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2004.02.28

麻原裁判に思う

 昨日麻原裁判が終わった。予想通りの死刑だった。今朝の新聞各紙は当然これを扱うのだが、社説一本でこれに充てたのは大手では朝日新聞と読売新聞だけであり、他紙は短く扱うにとどめた。判決が予想どおりなので、社説の下書きはすでにできていたと見ていい。が、長短あるにせよ、どれも読むべきほどの内容はなかったと私は思った。しいて言えば、朝日があの時代を総括しなにかを学ぼうという視点を出したのは評価してよいと思う。また、新聞ではないが、日本版ニューズウィークのリチャード・ガードナー上智大学教授「オウム判決で裁かれる日本社会の『罪』」の寄稿も、河野義行と森達也に視点を当てていたが、率直なところ、そういう気取りがいかにも外人臭くてたまらないと思った。
 オウム事件に知はどのように取り組むべきなのか。この問題について言えば、判決が出たといってなにかが変わるわけではない。私に残されたこの問題の意味については、極東ブログ「麻原裁判結審と吉本隆明の最後の思想」(参照)に書いた以上はない。吉本隆明が自分に残す遺産のようなものだ。
 どの社説も触れていなかったが、この裁判で私がどうしても気になることがあった。すでに外堀から埋めていった(弟子たちをぞろぞろと死刑にした)ことで、麻原を世論的には追いつめていったのだが、法学的にこの麻原裁判は正しいのだろうか?ということだ。
 吉本はこの件について、たしか、死刑になんかできるわけないよと言っていたと思う。私もこの裁判(検察)は、法学的に間違っているのではないかと思っていた。やや、やけっぱちな言い方をすると、法学関係者はこの問題にはあえて沈黙するのではないだろうか。嫌なやつらだよな、法学関係っていう感じもする。
 しかし、この問題をとりあえず即刻日垣隆は解いてみせた。これは早晩、なにかのメディアに掲載されるのではないか。いずれにせよ、日垣はたいしたものだと思う。私の理解が違うかもしれないが、彼の説明は興味深かった。少し触れたい。
 と、その前に、私の視点を明確にしておきたい。私は、この裁判の問題は、かつての下山事件などと同様に、キーになるのは証言の信憑性だと考えている。オウム事件でも弟子の証言がポイントになるということだ。
 日垣の説明に簡単に立ち入る。彼の説明によれば、弟子の証言が問題ではないということが、すでに裁判の前提に織り込まれていた。日垣は、この裁判は「共謀共同正犯を認定」する裁判だとまとめている。「刑法60条 二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする」だ。これに、大審院1936年5月28日判決や最高裁1948年11月30日判決が加わる。このあたりの説明自体は、日垣と限らず、法学者のイロハなのだろう。
 裁判上の争点自体は、麻原は共犯かということだ。ここで、当然だよ、とか楽しいツッコミはできない。というのも起訴は「首謀者」としてであって、共犯者ではない。
 日垣は「共謀共同正犯」という考えが極めて日本的であると考察している。それはそれでとても興味深い。彼は、日本は、忖度(そんたく)社会だから、ヤクザなので親分の思いを慮って犯行に及ぶ、と説明する。
 確かに、目上の人の意思を推量することで子分の意義が決まるから日垣の視点は重要でもあるし、率直に言えば、世間常識でもある。会社で出世したけりゃ、上司を忖度すればいい。それができないのは、上司が怖くないとか、上司は馬鹿だなと思っているからだ。
 日垣はこれに次いで、真相解明がだから放棄されたのだとしている。それも正しいだろう。
 さてと、しかし、そう言われても私の疑問は取り残される。多分、少なからぬ人にとってそうなのではないか。
 生活者の実感として、この事件は過剰な忖度によるというのは納得できる。誰か言及しているか知らないが、その意味で、オウム事件は2.26事件とまるっきり同じなのだ。冗談を言うようだが、この事件を止めることができる可能性を持っていたのは小天皇たる麻原自身だ。それをしなかったことを麻原自身がどう捕らえていたかが、オウム事件を理解する上で重要になる。
 まずかなりはっきり言えることだが、麻原は、弟子の暴走を是認していた。しかし、私は、彼は、裁判でいう忖度を是認していたのではなく、麻原は麻原の現実をただ見ていただけなのではないかと思う。彼は、常人には理解しがたいのだが、現実とは彼の意思だと思っていたのだろう。
 彼は、こう考えていたのではないか、「国政選挙に敗れた。どうも我々オウム真理教はサリンで虐殺されることになるだろう。そうだ、サリンのような虐殺は我々だけではなく世界に及ぶ。その死滅した世界こそ肯定すべきものだ」と。そして、弟子達は、その麻原の現実世界=幻想世界、を、実際の現実世界に移し替えることを宗教的な課題にしたのだろう。
 まず、誤解して欲しくないのだが、麻原に罪がないと私は考えているわけではない。
 だが、そう考えると、法的に麻原を首謀者とするのは無理があると思うし、なにより、証言の信憑性は解明を必要としているのではないか。
 繰り返す、私の上のような「読み」なら、「指示」は要らない。そして、実際、指示は証言ということでは、無かったのでないか。
 私たちは、社会や自然に向き合って、意思を持つ。意思とは、この社会と自然を意思に接近させるためのもであり、であるから、前提として、自然・社会は意思と本質的に対立している。そして、通常我々の思惟というものは、この対立を克服する道具となる。
 だが、宗教に顕著なのだが、人間はそうではない思考回路を取りうる。つまり、「私の意思が自然だ」という宗教的な意識だ。これは、どうやら、ある意識の状態で人間のなかに発生するようだ。それが人間の歴史・社会において、個人と自然・社会が向き合う二項のモデルを越えさせる契機となっているように見える。
 自然と同一化した意識にとってまず顕著なのは、人を殺せるようになることだ。なぜか。自然は、育むと同時に殺すからだ。汎神論の神学考察で、どうしても口ごもりになるのはこの点だ。自然が神であるなら、なぜ、彼は、育み殺すのか。しかし、汎神論的な枠組みでは、その殺戮は前提的に肯定されている。そして、この関連から見れば、オウム真理教は奇矯な宗教ではない。
 少し奇妙な理屈になってきたし。この問題は、たぶん、ブログの読者のわずかにしか関心がないだろうからこの程度で切り上げる。率直なところ、私は無意味に自分が誤解されてもやだなという思いもある。
 麻原裁判の問題に戻す。真相は解明されなかった。日本社会は、真相を欲してはいなかったとすら言える。ここで急に話の位相を変える。「と」がかかって聞こえるかもしれない。が、私はオウム事件の真相の大きな一部は村井秀夫暗殺にあるのだろうと考えている。もう少し言う。村井秀夫のトンマな妄想は残酷だがお笑いを誘う。この間抜けな人間に組織化した殺戮のプロジェクトがこなせるとは私は思わない。およそ、ビジネスでプロジェクトを動かした人間ならその背後に、それなりの玉(タマ)が必要なことを知っているものだ。

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2004.02.27

網野善彦の死

 肺癌、享年76歳(参照)。もうそんなお歳だったかと思う。訃報を聞いたとき、心のなかでなにやら、「しまった、しくじった」という思いが湧いた。なにを俺はしくじったのか、と心に問うてみてもよくわからない。奇妙な喪失感がある。
 私は網野史観から影響を、当然、受けた。が、畏れ多いが、ライバル視っていう感じか。父親に対する思いのようなものか。

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異形の王権(新書)
 網野史観が1986年「異形の王権」で論壇に可視になったとき、俺はその歴史の光景は知っているぜ。俺だって山野を歩いて自力でその世界をこじ開けてきたぜと思った。幼い嫉妬心のようなものでもあるが、この世界をこじ開けることが、どのように精神に負担をかけるかはそれなりにわかっていた。世人は網野の結果を受け取ったが、私は網野の見えない努力を信じることができた。なお、できれば「異形の王権」は新書版でないほうを薦めたい。絵に意味があるからだ。
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異形の王権(お薦め)

