、「誰かの願いが叶うころ」を聞きながら今でも胸きゅん感はあるか。
 iTMSサービスではラジオ深夜便の一部などNHKラジオ関連の音声メディアをオーディオブックとして販売していた。これも興味深い。どのくらいの時間が収録されているか詳細は見てないが、価格は一本七十円と安い。四十五分程度で新書価格に匹敵する七百円くらいのようだ。米国では、オーディオブックがこの市場の大きな分野を形成しているので、日本でもそうなるといいとは思うが、単純な話、こうしたいわば音読物を好む年寄り層がiPodを使いこなせるとは思えない。
 いや、年寄りばかりでもないか。私の観察が偏っているのかもしれないが、電車や街の人を見るに、若い人でもまだ半数はMDを使っているようだ。白いイヤホンの多くはiPodであろうとは思うが、その大半はシャッフルのようだ。つまり、五ギガ以上のストーレッジ(格納)性の高いガジェット(電子小物)としてのiPodはまだあまり普及していないように見える。
 私の推測だが、意外と若い人たちが高速回線に接続できる音声・映像処理可能なパソコンを持ってないのではないか。反面、携帯電話への依存率は高そうだ。音質の低い着歌などを三百円で買っている現状や、基本的にパケ代単位の世界のこの層はデジタル重税に喘いでいるようにも見える。ある種のデジタル・バイド(格差)か。もしそうなら、それはiPodの普及にも影響しているのだろう。
 iTMSのサービスでもう一点、ふーんと思ったのは、意外とポッドキャスティングが充実していることだ。技術的にはそう難しくないのだが、私みたいな芸もないオッサンが肉声で語っても聞く人はあるまい。それに、生の声は恥ずかしなとも思う。参考がてら、先日、自動音声合成でちょろっとサンプルを作ってみた(参照MP3きっかけとなった栗先生のネタ)。
 音声ファイル作成は技術的には難しくはないが、面白いコンテンツを作るのは難しい。それでも、画像と文章がメインのブログからもっと音声ベースのブログのようなものの展開できるのは新しいネットの可能性ではある。

| | コメント (10) | トラックバック (7)

2005.08.04

なまこが大ブーム

 雑記。なまこと私。深い関係はない。多少、縁はある。沖縄の海辺で八年ほど暮らしたが、海辺によくいた。黒いぶにょっとした、なんというか、つまり、なまこだ。食うのかと現地の人に訊くと食わないと言う。食うわけないだろという顔をしている。でもこんなにいるのだから、なんか関わりというものはないのかというと、さらに怪訝な顔をして、そう言えばと言う、なまこを置いて、石を持ち上げて、その上に落とすと、ぶちゅっと白いソーメンのようなものを吐くというのだ。あれはソーメンだねと言う。楽しげに語る。訊くんじゃなかった。
 なまこというのは上質な中華料理の素材である。明朝や清朝の文化の影響を受け、那覇には媽祖、つまり天妃を祀るくらいの沖縄・琉球なのに、なまこ料理はないのだろうか。なまこと沖縄で検索すると「にらいかない」というブログに”♪なまこ・ナマコ・海鼠~~~♪”(参照)というエントリが、あれれ、沖縄でも食うのかと思って読むと、そうではない。


 気がついたら、クリスマスが終わって、お正月がもう目前!!
 買い物に行ったら、いました!ナマコが!!
 沖縄の海にはごろごろしている黒い物体、ナマコ。これはどうも、毎年お正月に食べるナマコとは違うなあ・・・と思っていたら、『ナマコを食べるなんて、信じられない!?!?!』言われました。
 言うじゃな~~い!?
 でも、いるんですから!食べるんですから!輪切りにして!お腹のコノワタの塩辛は絶品ですから!!

