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2005.03.24

[書評]静かなる細き声(山本七平)

 むなぐるまさんの"お知らせ"(参照)を読み、しばし物思いにふけった。饒舌な私のことだから、ポンと背中のボタンを押せば言葉はいくらでも出てくるだろうが、そうして出てきた言葉に意味は少ない。未だ「匿名で書かれたブログはどうたら」という頓珍漢な批判もあるが、むなぐるまさんは匿名でも確固としたパーソナリティであった。だから、そこを埋める別の知識あるとしても、本当はそこを埋めるものなどはない。逆に、だからこそ実人生の季節でブログとのいろいろなつき合い方もあるだろうとは思うし、さよならも似つかわしくはない(髷も知らないオー二シをまたとっちめてやろうぜ!)。と、ふと、「水の上にパンを投げる」という伝道の書の言葉を思い出した。そして、山本七平の本の一部を思い出した。

cover
静かなる細き声
 山本七平の自伝的なエッセイ「静かなる細き声」に、彼が中学三年生か四年生のとき、木村米太郎教授の聖書講義を聞いたという話がある。ほんの四、五回程度ではあったらしい。山本の推測では、木村教授が少年を相手に講義を持ったのは、臨時的なものではなかったかとしている。というのも、講義は神学生向けの高度な内容だった。学生の多くも「何となく先生の音声に耳を傾けている」ようであったらしい。
 しかし、山本はそれを「不勉強な私が、一種無我夢中の状態で、一語も聞きもらすまいと先生の低い声に全神経を集中した」と語る。彼はその講義で、初めて、「マソラ本文」「七十人訳」「アリステアスの手紙」「ソフェリーム」といった言葉を聞き、それが歴史的であるがゆえにと思われるが、少年の山本にとって、聖書を初めて身近な本と感じさせたものだった。

その私にとって、「聖書とは、人間がその一字一字を筆写しつつ、次代から次代へと、気の遠くなるほど長い期間、順次に手わたされてきた本である」という木村先生の講義は、何ともいえない一つの感動であった。

 山本は後にこう語る、「今にして思うと自分の生涯はこのときに決定されていたように思う」と。そういうことが人生にはある。

 勝手な憶測だが、木村先生はあの臨時講義に内心少々迷惑を感じておられたかもしれない。全く興味なさそうな顔をしている中学生に、「マソラ本文」とか「七十人訳」などについて語ることは、文字どおり「パンを水に投げるに」に等しいことであろう。

 その状況では虚しく思えることでも、他人の人生に大きな影響を与えるということの証を山本はしている。だからこそ彼は、こう確信したのだろう。

 人は、生涯、木村先生のように淡々と、水の上にパンを投げていればよいのであって、それ以上のことを推し計る必要はないと私は思う。

 もちろん、この言葉だけ取り上げれば、そうでもないよと突っ込みたくなる。しかし、このパンは夢というものの種なのだ。同書の別の、この箇所に続くのだろう。

 人はみなその若き日にさまざまな夢を持つであろう。その夢が実現することもあるであろうし、実現しないで終わってしまうこともあるであろう。
 私も確かにいろいろな夢を抱いていた。
 『ギルガメシュ叙事詩』もその一つで、これは不思議な摂理で実現したわけだが、夢のすべてがこのように現実になったわけではない。
 しかし、たとえそれが不可能と思える現実の中にあろうと、いわば戦場にあろうと、病床にあろうと、失意の底にあろうと、その夢は持ち続けてよいのであろうと思う。
 パウロの言うように「我は植え、アポロは水をそそげり、されど育てたるは神なり」であろう。
 育って成果となるか否かは、人が如何ともしがたいことである。
 しかし、植えられたものに水をそそぎ続けることは人間に可能なのであり、そのことが無意味だと言うことではないと思う。

 私がこの山本の話を読んだのは一九七八年のことだった。三〇年前になる。当時日キ系のキリスト教雑誌「信徒の友」に連載されているのを私は毎月楽しみに読んでいた。当時私も夢があった。夢を実現できるかとも思った。しかし、今年四八歳にもなり、孔子の言うように後生畏るべしもなく、四十五十にして聞こゆること無くんば斯れ亦た畏るるに足らざるのみとなり、finalventさん罵倒まみれもしかあるべしとなる。
 しかし、不思議と夢が潰えたわけでもない。というか、ブログに夢を見ている。むなぐるまさんにその夢が消えたとも思えない。まるで、ね。

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コメント

こんにちは、時々読んでいます。今日のお話は特に印象に残りました。こういう考えって、教育にあたる多くの人たちが心のそこでぼんやりと決意しているものだと信じてます。

投稿: ni | 2005.03.24 11:14

ありがとうございます。アメリカというところは、自分の生存は自分で勝ち取らなければいけないということは徹底しているので、ちょっと今は実生活に戻りますが、これで終わりではなく、人生の次のステップのためだと思っているので、本当に、また会いましょう、と思います。その他にもいろいろと感じるところはあるわけですが、それはまたの機会に…。

投稿: むなぐるま | 2005.03.24 13:13

 山本七平の本を何か買おうと思ってbk1で検索したら、思っていたよりたくさんのタイトルが出てきました。
http://www.bk1.co.jp/search/search.asp?kywd=%8ER%96%7B%8E%B5%95%BD&srch=1&Sort=za&submit.x=0&submit.y=0

 『「空気」の研究』は意外に安かったのでもう一冊購入しようと思い、『静かなる細き声』を検討していてこの記事の再読に至りました。

 参考になりました、ありがとうございました。『静かなる細き声』購入します。

投稿: 左近 | 2005.09.05 17:20

finalventさん、おはようございます、

昨日ちょうどその箇所を読みました。

「人は、生涯、木村先生のように淡々と、水の上にパンを投げていればよいのであって、それ以上のことを推し計る必要はないと私は思う。」

私も最近つくづくそのとおりだなと感じる年になったようです。

投稿: ひでき | 2008.04.24 10:52

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finalventさんはほぼ毎日更新されているので、探すのが大変になる前に早めにTBしておこうと思う。 さて、最近は資格の勉強やら仕事やらで時間に追われてさっぱりと本を読む機会もなかったが、finalventさんのエントリを読んで心動かされるものがあったので、こちらの本を求めてみた。 「静かなる細き声」山本七平 イザヤ・ベンダサン、といった方がピンと来る人のほうが多いのかもしれない(とは書いたものの、そうと決まったわけでもなさそうなのだが)。いや、今やベンダサン自体を知っている人のほうが少ない... [続きを読む]

受信: 2005.04.26 01:10

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