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日本とは何か
日本の歴史
 「しまった」というこの一つに、網野の最終的な著作がなんだかよくわからないというのがある。論壇的には「異形の王権」ということになるのだろうか。あるいは、概論的にはシリーズの巻頭たる「日本とは何か 日本の歴史」なのか、とも思うが、この本は存外に軽い。軽いという点では三巻にする必要もない岩波新書「日本社会の歴史」も同じだ。網野のこうした概論的な本は金太郎飴的でもある。
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日本の歴史を
よみなおす
 存外に読みやすく面白いのは正続「日本の歴史をよみなおす」だろう。女性論など、今から読めばどってことはないのだろうが、90年代前半には物議を起こしかねた。むしろ、その後の歴史学の女性論や性の問題は、現代思想に引きずられるせいか、糞面白くもない。更級日記すら文献として読むような、感性の枯渇した研究者が小賢しいことをほざいて新書にしてどうするんだ、という感じか。その点、網野は良かった。網野は糞な現代思想などに一度も媚びなかった。網野は古色蒼然たるマルクキストでもあった。遺体は故人の遺志で献体された。
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日本王権論
 死なれてみて、網野著作から一冊だけ選べというなら、対談集というのもなんなのかもしれないが、宮田登と上野千鶴子を交えた「日本王権論」がいいと思う。こんなものがイチオシか言われると網野ファンとしては恥ずかしいのかもしれないが、この対談で網野はいまでもブルーフラッグを振るんだと言っていたのが、泣けるじゃないか。泣けよと思う。この爺にそう言われて泣かないやつに歴史がわかるかよと思う。
 ひどい言い方だがテーマたる天皇制など、どうでもいいと思う。今じゃ魔法使いのお婆さんみたいに干上がった上野千鶴子だが、父親同伴だと、かわいげがあるじゃねーか、ってなこともどうでもいい。網野は宮田登との対談が楽しくて、つい心情を解いたのだ。そういえば、宮田登は早々に死んでしまった。享年63歳。2000年2月のことだ。
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もののけ姫
 二人の対談には「神と資本と女性」「歴史の中で語られてこなかったこと」がある。後者は宮崎駿「もののけ姫」の参考にもなるだろうが、とちとタルイ感はある。余談だが、「もののけ姫」は南方熊楠と熊野の世界がある。
 網野は甲州人である。中沢新一と家系のつながりがあったかと記憶しているのだが、ぐぐってみてもわからない。ま、そんなものぐぐるなってことか。同じく甲州人、林真理子とも関係があったはずだ。甲州人というのは深沢七郎的世界でもある。信州人に近い面も多い。
 かく追悼の思いを書きながら、近年は私は網野自身より、彼が晩年プロデュースした宮本常一のほうに思いが流れて行った。網野がなぜ宮本常一を強調したのかは、私にはわかる。これも恥ずかしい言い方だが、私は網野が見てきたものを見てきたから網野に会えたように、網野が見ようとしたものを見続けたいと思った。
 ふと気になって宮本常一の享年を調べると、73歳(1981)、胃癌。網野より若く死んでいたのかと思う。宮本常一は網野より格段の巨人だった。そう言っても網野は怒るまいと思う。本物のマルキストだけが持つ、強くやさしい笑みを返すのではないか。

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多分、年金問題は問題じゃない(無責任)

 年金の雑談をさらに続ける。また、たるい話かよ、である。すまんな。問題は、年金という看板じゃなくて、その裏にある、若い人たちの国家イメージなんだろなと、昨日なんとなく痛感したという、団塊下のオヤジのボヤキのようなものを書く。
 今朝の新聞社社説としては毎日が「年金改革 先送りすれば信頼を失う」として扱っていた、が内容はない。先送りにしてはいけないというなら、どうしろという話も書くべきだが、そこがスコーンと抜けていた。午後のお茶にもならん。
 昨日の極東ブログ「多分、年金からは逃げられない(無根拠)」(参照)で、正直にいうと、わざとたるい話を書いた。問題の背景には、若い世代と対話しなくてはな、で、俺はどういうスタンスなんだ?という配慮の感覚は、もちろん、ある。46歳だしな。オヤジだしな。
 だが、同時に、そういう自分の側を折るようなスタンスが、この問題にとって重要なのではないかとも思えた。で、なにが重要なのか? という点で、年金より、ああ、国家というもののイメージなんだろうなと思えてきたのだ。
 話の順がよくないのだが、若い世代にしてみると私のような46歳と、それよっか10年くらい上の団塊・全共闘世代と何が違うんだよ、と思うだろう。あれ?宮台なんかも45歳くらいか。ま、彼なんか意図的には、逃げか若作りしたエリート・インテリか、ま、げなげなスタンスも取っているよーだが、いずれにせよ自身の世代的責任(つまり歴史を負う)という意味では、私なんかとはかなり違うのかもしれん。
 で、何が言いたいかというと、私は私で、団塊・全共闘世代が大嫌いなのだ。これは感性的にも徹底してしまっているので、ビートルズとか聞くと吐き気がする。Love&Peaceみたいなメッセージを見ると、STD感染で氏ね、とか思う。が、なにより嫌なのは、国家への従属的な立場と大衆への見捨てかただ。あの時代、ゲバ学生っていうのはエリートだった。で、大半はさっさと国家に組み込まれていった。企業は国家じゃない? 同じだね。しかもエリートらしく同世代の高卒の大衆を見捨てていった。団塊・全共闘世代といわれてもわからんなぁ、芋焼酎くれぇ!みたいなおっさんたちは、そういう世界に慣れていった。私は、こういう社会が反吐が出るなと思った。
 さらに言う。彼らは、国家とは暴力装置だとか、よくぬかすのだ。今なら馬鹿、で終わりだが、彼らのいいところは酒の力で本気になれるところだ。「暴力なんだよぉ」とかといって実際に暴力をふるってくださるところ、すてき。いや、ホントに。しかし、国家の本質は暴力ではない。
 国家は民族幻想(この幻想性はいわゆる幻想じゃない。非常に強固なものだ)による互助組織だし、市民を社会から守る装置だ。この市民を社会から守る装置というのが、どうにも理解されないような気がする。日本は、小社会を積み上げできるた大社会としての国家、というのではない、のだ。日本の社会はかなり陰湿なものだし、いまだにそうだ。フランスのような国家の原理の一つであるフラタニティ(fraternity)が無い。無いからこそ、日本近代は国家愛と国家宗教が必要になったのだろう。いずれにせよ、社会は市民をあっさりと圧殺する、これを、イカンぞ、殺してはいけないと命じるのが国家なのだ。が、日本はそういう国家ではない。社会向けに統制された国家の暴力であるはずの警察は機能しない。オウム真理教事件で批判されるべきは警察なのだが、そうもならない。日本には、市民を守る国家には未来永劫ならないのかもしれない。
 だが、名目上はそれでも国家は市民を守る。近代国家とはそういうものだから。と、このあたりで話を年金に戻そう。
 金銭のない日本人の老人がいたら、日本国家はこの老人を守らなくてならない。若者=社会が、俺は知らねーよ、と言っても、国家はこの社会(を排除して若者を蹴散らして)権力を介して、老人を守らなくてはならない。それが年金という形であらわれた国家の意思だ。
 つまり、私は、年金っていうのは、経済範疇の問題じゃねーよと言いたいのだ。そんなの回りくどく言うなよだが、私は若い世代を説得したいわけでもない。説得なり啓蒙なりは無理ではないか。そりゃ無理だな、と現状を認識するのが思想というもの立場ではないか。
 昨日、年金問題なんてテクニカルには税方式か所得比例方式だよ、と書いた。私は所得比例方式がいいとも書いた。しかし、考えてみると、官僚が国民皆税申告制にするわけもないのだから、この方式は頓挫する。
 だとすると、曖昧な形で国家の名目を取り繕うなら税方式化、あるいは部分的に税方式化するしかない。つまり、国民が音をあげない程度に増税するということだ。もっとも、そんなことするより、日本の景気を高めれば、経済面での年金問題がかなり解決するのだが、官僚連?はそうする気はないようだ。
 つまり、若い人が、年金なんか払いたくねー、ということが、システマティックに、増税となる。税金なんて払うのはヤダとか言えるのは、わずかな人なので、普通はぐうの音も出ない。このシステムなら若者をうだうだ言わせず絞りあげることができる(内税で価格に反映してもいいしな)。
 正確に言うと、若者を絞るのではなく、その親である団塊世代を絞るのだ。どうせ彼らを優遇しているのだから、少し絞ってもOKという読みである。
 こうしてみると、「若者ってのは馬鹿なものよのう」である。自分がかつて同じような馬鹿であったことを私は忘れてしまったので、そう言う(洒落だよ洒落)。
 で、結論。ようは、年金が大問題だとかいうけど、上のような落としどころ、ってのがすでにできているのだ。
 その意味で、極東ブログお得意の「どうでもええやん」になりそうだが、それだけ言うとおふざけすぎる。もっと積極的に年金問題なんて議論するだけ無駄よーんとは言ってみたい気がするが…が、まだ、ちょっとためらうな、国民年金未払の若者より、無責任な態度としての思想を表明すってのは、アリなのかと、まだためらう。

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観光立国日本をグローバル化しないとね

 麻原裁判を控え、今日のような隙間の日の社説が意外によい視点を提供することがあるようだ。各紙それなりに面白い話題だった。なかでも気になったのは毎日新聞社説「観光立国1年 外国人客を阻む閉鎖体質」だった。日本が昨年観光立国の看板を再び掲げたものの効果が上がっていない、という話がまずテーマとされている。毎日は問題点の半分はビザだという。