 九州のかたらしい。九州では食うのか。というか、生食に近い。中華素材とも違うようだ。韓国ではたしか、乾しなまこなのでこれは中国の影響だろう。
 中華料理のなまこは一時期よく食べたものだった。理由がある。仕事の同僚がとある大手企業の社長の息子なのだが、その父というのが食い道楽で、息子もその趣味を継いでいた。それで、なまこを食いましょうというのだ。そうか。というわけで、食い歩いたのだが、彼もイマイチ満足しない。そのころ仕事場は新宿近くだったのだが、そういえば近くに随園別館(参照)がある。当時はなんか屋台っぽい雰囲気もあったが、そうだそこにもあるんじゃないかというわけで、食った。彼に言わせると合格点らしい。私はというと、あまり好まない。
 中国人がこの手のものを好むのは、うまさというより健康効果なのだろう。フカヒレもそうだが、あれ自体別段うまいものでもない。なまこも中国語で海參というがどうも人蔘に模しているようだ。人蔘というのは、もちろんあれだ、高麗人蔘の人蔘である。キャロットではない。Wikiのナマコの項目に面白い説明があった(参照)。

 海参は漢方薬として古くから滋養強壮薬、皮膚病薬として使われてきた。
 また、ナマコがもつサポニンの一種(ホロトキシン)は、強い防カビ作用をもち、白癬菌を原因とする水虫の治療薬「ホロクリンS」として実用化されている。ホロトキシンを発見したのは京都大学薬学部の島田恵年。
 サポニンは通常、植物に含まれる成分で、動物でサポニンを含むものはナマコとヒトデだけである。 海参とはナマコの強壮作用から「海の人参(朝鮮人参)」との意味でつけられた名前である。ちなみに朝鮮人参の主成分もサポニンである。

 ふーんといった感じのトリビアである。さらにこのふーん感は続く。

 全国的に漁獲されるが、中国においては、北海道の日本海産、青森県陸奥湾産が、品質で世界一の評価を受けている。

 そうらしい。今朝NHKラジオを聞いていたら、その話題をやっていた。中国の富裕層に厚みが出るにつれ、なまこの人気が高まっているのだそうだ。毎日一つは食べたいほどらしい。
 中国国内での養殖化も進んでいるが(んなもの養殖するのか)価格はうなぎのぼり。そのうち、なまこのぼりなんて言葉ができるかもしれない。お値段は?というと、五〇〇グラムで五万円もあるとのこと。余談だが、ちょっと私みたいに古風な人間には戸惑うのだが、大陸では一斤が五〇〇グラムである。いや私みたいな華人も多いのだろう。なので、公斤とも言い分けることもある。
 そんななまこブームがインターネットから伺えるものかと、グーグル・ニュースで検索してみると、けっこうあるようだ。「成報」というサイトの先月二十一日の記事に”爽滑甘香 海參極品 北海道遼參蝦籽米子吊鮮香”(参照)というのがある。エキサイトで翻訳するとこんな感じ。

 1位の経営の海産物店の友達は私に教えて、今年日本のナマコは失って収めて、また比較的に港の日本のナマコの価格を売って去年35%上昇したことを招いて、その中の日本のナマコは2800元の1斤を必要とする。聞くのは思わずやかましく騒ぎたてて、肉がいっぱい生えていて、顔立ちのとても醜いナマコを刺して、意外にもこの値段を売ることができる。もとは、ナマコを海産の食物の天王の中で才能がすべて現れさせることができて、すべてそれが曇ることを噴いて血を養うため、多く筋肉と皮膚をきめ細かくてつやつやしていさせることができることを食べて、きわめて級のが顔の絶品に駐在するのだ。いつも大きい時の大いな節操を責められないで、いっぱいな机の大きい魚の大きい肉、ただコレステロールのナマコをくわえないのが最も人受けがいくて、大人の細い道も多く食べるとよい。
 ナマコの生存の歴史は原始の魚類より更に早くて、6億年前にあるカンブリア紀はすでに存在した。ナマコは「海の貴重品」と称されて、その食療の作用は十分に匹敵して上の朝鮮人参のだため、だからまた「海の中の参」と称される。

 日本語が達者という香港の茶商からお茶を買うときの熱弁みたいだが、言わんとすることはわかる。
 ひさしぶりに随園別館に言ってみるかな。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2005.08.03

「『政治介入』の決定的証拠」(魚住昭)について

 場末の本屋に今月の月刊現代が売れ残っていたので、買い、例の「『政治介入』の決定的証拠」(魚住昭)をまずざっと読んだ。詳しく読み込んだわけではないのだが、これって何?というのが最初の印象だった。
 記事の問題性については朝日新聞記事”NHK問題、「月刊現代」の記事 本社資料流出の疑い”(参照)がわかりやすい。


