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2005.04.30

北朝鮮核化の新動向

 29日時事通信で”北朝鮮の核ミサイル、米攻撃可能=国防総省局長が議会証言”(参照)というニュースが流れた。話は、米国時間で29日、国防情報予算の公聴会で米国防総省ジャコビー国防情報局長が、北朝鮮にはすでに核弾頭をミサイルに搭載する能力があると証言したということだが、該当の時事では、標題のように「米攻撃可能」というのが浮き立つ。
 同種の報道は28日付けニューヨーク・タイムズ”U.S. Aide Sees Nuclear Arms Advance by North Korea”(参照)にあるが、少し控えめな表現になっている。


WASHINGTON, April 28 - The head of the Defense Intelligence Agency said Thursday that American intelligence agencies believed North Korea had mastered the technology for arming its missiles with nuclear warheads, an assessment that if correct, means the North could build weapons to threaten Japan and perhaps the western United States.

 これに対して、AP"DIA: N. Korea Can Arm Missile With Nuke"(参照)では次のように、米国には届かないこと、また搭載作業が完了しているかついて、言明はなかったとしている。

WASHINGTON Apr 29, 2005 - The Defense Intelligence Agency chief says North Korea is able to arm a missile with a nuclear weapon, but hasn't said whether it has done so or if such a missile could reach the United States.

 時事の該当記事はやや勇み足のようには思われる。
 国内大手新聞社では、読売新聞”北、弾道ミサイルに核搭載可能と米国防幹部”(参照)と日本経済新聞”北朝鮮、ミサイルへの核搭載も可能・米大統領が見解”(参照)を見かけた。あまり重視されているふうではない。
 欧米紙では、先週ウォール・ストリート・ジャーナルで報道された北朝鮮核実験準備のニュースと同様に重視されているようだ。話が少しこちらの問題に逸れるが、北朝鮮はすでに寧辺の原子炉の運転を停止しているが、これは、特に陰謀論というわけでもなく、使用済み核燃料の再処理から核爆弾用プルトニウム製造を意図していると言っていいだろう。29日付け朝日新聞社説”北朝鮮の核 「6者」に戻るしかない”(参照)も奇妙な文章だが要するにそれを認めているにもかかわらず、次のような奇妙なレトリックで外交駆け引きという話題への誘導を行っている。

 北朝鮮は2月の外務省声明で核兵器の保有を言明した。衝撃的な表明ではあったが、米国などの反応は比較的静かなものだった。
 北朝鮮がすでに1、2個の核を持っているかもしれないというのは織り込み済みだったし、脅されて動くのはうまくない。イラクや、同じく核疑惑が深刻になっているイランへの対応で手いっぱいだったという事情もあった。
 それならもうひとつ、危機の目盛りを上げよう。今回の原子炉停止には、そんな狙いも透けて見える。

 現状認識を除けば、この文章は変なレトリックだ。確かに北朝鮮の核兵器の保有の話は日米政府には衝撃的ではなかったが、今回の核爆弾用プルトニウム製造疑惑と核弾頭搭載ミサイルについては、米紙の報道の扱い見ても重視されている。もちろん、だからといって日本の社会がパニックを起こす必要もないのだが、朝日新聞が誘導したいような話のスジではない。
 話を冒頭の時事報道におけるジャコビー国防情報局長の証言に戻す。

ヒラリー・クリントン上院議員が、北朝鮮はミサイルへの核搭載が可能かと質問したのに答えたもので、ジャコビー局長は「それを行う能力があると見ている」と証言。同時に、米国を直撃できる二段式の大陸間弾道ミサイルを展開する能力についても、「北朝鮮の能力の範囲内だ」と語った。

 関連の話題は28日付ニューヨーク・タイムズ” Agency Says North Korea Able to Mount Warheads on Missiles ”(参照)などが詳しい。現状のままだと状況はかなり悪くなる。

But he appeared to be putting a final conclusion on a study the intelligence community has had under way for at least two years. In 2003, the United States warned South Korea and Japan that satellite imagery had identified an advanced nuclear testing site in a remote corner of North Korea where equipment had been set up to test conventional explosives that, when detonated, could compress a plutonium core and set off a compact nuclear explosion.

 少しくどいがワシントン・ポスト”Intel: N. Korea May Have Nuke-Missile”(参照)もひいておく。余談だが、引用中のClintonは、Hillary Rodham Clintonのことである。今後はまさにそうなっていくのだろう。

U.S. intelligence believes a two-stage Taepo Dong 2 could hit Alaska, Hawaii and perhaps parts of the West Coast. North Korea also has shorter-range missiles which, some officials have said, may be able to carry a nuclear warhead as far as Japan.

Clinton said Jacoby's testimony was "troubling beyond words."


 以上の話が直接的な背景というわけではないのだが、米ブッシュ大統領は北朝鮮について国連安全保障理事の決議について言及してきている。CNN”北朝鮮核問題、安保理論議の選択肢に言及、米大統領”(参照)を引用する。

ブッシュ米大統領は28日夜、ホワイトハウスで記者会見し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発問題で、日米中などの6者協議で「総意が得られれば」、経済制裁を議論する国連安全保障理事会に委ねる措置もある、と述べた。大統領自身が、安保理論議に触れたのは異例。北朝鮮が反発を強める可能性がある。

 おそらく日本人の感覚としては、こうしたニュースに対して、「またブッシュが」といった印象を持つことだろう。イラク戦争の際と同様に「ブッシュがまたふかしているな気をつけようぜ」といった感じでもあるだろう。あるいはミサイル防衛との絡みも連想される。先の日経新聞の記事でもこうあった。

同証言を受けて会見したブッシュ大統領は「金正日(北朝鮮労働党総書記)が(核ミサイルを)発射できるなら、米国がそれを迎撃できることが望ましい」と述べ、ミサイル防衛構想を推進する姿勢を強調した。

 しかし、欧米紙のニュースを追っていくと、ある意味でイラク戦争開戦の反省を踏まえたうえで今回このニュースを重視している印象も受ける。日本からそう見えないとすれば、こうしたニュースの累積がこれまで薄かったからではないか。例えばBBCが提供する北朝鮮核問題の経時的なまとめ”Timeline: North Korea nuclear crisis”(参照)を見れば、イラク開戦前の単発的な情報混乱とは異なる様相は見て取れるはずだ。
 現実の問題として、日本ではこの北朝鮮核搭載ミサイル可能性の問題をどう受け止めていいのかは難しい。社会パニックになることは避けたいし、頓珍漢な予想みたいのはしたいわけではないのだが、このまま北朝鮮を追いつめていけば、核実験を行うしかなくなるだろう。そうなってから、日本の世論なりの立て直しが可能かというと、よくわからない。ある程度関心をもつ人が、現状では、できるだけ細かくニュースを追っていく必要はあるだろう。

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2005.04.29

日本人の平均年間性交回数46回、既婚者のセックスレスは30%

 厚生労働科学研究班と日本家族計画協会が共同で実施した「第2回男女の生活と意識に関する調査」が最近発表された。なんとなく気になるテーマでもある。といって、オリジナルの報告書を読んだわけではなく、新聞報道からの二次情報なので以下の話は事実レベルで間違いがあるかもしれない。
 読売新聞”既婚の10代―40代、3割セックスレス”(参照)ではこの調査結果を次のように総括している。


 結婚している10代から40代の日本人男女の約3割が、最近1か月以上性交渉がなく、セックスレス傾向にあることが、厚生労働科学研究班などの調査でわかった。

 十代と四十代を一緒にしてしまうのは大雑把過ぎるので、ネットを探すと毎日新聞の「Dr.北村 ただ今診察中」という連載の”第51話 セックスレス傾向が一段と進む”(参照)にやや詳しい話があった。ここでは、日常的にセックスが行われる環境にあると思われる人々を対象に、セックスレス群(31.2%)と、セックスレスではない群(54.9%)に分け、セックスレス群を次のように特徴付けている。括弧内前者がセックスレス群の比率、後者がセックスレスではない群の比率。

  1. 初めて付き合った異性と今も付き合っている(15.6%:22.6%)
  2. セックスに対して「とても関心がある」(6.8%:14.0%)
  3. 異性と関わることを面倒だと感じている(44.1%:30.9%)
  4. 初交時のセックスに対して「かなり重大なことだと感じていた」(54.8%:44.9%)
  5. 一年を超えるほどに長期間にわたってセックスから遠ざかっている(19.2%:0%)
  6. 避妊することや避妊法について相手とよく相談して決めている(30.5%:45.9%)

 これを見てどう思うか? 私にはさっぱりわからない。単純な話、何かの要因が、セックスレス群とセックスレスではない群を分けているとしても、その要因となるべきものが皆目見当が付かない。この特徴とされているものは、それらの属性のように見える。
 これについて、同記事ではこう総括しているのだが、これも納得もできない。

異性とのコミュニケーションを図ることに消極的であるとか、セックスに対して前向きな姿勢を持つことができないと、セックスレス傾向が強まる可能性の高いことが示唆されます。

 さらに、コラム記事ということもありこういうオチが付く。

 男女間のコミュニケーション・スキルをどう高めていくか。このあたりがセックスレスの解消と少子化からの脱却への近道ではないかと結ぶのは乱暴でしょうか。

 そりゃ乱暴でしょう。でも、読売新聞の記事も同じ。

 日本家族計画協会の北村邦夫常務理事は「行政になじみにくいテーマかもしれないが、少子化対策としてセックスレスの問題にもっと真剣に取り組むべきではないか」と話している。

 ようするにセックス回数が少ないから、少子化だよと小一時間。と笑いを誘うが、それでも、デュレックス社が行った2004年の調査"Global Sex Survey 2004 results"(参照)では、世界平均は年間103回なのに対し、日本は46回と少ない。というか、平均からかなりはずれている。オリジナルデータから抜き出してみるとこんな感じ。

フランス 137回
ギリシア 133回
セルビア・モンテネグロ 131回
ハンガリー 131回
マケドニア 129回
ブルガリア 128回
イギリス 119回
ニュージーランド 114回
米国 111回
タイ 103回
スイス 103回
ドイツ 98回
フィンランド 98回
中国 90回
ベトナム 87回
インド 82回
台湾 79回
香港 79回
日本 46回

 フランスダントツ。オスマン帝国ってなんか独自な文化なのか。コモンウエルスもそうか。やるなぁ…はいいとして、日本だけがダントツに少なく。むしろ、こうした側面が日本国民というものを特徴付けているとしか読めない。それってなんだと考えていくうちに頭痛がしそうだ。わからない。
 直感的に思うのは統計が間違ってんじゃないの?だが、そうでもないのだろうか。こうした数値上は、日本人が性交に非常に消極的な国民ではあると言えるのだろう。
 なので、それに既婚者のセックスレスのネタをまぜて厚生労働科学研究班と日本家族計画協会が少子化みたいな問題に絡め、さらに、夫婦のコミュニケーションみたいな話に持っていくというお話もできそうではある。
 が、そういえば、先週まで週刊文春で三回シリーズで「中高年の性生活をまじめに考える」という特集をやっていて、一応全部読んだのだが、これも関連して気になった。
 率直に言うと、このシリーズの元になる調査というのがわけのわからないシロモノだったのだが、それでも、この調査では中高年だとセックスレスが55%とかある。基本的なところで統計にあまり信頼が置けそうにないのだが、大筋で言うなら、デュレックス社調査をさらに推し進めたような感じにはなっていた。気になるのは、この調査では、セックスレス夫婦でも中高年の場合は結婚の満足度が高いという結果にはなっていたことだ。そうなのだろうとも思うし、それの意味について、あるいは、やりまくりのグルーバル・スタンダードから見るとどういう像になるのだろうか。
 いずれにせよ、日本のこの分野の状況というのはそういうもので、なのでそれが日本の文化だと言えないこともない。だが、どうもこうした調査からは見えない重要な要素がありそうだと気になる。なんとなく思うこともあるのだが、そのあたりを書くとまずい雰囲気になるかもなので、別途なにか数値的に見える兆候があったら、また考えてみたい。

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2005.04.28

郵政民営化法案問題をできるだけシンプルに考えてみる

 郵政民営化を巡る問題をこの機に、できるだけシンプルに書いてみたい。
 抜本的な認識違いもあるだろうし、この問題は、賛否が明白に分かれるので、もしかするときつい批判を受けることになるかもしれない。
 27日、郵政民営化法案がようやく閣議決定され、国会提出となった。この問題は極東ブログでも以前にも扱ってきた。今回のエントリはこの流れの話というほどではないが、一応過去の主要なエントリは以下である。


 さて、何が問題なのか?
 問題は、郵政がこれまで行なってきた貯金と保険の二つの事業、つまり金融部門を政府から独立させるかどうか、その一点だけだ。郵便事業やネットワークといったことはどうでもよい。
 郵政の持つ金融部門が政府から切り離されないということは、事実上、総務省管轄下に置かれることになり、国債の担保とされている膨大な資金が金融庁の管轄外に置かれることになる。そんなことになれば、金利政策決済の安定性など原則的に不可能になり、そんな市場を世界が信頼するわけもない。であれば、それだけで単純に日本経済の死になると私は思う。そんなことも自民党与党の法案反対勢力はわからないのだろうか。
 自民党与党の法案反対勢力がやっていることは、すでに世間の空気からして郵政民営化の看板自体で争うことはできないので、オモテ向き民営化にしておきながら、この金融事業の実態は政府直轄とするための抜け穴作りである。
 反対勢力がしたいことは、ここに保持される三五〇兆円を支配だ。この金額は、国民の家計部門の四分の一を占め、規模としては四大メガバンクと大手保険会社の合算に相当する。
 今年に入ってから自民党と政府内でもめたのは、民営化を骨抜きにする抜け穴のでき具合だけだ。
 抜け穴はできたのだろうか?
 ここで、メディアの煙幕が立ち上る。抜け穴があるとする例としては今朝の読売新聞”改革の貫徹へ国会審議を尽くせ”(参照)がある。典型例なので引用したい。

 法案には、持ち株会社が保有する貯金と保険の金融2社の株式を、完全民営化までの移行期間中に完全処分することが盛り込まれた。
 ところが、合意文書は“抜け穴”を用意した。いったん市場で売られた金融2社の株式を、持ち株会社傘下の郵便や窓口網の両社が買い取ることを認める。持ち株会社が完全処分の義務を果たさなくてもペナルティーを科さない。
 抜け穴を活用すれば、金融2社は政府出資の持ち株会社の傘下にとどまり、政府の関与が続くことになる。経営上の様々なリスクも生じかねない。例えば、郵便会社が経営悪化に陥った場合、金融2社へ悪影響が及ぶ。利用者が貯金の引き出しに殺到すれば、金融不安を招く。
 抜け穴をふさぐ必要がある。

 これは煙幕だと私は思う。なぜなら、合意文書は法案ではないからだ。法案は玉虫色の性格を持ちながらも、明白な抜け穴はふさがれている。ここで小泉総理は、なかなかのグッジョブをしている。評価したい。
 煙幕ではないが、無責任な放言も目立つ。今朝の毎日新聞社説”郵政民営化法案 後は野となれ山となれか?”(参照)がそれだ。

10年後の姿さえ、当初、小泉首相や竹中平蔵経済財政・郵政民営化担当相が思い描いたものになるのか、保証の限りではない。

 それでは十年後を保証せよというのかと脊髄反射したくなるほど大人げない。この他、煙幕としては、今回の騒動はただの権力闘争の道具だとする話もあるがくだらない。
 以上、現状では、郵政民営化法案は日本の現状を考えるなら可能なかぎり健全に推移している。小泉がんばれと思う。
 あと一点。この点については、私も明確にわからないのだが、気になるので追記したい。
 郵政の金融部門が民営化されれば民業を圧迫する巨大銀行ができるだけだからいかんとする議論がある。この点は私はわからない。というのは、三五〇兆円というと巨大だが、この実態は民営化後も従来の国債維持のために旧勘定となり、事実上自由な運営はできない。むしろ、民営化は日本がこれまでやってきた国債の問題の内情を暴露するもっとも適切な契機となると思えるのだが。

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2005.04.27

アルメニア人虐殺から90年

 日本ではそれほど関心が寄せられなかったが、この24日、第一次世界大戦中、当時のオスマン・トルコ帝国領土内として起きたとされるアルメニア人虐殺事件から九〇周年の催しが世界各地で開催された。
 日本語で読める関連記事としては朝日新聞”アルメニア人虐殺から90年 パリなどで追悼の催し”(参照)があるがあまり詳しくない。アルメニアの首都エレバンでの追悼集会の模様は、英語だがCNN”Armenians mark Ottoman killings anniversary”(参照)も参照されるといいだろう。ハリウッドでの催しはAP”Armenian Americans march in Hollywood remembering mass killings”(参照)などが伝えている。

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アララトの聖母
 ハリウッドといえば映画だが、カナダ映画「アララトの聖母」を通して、初めてアルメニア人虐殺の史実を知ったという人も少なくはないだろう。と言いつつ、私もまだこの映画は見ていない。映画の題にもあるアララトは、旧約聖書でノアの箱船が洪水後に到達したアララト山を指している。アルメニアは古代からキリスト教と縁の深い土地柄でもあった。
 アルメニア人虐殺について、先の朝日新聞の記事では、次のように簡単にしか触れていない。もっとも、この点が現代的な問題ではある。

 アルメニア政府は、迫害による死者を150万人とし、トルコ政府に対して虐殺の認知と謝罪を求めている。だが、トルコ側は死者はずっと少なく、しかも通常の戦争の犠牲者だとして虐殺の事実を認めずにきた。

 Wikipediaには詳しい説明が「アルメニア人虐殺問題」(参照)の項目にある。

 19世紀末と20世紀初頭の二度にわたり、オスマン帝国領内でアルメニア人に対する大規模な迫害が起こったことが知られている。これを「トルコ国家」によるアルメニア人の組織的虐殺であるとみなす人々は、この一連の事件をアルメニア人虐殺と呼んで非難している。
 二度の迫害のうち、一度目はアブデュルハミト2世専制期の1894年から1896年にかけて行われた迫害・襲撃、二度目のそれは第一次世界大戦中の1915年から1916年にかけて統一と進歩委員会(通称は統一派、いわゆる青年トルコ党)政権によって行われたアルメニア人の強制移住を指す。二度目の迫害では数百万人単位の犠牲者が出たと言われ、「アルメニア人虐殺」といえば狭く二度目のそれを言うことも多い。

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人間喜劇
 この強制移住の結果アルメニア人は世界に散らばることにもなった。「人間喜劇」の作者ウイリアム・サローヤン(William Saroyan:1908-1981)はその作品に暗示されるように米国二世だが、背景にはトルコの迫害の歴史があったようだ。他に私が親しんだアルメニア人というと、神秘家ゲオルギー・イワノヴィッチ・グルジェフ(Georges Ivanovitch Gurdjieff:1877?-1949)がいる。彼の出生には不明な点が多いが、その作品と思想からは明確にアルメニア文化が読みとれる。そういえば、私事だが、北部ギリシアの旅で数日ともにした同年代の米人もアルメニア人の子孫だと言っていたことを懐かしく思い出す。
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注目すべき
人々との出会い
 今回の国際的な催事に際しては、米国ブッシュ大統領もアルメニア人の主張をサポートするような異例とも言える声明を出していた。なぜかこの点だけ日本経済新聞”米大統領が有志同盟びいき?アルメニアの肩持つ発言”(参照)が伝えている。

 ブッシュ米大統領は24日、第1次世界大戦中のオスマン・トルコによるアルメニア人殺害事件から90周年を記念し声明を発表、同事件を「大量殺人」と表現した。「大量虐殺」だとするアルメニアと「戦争中の行為」とするトルコは隣国ながらいまだに外交関係がない。トルコ側の反発を招く可能性がある。

 記事ではさらに、今回のイラク戦争でトルコが米軍の基地使用を認めなかったことが背景だろうと推測しているのだが、湾岸戦争のおりのトルコに対する米国の恩義を考えるとあまり妥当だとも思われない。
 アルメニア人虐殺問題の関連で、トルコに対する対応が複雑なのはEU、つまりフランスも同じだ。昨年のEU会議で将来的にトルコをEU加盟とする道筋をつけたものの、フランスは、アルメニア人虐殺への謝罪要求、つまり、おフランス的な追加注文も出していた。
 現代トルコとしては、こうした歴史問題は、なにかと対応しづらいものでもあるだろう。日本も類似の問題を抱えていると言えないでもないので、こうした歴史問題にどう取り組むべきか考えさせられることがあるのでは……とも思うのだが。

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2005.04.26

JR福知山(宝塚)線脱線事故に思う

 昨日朝九時過ぎ、JR福知山線(愛称、宝塚線)で快速電車が脱線し、線路に連接するマンションに激突した。死者七〇名を越える大惨事となった。人の命は、「あしたに紅顔」と言うが夕べを見ない人もいる。救助が間に合わず亡くなったかたも少ないとは言えない。哀悼の意を表したい。
 事件について、私がオリジナルに持つ情報はない。日本国民が共有する歴史事件の一つの些細な記録として思うこと書いておきたい。

cover
事故付近地図
 なぜ起きたのか? あまりに理不尽な惨事にどうしてもそこに思いが集まるのはしかたがない。一日が過ぎて原因は依然不明だが、運行上の問題か、置き石された可能性の二つが宙ぶらりんの状態になっている。誘因としては、過密な運行、安全システムの問題、人材管理の問題、車体強度などがある。しかし、原因と誘因は別だ。今朝の新聞各紙の社説では、どうしても原因に切り込めないがゆえに誘因を原因であるかのように書かれていたものが目立った。
 私も原因はわからない。が、二点つ気になったことがある。
 一つは、「のり上がり脱線」の問題だ。「のり上がり脱線」は、カーブ地点の走行で車輪がレールにのり上がるよう力を受けて脱線することだ。ざっとネットを見ると、「車両の脱線」(参照)や「地下鉄脱線事故の真因を探る-  No.2 のり上がり脱線とは ? 」(参照)に解説がある。
 今回の事件では、私も気になって夜NHKのニュースなどを見たのだが、専門家からは「のり上がり脱線」というターム(術語)は聞かれなかった。文書化されたニュース情報でも見かけなかった。もちろん、私の見落としはあるだろうし、専門家の説明では、そういう術語を出さないだけで、その原理についてはふまえてのものだっただろうとは理解できる。
 専門家の解説には、このようなカーブが原因で脱線が起きるとすると今回のケースの地点ではないはずだというような指摘もあったので、そのあたりから、通常の「のり上がり脱線」ではないと判断されているものかもしれない。私としては、どちらかというと、「それはありえない」という前提で語られていた印象を受けた。今回のケースでは急ブレーキもかけているようなので、そうした状況での「のり上がり脱線」ということはないのだろうか。
 もう一つは、置き石の問題だ。報道からは、今回のケースでは置き石されていた可能性がかなり高い。だが、置き石が原因だと言えるかというとそこがよくわからない。恐らく小さな置き石であれば問題はないだろうし、ある程度の大きさなら弾くだろう。それ以上の大きさのものだっかについては現状では不明だ。
 いずれにせよ置き石であれば、人為的なものであることは間違いない。が、こうした人為的な置き石は、今回の報道では連鎖を恐れて報道が控えられているのかもしれないのだが、近年頻発している。これは少し過去のニュースを調べてもわかることだし、多少なりとも鉄道に関心を持つ人間なら常識化している。そうした頻発する置き石問題がいよいよ惨事となった可能性もある。
 陰謀論を捏造したいわけではないが、現場の地図を見ながら私が得た印象は、表現はよくないのだが、実に効果的なところに置かれている、というものだった。置き石をするにしてもその作業は電車通行間の三分ほどなので、いつか来るかわからぬ電車にイタズラをしたというタイプのものではない。仕組むならかなり意図的に仕組んだのだろうという思いが抜きがたい。この可能性は今後の連鎖があれば疑わしくなる。
 たまたまブログ「日々の独り言」のエントリ”大惨事の犯人?”(参照)で見かけたのだが、情報ソースはどの新聞はわからないのだが、この路線では最近不審者があったようでもある。

