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2005.05.31

伝統社会的な人間は現代社会において心を病むものではないのか

 話は海外小ネタものなので他のブログが取り上げているか、すでに翻訳が出ているかわからないが、今日付のロイター”Trauma common feature of American Indian life”(参照)が興味深かった。
 標題を現代日本語で訳すと「ネイティブ・アメリカンの生活ではその多数にPTSD(心的外傷後ストレス障害)が見られる」となるだろうか。いや、それはちょっと悪い冗談だ。シンプルに訳せば「アメリカ・インディアンの生活の多数にトラウマ(心的外傷)が見られる」となるだろう。
 冒頭も簡単に意訳しておこう。


More than two-thirds of American Indians are exposed to some type of trauma during their lives, a higher rate than that seen in most other Americans, new research reports.

"American Indians live in adverse environments that place them at high risk for exposure to trauma and harmful health sequelae," write Dr. Spero M. Manson and colleagues in the American Journal of Public Health.
【意訳】
 最新の調査によれば、三分の二のネイティブ・アメリカンがその人生において数種類のトラウマ(心的外傷)の症状に置かれており、この比率は他のアメリカ人よりも高い。
 調査を行ったスピロ・マンソン博士らは、アメリカン・ジャーナル・オブ・パブリック・ヘルス誌で「ネイティブ・アメリカンは、トラウマや健康にとって危険な後遺症を示すリスクの高い逆境のなかで生活している」と記載している。


 症例を持つ比率はアメリカ人の二倍程度らしい。
 オリジナルの調査は同誌のWebページ”Social Epidemiology of Trauma Among 2 American Indian Reservation Populations”(参照)で読むことができる。
 調査では大きな二つのネイティブ・アメリカンのグループが対象となっている。興味深いと言ってはいけないのかもしれないのだが、言語、移民、貧困の問題といった点で異なるグループでも、植民地化という点での共通点があり、その派生として、同質のトラウマが見られたようでもある。トラウマの内容については十六種に分かれていて、典型的な項目にはすぎないのだろうが、洪水や火事などが私には気になった。
 アメリカ国内でネイティブ・アメリカンの置かれている状況については、最近の私の読書のなかでは、極東ブログ「 [書評]蘭に魅せられた男(スーザン オーリアン)」(参照)に触れられている話が興味深かった。米政府としても、土着のネイティブ・アメリカンの文化を配慮しているようすは伺える(それが同書ではねじれた問題を起こしている)が、それでも、現代文明とネイティブ・アメリカンの生活の軋轢は強く印象付けられた。
 以下は私の印象で、多分に間違っているのかもしれないとは思う。というか、「パパラギ」「リトル・トリー」といった偽書のように、とんちんかんなことを言っているのかもしれない。
 この調査について私は、ネイティブ・アメリカンの生き方というものが、根本的に米国の現代文明とうまく折り合いが付かないのではないかと思った。凡庸な意見でもあるのだが、私なども若い頃はアメリカナイズした文化のなかに置かれてなんとか適合しようとしたが、うまく行かなかったし、歳を取るにつれ、より日本的な文化のなかに心の安らぎを見いだすようになってきた。
 日本人はかなり上手に近代化した国民と言えるのかもしれないが、西欧的な現代化の世界のなかではうまく生活していくことはできないのではないかとすら思う。そして、そうした生きがたさというのは、とりあえずは個人の心の問題として浮かび上がるのだろうが、これもなんというか、もっと大枠としての文化の無意識の病のように思えてくる。
 話はさらにそれていくのだが、バルザックだったか、後年人生を振り返って思い起こすことは四つだったとか言っていた。いわく、結婚した、子供が生まれた、父が死んだ、母が死んだ、と。
 「自己実現」ということはよくわからないのだが、自分の才能なりを充分に開花して生きるということが個人の問題に還元されているように思う。しかし、人というものは、男女であり(結婚した)、親であり(子供がうまれた)、子であり(父が死んだ、母が死んだ)というある種のひな型のようなものを辿るようにはできている。それは、もちろん、現代の社会では、選択として現れる。
 しかし、こうしたひな型的な人の経験というものは、選択として現れるものというより、それを元に我々を存続せしめた要因であり、それを「大事にせよ」とする個人を越えた心理的な枠組みが伝統的な文化の心性に存在するだろう。
 伝統的な心性は現代社会では病みうるものだし、それが病むということ自体がその重要性の側の問題を提起しているようにも思う。

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コメント

finalventさん、こんにちわ、

深く深く同意してしまいます。なんというか、共感を覚える価値観を持っている人...いや、人のことはどうでもいいです。自分自身が伝統的な価値の中で生きようとしても生きていけない、無理に適合しようとしても精神的に非常なストレスを感じるという状態を山と谷のように何度か経験しました。まあ、私の経験など大したことはないのですが、あまりに要求されているものと、自分自身の内的な部分との乖離の大きさにお手上げ状態に時々なるのは否めません。

投稿: ひでき | 2005.05.31 14:02

はじめまして。
いつも楽しみに拝読させていただいています。
今回のテーマは、日本でいえばニートや引きこもり問題につながるのでしょうか?
というか、つながるかな、と私は思ったのですが。
グローバル化とそれに適応できない人たちという図式を使えば
そのまま「現代アメリカ文化 vs ネイティブインディアンの文化」
イコール
「グローバル化 vs ニート・ヒッキー」というふうに。
ただ、伝統文化という点ではうまくつながりませんね。

あと、初めての書き込みで僭越ながら
"some type of trauma" は 「数種類のトラウマ」ではなく
「ある種のトラウマ」ではないでしょうか?
すいません、別に揚げ足を取りたいわけじゃないんですが
なんというか、初めて父親に腕相撲で勝ったときのような感じがしまして、つい(笑)
ていうか、そんなに若くはありませんですが(爆)