 なぜ日本に海外からの観光客が少ないのか。特に中国など近場の国から来ないのか。その答えの半分は分かっている。彼らが日本に入国するためのビザ(査証)を取るのが至難の業だからだ。
 ビザさえ取れれば日本への観光の5割は終わったようなものだと言っても過言ではあるまい。

 そう言われてみると、ビザが問題というのは、自分の過去の知人の話などを思い返しても、それほど頓珍漢な答えでもないような気がする。
 具体的にビザが問題になるのとして毎日が列挙しているのは、意外に少数の国であるのも面白い。

 中国ほどではないが観光希望者が多いにもかかわらずビザなどの障壁を設けているのは韓国、台湾、香港などからの入国だ。このうち香港はようやく4月からノービザになるが、これだけの措置で日本への観光客がざっと3割増と予測されているほど効果は大きい。

 この数年私も引きこもりぎみなので知らなかったのだが、韓国・台湾がまだビザだったのか。と書いてみて、どちらも、単に緩和という問題でもないなとも思い出した。韓国のほうについては事情に詳しくない私などがコメントしても失当するが、台湾のほうがけっこう政治絡みがあることはある程度知っている。
 私は以前沖縄に長く暮らしていたので、沖縄を訪れる台湾人客もよく見かけた。沖縄自体、あまり知られていないが台湾人ソサエティがある。余談にそれるが、秘密にしているわけでもないが、あのソサエティはあまりおもてには出ない。だが、面白い生息をしている。私が高級な中国茶を茶商から買うときに知ったのだが、高級茶には店頭にない別ルートがあるようだ。ほぉと驚いたものだ。ヤクの売買ルートとは違うが、高級中国茶など店頭に置いても売れないので、理解できるソサエティにだけ流通している。しかもそれが、どうやら華人ネットワークとつながっているようなのだ。私の見当違いかもしれないのだが。ついでに言えば、沖縄への中国密航者は台湾観光客を装っておおっぴらに国際通りなどを闊歩していることがある。通報するかしないかは、華人ソサイティに依存しているのではないか。
 沖縄も一応日本なので台湾客はビザが必要になる。が、客船だと不要になるらしく、沖縄でそうした客も見かけたものだ。また、私自身台湾に行って現地の人に話をきくと、彼らは本島より石垣とかにするっと行きたいらしい。が、そのルートは政治的に閉ざされている。の、わりに物流には変な抜け道がある。これには2.28事件などの歴史も関係しているようだ。
 話がそれたが、毎日がビザが問題と強調しているわりには、その視点はようするに韓国と台湾ということだとすると、話の筋が違うようにも思う。
 一般的なビザの問題でいうと、発行手順を簡略化すればいいのでないかと思う。これは私の経験なのだが、カイロ空港で乗り継ぎを失して困ったときのことだが、空港の人に相談したら、ビザを取れという。ビザが簡単に取れた。観光やホテルの手配も簡単にできた。ほぉと思った。もっともこの方法はエジプト人の気質を知っている人にしかお勧めはできない。いずれにせよ、ビザなんてものはすぐに発行してもいいのだ。とすると、日本でも相手国からその人の認証情報のようなものをもう少ししっかりして、ビザをその場で出すようにすればいいのではないか。
 話を一般的な観光に戻す。最近では少なくなったが、よく外人に日本滞在について相談をもちこまれた。が困るのだ。困るのは日本のステイの料金が国際的にお話にならない高さだからだ。ビジネスなら会社持ちでいいのだろうが、個人で若者がやってくるときなら、せいぜい一泊30ドルがグローバルな相場だろうと思う。それが日本にはない。バリに言ったときチャンディダサに数日ステイしたのが、コテージが一泊20ドルくらい。ああいうものが沖縄にあるといいと、機会あるごとに関係者に話したのだが、通じない。まぁ、そんなビンボ人の外人を日本に寄せてどうかと思うかもしれないが、各国の若い人間に日本を見てもらうことはいいことだと思う。これも自分の体験だが、アテネの路上で飯くっているラテン系の若者がいたのでどっから来たと聞いたら、チリと言っていた。少し話をした。ああいう気安さが東京にあればなと思った。
 経験からもう少し提言。実際にはビンボ外人たちは東京のステイのノウハウをよく知っている。ネットワークもある。私自身は現在そのネットワークにもうつながってないのだが、ああいうネットワークにNPOがうまく結合できればいいのではないかと思う。沖縄にいたとき、ドイツの少女だったが、日本に来たいという話があり、現地のNPO的な団体に打診したら、ホームステイが可能になった。そういう国の開き方は、もっとできないものかと思う。日本人もよい経験になるのだし。

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2004.02.26

多分、年金からは逃げられない(無根拠)

 さらに年金。さらにたるい雑談。らしたさんから疑問を投げかけられ、それがなにか自分の心のぼんやりとした部分につきあたる。疑問はこうだ。


すごい単純な疑問なんですが、日本の年金制度がいろいろな側面から見て破綻しているというのは明らかだとおもうのですが、なぜ政府はその「制度」を維持しようと必死なのでしょうか?

 なるほどなと思う。そりゃそうだと思う。以下、すまん、たるい話になる。
 なるほど、年金制度が破綻しているというのはそのとおり、としていい。が、名目は破綻できない。国家というのはとりあえずそういうものだ。互助組織でもある。すると、このままだと弥縫策に次ぐ弥縫策ということになり、結局年金受給は今の40代だと70歳くらいになる。私は70歳まで生きられないだろうなとも思うので、そう思うと年金なんてものは空しい。今の30代、20代にしてみれば、70歳と言われても、関係ねーよ、だろう。
 統計的かつ科学的に見るなら、ちょっと変な絵を描くことはできる。男性の平均寿命は80歳、女性は85歳くらい。すると、その破綻したような年金の受給から死ぬまで男で10年、女で15年、ある。その間、この老人をどうやって喰わせるか。想像しようにもまるでピンとこない。自分の80歳という像が見えない。想像力不足なのだと思う。
 現在日本では少子化と晩婚化・未婚化がものすごい勢いで進んでいるので、例えば、現在30歳の人間が50年後どういう80歳になるのか。まるで想像がつかない。モデルもない(そういえば、モデル世帯について極東ブログで考察しようとして宿題のままだったが、この宿題もまた延期)。半数は生涯独身ではないだろうか。身寄りのない爺婆が日本に溢れるようになるが、日本はかなり縮退している。現状から推測するとその年代で、身体的に自立している日本人は少ない。膨大な介護が必要になる。
 それ以前に60歳から70歳の支給まで、働くことができるか。現状の日本から類推するにその大半の人間に仕事はない。年金もなし。とはいえ文明は進歩しているから、実際には喰うに困らず、医療も現在の途上国よりはいいに違いない。そうばたばた死ぬわけでもない。
 私はおふざけを書いているのか? そんなつもりは毛頭ない。どうしたらいいのか?というとそれは基本的には連帯の再構築しかない。まずは、家族の可能な形での再構築であり、友情だろう。しかし、その話は今は触れない。
 話を戻して、なぜ国は年金を維持しようとしているのか。私はこの疑問に自動的に「それが国というものだから」と答えるのだが、なぜそう答えるのか、自分に再度問うてもよくわからない。そして気が付くのだが、いつからか、私は、日本という国から逃げなくなっているようだ。あれ?なぜだ?と自分に問いかけてしまった。
 私事めくが、私は20代に比較的外人の多い環境に置かれた機会も多かったせいもあり、米国人になるとも思わないが、いつか日本人をやめてもいいなと思っていた。そういえば、周りに国籍選択で悩む者も少なからずいた。いつから、日本を逃げちゃえ、と思わなくなったのだろう?
 いや、最近でも、晩年はオーストラリアに移民しようかなとか考えることがある。どうも自分が矛盾していることに気が付く。話も混乱してきた。
 むしろ、若い世代、特に国民年金未払いの人に聞いてみたい。「年金から逃げられると思ってる?」である。そう思っているのではないか。
 私自身、若い時、年金は面倒臭いし、家にもいつかないので、親に代わりさせていたような時期がある。が、逃げられると思っていたかというと、よくわからない。そう思うと、今の若い世代も、私の若いときと同じようなものだろう。私は国民年金不払いの若者を批判できる立場にまるでないと思う。
 だが、国民年金は建前上は、国民年金法、督促及び滞納処分についての第96条を読むかぎり、義務としか理解できない。
 つまらない結論でもあるのだが、若い世代で国民年金未払いというのは、「こんな制度すでに破綻しているじゃん、俺(私)の未払いなんていつか逃げられる」と考えているということだろう。
 恥ずかしい話だが、その問題に、どうも私はうまく答えられない。らしたさんの疑問にもまるで答えになっていない。が、それでも、制度がいくら破綻して見えても国家があるかぎり名目的には年金は破綻しないし、逃げることはできないはずだ、と思う(全然説得力ないが)。
 たぶん、「年金なんか払わなくていいXデー」とか、「結婚するXデー」とか、そういう「未来」を、若い世代は30代にまで持ち込んできている。それが、40代にまで持ち込めるものだろうか。あと5年もすれば、なにか世相が変わるだろう。ちなみに同質のXデーはまず皇室に象徴的に現れるだろうから、象徴的に社会問題になるに違いない。たぶん、世継ぎのオノコは生まれない。サーヤは現代版斎宮かな。非難しているわけではない。茶化しているわけでもない。日本が変わるのだ。
 私はそういう若い人を含んだ日本の世相の変化を見物していようと思う。単純に興味がある。どうも、倫理的・道徳的にはなにも言えそうにないのだから。「いつまで子供でいられるかやりたきゃ、やっていてごらん」という感じもする(ちなみに私はそういう意味の子供をやめてしまった)。
 余談だが、「作家」の日垣隆はたしか国民年金不払いを宣言していたと記憶しているが、逃げおおせるのだろうか。年金ではないが税関連で西原理恵子も笑いを取っている。経理が終われば脱税ではない。でもなぁ笑っていい問題かなとも思う。

