明日は韓国も「こどもの日」
連休が続く。雑談である。この時期日本では黄金週間とか言われ由来もはっきりしている(参照)。海外に出る日本人も多いが他国にはこうした休日がないので海外の観光地は狙い目とも言えるし、観光地のほうでもオフシーズンに客が来て嬉しいものだろう。理由は知らないのだが、この時期、休日が多いのは日本だけかと思っていたが、中国もそうなった。あるいは、以前からそうなのかもしれないが。いずれにせよ、そういうことなので、華人もこの時期繰り出すということになる。
韓国では明日五月五日が「こどもの日」である。と聞けば、日本人の感覚としてはそれって日本統治下の風習でしょと思うのだが、そこはそれ、あれとかこれとかと同じように別の起源をこさえているので、日本由来ではないということになって、ゆえに問題にもならない。じゃ、野暮なことは言うまいとも思うのだが、少し書いてみる。
韓国の言い分としては、もともと五月五日というのは祝いの日なのだというのがある。節供だし。ただ、旧暦の地域で八年暮らした私なので、そりゃ違うでしょ、と思う。新暦で節供は祝わないか祝うとしても、その意識は残る。例えば、昨日から、那覇(なーふぁ)ではハーリーが始まっている(参照)。ハーリーというのは爬龍船競争である。ぺーロンなんかと同じ。日本人の感覚からするとふーん、ってなものだが、実は世界で二番目に参加人口の多いスポーツらしい。一番はなんだか知らないが。華人が行えばそりゃ一気に人口が膨れる。爬龍船競争の由来については、屈原などの話も書きたいところだがうざったいのでパス。ただ、いろいろ考証するとめんどくさいことがあるが、実際的には伝統社会では、これは、女子どもの節供で、男の子の祭というものではなかった。特に朝鮮ではそうした歴史・伝統を持っていた。
中華圏の伝統文化は春節がそうであるように、そう単純に新暦には移動しない。那覇は新正月運動みたいなものと一緒にハーリーまで新暦に持ってきたが、こういうことができるのは、実に近代日本に特有なもので、伝統社会では異なる。特に、世界のことは海と私だけ、という海人(うみんちゅ:漁撈民)などは近代国家なんか糞。それを引いた糸満ではきちんと旧暦でハーレーを行う。ハーリーではないのだ。やってることは同じように見えても、そこに生きる宇宙の時間は異なるものだ。かーんかーんとハーレー鐘が鳴れば雨期は終わる。そういう人の生きる時空というものがある。
な・の・で、朝鮮が、こどもの日だけ新暦に持ってくるというのは、私にしてみるとすごい疑わしい。一応、朝鮮の歴史としてみると、1923(大正一二)年に方定煥(バン・ジョンファン)らが起こした活動によって「こどもの日」に相当する記念日(オリニナル)が提唱されたとされる。が、1927(昭和二)年には早々に新暦五月五日になった。言うまでもないが、日本統治下の時代のことだ。
方定煥が東洋大学で学んでいた時期はちょうど、日本でも大正デモクラシーの興隆期でもある。鈴木三重吉が「赤い鳥」を創刊したのも1918(大正七)年で、こうした日本の大衆文学的な動向が高まっていた。児童文学というジャンルも確立した。このたりは文学論としてとても興味深いのだが今日は立ち入らない。ただ、この児童文学の動向の中心的な人物といえるのが巌谷小波(参照)で、方定煥が「小波」と号したのも、巌谷小波にちなんでのことだろうと推測される。
現代の韓国の「こどもの日」は、戦後1946年に制定されたものだ。韓国では、これに八日の「父母の日」、一五日の「師匠(先生)の日」が続く。現代韓国人としては、子どもの日もそうした一連の記念日として理解しているのだろう。
と、書いたものの、なにも、現代韓国に対して、「こどもの日」は戦前の日本に由来すると声高に言いたいわけではない。ただ、方定煥の時代とその生き様はもう少し韓国で顧みられていいのではないかとは思う。「いや、そんなこと日本人に言われるスジはない、方定煥についてもきちんと研究され、韓国民はみなその歴史を知っている」ということであれば、それはそれで私の、結果的に良い誤解でもある。
追記(2005.5.7)
メールマガジン”[JMM 321F] 「子どもの日」Younghee Ahn の韓国レポート”にこの問題が扱われていた。このエントリに対する反論でもなく、大筋では韓国側から主張どおりなのだが、この問題に関心を持つ人のための情報補足ということで、追記したい。
エントリとの相違点で史的につめていくべき点は以下。
偶然、日韓の「子どもの日」が5月5日と同じ日であるが、その由来はまったく違う。バン先生は、日本の植民地時代である1923年5月1日を「子どもの日」として提唱し、天道教の恒例行事となり1927年には5月の最初の日曜日となった。しかし、彼は1919年の万歳運動や様々な独立運動に参加する社会運動家だったため、1939年からは日本の弾圧により中断された。しかし、太平洋戦争が終わった1946年5月の最初の日曜日から再開された。ちょうどその日が5月5日だったため、その後は5月5日に決められた。1975年からは国民の祝日となって今に至る。
この主張が史的に間違いであるとは思わない。ただ、1927年時点での扱いについて、ここでは、「天道教の恒例行事」としているのだが、当時の日本統治下での一般的な朝鮮の家庭でそれがどのような扱いになっていたが重要だろう。
私の現時点の推測だが、大半は日本本土側と同じであったのではないかと思う。つまり、5月5日を端午の節句として祝っていたのだろうと。
そう推測する補足は、海野厚・作詞、中山晋平・曲の童謡「背くらべ」である。この曲は、この曲は、1919(大正八)年雑誌「少女号」が初出で、1923(大正一二)年には童謡普及の貢献した鳩の笛社の童謡楽譜集「子供達の歌」第三集に掲載された。以降、この曲が日本人に馴染まれそこに描かれている風俗が存在し、そして朝鮮まで行き渡っていたと想像することは自然であると私は考える。
一
柱のきずはおととしの
五月五日の背くらべ
粽食べ食べ、兄さんが
はかってくれた背の丈
きのうくらべりゃ何のこと
やっと羽織の紐のたけ二
柱に凭れりゃ、すぐ見える
遠いお山も背くらべ
雲の上まで顔だして
てんでに背伸(せのび)していても
雪の帽子をぬいでさえ
一はやっぱり富士の山
1927(昭和二)年時点ではそうした、こどもを祝う風俗が朝鮮でも普及したのではないかと思う。
これを「オリニナル」という新語で捕らえ直し、朝鮮の子供を重視した方定煥の志の高さは評価できるが、実際の風俗、実質的な「こどもの日」の普及という点では、むしろ後代の解釈しなおしではないかとも疑われる。
いずれにせよ、日韓ともに、1946年以前は実質的には「こどもの日」であってもその名前どおりでもなかったという点も補足しておく。
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コメント
なんというか、国民の祝日までわざわざ日本のこしらえ物を朝鮮起源と叫ばないとやっていけないなんて疲れる国だことで・・・
日本人としては、右翼左翼抜きにいい加減日本離れして欲しいところ。隣の人が声高に「それは私が考えついたことだ」なんていわれたら普通嫌な気持ちになりますからね。
投稿: あぁ | 2005.05.06 21:07