[書評]希望格差社会(山田昌弘)
以前に読んで心にひっかかったものの、そのあたりがうまく言葉にならず、もどかしく思ったまま、そういえばこの本について結局なにも書いてこなかったことに気が付いた。と、いう次第なので、いまだにうまく思いがまとまらないが、気にもなるので、書きながら、考えてみたい。
![]() 希望格差社会 |
現在の日本は職業、家庭、教育のすべてが不安定になり2極化し、「勝ち組」「負け組」の格差が拡大している。「努力は報われない」と感じた人々からは希望が消滅し、日本は将来に希望が持てる人と絶望する人に分裂する「希望格差社会」に突入しつつある。
このまとめは誤読だ、とも思わないが、一つ重要なキーワードが抜けている。「リスク社会」だ。リスク社会があり、二極化があり、希望格差があるという連鎖が本書の骨子だと私は読んだ。
そのリスク社会という概念だが、これはウルリヒ・ベックの「危険社会―新しい近代への道」から山田が借りているもので、こちらの書籍では標題ではリスクが「危険」と訳されている。これはもちろん誤訳に近い。虎穴に入らずんば虎児を得ずというリスクで、リスクをテイクしない人間は得るものがないという場合のリスクのことである。
リスク社会は、単純に「努力は報われない」というのではなく、努力はそれ自体が水泡に帰す可能性のあるリスクとなる、ということだ。そして、その失敗でドツボったら負け組というわけだ。
と、ここで、いきなり本書の枠組みからずれるのだが、しかし、負け組になってもチャレンジして這い上がることができればいいじゃん、というのはあるだろうか?
実際、山田のこの書籍から提起を受けた形で、この四月にNHKの『日本の、これから』「格差社会」という長時間番組が放映され、山田も出演していたのだが、番組の主眼はなんといってもホリエモンだった。当然、勝ち組の代表という役回りでもある。そこで、彼は、まさに、「失敗したらやり直せばいいじゃないか、できますよ」、というふうに、なんどもぶちかましていた。
そのあたりで、番組では話が空転したように思う。確かに、建前では、ホリエモンの言うように、再チャレンジがなんども可能だし、彼の言葉にはある種のカリスマティックな響きもあった。
ここで私の思考は一旦止まる。
個人的には、俺はホリエモンにはなれないよ…つまり、この私は希望をすでに失った負け組であり、しかも、ホリエモンの言葉に対抗できそうにもなく自分から負けているのである。
再チャレンジができるから負け組は固定していないのか。
その答えは…私は実感としては、わからない。が、しいていうと、ホリエモンの主張が結果として示唆しているのは、博打型人間の創出だろうと思う。そして、それ自体が、実は、絶望の別形態なのではないか、と私は疑っている。
話を本書に戻す。要するに、リスク社会の出現によって、努力は必ずしも結果に結びつかず、転けたら負け組になり、二度と這い上がれへん、もう、希望なし、というのが今後の日本だというわけだ。
確かに、生温かく日本を見ると、それはそうだなと思う。
違和感があるとすれば、そうした社会参加の側面のリスク・テイクと二極化というのはわからないではないが、家族問題(元来山田の専門は家族社会学)に適用し、特に、結婚という家族のありかたも、社会と同型の二極化として見ていくあたりにつては、本当にそうなのか。
というのは、私はどっちかというと吉本隆明主義者なので、共同幻想(社会)と対幻想(過程)とは別の次元だというふうにまず考える。
だが、では、家族形成、つまり、結婚において、希望格差というのはないのか? あるいは原理的に克服できるのか?
そこでまた思考が停止する。いくら原理的には独立していても、実際には、結果的に山田の考察どおりでいいのだろうと思う。つまり、ダメじゃん、俺の考えなんてダメダメ、でもある。家族というものもリスク社会に取り込まれている。家族形成にも負け組がある、と。それが、結婚できない層の人々なのだと……かなり私には違和感はある。
少し話を進める。
こうした希望格差社会をどう是正したらいいのか?