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国内製薬会社再編成がようやく始まる

 今朝の新聞各紙社説はどれもヤフーBBの個人情報漏問題を扱っていたが、面白い視点はなかった。この話の関連は昨日「個人情報漏洩雑談」(参照)で書いたので繰り返さない。少し極東ブログの視点を強調すれば、固定IP化とCookieのトレーサビリティ、さらにアクセスログ集積がより実質的にかつ深刻な個人情報漏洩になりつつある。だが、社説執筆者たちにこの問題は理解させることはむずかしい。
 今朝の話題としては、日経新聞社説「大型医薬再編を加速させよ」が面白かった。結論としての、標題どおりのメッセージは違うのではないかと思うが(そうしても外資に太刀打ちできないから)、社説としてはよく書けていた。冒頭をひく。


 国内製薬会社3位の山之内製薬と同5位の藤沢薬品工業が来年4月に合併する。両社はすでに大衆薬事業の統合を昨年10月に発表していたが、国際競争の激化の中で本体の完全な合併に踏み切った。合併して誕生する新会社は連結売上高で9000億円に迫り国内業界トップの武田薬品工業に次ぐ2位になる。
 しかし、これでも世界の業界地図を見るとベストテンにも入らず、トップの米ファイザーと比べると7分の1の規模でしかない。しかも世界の医薬業界は、新薬の研究開発費が巨額になるのに対応して、このところ90年代前半に続く第2のM&A期に突入した。昨年ファイザーが米ファルマシアを買収してさらに巨大化し、今年に入っても世界13位の仏サノフィ・サンテラボが4位の独仏系アベンティスに6兆円を超える金額での買収攻勢をかけている。この買収の帰すうはともかく、再編の連鎖反応が世界的に進みそうだ。

 嘘はないのだが、背景を知らないとM&Aの嵐は一昨年前に起こったかのような印象を受ける。が、この動向は1999年あたりから進行している。むしろ、この間、国内製薬メーカーの安閑としているように見えるのが不思議なくらいだった。国内でのM&Aの動向は、ある意味、日本が経済停滞を脱出した兆候なのだろう。
 社説でも強調されているが、国内トップの武田ですら世界ランキングは低い。余談だが、武田は90年代アスコルビン酸市場の寡占化などでしょーもない利益を上げていたのはむしろ苦々しい感じする。
 M&A激化の理由は日経がいうように、開発費の問題でもあるのだが、市場のグローバル化も背景にある。なにより、国内市場は八兆円なので、とても「おいしい」。外資が目をつけないわけはない。また余談だが、ファーマシューティカルズの概念がなく粗雑にサプリメントと呼ばれている日本市場もおそらく将来的には一兆円から二兆円規模はあるだろう。粗雑に概算するのはこの市場が特定されないからだ。この問題も大きく、国内に専門家が存在しない。外資はすでに厚労省に攻撃をかけている。
 日経社説を全部引用するわけにもいかないのだが、この社説では明確にはTOB(株式公開買付け)について触れていなかった。片手落ちという言葉は禁忌のようだが、なぜお茶を濁しているのだろうか。製薬会社のTOBといえば、エスエス製薬が思い浮かぶ。ヤフーのファナンスをひくと、「【特色】大衆薬2位。ドリンク剤に強い。医療用にも展開。TOBで独ベーリンガーの傘下に」(参照)とある。歴史好きの人は参照として「日本ベーリンガーインゲルハイム」(参照)も見ておくといいだろう。
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メルクマニュアル
 こうした状況はかならずしも日本の市民に不利益でもない。なにより、国内だけしか流通しないしょーもない医薬品が減り、医薬品がグローバルスタンダードになることはよいことだ。MR(Medical Representative)のありかたもグローバルになる。ついでに些細な例だが、万有はメルクの完全子会社化される前からメルクマニュアルはネットで公開されていた(参照)。外資のほうが情報公開に積極的なので、市民にとって基調な情報源が増える。例えば、故小渕総理の処置が間違っていたことなどメルクをひくだけでわかる。
 と書いてみるとこの問題は錯綜していきそうだし、また私のクセとしてジェネリック薬の話でも書きたくなるので、結語もなく適当に切り上げたい。が、余談めくが、結語の代わりに、薬剤系の外資はとても慎重だという印象を受けるということを書き添えたい。
 ファイザーのバイアグラなども解禁され、一時期市場を広めようとしたが最近はそうでもないようすを受ける。低容量ピルなども売る気がなさげに見える。こうしたある種の日本社会の文化との、結果的な調整は、日本の医療体制が自動的に行っているのか、日本市民に医療知識がないためなのか。その双方でもあるのだろうが、劇的な変化が生じない。健康エコナのトランス脂肪酸含有量などもさして議論されない(それほどひどくはないのが幸い)。今後もそう劇的には変わらないのではないか。こうした日本社会の保守性はそう悪いものでもないだろう(が、個々人の選択は少ない)。

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2004.02.25

個人情報漏洩雑談

 ヤフーBBの契約者情報流出の問題が、なんとなくピンとこない(参照)。無防備に率直な印象を言うと「孫さんのところだからなぁ」である。そういう言い方は誹謗に聞こえるかもしれないが、そんな意図はない。自分としては、そんなものだよなというだけの感じである。その感じをもう一歩踏み込んで考えてみようと思うのだが、なんだかぼんやりした感じがする。そして、「ああ、この問題っていうのは世間ではセキュリティだの右翼だのという物語で理解されているのかな」と思う。そういう話も、実はちょっとついていけない。
 この件で、切込隊長BLOG(参照)が面白いといえば面白かった。90万件もの解約者がいるのだろうとしてこう言う。


 この数字は驚くべきだ。つーか、解約率高すぎ。インフラビジネスの基本から言って、携帯電話も含めたキャリアクロスはせいぜい年率でいって4%とかその辺のはずだ。累積で20%近い解約者を出しているというのはなんぼがなんぼでも酷すぎる。

