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2005.04.03

般若心経について

 長く難病に苦しんだ生命学者、柳澤桂子が般若心経の現代語訳のような本「生きて死ぬ智慧」を出していたのを最近知った。堀文子の絵とリービ英雄の英訳も書籍の企画としてはすばらしいものだ。柳澤桂子の言葉を読みながら、正法眼蔵の摩訶般若波羅蜜の巻なども思い出しながら、なぜこれほど多くの人がこの短い経に心を寄せるのか、あらためて不思議に思った。

cover
生きて死ぬ智慧
 宗教学的に考察するなら、般若心経とは、一般に日本で理解されているものとはかなり異なるものだ。仏教学者も実際は各教派の下に置かれるから、その教義を離れた厳密な考察はしづらいし、解釈が教義に引かれてしまいがちになる。それでもいいのだろうとも思うし、なにより、研究者には一般社会に語らなくても自明のことがあるものだ。
 そうしたこともあり、私もある種自明なこととしてこの件に書くことはなかろうとも思っていた。しかし、こうしたおりについでに少し般若心経についてふれておいてもいいかもしれない。
 般若心経について、もっともわかりやすい解説書は佐保田鶴治「般若心経の真実」だろうと思う。アマゾンには置いてないが、書店や古書店を探すとまだそれほど入手しがたい本ではない。楽天ブックスには在庫があった(参照)。この本は般若心経についてもっとも大切なことをきっぱりと書いている。それは、般若心経という、この短い経典で、重要なのは真言(マントラ)の部分だけで、よく解説されるこの多い、難解な教義的な部分はすべて付け足し、ということだ。色即是空といった教義的な部分について佐保田はあっさりこう断じている。

一般にこの部分がこのお経の中心と考えられておりまして、先生方はここの部分の説明に力こぶを入れて、縦横無尽に解説されるのでありますが、それは見当違いも甚だしいのでございます。この部分は大乗仏教一般にとりましては大切な理論の展開といえましょうが、心経が書かれたそもそものねらいはここにあるのでは無いのでございます。空の理論を展開するのは金剛般若経あたりの役目でありまして、今さらこんなちっぽけなお経を説く必要がどこにありましょうか。

 そして、佐保田はマントラ・ヨーガを簡単に説明した後、こう言い切る。

拙老は、そういう意味合いから、般若心経を全部繰り返すのは無駄でありまして、最後の明呪だけを繰り返せばよいのではないかと考えるのでございます。般若心経全部を繰り返すのは、薬の効能書きを読んでは薬を飲むというのと同じことになるではないかと思います。効能書は一ぺん読めばよいのではございませんでしょうか。

 般若心経のマントラ、具体的には、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」であり、佐保田はこれを唱えるだけでよいとする。なお、これに後続する「薩婆訶」はマントラの本体ではなく、神像に捧げ物などをするときの所作に合わせる言葉だ。現代インドでもこの所作はよく見られる。
 重要な部分がマントラ(呪文)であるということは、そこに解釈されるような意味などというものはない、ということでもある。その呪文の功徳があるだけだ、ということになる。だから、般若心経の解釈自体というのは無意味なことだということにもなる。特にその功徳が知りたいというなら「能除一切苦」で尽きてもいる。苦しみを除くというのだ。
 なんとも未開な呪術ではないかと思えてくるが、般若心経とは、実際そういうものだし、日本の歴史でもそうして有り難たがられてきた。
 佐保田が強調するもう一点は、この般若心経という経典は、般若=仏教の叡智、といったものではなく、女神を称える経典であるする点だ。

 ハンニャ・ハラミッタ(Prajna-paramita)というのは、ここでは女性のボサツの御名前でございます。施護の訳に「聖仏母」とあるのは、この女性のボサツが、仏母(Bhagavati)すなわち仏をお生みなされた母上であるからでございます。

 般若波羅蜜多というのは、この女神の名前、固有名詞だというのだ。般若波羅蜜多女神と呼んでもいいだろう。
 そして「心経」の「心」もいわゆる心髄といった比喩でなく、単に「心臓」という意味だと佐保田は解説している。般若心経とは、般若波羅蜜多女神の心臓なのである。これはトンデモ説のように思われるかもしれないが、私もその解釈で妥当だろうと考えている。
 私がこうした佐保田の説にあっさり納得するのはわけがある。が、その話の前にこの女神については、次の指摘が重要になることに注意を促したい。