私の本書への理解が違うかもしれないが、ここで提言されているのは、要するに、努力を社会制度に吸収し、リスクを限定すればいい、ということだろう。比喩的に言えば、自動車教習所的社会を構築せよ、と。受講者の大方が合格できる社会にしとけと。そして、おそらく、山田は明示してないと思うが、その受講を階梯化し、その過程で徐々にセイフティーネットに人々をふるい落とす社会にしておけ、ということだろう。
そりゃ、そうかなと思う。
でも、たぶん、そんな社会にはなりっこないし、そういう社会を構築するための道もわからない。
通常の近代国家の市民なら、制度とは、作為の契機として出現するし、政治活動の課題となる。でも、日本はそうならないだろう。
そうなる気配もないどこか、逆に、リスク社会と二極化を固定し、実質の階級を構成していて、その階級から出られないような社会に着実に向かいつつある。
個々人の自覚なりが日本の社会をそうした希望格差社会を改善する契機として存在するかと言えば、その努力も多分に無意味になるだろう。
結局、どうしたらいいのかというと、私はわからないし、絶望しているに等しい。本当に絶望しているのかというと、そのあたりはよくわからない。毎日ブログを書いているのはなぜなんだい? どっかに希望とかを考えているんじゃないかね? と問われれば、取りあえず、なんかの希望を捨ててもいないようにも思うからだ。
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コメント
オジャマシテイマス。
いいんじゃないですか、絶望と希望のハザマで。ナンダカンダって言っても実質的に階級や希望格差もあるんだし。堀江君も山師的な発想というより、ごくごく普通のヒトの発想だと思うんです。規模の大小は別として。本人が現状で納得するかしないか、そして納得してないからなにかしらチャレンジするとか、納得してないケドまぁいいかと思っちゃうのか。
国とか社会にナニカを求める問題ではなく、大きな時代の流れの中で、その社会や国家を形成している人々のトレンドが反映されてるダケなんじゃないかな、なんてオモイマス。
デモネ、やっぱりニンゲンってアキラメが悪いんですよね。だからこそ「絶望と希望」が生まれる。まぁ、あきらめられないから皆こうやって書いてるんだと思うんですよ。いいじゃないですか、それで。それ以上でもそれ以下でもないし。そこからナニも生まれないなんて、誰にも言い切れないし。
投稿: Nagarazoku | 2005.05.20 10:04
>ホリエモンの主張が結果として示唆しているのは、博打型人間の創出だろうと思う。そして、それ自体が、実は、絶望の別形態なのではないか、と私は疑っている。
このくだり、なるほどと思わされました。何かに自分を傾けはしても、傾けるということの意味・価値を信じられなくなってしまっているような。
「投企」という言葉が思い浮かびましたがちょっと違うかもしれません。検索したら
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kuribou/gendaisisou1.htm
というページが見つかりましたが、なんとなくテーマとしては近いようにも感じました。
「対幻想(過程)」は(家庭)の誤変換でしょうか。このあたりの領域について希望格差という論の立て方があてはまるのかよくわからないので、まずは本を読んでみようかと思います。ただ、あてはまるとしたらそんなことわかりたくもないという気もします。
>個々人の自覚なりが日本の社会をそうした希望格差社会を改善する契機として存在するかと言えば、その努力も多分に無意味になるだろう。
のあたりが絶望につながると思うのですが、かといって、「努力すること自体が本人にとっては救いとなるからそれでいい」だとか、「別に努力が無意味になってもいい、努力そのものが貴い」などと安直なことを書こうとは思いません。
にもかかわらずfinalventさんの希望が無意味だとはどうしても感じられませんし、私自身も社会が改善されることに希望を抱いています。不思議ですが、ただの錯覚とは思いません。
私たちひとりひとりが絶望的な現実をきちんと認識した上で、多分に無意味であっても(日記のほうでも書いていらしたように)まずは一歩進んでみると、一歩進むのでしょうね。この記事もその実践の一つとして拝読しました。
投稿: 左近 | 2005.05.20 10:45
>そうなる気配もないどこか、逆に、リスク社会と二極化を固定し、実質の階級を構成していて、その階級から出られないような社会に着実に向かいつつある。
このくだり、実感としてはそうなのに最近はなかなか正面から触れられない部分だと思っています。これを素通りすることで、躁的なポジティヴ・シンキングの中へ飛び込んでゆくような世の中。
渋谷望『魂の労働』という書を思い出しました。
投稿: ânon | 2005.05.20 11:44
この本は私も読みました。
確かに日本は格差がより拡大する社会へ、またそれを認める社会へ変わりつつあると思います。
ただ現在の日本の高度大衆化社会のグロテスクな側面を考えれば、そのような社会の方向性もありかなと肯定的にとらえる気持ちもあります。
この気分は割と広く共有されているのではないでしょうか?