 私にはビジネスセンスがないので、通常の解約率の感覚が働かない。だが、街中で見かけるヤフーBBの人々を見ながら、このビジネスが成り立つのは、解約しづらいっていう日本人的な心性を逆手にしているからだなという印象は持っていた。むしろ、みなさんちゃんと解約してよかったねという感じもしないではない。という言い方にすでにくぐもっているのだが、こういうビジネス攻勢のしかたはある意味に日本的ではないとも言えるし、日本をよく知っているとも言えるという点で、またしても、孫さんが思い浮かぶ。
 私は、そういいつつ、孫さんが嫌いではない。ADSLのアネックス関連の英文の仕様をちと仕事がらみで読んだことがあるが、これは孫さんふうに押してもいいのかもしれないとも思ったものだ。いや、率直言えば、電話網というコモンキャリアさえしっかりすれば、他の通信路など乱戦でいいじゃないかというやけっぱちな感じでもある。
 話を戻す。今回の事件でもう一点、ぼんやりとした感じがするのは、その個人情報ってなんだ?ということだ。自分もこうしてネットにつながっているということは、末端のプロバイダなり企業なりにぶら下がっているのだが、それにあたってはなんらかの契約がある。ヤフーBBでもそうした契約内容が漏れた、と類推する。で、困るのはなんだろう?
 クレジット番号? 私はすでにクレジット番号をハッキングされたことがある。やられたのは私の落ち度ではなく、恐らく通販などで使っていた米国の企業だ。ハックしたやつらはロシア人だった。被害がほぼなくて済んだのはクレジット会社の人的な機転だった。不思議といえば不思議だったのが、私はどうすればよかったのか? 対処はない。せいぜい、通販にクレジットカードを使うな、くらいだろう。しかし、通販経路でハックされたわけでもなく、このハッキングは、詳細は忘れたが、米国ではかなりの事件だった。やや例外かもしれない。いずれにせよ、クレジットカード情報は、やる気になら飲み屋でも漏れる。
 と言って、個人情報漏洩なんてたいしたことはないと言いたいわけではない。むしろ、たいしたことない情報の漏洩がネットや電子媒体で累積していくうちに、その検索性の良さという点から、なにかができつつあるなという気がする。
 昨日、このブログにスパムを打ち込んだ厨房がいた。JavaScriptは切っていたので、確信犯なのだろうが、あまり手は込んでいなかった。ふと、この手の厨房についてのTypePadのヘルプでも書こうかなとちょっと思った。まだそんなニーズはないだろう。今後は増えるだろうか。トラックバックなども実はMT仕様さえ守ればどっからでも打てるのでスパムになる。すでに極東ブログのトラバの一部はそれ臭い。一般的にIPの検知自体はJavaScriptなんかなくてもWebビーコンとか作れば簡単にできる。が、当方Webビーコン風のものはまだ設置していない。する気も当面ない。ログを見るのも面倒くせえという感じだ。とはいえ、私はこのサイトではリファラは取っている。どっかのサイトで晒しとか加熱した話題になるのは嫌だなとか、人は何に関心があるのだろうとか、思うからだ。
 でIPについてだが、そんなの串で偽装できるともいえるし、偽装するなら多段串にするかもしれない。が、そこまでするのかなと思う。そこまでやられたらめんどくさい(手間暇かけて追いつめるしかない)。IPさえ割れれば、逆探知的な情報収集はかなり楽になってきた。これにCookieに仕込まれたGUID的なキーがわかれば、ほとんど特定人物のプロファイリングは終わりだ。
 情報化とは変な世界だなと思う。私についてもすでに大量の情報がすでに漏れている。と、ここで思うのだが、なにより大量な情報はこの極東ブログであるはずなのに、おそらく、それは他者に意味のある情報ではない。私にとって意味を持たせたい情報は、情報として意味がなく、私を社会のなかでピン留めする情報が、私のメタ情報としての意味がある。個人情報というのはそういう機能(社会に固定し自由を奪う)をもった情報なのだ。

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年金雑話

 また、年金の話というのも芸がないのだが、産経新聞社説「年金改革 参院選挙の道具にするな」を読みながら、なんだかわざと話を難しくしているなと思った。もやっとした感じがするので、関連して少しメモ書きしておきたい。きっかけとなった産経社説の主張は標題どおりである。なお、さすがに今回は世代間の不公平や、年金族の無駄遣いなどの話は除く。


 年金改革法案が与野党の駆け引きに使われている。参院選を控え、国民に痛みを求める法案に及び腰の自民党と、徹底的に反対して強行採決させ、票を稼ぎたい野党の思惑が絡み合っているからだ。

 なんでも政局絡みにする思考法なのだ。
 ところで、この野党は民主党のことだろう。私は民主党の年金改革案は大筋で正しいと思うので、政治的に争ってなにが悪いのかと思う。しかも国会の盲腸、参院だ。
 産経の主張は結局、与党案をなし崩し的に是認させようとするだけだ。産経はそんなに創価学会寄りだったのか少し奇妙に思える。
 年金改革は、すごく単純に言えば、すべて税負担による税方式か、最低保障は決めておくものの所得に応じて払う所得比例方式の2つしかない。あるいは、現在検討されているように曖昧な折衷案になる。率直に言って、あまり議論の余地はない。
 しかも、仮に税方式ですべて年金は国の保障によるとしても、実際には民間の年金がそれに上乗せになるのだから、社会的には所得比例方式に近くなる。
 さらにそうなる結果を見越せば、税負担は軽減されなくてはならないのだから、国の保障は最小限になるだろう。税方式を選択しても所得比例方式に近くなる。
 そう考えるなら、実質的な意味で年金らしい年金というなら、すでにスウェーデンで実施された改革のように所得比例方式にするのがいいのだろう。
 それがすんなりと日本でいかないのは、これも端的に言えば、国民の所得の把握が難しいからということなのだろう。
 しかし、これも考えてみればむちゃくちゃな話だ。米国などサラリーマンもきちんと税申告をしている。日本は行政のIT化とか言っているが、実際面で個人の税申告をサポートしないのでほとんど無意味だ。
 つまらない結論なのだが、日本という国は、産業部門の発展に力を入れる代わりにその富みを配分するサラリーマンから自動的にお金を吸い上げるシステムを作った。これは日本の行政にとっても都合がいい。行政自体がいわばサラリーマンみたいなものだ。反面、自営業者はそのシステムのあぶれものだから、実質的なお目こぼしがあったといことだろう。国民年金が事実上補填されるのもそうした原理によるのだろう。
 この根幹を改革すれば(米国のように各人の申告に変えれば)、当然、日本国民に納税者意識が高まる。行政としては、それが一番嫌なのだろうなと思う。
 と、つまんない話になってしまったが、現実性はない。野口悠紀夫が提言するようにサラリーマンが個人企業になれば面白いのだが、そういう社会にはならない。「13歳のハローワーク」より「17歳の確定申告」という本が売れなくては話にならない。
 余談だが、フリーター諸君は確定申告しているのだろうか。しているなら、できるだけ、きちんとやるようにしたほうがいいことだけは確かだ。

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国連アナン事務総長参院演説

 今朝の各紙社説は国連アナン事務総長による参院本会議場演説を取り上げていた。が、この話は、対米追従という国内外の批判をかわすための政府の目論見という程度でどういうことではない。極東ブログの文脈で言うなら、米国主導の有志連合として派遣されたはずの自衛隊が国連認可となることで、表向き有志連合の思惑から逸脱するので好ましい。
 もっともこの動向の変化自体は米国主導だったので、日本がなにかするべき選択でもなかった。また、日本の世論は国連賛美の傾向が強いが、極東ブログ「イラク混乱中の国連事務所爆破テロ」(参照)で扱ったように、昨年八月デメロ国連特別代表らが殺された国連事務所爆弾テロ事件では、国連側に米軍軽視があったと見ていいのではないかと思う。あるいは、この非は事実上国連を見殺しにした仏独にもあるという印象も持つ。
 余談めくが国連については、これも極東ブログ「日本はいまだ国連の『敵』である」(参照)で触れたように、日本は国連の敵国となっているままであり、今回のアナン来日では、この条項が修正される気配がないことがほぼ確認された。この件については、極東ブログでは小沢一郎構想のように常備国連軍に参加すればいいのだと主張した。奇矯な主張のように受け取られる向きもあるが、ドイツが自国軍とNATO軍を持つことのように普通に受け止めることができるように思う。
 アナンが今回、日本政府をここまで支援したのは、日本人が勘違いしているように思うのだが、自衛隊への期待ではない。この点については極東ブログ「イラク派兵はしなくてもいいのかもしれない」(参照)で触れたように、日本の派兵は規模が小さすぎる。当初は米国追従のシンボルでしかなかった。国連が側の期待は端的にお金だ。それと、国連の対米戦略に日本を引きつける意味もあるだろう。
 イラクに対するアナンの動向だが、直接選挙を延期させるという点でシーア派シスタニと妥協点を探るなど、よくやっていると評価していいだろう。この点、イラク選挙が遅れることを問題視する意見も見られるが見当違いだ。もっとも、妥協のそぶりを見せるシスタニとしても米国の影響力の弱体化を狙っているにすぎないとも言える。このあたりは、当面綱渡りの状況が続くだろう。
 隠された問題の極は当然米国だ。そして、いよいよ大統領選挙が問題に強く絡み出した。反ブッシュというだけの単純な反応で米国でのケリー旋風に浮かれる向きが日本にも多いのだが、ケリーはまったくといってほどイラク政策を語っていない。私の印象を言えば、こいつは木偶の坊か?である。現状を見る限り、一度懲りたブッシュのほうが米国の統治はまだマシかもしれない。

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2004.02.24

陀羅尼助(だらにすけ)・百草丸・リローラ

 胃腸の調子が悪いものが身近にいたので、陀羅尼助(だらにすけ)でも飲むかと言ったところ、陀羅尼助ってなんだということになった。そうかと思った。それほど有名でもないのかもしれない。確かに、今時、陀羅尼助を飲むやつなんかいないか。
 辞書をひいてみると、広辞苑と大辞林には載っていた。広辞苑にはこうある。


もと陀羅尼を誦する時、睡魔を防ぐために僧侶が口に含んだ苦味薬。ミカン科のキハダの生皮やリンドウ科のセンブリの根などを煮つめて作る黒い塊。苦味が強く腹痛薬に用いる。吉野・大峰・高野山などで製造。だらすけ。

 ちょっとわかりづらい。大辞林はこうだ。

〔僧が「陀羅尼」を唱える時、眠気を防ぐために口に含んだことによるという〕キハダの皮やセンブリの根を煮つめてあめのように固めた、黒くてにがい薬。腹痛などに効く。奈良県の吉野大峯の洞川(ドロカワ)製を良薬とする。