 NHKの番組改変問題をめぐり、朝日新聞が取材したNHK元幹部らの「証言記録」を入手したとする記事が「月刊現代」(講談社)9月号に掲載されることがわかり、本社は29日、「社内資料の一部が流出した疑いがある」として社内で調査を進めることを決めた。

 この月刊現代の記事に含まれる資料がオリジナルなのかという考証はなされていないので、とんでもない偽文書という可能性はある。が、一読した印象ではたぶんこれは、かなりオリジナルを反映しているだろうという印象は持った。そのあたりは、七月二五日に出た朝日新聞の報告と類似性があることも裏の一つにはなる。むしろ、かなりオリジナルであろうと推定されるならなおさら、この文書に改竄がないかが重要になるだろうし、そして、それは、単純に言うのだが、録音テープの存在との照合が必要になるだろう。ここ至って、本田記者らによる秘密の取材テープ(ICレコーダーかもだが)が存在しないという主張も成り立つわけもないだろうし、この問題について、朝日新聞は明快な回答が求められていることにもなる。私の印象だが、この記事も含まれている資料にはすでに編集が入っているように思われる。
 ジャーナリストの魚住あるいは講談社がこれを持ち出した理由は、そう勘ぐることもなく、この記事のリードの通りであろう。つまり、「『政治介入』の決定的証拠 中川昭一、安倍晋三、松尾武元放送総局長はこれでもシラを切るのか」ということである。もう少し丁寧に言えば、魚住がこのリードを飲んでいるかはやや疑問には思える。というのは記事をまともに読めば証拠にはなっていないからだ。

 ただ、彼(本田記者)の取材に不十分な点がなかったわけではない。特に松尾氏が放送前日に中川氏と会ったという事実の確認においては詰めの甘さがあった。

 魚住は可能な限り本田記者を擁護しているが、さすがに事実関係において錯誤もできない。現状では、中川昭一は当の放送前にNHKと接触していなかったとするのが妥当だ。しかし、魚住は本田記者を擁護するあまり、本田記者が錯誤を自覚しているかのごとく解説する。それは違うだろう。なにより、だからこそ朝日新聞は一月一二日付の誤報を出したのだ。
 また、魚住の記事では安倍晋三を糾弾するかのごとき修辞が多いのだが、以下のようにNHKへの圧力を説明しているということは、背理法的に見て、安倍晋三の関与はないとすることの妥当性につながることになる。

 この経過で明かなように「放送中止」の圧力は右派団体・若手議員の会→伊東番制局長・松尾総局長の順で伝わっている。

 くどいがそこに安倍晋三はない。
 私が中川昭一と安倍晋三のラインに関心を持つのは、ここがこの問題の要点だからである。「極東ブログ: NHK番組改変問題について朝日新聞報道への疑問」(参照)で私はこう記した。

 朝日新聞が今後するべきことは、NHKバッシングのスジに逃げ込むのではなく、中川昭一と安倍晋三の関与がどのようなものだったかということを明確にすべきだろう。
 具体的には29日の「局長試写」で当時の松尾武・放送総局長と国会担当の野島直樹・担当局長が改変した内容が次の3点であったと朝日新聞は言う。

 (1)秦氏のインタビューを大幅に増やす
 (2)民衆法廷を支持する米カリフォルニア大学の米山リサ準教授の話を短くする
 (3)「日本と昭和天皇に慰安婦制度の責任がある」とした法廷の判決部分のナレーションなど全面削除
 