線路に人影? ダイヤ乱れる
 24日午前11時50分ごろ、JR神戸線の塚本駅(淀川区)と尼崎駅(兵庫県尼崎市)間を走っていた快速電車の車掌から「線路横を歩いていた人影とすれ違った」とJR西日本に連絡があった。

 今回の脱線事故の直接原因は置き石ではないのかもしれないが、置き石が事実であるなら、その人的な関連はより調査されてしかるべきだろうし、犯人が烏ということであればそれは一つの懸念される条件の対処にもなるだろう。
 以上、二点に加えるべきことはないのだが、「のり上がり脱線」の説明に、その可能性を高める指摘として、次のことがあり、気になる。

・レールや車輪の接触面に油が塗ってあって滑りやすいところでは起きにくく、逆にレールや車輪がザラザラしてすべりにくいところでは起きやすい。

 今回のケースでは置き石は粉砕されているのだが、その粉砕された置き石がこのざらつきを起こしているという複合性はないのだろうか。
 いずれにせよ、以上は素人考えに過ぎず、今後各種調査を踏まえて専門家からの解説がでるだろう。ただ、責任の擦り合いのような政治力学に専門家が巻き込まれなければいいのだが、という懸念はある。

追記同日
 本文に関連のニュースは共同にもあった。
”線路立ち入りで1万人影響 大阪 JR東海道線”(参照


 24日午前11時50分ごろ、大阪市淀川区のJR東海道線尼崎-塚本間で、網干発野洲行き快速電車の車掌が線路脇を歩いている黒い服を着た人影を発見、新大阪総合指令所に通報した。JR西日本は上下線で一時運転を見合わせた。

追記同日
 別所でご指摘していただいた情報から考え直すと、今回の事件は、速度オーバーと運転というだけで、ある程度予想された事態だったのかもしれない。

”在来線でかなりのスピードを出す区間”(参照


125 名前: 名無し野電車区 投稿日: 03/05/30 00:04 ID:0N0Q1I42
JR酉 宝塚線 北伊丹~塚口間 207系快速爆走 120㌔はかなり萌える!
宝塚駅AM7時16分発木津行き快速はラッシュで満員だがいつも1分遅れで出発
川西池田を出るとR171高架下までは83㌔ぐらいをキープ。そこを過ぎると
フルノッチ!一気に120㌔達成!北伊丹駅手前のカーブをそのままの速度で突っ込む
満員の車内が大きく揺れ車体がきしむ。で伊丹のジャスコが見えてきたらフルブレーキ。
線路はブレーキシューの粉で真っ黒(w)伊丹駅を出るとまたまたフルノッチ
稲野駅を115㌔ぐらいで通過(ホームの人は怖くないのか?)塚口までのストレート
を120㌔で爆走。塚口駅過ぎたポイント付近で70㌔制限のカーブまでフルブレーキ
尼崎駅に着いた時は何事も無かったかの様にクールにホームイン。207系マンセー!

”この区間の最高速度は?スレ”(参照

23 名前: 名無し。 投稿日: 01/10/13 22:01 ID:Jy9JKKWg
JR宝塚線川西池田ー塚口間。
一度207系が130㎞の手前まで出した事があった。


25 名前: 名無しでGO! 投稿日: 01/10/13 22:07 ID:nsL.vTno
 >>23 そのスピードで尼方面、塚口通過たら間違いなく、その先500メートルで 脱線する事うけあい。

追記(2005.4.29)
 その後の調査で、エントリで触れていた「のり上がり脱線」と「置き石説」は事実上否定された。

読売新聞”尼崎事故、特異な「転覆脱線」か…死者106人に”(参照


 過去の脱線は、運転ミスや踏切事故などを除くと、車輪とレールの間の摩擦がなんらかの原因で高まり、車輪がレールに接触しながら乗り越える「乗り上がり脱線」、または「せり上がり脱線」と呼ばれるケースが多い。2000年3月の営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線の事故も乗り上がり脱線だったとされている。これら乗り上がり脱線では、左右のレールや、レール間の枕木に、車輪が乗り越えていった傷や痕跡が明確に残るのが特徴だ。
 ところが今回の事故現場を事故調が調べた結果、〈1〉右側の車輪がレールに残した傷跡が見当たらない〈2〉レール間の枕木やバラスト(敷石)上を右側車輪が走った痕跡がない〈3〉左側レールの頂部にも乗り上がり脱線特有の傷がない――ことが判明した。
 このため事故調は、今回の事故では、カーブ内側に当たる右側車輪が浮き上がり、レールや地面から離れたまま、先頭車両が左側に倒れ込み、軌道から逸脱した転覆脱線だったとの見方を強めている。

毎日新聞”尼崎脱線事故:レール付着は敷石 置き石原因説ほぼ消滅”(参照


 JR福知山線の脱線事故で、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会は28日、脱線現場のレール上に付着していた白い粉末についての分析結果を発表した。粉はいずれも、組成・成分が現場軌道内のバラスト(敷石)と一致。事故調はバラストの粉砕痕と断定し「脱線の原因とは考えにくい」とした。JR西日本が当初示唆した「置き石」が原因となった可能性は、ほぼなくなった。

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2005.04.25

「ゆとり教育」という言葉にこだわる

 22日文部科学省は、全国の小学生(五・六年)二一万人と中学生二四万人を対象にした教育課程実施状況調査(学力テスト)の結果を発表した。通称「ゆとり教育」と言われる、2002年度開始の新学習指導要領の定着度として見ると、まずまずの成果だ。いや、これはかなりよい結果が出た。前回と同一問題では43%も正答率が高く、ごく一部の教科を除くと全体で前回よりもよい。学習意欲も学習時間も増加した。ということは、ゆとり教育でよかったのである。それ以外の結論がどうでるのかわからない。
 だが、すでに文部科学省では昨年末、学力低下が進行しているとかで、ゆとり教育の見直しに着手している。なにやってんだかという感じだ。暫定的であれ、少なくともこうした結論が出ている以上、もうしばらく現状を継続していくべきなのではないか。
 新聞社説などを見ると、「そうは言っても」論が多い。なぜそこまで文科省の方向に口裏を合わせるのかよくわからない。23日付け朝日新聞社説”学力調査 「考える力」が心配だ”(参照)では次のようにめちゃくちゃな不平を言っている。


 学力調査は、教える内容や指導方法をさらに良いものにするためのものだ。文科省は成果を強調するよりも、むしろ問題点に目を向けた方がいい。
 調査では、朝食をとり、登校前に持ち物を確かめる子は成績がよい傾向がはっきりした。正しい生活習慣を身につけさせるのはまず家庭の仕事である。教育は学校だけが担うものではない。そのことも今回の調査は改めて教えてくれる。

 この戦前の訓話みたいなのが現在の朝日新聞の社説なのであるから苦笑してしまう。産経新聞と日本経済新聞がこれについて社説では触れてなかったように思うが、毎日新聞と読売新聞の社説も似たようなものだ。
 私自身の「そうは言っても」は中一のところで学力低下が目立つのが気になる。ここに断層があるのではないか。
 しかし、なんだかんだ言っても、すでに「学力低下防止!」みたいなスローガンというか空気は変わらず、奇妙な方向に日本の教育は迷走続けるのだろう。というか、近代以降迷走し続けているのでそれが常態でもある。
 ここでちょっと話の向きを変える。どうにも「ゆとり教育」という言葉が私にはしっくりこないのだ。「ニート」(参照)のときのように、なんかまた言葉で騙されているような気がする。というわけで、この機にちょっと調べてみたので、簡単にメモしておきたい。
 少し驚いたのだがWikipediaに「ゆとり教育」(参照)の項目があり、かなりしっかり書かれている印象を受ける。定義っぽいのはこんな感じだ。

ゆとり教育(ゆとりきょういく)とは、学習者に焦燥感を感じさせずに、学習者自身の多様な能力を伸張させることをめざす教育のことである。

 が、この定義がなに由来するのかわからない。経緯についてはこうある。

1976年(昭和51年)、加熱する受験戦争や、学校教育が知識を偏重し過ぎた詰め込み教育であるなどの批判(落ちこぼれ問題など)に対応する形で、文部省(現在の文部科学省)の中央教育審議会は、「昭和51年12月答申」において"ゆとりと充実"という表現を用いて学習内容の削減を提言した。

 この説明に誤りがあるとも思わないのだが、「ゆとり教育」という言葉の出所とその歴史に基づく解説はWikipediaのこの項目にはない。好意的に見るなら、昭和51年12月答申の「ゆとりと充実」という表現の省略形ということなのだろう。
 「ゆとり教育」というキーワードについて読売新聞で近年での初出を調べてみたら、”増える都内小中学校の空き教室 なんと1万室 有効利用の工夫も”(読売1988.9.4)という記事だった。

 さらに、空き教室をもっと高度に利用するため、二、三年前から、ほとんどの区市で利用方法の検討委員会を設けてチエを出し合っている。その結果、図書室と空き教室の境の壁を取り払って図書室を拡張したり、ゆとり教育を進めるため、ランチルームや和室に改造するなど、これまでにはない積極的な利用方法も増えてきている。

 これって単に空間的なゆとりという以上の意味合いはない。1980年代は「ゆとり教育」という言葉自体がまだ普及してなかったのではないか。
 あるいは、と思って記憶を辿ると「ゆとりある教育」だったか。それで1980年代の用例を見ると、”パソコン教育シンポジウムが開幕”(読売1987.11.25)があった。

 北海道から沖縄県まで全国の小、中、高校の教員や教育委員会関係者など約四百人が参加。来賓として出席した中島源太郎文相は、「文部省でも、臨教審の提案を受けて、情報メディアの利用について調査中。コンピューターの活用によるゆとりある教育の実現を期待する」とあいさつした。

 中島源太郎文相の発言なのだが、「コンピューターの活用によるゆとりある教育」という表現はイミフ(意味不明)と言う以外ない。この事例からも「ゆとりある教育」という言葉の現代的な意味はまだなかったようだ。
 やっぱし、なんか、変だ。
 ざっと過去の用例を見ていているく、1989年の新学習指導要領あたりから、「ゆとりある教育」という表現が現れ、それが省略されて「ゆとり教育」という表現に縮退したようでもある。”[ミニ時典]新学習指導要領”(読売1989.4.26)

学習指導要領は小・中学校、高校の教育課程の基準となるもので、教科書はこれに基づいて編集される。ほぼ10年間隔で見直されており、今回の改定は小・中学校が5回目、高校は4回目。前回(52年)の改定が、詰め込み教育を反省し、「ゆとりある教育」を重視したのに対し、新学習指導要領は、教育の国際化、個性化、文化と伝統の尊重などを強く打ち出しているのが特徴。これらを基調に具体的には、高校での世界史必修、中学校の英語の時間の増加、小学校低学年の生活科新設、入学式などでの「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱の事実上の義務化などが盛り込まれている

 あらためて読み直すと、細かい点でふーんという感じがする。単純に教科の削減が進んだというわけではないのか。とすると、先のWikipediaの項目にあった次の指摘もあまり正確ではないなとも思う。

これ以降、学習内容の精選(のちに厳選)として各教科の指導内容が削減されていくとともに、中学校などでの「選択教科」の拡大、小学校などでの教科「生活」の新設、小学校から高等学校までの段階のすべてで「総合的な学習の時間」を新設するなど、よりきめ細やかな指導をするために各学校の教育課程に関する裁量権が拡大されてきている。

 話がちょっと錯綜してきたので、小休止的に推測をまとめると、どうやら、「ゆとり教育」という言葉は、現代の用例としては、1990年代以降に出てきたようだ。それでも、1990年代の初めはまだ定着してない。”教科書にも性差別が… セリのさし絵に男性だけが活躍 教研集会の発表から”(読売1991.1.27)だと、依然、現代とは違った用例が見られる。

また、「校門圧死事件」をきっかけに議論を呼んでいる“管理教育”に挑戦、一日に鳴らすチャイムを三回だけに減らしたユニークな試みも報告され、ゆとり教育に一石を投じた。

 この用例だと、「ゆとり教育」とは、授業をぼちぼちはじましょうかね的である。
 この20年間のこの言葉の用例を追っているうちに、現代の語義の「ゆとり教育」というのは、「詰め込み教育」の反意語として世間に定着していたようだなと思った。
 私が学生だったころ(1970年代)は、まだ「詰め込み教育」の慣性があり、これじゃいけない、詰め込みじゃいけない、ゆとりを…という「空気」だった。
 その観点から1980年代を眺めてみたら、ああ、そうだったよなと思い出した。”教育改革 読売新聞社世論調査 9月入学に国民感情の壁”(読売1987.3.9)がわかりやすい。引用が長いが、これが約20年前の「空気」だったのだ。

◆教師の質、詰め込み、偏差値… “体質”改善を要望◆
 国民の六割以上が学校教育に不満を抱いているが、どんな点に不満を感じ、改革が必要だと思っているか、いくつでも挙げてもらったところ、今回の調査での上位五位は、(1)「教師の質」42%(2)「詰め込み教育」38%(3)「いじめ」33%(4)「校内暴力・非行」32%(5)「偏差値教育」31%――となっている。
 六十年二月以降同じ質問(「いじめ」は六十一年から加えた)を繰り返しており、その変化をみると、前回一位の「いじめ」が23%減、同二位の「教師の質」が10%減、同三位の「校内暴力・非行」が15%減とそれぞれかなり減少している。「いじめ」や「校内暴力・非行」は、ここ二、三年社会問題化したが、さまざまの対策が打ち出され、かなり沈静化している状況を反映しているといえようか。「教師の質」は前回より減ったとはいえ、六十年調査を上回っており、国民の不満は根強い。
 こうした上位グループの減少傾向の中で、三回の調査を通じてほぼ一定して不満が多いのは、「詰め込み教育」や「偏差値教育」「道徳教育」などで、三割前後の人が挙げている。さらに、「詰め込み教育」や「偏差値教育」の原因ともなっている「大学入試」や「高校入試」に対する不満や改革を求める声は漸増しており、ことに「大学入試」では前回より5%増え20%になっている。
 この三回の調査を通じて、「教師の質」を含めて「詰め込み教育」「偏差値教育」、それに入試といったわが国の教育の“体質”にかかわる面では、国民の不満は一向に解消されていないことが読み取れる。

 いろいろ興味深いこともあるが、「詰め込み教育」に着目すると、問題は過度な競争となる大学入試が背景にあった。だから、当時は詰め込み教育をしていたのだ。しかし、少子化の人口動態から、大学入試も自然に緩和されることが予想されたので、「ゆとり」のシフトが始まったということだな。ついでに言うと、教師の仕事もゆとりという理由で私企業ならリストラだったものが看過されてきたのだろう。
 現在大学入試は有名校とそれ以外に分化し、後者はスルーで入れるようになってきている。つまり、所謂エリートにならなくてもいいなら、詰め込み教育はいらないのだし、所謂エリートになるなら詰め込み教育が必要だということになった。つまりはそういう世相がつい最近まで「ゆとり教育」という「空気」だったのだ。
 しかし、日本の経済活動の衰退とともに、そうして楽に入って楽に出た大学の卒業生が企業で使い物にならんとかなんとかかんとか小一時間で、この上「ゆとり教育」とやらだと全体の学力がどうたらとオヤジたちが言い出して、うっとうしい「空気」が醸されているいうことなのではないか。

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2005.04.24

ウイルスバスター(トレンドマイクロ)事件雑感

 昨日、コンピューターのセキュリティ(安全性)対策で有名なトレンドマイクロ社の人気ソフト「ウイルスバスター」の更新ファイルのバグ(不具合)のため、新聞各社を含め各企業でWindowsパソコンが動作不能状態になるという事件があった。トレンドマイクロ社へは企業や個人の利用者から七万件を超す問い合わせが殺到したという。昨日はインターネットの掲示板でもこの問題が話題となった。被害の全貌がわかるのは週明けのことになるかもしれない。
 セキュリティソフトがウイルス以上のトラブルを引き起こすということ自体洒落にもならないのだが、今回の事件で、同社の今後の対応が社会的な信頼を決めることになるだろう。その意味で、これからが重要なのかもしれない。ちなみに、このソフトの売り文句は「 ネットに潜む危険から、あなたを守るインターネットセキュリティソフト」だそうだ。
 事件については、すでに各種報道があり、私が独自に知っている情報もないので、以下ごく簡単に、黎明期からパソコンを使っている利用者として、雑感を書いておきたい。
 私はウイルスバスター(PC-cillin)を使っていない。なので被害はなかった。使っていない理由は、このソフトが評価できないからだ。パソコンに加える負荷と維持費を考えると自分にはメリットがないと思える。現状、インターネットにはルーターレベルでファイアウォールが入っているし、メールはテキストでしか受信しない。ブラウザーはブラクラ防御やアクティブ・エックスが自動ダウンロードしないように設定してある。これで完璧とはまるで思わないが、あとは時折、常駐ソフトや初期起動ソフト、トラッキング・クッキーなどを含めて、マシン(パソコン)の状態をチェックするようにしている。もっとも、ウイルス対応ソフトが無意味だと思わない。私も長くマッキントッシュ・ユーザーで、常にノートン先生を使っていた。
 今回のトラブルで私が一番驚いたのは、トレンドマイクロが提示する対処法だった。セーフモード起動しろというのだ。Windows95くらいから使っているパソコン利用者だとセーフモードのお世話になることが多かったので、その操作を知っているかもしれない。だが、現在のXPの利用者はどうだろうか。たぶん、無理なのではないか。簡単にパソコンのセキュリティが保持できるとしたのに、重要な局面で強面が出てくるという印象を受けた。
 それにしても、なぜこれほどまでに企業のパソコンにウイルスバスターが組み込まれていたのにかも驚いた。同社が企業対象のビジネスを展開していることもわかるが、率直に言うと、システムの管理者にしてみると、配下の利用者がトラブルを起こすのを避けたいがための、ご霊験あるお札のようになっていたのではないか。例えばお偉いさんが、「きみぃ、当社のパソコン・セキュリティは大丈夫かね」と言うなら、「全機にトレンドマイクロ社のなんたら…」と答えておくのが無難だ。なにも運営担当者を責めたいわけではないが、パソコンのイロハを教育することが実は現代では難しくなってきている。そういえば、以前は自動車に運転免許が必要なんだからパソコンにも免許があったほうがいいという議論もあったものだ。
 ニュース報道などでは、ウイルス対応に追われるセキュリティ会社はトラブルを起こしやすくなっていたといった指摘もあった。たしかに、今回の事件についていえば、フィリピンから配布された問題のアップデートは十分なテストもされていないことが明かになっており、同社としてもその失点は覆うべくもない。
 だが、私は、この分野へのプレッシャーとして、この四月から全面施行された個人情報保護法や企業の個人情報流出問題が「空気」として背後にあったのではないかと思う。実は、この機にウイルスバスターの仕様を読んで、「へぇ、ここまでやるのか」と驚いた。そして、その売りの大半は、以前のようなウイルス対応とは違ってきているのだなと思った。
 個人情報流出については、個々のケースでも明かだが、システム的な問題ではなく、人的なマネージメントの問題である。しかし、そうしたマネージメントが難しいという状況があるのだろう。
 最後に、ごく個別に。今回のトラブル原因は、今回の更新で追加されたウルトラプロテクト(Ultra Protect)と呼ぶ圧縮形式のファイルを検査する機能かとの説明がトレンドマイクロからあった。「Windows XP Service Pack2とWindows Server2003には、OSの一部としてUltra Protectを使ったファイルが標準で含まれており、それを発見したウイルスバスターが検査を試み、無限ループに陥る。結果としてCPU負荷が急増してしまう。」(参照)とのことだが、被害の状況を見ていると、日本版のWindows XP SP2に集中している。XP SP2周りの説明はそれでもいいが、なぜ日本版のWindowsなのだろうか。もし日本版だけのトラブルであれば、Windows側の技術も気になる。

追記(同日)
 トラブルは日本語版だけに限らないようだ。
 "So how was your Friday night? "(参照

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2005.04.23

最近のオーストラリア関連のちょっとした話題

 日本国内では中国の対日デモの話題に隠れて日豪首脳会談はそれほど注目されなかった。会談の主眼は日豪FTAだが、その締結に向けた研究を二年程度かけて行うことで合意したとのことだが、悪しき先延ばし感が拭えない。日本の自衛隊を守る任務を受けてくれたオーストラリアに対して手厚く返礼すべきであると、先のエントリ「オーストラリア・ハワード首相には三倍返しが適当かと」(参照)で期待していたので私は残念に思う。
 日豪関係はただこうした日本人の道徳観だけの問題ではない。中国の経済的なプレザンスが高まるなか、豪州と日本の連携はより重要になる。幸い官邸側にはその認識があるらしく、多少ではあるがその姿勢を明かにした。産経新聞”FTA研究 豪の中国シフト警戒 日本"うまみゼロ"”(参照)がうまく伝えている。


 日豪間での自由貿易協定(FTA)を視野に入れた研究会の発足が二十日、首脳会談で合意された。農業分野の関税引き下げを警戒する農林水産省が猛反発し、通商担当者も「鉱工業品の関税はすでに実質的に撤廃されており、日本のメリットはゼロ」と断言する中での官邸主導の決断だ。その背景には、自衛隊のイラク派遣をめぐる日豪関係への配慮や、将来の資源外交をにらんで中国との関係を深めるオーストラリアを日本側に引き止めようする思惑もある。

 まったく日本の敵は日本の中にありという感じだが、巨大国家は米国などでもそうしたものなのでだからこそ国策が重要になる。
 ここで少し話の矛先を変える。ハワード首相や、イラク派兵反対の世論も強いオーストラリア国民はこの日豪首脳会談をどう受け止めたかというと、いや、それどころじゃないニュースがオーストラリアを覆っていた。
 それは、九人のオーストラリアの若者が、国際的に非合法とされる芥子由来物質の運び屋としてインドネシアのバリ島デンパサール空港で捕らえられたことだ。インドネシアでは最も重い国家的な処分が予想される。ざっと見た限り日本ではこのニュースはあまり報道されていなかったようだが、ベリタ通信というサイトと連携したライブドアニュース(参照)で比較的詳しく読むことができる。比較的読みやすい記事はBBC"Nine Australians arrested in Bali"(参照)にもある。
 日本語の記事に私の知る限り事実認識での問題点はないが、テーマをバリ島が問題拠点とするのは本質的ではないかもしれない。バリ島だと運搬者を観光客にまぎれやすいということだけだろう。他にも合成系がメルボルンで話題になったこともある(参照)。
 とはいえ、バリ島に絡んだ同種の事件が目立つことも確かで、特に昨年十月に話題となった「オーストラリア人女性(27)」はいまだに英連邦では大きな話題になっている。国内で読みやすいニュースはないようなので、気になる人はBBC"Australia's Corby faces life"(参照)を参照されるといいだろう。こちらのケースではかなりの同情が集まったのだが、今回の九名については、もちろん十代の子どもも含まれているのでその点で同情される要素も大きいのだが、デンパサール空港での唖然とするような当時の映像なども公開されており、オーストラリアの受け止め方も異なってきているようだ。
 今回のケースではオーストラリア当局も周到に動いたようだ。背後にはより大きな組織の存在が疑われている。
 こうしたオーストラリアでの社会的な話題だが、直接的には日本にはまだまだ関係ないニュースだと言えるし、日本の場合は類似の分野でもより異なった問題がある。が、留意しておいてもいいことではあるだろう。

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2005.04.22

暗いニュースリンクでもたぶんあなたに熟考してほしくない暗いニュース

 先日のエントリ「朴東宣のことを淡々とブログするよ」(参照)の続編というか、続編なんか書きたいわけでもないのだが、老いたるオリエント・ギャッツビー朴東宣問題の余波がさらに北朝鮮問題にまで広がっていて、極東ブログ的には時事のログとしても無視できない。
 事態の紹介を兼ねて日本語で読みやすい記事として産経新聞”北担当特使の職務停止 国連のイラク支援計画疑惑”(参照)を引用したい。


国連報道官は二十日、「イラク石油・食糧交換プログラム」の不正事件をめぐり、独立調査委員会の調査対象となった北朝鮮問題担当のストロング事務総長特使(カナダ)について、疑惑が解消するまで職務を停止すると発表した。
 職務停止は本人の決断で、アナン事務総長も同意したという。特使は北朝鮮への人道支援問題をはじめ、六カ国協議では北朝鮮に参加を促すなどしてきた。職務停止により、国連の北朝鮮に対する働きかけが事実上中断することになる。
 ストロング特使は、イラクの旧フセイン政権のために米国内で無許可のロビー活動を行い、その見返りに同政権から二百万ドル(約二億千四百万円)を受け取った疑いでニューヨーク連邦地検に告発されている韓国人ロビイスト、朴東宣容疑者と親交があった。

 話をいきなり核心にもっていくと、問題は、国連の北朝鮮問題で朴東宣がなんらかの意図をもって関わっていたのかということだ。残念ながら、現状では、そこがまだはっきりしない。現状では、ストロング特使は、その職務遂行のための背景知識を得るために、北朝鮮出身の朴東宣のアドバイスを受けていたことは認めているものの、その影響はなかったとしている。
 ないわきゃないだろーこのー、というのが、率直な印象だが、そのあたりから、若干陰謀論の影が出てくる。それにしても、常識的に考えて、朴東宣は国連の北朝鮮問題に介入したい意図があったとまでは言える。だとすると、それは、朴東宣個人のものか、韓国か、北朝鮮か、あるいはあれかということになる。その先はまだ見えない。
 問題は当然国連側ストロング特使にもある。ウォール・ストリート・ジャーナル”Stale Kofi”(参照)も、控えめにと言っていいと思うが、問題点を指摘している。余談だが、「ステイル・コフィ」というタイトルは洒落ていて笑える。

Even if Mr. Strong had the best of intentions, his decision as a high-ranking U.N. official to be involved in any business relationship with the star bag man of Koreagate suggests seriously odd judgment.