 「吉野大峯の洞川製を良薬とする」というのがおかしい。なんでだろう。余談だが、以前仕事の同僚が大辞林編集に人生をかけた人の知人だったらしく、いろいろ裏話を聞いたものだが、なにか思い入れがあるのだろうか。いや、単に「洞川製を良薬とする」ということは古典常識だよと諭したかったのだろうか。
 ネットをひいてみると、洞川製といっても奈良県吉野郡天川村洞川にはいくつか老舗があるようだ。ネットからは「銭谷小角堂」というのが、ドメイン名からして目立つ(参照)。名前からして小角の伝説が語られているのだが、小角については今回は立ち入るのはやめておこう。
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死者の書・身毒丸
 私は陀羅尼助というと、奈良の当麻寺に詣でるたびになんとなく買っている。面白い時代になったもので、ネットでも購入できるようだ(参照)。当麻寺にホームページがあること自体面白い。当麻曼陀羅もネットで拝見できるが、こういうものは現物を見に行くほうがいい(なお、拝観できるのはレプリカで、現物自体は拝観できない)。当麻寺では曼陀羅の画像も販売している。私は折口信夫に傾倒した時期があり、池田弥三郎注を越える注を付け「死者の書」を現代語訳したいと思ってすらいた。死者の書は当麻寺の中将姫の物語でもある。
 当麻寺の陀羅尼助についての解説は、先の当麻寺のサイトでも見ることができる(参照)。まぁ、どれを見ても成分などは同じで、基本はキハダ、つまり、黄檗になる。
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フジイ陀羅尼助丸
 黄檗(黄柏)は、漢方材の一つ。アルカロイドであるベルベリンを含む。中国の禅宗黄檗宗の由来にもなるくらいなので中国にも多い生薬なのだが、古典的な漢方である傷寒論の主要な処方では見あたらない。有名なのは、黄連解毒湯だが、半夏白朮天麻湯、荊芥連翹湯にも含まれている。が、いずれも、中成医薬に近い。むしろ黄檗は和薬と見ていいだろう。日本人は千五百年は利用し続けていた。何に効くかといえば、とりあえずはベルベリンの抗菌作用(グラム陽性・陰性菌・淋菌へ)だが、収斂剤として、健胃・整腸にも利用されてきた。単純に言えば、万能薬と言っていいだろう。
 この黄檗が日本近代では、クレオソートと配合され、「正露丸」ができる。余談だが、「正露丸」は歴史的には「征露丸」である(参照)。日露戦争に勝ったことを記念して命名されたものだ。「正露丸」に変わったのは第二次世界大戦後であろうか。テレビのCMなどで「ラッパのマークの」とあるのは、そうでないマークの正露丸もあるためだ。ちなみに、大幸製薬の成分はこうである。

正露丸 9粒、成人の1日最大服用量、中
日局クレオソート…400mg
日局オウバク末…300mg
日局アセンヤク末…200mg
日局カンゾウ末…150mg
陳皮末…300mg

 余談だが、なぜ「ラッパのマーク」かということも解説が必要な時代になってしまった。ネットを引くと誤解も多い。ラッパといえば、死ぬまでラッパを話さなかった木口小平(キグチコヘイ)である。彼が亡くなったのは日露戦争ではなく日清戦争とされているが、おそらく伝説であろう。
 関西の薬屋でよく見かけるのは、藤井利三郎薬房のもので、本店の蛙も見たことがあるが面白い(参照)。この成分は次のようになっている。

一日量(60粒中)
オウバク軟稠エキス…1000mg
日局 ゲンノショウコ末…1000mg
延命草末…570mg
日局 ゲンチアナ末…500mg
日局 センブリ末…30mg

 成分中、ゲンチアナは、フランス料理好きならご存じかもしれないが、苦みのアペリティブSuzeの苦み成分である。Suzeについては触れないが、これはなかなかうまいので、お試しあれ。
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御岳百草丸
 私はこの陀羅尼助を愛用していたかというと、そこはそれ、ディアスポラの信州人である。百草丸を好んでいた。気分が悪いときなど、仁丹のように舐めていると、その苦みに癒される。百草丸もまた黄檗主体の和薬である。百草丸にもいくつかブランドがあるが、私が好んだのは長野県製薬御岳百草丸である(参照)。長野県製薬にもホームページがあり、百草丸の歴史が書かれていて面白い(参照)。いや、まったく面白い時代になったものだ。

修験者の間で脈々と受け継がれたオウバクエキス薬は大和国では「だらにすけ」として、そして後に高野山では空海の教え「大師だらに錠」として、また御嶽には覚明、普寛両行者の教え「百草」として伝わる事となる。当然の事ながらその製法は漢方にない日本独自のものである。

 成分は黄檗主体だが、やや違う。

60粒、成人の1日服用量、中
オウバクエキス…800mg
コウボク末…700mg
ゲンノショウコ末…500mg
ビャクジュツ末…500mg
センブリ末…35mg

 こうして改めて成分を見るといろいろ考えさせられる。ふと思い出したのだが、天武天皇が晩年病気になるとき、確か日本書紀では白朮(ビャクジュツ)が献上されていたはずだ。天武天皇は信州文化と奇妙に関係が深い。
 そして、あれっと思ったのだが、厚朴がこんなに多いのかということだ。これでは、黄檗と厚朴の製剤といっていいほどだ、というあたりで、奇妙なことを思い出した。これって、Reloraではないか。
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リローラ
 Reloraは一昨年前あたりから、アメリカで多少ブームになっているダイエット薬である。甘味欲求を減らしストレスを軽減させることで痩せるというのだ。もっとも、それは効能ではなく噂のようでもあるが、販売元では小規模な臨床実験をしていて(参照)、それなりの効果があったという。日本でも輸入品で販売されているようだ。サプリンクスというショップからひく(参照)。

ストレスからの過食予防ハーブ!
リローラは、ミカン科キハダとモクレン科ホウノキから抽出された成分を合わせて配合した商品です。ストレスから来る、過食に対して非常に効果があるという事で、アメリカ国内でも注目をされている新成分です。ストレスホルモンのコルチゾールを減らすことも分かっており、リラックス効果とストレスによる過食を抑え、まさにストレスの多い現代人向けのサプリメントです。

 成分はどうやら、黄檗と厚朴の配合らしい。配合比が特許らしいのだが、基本的にこの配合でなんらかの効果があるというなら、百草丸でも効きそうな気がする。
 とま、健康情報にガセ話を流布してもなんなのでこのくらいにするが、こんなものが特許サプリメントというのは、日本の百草丸を考慮すると、イカンのではないかとも思う。ところで、百草丸で痩せた、ストレスが軽減したという人がいたら、教えてほしい。私も使っているが、特にどってことはない。肥満でもないからか。

