伝統社会的な人間は現代社会において心を病むものではないのか
話は海外小ネタものなので他のブログが取り上げているか、すでに翻訳が出ているかわからないが、今日付のロイター”Trauma common feature of American Indian life”(参照)が興味深かった。
標題を現代日本語で訳すと「ネイティブ・アメリカンの生活ではその多数にPTSD(心的外傷後ストレス障害)が見られる」となるだろうか。いや、それはちょっと悪い冗談だ。シンプルに訳せば「アメリカ・インディアンの生活の多数にトラウマ(心的外傷)が見られる」となるだろう。
冒頭も簡単に意訳しておこう。
More than two-thirds of American Indians are exposed to some type of trauma during their lives, a higher rate than that seen in most other Americans, new research reports."American Indians live in adverse environments that place them at high risk for exposure to trauma and harmful health sequelae," write Dr. Spero M. Manson and colleagues in the American Journal of Public Health.
【意訳】
最新の調査によれば、三分の二のネイティブ・アメリカンがその人生において数種類のトラウマ(心的外傷)の症状に置かれており、この比率は他のアメリカ人よりも高い。
調査を行ったスピロ・マンソン博士らは、アメリカン・ジャーナル・オブ・パブリック・ヘルス誌で「ネイティブ・アメリカンは、トラウマや健康にとって危険な後遺症を示すリスクの高い逆境のなかで生活している」と記載している。
症例を持つ比率はアメリカ人の二倍程度らしい。
オリジナルの調査は同誌のWebページ”Social Epidemiology of Trauma Among 2 American Indian Reservation Populations”(参照)で読むことができる。
調査では大きな二つのネイティブ・アメリカンのグループが対象となっている。興味深いと言ってはいけないのかもしれないのだが、言語、移民、貧困の問題といった点で異なるグループでも、植民地化という点での共通点があり、その派生として、同質のトラウマが見られたようでもある。トラウマの内容については十六種に分かれていて、典型的な項目にはすぎないのだろうが、洪水や火事などが私には気になった。
アメリカ国内でネイティブ・アメリカンの置かれている状況については、最近の私の読書のなかでは、極東ブログ「 [書評]蘭に魅せられた男(スーザン オーリアン)」(参照)に触れられている話が興味深かった。米政府としても、土着のネイティブ・アメリカンの文化を配慮しているようすは伺える(それが同書ではねじれた問題を起こしている)が、それでも、現代文明とネイティブ・アメリカンの生活の軋轢は強く印象付けられた。
以下は私の印象で、多分に間違っているのかもしれないとは思う。というか、「パパラギ」や「リトル・トリー」といった偽書のように、とんちんかんなことを言っているのかもしれない。
この調査について私は、ネイティブ・アメリカンの生き方というものが、根本的に米国の現代文明とうまく折り合いが付かないのではないかと思った。凡庸な意見でもあるのだが、私なども若い頃はアメリカナイズした文化のなかに置かれてなんとか適合しようとしたが、うまく行かなかったし、歳を取るにつれ、より日本的な文化のなかに心の安らぎを見いだすようになってきた。
日本人はかなり上手に近代化した国民と言えるのかもしれないが、西欧的な現代化の世界のなかではうまく生活していくことはできないのではないかとすら思う。そして、そうした生きがたさというのは、とりあえずは個人の心の問題として浮かび上がるのだろうが、これもなんというか、もっと大枠としての文化の無意識の病のように思えてくる。
話はさらにそれていくのだが、バルザックだったか、後年人生を振り返って思い起こすことは四つだったとか言っていた。いわく、結婚した、子供が生まれた、父が死んだ、母が死んだ、と。
「自己実現」ということはよくわからないのだが、自分の才能なりを充分に開花して生きるということが個人の問題に還元されているように思う。しかし、人というものは、男女であり(結婚した)、親であり(子供がうまれた)、子であり(父が死んだ、母が死んだ)というある種のひな型のようなものを辿るようにはできている。それは、もちろん、現代の社会では、選択として現れる。
しかし、こうしたひな型的な人の経験というものは、選択として現れるものというより、それを元に我々を存続せしめた要因であり、それを「大事にせよ」とする個人を越えた心理的な枠組みが伝統的な文化の心性に存在するだろう。
伝統的な心性は現代社会では病みうるものだし、それが病むということ自体がその重要性の側の問題を提起しているようにも思う。
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