 国連の幹部がこんなうさん臭い人間と関わること自体おかしい。
 ウォール・ストリート・ジャーナルはここから毎度の国連批判になるのだが、日本国内での報道が少ないので当方も繰り返しておきたい。

We have seen signs that Saddam, via Oil for Food, corrupted officials and businessmen worldwide--though apart from legal investigations in the U.S., this aspect of the scandal in countries such as Security Council member states Russia, France and China, not to mention such crossroads of Saddam's commerce as Switzerland and Syria, has barely been scratched.

Now we have the charges by U.S. prosecutors that Koreagate's Tongsun Park shuttled millions in bribe money from Saddam Hussein to two high-ranking U.N. officials, referred to in the complaint as "U.N. Official #1" and "U.N. Official #2." Outside the U.N., the hunt is on to discover the identities of this duo.


 リフレイン部分はさておき、この国連幹部との関わりは重要な問題でもある。
 日本国内のメディアでは先日のヴォルカー報告で、アナン潔白!で終わりにしたい空気を醸そうとしているし、表向きはそれ以上の追及は無理めでもあったのだが、ここに来てヴォルカー報告ってどうよという動きが国連内部から出てきている。一例としてフィナンシャルタイムズ”Volcker report 'did not' exonerate Annan”(参照)をあげておきたい。標題のとおり、アナン免罪とはいかないよ、ということだ。

A UN-commissioned inquiry into Kojo Annan's business dealings did not necessarily exonerate his father Kofi Annan, the UN secretary-general, senior US State Department official warned on Thursday.

“It is probably an exaggeration to say the Volcker report exonerated the secretary-general,” said Mark Lagon, deputy assistantsecretary of the bureau of international organisation affairs, during a visit to New York.


 ヴォルカー報告の作成側からも愛想を尽かされている。

It was revealed on Wednesday that two senior investigators on the Volcker commission had resigned. Mark Pieth, one of three chairs of the commission told the Associated Press they felt the latest report played down criticalfindings.

 日本のジャーナリズム的にはボルトン擁護の米国側の牽制でしょうくらいで話を納めようとするのではないかと思う。しかし、そんなチープなオチで済むわけでもないだろう。
 余談めくが、朴東宣は韓国ではなく東京に潜んでいるという話もある(参照)。奇妙な山が動くとも思えないが、ブログなんてたいしたことないとプロのジャーナリズムが小馬鹿にする前にせめて朴東宣東京潜伏問題に食いついてもらいたいものだ。

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2005.04.21

子供の停学(不登校)はコレステロール不足が原因のひとつかも

訂正(2005.4.22)  当初のエントリでは"School Suspension"実態としては日本の場合「不登校」にしていいかと思って訳しましたが、やはり正確ではありません。訂正しました。不正確なエントリになってしまったことをお詫びします。

 海外のビザールは日本のブログのネタになりやすくなったので、このブログで取り上げるほどでもないかなとは思うが、20日付けのロイター”Low Cholesterol in Kids Linked to School Trouble(子供の低コレステロールが学校で問題行動に関連している)”(参照)が面白かったので、最近この手の話をしてなかったこともあり、さらっとネタにしてみたい。
 標題からもわかるように、子供の場合、血中コレステロール濃度が低いことで不登校停学など学校でのトラブルが発生しやすいという研究報告が出た。ガセだかわけのわかんないトリビア系の話ではなく、話の元はしっかりしている。American Journal of Epidemiology(April 1, 2005)”Association of Serum Cholesterol and History of School Suspension among School-age Children and Adolescents in the United States(米国就学児童青少年における不登校停学履歴と血中コレステロール濃度の関係) ”(参照)である。概容もそれほど医学的な用語で書かれているわけでもないので読みやすいし、ロイターもこれをけっこうベタに引用しているのだが、それでニュースのほうを引用しておく。


Children and teens with low cholesterol levels seem to be more likely to be suspended from school, according to researchers. They suggest that "low total cholesterol may be a risk factor for aggression or a risk marker for other biologic variables that predispose to aggression."
【試訳】
就学時期の子供で血中コレステロールの低い子の場合、不登校停学になりやすいとこの分野の研究者が指摘している。曰く、「血中総コレステロール値が低いと攻撃性のリスクが高まる。つまり、生物学的に見て攻撃性を誘発しやすくする指標にもなる。

 調査は米国で行われたもので、現代日本人のイメージだと、米国人の子供ってコレステロール高そう、と思われがちだ。が、それはそれとして、六歳から一六歳の4千852人を調査したところ、低コレステロール児童に学校でのトラブルが多いという傾向が見られた。人種間でも違いがあるとのことなので日本にそのまま適用できないかもしれないが、概ね日本の子どもにも当てはまるだろう。
 なぜそういうことになるのかという点については、ロイターの記事でも元となる調査でも踏み込んでいない。
 こうした問題に素人推測はよくないのだが、それでも、これまで、大人を対象にした各種の研究で、低コレステロールが自殺や事故死を増加させていることが明らかになってきているので、そうした関連と見ていいだろう。
 また、少し古いがランセットに掲載された"Low serum cholesterol and suicide"(1992 Mar 21;339(8795):727-9.)では、血中コレステロールの低下が脳のセロトニン低下を招き、その結果攻撃性抑制が難しくなっていると指摘しているが、おそらくそのあたりの影響なのではないか。成長期の子供だとそれがさらに強く影響を出すと考えてもよいように思える。
 とま、話はそれだけなのだが、だからというわけではないが、子どもヘルシーな朝食は和食だみたいなしょーもない話を昨今聞くが、和食か洋食はどうでもいいとしても、アレルギーの問題がなければ、子どの朝食には卵一個はつけておけと思う。それと若い女性も同じだと思うけど、言っても無駄か。

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2005.04.20

アドビのマクロメディア買収について雑感

 あまり社会全体に影響のあることでもないし、IT分野においてもごく限られた領域だとも言えるのだが、Web分野のクロニクルとしてアドビ(Adobe Systems)のマクロメディア(Macromedia)買収について、ごく感想みたいなものだが書いておきたい。ざらっと書くので間違いも多いだろうと思う。
 話は、18日、米国アドビ社が同じく米国マクロメディア社を34億ドル(3600億円)相当の株式交換で買収することに同意したことが発端。単純に言えば、マクロメディア社がこれでアドビに吸収される。米国での話だが、この統合は日本の部門にも影響する。あれだ、アルダスがアドビに統合されたときみたいにごちゃごちゃするのだ。
 アドビ社のビジネス分野だが、新聞報道などでは、パソコンディスプレイに印刷状態に近い文書表示を可能にするPDFファイル作成・表示といった点に関心が持たれているようだ。確かに米国ではそうかなと思うが、国内では米国に比べるとまだそれほどPDFは活用されていないようでもある。それでも、フジとライブドアの合意文書なども早々にPDF文書で配布されたりしているので、普及してないわけでもない。PDF文書についてはインターネットエクスプローラーなどブラウザーに統合されているので、一般の利用者でも閲覧・印刷は特に問題なく利用できる。問題はむしろ行政機関や教育部門でのペーパーレスとデータベースの改革だろう。
 統計を見てないので勘で言うだけなのだが、国内でのアドビの利益部門はまだPDFではないだろう。パッケージソフトとして売れているのはデザイナー御用達のイラストレーターやフォトショップなどで、これらがどれも伝統の味を生かした高額だ。ソフトのパッケージが事実上壊滅しているのに(一万円以上は売れない。年賀状ソフト群の醜悪なことよ)、アドビのこの一群と、それと誰が買ってんだかわからないが(皮肉です)マイクロソフトのオフィスだけがパッケージ売りで生き残っている(あとOSと開発環境かな)。
 出版分野では、アドビはインデザインというDTPソフトを出していて、これも普及しているといえばそうなのだが、DTPのデザイナーはクォークという10年来進歩しねーソフトをギークに使っており、MacOXへの対応が進めばそちらにさらに流れ込むのではないか。DTP分野でのアドビは少なくとも国内では端ものやアートワークを除けばイマイチだろう。と、このあたりの印象はちょっと外しているかもしれない。
 マクロメディア社と言えば、バカフラ作成でネラー御用達のフラッシュという動画作成ソフトがあるが、と書いた時点で、すでにフラッシュの本質を外している。フラッシュが、フューチャーウェーブ・ソフトウエアを買収して売り出したフューチャー・スプラッシュ・アニメーター(これがフラッシュの語源ではないか)はベクターアニメーションソフト(線画を計算処理して動かす)として定番になったが、マクロメディアとしてはその記述言語であるアクションスクリプトを高度化させ事実上ジャバに育て上げ、最新の開発環境ではジャバやドットネット・フレームワークに劣らないものにまで改良したのが、ほとんど普及しなかった。インデザインとクォークの関係でもそうだが、技術者を要する技術の普及はまさにその技術者集団というかその労働者市場のありかたに依存しているように思われる。
 同様にと言っていいと思うが、マクロメディア社はビジネスのかなりの主軸をサーバー・ビジネスに移しコールドフュージョンに賭けたのだが、VOAなどでは利用されているが、これも普及しなかった。やはり技術者の層の問題だと思う。加えて、雑ソフトと見なされているが米国ではある程度普及したコントリビュートもブログブームとあいまったCMSの動向に取り残された。
 マクロメディアとしては、フラッシュと同じく有名な、ドリームウィーバーというWebページ作成ソフトを出しており、おそらく七割程度のWebデザイナーに利用されている。今回の吸収合併で一番不安に思えたのは、このWebデザイナーの層ではないかと推測する。特に、アドビ側には対向ソフトとしてゴーライブという煮ても焼いても食えないものがあり(もちろん愛好家もいるのでこんなことを書くとうんこが飛んでくるでしょうけど洒落ですよ)、ドリームウィーバーがそれに統合されては困るし、この配下で動くで画像ソフト・ファイヤーワークスがディスコンになると困るなというWebデザイナーは多いだろう。
 ちょっと批判を浴びる覚悟でいうと、実はそのあたりも、フラッシュ・ユーザーと同じ様相になっていて、マクロメディアとしては、ドリームウィーバーはすでにHTMLエディターではなく、Webサーバーの総合管理ツールを志向していた。これがまるで市場に理解されず戦略的にこけていたのだ。
 さらに辛辣な言い方だが、HTMLエディターとしてのドリームウィーバーももはや限界にきていた。これは一概にドリームウィーバーを責められないのだが、事実上CSSによるデザインができないのである(と言うとWebデザイナーに大丈夫ですと言われるが)。このため、トップスタイルという別ソフトを組み込もうとしたり、その会社を買収しようとしてこけたり(このあたりの事実関係は違ってるかも)して失敗した。CSSデザインを先行するなら、Webデザイナーは誰にも言えないけど、IBMホームページビルダーを使っていることすらありえるということにもなる。というか、Webデザインというときのアート面のデザインとトリックの側面がうまく統合できなくなってきている。
 マクロメディアに辛辣な感想になってしまったが、この分野の技術の現状としてはすでにマクロメディアは限界に達していたと思う。このブレークスルーを買収後のアドビが克服してくれるかなのだが、たぶん、もっと暗い状況になるだろう。Webデザイナーにとっては苛酷な時代になるのだが、その分、才能のあるWebデザイナーが活躍できる時代なのかもしれない。
 同様の技術的なデッドエンドは、PDF技術とフラッシュのSWF技術にも見られる。どちらも、幸いにして、こららの文書形式は独占されていない。その意味で、サードパーティが参入できる余地があり、しょぼい安価なソフトがちらほらと出ている。が、いずれもPDFはXMLと統合され、また、SWFのベクターグラフィックスの部分はSVGに統合されるべきだろう。とはいえ、これらも要するにそれを支えるエンジニアやデザイナーの労働市場に依存するだろう。
 業界的には、いよいよ、アドビ、マイクロソフト、グーグルががちんこの時代になるのだろう。そしてちょっと毛色が違うけどアマゾンやタイムワーナーも深く関わるだろう。具体的にどうがちんこするかというのが、技術面で単純に接近しているのではないで、しばらくは奇妙な状況になるだろう。
 いずれにせよ、日本のWebサービスの状況はあまり変わりない(ニーズもない)。現場はいろいろ右往左往するだろうし、携帯電話のニッチなビジネスのあだ花から博打こいたニューリッチにもあまりビジョンはないだろうと思う。

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2005.04.19

ホリエモン騒動終結、私的総括

 ホリエモン騒動が終結した。アドビがマクロメディアを買収したという新ネタに比べると、もはや興の乗る話題でもないが、このブログでも存外に踏み込んでしまったのでけじめというか自分なりのまとめというか感傷というか、そんなものを簡単に書いておきたい。それで自分でも終わりにしたい。
 フジテレビとライブドアとの最終的な合意についてのニュースの引用などは省略する。単純に言えば、フジ側はライブドアが取得したニッポン放送株を高値ですべて買い取り、さらにライブドアの株も引き受けて株主になるということ。また、フジとライブドアは「放送とインターネットの融合」とかの題目での提携のために、推進の委員会を設置する、と。後半の提携話はたぶん誰も期待していない。
 私の印象は、この結果は存外によかったんじゃないかということ。フジも随分大盤振る舞いをしたものだなということ。
 それと、自分とブログの関係と言えばそれだけのことだが、この二ヶ月間、メディアが煙幕吹き散らし、ブログも利害に絡んだ式神を飛ばしまくったなか、このブログもなんとか暴風に耐えたかな、ということ。つまり、このブログからすると、この決着は想定内の範囲だった。前回の極東ブログ「終わったのか、ホリエモン」(参照)で私はこう書いた。


単純な話、ホリエモンもカネを張って勝負に出て、それにフジ側も乗ってしまったのだから、ニッポン放送からお帰り願うとしても帰りの駄賃くらいは出さないとホリエモン側としてもお商売にはならない。

 恐らくこの間フジとライブドアでは、帰りの駄賃でもめていただけで、SBIとかの話も壮大な煙幕だった(参照)。なんとかあの煙幕でもこのブログは吹き飛ばないでいられたかなと。
 ホリエモンとしては、当初は、そうした「帰りの駄賃」には目もくれず、ニッポン放送の取得にこだわりつづけたわけだが、そこにそれほど固執しないのも、想定の範囲内ではあっただろう。だが、前回私は先の文章の前にこう書いていた。この時点で、ニッポン放送を手放すスジを読めていたわけではなかった。

確かに、ホリエモンがフジテレビを取得するかという点ではそういうことかなとは思うが、ニッポン放送については、たとえそれが資産価値としては空っぽでも、また多少難題はあるにしても、得ることはできただろう。その意味で、負けでもないし、AAで終了と大書する、ということでもないとも言える。ただ、ホリエモンもこの件で多額の金を動かしており、それがこの結果では、メリットが実質なし、だろう。それに、他事業から推測しても、ニッポン放送の経営の才覚もないだろう。

 つまり、私は、率直に言うと、ホリエモンはもっと愚かしくクラッシュするだろうと思っていた。結果はそうではなかった。そして、そうならなかったことはよかったことではあるのだろう。
 結局どっちが勝ったのかといえば、ホリエモンの勝ちだと私は思う。一千億円の元手で一千五百億円をゲットしたのだから、勝ちという以外はない。
 ただ、それが、ホリエモンにある種の理想を抱いた人にとっては、マネーゲームということにしか映らないだろうし、そこに不満も残るだろう。詳しくは知らないが、これまでホリエモンと一緒に仕事をしたけど彼から去っていく人も多いらしいと聞く。私も、どっちかというと、彼にもう多少なりとの期待を寄せることはないだろう。
 もうちょっと言う。他人の面相や風体にとやかく言うことはしないが、それでも、今回の和解で手を取り合っている面々の風体を見たとき、私は吐き気がした。「切込隊長BLOG(ブログ)」の”午後発表”エントリについた次のコメント(参照)をたまたま見て、そうだよ、と私も呟いた。

164.クロロ(2005-04-19T04:56:52+09:00)
今まで普通に育ってきて、これほど世の中操作されてるっていう気持ちの悪さを味わったのは初めてだ。大人になるってのは良心にグロを突きつけられて耐え続けるようなものだね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050418-02422379-jijp-bus_all.view-001

 うまい表現だ。
 しかし、私の嫌悪感について言えば、そんな純真な心情からではない。48歳にもなった男が純真でも○貞でもいられるものでもない。顧みて、人に唾棄されるようなこともけろっとやってのけてきたと思う。そして、それに反省すらしてない。「私は吐き気がしましたね」なんて言えるもんじゃ全然ないのだ。
 とここで太宰治回路でくるくる回ってもなんだが、世の中というのはこういうものだ。そして、こういうものが円満な解決というものだ。むしろ、こういう様を見て、おれも、働こうという通称ニートがいたら…、いや、いて欲しいものだと思う。
 個人的な思い出だけど、今では音信もないけど、米国籍で金髪、バイキングのような巨体で、なのに高校まで日本語しか話せなかったT君のことを思い出す。彼は「僕、就職するんですよ。おじさんの会社の社長になれって言われているんです」と言って、この季節、天を仰いでこの詩を呟いていた。

まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

【関連極東ブログ記事】


  • 新年好! ホリエモン(参照
  • 負けたのか、ホリエモン(参照
  • ホリエモン・オペラ、間奏曲(参照
  • 釣り堀衛門? いえいえ算盤弾いて末世(参照
  • モーソーモーソーとホリエモンは言う(参照
  • 終わったのか、ホリエモン(参照

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2005.04.18

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

 昨日、よい天気なので桜を見に行った。世人は、もう関東の桜は終わっているだろうと思っているかもしれないが、それは染井吉野(ソメイヨシノ)の話。山桜は里桜に一週間ほど遅れて見頃になる。八重桜についていえば、これからが本格的な季節になる。いや、染井吉野だって、高雄山ならこれから見頃だったか。
 毎年、三月も中旬になると、メディアでも桜前線という話題が盛り上がるが、今年の桜の開花は随分遅れた。と、ここで言う桜は当然ながら染井吉野のことだ。染井吉野は、江戸末期に染井の植木屋が売り出したものらしい。染井は東京豊島区巣鴨・駒込あたりの旧地名で、染井霊園などにその名を残している。
 染井吉野は大島桜と江戸彼岸との雑種。つまり江戸の花好きが人工的に作り出した桜でもある。江戸時代というのは不思議な時代で、こうした特殊な美学を元にしたバイオテクノロジーが盛んだった。現代日本ではそれほどは顧みられないが朝顔などもいろいろと改良されている。
 染井吉野はその美の追究が先行したのか、生命体としての成熟を待たなかった。実生にはならないのである。よく見ると染井吉野にも実が成るようだが、あれから木が育つということはないらしい。染井吉野を増やすには枝を挿し木する。つまり、日本の染井吉野の木はもとは一つのマザーをもっている一つの生命体である。クローンでもある。個体の寿命も短い。追記:花木の挿し木が特殊っていうことではないんですが。
 染井吉野は、身体を分化してのみ増殖するという点で死を否定された生命体でもある。日本全国、そしてアメリカ、中国、韓国と、世界各地に散らばった染井吉野だが、生命体としてはただ一本の永遠の木なのだ。ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」にアイウォーラおばさんという不死のイメージが出てくるが、染井吉野はただ美を与えるためだけに存在し、しかも死と美のイメージを振りまきながら、実際には次世代のために死ぬことが許されない不思議な存在だ。その存在は、ある意味、畸形でもあり、江戸が同じく作り出した蘭鋳のような奇怪さも持ち合わせている。と、いうのはさすがに考えオチ。
 染井吉野は日本の歴史からすれば新しい時代の日本人の美感にも適合していたし、その後の百年の美観を先取りしていたのかもしれない。戦中の日本の美学には染井吉野の散り際のような要素が多く含まれているようでもある。
 それでも所詮日本の歴史から見ればごく最近のことだ。日本人と桜の長い関わりは、日本人として長く生きていると遠く呼びかけられるように帰っていくところがあるように思う。
 私は、染井吉野が嫌いではない。でも、山桜がより好きだ。山桜は、若葉と花が同時に開く。葉が先に出るようにも思えることから、葉を歯にかけて出っ歯を山桜と呼ぶ洒落もあったが、今では出っ歯なんていう言葉もあまり聞かない。
 山桜の若葉は赤みがかかっていて、万華鏡を覗くように空に散らばり、その色合いは、花よりも美しい。いや、花とあいまってその美しさが極まる。
 山桜への嗜好は、あまりいい表現ではないが、情の交わりとでもいうような官能的なものも潜んでいると思う。本居宣長の山桜への想いにも似たものを感じる。山桜というのは、その木、一本一本に肉感的な強い存在感がありそだ。