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近況・広告・スパム

 今朝の新聞各紙社説には自分としては取り上げるべき話題はなかった。しいていうと産経新聞社説「女児連れ去り 警察への信頼崩す犯罪だ」だが、これはそんなに騒ぐ事件なのかという点で気にはなる。が、警察官とはいえ、勤務時の行為ではなかったので、普通の市民と同様に扱われればいいだろう。世間的に言えば、「この人ロリ?ペド?」といったところかもしれないが、例えそうであっても警察官に相応しくないというわけでもないだろう。
 というわけで、まったくの雑談、極東ブログの近況を書く。二点ある。
 一点目は、ご覧とおり広告を入れたこと。GoogleのAdSenseだ。てらいでいうのではないが、広告を効果を期待しているわけではなく、実験的な意味でもあるし、私は、世間に流されるを良しとしているので、やってみるかという感じだ。もちろん、一番ちっこいのにした。
 今朝付けたのだが、配信される広告がけっこう面白い。自分でクリックしてみたいのだが、オーナーがやるのは問題があるらしい。クリック回数によってキックバックがあるからだら。
 AdSense内容はWebページの内容をGoogleが解析して選ぶらしい。きちんと選んだ広告というのはある種、トラックバックような意味も出てくるだろう。つまり、これは案外有益なものになる可能性があるのかもしれない、と思った。
 広告がうるさい方はJavaScriptをオフにすると消えるのでそうして欲しい。IEだと面倒だがタブブラウザーとかだと簡単だ。Google AdSenseの貼り込みは技術的にはIFRAMEだった。ほぉIFRAMEかよと思う。ココログはXHTMLなのでIFRAMEはどうだったっけと調べるとOKだ。ふーんという感じだ。
 広告については、書籍関連で、すでにアマゾンのアソシエイトを入れてある。買う人はいねーべと思っていたが、先日みたら、30冊くらい売れたようだ。これは、ありがとうございますと謝辞を述べたい。恐らく極東ブログの支援の意図なのだろう。ご贔屓さんがいると理解した。それは単純に嬉しい。
 書籍通販に関してアマゾンがいいのかよくわからない。自分では最初にこの手のビジネスを始めた紀伊国屋をよく使うというか、新宿の本店は私の青春のようなものだ。が、アソシエイトを始めたからではないが、アマゾンもよく使う。もともと、米国アマゾンとバーズンズ&ノーブルは使っていた。が、そういう利用面より、古本を買うためだ。私は、世間に流されるのを良しとするのだが、さすがにベストセラーなどに追いつくのはつらい。芥川賞モー娘も文春に付いているのだが、どうにも読めない。歳かなというのと、こんなの今の二十歳の娘じゃねーよ、安堵するんじゃねーよとかも思う。話がそれたが、アマゾンは古本が便利だ。
 広告全体についてだが、こういうのはある意味スポンサーになるので、発言がしづらくなるかというと、それは、心理的には「なる」と感じる。朝日新聞のように、社会正義をこいて水溶性アガリクス茸広告とまがうばかりの書籍広告を掲載できるほど、鉄面皮にやっていくほど当方タフではない。このあたりの、自分の心はよく見ていこうと思う。
 もう一点は、スパムだ。昨晩「死ね糞気違い」さんが、スパムを50本くらい打ち込んでくれた。おかげで他のかたはコメントが書けなかったのではないかと思う。こうした事態へごめんなさいをいうのは私だ。申し訳ない。が、ちょっと力及ばずなので勘弁してほしい。
 スパム投稿の時刻は零時台だったので、「死ね糞気違い」さんは、夜もんもんと打ってくれたのだろうか。「死ね糞気違い」という言葉遣いが古くさいが、文面はコピペと能がないので厨房っぽい。なにが気にくわなかったのか。ま、いろいろ気にくわないに違いない。私がウヨ、またはサヨに見えたか。ま、どっちにも見える。が、端的に言えば、私への嫉妬が大きいだろうな。ちょっと脱力する。俺なんかそんなタマじゃねーって、と思う。しかし、なんとなくだが、通じないような気がする。ここは当方大人らしく責任追及でもしてみるかとも思うが、ちょっと思案しかねている。
 他にもスパムが増えてきている。人をむっとさせることを書くからなのだろう。「書き方が悪いんだよ」というのもあるだろう。それはあるなと思う。先ほどの嫉妬ではないが、こういうとこっぱずかしいのだが、私にはある程度知識があるので人によってはそれだけで許せん、みたいなこともあるのだろう。知識を持つ人は知識の量で争いたいものではないか。
 で、どうするかなのだが、よくわからないというのが心情だ。
 それより、我ながら、極東ブログがよく続いていると思う。ちょっと人気を落としたほうがいいというか、注目度を下げるほうがいいかなとも思う。というとうぬぼれだみたいだが。私という人間についていえば、ここで静かに交流を深めたごく数名のかたの存在が恩恵のようなものだし、それをもって満足として終わってもいいかなと思う。ココログのキャパでいうと、秋口には熱死するだろう。技術的には代替サイトへのMTインストールもできているし、ついでなんでtDiaryもインストしてある。しかし、そこまでしてするかなと迷う。
 気弱でいうのではないが、数年前あることがきっかけで、私は他者に語るを止めようとした。が、なかなかそうもいかないものがあって、くすぶるものがあり、よたよたブログを始めてしまった。こうしたブログが、スパムであれ、なんであれ、運営ができなければ、それはある意味、そういう時代なのだ。ここでも私は、世間に流されようと思うので、ダメならダメだなと思う。
 恐らくは、少しトーンダウンするかな。極東ブログの持つ、「死ね糞気違い度」を落とすことができないわけではないか、どうかな。私をさらっと知る人間は私の内面にこうした思いがあることを知らない。私を知る五人くらいの人は別にこんなブログを書かなくてもわかってくれる。ま、そういうことかな、と思う。
 ちと長すぎる雑談になった。内容もなく申し訳ないと思う。

追記 2.25
広告は最小のもより、少し大きくしてタイトル脇の空き地に置いた。ちょっとうるさい感じになった。

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2004.02.23

正しい日章旗の色について

 昨日は天気も良いので所沢の航空公園まで散歩した。自衛隊機などをぼんやり見ながら、機体の日章旗の色に心惹かれた。いい色合いだなと思った。そう思う背景には、日本の国旗として掲揚される日の丸の色が、どうも間違っているとしか思えないのだ。日の丸掲揚を叫ぶ人たちは、このことをどう考えているのか気になる。もちろん、問えば、つまらない答えが得られるのだろう。そんなことは本質的ではないとか云々。つまり、日章旗を愛でているのではなく、イデオロギーに心酔しているだけなのだ。
 詳細を書くのはめんどくさいので省略するが、日章旗は法律で国旗として規定されるようになった。小渕の残した遺産のようなものだ。私は技術屋の末席くらいにはいたので、なんであれスペック(仕様)が気になる。日章旗は国旗及び国歌に関する法律の別記で次のように決められている。


日章旗の制式
(図省略)
一 寸法の割合及び日章の位置
 縦 横の三分の二
    日章
    直径  縦の五分の三
    中心  旗の中心
二 彩色
    地   白色
    日章  紅色

 歴史好きのものからしてみると、日章がやや大きいかなという印象はある。それでも明治3年1月27日太政官布告第59号では十分の七だった。が、それはそれでいいだろうとは思う(日章が本質だから)。白地もさして問題はない。問題は日章の彩色である。「紅色」とある。これは太政官布告第59号を踏襲している。つまり、戦前戦後で日章の色に違いはないはずだ。
 当然ながら、「紅色」というのは曖昧な色ではない。工業的な色彩はJISで決められている。"JIS Z 8102(2001)"「物体色の色名」である。色はマンセル体系で規定されていて、"3R4/14"である。パソコンで再現するにはこれをRGB値に変換しなくてはいけないのだが、この変換式が各人各様といった状況のようだ。モニターの基準によるのだろう。マンセル規格の大元の団体でもRGB値の変換プログラムを配布しているのだが、日本で普及しているモニターだとやや色合いが違う。日本ではシェアウエア「色出し名人」(参照)が普及しているようだが、これだと"BE003F"である。

 まぁだいたい自衛隊機の日の丸の色に近い。というか、これが日章旗の色のはずなのだが、まずもって、日常見かける日章旗でこの色を見たことがない。まったく日本人の色彩感覚はどうしちまったのだろうと思う。
 今朝の産経新聞社説「国旗・国歌 正面に掲げ堂々と歌おう」である。またかよであるが、こう言う。


 まもなく卒業式のシーズンである。どの学校でも、国旗を正しく掲揚し、心をこめて国歌を斉唱する。そんなすがすがしい厳粛な卒業式が行われることを願いたい。

 「国旗を正しく掲揚」する前に、「正しい国旗」を掲揚してほしいものだなと思う。
 なにか些細なことを論じていると思われる人も多いかもしれないが、英霊を乗せた軍機の日の丸の色は、現在の自衛隊機の色と同じである。軍機の展示を見て、その日章の色がくすんでいるように思うような日本人がいては情けないではないか。

追記
広辞苑の電子版を持っているのを思い出し、そこで紅色をひいてみた。マンセル系は同じだが、RGB値が違う。次のようになっていた。こちらのほうが実際に近い。


法制化にあたり、しょーもない議論の記録があった。こんなのを理由に曖昧な色合いとされてはたまらんなと思う。


第145回国会 内閣委員会 第11号(平成11年7月1日(木曜日))

竹島政府委員 紅色というふうに書いてありまして、赤とは書いていないということについてお答え申し上げます。
 一つは、赤とした場合には、白に近い赤から黒に近い赤まで、赤という色の意味する範囲が広い。それに対しまして、日章旗の日の丸の色というのは御案内のとおり鮮やかな赤。その鮮やかな赤ということを意味するために、赤色ではなくて紅色ということで特定性をより正確にしよう、こういうことで紅色という表現にさせていただいております。

145回-参-本会議-43号 1999/08/09

山崎力
 むしろ、法案の中に日の丸の色を赤色ではなく紅色とあるのを見て、違和感すら覚えました。確かに、一般的に流布されている日章旗の色自体は紅かもしれません。しかし、紅色は広く赤色の系統に含まれるものですが、逆に、紅色は赤色系全体を示すことはできません。何より広く国民に浸透している赤のイメージを覆すものであり、同僚議員が異例にも特別委員会で独唱した「白地に赤く」との歌詞は、正確には間違いということになってしまいます。

