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2005.03.11

てるりん追悼

 てるりん(照屋林助)が死んだ。七十五歳だった。うちなー風に見れば、かじまやー(参照)にはまだまだということで若すぎるということかもしれないが、長寿沖縄と言われてるわりにその実態は男性の壮年死が多い。八年も住んでみれば理由は自ずとわかる。てるりんも長く糖尿病に悩んだ。足の指も切っていた。
 てるりんに私が会ったのは十年ほど前、と書いて、特別のことでもない。うちなーんちゅの大半はてるりん本人に会ったことがある。目立つ。巨漢である。日常からして、歩くモダンアートのような出で立ちである。コザの若いフラーターでも、とっさに、本能的に、引く。あのばりばりのオーラーにはかなわない。
 メディアなんぞでは、てるりんは、ワタブーのイメージどおりににこにこしているが、普段は憮然としていることも多く、自分が弟子だと決めた芸人になんとか芸を継がせたくしかり散らしているふうでもあった。その眼の座り方に、私は林山を思った。
 てるりんが林山の不肖の息子であったかどうか私などが言えるものでもない。ただ、林賢にまで継がれるあの強烈な音楽的才能は、伝統芸の維持ではなく、常に破壊と創造をやまないものなのだろう。てるりんは三線に一本線を加えた。エレキ三線も作った。MIDIの打ち込みなんかもやってたようだ。息子のりんけんも、チェレンを作った。たしか、てるりんの兄はエンジニアで沖縄で最初にエレキを自作したのではなかったか。そういう血統でもある。フリッパトロニクスみたいな志向なのかな。
 ワタブーショーや戦後の舞天との活動については、よく語られるし、コピペみたいな逸話を書く意味もない。沖縄の大衆芸という枠で語られる。しかし、私は、彼の芸は、そのとんでもない音楽的才能と、やまととうちなーの近代史の微妙な内省から生まれたものだろうと思う。彼自身はチャンプラリズムと言うのだが、むしろ、それは今の日本が失ってしまった日本の伝統の本流に深く関わっているようだ、と書けば、あたかも大和の亜流であるかのように聞こえてしまうのだがそうではない。
 てるりんは大阪に生まれた。沖縄に移住するのは子供のころからだし、大阪での暮らしもうちなーんちゅに囲まれてその文化のなかにいたという意味で、うちなーんちゅであることに違いはない。が、やはり、だからこそ、あるズレのようなものがあったのではないか。藤木勇人が大正区でれいの一人芸をして笑いを取ったとき、オジーが笑うなと若者をたしなめたという笑えない笑い話があるが、うちなーんちゅであることは「美麗島まで」に描かれた与那原恵のファミリーヒストリーが暗示するように、うちなーの外側、やまとやアジアの全域に関わる微妙な問題がある。あえて言えば、今の沖縄本島の沖縄文化とは常に自己模倣によって作成されたある奇妙な創作物だ。こんな風景を思い出す。私が中城湾をぼんやり見ながら「きれいな海ですね」というと、うちなーんちゅの年配の一人はこう言った。「きれいになったのは復帰後だね」「そうなんですか」「昔は廃油ボールがぷかぷか浮いていた」。その言葉の奇妙な陰翳が忘れられない。やまと世が海をきれいにしたという単純な話ではない。

cover
平成ワタブーショー
沖縄チャンプラリズム
の神髄2
 やまととうちなーのその微妙なつながりというのをてるりんはさらっと笑いの芸にしていることがある。「沖縄よろず漫芸 平成ワタブーショー沖縄チャンプラリズムの神髄 2」に「すべて黒潮のお陰」という演目があるが、これがヨサコイ節がどう沖縄音階に変化するかというのを自在にマジカルに三線で解き明かしていく。これなど、中学生か高校生の学習過程で是非聞くべきだろう。黒潮がどう音楽につながっていくのか、もちろん実証的ではないが、そこに込められた感性のある連続のようなものが重要なのだ。西原淑子さんが食材を見て海の物か山の物かの二分しかせず、調理はなんでもかんでも炒めちゃうというのは、この黒潮系の文化でもある。
 ってな話はきりがない。というか、私の心のなかで沖縄もてるりんも全然消化できていないということだ。もう一ネタ書いて終わりにしたい。
cover
平成ワタブーショウ
 てるりんの芸能のもう一つの重要なことは、うちなーが米軍下にあった経験というものだ。てるりんがコザんちゅうということでその色は特に濃いが、その本質は戦後のGHQ下の内地にも関係している。その経験の、なんというのか、悲惨とか卑屈とかではなく、民衆はどのような圧制下でも笑って生きているというある奇妙な感覚でもある。民衆から乖離した思想が芸能に劣る局面である。なんど聞いても可笑しいのが、「沖縄漫談 平成ワタブーショウ」の「カミダーリユンタ」である。

うちの女中もさらウフソー
ソーメン買いに行かせたら
ソーメンの名前も忘れちゃって
小さなトゥーバイフォーないかいな


そのまた隣のお手伝い
これもしたたたかポンテカで
カマボコ買いに行かせたら
小さなコンセットないかいな

 腹がひきつるほど笑った。私が戦後の沖縄とはなんだろうと現地に暮らしながらまじめくさった戦後史を読みながら得た知識が、笑いを通して大衆の、あの時の生活の視点になっていく感じに変わった。
 てるりんは舞天と戦後命の祝いをしようと沖縄各地を回った。その時からの歌だろう「生き返り節」は絶唱である。

特配ぬ脂 鍋にすりなして
焼ちゅうるヒラヤチぬ
音の清らさよ
匂いの香ばさよ

 現代の沖縄では、「美ら」と書いて「ちゅら」と訓じ、あたかも沖縄の美を「ちゅら」に込めようとしている。たしかにそういう面もあるが、「ちゅら」とは「清ら」である。そして、「清ら」であるから中国語の「清」にも引かれる。この語感は、うまい食い物を連想させるのだ。「清香園」もそれである。うまいものが喰える(ひらやーちーが泣かせる)ことが「生き返えやびたんでえ」である。あとすることは、歌って子作りすることである。生きたものがよろこび子孫が増えることが死者への供養である。

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コメント

はじめまして。自分も慎んで哀悼の意を捧げます。もう先年です。沖縄2泊3日駆け足パック旅行。本島最南辺戸岬から本部1泊、那覇同、そしてひめゆり資料館まで。その旅行会社の集客数NO.1
コースで、ほとんど観光名所網羅。今帰仁城、首里城、万座毛、琉球村、東南植物園等など、もう満足した。やまとんちゅーに帰っても、東京日比谷野音に[ちゃんぷるーず]、また[りんけんバンド]のライブと、他歌手CDもかなり購入、ひとつ拙曲は浮かんだが。てるりんさん、なんでそんな陽気なんだろ。戦後の暗いイメージの「沖縄」(この題名の映画観た)をあっけらかんと吹き飛ばす、その迫力、気迫に押された。うちなんちゅーとはなんぞや。その答えを、>あとすることは、・・への供養である。<で、いただいた気がします。

投稿: 解封印種人 | 2005.03.12 01:47

非常に残念です。ご冥福をお祈りします。

投稿: ひが | 2005.03.16 07:55

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