  先の世花は如何なる契有りて斯許り愛づる心なるらん

 宣長と桜といえば、標題の宣長の歌が有名だが、小林秀雄がいうように、この大和心は、近代以降人口に膾炙した趣きとは事なり、ただ、山桜が好きな想いが日本人だ、というくらいなもので、ポイントはまさに山桜というもの美しさにある。
 と、小林秀雄の著作をめくっていたがなぜか手元に思い出の部分が出てこない。ネットにこうした話題などあるまいと思ったら、そうでもなく、本居宣長記念館(参照)のサイトにあった。先の歌もある。


宣長さんがね、本當に櫻にうち込んだのは、四十からだね、若いときから櫻が好きだつたとはいふが、四十からの宣長さんには、何か必死のものが見えるね、僕には。何といふか色合ひがちがふんだよ、それまでとは。僕もさうだつた、四十からだつた、やはりね、身を切るやうな痛切な體驗がないと、駄目だね、・・・・ただ、きれいだ、きれいだといふだけで、ちつとも食ひ込んで行かないからね。

 この小林秀雄の言葉はまったくその通りだと思う。私も山桜が好きになったのは四〇歳を越えてからだ。その頃、沖縄で暮らしながら、山桜だけにはまるで初恋のように心が騒いだ。物狂おしいという感じだ。
 現在桜の名所とされているのは、戦中から戦後にかけて日本人が育ててきた染井吉野が多い。だが、そうした桜の名所でも、桜守とでもいうのか、桜の思いを深く育てた庭師などがいたところでは、桜が染井吉野だけに偏らないように配慮されている。桜の季節が染井吉野だけで終わらないようにという配慮でもあった。それも日本人の心だった。
 戦中から戦後に植えた染井吉野の寿命はもうすぐ尽きる。それに比して、山桜はより強く老いていく。日本人の心は近代を越えて生きるといった比喩でもあるかのように。

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2005.04.17

国連アナン事務総長と英米との反目

 国連不正問題関連で多少気になる動向があり、例によって国内報道が薄いので、簡単に触れておきたい。話は、この枠組みの中で、国連のアナン事務総長が英米に反撃に出たということ。それに加えて、英米がアナンに批難の応戦していることだ。英米側の応戦については、国内報道を見かけない。
 国連不正が自分の息子にまで及びバックレようもなくなったアナンだが、依然辞任の噂も聞かれない。将棋で言えば、あと二手くらいで積みそうだったのだが米国側の思惑が入り組んだこともあり、アナン続行の小康が続いている。状況から見れば、アナンは米国に懐柔されたかとも思うのだが、今回の反撃からは、なかなかアナンの気骨も感じさせる。ようは、この強気ってなんだよ、ということもあるのだが、まず、事態を見ておこう。ロイター”イラク石油交換疑惑、米英にも責任の一端=国連事務総長”(参照)はこう伝えている。


 アナン国連事務総長は14日、イラクの石油・食糧交換プログラムの疑惑について、米英にも責任の一端があるとの考えを示した。
 事務総長は、国連とメディアが参加したセミナーで講演し、フセイン元大統領が獲得した資金の大半はヨルダンとトルコへの石油輸出によるもので、国連のプログラム外の取引だったと指摘。これを阻止する力があったのは、米国や英国のような国に限られていたのに、「同盟国だったためにトルコとヨルダンに対しては目をつぶった」と述べた。

 ロイターの記事の割には話が錯綜している印象も受ける。国連不正とフセイン下の石油密輸は必ずしも同一ではない。
 この話は当然ながら反米的なトーンを持っているので、中国がすぐに釣られて脊髄反射している。CRI”アナン事務総長、米英はフセイン政権下の石油密輸に責任を負うべきと示す ”(参照)がそれだが、こちらの報道ほうがやや詳しい。

 国連のアナン事務総長は、14日ニューヨークにある国連本部で、「アメリカとイギリス両国はイラクのフセイン元大統領が国連の制裁下で、石油を密輸を通して、巨額の不法資金を受け取ったことに責任を負うべきだ」と述べました。
 アナン事務総長は、「イラクのフセイン元大統領が、20世紀の90年代に不法資金を得た主なルートは、石油の密輸であり、国連の"石油と食品の交換計画"ではない」と述べ、さらに「アメリカとイギリス両国は本来ならフセイン政権の石油密輸を制止できるところを、自らの利益から、フセイン政権とトルコやヨルダンとの石油密輸貿易を放任した。

 余談めくが、CRIはダルフール問題などの報道も多いのだが、中国に都合のいい偏った報道しか流していない。同程度に中国に都合の悪そうな外信も日本語で流しているところがあると面白いのだが見あたらない。
 話をアナン反撃に戻すと、アナンの言い分は概ね正しいと私は思う。つまり、この密輸問題の全貌がよくわらかないし、大枠として見れば、米英が関わっているとしか思えない。この点については、私の見落としかもしれないが、反米左翼的な言論でもうまく取り上げられていないのではないか(ブログ興隆に比して反米議論が粗くなっている印象がある)。
 この英米系の密輸のルートは、私の勘違いがあるかもしれないが、基本的にイラクの油田と英米メジャーと深い関連にあるはずだ。イラクの油田の利権について、英米系のメジャーはキルクークを中心とした北部、つまりクルド人の地区にある程度限定されている。石油利権という点でいえば、英米系はあまり南部には関心を持っていない。その面から見れば、英米にとっては、クルドが安定こそが重要で、シーアやスンニの地域がある程度荒れていてもそれほど問題はなかった。
 この問題はクルド側からも見ることができる。ある意味出来レースで大統領となったクルド愛国同盟(PUK)出身のジャラル・タラバニだが、昨年国連に敵意のある発言もしていた。読売新聞(2003.5.23)”イラク決議採択 米の勝利、国連が認知 「占領」にお墨付き”では次のよう伝えていた。

 対イラク国連経済制裁は、一九九〇年の湾岸危機をきっかけに、フセイン体制の弱体化を目指して発動された。だが、これによって、イラク国民の生活は極端に窮乏、医薬品不足で乳児死亡率が著しく増加するなどの事態も発生した。
 その一方で、フセイン大統領、親族、政権中枢らは、トルコやシリアを経由した石油密輸や石油販売先からのリベート徴収などで巨額な富を得ていた。
 こうした経済制裁の非合理性は、イラク戦争の前からすでに明らかになっており、国連組織の官僚的体質と相まって、「イラク復興には国連を介した援助は必要ない」(クルド愛国同盟のタラバニ議長)との声まで出ていた。

 こうした背景からすると、英米責任論は結果論であって、タラバニ大統領がむっときているように国連の不合理と無力が根にあると見てもいい。そうした視点からすれば、今回のアナンの反撃は、八つ当たりという印象も受けないではない。
 アナンの反撃に英米側はすぐに対応したのが、日本国内での報道は見かけない。話としてはVOA”US, Britain Reject Annan Criticism on Oil-For-Food Scandal”(参照)が比較的読みやすいのだが、当の英米側の対応はそれで十分かというと、私は釈然としない。例えば次のような言い訳は妥当なものだろうか。

"There's a fundamental difference between oil smuggling, illegal oil smuggling that was done under the table and behind closed doors, and the very public process that the American government went through to exempt certain countries. Don't forget that this exemption came before the oil-for-food program was even established," he noted.

 もともとこのアナンの反撃はオフィシャルな発言ではなかったこともあるのかもしれない。
 合わせて、ライス国務長官が国連改革に圧力をくわえるような発言を出している。表向きはボルトンがらみでもあるのだが、タイミング的にはこのアナン発言の小競り合いの渦中にある。VOA”Rice Says UN Cannot Survive as Vital Force Without Reform”(参照)はこう伝えている。

Ms. Rice said that with the United Nations facing scandals over the Iraq oil-for-food program and the conduct of peacekeepers in Africa, it in her words "cannot survive as a vital force in international politics if it does not reform its organizations, secretariat and management practices."

 以上、話をうまく整理してない部分も多いのだが、日本としては、今、国連常任理事国入りでアナンに期待している手前もあり、米国と国連の問題にあまり触れたくないのが実情だろう。中国の暴動も基本的には、この関連の枠組み(アナンの国連ということとその後の改革)にあるはずなのだが、そうした言及もあまり見かけないように思う。

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2005.04.16

朴東宣のことを淡々とブログするよ

 1995年以降、イラクのフセイン統治下で表向き人道支援として実施されていた、国連による石油食糧交換プログラムだが、その実態は、国際規模で巨大な不正にまみれていた。本来なら制裁によってイラク民衆が困らないように、イラクが産出する石油で、国民生活に必要とされる食糧と医薬品を物々交換的に供給することが目的だった。もちろん、物々交換ではない。巨大なカネがからむ。石油の市場価格との差分をチョロっとすればガバっと儲かる。その危ないカネの管理を行うはずの国連が不正にまみれて、裏金を手に入れていた。
 フランスやロシアは国家レベルともいえる規模でこの不正に絡んでいたこともあり、当初は米国のイラク侵攻によってその実態が暴かれることを恐れていた。恐れていたのは、NHKも朝日新聞も同じだろう。仲良く、この国際的な疑惑事件について日本国内で報道してこなかった(毎日新聞は報道していた)。国連に頓珍漢な幻想をいだいているのか、なんらかの利権が絡んでいるのか、イデオロギー的な背景があるのか。しかし、国連自身が主導する調査によっても大筋では事態は曝かれたことで、先の二社もしぶしぶ国内報道をするようになった。疑惑解明の渦中で報道が進められていたら、日本の世論も多少変わったかもしれない。
 この石油ビジネスに絡んだ国際的な不正に米国も免れているわけもない。だが、米国はその自国内の不正を厳しく追及しているかというと、よくわからない。そうした過程で、14日、ニューヨーク連邦地検と連邦捜査局(FBI)は、韓国人・朴東宣(パク・ドンソン:Tongsun Park)の逮捕状を取った。容疑は、フセイン下のイラク政府と一緒に、この不正を推進するべく国連に働きかけたことだ。つまり、フセインと国連の不正を繋いだのが、韓国人・朴東宣だったのだ。
 今となっては不正システムとしてその正体が曝かれた石油食糧交換プログラムだが、朴東宣はこれが開始される三年前ころから、イラク系米国人と共謀してこの計画を練っていたらしい。という経緯から考えるに、この不正システムの発案者が朴東宣その人なのかもしれない。
 いずれにせよ、朴東宣は、人道の看板で関係者の誰のハラも痛まずごっそり儲けられるこの悪徳ビジネスを国連高官とイラク高官に持ちかけていた。国連安保理がこの計画推進を決定したのは1995年。翌年1996年から実施された。それに合わせて、1995年の9月、国連アナン事務総長の息子コジョがスイス系コテクナ社(本社ジュネーブ)に入社。不正なあぶく銭をゲット。幸い、コジョの不正はすでに父アナンがかばうべくもなく暴露されている。で、このスイスなのだが、朴東宣の不正商談の場所の重要な一つだった。
 朴東宣は今どこにいるのか? 朴東宣の居場所は、ソウルの漢南洞であると見られている(追記 東京にひそんでいるとの話もあり)。ニューヨーク・マンハッタン連邦地検デビッド・ケリー検事は、すでに韓国から朴東宣を米国に引き渡しさせるための手続きを進めているが、これに応えなくてはならないのは、言うまでもないが、韓国である。なぜこの時期にという疑問も韓国政府も浮かぶだろう。
 朴東宣は、ある一定以上の年代の日本人には懐かしい名前だ。さすがの伊達男も老いて、今年七〇歳になる。糖尿病に悩んでいるとも聞く。懐かしいと言ってられないのは、一部の日本人と、米国人である。
 朴東宣は、1976年、米国と韓国のあいだで最大の国際問題となった、通称コリアゲートの主人公である。ウォーターゲート事件以降、こうした疑惑をなんとかゲートと呼ぶが、コリアゲート(韓国疑惑)がその最初のケースであった。
 当時の朴東宣と言えば、現在日本の中年女性から熱烈支援されている裴勇俊なんて貧乏くささのかけらもない東洋のボン・ヴィヴァンとして、当時、マンハッタンの社交界の注目を浴びていた(メガネは共通)。ちなみに、今回の逮捕報道に際して、ニューヨーク・タイムズの記者も若造なのだろうか、朴東宣を「東洋のオナシス」と呼ばれていたとトチ狂ったことを書いているが、そう呼ばれていたのは彼の兄、朴健碩のほうである。朴健碩は、大型タンカーなど約九十隻を持つ、まさにオナシスに比すべき韓国のタンカー王だった。汎洋商船会長も勤めたが、1987年4月19日ソウル市中区乙支路の汎洋商船ビル十階の社会長室から飛び降り自殺した、ことになっている。弟の朴東宣のほうは、ワシントンポストが書いているように「東洋のギャツビー(Oriental Gatsby)」である。
 1970年代、伊達男・朴東宣は、当時の韓国中央情報部(KCIA)と在米韓国人実業家たちと連携して、米国の議会工作を行った(下院議員買収)。目的は、米国ルイジアナ産のコメ100万トンを韓国に輸出する際の巨額の手数料をくすねようとしたものだった。なので、米国では、この公園野郎(「朴」は英語表記でPark)、こんどはコメじゃなくてアブラかよ、と苦笑している。いや、苦笑ではすまない。彼はその後、民主党への資金提供のロビーストとしても活躍というか暗躍しているので、米国内的にはもっと面白い展開があるかもしれない。それでも、民主党に不都合な話は、日本国内の左派では、暗いニュースとやらにもならないだろう。
 当時のコリアゲートがらみでは、「第080回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第6号」(参照)に日本とって重要な話が含まれているので、少々長いのだが、引用したい。なお、野田哲君は当時の社会党参議院議員である。


野田哲君 私の手元に、いまここにこのいわゆるフレーザー委員会で韓国の対外的な政界工作、ロビー活動についてフレーザー委員会で調査をしたレポートがあります。これを全文を省略して要点を私が読み上げて、引き続いて幾つかの点を質問したいと思うんです。
 これは下院国際機構小委員会から一九七七年四月四日付で「米韓関係の調査について、」こういう表題で提出をされている調査結果のレポートです。
 概要を申し上げますと、「調査の対象になった容疑事実 宣誓証言及び小委員会による調査活動を通じて入手した情報による容疑事実は下記の通り 一、KCIAと文鮮明傘下の諸団体との連けい関係。二、文鮮明の側近並びに朴東宣によるアメリカの銀行(ディプロマット・ナショナル・バンク)支配の企て。三、合衆国憲法に保証された韓国系アメリカ人の基本的人権を侵害するKCIAの脅迫といやがらせ。四、韓国政府によるアメリカの報道機関及び学界に対する買収工作。五、韓国政府が在韓米軍との物資調達契約を組織的にみずましし、米国納税者に数億ドルの過重負担をかけた事実。六、文鮮明の側近でありKCIAのエージェントと目される人物が主宰する在米の某団体による募金詐欺。同団体は韓国のラジオ放送のための募金活動を韓国政府のエージェントとして推進したことは明らかであるが、集めた金をその目的に使用することには失敗した。七、韓国政府による在韓米企業からの資金強奪。八、過去六年間以上にわたり行政府の関係当局がこれらの諸活動の一部を感知していながら、その停止又は防止のための適切な措置をとらなかった事実。九、法に定められた議会への報告義務を怠り、韓国との間に秘密行政とり決めを結んでいた事実。十、PL四八〇法案による韓国向け食糧輸送をめぐる取引きに関連して明らかに違法の手数料を秘密裡に支払っていた事実。」こうなっているわけです。
 引き続いて「これらの容疑を示唆する次の証拠を入手している。一九七四年日本の首相の訪米に際してKCIA及び文鮮明主宰の団体は訪米反対デモを計画した。国務省はこの計画を探知すると同時にKCIAに対し、その中止を要求したと伝えられる。その翌朝文の団体は、デモ開始予定時刻のわずか一時間前になって突如デモをとりやめた。」
 次、「韓国政府職員が文により所有され運営されている反共訓練学校に参加している事実。」
 次、「文のアメリカ人信奉者達は韓国に対し異常な敬意を示すよう教えられ、韓国の国益擁護のため、米国議会に対しロビー活動をするよう送りこまれており文がすいせんする候補者の選挙運動に参加させられ、またソウルのKCIA本部で教育を受けてきている。」
 次、「一民間人として米国に居住している文の側近が韓国大使館の情報通信施設を常時使ってきた事実。」
 次、「文主宰の団体の会員達及び朴東宣の共同事業者達が共同してワシントンのディプロマット・ナショナル・バンクの株式の絶対過半数を所有している事実。自分達の私産を総て同団体に献納したとしようとする文の信奉君達が株式購入の資金をどこで確保したかについては不明の点が依然残されている。」、まだいろいろありますけれども、時間の関係で、そういうような具体的な事実を、証拠を入手した、こういう情報がレポートとしてこのとおり出されているわけであります。

 このあたりの話はこれ以上踏み込まないが、関心ある人は、極東ブログ「米国会議員が統一教会文鮮明の戴冠式に参加していた」(参照)も参照されるといいかもしれない。
 朴東宣は日本とも関わりが深い。あまり憶測の話もなんなのでわかりやすいところだけだが、コリアゲートで朴東宣は、米下院議員買収の証言の見返りとして起訴が取り下げられた。その追徴金を払うためなのか、その後、日本を巻き込んでパナマ運河関連で活躍したようだ。このあたりの話などを含めて日本関連の話が、来週の週刊新潮とかに間に合うか、気を揉むところだ。
 と書き続けようと思ったものの、あまり気が進まなくなったので、ここでおしまい。
 ところで、現代韓国で尊敬される人というのは、サムスン電子・李健煕(イ・ゴンヒ)会長あたりらしい。しかし、ヒールとはいえ、老いたるギャッツビー朴東宣は、皮肉ではないが、「韓国人ってスケールがでかいな」と驚嘆させる人物である。歴史に残る大人物でもある。ヒールでもいいからそれだけのタマが日本人はいないのだろうかとも嘆かわしい、皮肉ではなく。

【参照】


  • The New York Times: Accusations Against Lobbyist Echo Charges in 70's Scandal(参照
  • Washington Post: 'Koreagate' Figure Tied To Oil-for-Food Scandal(参照

【追記】
このエントリには以下に続きがある。
極東ブログ「暗いニュースリンクでもたぶんあなたに熟考してほしくない暗いニュース」(参照

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2005.04.15

外国人との婚外子と国籍の問題

 今朝の大手新聞各紙社説では、朝日、毎日、産経が国籍法をテーマにしていた。話は、13日の地裁判決を受けたもの。訴訟は、日本人男性を父とし、フィリピン国籍の女性から生まれ、日本で暮らす男児の日本国籍の確認を求めた行政訴訟である。地裁判決としては日本国籍が認められた。詳細を調べたわけではないが、このケースに限って言えば、個人的な感想としては、妥当なものでないかと思った。
 ただ、その感想にはかなり心情が混じる。たまたま私はこの男児を地裁判決前にテレビで見てしまった。すらすらと日本語をしゃべっている。その瞬間、私はこの子が日本人にしか見えない。やばいなやられた…やられたというのは映像メディアの威力を無防備に浴びてしまった。
 話がまどろこしくなるが、日本はアジア地域では珍しく家のシステムに血縁の原理がない。親子に血のつながりがなくても家族が構成され社会そして国家が構成される仕組みを持っている。現代日本人の常識からすると、嘘、と言いたくなるだろうが、客観視すれば現実だとわかる(養子ばかり)。そしてその現実と実態のゆがみを正すべく血縁幻想が天皇家に集約されている。天皇家ですら南北朝史などを見るに複雑な状況があるが、それが意識に表面化しないのは、この幻想が十分にイデオロギー的に機能しているからである。反面、庶民レベルでは、この非血縁原理がきちんと今でも機能しているので、親子の情といったものが社会的に認知されれば血縁の原理性が破棄される。話がうざくなったので切り上げるが、この男児もきちんと日本語を話し、日本の挨拶や所作を身につけていけば日本社会にそのまま受け入れるだろう。相貌もジャピーノ(差別語?)と言われればそう見えるが南方系の相貌の日本人は実際はかなり多い。日本の歴史は実際には千二百年程度でありそれ以前の雑婚的な状況は歴史からは見づらくなっているためだろう。
 今回のケースについては、父親も同居しているようだし、日本国籍を否定すると日本人の人情としても受け入れにくいものがあるだろう。また、朝日新聞記事”日本男性と比女性の子ら9人、国籍確認求め集団提訴”(参照)を見ると事態の根にはたんなるフィリピン人の無知もありそうだ(率直にいうと援護団体も気にはなるが)。


 ロサーナさんは姉妹で異なるパスポートを掲げ、「認知の時期が国籍取得にかかわるとは知らなかった。日本で生まれれば国籍がとれると思っていたのに」と話した。

 と、そのくらいに私は考えていたのだが、社会問題としてみるなら、これはそういうことではまったくなく、国籍法の規定を憲法違反と認めた判決というのが重要になる。産経新聞”「非嫡出子も日本人」 国籍法規定は違憲 東京地裁”(参照)を引用する。

 鶴岡稔彦裁判長は「日本国民を親の1人とし、家族の一員でわが国と結びつきがあるのに、法律上の婚姻関係がない非嫡出子に国籍を認めない国籍法の規定は、法の下の平等を定めた憲法14条1項に違反する」として男児の請求を認めた。

 鶴岡裁判長というところが案外ポイントかもしれない。国側の反論はこうだったようだ。

国側は裁判で「仮装認知が多発するおそれがある」と反論していたが、鶴岡裁判長は「仮装認知が横行するかどうかは疑問がある」として退けた。

 鶴岡裁判長は仮装認知の横行が疑問であるとしているが、このあたりは世相を知っている庶民としては苦笑するしかない。すでに横行していると見てよさそうだからだ。NHKクローズアップ現代でもこの話題を取り上げていた。ただ、私は、横行といっても国は実態をかなりすでに掴んでいるのではないかと思っている。
 同記事には過去判例の示唆があるが、読み方によっては、高裁で覆る可能性とも受け取れるだろう。

 国籍法をめぐっては、別の規定が違憲かどうか争われた訴訟の最高裁判決(14年11月)で、原告側の敗訴が確定したものの、2人の裁判官が「国籍法3条1項は憲法違反の疑いが極めて濃い」とする補足意見を述べている。

 今回の判決に所謂日本の右派はどういう意見を持っているのか気にはなる。私としては、こうしたケースでは日本国籍を認めるべきではないという意見を持っているわけでもない。反面、毎日新聞社説”国籍法違憲判決 子の地位を国会が考える番だ”(参照)のように、もはや司法の問題ではない、とまでするのは勇み足だろうと思う。

