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2005.02.18

三宅島第一次帰島から二週間が過ぎて

 読売新聞の短い記事"三宅島の新聞販売、4年半ぶりに再開"(参照)を読みながら、ちょっと物思いに沈んだ。なかなかこの問題については言及しづらいものがあるなと思う。しかし、だからこそ、ちょっと書いておこうかとも思う。まとまった意見ということではない。
 記事は標題通り、三宅島で読売新聞の販売が開始されたというもの。戸配ではなく商店での販売である。記事は自社宣伝みたいでもあるが、この島民の心情はわかる。


島内では、噴火前に唯一営業していた新聞販売店が再開しておらず、宅配も店頭販売も行われていなかった。帰島した人々の間では「新聞を読みたい」という要望が高まっていた。


 仕事帰りに立ち寄ったという銀行員中山洋さん(54)は、「活字が恋しくて、新聞が読めないのが寂しかった」と笑顔で話していた。

 私は沖縄の海辺を八年ほど転々と暮らしたのだが、当初は新聞など読みたいとも思わなかった。地域とのつながりができるとそのつながりから現地の新聞を買えのプレッシャーは来る。結局、ほとんど同じ論調にして同じ共同配信記事ばかりの二紙を取っていた。それはそれなりに面白いと言えないでもない。幸い低速の回線だがインターネットはできたし、NHKは受信できるので、本土のニュースや海外ニュースがわからないわけでもない。それでも、いつからか、なにか変だ、なんだろうと思ったのは、書籍の広告を見なくなったことだった。そう気が付いたら無性に本土の新聞を購読したくなった。書籍広告を見たいがためというとほほな理由だ。沖縄の僻地でも、本土新聞配達のためのなんとか会というがあって、でーじな金額を払うと本土の新聞を読むことができることがわかり、いろいろ手続きを進めたのだが、どんな理由だったか、結局頓挫した。そして、沖縄にはジュンク堂もない(あるわけもない)し、図書館も充実はしてないと痛切に思った。しかたがない。実家から一ヶ月分古新聞送れとでも頼んだが、リサイクルがどうので、それも実現しなかった。変な話のようだが、「活字が恋しくて、新聞が読めないのが寂しかった」というのは、だから、わかる。そして、読めるようになって、よかったねとは思う。
 三宅島住民帰島のニュースは概ね、そうしたよかったねと思うしかないように受け止めていた。幸いにしてか、報道もそういうトーンでまとめられていた。が、NHKの「あすを読む」で最新の三宅島の光景を見て私は凍り付いた。そして改めて過去のニュースを読みながら、二酸化硫黄濃度の減少が帰島のきっかけではないことを知った。災害の状況は"東京都公式ホームページ/三宅島災害情報"(参照)が詳しい。
 ではなぜ、この機に帰島ということになったのか。そのあたりは、ちょっと口ごもる感じがする。
 Yahooのテーマ別のニュース一覧に"三宅島火山活動"(参照)があり、各種の報道を経時的に読むことができるのだが、古い記事は少ない。むしろ、昨年11月28日の"避難島民が最後の交流集会 新潟の被災者に義援金も"(参照)からは、テーマは帰島が前提となっていく。その記事のトーンが、なんというのだろうか、あと三年後にこれを読んだらどう自分が思うだろうか、うまく言えない奇妙な空気のようなものを感じた。それはひとつには毎日新聞系の記事"三宅島帰島:「出征兵士を送る気持ち」 石原都知事、感想 /東京"(参照)にもつながる感じだ。石原都知事は第一次の帰島に「複雑で、うれしいと同時に戦争中の出征兵士を送るような気持ちだった」と述べ、こうつなぐ。

知事は「三宅は戦争ではないけど、決して正常な環境状況じゃないですからね。そこにいて慣れたつもりで、慣れることでどんどん体が侵食されなければいいと思うし、とにかく火山ガスが一刻も早く止まることを望みます」と話した。

 毎日新聞としては戦争を暗示させる石原都知事を揶揄したい思いも込めているのかもしれないが、私にはむしろ、率直に石原都知事の思いがうまく伝わった。そして、その先は、どうしても言葉にはできなかったのだろう。
 二週間が経過し、島民の暮らしはどうか。共同"居住地域でまたガス注意報 三宅島、村民マスク着けず"(参照)が興味深い。

 9日午前8時半、伊豆諸島・三宅島(東京都三宅村)南西部の阿古地区で、二酸化硫黄濃度が2・0ppmを超え、三宅村は火山ガス注意報を発令、村民らにガスマスクを着けて室内に入るよう呼び掛けた。1日の避難指示解除後、居住地域での火山ガス注意報は7日に同じ阿古地区で発令されたのに続き2回目。
 阿古地区では7日と同様、ガスマスクを着けずに歩く村民らの姿が見られた。その一方、民家に片付けの手伝いに行く途中だったボランティア6人は、午前10時40分に注意報が解除されるまで、錆ケ浜港の定期船待合所内に避難した。

 皮肉ではなく、ある意味、それは、いわゆるガスとの共存ということでもあるのだろう。そして、釣客もある程度は見込めるのではないだろうか。サンスポの記事"まず島民の生活復旧を…三宅島避難解除から2週間"(参照)を読むとそんな期待も浮かぶ。
 帰島への政策転換の過程を東京新聞"追跡・三宅島災害"(参照)や他の過去ニュースで見ていくと、時系列としては、昨年の今頃行われた村長選挙が大きな節目だったのだろうと思われる。長谷川鴻(参照)前村長は、昨年、体調不良を理由に七月までの任期満了を待たず一月に辞職し、この辞職を受けて出馬を決めた元村復興調整担当課長の平野祐康氏(55)が当選した。もちろん、この村長交代が、帰島の政策転換のためだっただけとは言えないことは、平野新村長の得票状況などからも察せられる。
 平野新村長には今後も大きな課題が課せられていることだろうと思う。それがなにかとは言いづらい思いがあるし、そこを祈りに換えたい気持ちにもなる。

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