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2005.07.16

「徒然草」を読む

 このところ、「徒然草」を読んでいた。学生のころやその後も折に触れて読んでいるのだが、今回は少し違う。現代語訳のない岩波文庫「新訂 徒然草」のを買ってきて、原文のままつらつらと読んでいた。

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新訂 徒然草
 歳を取るにつれ、不思議と古文がそのまま読めるようになってきて、古文を読むのが楽しい。古文は現代訳を気にせず読むのがいいものだ。と、もちろん、鎌倉時代から南北朝時代の日本語なのですべてわかるわけでもないが、文庫の注であらかたわかる。
 いろいろ思うことがあった。一つは、兼好法師も日本人だなということ。それは、つまり、自分も日本人だなということでもある。ものの感受性や批評性というのが、実に、日本人という以外ないようなありかたをしている。「家にありたき木は、松・桜。松は五葉もよし。桜は一重なる、よし。」ああ、まったくそのとおりだ。
 七百年近くも前の人なのに、日本人であるという感性ことはこういうことかなと感慨深い。これから日本という国が何年続くのかわからないが、あと七百年しても日本は日本なのかもしれない。もちろん、このブログは消え去り、徒然草のほうがその時まで生きるのだろう。
 もう一つは、法師め、若いな、ということだった。これは三十代の感性だな、今時分でいうなら「はてな」でぶいぶい書いている若造さんと似ている。と、読み進めるに、おや、これは四十代の感性だと思うところもあり、文庫の解説など不要と思っていたが参照するにこの文庫の校注の元を作った西尾実(受験参考書を書いていた人ではなかったか)の説では、執筆時の法師は三十代と四十代にまたがるとのこと。確かにそういう感じもするし、おそらく、最終的に編纂されたのは法師、五十近いことであろう。
 五十近いといえば今の私の年代である。それが、とても、実感をともなってわかる。と、どこでそんな年代が気になるかといえば、あまり品のいい話ではないが、女である。女との関わりで沈んでくるある種の思いが、三十代、四十代を刻印する。
 もう一つは言葉だの、しきたりだの些細なこだわりだ。「相夫恋といふ楽は、女、男を恋ふる故の名にはあらず。」なんだか、俺もそんな些細なこだわりを日記に書いているような希ガス、じゃない、気がする。
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モオツァルト・無常という事
 そういえば、ふと思い出して、小林秀雄「無常という事」の「徒然草」のところを読み直して、暗誦するほど読んだ本なのに、奇妙に、稚拙な文章に思えた。若いな小林、文章が駄目だぞ、とか思った。年表を見るに、これが書かれたのは昭和十七年、小林四十歳である。なるほどな、四十の文章だなこれはとか思って苦笑した。言うまでもなく、私なんぞの屑が批評の神様を論じるまでもないので洒落としてはあるが。
 細かいところもちょこちょこと気になった。例えば、百三段。

大覚寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれける処へ、医師忠守参りたりけるに、侍従大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを、「唐医師」と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちて退り出でにけり。

 高校の時読んだ記憶では、「唐医師」ではなく、唐瓶子(からへいじ)で「平忠盛」の洒落であったような、と、岩波の注ではその解釈は廃されている。このあたりの校訂というのが、青空文庫とかへの収録を難しくしているのでもあろうが、さて、「唐医師」と介してこの段の面白みは通じるだろうか。率直に言ってよくわからないなと思った。
 校訂の問題ではないが、似たようなことで読み返して奇妙に引っかかったのは百五十二段などもある。

西大寺静然上人、腰屈まり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏へ参られたりけるを、西園寺内大臣殿、「あな尊の気色や」とて、信仰の気色ありければ、資朝卿、これを見て、「年の寄りたるに候ふ」と申されけり。
 後日に、尨犬のあさましく老いさらぼひて、毛剥げたるを曳かせて、「この気色尊く見えて候ふ」とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。

 さっと読めば、昨今のネット・モヒカン族のごとき心性は七百年前にもしかりとぞ、といった感じではあり、そして、そういう有様を法師は冷徹に見ているとでも四十歳の小林秀雄は言うであろうか。
 私が気になったのは、歴史である。自分の生き様が歴史に組み込まれてつつあるせいか、法師の言も、一つの歴史の姿として見えてくる。つまり、徒然草とはちょっと気の利いたエッセイといったものではない。ある苛酷な歴史を生きた同時代報告でもあるだろう。
 注にもあるが、「資朝卿」とは日野資朝(参照)である。

 日野資朝(ひのすけとも、1290年(正応3年) - 1332年6月25日(元弘2年/正慶元年6月2日))は、鎌倉時代後期の公家である。父は日野俊光。権中納言。
 1321年に後宇多院に代わり親政をはじめた後醍醐天皇に重用されて後醍醐とともに宋学(朱子学)を学び、後醍醐の討幕計画では中枢にいた。1324年に計画が北条氏が朝廷監視のために設置していた京都の六波羅探題に察知された正中の変では日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られ、佐渡島へ流罪となる。1331年に後醍醐老臣の吉田定房の密告でふたたび討幕計画が露見した元弘の変が起ると、資朝は佐渡で処刑される。

 と、Wikiの解説だが、こう続く。

資朝が後醍醐天皇に登用される話は、吉田兼好の『徒然草』に記されている。

 法師め、この段を書きながら、資朝の末期を見ているのである。
 同じように同時代への符丁が、徒然草のあちこちに隠れているようにも思う。まるで、時事を扱うブログでもあるかのように。
 というあたりをオチにしてこの話はおしまい。なに? つまんね? だったら、斎藤孝先生の「使える!『徒然草』」でも読んでくれ。

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コメント

次の読書リストに、小林の「モーツアルト」を読もう。

もう少し余裕ができたら、漢文の古典を読んでみようかな。なんでかしらんが、学生時代、ぜんぜん勉強しなくても、漢文の成績が良かった。なので、ワタシの遺伝子は中国かと、それ以外にも多々ある。

投稿: 野猫 | 2005.07.16 19:48

今回のエントリを見て、受験生時代読んでいた徒然草(現代語訳)を引っ張り出して、読んでみました。

資朝に関しては、つづく百五十三段、百五十四段でも扱っていますね。百五十三段の方は完全に末期を見てる感じがします。
三段を続けて読むと、資朝って芯が通ってるじゃんと思ったりしますよ。
さも有りぬべきことなり。って書いてます。

投稿: フジヤ | 2005.07.17 03:00

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