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2005.05.14

[書評]戦国武将の養生訓(山崎光夫)

 「戦国武将の養生訓」が面白かった。標題はハズしているとも思わないが、そこから受ける印象と内容は少し違う。内容は、曲直瀬道三の「養生誹諧」と「黄素妙論」の現代解釈である。特に、やはり、「黄素妙論」が面白い。

cover
戦国武将の養生訓
 本書にも説明があるが、曲直瀬道三(1507~1594)は、安土桃山時代の医者で名は正盛。金・元時代の李朱医学を修め、京都に医学舎啓迪院を設立し、正親町天皇から翠竹院の号を受けるほど名声を得た。足利義輝や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にも厚遇された。日本漢方では後世方派の巨人である。もっとも、近代日本漢方は吉益東洞らの、ある意味即物的な古医方派が主流になったと私は見ている。と、いうような話は抜きにしても、曲直瀬道三は興味深い日本史上の傑物である。
 標題の養生訓は「養生誹諧」を貝原益軒の著書に模したものだろう。近代日本では常に各種養生訓が話題となる。日本に本格的にミシェル・フーコーの思想を受け止めた人がいたら、この分野の考古学的な研究に着手するのではないか。でもないか。
 本書には「黄素妙論」が全訳で掲載されている。原典は、京都大学附属図書館所蔵 マイクロフィルム版富士川文庫『黄素妙論』(参照)で公開されているので、そちらを直接読まれてもいいだろう、とか言いたいが、その際は、現代日本人だと、私も愛用している「おさらい古文書の基礎―文例と語彙」が必要だろう。
 「戦国武将の養生訓」に含まれる、現代語訳「黄素妙論」だが、冒頭でも書いたが、これは現代人にも面白いものだろう。若い栗先生でも得るところがあるにちがいない。「黄素妙論」は知る人ぞ知るこの分野の名作で、日本最古の医書「医心方」巻二八房内に匹敵するとされている。のだが、私は未学にして「医心方」巻二八の原典を読んだことも実践したこともない。というか、ちょっとこのこってりした感じはあれだなとか思っていた。しかし、比較するに「黄素妙論」は、その点とても和風というか、あっさりとしている印象を受けた。史学的には、「医心方」は隋・唐の医書であり、「黄素妙論」の散失原典「素女妙論」は明代の医書なので、そうした原典の差もあるのかもしれない。
 じっくり読んでみてしみじみ思ったのだが、「黄素妙論」は実践的でもある。さすがに九勢之要術の魚接勢や鶴交勢というのはやったこともないしやる気もないが、他はふむふむそこが要点だったかとか思い至ることは多い。
 なにより、読後、不覚に思ったのは「八深六浅」を誤解していたことだ。なんてこったと思うがこのあたり(参照)でも間違っているので、普通そんなものか。というわけで、本書には正しい「八深六浅」の解説がある、というか、これが日本史的には事実上の原典なのだろう。なお、些細なことかもしれないが、「八深六浅」のカウント単位「息」だが、訳出した山崎はそのまま呼吸と解している。「寸」が通常の寸と違うだろうように(日本人で八寸はありえないのでは)、「息」もそのまま呼吸するには、実践的には遅すぎないかとも思う。もちろん、このあたりの数字表現は一種のゲマトリア(参照)でもあるのだろう。と、洒落のめすこともなく、九勢それぞれに適切な「息」配分がしてある点が重要だ。他、各勢については、女性からのコメントもありそうだが、そのあたりこの手の一般的な禁則でもあるが「どう?どんなかんじだった?」とか訊けるものでもない。杉本彩さんのように、この分野に関心を持ち、知性のある女性のブログにキ・ボ・ン・ヌ。
 言葉遣いも面白い。あれこれの呼称というのは、ある種、言葉による歴史のタイムカプセルとも言えるもので、まことに興味が尽きない。玉茎玉門は言うに及ばずだが、「男子わかくさかんなる時玉茎しばしばおゆるにまかせ」の「おゆる」は山崎は「お生ゆる」としているが、当時の表現であろう(多分、公家か)。「赤珠」について、「古代中国における玉門関係の一表現」とのみ解があるが、ずばりあれでしょとも思うが、「琴弦」のほうをあれに当てて解している。このあたり微妙なるものがありそうにも思うが、文脈はそれぞれ、「男子其しりゑにひざまづき即玉茎をさし入れて赤珠をたたき…」、「女の手にて玉茎をにきり玉門にあて琴弦にのぞましめ、うるほい生ずる時、ふかくさしいれ…」とあり、そうかなとも思う。
 現代でも応用可能かと思えるのも興ではあるが、「黄素妙論」は広義には養生法であり、健康指南書でもある。これは仙術全体にも言えることなのでどうということでもないのだが、気になるのは、そうした道教的なものではない側面だ。これついては、「黄素妙論」は松永弾正久秀に与えた物として現代に残っている点が重要だろう。
 山崎は本書を弾正に与えたとする奥付から次のように考えている。

 花押があるのは、あたかも茶道の家元が弟子に免許を授ける「印可状」的な性格をもっている。

 山崎は「黄素妙論」の実践それ自体を美学としてはみていない。が、私はこの理解と実践には茶道のような一種の美学的な側面もあったのかもしれないと考えている。弾正といえば、下剋上時代の典型的な人物と見られるが、信長との茶道具の確執からもわかるように、当代一の審美者でもあった。
 茶道と「黄素妙論」的世界というと、川端康成の「千羽鶴」が連想されるが、この小説はどっちかというと、「雉を食べ卵を食べる(コンモッコ・アルモッコ)」的だが、魚接勢などを見ると、いわゆる夫婦和合というものでもないようだ。
 とはいえ、広義には「黄素妙論」は養生法であり、これに従ったであろう曲直瀬道三は八四歳という当時としては超長寿であった。しかし、晩年は切支丹に入信している。回心したのかもしれない。

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コメント

あまりに深遠すぎて誰もコメント書けませんって。
カーマストラがチラッと頭の中をよぎったのですが、目的が違いますもんね♪

投稿: むぎ | 2005.05.15 06:10

曲名瀬道三の子孫はナベプロ(渡辺晋の奥さんがそう。父親が経営していたマナセプロがナベプロの元)に繋がるそうです。眉唾ぽいですが。

投稿: そういえば | 2005.05.16 23:15

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