この女性のボサツは単にハンニャ(Prajna)とよばれることもありますし、またターラー(Tara)ともよばれております。こうした女性のボサツが信仰の対象として現れるのはインド仏教の末期でありまして、六、七世紀以降になると女性のボサツへの信仰が盛んになったことは、サールナートの博物館などに行ってみるとよくわかるのでございます。

 般若心経という経典でのハンニャ・ハラミッタ女神は五世紀初等の時点のものなので、後に全盛となるインドの女神信仰と比べると、まだ基本的な段階ではあったかもしれない。
 以上、やや奇矯とも思える佐保田の説を上げたのだが、これは、ミルチャ・エリアーデの著作にも描かれているとおりなので、宗教学的にはこの分野のごく国際的な基本的な理解の水準と見ていいはずだ。例えば、「エリアーデ著作集 第2巻 (2)」では、般若心経についてあっさりとこう説明されている。

ここには『般若波羅蜜多』の「要約」が存するのではなく、「女神」の姿を取った「宇宙的空の真理」(sunyata)の直接的、全体的な同化が存する。

 この女神についてエリアーデの考察も引用しておくといいだろう。ハンニャ・ハラミッタ女神とターラー女神だについてだ。佐保田は後代の視点から同一視しているが、生成的には異なるものである。

アーリア・インドの精神史において、はじめて偉大な女神が支配的な位置を得ることに注意しよう。古く紀元二世紀には二柱の女神が仏教に入った。その一、プラジュニャーパーラーミターPrajnaparamita<般若波羅蜜多>は形而上学者と苦行者の「産物」であり最高の知慧の権化である。その二、ターラーTaraは土着のインドの偉大な女神の出現したものである。

 般若心経はこうした女神信仰の重要な局面から出現した経典だった。
 これでこのエントリの話は終わりにしてもいいのだが、薬の効能書きの部分の重要な点である「空」つまり「宇宙的空の真理」(sunyata)についても、少し触れておこう。
 エリアーデが指摘するように、それは女神の姿を持っているのだが、より精神医学的に深化したチベット仏教の流れでは、空(くう)は認識・意識のある状態として展開される。
 「タントラ叡智の曙光―タントラ仏教の哲学と実践」(絶版)では、こう説明している。

 認識能力に高められた状態としての「プラジュニャーパー」(般若)すなわち「シェーラブ」は、認識能力がふつうは内在している相対的思考のネットワークが弱められた状態をも意味します。

 これだけではわかりづらいかもしれないが、ある種の先入観や記憶の条件条件付けのない認識の状態が般若心経のもたらすところであり、つまりは、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」のマントラで達成されるはずの意識なのだろう。
 同書では、シューニャター(空)について比喩的にこう説明されている。

 「シューニャター」の意味は大変やさしく説明することができます。われわれがものを知覚するとき、普通はある形に仕切られた対象の形に注目します。しかし、これらの対象は一つの視野の中で知覚されます。目の行き先は具体的な形の仕切られた形態か、それともそれが位置している視野に対してかのいずれかです。シューニャター体験においては注意は視野に向けられて、視野の内容ではなくなるのです。ここで「内容」というのは、視野そのもの中の目立った特徴を意味します。われわれはまた、心の中の一つの考えが浮かんだとき、その考えによって仕切られている境界と言いますか、いわば領域というのははっきりしていなくて、ぼやけているということに気づくでしょう。その領域が次第に消えていくと何か非常に開放的なものになっていきます。この開放的な広がりこそが、「シューニャター」の基本的な意味です。

 般若心経はただこのマントラを唱えよというだけなのだが、その実践にはこうした意識・認識・体験としての「空」への導きが含まれていたのだろう。
 この点について先の佐保田は、この経典の冒頭に登場する観自在菩薩を観音としてとらえ、こう推測している。

 説明がたいへんむつかしくなって恐縮でございますが、要するに、音を聞くというような手近な心の作用を初級の観相の材料として、空という深いさとりの世界へはいっていこうとするのが観音という修行法だということでございます。