 であれば、中川昭一と安倍晋三がこの三点にどのように関与していたかを問わなくてはならないはずだ。そこが明かになれば、それはそれなりにニュースの価値があるだろう。


 つまり、現状では、具体的な関与条件以前に、二氏の関与すら明確になっていない。
 しかもさらに悪いことに、魚住の記事は「朝日新聞が今後するべきことは、NHKバッシングのスジに逃げ込むのではなく」という悪路の典型例になってしまったことだ。
 繰り返すが、この魚住の記事は、論点のすり替えである。
 ただ、なぜこんな論点のすり替えが出てきたのかということのほうがおそらく重要だろう。このあたりはやや推測に過ぎるという自覚も私にはあるのだがあえて端的に推測を言えば、すでに朝日新聞援護側の勢力がNHKバッシング(自民党がNHKに関与していることは悪だ)という問題が当の問題だと勘違いしているのではないか。だから、朝日新聞のジャーナリズムの倫理は無視しても本田記者の録音テープを出せばそこがクリアされると勘違いしているのではないか。
 この錯誤があるなら、呆れる。NHKの問題を曝きたいというなら、それこそがまったく間違った手法だということが理解できなくなっているからだ。さらに、この勢力は、朝日新聞による七月二五日の「NHK番組改変問題、改めて報告します」が気に入らないのではないかとも私は推測する。そうであれば、朝日新聞内部のある分裂の兆候なのだろう。
 ちなみに、朝日新聞の報告は以下である。

 ノイズのインフォメーションを多くして問題の核心を暈かしているが、ことは非常に簡単である。ようするに「NHK番組改変問題2―取材の総括」のここだけが重要だ。

一方、記事中の(1)中川氏が放送前日にNHK幹部に会った(2)中川、安倍両氏がNHK幹部を呼んだ、という部分に疑問が寄せられていました。

 この2点についてはこういう結果になった。

しかし、当事者が否定に転じたいま、記事が示した事実のうち、(1)(2)については、これらを直接裏付ける新たな文書や証言は得られておらず、真相がどうだったのか、十分に迫り切れていません。この点は率直に認め、教訓としたいと思います。

 つまり、朝日新聞はデマぶっ飛ばしたということを認めたのである。真相のわからないことをぶちかましてみることをデマという以外に形容できない。
 つまり、この朝日新聞の報告書が明記しているのは結果的に次の二点である。
 
(1)中川氏が放送前日にNHK幹部に会ってもいない。
(2)中川、安倍両氏がNHK幹部を呼んだこともない。

 当の問題を起こした本田記者については以下の点が重要。


●「すりあわせ」をもちかけたのか
 記事掲載後の今年1月18日、記者は松尾氏から電話を受けた。この際、記者が再取材を提案したことが、「すりあわせ」「調整」を持ちかけたと批判された。
 この電話で松尾氏は、朝日新聞の取材を受けたことはNHKに報告していないと告げたうえで、自分の真意と違うことが書かれたと訴えた。さらに、内部の事情聴取を受けると話し、録音記録の有無などを重ねて問いかけた。
 記者は、取材源の松尾氏が不利益を被ることがないように配慮した。そこで、証言内容を改めて確認し、場合によってはより正確にするために、再取材できないかと尋ねた。

 つまり、「場合によってはより正確にするために、再取材できないかと尋ねた」というのは、本田記者が「すりあわせ」を持ちかけたということである。
 このあたりは月刊現代の魚住の記事にはカバーされていないようだ。むしろ、この時点で本田記者は多少なり疑念を持ったのかもしれない。
 あと、些細なことだが、朝日新聞”初会合で説明、委員から意見 本社「NHK報道」委”(参照)ではこうあるのだが…。

 朝日新聞社側が総括報告の紙面などについて説明し、委員からは「番組改変という言葉を使ったが、その言葉からは番組を改悪したという先入観が感じられる」「政治的圧力があって改変されたというのは事実としてではなく、朝日新聞の判断として書くべきだった」などの指摘があった。

 同じテーマの読売新聞”番組改変報道問題、朝日新聞の第三者委が初会合”(参照)ではこうなっている。

 朝日新聞によると、初会合では、委員から「『政治的圧力で番組が改変された』ということを事実として書くのではなく、朝日新聞の意見として書くべきだったのではないか」「『番組改変』という言葉には、番組を改悪したという先入観を与える」といった声が出されたという。朝日新聞側からは、秋山耿太郎社長ら5人が出席。秋山社長は「秋の早い時期」までに意見をまとめるよう求めた。

 「判断として書くか」「意見として書くか」どっちが委員の発言であったのだろうか。判断として書くのであれば、判断をサポートするファクツが必要になる。意見として書くならブログのように勝手に書けばいい、ただそれで新聞なのかということは別の次元の問題になる。

| | コメント (1) | トラックバック (3)