投稿: harubon | 2005.05.20 13:01
あまり読みたい本ではありません。。
記事の中に紹介されている「日経ビジネスのレビュー」だけで充分、かな。生意気かも、ですが、勝ち組と負け組という流行語(?)が大嫌いだからです。
投稿: むぎ | 2005.05.20 13:32
とみに女性的な観念(失礼)の勝ち組み論は自分もあまり好きではない(年収とか結婚とか)。
個人的に言うならば、国民総中流意識だった今までが変だっただけだと思います。周りと同じだからなんとなく安心・幸せを感じていた今までの人々が、変わっていく現状に気付いて、怯えて、ステロタイプな枠組みを勝手に作ってあおっているだけにしかみえない。個人の幸福の価値基準をもうちょっと自分の脳みそで考える必要があるんでないでしょうか。
その幸福の基準のある人は、失敗してもやりなおせる人なんじゃないかな。と。
ガキくさい考えかな。
投稿: 路傍の石 | 2005.05.20 16:15
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001919.html
その筋では有名なブログです。「希望格差社会」を読んだ時に最初に参照したのがこの文章でした。
個人的には「希望格差」というより「不確実性」という言葉のほうがより現代の状況に近いとは思います。
で、私の意見ですが、私は現在のような状況が長期間続くとは思っていません。
1、日本の歴史を考えた場合、混乱期が続く期間はせいぜい20年ほどです。それ以上たつと再び社会が安定化する方向へ時代が移ります。日本人が現在のような混乱期を長時間耐えらる民族性を持っているとは私は思いません。
2、希望格差の勝ち組と呼ばれる人が本当に「勝ち組」なのかついて私は疑問に思っています。
http://consul.club.or.jp/blog/7
あるいは
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4822243184/qid%3D1116594183/249-2791456-6501963
勝ち組と呼ばれるSB・楽天・LD・カカクコムなどの決算書を見る限り、我々の眼に映っている姿は実像を何十倍にも拡大している幻に過ぎません。
勝ち組といわれる者がいかにいかがわしいか知れ渡ったときが再び固定化に向かうときだと私は考えます。
投稿: F.Nakajima | 2005.05.20 22:05
体を壊して何年も引き篭もっています。私には資格も学歴もコネもないので、社会復帰できたとしても就職先などないのだろうなと思っています。結婚したいとも思いませんし、子供が欲しいとも思いません。望んでいるのは健康ですがはっきり言って難しいでしょう。多くの人がごく当たり前のように毎日しているうような事でも私には困難です。それでも、平和な国に生まれ、明日の飯にも困らずに親が健在な限りは引き篭もっていてもたぶん暮らしていけるのだから、充分恵まれているじゃないかと思います。「ご飯が美味しいなあ」とか、「気持ちよく眠れたなあ」とか、それでいいじゃないかと。人生ってそんなもんだろうと。そう思って日々生きています。
投稿: あ | 2005.05.20 23:39
興味深く拝見しました。社会人になる前の受験勉強からしてそうですね。合格可能性80%の志望校で安全策をとる人もいれば、ダメモトで合格可能性20%未満のギャンブルに挑む人もいる。全滅すれば受験勉強の努力は水泡に帰す。努力が大きければ大きいほど失敗したときのショックと絶望感も大きい。たしかに負けたらやり直せばいいが、同じ土俵で漫然と戦い続けたら一足先に成功した人たちを越えられない。でも努力すべき新たなターゲットはなかなか見いだせない。決して昨日今日の話しではないと思うのです。これまでのセーフティーネットとして経済成長がもたらす前向きなセンチメント、経済成長を目指す政策、政府の求心力に裏打ちされた分配システムなどがあったと仮定します。とすれば今日の困難は、経済的に成功して目標を見失ったことにある。新たな方向性が見えればマクロ的には自ずと解決されることが多いように思うが、昨日までパッシブに生きてきたのをいきなりアクティブになれと言われても・・・そりゃ途方に暮れますよね。
投稿: ハリー | 2005.05.21 00:23
いつも楽しく拝見させていただいております。
社会の動きですが、
国民総中流意識←社会→勝ち組、負け組
のようにバネみたいに動いているのではないでしょうか。びよよ~んと。
だから最近は、「国民総中流意識が強すぎたかな。ちょっと勝ち組、負け組にシフトしようか。」みたいな。
勝ち組、負け組ってどうでしょう。
私は
「あなたは勝ち組ですか?負け組ですか」
と聞かれても
「よく分からん。」
としか言えません。
国勢調査であなたは勝ち組?負け組って聞いてもらえないかな?
1、勝ち組
2、負け組
3、分からん
4、問に興味なし
どんな順番になるだろうか。
それと1の人にはどんな理由で勝ち組と言い放つかも興味深いです。
「人生、しゃーなしやで」
と笑い半分、ためいき半分の
ワカゾウでした。
投稿: ワカゾウ | 2005.05.21 15:01
すくなくとも以前のような幸福な時代がもう来ないだろうという事は理解できる。リスクを計算もせず只闇雲に努力するだけでよかった幸福な時代はもう来ない。
たとえ虚業だといわれても金を儲けたものの勝ち、確かに財務諸表はぼろぼろだけど球団を持ち、銀行を買収し、証券会社が金を出す。
一次産業から二次三次と変わっていったように情報を征したものが支配者へと替わる、当然そこに道を持たない人間は少しずつスポイルされていくのだろう。
投稿: ash | 2005.05.21 15:17
経済格差の拡大をもたらした新保守主義の政治は、イギリスでもアメリカでも、国家と国民を分断した「失政」であると言う評価でほぼ決着がついています。
本家のイングランド保守党ですらサッチャリズムを過去のものと断じて放棄しているため、かつて我が国で新保守主義を標榜していた者たちも実は動揺しています(スコットランド保守党はサッチャー政権当時からサッチャリズムには反対だった。)
既に小沢一郎は新保守主義を放棄し、ローカルナショナリズムの側面を隠さなくなりました(これもイギリスの真似です。この方は元ネタは実はイギリス。)小沢チルドレンによる「小さな研究会」も当初の目的とは違った研究結果を発表しなければならないでしょう。
累進税率を強化して、再分配後の所得分配不公正度をEU諸国並みにすれば、自ずと社会は活性化します。
これに対して、新保守主義者は資本が海外に逃げると言って反発するでしょうが、これまで経済のグローバル化とバザール化を良しとしていた彼らにそんなことを心配する資格はないのです。勝手にどこにでも出て行けばいい。(でも彼らは出て行きません。自称「愛国者」だから。笑。)
イングランドが今後の日本のモデルになると思います。
投稿: vodka | 2005.05.22 03:01
>累進税率を強化して、再分配後の
>所得分配不公正度をEU諸国並みに
>すれば、自ずと社会は活性化します。
賛成です。私は上記のような政策を
望んでおり、全く同感なのですが………
日本の政財界の現在状況から推定すると
このような政策が今後取られる可能性は
かなり低いのではないかと思うのですが…。
政財界の癒着により、財界上層部と
政界上層部が累進課税を骨抜きに
する方向で進んでおりますし、
なにより大勢の国民がそれを受け入れて
しまっていますから。
私は日本の今後のモデルはアメリカ型で、
より不平等化が極端に進むと予想します。
投稿: kagami | 2005.05.22 10:39
>kagamiさま
>vodkaさま
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je02/wp-je02-2-1-01z.html
見る限りではこれ以上の所得税のフラット化は無理です。国際比較の観点から見れば充分でしょう。
逆に税制審議会では高額納税者の最高税率を元に戻そうという意見がでていますし。
現実に世界中でFLAT INCOME TAX!と声高に叫んでいるのはアメリカ人だけのようです。それですら実は実行に移されたのは現ブッシュ政権になってからで、クリントン政権時代には逆に累進性を高める税制改革を行っていたんですから。
http://www.mof.go.jp/kankou/hyou/g492/492_a.pdf
ところがね。それを頬かむりして、
http://www5.cao.go.jp/j-j/sekai_chouryuu/sh02-01/sh02-01-01-01.html
注釈の部分でこそっと訂正を入れているのが姑息です。
投稿: F.Nakajima | 2005.05.22 12:10
この問題に関していうと最大の問題点は努力しない人と弱者を混同している輩がメディアの中に多過ぎることなのでは?
投稿: デジ1工担者 | 2006.02.16 00:54
なんていうか、finalventさんの主張は、敗者のたわ言・愚痴にしか聞こえません。
あるいは『希望格差社会』を読んでの私の感想は、「数が多い負け組を味方につけて金儲けしたいだけなのかな」って感じです。
それと、「生温かく日本を見ると」などという、頭のおかしい2ちゃんねらーしか使わないような言語表現を使ってる時点で、「ああ、こいつはマトモじゃないな」って思われてしまって損ですよ。
投稿: 太田 | 2007.01.08 02:22