 おそらく般若心経には、当時この経典を維持してきた教団に自明なマントラの修行法も関連していたのだろう。
 別の言い方をすると、現代において、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」のマントラを唱えるだけではそうした意識は獲得はされないのではないか。
 般若心経が発生した時代の信仰には強固な女神信仰が深く関連していた。しかし、現代には「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」が女神に具現視されるような信仰的な確信を失っている。であれば、どれほど高度なマントラであると効能を持たないだろうし、女神信仰的な背景を欠落して、いくら「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」と唱えても、「コカコーラペプシコーラドクターペパー」と唱えるのと大して変わりないだろう。

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コメント

人の思想に他人が意見するのは、ときに諍いの原因にもなり、それでなくてもされる側の人間にとってはあまり気分の良いものではありません。
しかしながら人の誤解を見て正さぬのも後々の災の種かもしれず敢えてここに申し上げます。

1、経典においてPrajna-paramitaという言葉を「女神」と解釈可能な例は一つとしてありません。Prajna(般若)=無分別智・paramita(波羅蜜)=悟の彼岸に至ることという意味以外にはとれないのです。
2、佐保田氏の思想展開を見る限りでは彼は仏教とヨーガ思想を混同している。般若心経はその名の通り般若部に属する経典であり、氏の言う密教系に属する経典ではない。この経典を氏のいうように密教的に解釈することは出来るにしても、成立年代や思想的背景を考えると、この経典の導こうとしている般若波羅蜜へたどり着けるとは考えがたい。

投稿: F.Nakajima | 2005.04.03 20:43

3、エリアーデ・佐保田は完全に誤解しているが、般若経典成立当時、女神思想は仏教においては全く存在しない。女神・鬼神等が出てくるのは密教成立の後半時においてであり、時代的には8c以降のことである。その時代にヒンズーと仏教のハイブリッドとして誕生したのが密教思想である。
4、従って言いにくいのだがどこをどう間違っているという以前の問題として彼らの「空」についての理解は全く的をはずしている。「空」は大乗仏教における中心思想であり、これなくしては仏教は仏教でなくなる。

投稿: F.Nakajima | 2005.04.03 21:21

ともあれ、宗教なんてのは、信者とそうでないものを乖離、確執する方便に用いられるのがオチ。
最終的に争いを生むのなら、何が宗教の存在意義を固執しているのだろうか?
恐れる者は、やはり従う。

投稿: @c | 2005.04.03 23:35

>最終的に争いを生むのなら、何が宗教の存在意義を固執しているのだろうか?
恐れる者は、やはり従う。

それが歴史だといってしまえばそれまでですが、因果から逃れられない人々は因果を作り続けるのでしょうかね。ちょっと違いますがライブドアとフジの件を連想してしまいました。何が既存企業の存在意義を固執させているのだろうか。

コメントにレス失礼いたしました。

投稿: 丹 | 2005.04.03 23:55

法王が亡くなりました。イタリアテレビが遺体の映像を流しましたね。これは西欧文明の伝統の流れでしょう。

仏教の根源に女神信仰的な背景を持ってくるのは、なんだかキリスト教的分析影響を感じます。

個人的には、仏教にはキリスト教などの一神教にはどうしてもついて回る排他的というか、正等思考と言ったものの不在が大きいと思っています。寛容とでもいうか。

人間の数だけ信仰がある、というと話にもならないのですが、答えはひとつしかないんだよ、というのも間違いでしょう。

(ところで蛇足、仏陀自身は超越してしまった人なので、脱SEXもしてるんじゃあないでしょうか。)

投稿: ねこ仏少年 | 2005.04.04 02:06

70年代初め安保騒動が落ち着いた頃、京大熊野寮前に夜な夜な「羯諦」というラーメン屋台が出没していた時期がありまして、まあ出店の経緯も興味ありませんでしたし、お味も値段も忘却の彼方(可も無く不可も無くの証か?)ではありますが、マントラの有り方も斯様な屋号への引用もアリかと、フと思った次第。

久立珍重。

投稿: 久立珍重 | 2005.04.04 09:11

エリアーデが書いているから「宗教学的にはこの分野のごく国際的な基本的な理解の水準と見ていいはずだ」とはねえ...