2005.08.02

カネは天下の回りもの

 身辺記事の類。先日、ぶらりと花火を見に出かけた。私は花火が好きで、よく見に行ったものだったが、沖縄暮らしを終えて東京に戻り、もうすぐ三年にもなろうというのに、昨年も一昨年の夏も花火を見に行くことはなかった。なぜか自分の心に問うてもよくわからないが、その夕暮れは、なんの気なしにぶらっと行く気になった。なんか、やさぐれた気持ちもあった。
 花火会場の最寄りの駅に降りて、違和感があった。人が少ない。花火は中止だろうかと思った。が、多少の人出はある。浴衣着の若い女性もいる。昨年は変な浴衣が流行るものだと思ったが、見慣れた。若い男性の浴衣もあるが「つんつるてん」という古い言葉が思い浮かんだ。
 花火は結局あった。しけた花火だなとも思ったが、それなりに夏の夜空に美しく、帰りも人出の少ない夜道を歩いたのだが、喉が渇いた。
 そんなときに必ず自販機があるのが日本である。なければ地面からぬっと出現する、わけもないのだが。さてなんかお茶でも飲むか。生茶でもいいぞ。いつの間にか茶香料を抜いたみたいだし、と奇妙に輝く自販機を見ると、七色亜茶というのがある。七つのお茶をブレンドしたらしい。温度で味が変わるとかいう。お茶好きにチャレンジするその意気込みがよろしいと、コインを突っ込む。百二十円。私は自販機をほとんど使わない。そうか、百二十円か。百円と二十円か。沖縄だと、百円だったよなとふと思う。
 と、出てこないことにふと気が付く。なにがあったのかと機械を見ると、お前の突っ込んだカネは百十円だよと言いたいらしい。そんなわけはない。おつりのところに指を突っ込むと案の定、そこの十円がある。ほらな。俺はドジな男だが、こういうことで嘘はつかない。その十円をさらに突っ込む。が、きゃつはぺっとまた吐き出した。その十円がまるで気に入らないみたいだ。壊れてるのか。北朝鮮の偽金と思ったか。金さんはこんなしけたカネは作らない。私はこうした事態にしかしそれほど悩む人間でもないので、別のもう一個持っていた十円玉を突っ込んだ。ビンゴ。かくして、七色亜茶を買い、電車の来ないホームでちびちび飲んだ、そう不味くもない。なんだこれと帰宅後グーグルで情報を検索して萎えた。世の中知らないほうがいいことは多い。
 話を戻す。電車の中で夜の街を見ているうちに、ふと下車したくなった。私はそういう人間だったのだ。定期を持っているときなど、気まぐれでふと下車してその街をうろつき、なんか喰うのが常だった。そしてあのころ私には才能と呼べるものが一つだけあった。うまそうな店がわかるのである。私だけがそう思っているのではない。女もそう言ったものだ。ま、その話はどうでもいいや。というのもその才能も尽きたのかもしれない。故事にある食指が動かない。だめだな俺。やさぐれた気持ちでいると目の前に松屋というのがあった。麦とろ御前四百九十円は魅惑的だ。五百円のワンコインで飯だ。と、その話は省略。
 店を出るとまた喉が渇いた。糖尿ってことはない。店の水というのを飲まないたちだし、味噌汁はちとしょっぱかった。なので、また自販機がぬっと登場する。爽健美茶でも買うかと、百二十円を突っ込む。そう、百円玉と、おつりの十円とさっきの十円があるぞ、と。しかし、また十円突っ返された。時は2005年シグマドライブでエネルギー問題を解決した人類の文明にいったいなにが起きているのか。ま、いいや、帰って自分で熱い茶でも飲むかとと駅で切符を買うとき、それがまた起きた。十円がぺっと返ってくるのである。
 ここに至って、この物語の主人公が私ではなくその十円であることがおわかりいただけるだろう。そうだ。なんなんだこの十円。私は、場末の駅の蛍光灯の白けた灯りのなかでじっくりとその十円玉と見た。
 もちろん、ただの十円玉である。偽金ではない。が、よく見るとというかよく見なくてもわかった。昭和二十八年とある。昭和二十八年。俺が生まれたのは昭和三十二年だぜ。俺より四つも年長さんでしたか、こりゃすまん先輩。俺が四十八歳だが、おまえ様は五十二歳(参照)。いや、お互い戦後生まれの戦争も知らない世代とか言われたものだが、半世紀の時が経ちましたなぁ…感慨モードに落ち込む。
 よく見れば、昭和二十八年の十円玉も私のように擦り切れている。そういえば、と、縁を見る。ギザがあるよ。ギザを撤退したのはいつのことだったか。そういえば子供ながらに、ギザのない新しい十円玉を不思議に思った記憶もある。
 以前、西洋の魔法の本を読んだことがあるが、魔術師は物体から記憶を読み出すことができるらしい。私は魔術師ではないのだが、その十円の記憶の雰囲気のようなものには当てられた。
 帰宅してから調べてみた。十円玉というのはいつできたものか。これはすぐにわかった。Wikiによると(参照)、一九五三年一月一五日。つまり、昭和二八年だ。つまり、こいつ、第一世代の十円玉だったのだ。へぇー。
 Wikiにはギザの話もあった。「一九五九年二月一六日:十円硬貨が、側面のギザの無い新しいデザインに変更される」 とすると、私が二歳の時だから、物心ついて切り替わったわけでもないのか。ついでに、稀少性の十円玉は私の生まれた昭和三十二年とのこと。そうか。初代二十八年の十円玉は希少性もなく、天下を回り続けて、花火の夜に我が懐中にやってきたわけだ。
 ところで、なんで自販機がこいつを吐き出すのか、重さでも違うのかと計ってみたが、一グラムと違いはない。どこで見分けているのだろうか。