毎日読んでいますのでこれからもよろしくお願いします。

では。

投稿: たく | 2005.05.31 22:06

>アメリカ国内でネイティブ・アメリカンの置かれている状況
専門的な情報ではないので恐縮ですが、先日観た映画"Thunderheart"(1992年。邦題「サンダーハート」)にそれがうかがえました。インディアン居留地で起こった事件をインディアンの血を引くFBI捜査官が調査するというサスペンスで、ストーリー自体はフィクションですが、ストーリーの基となる設定は結構現実の状況を反映しているのだろうなあと興味深く観ました。

「自己実現」ということは私にもよくわかりませんが、今思えば若い時分からそういうものが「自分の性分には合わないな」という感覚はあったように思います。でも既に世代的にそういうものの達成こそが個人の人生には大切なことなのだという環境に育っており、そういう考え方(既に自分のものとなっている)と自分の性分の間で葛藤が起こり、若い頃はそれが結構しんどかったような覚えがあります。今は「自分」というものを前ほど意識しなくなったせいかそれほど悩まされませんが、それでもたまに「そういうもの」に向かう心の動きと、それに伴う精神的な押し問答みたいなものを感じます。

投稿: 西方の人 | 2005.06.01 01:40

たくさん、こんにちは。

>「ある種のトラウマ」ではないでしょうか?

英語、そうですね。全体を読んでから、幾種類もあるなと思った先入観でとちったかも。とりあえず訂正タグは入れないでおいときます。

いろいろご指摘ください。反論もどうぞ。多事争論ですよ。

(罵倒みたいのだって洒落がきいているといいんですけど。)

投稿: finalvent | 2005.06.01 08:57

>「パパラギ」や「リトル・トリー」といった偽書

偽書だったんですか?(驚
てっきり「本物」だと信じ込んでましたよ(´・ω・`)

偽書だということを解説している本かサイトを押して下さい。

投稿: 土人@酋長 | 2005.06.01 12:38

↑間違えました。

×押して下さい。
○教えて下さい。

投稿: 土人@酋長 | 2005.06.01 12:39

子供の頃、カナダインディアンだったか、エスキモーだったか、一昔前までは鹿を殺す狼の数を減らすために、狼の巣を探して、生まれたばかりの子供の狼を、母親の狼が巣を離れた間に殺してしまうのだが、そのとき一匹だけ、子供を生かして巣に残したのだと聞いたことがあります。全部殺してしまうと鹿が増えすぎて、森の木が枯れてしまうからという、祖先の言い伝えだとか。めまぐるしく変わっていく文明社会の中で、我々は一体何をしようとしているのかと子供ながらに考えたのを思い出しました。

投稿: UG35 | 2005.06.01 13:31

> 症例を持つ比率はアメリカ人の二倍程度らしい。

原文を見ると「他のアメリカ人の~」ですね。
他意のない誤記かと思いますが、誤解を招きかねない記述でしたので老婆心ながら。

投稿: (anonymous) | 2005.06.02 02:53

私も伝統的な社会では病むタイプだと思います。「恩もなければ愛してもいない人間は身内といえど切り捨てるのが当然」と信じており、実際に祖母や叔父と絶縁しています。(理由は精神的虐待) 「親の親(きょうだい)だから大事にしないといけない」と親戚から説得されても全く理解できないのです。私の友人は、私と同じく身内からの精神的虐待を受けて育ったのですが、伝統的価値観が強いため絶縁に踏み切ることができず、ついに精神を病んで自殺してしまいました。亡くなる前の数年は「あなたのように(老いた身内を絶縁するような)血も涙も無い人間が、結婚して、世間から非難もされずに生きているなんて許せない」と当り散らされたものです。

投稿: wonda | 2005.06.02 09:24

土人@酋長さん、こんにちは (ついで申し訳ない、| さん、ご指摘ありがとうございました)。

「パパラギ」が偽書であることはすでに定説であると思っていたのですが、この件について扱ったリソースがネット上では見あたりませんでした。以下が専門的な考察のようです。

(1999c) “Weird Papalagi and a Fake Samoan Chief - A Footnote to the Noble Savage Myth”. Rongorongo Studies - A Forum for Polynesian Philology 9(1): 23-32 & 9(2): 62-75.

「リトル・トリー」については、以下の日本語のWebページから関連情報を辿ってはどうでしょうか。

「リトル・トリー」に関しての私見
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/LittleTree.htm

投稿: finalvent | 2005.06.02 09:46

ありがとうございます。

投稿: 土人@酋長 | 2005.06.03 00:31

そうでしょうね。・・・引き篭もりの家庭と言うのは、大抵世間から20~30年遅れたホームドラマ(つまり、日本の原家庭)をいつまでもやっている事が多いです。・・・本人が、4つのひながたを経験しないで、どんどん時間だけが過ぎて行ってしまうせいもあるけれど。

それにしても。大抵のこうした「ネイティブ・ジャパニーズ」の家庭には、実にいやぁな雰囲気が、普通横溢していますよ。つまり、「この子は早く死んでくれないか、あるいは将来、施設に入れるとしたら、どれだけの金を出さんといけないのか」と言った、親の子に対する、無言の呪詛で溢れかえっている。・・・それを、「子の甘え」の一言で片づけるのは、あまりに残酷です。・・・彼らの親自体が、傷つき切ってもう、子を「育てる」事を放棄している訳ですから。・・・そして、身の回りの世話だけは、何故かきちんとすると言う悪循環に陥っている。・・・ここから、自力で抜け出すには、親が高齢化してパワーを失うか、自分が出て行くかもしくは親を逆に「追い出す」しか、ないんですよね。本当に。

投稿: ジュリア | 2009.12.27 19:31

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