投稿: Kurube | 2005.04.04 20:44

>のまぐらまさま
>苫米地さま

些細なことかもしれません。ほとんどの人にとっては「どうでもいいこと」だと思います。
しかしながら仏教学における「念仏の意義」を考えた場合、どうしてもこれら念仏=マントラという意見は見過ごすことができません。ゆえにここに書き込みいたします。

少なくとも現在の浄土門(真宗・浄土宗・時宗)において念仏とはマントラではありません。
念仏に効力があるのではないのです。
浄土門にとって最も重視されるのは「信心」(信仰)であり、信仰なくして念仏を唱えても効力はない(正確には薄いとするべきですが)とされています。逆に言えば堅い信仰さえあれば唱えずとも往生できるのです。(もっとも信心の篤い人は念仏を常に発していますがこれはこれで別の言われがありますがね)

投稿: F.Nakajima | 2005.04.06 22:48

そのまま読んで下さいな。
観自在菩薩が般若波羅蜜多に深く行かれた時、
全ては空であることを見て取って、一切の苦厄を済度された。
舎利子よ・・・
と、シャカがシャーリプトラに教えてるんですよ。
他の読み方がありますか?

密教ではどう読むか、という話題でしたら失礼。

投稿: zzz | 2007.01.20 20:04

zzzさん、こんにちは。そのまま読むテキストについてその部分、漢訳ではなくサンスルリット原典も当たってみてください。面白いことがわかると思いますよ。

投稿: finalvent | 2007.01.20 21:18

『エッ!「空即是色」は間違い?』など
般若心経に関する記事を連載しております。見に来てください。

投稿: 南華のブログ | 2007.02.17 09:46

はじめまして。

般若心経を読み解く過程で、
こちらの記事を見つけました。

非常にわかりやすかったのが、
『効能書き』という表現です。

別のところで
『般若心経はスペースについて語っている』
といった内容の文章を読んだ直後だったので、
しっくりきました。

読むことが目的ではないと確信することができて、
とてもすっきりしました。

ありがとうございます!

投稿: わこ | 2009.02.12 22:33

わが国では、伝統的に、般若心経全体がマントラ(真言)の扱いのようなものです。妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)も長いマントラ、金剛般若経はもっと長いマントラみたいなものです。お経は意味を穿鑿するより、声に出して読誦する行為そのものが大事なのがわが国の伝統。

ブッダってなにか?と問われれば、和尚ラジニーシみたいなあやしげな回答をすれば、これまでの宇宙全体のありようの影響の結果現れ、これからの宇宙全体のありように対して影響を与える存在者であることを自覚する者というのがひとつの回答例。すなわち、この世にあるすべてのものがこれまでの宇宙全体のありようの結果、今あるように存在していて、これからの宇宙のありように対して影響を与えているのだから、この世のすべてのものはブッダフッドをになっている。この世に存在するあらゆるものが、存在するというだけで、なにかしら、ブッダと縁を持つ衆生である。そして、ブッダとは、このことを深く認識、体得したがゆえに、覚醒の後は、自身のすべての意思決定と行為について、全宇宙に対して全責任を担えるようになった存在。

それゆえ、約2500年前に現れたゴータマ・ブッダは、たくさんのブッダの中の一柱。ゴータマ・ブッダ以前にも宇宙には、無数のブッダが出現しているし、ゴータマ・ブッダ以降にも、宇宙には、無数のブッダが出現することが予定されている。そして、宇宙のすべての存在が、ブッダと縁を持っているブッダフッドの存在で、ブッダとブッダフッドの違いは、基本的には認識能力と責任能力のちがい。

般若心経とは、ある意味では、こういうブッダの認識を可能にするために道具の一つ。和尚ラジニーシがダンマパダ(法句経)の次に気にかけていた仏典が般若心経。

もちろん、これは、ラジニーシ風のおそらく、ジャイナ教的な解釈だから、あまり真に受けなくてもよい話です。

投稿: enneagram | 2009.07.19 11:42

般若心経については、この本が一番実用的です。

気楽にサトル生き方「般若心経ってこんな
イイこと言ってたのか!」
ぱる出版 1,470円(税込)

ISBNコード: 9784827206791

発売日: 2011/11/28
http://homepage2.nifty.com/alina/alina-books/alina-book-design-37.htm

投稿: | 2012.11.27 23:12

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