もはや司法で解決すべき問題ではない。立法府の国会が、時代の変化に対応する改善策を練り、法整備を進める必要がある。最高裁の補足意見も踏まえ、下級審の判断とはいえ、違憲とされた国籍法を早急に見直さねばならない。

 国籍法の違憲性については、高裁判決まで待ってもよいのではないかとは思う。ただ国籍法自体については、幅広い視点から再考も必要だろう。それより、こうした問題の背景となる実態について、日本国と国民がどう向き合っていくかという問題は見えてこない。私自身もこのエントリで書いたようによくわからない。

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2005.04.14

フリーターについて

 先日極東ブログ「ニートについて」(参照)というのを書いて、さて、フリーターは?と気になった。この機に書いてみたい。
 毎度ながら語義から。定義はすぐに見つかった。内閣府「平成15年版 国民生活白書」 ”第2章 デフレ下で厳しさを増す若年雇用 第3節 フリーターの意識と実態”(参照)にある。


なお、本章では、フリーターを、15~34歳の若年(ただし、学生と主婦を除く)のうち、パート・アルバイト(派遣等を含む)及び働く意志のある無職の人と定義している(注13)(第2-3-1図)。その際、「学生」、「主婦」を除いて分析を行うのは、学業や育児などの傍ら、自ら選んでパート・アルバイト、派遣労働等に就く場合が多い「学生のアルバイト」や「主婦のパート」の議論と区別するためである。

 厳密な定義ではなくて暫定的なものらしい。引用にある注13はこうだ。

(注13)働く意志はあっても正社員としての職を得ていない若年を広く分析の対象としている。すなわち、厚生労働省が「労働経済の分析」(平成12年版)で定義したフリーター(パート、アルバイトとして就労している人、またはパート、アルバイトを希望している無職の人)のみならず、いわばその予備軍も含めた広い範囲の人を対象としている。例えば、派遣労働者、嘱託、正社員への就業を希望する失業者なども含まれる。なお、厚生労働省の定義によればフリーターの数は2000年で193万人となる。

 さらに以下の説明もある。内閣府がどう考えているのか知る意味でこれも引用する。

 しかし、デフレ下で長期的に経済が低迷する中で、雇用環境は厳しくなり、近年では、正社員を希望していてもやむを得ずパート・アルバイトなどになる人が多い。
 こうした現実を重視して、ここでは働く意志はあるが正社員として就業していない人を広くフリーターとしてとらえ、分析を行うこととした。

 ようするに就労可能で正社員じゃなければ全部フリーターということだ。
 個人的には、バイトだろうが仕事をして生活をしているならうだうだ言われるスジはねーよと、も思うが、内閣府も、無意味にうだうだ言っているわけでもないのだろう。同じ仕事をしていても、正社員とフリーターで賃金や福利の面で格差があるならいかんよと、とれないこともない。そうであるなら、会社の制度を変えるべく(同一労働に対する正社員とフリーターの差を無くす)、行政的な対応をすればいいのではないか。
 が、内閣府の言い分は、そうでもなさげでもある。問題をフリーターの側に回しているようだ。”フリーターの職業能力”(参照)ではこうある。

 実際にフリーターの職業能力はどの程度あるのだろうか。職業能力として具体的に比較が容易なパソコンの能力についてみると、フリーターは、正社員に比べ全体的に作業可能な人の割合が低くなっている。こうした傾向は、フリーターを高卒と大卒に分けてみても同様にみられる。パート・アルバイトとして働いていても、正社員であれば身につけられる職業能力を得る機会が乏しいことを示している(第2-3-7図)(付表2-3-3)。パート・アルバイトから正社員への転職が難しいのは、職業能力が低いことも一因であると考えられる。

 好意的に見るなら、フリーターの人たちは正社員にならないと職業能力は身に付かないよ、と内閣府は言いたいらしい。露悪的に言うと、能力がないからフリーターなんだよとも取れないことはない。制度的な問題から逃げている印象はある。
 内閣府ではないが、就労に関わる厚労省も同じ路線上で、こんなことも考えているらしい。12日付け日本経済新聞”若者自立塾など活用・フリーター20万人を常用雇用へ”(参照)が興味深い。

 厚生労働省は11日、2005年度の若年向け雇用対策について、合宿型で就職能力を高める「若者自立塾」などを活用し約20万人のフリーターを常用雇用に転換する数値目標をまとめた。雇用の安定しないフリーターや職探しもしない無業の若者の増加が深刻なため、明確な目標を定めて政策の実効性を高める。

 これには正社員のほうが職業能力が高いという前提がある。常識的に日本の現状を考えると、それは、概ね、正しい、と言えるだろうし、正社員となることでそうした職業能力を高めることができるだろう。正社員になれるチャンスがあれば若い人は活かしたほうがいい。
 同時に常識的に言って、職業能力が高い=正社員、というだけでもない。というのも、現状、企業では正社員を減らし、その分の労働力をフリーターに切り替えて、その差分で企業益にしているからだ。切り替え可能な能力があるということだ。
 こうした正社員をフリーターに置き換えていく傾向はこのままでは今後も変わらないだろう。結局、行政的に無理矢理数合わせでフリーターを正社員にできるかということになりそうだが、政府や産業界はできると考えているのだろうか。そこがよくわからない。
 私は、今後の日本は、会社と職能向上の場を切り離し、さらに労働者を保護するという点から会社下の組織じゃない職能的な組合育成のような方向に向けるべきではないかと思う。職能別労働組合とか言わなくてもいいから、職能ごとにパートタイム労働者を支援するNPOができて、それによって、そういう労働者でも普通に(多分に貧乏だろうが)暮らせるよ、という社会を目指すべきなんじゃないか。しかし、それも空論かもしれない。
 この問題について極東ブログ「OECD対日経済審査報告と毎日新聞社説でちと考えた」(参照)で触れたOECD対日経済審査報告の"Economic Survey of Japan 2005: Improving the functioning of the labour market"(参照)をこの機に読み返すと、明確な単純な提言が盛り込まれていた。

Reducing employment protection for regular workers could reverse this trend by preventing the adjustment of the workforce from falling disproportionately on young people.

 OECDの報告書ではフリーターという言葉をいじるのではなく、"non-regular employment"(正社員ではない雇用)としているのだが、あえてフリーターという言葉で意訳すると、「若年層のフリーター増加という日本労働状況の不均衡・不公正を改善するには、手厚すぎる正社員の社会保障を低減すればよいだろう」となるだろう。
 なんだ、そういうことか、と思うのだが、日本の現状では、ある一定の社会的な層に組み込まれた人間だとそんなことはおくびにも出せない空気がある。

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2005.04.13

高度道路交通システム(ITS)の祭りは続くよどこまでも

 少し旧聞になるが今年の日本のエープリルフール大賞というのがあれば、自動料金収受システム(ETC: Electronic Toll Collection System)だろう。2日の時点で、開閉バーに車両が接触したトラブルは2300件を越えた。毎日新聞記事”ETC障害:接触トラブルは2300件に”(参照)はしらっと道路公団の言い分だけを垂れ流している。


 全国の高速道路の料金所でETC(自動料金収受システム)の開閉バーに車両が相次いで接触したトラブルは、2日午前0時現在で2300件に上ることが、日本道路公団のまとめで分かった。バーの損傷などの事故も3件になった。
 道路公団によると、3月末で廃止された「別納割引制度」の利用者が、制度廃止を知らないまま1日午前0時以降も別納用のETCカードで料金所を通過しようとしたため、接触が多発した。

 道路公団にしてみると今回のトラブルで悪いのは制度廃止を熟知しなかった利用者ということだが、既存ジャーナリズムっていうのかプロのジャーナリズムっていうのか知らないがそれ以上のツッコミはないように見える。ぇえぇえ?公団側の準備不足でしょとかの話もなしなし。そして済んだことだし、その後は大きなトラブルはない。めでたしめでたし。ということで、このトラブルについては過ぎてしまえば些事となった。ブログでざっとこのトラブルを見回したが、ちょっとしたエントリのネタにはなるが、なるほど大きなトラブルはないようだ。
 ついでに、ETCはどう受け止められているのだろうかというと、ある程度予想どおりなのだが、割引きになっていいじゃん、というのと、引き落としだからいちいちその場の支払い気にしなくていいじゃん、という感じか。
 割引き制度についてはカードよりも装置価格とのバランスが気になったのだが、ブログ「清史郎&清兎の部屋」”馬運車にETC車載機取りつけ・・・”(参照)が示唆的だった。

少し前まではETC車載機は贅沢品で結構高額でした。でも最近はどんどん安くなって、パナソニックなどの一流品のセパレート型でも25,000円以下で取りつけ可能です。
ダッシュボードの上に取り付ける一体型なら、カー用品店で10,000円以下で売っており、取りつけ料・セットUP料を含めても15,000円以下になりました。

ETCを取り付けたら、料金割引が魅力です。
まずは基礎割引とでも言うのでしょうか、50,000円前払いだと58,000円分使用できます。これで約86%に割引。


 というわけで、高速を使う人には装置が普及する印象はある。
 カードの引き落としという点では、ブログ「たゆたふままに」”ETCって便利なの?”(参照)が面白かった。

ETという映画はなかなか感動ものでした。では、ETCはどうなんでしょう。夫はこれを登載したくてしょうがなかったのです~。そんなに高速を使うわけでもないのになぜなのでしょう???それは知らぬ間に家計費の口座から高速代が落ちていくからなんですね~^^;)

 というわけで、こうした点で見るとETCにはメリットがあるよね、ということなのだが、ところで、ETCってなんのために存在してたんだっけ?という本筋の話はなんとなく、それは、ま、いちいち声高に言うのもなんだし…というごにょごにょになりつつある。でも、本当は高速道路の混雑解消だった。「たゆたふままに」では混雑のエピソードがある。

ところが、お財布を出さなくてらくちんだわ~もしかするとETCも感動ものかも?と思ったのは行きだけでした。。。。帰りは料金所で大渋滞!!!ETCだろうとなんだろうと一緒なのですよ~。びゅ~んと通り過ぎる前に、まずETC専用の車線に入るのに渋滞です。そして、ようやく出たかと思ったら、はて~???ん?十車線以上あった道路が、料金所を過ぎたとたんに二車線に???はー???これじゃぁ~だめじゃんー(>_<)

 まだETCカード普及の初期段階なので、これで混雑解消はだめじゃーんとも言い切れない面もあるのだが、それでも、この本筋はワッチしていく必要はあるだろう。古い話になるが、「サイゾー」1月(2001年12月18日発売)”ETC(自動料金収受システム)導入で、高速道路はますます渋滞する”(参照)ではETCがこの本筋で役立たないかもと指摘されていた。
 サイゾーの同記事では、ETCよりもITS(Intelligent Transport Systems)「高度道路交通システム」の問題が重視されていた。今では停滞日本では忘れかけているが、90年代後半の日本は国を挙げての「マルチメディアだわっしょい」というばか騒ぎをやっていた。正体は単純に言うけど道路利権の延長の情報利権だった。

建設省にとっては安全性の確保よりも、交通網におけるIT利権(=予算)を獲得した建設省族議員の政府、そして世界に対してのメンツのほうが大切だったのだ。

 この他、立ち消えになったかのような運輸省「スマートプレート」も今読み返すと面白い。
 いずれにせよ、本来なら、高速道路なんて資金回収したら無料にするか低価格にするかのはずのものを、永遠に料金取りまっせとするための公団の収受システムだったのが、その上にどかーんと国策レベルの省庁権益からみでITが乗っかってITSができた。現在ITSは9つの開発分野にまで膨れて(参照)、がんがんITコストを必要としている。
 需要があっていいじゃんというのは道路行政的な発想だが、現実的にはどこでコストを回収すんの(償却費年間400億円らしい)、というか、経営面で見ると、結局ETCのメリットは割引きということで、どっかの国の大手自動車メーカーみたいなことを日本国レベルでやっているわけだ。
 大丈夫?
 詳細がよくわからないので、アバウトな話になるのだが、普天間基地移設問題と同じで、最初からヤメトケ問題が、今となってはこれも引き返せないということのだろうか。
 余談だが、ブログ、情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)の” ETC機器関連で、財団と大手2社の癒着疑惑”(参照)に微笑ましい話があった。ETCと限定されず、このあたりのIT受注の関係が気になるが、「ITS白書〈1998‐1999〉高度道路交通システムの行方と関連400社の戦略」とかも高額だし、このシステム受注で恩恵を受けている層もぶぶぶぶ厚いのだろうなと思うので、弱小ブログはこのあたりで沈黙する。

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2005.04.12

ニートについて

 ニートについてなんだか、どうも踊りたくなるほどスカな話になりそうな感じもするのだが、もやっとしたあたりをもやっと書いてみたい。
 語義は、NEET: Not in Employment, Education or Training から。直訳すると「就職してないし、学校に行ってないし、職業訓練も受けてない」ということ。洒落元は、neat。米語と英語で語感が違うが、「こざっぱり」「身ぎれいに」ということで、無職でだらしなくしてんじゃないよ、という皮肉でもある。英国で使われてきた概念らしく、英国政府系 info4local"Young People not in Education, Employment or Training: Evidence from the Education Maintenance Allowance Pilots databas"(参照)にもこの概念を使った調査がある。ざっと見た印象だと就労より教育に主眼が置かれているようでもある。

cover
小杉礼子著
フリーター
という生き方
 なんで英国かというと、長く「揺り籠から墓場まで」とされた英国の福祉政策が、1970年代後半から鉄の女サッチャー政権下の経済改革政策により若年層の失業率が急増し崩壊。その対応策の研究が進んで就労研究が進み、「ニート」という概念も出来たものらしい。サッチャー改革は現状の日本にも似ているので似た状況はあるのかもしれない。が、違う面も多かろうとも思う。
 日本では労働政策研究・研修機構の小杉礼子副統括研究員あたりが言い出したらしい(参照)。なんかこの言葉は突然世間に躍り出たという感じでもある。
 定義は…というのがよくわからない。内閣府青少年育成ホームページに”「青少年の就労に関する研究調査(中間報告)」<就業構造基本調査特別集計>”(参照・PDF)というのがあるのだが、そこにはこう書いてある。

いわゆる「ニート(通学も仕事もしておらず職業訓練も受けていない人々)」とは、非求職型及び非希望型の無業者として、日本では通常理解されていると思われる。

 ヲイ、「思われる」ってどうよ、とツッコミたくなるのだが、ようするに内閣府的にはニートという言葉はなさげ。
 いったいどこでわれわれはニートを実体的にあるように思いこんでいるのかよくわからない。生活実感としては、学校を出ても就職しねー若者を「あれがニートだべ、んだ」ということなのだろうとは思うのだが、報道でもかなり実体的である。例えば、先月二三日の産経新聞”「ニート」再集計したら85万人”(参照)はこんな感じ。

 内閣府は二十二日、十五歳から三十四歳のうち、就職の意思がない人と意思があっても求職活動をしていない人を合わせた「ニート」と呼ばれる若者が約八十五万人に上るとの調査結果を発表した。

 ニートに括弧がついているのは実は定義なんかないんだよ照れるなオレ的な表現なんだろうと思うが、この括弧付けが実際には括弧が付かないと恰好付かないほどでもないというのが現状だろう。
 この報道では、総務省が平成十四年に実施した就業構造基本調査のデータを再集計して言い出したとある。オリジナルはこれでしょ、”平成14年就業構造基本調査について”(参照)。これには用語集(参照)がついているのだが、「ニート」なんていう用語はない。古いデータをマーケティング的に新しく見直してみました的な発表なんだろうが、ようするに新しい事実が出てきたわけではない。
 奇怪な印象も受けるのは、ニートが話題になったときは、厚労省周りからだった。

厚生労働省が昨年九月に発表した労働経済白書は十五年のニートを約五十二万人と試算したが、家事手伝いを含んでいない。内閣府は家事手伝いに相当数の若年無業者が含まれるとみて、今回の調査では加えた。

 保育園と幼稚園で厚労省と文化省が対立しているの同じように、省庁間のゲームなのだろうか。いずれにせよ、内閣府は、通称カジテツ、家事手伝いをニートにしちゃったわけだ。さっさと嫁に行け、という意図か、など書くと陰謀論だとか批判されちゃう?
 カジテツをニートにするのはどうかなと思うが、先の「青少年の就労に関する研究調査(中間報告)」に戻ると、ここに「表1 無業者とその類型についての定義」というのがあって、ニートに相当は非求職型及び非希望型の無業者の解説がある。

非求職型無業者
 無業者(通学、有配偶者を除く)のうち、就業希望を表明しながら、求職活動はしていない個人
非希望型無業者
 無業者(通学、有配偶者を除く)のうち、就業希望を表明していない個人

 そして、無業者の定義はこう。

無業者(通学、有配偶者を除く)
 高校や大学などに通学しておらず、独身であり、ふだん収入になる仕事をしていない、15歳以上35歳未満の個人(予備校や専門学校などに通学している場合も除く)

 あらためて定義を見ると、ツッコミたくはなる。
 ポイントは「独身」かぁと思う。ニートやめたきゃ、職探しより、所帯を持て、と。所帯をもてば、貧乏人なら親がかりってわけにはいかねーぞ、と。ちなみに金持ちの子供は昔からニートです。
 もう一つポイントは、ここに三五歳って年齢制限があるわけだね。つまり、三二歳くらいの通称ニートはあと三年で目出度くニートじゃなくなると。で、どうするってツッコミはここではしない。
 通称ニートはわれわれの日常生活で目にするので、あ、あれ、ということだが統計上の実態はどうかと…とブログを見てたらブログ「そーろんの憂鬱 f(^^;」”フリーター、ニートの実際値を求めよう(^O^)”(参照)が絵文字とともに示唆深かった。っていうか、パクラしてもらいます。

学生を除いた就業者の状況を知りたいので、学生を除いた総人口は、26,417,800人
男性:13,205,900人
女性:13,211,900人

これで就業率を計算して見ると、79.69%
男性:90.62%
女性:68.78%

あら……やっぱり、だいたい国が発表している数字って正しいのかなぁ…
(発表している失業率よりかはかなり多いけどね(--;)
これから見るとこの年代の男性の失業者って、10.32%なんだねぇ。

 この先にも考察があって、これが結論でもないのだが、いわゆるニートは男性で見ると、10%弱くらいなんじゃないかと思う。
 これが全然違うということもあるかもだが、仮にニート率10%とすると、豊かな社会ってそんなものじゃないかと思う。インドネシアで闘鶏に興じてるオッサンとか見ても、無業者はそのくらいいても不思議ではない。
 あと、日本には自衛隊はあるけど、国軍といったものでもないし、州兵・予備兵といったものもない。そういうものがあれば、10%くらいの無業者はすっと吸収されるんじゃないかという気もするが、別に軍政になれっていう意味じゃないですので、変な思い込みの批判はご免。

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2005.04.11

C is for cookie, that's good enough for me ♪~

 "C is for cookie, that's good enough for me"♪~、歌ってしまいそうだ(試聴7を参照)。そして、行進してしまいそうだ。Cのつくものといったらクッキーさ、オイラはこれさえあれば大満足。

cover
Sesame Street Platinum:
All-Time Favorites
 そ、セサミストリートのクッキーモンスター(参照参照)の歌。すでに一部で話題のとおり。この歌が子供の健康のために廃止となった、というか、歌詞が変わる。本歌はこれ(参照)。

Now what starts with the letter C?
Cookie starts with C
Let's think of other things
That starts with C
Oh, who cares about the other things?

C is for cookie, that's good enough for me
C is for cookie, that's good enough for me
 :


 新しい歌詞はよくわからないが、歌のタイトルは"A Cookie Is a Sometimes Food"らしい。「クッキーはときどき食べるもんだよ」……
 ああああ! そんなことがあっていいのかぁ!
 APニュース"Cookie Monster Eating Less Cookies"(参照)の記者も悲鳴を上げている。

"Sacrilege!" I cried. "That's akin to Oscar the Grouch being nice and clean." (Co-workers gave me strange looks. But I didn't care.)

 "Sacrilege!"はなんと訳そうか。中野好夫なら「なんて罰当たり」だろうか。まったく、そんなことがあっていいのか。クッキーモンスターからクッキーを取り上げるなんて。と、余談だが、Oscar the Grouchのほうは私がずっとMacintoshで使っていた必須アイテムだった(使っちゃだめだってさ)。
 APの記事では、この問題を"But what about their position on Cookiegate? "と追及していく。なかなかのお話。
 この大事件の余波も大きい。Seattlepi.com"Cookie Monster caves"(参照)ではいくつか関連報道をまとめているのだが、出だしがふるっている。

OK, it's not exactly the most important story of the week but people sure have strong opinions about the news that Cookie Monster's will cut back on his namesake treats.

Even the most vocal critics seem to agree that skyrocketing childhood obesity is a major problem -- they just don't think that changing a ravenous muppet's eating habits is part of the solution.


cookie_monster 健康志向よりも大切なものがあるような気もするのだが、という気持ちは米人・加人も同じ。
 この大事件、日本国内のブログでは、と、なんだかブログ時評みたいだが、ブログ「丸い卵も切りよで四角」”クッキーモンスター、クッキーの量を減らす。”が、わろた。

小池さんがラーメンを、ドラえもんがドラ焼きを減らすのとは、
訳が違う。
クッキーを食べるのが、クッキーモンスターの
存在する理由みたいなものだろうに。

 まったくね。
 しかし、時代がものすごく健康志向ということなのだ。したがないのだろう。
 ちょっと前のワシントンポストだったが、クラフトがスナックの広告を取りやめしたという記事"Kraft to Curb Snack-Food Advertising"(参照)があった。

Moving to address growing concerns about childhood obesity and unhealthful eating habits, Kraft Foods Inc. will announce today that it is going to curb its advertising of many popular snack food items to children under 12.

 米国では子供の肥満が深刻な社会問題というのだが、それとこれとは関係ないような気もする。が、時代というのはある方向に進んだらしばらくは元には戻らない。というか、二度と戻らないことも多い。
cover
熊を放つ
 ジョン・アーヴィングの「熊を放つ」じゃないけど、袋一杯チップス・アホイをもって、クッキー・モンスターに、お前、これ忘れたんかい、と差し入れしたい。あれだ、チップス・アホイだ。日本で売っている、あのちっこいんじゃなくて、米国のあの、でかいやつだ。アホイ(Ahoy)!