| | コメント (13) | トラックバック (2)

2005.08.01

シリアによる石油食糧交換プログラム不正関与

 国連によるイラク石油食糧交換プログラム不正問題だが、日本ではあまりニュースで見かけなくなった。昨年はこの問題は日本のマスコミは事実上の隠蔽のような状態だったが、国連自身によるヴォルカー報告以降、さすがにバックレ切れなくなり、ちょぼっとニュースを出した。それを皮切りにアナン親子の疑惑も少しは国内で報道されたが、その後は雲散霧消したかのようで、「極東ブログ: 朴東宣のことを淡々とブログするよ」(参照)の問題など、日本が関わっている可能性が高いのに報道は少なかった。
 そんなものかもしれないが、当ブログとしては、重要な駒が一つ進むにつれ、少しずつ触れておこうかと思う。今度の駒は、シリアだ。
 シリアが国連によるイラク石油食糧交換プログラム不正に深く関与していた。この事自体は予想されていたことでもあり、驚くほどでもないのだが、むしろ問題は関与の度合いだ。
 ニュースソースはというほどでもない米国下院国際関係委員会の報告で、ソースのオリジナルはフォックスニュース”Syria, Iraq Link May Have Fueled Insurgency”(参照)の記事中にリンクがある(参照・PDF)。話の概要はVOA”Investigators Say Syria Profited Illegally from Iraqi Oil For Food Program”(参照)がわかりやすい。


"According to estimates from Iraq's state oil marketing organization, known as SOMO, from January 2000 until July 2003, the Iraq-Syria trade protocol generated approximately $3.4 billion from the sale of illicit Iraqi crude oil and Iraqi petroleum products," said Ms. Dibble.

 つまり、シリア・チャネルで三十四億ドルが流れていたということだ。
 それ自体も問題ではあるが、下院国際関係委員会の話題は次のように、現在のイラクの武装勢力の支援金になっていたというふうに展開していることも、問題ではある。

Victor Comras, former member of the U.N. Al Qaeda monitoring group, responded by saying: "That's a fair assumption that at least part of these funds are being made available to support this insurgency and perhaps other terrorist activities."

 いかにも米国風な話の展開と見ることもできないではないが、ある程度は妥当な推論でもあるだろうし、イラク混乱についてシリアの観点から見ると、幾つかの奇怪な疑惑のピースがつながってくるようでもある。例えば、「極東ブログ: 北朝鮮竜川駅爆破とシリアの関連」(参照)なども関連して思い出す。しかし、こうしたピースをつなぎ合わせて、ある全体像を描くことは控えておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »