« ドイツ終戦記念とヤルタ会議評価の行方 | トップページ | 繊維問題についてのメモ »

2005.05.10

蚕の話から雑想

 蚕の話から。特に今日蚕の話をする理由はないのだが、季節的には「掃き立て」(参照)である。大辞林をひいたら「養蚕で、孵化したばかりの毛蚕を、羽箒などを使って集め、新しい蚕座に移し広げること」と説明されていた。春の季語でもある。私はこの言葉にちょっと胸にきゅんと来る感じがする。
 養蚕業の農家は和紙に産み付けられた蚕卵を購入し、これを孵化させる。これを掃き立てとして、今時分、新聞紙を敷いた浅い竹籠に書き落とすのだが、要するに、こいつらは蚕の赤ちゃんである。だから、桑の若芽を細かく刻んだ芽桑を与える。最初に与える桑でもある。ここから蚕と桑との半年の生活が始まる。
 蚕のことが気になったのは、昨日だったか、ラジオで「インド養蚕普及強化計画」の話を聞いたせいもある。この計画は、名前のとおり、インドに日本が持つ高度な養蚕技術を移転しようとする計画だ。インド政府から要請があり、1990年代の始めから継続的に実施されていたらしい。
 ネットを覗くといくつか情報があった。少し古いが「JICA-事業事前評価表 インド 養蚕普及強化計画」(参照)ではこうまとめている。長いが興味深いので引用しておきたい。なお、多化性蚕とは年に三回以上卵から孵化する蚕、二化性蚕とは自然状態で年二回孵化する蚕だ。一般的には、二化性が高品質であり高級絹織物の縦糸に使われる。


 インドで生産される生糸の大部分は収量・品質の劣る多化性蚕(※1)または二化性蚕(※2)と多化性蚕の交雑種であり、品質の高い二化性生糸については、国内需要のほぼ全量を中国からの輸入に頼ってきた。インド国内における生糸生産量は増加傾向にある一方、生糸輸入も増加しており、1994/95年には国内生産の3分の1に迫り、国内蚕糸業を圧迫しつつあることことから、自給体制が急がれている(表1参照)。このような状況下、インド政府は、「国家養蚕開発計画」(1989/90~94/95)のなかで、二化性養蚕技術開発について我が国に協力を要請し、JICAはプロジェクト方式技術協力「二化性養蚕技術開発計画」(1991~1997)(以下「フェーズ1」)により、現地に適した蚕品種育成等の技術開発を行った。
 その後、インド政府は、フェーズ1で開発された技術をさらに農家レベルに定着させるための協力を我が国に要請した。そこで、フェーズ1で開発された技術成果を農家レベルで実用化する技術協力プロジェクト「二化性養蚕技術実用化促進計画」(以下「フェーズ2」)を1997年4月1日から5年間実施した。
 フェーズ2では、インドにおいて二化性養蚕が導入可能であることが実証され、かつ農家の所得向上等の成果が見られた。そこで、インド政府は、生糸生産の9割を占める南部3州(カルナタカ州、アンドラ・プラデシュ州、タミルナド州。表2参照。)において、これまで実証された養蚕技術を普及し、二化性生糸を2007年までに6,700トンに増産する計画を策定し、2001年1月、我が国に対しフェーズ3となるプロジェクト協力を要請した。

 単純に言えば日本の養蚕技術をインドに移転することで現地の養蚕業による収入アップを図るということだ。日本とインドとでは気候が違うのでそのあたりが気にもなるのだが、すでに15年という年月をかけているので問題もないだろうし、おそらくそうした活動を通した副次的な支援効果も大きいのだろうと思う。
 そういえば、東高円寺の駅前に昔、蚕糸試験場があった。現在は、蚕糸の森公園となっている。ちょっとネットを見たら、前身は明治四四(1911)年創設の原蚕種製造所だったらしい。ここに蚕糸試験場があったのは、この地域でも養蚕業が盛んだったからだ。以前は趣のある煉瓦の建物があったが、と思い出すに、最近はあの界隈は散歩もしていないな。また、この脇道沿いの蓮光寺にチャンドラ・ボーズの追悼がてら寄ってみようかとも思う(参照)。
 日本から養蚕が消えてもインドに移植されるのは日本人としてはなんだか嬉しいような気もする…と、なにも日本から養蚕が完全に消えたわけでもないのだろう。しかし、1998年に国産生糸の買い支え制度が撤廃され、事実上、産業としては壊滅した。資料をあたると、1993年に一万トン強もあった国産繭の生産量は、2003年には約七六〇トンとなり、生糸生産も同じく約四千トンから三百トンを割るまでになった。しかたがないといえばそうだろう。
 個人的には、養蚕とふれあってきた日本の歴史が消えるような寂しさを感じる。
 私の両親は信州人で、私も子供のころ母の生家でよく蚕と過ごした。その地では「おかいこさま」と呼ぶのである。繭を作り始めるころは、「びーどろ」とも呼んでいた。そのビードロを取り分ける手伝いなどもよくした。夏の夜だったが、蚕のいる部屋の隣で寝ていると、蚕が桑を喰う音が、しゃーっと水を流すように聞こえた。よく覚えている。思い出すと、自分がどうしようもなく日本人なのだなと感傷的にもなる。
 なので、私は、桑の木はよくわかる。どの土地に行っても、桑の木はさっと見つける。沖縄にも桑が多くて驚いた。土地の人に昔は養蚕をしていたのかとなんどか訊いたが、要領を得ない。どうも、その実が美味しくて植えているようでもあった。シーミー(清明)のおりなど、子供たちがよく口の中を赤くしていた。
 そういえば、そういうやつがいたなと思い出す。オハイオから来た、あの頃、自分と同年くらいの青年で、日本の民家を学ぶのだと言っていた。一度、民家周りがてらに一緒に田舎を散策したら、嬉々として桑の実を摘んでは、ほうばっていた。懐かしいらしい。たしかに、桑の実はマルベリー(mulberry)として米人にも馴染まれているものだろう。
 彼の名前は忘れた。なんで民家が気になるのかと訊いたら、大工になるのだと言う。なんで大工になるのかと訊いたら、イエス・キリストは大工だったからだと言う。ワケワカメ。ま、なんでもいいや。今頃、どんなおっさんになってどこで、どんな家を建てているのだろうか。

|

« ドイツ終戦記念とヤルタ会議評価の行方 | トップページ | 繊維問題についてのメモ »

「生活」カテゴリの記事

コメント

蚕ですか。懐かしい。
私の育った地方では「おこさま」と呼んでいました。おそらく「おかいこさま」を短くしたのでしょうが、いずれにしても蚕を本当に大事にしていたことがわかる呼び方です。
桑畑もめっきり減りましたね。子供の頃、桑の実(ドドメ)を食べては口のまわりを紫にし、母に「不衛生だから食べてはいけない」とよく叱られたものですが。

投稿: no_hay_banda | 2005.05.11 01:27

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 蚕の話から雑想:

« ドイツ終戦記念とヤルタ会議評価の行方 | トップページ | 繊維問題についてのメモ »