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2005.04.10

日本の東アジア外交は米中間定期高官協議に従属するだろう

 米中間で定期高官協議が開催されることになった。日本政府としては藁をも掴むといった感じなのかもしれない。というのも、中国での反日暴動が報道されているが、日本人としては懸念を抱くといった程度で、実際的な意味で外交的な手段がとれないからだ。
 今回の暴動については中国当局側も困惑しているだろうと言えないこともないが、今朝の日本経済新聞社説”中国の反日行動に自制を求める”(参照)でも指摘しているが、結果的に見れば中国政府の関与はある。


 デモの主催者は「中国民間保釣連合会」などの愛国(反日)団体で、数日前からインターネットの掲示板などを通じ参加を呼びかけていた。中国当局は昨年夏には反日団体のウェブサイトを閉鎖するなど、この半年余り若者を中心とした反日活動を厳しく規制していた。
 ところが、先月後半にアナン国連事務総長が日本を国連安保理の新常任理事国の有力候補とみなす発言をしたあたりから、ネットの激しい反日言論が再び急増し始めた。当局が規制を緩めた形跡がある。

 こうした中国当局のやり口は許文龍の声明(参照)も連想させて実に不愉快な印象を受ける。
 中国当局としては、日本が国連に重要な位置を占めるようになっては困るという思惑が強いのだろうが、日本がこの60年間に積み上げてきた善意の歴史自体は否定できないとなれば、すでに歴史の証言者すらも少なくなった以前の歴史を蒸し返してみせるくらいなのだろう。
 新しく設置される米中間の定期高官協議だが、毎日新聞”米中関係:高官協議の定期開催で合意 「対日」に影響も”(参照)が手短にまとめている。

米国務省のバウチャー報道官は8日、米国と中国が両国関係のほか国際問題を協議する高官協議の定期開催で合意したと発表した。開催時期など詳細は決まっていないが、米側はゼーリック国務副長官が代表を務める予定で、次官級の定期協議になる見通し。政治、経済分野を網羅する米中間では最も高いレベルの対話のパイプが構築されることになり、将来的に東アジアにおける日米中の関係に微妙な影響を及ぼす可能性もある。

 同記事には発表関連の背景ネタがワシントンポストであることを伝えている。類似の記事は朝日新聞”米中が定期高官協議の創設合意 政治・経済の懸案に対応”(参照)にもある。毎日、朝日の記事については現段階ではしかたないのかもしれないが、食い込み足りないきらいはある。余談めくが日本版CNN”国務省が開設を確認、米中間で初の高官レベル定期協議”(参照)とそれに対応するわけでもないが、CNN Money"U.S. opens regular talks with China"(参照)での報道の違いから見ても日本国内でのこの情報の流通の仕方が多少気になる。
 ワシントンポスト”U.S., China Agree To Regular Talks”(参照)は当然だが国内報道よりは詳しい。日本関連では次の言及がある。

Experts say that with the United States distracted in Iraq, China has filled a vacuum in Asian leadership. "China has moved in and assumed a dramatic regional role," said Kenneth G. Lieberthal, a Clinton administration official now at the University of Michigan. "Everyone in the region believes the movement has shifted toward China in a way no one anticipated 3 1/2 years ago."

Reflecting the administration's concern, Rice initiated an effort during her trip to Asia to make India into a major world power and elevate Japan as a key ally on a range of international issues.


 前回のライス訪中との流れにあり、また、東アジアの力の均衡として日本を持ち上げている。このあたりの読みはごく常識的なものだが、これに日本国内では牛肉問題なので内政的に足をひっぱり続けている。陰謀論的な言い方になるが、日本の米国牛肉輸入問題は中国当局にとって都合のいい騒ぎでもあるのだろう。なお、台湾は米国からの牛肉輸入を再開した。
 米中間定期高官協議の展開がどのようになるのかわからないが、日本の外交・軍事の行方はこれに従属する形にはなるのだろう。なので、ワッチしていく必要はある。当然ながら北朝鮮問題もこの流れになる。
 余談だが、先のワシントンポスト記事には北京でDVDが1ドルで売られているとの苦情がある。

China's inability or unwillingness to rein in intellectual-property theft has been a source of frustration for U.S. officials. DVDs of recent Hollywood movies, for instance, are sold openly for less than $1 just blocks from the U.S. Embassy in Beijing.

 中国で販売されているDVDが1ドルっていうと、ちょっと思い出すこともあったのだが(参照)、ま、それはほんとに余談。

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2005.04.09

米州開発銀行(IDB)総会はよくわからないのだが海外送金の実態は少しわかった

 米州開発銀行(IDB:The Inter American Development Bank)の年次総会がこの六日から沖縄県宜野湾市で開催されている(一二日まで)。IDBは南米諸国の経済支援を目的とした国際開発金融機関で、規模で見ると昨日のエントリで触れた世界銀行に次ぐ。なのでということもあってか皇太子もご臨席される。ま、そういうことだ。
 日本での総会開催は1991年の名古屋市以来一四年ぶり。でもなぜ沖縄で? 六日の朝日新聞記事”米州開発銀行年次総会、6日に沖縄で開幕”(参照)はこう説明している。


 IDBは、中南米諸国向けの融資や技術協力をする国際機関として59年に設立。日本は76年に加盟し、域外国ではトップの5%を出資する。中南米には沖縄からの移民や子孫が20万人を超える縁で、開催が決まった。

 とってつけたような理屈にも聞こえるが、私も沖縄で八年暮らしてそのつながりの深さはいろいろ実感することがあった。ペルーから来た、見るからにうちなーんちゅといった三世の女の子がたどたどしく沖縄アクセントの日本語を学んでいたを思い出す。ディアマンテスのアルベルト城間(参照)のバイト時代の話なども酒の席でよく聞いた。そうした経験はうまくまだ整理できない。
 なにかと「県では」と沖縄県の人は言うが、他の県でもそう言うのだろうか、よくわからないが、県では、今回の総会をサミット以来のお祭りに盛り上げたいのだろう。新報(琉球新報)の記事”IDB総裁が来県 きょうから公式セミナー 10日総会開幕”(参照)からもそんな感じが伝わる。が、県主催の金融特区セミナーは盛り下がっているようでもある。沖縄タイムス”IDB海外参加者 県想定下回る”(参照)のこの記事のトーンがとても懐かしい。

 県関係者は「もっと来ると期待していたが…。(特区セミナーの告知が)IDB側のホームページで遅れるなど、広報も十分ではなかった」と困惑。県幹部はセミナーで使ったレジュメを総会期間中、配布することも検討する。
 金融特区の活性化策を検討する沖縄金融専門家会議の関係者は、海外参加者が少ない要因について(1)海外の経済ジャーナリストの参加が少ない(2)主議題とする中南米の地域開発とセミナーのテーマが合わない―などの背景を指摘。「今後は証券化構想やプライベートバンキングに関心の高い欧米人をピンポイントで狙い、紹介する方法。今回のセミナーを第一歩に次にどうつなげるかが重要」と指摘している。

 非難ではないが、沖縄県ってまいどこんな感じでなんくるないさなか。いずれにせよ、今回のIDB総会の意義が私にはよくわからない。報道も十分に伝えてないようにも思える。
 私にわかったことは一つある。IDBと直接関係ないかもしれないが、この機に発表された中南米向け個人送金の実態だ。これまで明確にはわかっていなかった。共同”出稼ぎ送金、2900億円 対中南米、日本2位に”(参照)から引用する。

日本に暮らす中南米の出稼ぎ移民が昨年、本国の親族らに総額26億6500万ドル(約2900億円)を送金したと推計され、米国に次ぐ第2位の中南米向け個人送金大国になった。


2003年の日本の中南米に対する政府開発援助(ODA)総額約4億6390万ドルの約5・7倍に当たる巨大な額。米国でも中南米への送金額は320億ドルとODAを上回っており、身内の送金が本国の経済を支える実態がより鮮明になった。

 なんなんだろそれ、という感じがする。
 このあたりの話をもっとディープに知りたいなと思うが、よくわからない。
 それでもNHKで聞いた関連の話も面白かった。面白かったというのと違うかもしれないが、備忘のメモをしておく。
 まず、中南米から世界に出ている労働者の総数二千五百万人。その送金総額は五兆円。ほんとかというくらいでかい。うち、日本へは三十万人。大半は当然日系人。送金内訳は、ブラジルが二千四百億円、ペルーが四百億円。足してみるとわかるが、つまり、日本ではこの二国に絞られている。これを、約三千億円として見て、そして送金手数料が三パーセントとすると、その手数料業務だけで九十億円の市場。ま、そういう話。
 メモしてみて思うのだが、すでに都市銀とかはそういう実態を知っているわけだな。そして、ブラジルとペルーの国家にしてもここから外貨をもっと吸い上げたいのでいろいろ工夫もするだろう。というか、その工夫っていうか、規制を含めて、そのあたりが、IDBのメインの話し合いなのではないか。報道からはよく見えないのだが。
 ついでに、他の国から日本への出稼ぎの実態はどうなっているのだろうとも気になる。その送金の業務はどうなっているのだろうかとも。カネの流れているところになにかと社会の真実というもがあるが、でも、その情報というのはダークというかミスティというかそんな感じなのだろう。首を突っ込むと危険だろうなという印象はある。

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2005.04.08

世界銀行、世界開発金融2005、雑感

 世界銀行(世銀)の年刊報告書「世界開発金融2005(GDF:Global Development Finance)」が6日付けで発表された(参照)。といっても私は原文にざっと目を通しただけで、話の筋は別途”Developing Country Growth Is Fastest In Three Decades, But Global Imbalances Pose Risks”(参照)で理解した。これは日本語でも読むことができる(参照・PDF)。


ワシントン、2005 年4 月6 日 2004 年、世界経済は3.8%と、4 年ぶりの高い成長率を記録した。途上国の成長が高所得国をしのいだ上、一部の地域に偏ることなく、途上国地域すべてが過去10 年の平均を上回る成長率を達成した。しかし、こうした世界的な成長の勢いもすでにピークに達し、途上国の成長は、拡大する世界的不均衡(特に米国の経常赤字6660 億ドル)の調整に伴うリスクにさらされている、と世銀の年刊報告書「世界開発金融2005(Global Development Finance: GDF)」は指摘している。

 簡素にまとなっていてわかりやすい。今回の報告書の視点からは余談になるのだろうが、日本の今年度の経済成長率の予測は0.8%。前年の2.6%に比べるとがくんと落ちるので、せっかくの花見シーズンであるが、今年の日本経済はどよーんと暗いだろう。しかも、2006年度も1.9%とのことなので、短期的に見れば、現在のよどんだ世相がまだまだ続くかなという印象もある。ただ投機的なカネ余りはあるのでホリエモン騒動みたいな祭はあるかもしれない。
 今回の報告書で重要なのは次の点だろう。米国赤字が原因となるドル急落とそれに連動する世界的な金融危機だ。

「資金動員と脆弱性への対応」と題された同報告書は、米国の金融引き締めと金利引き上げが、途上国の力強い経済成長と共に、世界的不均衡を是正し、米国の経常赤字を削減し始めるという可能性を指摘している。ただし、このシナリオにはリスクが伴うとし、途上国に対しては、予想以上の利上げや予想を上回るドル安により市場心理が変化するのに備え脆弱性を軽減する必要があると提言している。


「金融危機が市場や政策担当者の意表を突く形で発生することは、過去の例が繰り返して示しているとおりだ」と、同報告書をまとめた世銀の開発予測グループの局長であるユリ・ダドゥーシュは述べた。「金融市場と政策担当者には、警告を見過ごしてつい行き過ぎる傾向があるため、実際に危機が発生した場合、より大規模な調整が必要となってしまう。途上国にとっては、過去2 年間に回復した資金フローを、世界的な状況がこれまでの明るさと安定性を欠いても、確保し続けられるかどうかが問題となる」

 この点については、同日のフィナンシャルタイムズ”World Bank warns on dollar 'risk' for poor ”(参照)がクリアに書いていた。

Developing countries that have amassed large US dollar reserves face a growing threat of big losses from a sudden decline in the dollar, the World Bank warned on Wednesday.

 ドルを貯め込んだ貧国は危ないよというわけだ。それはそうなんだろうが、気になるのはなんといっても中国のスタンスではある。が、世銀関連からはよく見えてこない。フィナンシャルタイムズも次のように言及するくらいだ。余談だが、FTではYUANじゃなくてrenminbiって言うのだね。

Asian countries are also reluctant to allow their currencies to appreciate against China's currency, which is pegged to the dollar. Many economists see a stronger renminbi as central to an adjustment in Asia towards more domestic-led growth and a reduction in global current imbalances. There are also concerns about rising protectionism, in the US, as a result of its record trade deficit.

 話はそのくらいだが、すわドル暴落かという話でもない。世銀としてもこれはただの報告であってなんらかの政治的な意図があるというものでもない。世銀総裁となるウォルフォウィッツと米国の緊密な関係はなんであれ必要とはいえるのだろう。
 アジア地域と世銀の関わりといえば、ラオスのダムやタイの政治動向とも関連する。これらは今年、ワッチしていく課題になるだろう。

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2005.04.07

三角合併恐怖は見当違いだったか

 三角合併と外資に関わること。まいど自分でわかってないことを書くなよでもあるのだが、それもブログってことかなと。
 三角合併について私が気になったのはホリエモン騒動の前からだ。その実施で日本はどうなるのだろうと案じていた。例えば、かつては事実上国家の一部に近かった日立なども外資に買収される可能性もあるのだろうとなんとなく思い、危機感のようなものを感じていた。ただ、なぜ危機感なのかというあたりにすっきりとしないひっかかりはあった。
 当ブログのホリエモン話の切り出しともなった「新年好! ホリエモン」(参照)のエントリで私はこう書いた。


TOBについては、現時点だと現金を動かせるやつが強い。が、来年になると通称三角合併(参照)、つまり外資による日本企業の乗っ取りが活性化する、というわけで、外資の課税とかなんかより大きな問題になるようにも思う…が、と、そのあたりはなんだかわくわくするようなマネーゲームか、クレヨンしんちゃんの「やればぁ」でもある。

 ふざけて書いたのは、単純な危機感ということでもないだろうなという思いもあったからだ。ここで参照としたのは読売新聞の「アット・マネー」”来年にも解禁 三角合併 ”だった。冒頭、こう説明している。


 外国企業が日本の子会社を通じて日本企業を買収する「三角合併」が2006年にも解禁される。株式時価総額の大きい欧米の有力企業が積極的に活用するケースなど、国境を越えたM&A(企業の合併・買収)の活発化が予想されるが、日本企業にとっては、敵対的買収からの防衛が重要な課題となりそうだ。

 これはそれほど外した説明でもないだろうし、普通にこうした解説を読めば、先に書いたような私の懸念のようなものにもつながるだろう。
 しかし、このホリエモン騒動のなかで、なーんか違うんでないか、という感じが強くなってきた。識者にしてみればなにを今更かもしれない。が、一つの大きなきっかけは、立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」(参照)だ。ふっきれない違和感の部分が誇張されているように見えた。特に”第五回 浮き彫りになったアメリカ金融資本“むしりとり”の構図”(参照)である。
 立花隆のこれ、なんなのだろう? 環境ホルモン騒ぎのときの立花隆を思えば、洒落だってばさ、で済むことかもしれないのだが、それでも、かなり変な感じがする。変というのは、なんというか、自分の愚かさを鏡で見ているようなこっ恥ずかしさでもあるのだが、きちんと反論なりができるわけでもない(無知だな私ということ)。
 昨晩このエントリを書き出した時点では、同サイトは”第7回 フジのお家騒動から浮かび上がる「因縁の構図」”までが掲載され、一旦は掲載された”第8回 フジを追われた鹿内家とSBI北尾CEOを結ぶ点と線”と”第9回 巨額の資金を動かしたライブドア堀江社長の「金脈と人脈」”という二回分が消えたままだった。私の操作ミスかと思ってGoogleデスクトップで調べたらキャッシュが並ぶので単純に非公開になったようだ。
 今朝見ると、この二回分は復活しており、さらに非公開についての弁明”連載第8回及び第9回の記事が再度公開になるまでの経緯について”(参照)が追加されていた。弁明は特にどってことはない。見方によってはブログと紙媒体の差の象徴的な出来事ともいえるかもしれない。なお、以前掲載されていた二回分については、よいことか悪いことか判断しかねるが、「ヒートの情報倉庫」”立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」1~9”(参照)で読むことができる。詳細の突き合わせはしていない。
 立花隆のこの連載で私が気になったのは、詳細の正否より、この外資の陰謀だみたいな展開や、ある種陰謀論的なところに出口を見いだそうとする思考のパターンのようなものだ。それは、とてもメカニカルな、陳腐なことなのかもしれない。私のブログなども、陰謀論と揶揄されることがある。そうならないように気を使っていてもうまくいかないのかもしれないし、そう見えるということもメタなメカニカルな枠組みがあるだけなのかもしれない。
 ひどく単純に言うなら、立花隆の、こうした外部からの陰謀論的な思考は、恐怖というもののリアクションへの違和感なのだろう。国家の外から恐い者がやってくる、みたいなパターンだ。黒船とも比喩される。そして、そこまで単純化するなら、さて、この件で、本当に日本に襲いかかるような恐怖というのはあるのだろうか?
 吉本隆明の「共同幻想論」がなぜか書架にないが、その他界論だったかで私が学んだことは(大ハズシかもしれないが)、この手の恐怖というのは共同体の内部に閉じさせようとする幻想の機能でもある。
 三角合併など外資の活動の実際はどうなるはずのものだったのだろうか。そうしたことをつらつら思っているおり、先週のニューズウィーク日本語版4・6に掲載されたスティーブン・ヴォーゲル、カリフォルニア大学バークレー校准教授のコラム「外資を困惑させるライブドア狂騒曲」が興味深かった。読みづらいコラムではあるが、会社の買収行為に過剰な防衛を張るのは間違いだとして、彼はこう続ける。

 そういう意味で、ライブドア騒動への自民党の反応は、企業買収という難題へのまちがった対処法の手本ともいえる。自民党は、外国企業が株式交換を用いて日本企業を買収する「三角合併」の解禁を一年遅らせることを了承したが。敵対的買収が激増するとの懸念から、企業に防衛策を整備する時間を与えた。
 この論理には、致命的な誤りがある。三角合併は敵対的買収ではなく、友好的な買収の手段だ。解禁延期は的はずれな措置としかいいようがない。

 類似の主張は同誌「ライブドア 和製黒船が挑む鎖国経済 ペリー来航以来、外圧でしか変われなかった日本に生まれた内なる圧力」にもある。ライブドアの件では、外資が日本の放送会社を買収することなどありえないことだとしてこう続ける。

 それでも自民党は、ライブドアの一件を口実に、商法改正に盛り込むはずだった株式交換方式による外資系企業の日本企業買収の解禁を延期した。皮肉なのは、株式交換の解禁は、敵対的買収とはまったく関係ないことだ。「法律を読めばわかる」と、日本でM&AのアドバイスをするJTPコープのニコラス・ベネシュ社長は言う。「株式交換のスキームは本質的に友好的なものだ」

 そういうものなのかと無知な私は考える。だが、そうであっても私の無知ばかりでもないかもしれない。こんな話もある。3日付の朝日新聞記事”「堀江社長への十分な抑止力」SBI北尾氏、本紙に語る”(参照)だ。SBIの北尾へのインタビュー記事である。

 また、国内における敵対的買収について「銀行が株を売り、安定株主がいない今の危機的な状況で、敵対的買収の防御に法制度がついていっていない」と指摘。「外資はどんどん動いていて、うちにもたくさん話が入ってくる。このままじゃ手遅れになる。政治家と行政の怠慢だ」と強調した。

 もちろん、このインタビューだけで北尾って何?と思うまでもないし、三角合併を直接指しているわけでもない。でも、これって、すごく違うんじゃないのか。
 さてと考える。こうした問題を素人はどうとらえたらいいのか。というか、素人/玄人と切り分けると逆に話は混乱するかもしれない。どこかに常識的な、簡素な基準がないだろうか。
 私の当面の結論は、会社と株主の関係が健全なら、外資がどうのという問題はありえない、というか、それは問題にすらならない、ということだ。とりあえず、そういう視点を基準にしておく。

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2005.04.06

衛星ラジオとiPodの未来

 衛星ラジオが熱い…というノリはこのブログ向きではない。私はラジオ・オタクに近いが業界のワッチャーでもない。でも昨日ニューヨーク・タイムズに"Satellite Radio Takes Off, Altering the Airwaves"(参照)の記事には少し驚いた。標題を試訳すると「衛星ラジオがブレイク、放送の世界を変える」だろうか。米国での衛星ラジオの普及がメディアの状況を変えつつある。


The announcement on Friday by XM Satellite Radio - the bigger of the two satellite radio companies - that it added more than 540,000 subscribers from January through March pushed the industry's customer total past five million after fewer than three and a half years of operation.

 この四半期だけで、二つの有料衛星ラジオに54万人が加入したというのだ。

Total subscribers at XM and its competitor, Sirius Satellite Radio, will probably surpass eight million by the end of year, making satellite radio one of the fastest-growing technologies ever - faster, for example, than cellphones.

 今年末には加入者が八百万人を越えるだろうと。その普及率は、携帯電話の比ではないと。
 衛星ラジオが普及している話は知っていたが、そこまですげーセクターになっているとは思っていなかった。さすがホリエモン先見の明がある…違う。彼は地上波を狙っているのだから、ラジオの作り手のノウハウという点以外は、話が違う、と。
 衛星ラジオについて、IT系の日本のニュースでもそれなりに話題になっているで、技術面は日本語の国内ニュースのほうが読みやすいだろう。現状、今回の(ようやくの)衛星ラジオのブレークにはガジェット(小型機器)も関連しているので、そのあたりを込みにした「小池良次の米国通信インサイド :ITビジネス&ニュース」の”第5回 モバイル・ファッションの波に乗る――米国の衛星ラジオ放送”(参照)がわかりやすい。

この会員急拡大の原動力は、iPodと同じ個人モバイル市場を狙って「端末の小型化・モバイル化」を行ったことだ。もちろん、両社とも赤字を続けているが、会員急拡大で、衛星ラジオ・サービスの将来に明るい展望が見えてきた。

 情報の流れという点でも興味深いのは、地域密着性だ。同記事でもその点を指摘している。

 地上波ラジオは、地域に密着したニュースや交通情報を売り物にしているため、衛星ラジオは当初、全米で同じ番組を聴けることをセールス・ポイントとしていた。しかし、ドライバーにとって、イベントや交通情報、天気、ニュースなどの地域情報は欠かせない。そこで地域情報を拡充する一方、遠い出先でも自分の応援しているスポーツ・チームの実況放送が聞けたり、株式情報をリアルタイムで表示すると言った多様化を進めていった。

 この点はニューヨーク・タイムズでも強調されている。

On Sunday, XM began offering every locally broadcast regular-season and playoff Major League Baseball game to a national audience, having acquired the rights in a deal that could be worth up to $650 million over 11 years.

 おそらく日本でも企画屋さんたちは地域球団とラジオとかぶちあげているのだろう。
 ラジオ・オタクの私としてみると、この地域密着性はラジオのよさである。FEN(AFN)米軍放送などを聞いていても地域コミュニティのイベントの話などがけっこうある。また、沖縄にいたころFMのタウンラジオ(コザとか糸満)に関心をもったが、面白いものだった。
 ラジオとITと言えば、もう一方で話題のiPod、つまりPodcasting(ポッドキャスティング)だが、そのあたりの関係が微妙だ。ニューヨーク・タイムズでもそのあたりは微妙に触れている。

Commercial radio, which also is combating the growth of digital music players like iPods, is making investments in technologies like Internet and digital radio as well as podcasts, audio programs that can be downloaded to computers or portable devices.

 Podcastingは日本ではまだまだの状態だが、意外にも米国ではすでにかなりの普及しているようだ。日本語で読める話としては、「ITmediaニュース」の”米国で勢いを増すPodCasting”(参照)が詳しい。

MP3フォーマットで収録された自家製ラジオ放送をiPodなどの携帯プレーヤーで聞くという「PodCasting」の体験者は米国のMP3プレーヤー所有者のほぼ3割に達する。米国のPew Internet & American Life Projectが、2月21日から1カ月間実施した調査結果を4月3日、発表した。

 数値でいうと、六百万人ということになる。日本は米国人口の半分だから同様の普及があれば三百万人ということなるが、いくらなんでもという感じはしないでもない。
 衛星ラジオとiPodの関連は、ニューヨーク・タイムズの先の引用箇所でもさらっと過ごしていたが、オモテの記事ではあまり触れにくいのだろうとも思うが、HDD(ハードディスク)録音の問題がある。衛星ラジオのガジェットには録音機能がある。現状これとiPodをどう結びつけるかという話はちょっとタブーかかっている。衛星ラジオのほうについても、まだ微妙だ。Wired日本版”衛星ラジオ放送のデジタル録音、RIAAは静観”(参照)が比較的詳しい。総じていえば、著作権問題は根っこと収益のシステムが押さえられればなんとかなるのだろう。日本は?ま、それを問うなって。
 とま、以上、ざらざらとラジオの動向というか可能性の話をメモったのだが、個人的には、ラジオ深夜便やその過去ライブラリーをエルダー世代?っていうか高齢者向けに提供するといいと思うのだが、二つのハードルでダメだろう。一つはNHKのリソースは子会社孫会社の利益になっているという醜悪な構造、もう一つは再生機のインタフェースがだめだめ。
 若い人にはどう普及するかなのだが、日本の場合、若い人たちはAV傾向なんでこれもどうなんだろうとは思う。
 Podcastingを含めて可能性があるとすれば、タレントのトークだろう。個人的にはマルタ人をおじいさんにもつという英玲奈さん(参照?迷惑かけんようにやめとく)のトークがあったら聞きたいよ(サンディ・アイさんもDJやって欲しい)。あとは、対談だろうな。宮台真司と神保哲生みたい講義調はごめんこうむりたいが。

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2005.04.05

ローマ法王雑感

 ローマ法王が亡くなった。突然の死ということもなかったので、驚きはない。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、シャイボさんのように命をつなぐことがあれば、世界に別の問題を投げかけたかもしれないとも思う。
 長い在位期間であったとも言われるが、私なども歳食ってきたせいか、先代のヨハネ・パウロ法王が、ある意味不自然な亡くなりかたをしたように思えたのも、そう遠い昔でもない。あの時、今度の法王はポーランド出身なのか、という少しの驚きがあり、それはその後の世界のなかで独自の意味を持ちつづけた。まるでなにか陰謀論でも読みたくなるようなほど。と、書いても苦笑されない程度のネタは多少あるようだ。
 どういうことのはずみかわからないのだが、長く「ホントかよ」とも思われていた旧ソ連KGB(カーゲーベー)による法王暗殺事件だが、本当だったらしい。4月一日を避けたのか二日の朝日新聞で”ローマ法王暗殺、KGBが計画?81年の事件で「証拠」”(参照)という記事が出た。


 81年に起きたローマ法王ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件について、旧ソ連の国家保安委員会(KGB)が旧東ドイツとブルガリアの秘密警察に対し、暗殺を指示した証拠となりうる書類が存在することがわかった。ブルガリアの元議会関係者が朝日新聞の取材に対して認めた。事件の捜査をしたイタリアが近く、ブルガリア政府に司法共助依頼を出す見通しだ。

 とりあえずすんなりと理解すると、KGBが脅威を感じるほどヨハネ・パウロ2世は仕事をされたということで、その点では、すでに世界史上での評価も、レーガンと同様かなり定まっているとは言えるのだろう。
 反面、法王死後数日が経ち、コンクラーベの、ある意味で政治闘争の時期に入ってきたせいか、批判も少し聞かれるようになった。たとえば、ロイター”「法王は矛盾だらけ」 改革派からは批判の声”(参照)ではこう伝えている。

改革派が問題視するのは、法王が人権尊重の姿勢を示す一方で、既婚男性や女性の司祭、避妊、中絶には反対の態度を取り続けていた点だ。

カトリック教会の改革を目指す国際組織「ウィー・アー・チャーチ」は「ヨハネ・パウロ2世による法王は矛盾に満ちたものだった」「世俗界に示した人権推進の意識は教会には適用されなかった」との声明を発表した。

政治と宗教の関係をめぐって法王庁と衝突し、聖職者の地位を追われたブラジル人神学者のレオナルド・ボフ氏も、法王の考えは一貫性がなかったと話す。


 批判と言ってもどうということでもない。実際のところヨハネ・パウロ2世がこうした問題にどう立ち回れたものか、私などには想像も付かない。日本ではあまり報道されていないようだが、もともとキリスト教の総人口が国民の1%というアジアでは「ありえねー」国である日本だからということもあるが、欧州におけるカトリックはこの間、ジリ貧に衰退してきた。フランスなどではカトリックの伝統が維持できるかという瀬戸際だ。余談だが一昨年フランスは猛暑に襲われ死者まで出たが、身元がわかっていても引き取り手のない死者も多く、結局国家が無縁仏風に埋葬することになった。フランス人の人情がなくなりつつあるとも聞く。
 引用をちと長めにしたのは、この間、私などから見ると、カトリックが息を吹き返しているのは、ブラジルなど南米の国のようにも思えるからだ。次期法王も南米から出るのではないかとも少し思う。予想っていうほどでもないけど。
 話にまとまりがないが、このエントリでも「法王」としているが、日本のカトリックとしては「教皇」としてくれと以前から声明を出しているが、NHKを含めて聞く耳持たぬ状況であるのはなぜなのだろう。後鳥羽院への配慮とも思えないが、韓国・北朝鮮などとくらべて配慮しなくても大丈夫だからなのだろう。ちなみに、受験の世界史関係は随分前から「教皇」で統一されているので、若い世代は、昨今の報道に変な印象を持っているのではないか。
 とはいえ、「教皇」という呼称もなんだかなという感じはする。日本語で考えると、「教えのスメロギ」ってか? もともとローマ「皇帝」とか訳してしまった日本語も奇妙なもので、中華世界の皇帝とローマのそれとは違う。違ってもトップだからいいじゃんかもしれないし、それ言うならローマ「帝国」も誤訳ではある。日本の「天皇」も日本の王様なのだから日王でもいいじゃん、ってなノリである。なんだかなである。
 在位期間関係の報道では、使徒ペテロについで…みたいな表現も多かった。日本語版CNN”ローマ法王、葬儀は8日 埋葬地は大聖堂の墓所”(参照)にはこんな表現もある。

ソダーノ枢機卿は「復活なされたキリスト、生命と歴史の主を信じ、ペテロの後継者として27年にわたり普遍的教会を導いた、愛するヨハネ・パウロ2世を託します」と祈りを捧げた。亡くなる法王の枕元にいた枢機卿は、法王の死は安らかだったと語り、「平安は信仰の賜物だ」と述べた。

 カトリックはなにかとペテロの伝統みたいなものを持ち出すのだが、それはたまたまローマの地の司教区が現在のバチカンと地理的に近いだけであって、キリスト教の権威の伝統、つまり正統という点では、私などはいかがなものかと長いこと思っていた。素直に言うと、私も若いころ、本当のキリスト教ってなんだろと自分なりに歴史を学んだ。結論はすげー虚しかった。どの宗教でも国家神話でもそうだが、起源になにか真実があるかと思わせるようにしているが、どの歴史も子細に見ていくとそんなものなんかないのだ。仏教だって仏陀が実在したかもわからないし、教義だって起源となるものがあるのかすらよくわからない。仏教の原始教団というのも現代仏教学の学としての仮説であって、そうした信仰が現代に伝わっているわけでもない。むしろ現代に伝わっている観音信仰など、これって仏教なのかぁ?とも思える。定説ではないのだが、いわゆる日本の大乗仏教というのはアレクサンドロス以降アフガンあたりで成立したヘレニズム宗教という点で、実はキリスト教と兄弟なんじゃないかとも私は思う。が、ま、そのあたりで、なんだかどうでもいいやという気分になるし、関心も薄れた。
 キリスト教会の東西分裂についても一時期関心をもったが、所詮自分には関係ないないやと思って、詳細を忘れてしまった。記憶をなんとなく辿る程度だ。それにしても、キモとしては、「ビザンチン帝国」って嘘だよな、とは思っている。ビザンチン帝国なんてものはない。三国志(通常有名なのは演義)で魏呉蜀とか言うけど蜀なんていう国はないのであって、あれは「漢」である。同じ理屈で言えば、ビザンチン帝国とか東ローマ帝国なんてものはなくて、あれがローマ帝国なのだ。このあたりの話はどうだろうとWikipediaを見たら、きちんと書いてあった。

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)は、ビザンティン帝国・ビザンツ帝国・中世ローマ帝国ともいい、395年に東西に分裂したローマ帝国の東方地域を継承し、1453年までの1000年以上に渡って存続した帝国。首都はコンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)。先に挙げた呼び方はすべて後世に付けられた通称であり、正式な国号はローマ帝国である。

 つまり、よくローマ帝国の崩壊とかいうけど、それは1453年にメフメト2世によって滅亡したときでないとおかしい。
 で、ローマ帝国というのは、ミラノ勅令(313)以降、キリスト教を国教としているのでその王は、っていうか、仮に通例どおり皇帝とすると、ローマ皇帝が地上の権限を握るわけで、こうした皇帝に対応する「教えの皇帝」みたいなものはない。そして、この関係は通称ビザンチン帝国(ローマ帝国)でも同じなので、いったいどこに「教皇」なんてものがありうるのか、歴史的に見ると、なんだかさっぱりわからない。ついでにいうと、今日正教として分離されているけど、歴史的に見れば、これのほうがキリスト教だろうとも思うが、もちろん、現在世界のキリスト教においてそれが正統だとか言うつもりは、さらさらない。竹島の所属について歴史で決着しようとする韓国政府みたいな倒錯に陥ってもしかたない。
 以上、カトリックを貶めるように聞こえるかもしれないし、そうした点で反論を受けるかもしれない。でも、長々書いたわりに、そうした問題、つまりローマ法王の正統性には私は関心なくなってしまった。
 ただ、こうした、ローマ法王?ふーん、という感じは、いわゆる正教徒の感覚でもあるだろう。ヨハネ・パウロ2世は生前、こうした一千年近い東西分裂の和解の推進に努力した。双方での破門みたいなことはたしかに緩和されたようでもある。それで良かったのか、私にはよくわからない。
 プロテスタントを含めてこうした世界にばらけたキリスト教をまとめようとする動きがある。エキュメニズムとかいうのだが、私は若い頃には、そこになにかの意味を感じていた。これも、その後、どうでもよくなった。エキュメニズムとかいっても、コプト教会とか別、とかいうことなんだろう。
 私はカイロを旅したおり、コプト教会に行ってみた。それはそれでそこにちゃんとあった。あるんだと思った。たぶん、バグダッドの東方教会もいろいろ迫害を受けてもそれはそれであるのだろう。
 うまく言えないがそういうものかと思った。古代の伝統を持つエチオピアのキリスト教のようすも知りたいと思ったが、依然果たせないでいる。メディアを通してだが、エチオピアの教会の聖歌を聴いたことがある。だみ声で、日本の東北民謡みたいな感じだった。感動した。

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2005.04.04

ブログとニュースの情報経路についてのケース・スタディ

 ブログ論的な話はあまり扱わないようにしたいと思うようになったのだが、今回は少しそれに関連するかと思う。話はある種、検証の過程でもあるので、多少読みづらいかもしれない。三例挙げてみる。最初におことわりしておくが非難・批判の意図はない。
 一例。昨日エキサイトの「ブログニュース」(参照)で見かけた「知識の泉 Haru's トリビア」という人気の高いブログの”コンピューターに頼り過ぎた教育で学力低下に!!( ̄□||| ”(参照)というエントリで気になることがあった。冒頭を二段落分引用する。



算術、読み書きにもマイナス
コンピューターに頼り過ぎた教育は学力低下を招く!
(yahoo news 3/21)

学校の授業でコンピューターを使う機会が多ければ多いほど、算数や読み書きといった基本的な学力が低下する傾向にあるという新たな調査結果が報告され、コンピューターが学力向上に有効という以前の調査報告とはまったく逆の形となったことが伝えられた。

5年前に行われた別の調査では、自宅にコンピューターがある生徒は、コンピューターを持たない生徒よりも学力面で1学年進んでいるとの結果が報告され、コンピューターが学力向上に有効である点が強調されていた。


 気になったのは内容についてではなく、どっかで読んだという感じだった。記憶を辿って調べた。これは先月20日ころ、ブログ「雅楽多blog」の”コンピューター教育は学力低下をまねく?”(参照)などでよくクリップされていた記事と同じだ。
 この時点で各種ブログなどでよくクリップされたのは、JAPAN JOURNALというサイトの”3/21 算術、読み書きにもマイナス――コンピューターに頼り過ぎた教育は学力低下を招く!”(参照)という記事である。こちらも冒頭を二段落分引用する。

3/21 算術、読み書きにもマイナス――コンピューターに頼り過ぎた教育は学力低下を招く!
学校の授業でコンピューターを使う機会が多ければ多いほど、算数や読み書きといった基本的な学力が低下する傾向にあるという新たな調査結果が報告され、コンピューターが学力向上に有効という以前の調査報告とはまったく逆の形となったことが伝えられた。
 
5年前に行われた別の調査では、自宅にコンピューターがある生徒は、コンピューターを持たない生徒よりも学力面で1学年進んでいるとの結果が報告され、コンピューターが学力向上に有効である点が強調されていた。

 ご覧のとおり、「知識の泉 Haru's トリビア」とまったく同じである。時間的な経緯で考えると、JAPAN JOURNALから転載されたものかとも思うが、こちらのサイトには次の注意書きがある。

(C)1999- 2004 JAPAN JOURNALS LTD. All rights reserved
*本ホームページ中の記事を無断で複写複製(コピー、ペースト)することを厳禁します。

 無断で複写複製は厳禁されているので「知識の泉 Haru's トリビア」が無断でJAPAN JOURNALから転載したものではないのだろう。この2つのオリジナルとなるニュースの出所があり、そこから両者が許可を受けて掲載したのだろうか。「知識の泉 Haru's トリビア」の該当エントリを見ると、(yahoo news 3/21)とあるので、Yahoo!にオリジナルのニュースがあり、そこから両者が提供を受けたのかもしれない。Yahoo!を少し調べてみたが、その点はわからなかった。
 この2つの同一記事の内容について、情報の出所という点でわからないことがある。全文引用するわけにもいかないので、先の記事のはリンク先を読んでいただきたいのだが、記事の主眼は、学力調査であるのに、その調査を実施した主体についての情報が含まれていない点だ。誰がその調査をしたのかという話がない。
 情報ソースを明示しないニュース記事の信頼性は乏しい。当ブログでも先日、エープリルフールの余興で嘘記事を書いたが、嘘というのは情報の出所でバレるものだから、そこをぼかすのに工夫した。
 この記事には、英文なりのオリジナルがあるのではないかとも思ったが、英米圏のジャーナリズムにおいて、どこの調査機関か明示しない調査結果のニュース記事を書くとは考えにくい。JAPAN JOURNALのオリジナル記事だろうか。
 関連した疑問も浮かぶ。JAPAN JOURNALにはUK Todayともあるので英国のニュースのようにも見える点だ。次のように英国を示唆する話も含まれている。

この調査結果にもかかわらず、英国政府は学校の各教科でコンピューターを使用した授業実施を推進。先週発表された今年度の国家予算案でも、学校へのコンピューター設備導入費として、これまでの25億ポンド(約5,000億円)に加え、さらに15億ポンド(約3,000億円)を投入することが伝えられた。

 英国政府への批判記事のようにも読めるのだが、それを日本のJAPAN JOURNALがオリジナルで書いのだろうか。
 類似の記事を英文で探してみた。これはすぐに見つかる。ガーディアン"Pupils 'do worse with computers' "(参照)もその一つだ。

Academics will today argue that the growing use of computers in secondary school classrooms and for homework could be leading to worsening performance in literacy, science and maths.

An international study of about 100,000 15-year-olds in 32 different developed and developing countries suggests that the drive to equip an increasing number of schoolchildren in the UK with computers may be misplaced.

In a report to be given at the conference of the Royal Economic Society in Nottingham this week, Thomas Fuchs and Ludger Woessmann of Munich University say the research shows diminished performance in students with computers.


 ガーディアンの記事には調査主体とその調査の指導者名が明記されている。締めくくりも興味深い。

Last week the chancellor, Gordon Brown, announced an extra £50m for information technology in schools - including moves to let pupils take computers home on "low cost" leases.

 このガーディアンの記事では、Royal Economic Societyの調査をネタにしてゴードン・ブラウン財務相(参照)を皮肉ったものだ。この調査をもとに英国政府を批判しているとまでのトーンは感じられない。
 例を変える。
 ブログ界で注目のマトと言っていいだろうと思うが、ブログ「ブログ時評」の”BSEはメディアリテラシー力を問う [ブログ時評15] ”(参照)で、情報の経路という点で次の部分が気になった。

 安全を担保できるのは全頭検査ではなくて、危険部位除去の徹底なのだ。輸入再開へ向けて検査を緩和するのか、政府から諮問を受ける、注目の食品安全委員会。その下にあるプリオン専門調査会を昨年8月から傍聴しているという「BSE&食と感染症 つぶやきブログ」は諮問内容から肉骨粉の混入防止策などが除外され「危険部位が除去された(ことが前提の)肉の検証」になりそうとのニュースに、眉をひそめている。
 同ブログは、3月15日付「NYタイムズ紙が社説で『飼料管理、きっぱり改善すべき・必要なら全頭検査も』と主張」とのニュースも伝えている。社説の原文は台湾のサイトに転載された「The beef merry-go-round」で読める。ニューヨーク・タイムズまで全頭検査を言い出したのかと誤解しない方がよい。

 気になったのは後段の書き方だ。ちょっとわかりづらいかもしれないが、特に気になるのはここだ。

「NYタイムズ紙が社説で『飼料管理、きっぱり改善すべき・必要なら全頭検査も』と主張」とのニュース

 ここでニュースというのは、「全頭検査が必要とニューヨーク・タイムズが主張した」ということがニュースなのか、「ニューヨーク・タイムズの主張の要約が日本の新聞に掲載された」というニュースなのか。どちらなのだろうか。前者なら、ニューヨーク・タイムズのオリジナルの主張が対象となり、後者なら日本の新聞での要約が対象となる。つまり、オリジナルな記事が対象なのか、要約された二次的な記事が対象なのか。
 前者だろうか。というのも、ブログ時評ではニューヨーク・タイムズ社説の原文をリンクで参照させようとしているからだ。
 が、ここでさらに二つ疑問がある。
 一つは、ニューヨーク・タイムズのオリジナル記事が対象であれば、このリンクはなぜ台湾のサイトなのか。もう一つは、ブログ時評では「ニューヨーク・タイムズまで全頭検査を言い出したのかと誤解しない方がよい」とあるが、この示唆は誰にむけたものなのか。ニューヨーク・タイムズのオリジナル記事をそう誤解しないほうがいいと示唆しているのか。なお、私がオリジナルを読んだ印象ではそのような示唆の重要性は少ないと思った。
 ブログ時評で扱っている対象は、ニューヨーク・タイムズのオリジナルの社説なのか、あるいは日本の新聞に掲載された要約記事についての判断なのかが、この文章からはわからない。前者は一次ソースだが、後者は二次ソースなのでその区別は重要だろう。
 ニューヨーク・タイムズ社説のオリジナルへのリンクがない点については、記者の団藤氏はコメント欄でこう補足している。

 ニューヨーク・タイムズは登録しないと読めないことは多くの方が知っていることです。台湾サイトの転載自体は誉められたことではありませんが、読者がクリックすれば読めるサイトがあるのならと紹介したまでで、迷惑とか言う問題ではありませんよ。

 これは日本のジャーナリズムの慣例なのかもしれない。だが、私には、情報の確実性という点で、台湾サイトに転載された文章が、ニューヨーク・タイムズ社説のオリジナルと同一であるとの保証はどこでなされていたのかが気になる。
 最後の例題。これでこのエントリは終わりにしたい。
 対象はブログではない。昨日の産経新聞記事”「反日」中国に不利益 米紙、社説で警鐘 要因は教育、経済関係損なう”(参照)だ。冒頭段落だけ引用する。

 日本が国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指していることをめぐり、中国の複数のインターネットサイトが反対の署名活動や日本製品の不買運動を呼びかけているが、米紙ウォールストリート・ジャーナルは「魔人ジニーが中国のつぼから飛び出した」と題する先月三十一日付社説で、中国共産党の反日教育に要因があると指摘し、繰り返される不毛な対日批判は「中国自身の利益にもならない」と警鐘を鳴らした。主な内容は次の通り。(杉浦美香)

 ここで「次の通り」と書かれているのだが、この「次」というのは、どこまでが「次」なのだろうかが、気になった。この新聞記事の終わりまでを指しているのだろうか。そう読めるようにも思う。
 この記事の大半がウォールストリート・ジャーナル社説の要約だというのなら、これはウォールストリート・ジャーナルの意見を不確実に転載しただけに見える。
 先のニューヨーク・タイムズ社説の扱いと同様に、これらを扱う日本の新聞の記事は二次的なソースにしかならないので、これらをさらにブログなどで扱う場合はオリジナルを意識するという注意が必要になるだろう。

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2005.04.03

般若心経について

 長く難病に苦しんだ生命学者、柳澤桂子が般若心経の現代語訳のような本「生きて死ぬ智慧」を出していたのを最近知った。堀文子の絵とリービ英雄の英訳も書籍の企画としてはすばらしいものだ。柳澤桂子の言葉を読みながら、正法眼蔵の摩訶般若波羅蜜の巻なども思い出しながら、なぜこれほど多くの人がこの短い経に心を寄せるのか、あらためて不思議に思った。

cover
生きて死ぬ智慧
 宗教学的に考察するなら、般若心経とは、一般に日本で理解されているものとはかなり異なるものだ。仏教学者も実際は各教派の下に置かれるから、その教義を離れた厳密な考察はしづらいし、解釈が教義に引かれてしまいがちになる。それでもいいのだろうとも思うし、なにより、研究者には一般社会に語らなくても自明のことがあるものだ。
 そうしたこともあり、私もある種自明なこととしてこの件に書くことはなかろうとも思っていた。しかし、こうしたおりについでに少し般若心経についてふれておいてもいいかもしれない。
 般若心経について、もっともわかりやすい解説書は佐保田鶴治「般若心経の真実」だろうと思う。アマゾンには置いてないが、書店や古書店を探すとまだそれほど入手しがたい本ではない。楽天ブックスには在庫があった(参照)。この本は般若心経についてもっとも大切なことをきっぱりと書いている。それは、般若心経という、この短い経典で、重要なのは真言(マントラ)の部分だけで、よく解説されるこの多い、難解な教義的な部分はすべて付け足し、ということだ。色即是空といった教義的な部分について佐保田はあっさりこう断じている。

一般にこの部分がこのお経の中心と考えられておりまして、先生方はここの部分の説明に力こぶを入れて、縦横無尽に解説されるのでありますが、それは見当違いも甚だしいのでございます。この部分は大乗仏教一般にとりましては大切な理論の展開といえましょうが、心経が書かれたそもそものねらいはここにあるのでは無いのでございます。空の理論を展開するのは金剛般若経あたりの役目でありまして、今さらこんなちっぽけなお経を説く必要がどこにありましょうか。

 そして、佐保田はマントラ・ヨーガを簡単に説明した後、こう言い切る。

拙老は、そういう意味合いから、般若心経を全部繰り返すのは無駄でありまして、最後の明呪だけを繰り返せばよいのではないかと考えるのでございます。般若心経全部を繰り返すのは、薬の効能書きを読んでは薬を飲むというのと同じことになるではないかと思います。効能書は一ぺん読めばよいのではございませんでしょうか。

 般若心経のマントラ、具体的には、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」であり、佐保田はこれを唱えるだけでよいとする。なお、これに後続する「薩婆訶」はマントラの本体ではなく、神像に捧げ物などをするときの所作に合わせる言葉だ。現代インドでもこの所作はよく見られる。
 重要な部分がマントラ(呪文)であるということは、そこに解釈されるような意味などというものはない、ということでもある。その呪文の功徳があるだけだ、ということになる。だから、般若心経の解釈自体というのは無意味なことだということにもなる。特にその功徳が知りたいというなら「能除一切苦」で尽きてもいる。苦しみを除くというのだ。
 なんとも未開な呪術ではないかと思えてくるが、般若心経とは、実際そういうものだし、日本の歴史でもそうして有り難たがられてきた。
 佐保田が強調するもう一点は、この般若心経という経典は、般若=仏教の叡智、といったものではなく、女神を称える経典であるする点だ。

 ハンニャ・ハラミッタ(Prajna-paramita)というのは、ここでは女性のボサツの御名前でございます。施護の訳に「聖仏母」とあるのは、この女性のボサツが、仏母(Bhagavati)すなわち仏をお生みなされた母上であるからでございます。

 般若波羅蜜多というのは、この女神の名前、固有名詞だというのだ。般若波羅蜜多女神と呼んでもいいだろう。
 そして「心経」の「心」もいわゆる心髄といった比喩でなく、単に「心臓」という意味だと佐保田は解説している。般若心経とは、般若波羅蜜多女神の心臓なのである。これはトンデモ説のように思われるかもしれないが、私もその解釈で妥当だろうと考えている。
 私がこうした佐保田の説にあっさり納得するのはわけがある。が、その話の前にこの女神については、次の指摘が重要になることに注意を促したい。

この女性のボサツは単にハンニャ(Prajna)とよばれることもありますし、またターラー(Tara)ともよばれております。こうした女性のボサツが信仰の対象として現れるのはインド仏教の末期でありまして、六、七世紀以降になると女性のボサツへの信仰が盛んになったことは、サールナートの博物館などに行ってみるとよくわかるのでございます。

 般若心経という経典でのハンニャ・ハラミッタ女神は五世紀初等の時点のものなので、後に全盛となるインドの女神信仰と比べると、まだ基本的な段階ではあったかもしれない。
 以上、やや奇矯とも思える佐保田の説を上げたのだが、これは、ミルチャ・エリアーデの著作にも描かれているとおりなので、宗教学的にはこの分野のごく国際的な基本的な理解の水準と見ていいはずだ。例えば、「エリアーデ著作集 第2巻 (2)」では、般若心経についてあっさりとこう説明されている。

ここには『般若波羅蜜多』の「要約」が存するのではなく、「女神」の姿を取った「宇宙的空の真理」(sunyata)の直接的、全体的な同化が存する。

 この女神についてエリアーデの考察も引用しておくといいだろう。ハンニャ・ハラミッタ女神とターラー女神だについてだ。佐保田は後代の視点から同一視しているが、生成的には異なるものである。

アーリア・インドの精神史において、はじめて偉大な女神が支配的な位置を得ることに注意しよう。古く紀元二世紀には二柱の女神が仏教に入った。その一、プラジュニャーパーラーミターPrajnaparamita<般若波羅蜜多>は形而上学者と苦行者の「産物」であり最高の知慧の権化である。その二、ターラーTaraは土着のインドの偉大な女神の出現したものである。

 般若心経はこうした女神信仰の重要な局面から出現した経典だった。
 これでこのエントリの話は終わりにしてもいいのだが、薬の効能書きの部分の重要な点である「空」つまり「宇宙的空の真理」(sunyata)についても、少し触れておこう。
 エリアーデが指摘するように、それは女神の姿を持っているのだが、より精神医学的に深化したチベット仏教の流れでは、空(くう)は認識・意識のある状態として展開される。
 「タントラ叡智の曙光―タントラ仏教の哲学と実践」(絶版)では、こう説明している。

 認識能力に高められた状態としての「プラジュニャーパー」(般若)すなわち「シェーラブ」は、認識能力がふつうは内在している相対的思考のネットワークが弱められた状態をも意味します。

 これだけではわかりづらいかもしれないが、ある種の先入観や記憶の条件条件付けのない認識の状態が般若心経のもたらすところであり、つまりは、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」のマントラで達成されるはずの意識なのだろう。
 同書では、シューニャター(空)について比喩的にこう説明されている。

 「シューニャター」の意味は大変やさしく説明することができます。われわれがものを知覚するとき、普通はある形に仕切られた対象の形に注目します。しかし、これらの対象は一つの視野の中で知覚されます。目の行き先は具体的な形の仕切られた形態か、それともそれが位置している視野に対してかのいずれかです。シューニャター体験においては注意は視野に向けられて、視野の内容ではなくなるのです。ここで「内容」というのは、視野そのもの中の目立った特徴を意味します。われわれはまた、心の中の一つの考えが浮かんだとき、その考えによって仕切られている境界と言いますか、いわば領域というのははっきりしていなくて、ぼやけているということに気づくでしょう。その領域が次第に消えていくと何か非常に開放的なものになっていきます。この開放的な広がりこそが、「シューニャター」の基本的な意味です。

 般若心経はただこのマントラを唱えよというだけなのだが、その実践にはこうした意識・認識・体験としての「空」への導きが含まれていたのだろう。
 この点について先の佐保田は、この経典の冒頭に登場する観自在菩薩を観音としてとらえ、こう推測している。

 説明がたいへんむつかしくなって恐縮でございますが、要するに、音を聞くというような手近な心の作用を初級の観相の材料として、空という深いさとりの世界へはいっていこうとするのが観音という修行法だということでございます。

 おそらく般若心経には、当時この経典を維持してきた教団に自明なマントラの修行法も関連していたのだろう。
 別の言い方をすると、現代において、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」のマントラを唱えるだけではそうした意識は獲得はされないのではないか。
 般若心経が発生した時代の信仰には強固な女神信仰が深く関連していた。しかし、現代には「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」が女神に具現視されるような信仰的な確信を失っている。であれば、どれほど高度なマントラであると効能を持たないだろうし、女神信仰的な背景を欠落して、いくら「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提」と唱えても、「コカコーラペプシコーラドクターペパー」と唱えるのと大して変わりないだろう。

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2005.04.02

東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切事故から二週間が経った

 東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切事故から二週間が経った。ニュースを眺めても、この数日には最新の話はないようだ。赤旗が高架にせよというくらいか。この間、NHKでは、クローズアップ現代が取り上げ、そして首都圏特報も取り上げた。後者の番組を見つつ、私だけかもしれないのだが、あれ?と思った。事件について見落としがあったかもしれない。あれ?については後で話を展開する。
 今回の事故は、発生当初からある種の嫌な感じが私はしていた。複雑な思いもある。が、単純な面から言えば、自分もこうした踏切と身近に暮らしてきた経験もあり、単に踏切制御の人為的なミスとばかりは責められないのではないかと思った。ニュースや当地を生活圏とする人の各種ブログなども拝見しつつ、そうした印象を深めた。該当踏切の仕組みは「東京の踏切」(参照)が詳しい。
 この踏切は時間帯にもよるのだろうが、合法的な操作をすれば、一時間に三分しか開かないとも言われている。しかし、通行のニーズが強いとすれば、非合法的な実態があり、それは当然の危険性を含む。今週のSPAのコラムニスト神足裕司氏の「これは事件だ」では、さらにこういう指摘もある。


「駅務運転作業基準」というものがある。手動式遮断機は、電車が接近しているとき、下ろされると自動的にロックされる。「基準」に定められた駅ごとに作成する「踏切作業内規」には、ロック解除に「駅長の指示が必要」とある。
 内規を破った? だが1分の隙をつくためにわざわざ毎回駅長を呼びに行けというのか。

 基準の解釈がそれでいいのか私にはよくわからないが、それでも規定なりは、有名無実化した経緯もあったのだろう。ただ、このコラムでは、事故当時の時間帯はそれほど開かずの踏切というのでもなかったとしている。単純に開かずの踏切という実態があるのだということだけではないのかもしれない。
 こうした事件が起きると、志賀直哉風正義派はどこかに責任をもっていき糾弾したくなるものだが、多少なりの世間経験があればミスを犯した担当者だけを責められるものではない。三月二二日付け朝日新聞社説”東武踏切――危険を放置するな”はこうした社会問題に正面から向き合うより、昔懐かしい社会主義的なイデオロギーに退行してしまう兆候をはっきりと見せている。

 人口の密集地なのに踏切が残るのは、電車の入れ替え線があり、線路が錯綜(さくそう)しているなどの理由だという。経済的、技術的な問題もあるだろうが、東武鉄道は鉄道事業で年間220億円の営業利益をあげている。要は危険な踏切を放置しないという決意があるかどうかだ。

 この口調なのだが、産経新聞などで北朝鮮制裁の決意を問うのとまったく同質のパトス(情念)であることはすでに社会の一部では明白になっていると言っていいだろう。もちろん、正論ではあるだろう。大東亜戦争末期国民が戦艦大和に出て欲しいと願った「思い」が正論というのに似ている。具体的な現実問題にはあまり意味がない。
 もしかすると、この問題は死者まで出して、まるで改善されず忘れ去れていくのかもしれない。高架案(参照)を赤旗が説くのであればその経緯をちゃんとフォローしてくれ。すでに現在の状況とは言えないのかもしれないが、ブログ「音と言葉のアンテナ」”グッジョブ”(参照)が事故後一週間の状況をこう伝えている。キムタケ風に長くて申し訳ないが引用したい。

ところで、昨日、竹ノ塚の駅向こうを外回りしてたんですが、仕事が終わって帰るときに、ちょっと踏切を見ていこうと思った。まだ相変わらず手動でやってるのかどうか確認して見ようと思ったのだ。もちろん踏切はわたらずに、もう少し南の栗六陸橋を超えて帰ることができる。
 
ところがだ。私は踏切をみて驚いた。
 
踏み切りは相変わらず手動で行っているようだった。ただ、以前と違ったのは、踏み切りの中に、のぼりくだりの線それぞれに旗を持った警備員が立っていたことだった。いわゆる人柱みたいなもんだ。
このときの心境はうまく言葉に出来ない。ある意味感動的ですらあった。私はやすやすと先の決意を曲げて、踏切を渡ることにした。
 
なるほどお、とかいいながら、ぶつぶつニヤニヤしながら渡っていたに違いない。
仮に自動踏切を設置したところで、事故の衝撃が消えるまで、あの踏み切りは渡れなかっただろう。人を立たせましょう、という提案がどのような経緯で起こったのかは知る由もないが、現時点でのベストソリューションだと私は評価した。

 なんだそれ?と思う。ブログがちゃんとニュースの一次情報になっているなとも思うが、それより、ブログ記者サモッチさんの「このときの心境はうまく言葉に出来ない。ある意味感動的ですらあった」という心の動きが興味深い。ジャーナリズムの原点のようなものも感じる。
 人柱か、人間かというところで話を冒頭に戻す。四月一日のNHK首都圏特報(参照)で私があれ?と思ったのは、事故に遭遇したのは自転車だけだったという点だ。ここで明確にお断りしておくが、私は自転車に乗っていたのが事故の理由だとも言わないし、事故に遭われた方にも責任があるとも言わない。その点を誤解なきよう。
 自転車を明示した報道はあっただろうか。私はうかつにも見落としていたので、ニュースを読み直した。一六日の産経新聞”東武伊勢崎線・竹ノ塚駅踏切 遮断機上がり2人死亡 手動操作、係員誤る”(参照)はこうだ。

 十五日午後四時五十分ごろ、東京都足立区西竹の塚の東武伊勢崎線竹ノ塚駅そばの37号踏切で、踏切内にいた女性二人が太田発浅草行きの上り準急列車(六両編成)に次々とはねられ、二人は病院に運ばれたが死亡した。踏切周辺にいた女性二人も軽傷。踏切は係員が手動で遮断機の上げ下げを行っており、事故当時、遮断機は上がっていた。警視庁捜査一課と竹の塚署は係員が誤って遮断機を上げたと話しており、業務上過失致死傷容疑で捜査している。現場は「開かずの踏切」として有名だった。
 調べでは、死亡したのは同区内に住む保険外交員、宮崎季萍(きへい)さん(38)と主婦、高橋俊枝さん(75)。けがをしたのは、近くに立っていた女性(55)と自転車に乗っていた女性(44)で、足や頭に軽傷。自転車の女性は後部に女児(5つ)を乗せていたが、女児にけがはなかった。

 産経を責める意図はなく、一例に過ぎないのだが、ここから事故死されたかたが自転車に乗っていたとは読みとれないのでないか。この点、同日の朝日新聞”遮断機誤って上げた疑い、踏切保安係逮捕 東武線事故”(参照)は明確になっている。

3人とも自転車で踏切を渡っていたところを事故に遭ったが、佐藤さんの自転車に一緒に乗っていた娘にけがはなかったという。

 首都圏特報によると、遮断機が上がってから一台のバイクが踏切を渡ったのだが、接近する電車に気が付き、とっさのアクセルで該当線路を突き抜け難を逃れたようだ。異常事態でもあり、このバイクの方を責める意図ではないが、踏切横断中にバイクのアクセルというのはどういう状況だったのか少し違和感が残る。
 自転車は三台事故に遭遇したが、歩行者には事故はなかった。単純に思うのだが、歩行者のほうが機敏な動作が取れたからではないか。そして、そういえばと連想するのだが、自転車が踏切を渡るときは降りて手押しするのではなかったか? 警察はそう指導しているのではなかったかと、ネットを探ると警視庁「学ぼう! 交通ルール&マナー」(参照)では、クイズ形式を借りてこう説明している。

問題3
 ふみりきりをわたる時は、ふみきりの手前でかならず一時ていしをして、左右の安全を確認したあとにじてんしゃにのってなるべく早くわたる。

 あなたのこたえ:○  せいかい:×

<かいせつ>
 ふみきりをわたる時は、一時ていしをして、左右のあんぜんをかくにんしたあと、じてんしゃからおりて、おしてわたりましょう。


 これは子供向けの指導なのか、なにか法規的な裏付けがあるのかよくわからない。ただ、だから踏切では自転車を降りて手押しせよとここで主張したいわけではない。
 自転車が事実上存在しない沖縄での八年の暮らしから私が東京に戻ってなにより閉口しそして恐怖に思ったのは歩道を走行する自転車だった。自転車が走行していい歩道は指標が出ている。が、警官まで無視しているので私はその警官に小一時間といったこともあった。なにより、むかつくのは、チリンだ。なにがチリンだばかやろうと私はなんども怒鳴り散らした。自転車走行が認可されている歩道でも、歩道は歩行者が優先であり、その歩行を妨げていけない。チリンを鳴らすんじゃなくて、おまえが自転車を降りろ。交通法も知らんのか、と。第一、チリンは無礼だろう。しかし、二年が過ぎて、慣れた。この私が感じた違和感は社会問題ですらないのだろう。
 繰り返すが、踏切で手押ししない自転車を責めるわけではない。それは、竹ノ塚駅踏切が「合法」的に運用されていなかったことを責めるわけにもいかないのと変わらない。
 さて、このまま人柱方式が解決なのだろうか。NHK首都圏特報は散人先生もご覧になり、エントリ”NHK 首都圏特報「開かずの踏切で起きた人身事故」……なにが問題か、またしてもぼかされている!”(参照)で、遮断機開閉時には電車が自動的に停止するというシステムを提起している。それが現実的に可能か私はわからないが理念は正しい。同番組では最新の制御システムについても示唆していたが、詳細情報はなかった。
 現状の踏切については先にも参照させて頂いた「東京の踏切」(参照)が詳しい。特に「踏切探検隊」(参照)には自転車の状況を含め考えさせられることが多かった。

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2005.04.01

[嘘記事]寝ない子が育つの新理論:不眠社会と現代人の動物化

追記: エイプリルフール・エントリでした。背景色部分が嘘。

 日本国内では認可されていないが、米国では空港などでも時差ぼけ解消用サプリメントとしてメラトニンが販売されている。メラトニンは睡眠を誘導する脳内ホルモンだが、動物の脳などから抽出しなくても人工的に合成が容易であり、また特許の必要もないことから、米国ではごく安価な快眠用サプリメントとして幅広く利用されている。舌下錠(sublingual)の形態が吸収しやすいため、米国らしいノリでミントフレーバーなども出回っている。

cover
驚異のメラトニン
 メラトニンが国際的にブームになったのは10年ほど昔。イタリアの研究者による発表が有名だ。メラトニンを多く摂取させた動物の実験により、メラトニンが動物の長寿をもたらす可能性があるとした。この話がその後拡張され、メラトニンはすぐれた抗酸化物質であり、ボケ防止、血圧降下、血糖値低下、しわ予防などなんにでも効果があると不確実に宣伝されるようになった。日本でもスッチーのお買い物定番となり、海外旅行のお土産としても一時期話題だった。が、なんといってもメラトニンの一番の用途は睡眠誘導である。
 日本でも類似の傾向があるが、米国は不眠社会とも言えるほど不眠に悩む人が多い。29日のロイター記事"アメリカ人は寝不足で性生活に問題あり!?"(参照)では次のように伝えている。

米睡眠基金の調査によると、成人の75%に、夜何度も起きたり、いびきをかいたりという睡眠障害の兆候が頻繁に見られるそうだ。しかし、睡眠障害があるという自覚はなく、たいていは問題を無視してしまう。


よく眠れないと解答した人の3分の1が、寝不足のために配偶者との関係に悪い影響が出ていると答えた。よく眠れると答えた人ではたったの8%だった。

 米国のこうした不眠社会に定着したメラトニンだが、先月新しい研究が発表され、従来明確には解明されていなかった重大な副作用の可能性が明らかになった。2月8日の共同通信記事"睡眠ホルモン生殖機能抑制 過剰摂取は注意、広島大"(参照)では、標題からもわかるようにメラトニンが生殖機能を抑制する副作用を持つ可能性を示唆している。

メラトニンは健康補助剤として米国などで広く市販されており、取りすぎると生殖機能障害が起きる可能性があると筒井教授らは指摘している。

 幸い国内ではメラトニンはサプリメントとして販売が許可されていないで、この記事はそれほど日本では関心をひかなかったが、米国ではかなり注目された。MSNBC"Sleep hormone may affect sex organs: Melatonin commonly used by travelers to combat jet lag"(参照)では、その機序も伝えている。

This is important because GnIH has been found to have the opposite effect to the key hormone that primes the body for sex - gonadotropin releasing hormone or GnRH.

 鍵となるのは、GnIHと呼ばれる脳内ホルモンの存在だ。
 脳内ホルモンの存在については、30年ほど前だが、米国のロジャー・ギルマンとアンドリュー・シャリーがその促進系であるGnRHを発見し、1977年にノーベル医学生理学賞を受賞した。しかし、この機序のフィードバック系のホルモンについては長く不明だった。それがようやくGnIHであることが判明し、しかもそのGnIHの放出を制御しているのがメラトニンらしいということがわかってきた。

 この画期的な新知見によって、一部ではすでに現象面では注意されていたものの明確に理解されていなかった各種睡眠と生殖器官の関係が急速に明らかになりつつある。とはいえ、現状では医学ジャーナリズムの記事が先行し、権威あるジャーナルなどへの論文発表は後手になりそうだが、非常に興味深い各種知見の報道が相次ぐ。なかでも、現代人にとって大きなインパクトを持つのは、私の考えでは、次の二点である。
 一つは、睡眠と人間の性行動の関連である。メラトニンはサプリメントで補なわなくても、人間の脳内で自然に分泌されるものだが、先の記事"アメリカ人は寝不足で性生活に問題あり!?"にも示唆があったように、睡眠サイクルの異常から不定期に放出過剰となることで、性機能に抑制的な変化が見られるようになる。
結婚もしくは恋愛中のカップルの4分の1近くが、眠いためにセックスの回数が減ったり、興味がなくなったと回答している。
 この逆の現象、つまり、覚醒時の持続による性機能の昂進もある。下品な日本語だがいわゆる「疲れマラ」なども同一の現象らしい。食い慣れていない高価な焼き肉を食って起きる現象ではないようだ。

 こうした性機能サイクルだが、その生物学的な存在理由は、生物を性機能の負担から保護するものではないかとの見解が出ている。MSBNG"Sex inhibit hormon saves costy power"(参照先のMSNBCの同記事でワシントン大学のGeorge Bentley博士はこう推測している。


Such a hormone would be important for many species, he said.
 
“Reproduction is energetically costly. It takes its toll,” Bentley said in a telephone interview.
 
“So that is why a lot of animals breed seasonally. They can only afford to do it at certain times of year.”

 鳥類や哺乳類などは、四季の変化に合わせて睡眠を調節しているのだが、その延長として無駄なく性行動を誘導するということが、こうした機序の背景である可能性がある。

 二点目は、このような季節による性機能の調整に加え、人間の場合、メラトニンによる睡眠サイクルの長期的な調整が性的な成長過程にも関連しているらしい。特に、子供の深い眠りは、このGnIHの抑制機序をネオテニィー(幼形成熟)に流用している可能性があるようだ。
 ネオテニーは、生物の幼形時の特徴がそのまま時間的に延長される現象である。この現象に関心が集まるのは、1920年代にL・ボルクが、人類を他の動物から区別する最大の特徴をネオテニーとした有力仮説があるからだ。この仮説がわかりやすいのは、簡単に言えば、チンパンジーなど類人猿の幼形(赤ちゃん)の特質が、人類に似ているためである。生物学者デズモンド・モリスは「裸のサル―動物学的人間像」と表現している。
 人類ネオテニー説は、人間が性的に成熟するまでに長期間を要することをうまく説明する。人類以外の生物が比較的短期に大人の形態を取ることからもこの説は理解しやすい。この成長における性抑制機序の基軸がメラトニンの放出サイクルにあるらしい。
 つまり、メラトニンからGnIH、GnIHによる性的成熟の遅滞、そしてネオテニーという連鎖が人類のネオテニーの発現を支えている。いわば、寝る子は育つ、というのが人類の人類らしい特徴を維持してきた。
 逆に言えば、現代社会の睡眠サイクルの破壊から脳内のメラトニンを不足させることで、比喩的に言うのだが、より短期に子供が生殖器官の面で大人になる可能性も示唆される。
 不眠社会によるネオテニーの不完全さは、人類をより短期的に性的に成熟を達成させてしまうことになる。当然、成長速度のバランスが崩れることで、人間の身体形態をも変化させることになる。それは一面では性的な成熟の速成の副次的な効果に過ぎないとも言えるのだが、これまで人類を人類たらしめたネオテニーを不完全化させるという意味で、不眠社会は特異な形態での人間の動物化を促進していることにもなる。

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