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イラン選挙の落胆

 今朝の大きな話題といえば、イラン選挙なのだが、これは前もってわかっていたように保守派の勝利に終わった。圧勝という感じだ。やりきれない思いがするが、なによりこれが現実だ。間違った連想かもしれないが、天安門事件の中国の民主化要求も歴史のかなたに消えた。イランの民主化も同じように消えていくのかもしれないと思う。それは悲観なのか。あるいは、それはそういうものなのか。つまり、民主化が正しいように思うことが幻影なのか。
 朝日新聞社説「イラン選挙――民主化の熱気はどこへ」が皮肉な意味でがっかりさせる内容だった。がっかりというのは、反米を書き立てることをちょっと期待した。というのもイランを保守主義に追いつめたのは米国ではないか、と思うのだ。しかし、そうした記述はなく、イランの内政に終始していた。逆になぜだろうと考えるのだがよくわからない。ちょっと狐につままれたような感じがする。
 朝日は実は今回の結果を良しとしているのだろうか。指導者ハメネイは、今回の選挙で敗者は米国だと言ってる(参照)。朝日新聞系のニュースをひく。


 イランの総選挙(定数290)は22日も開票が続き、すでに圧勝が確実となっている保守派は首都テヘラン(定数30)でも議席を独占する見通しとなり、改革派の惨敗が一層明確となった。最高指導者ハメネイ師は21日夜、国民向けに声明を出し「選挙の敗者は米国とシオニストだ」と述べた。

 そういう単純な反米路線に朝日が乗るとまでは受け取れないのだが。なお、毎日新聞社説もとくに言及するべき内容はない。
 イランという国をどう考えたらよいのか、難しいと思う。話を難しくしているのは、もちろん核問題であり、それに必然的に関係する米国の問題だ。先日の地震の際にも思ったのだが、イランを国際的に孤立させてイランの民衆を苦しませるだけの意味があるのか私にはよくわからない。もっと援助を広げるべきなのではないかとも思う。
 今回の選挙では投票率は50%を越えたものの、イランという国の国民の信頼を勝ち得たものではない。まして、選挙自体がこれは不当と言っていいのではないか。
 現実的には、これでさらにイスラム保守回帰するかというえば、私はそうなりえるはずがないと思う。冒頭で天安門事件の連想を書いたが、中国人も利口な者は世界に出ている。イランでも同じだ。残りの若者が国内に残る。中国はそれでも若者にチャンスのような幻影を見せているが、イランにはない。文化的な背景はあるにせよ麻薬なども広がるだろう。
 どうもしまりがないが、個々のイラン人は、実際にはこうした国家の動向とは別だし、特に対外的に見えるイラン人は違うだろう。そのあたり、民間の有効を深めるくらいしか日本にはできないのではないか。と言いつつ、ニューズウィーク日本版に言われるまでもなく、まさにそこがなぁという状況でもある。

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2004.02.22

日本は米国に貢いでいるのか?

 私は、日本は「米国に貢いでいる」と考えてきた。しかし、そうなのか? 前回「日本の景気は回復しているのだが」(参照)を書いてから、いろいろ考え込んだ。わからない、というのが当面の率直な結論であると当時に、「米国に貢いでいる」というのは結果の一つの評価にすぎないだろうと思うようになった。結果というのは、それが選択肢を持つ政策として理解するのは難しいという意味だ。
 具体的な、政策の側面でいうなら、とりあえず、円介入をすべきだったか?という問いになるだろう。現実は、日本はがんがん円介入を行なった。しかし、円介入をしない、という政策は有効だったのか? つまり、通貨レートは市場に任せるべきなのか。
 実際にその局面での私の考えは、がんがん円介入せよだった。米国の双子の赤字はあるにせよ、急激な円高の局面は危険な投機を誘発するものであり、漫画風に言うなら、「日本国をもてあそばれてたまるかよ」である。なお、昨年の介入額だが、貿易黒字2倍に相当する20兆円である。今年は1月だけで6兆円を超えた。これが米国債に化ける。米国財政赤字の1/5くらいの補填になる。
 だが、中・長期的な局面でいうなら、そうした介入の意義について私はわからない。数年の内に、日本政府の為替介入額は150兆円を超えるかもしれない。そこまでしての円防衛が、結果的に日本の市民社会に有益なのか、私にはわからない。
 が、とりあえず、従来の産業部門重視という日本の「使命」にはかなっていることは、わかる。消費者からも一部の産業界からも「円高、ええんちゃいますか、それもまた好機や」と言う声は聞こえない(あるいはそういう声はあるのか)。
 この状況を日本版ニューズウィーク「日米が突き進む『金融心中』への道」(2.11)でピーター・タスカは問題視し、こう言う。


 誰もが言うように国の財政が本当に破綻寸前なら、何十兆円もの金がどこから出るのか。日銀が刷っているのだ。その一方で日銀は、市中から金を吸い上げることで、影響を相殺している。これは日銀と財務省の間の取引だから、増税や国債の新規発行の必要はない。
 ここで浮かんできた疑問に、誰か答えてくれないだろうか。日銀はアメリカの減税を間接的に支えているのに、なぜ日本の減税を直接支えないのか。日本政府はイラクの経済復興を支援しているのに、なぜ破綻寸前の日本の地域経済を立て直そうとしないのか。
 日本のエリートは、年金や医療保険制度の崩壊を競うように警告している。だが、どちらも経済が回復すれば、それほど深刻な問題ではなくなるはずだ。そんな暇があるなら、なぜ庶民の生活の質を高めるために力を尽くさないのか。
 そして最後に――日本の庶民は、なぜ「一億総貧乏」意識にとらわれ、世界最大の債権国の市民として、ものを考えないのか。

 タスカの指摘は単純だ。円介入に使う金を日本の市場に直接回せ。
 ここでよくわからないのは、このタスカの提言は、基本的にリフレ派の意見と同じではないだろうか。で、そうだとしたとき、リフレ派は、日本の円介入にどう見ているのだろうか。そこは、率直に意見を聞きたいと思うところだ。単純極まる問題にするなら、財布の中身の札を、米国に投資するのか、国内に投資するのか。それとも、どっちにしても、それは同じなのだろうか(そうかもしれない)?
 話を少し戻す。よくある疑問だ。この状況を「米国に貢いでいる」というなら、この膨大な円介入を行うのは財務省の陰謀なのか?
 この問いに答えるのは簡単だ。陰謀のような主体は存在しない。ではなぜ、陰謀にも見えるようなことが実際に起きるのか?
 私は財務省というものが、そういう目的に出来ているからだと思う。そういう目的とは、10年も前にウォルフレンが「民を愚かに保て」で指摘したとおりだ、と思っている。

 ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国と比べてみると、日本という国は、消費者より大規模製造業を優遇する社会になっている。「バブル経済」の消長にともなってさまざまの目をみはらせる現象が出現したが、これとても日本の市民が身銭を切って大企業を支援してきたという長い歴史に沿っていたというべきである(もうひとつ、よくわかる例をあげるならば、60年代と70年代を通して集められた家計貯蓄は、預金先の銀行を経て産業部門に直接融資された。預金利率は低く、一方で消費者向け貸し出しは未発達だった)。家計部門から産業部門へと組織的に日本の富を移動させることで、日本の大企業は世界市場において並はずれた優位性を手にすることができた。

 この認識にウォルフレンの間違いがあるだろうか。それとも、これは財務(大蔵)省の陰謀なのだろうか。いや、そういうふうに(産業部門を重視するように)日本の政府が出来ているからそうしただけのことだと私思う。つまり、オートマチックな現象にすぎない。
 そして同じメカニズムが、オートマチックに今でも、円介入においても、同じように作動してるだけなのではないか。この思いを私は払拭できない。繰り返すが、陰謀があるわけではない。もともと、そういうシステムなのだ。
 話がめんどくさくなるのは、ウォルフレンの例でも子細に見れば、それが日本国民の利益を奪っていたのかよくわからないということだ。同様に、昨今の円介入を例としても、日本国民の富を「米国に貢いでいる」がゆえに日本の富が減少した、とはいえないことだ。
 話はむしろ逆で、日本の富を増やしている。単純な話、米国のほうが金利がいいのだから、当たり前といえば当たり前だ。しかも、この利益は日本の市場に還元されるし(CSFB「為替介入に隠されたもうひとつの意義」(参照PDF))、結果的に「非付胎化介入」(参照)による円は市場に流れる。つまり、リフレなのだ。こんなのアリ? だから、むしろ、結果的なリフレ効果をうむための効果的な施策だとも言えないことはない。でも、そう言う?
 ここでもう一度、顔を洗って「日本は米国に貢いでいるのか?」と問うとき、昨今の日米間の摩擦の無さというか、米国の弱腰にすら見える状況は、むしろ、「貢ぐ」という言葉のニュアンスと逆の様相を持っているように私には思われる。日本は韓国に対して右寄りであれ左寄りであれゆがんだ視点を持ちがちだが、この間の米韓関係の軋轢を見ていると、日本からは想像しがたいものがあった。これが日本に及ばないのは、日本への配慮だろう、としか思えない。
 円介入の状況については、日本国内ではしだいに風当たりも強くなってきている。例えば、朝日新聞ニュース「日本の米国債買い越し、15兆円 03年度、前年の5倍」(参照)では、状況から「日米双方にゆがみをもたらしつつある」と言う。

日本の03年の米国債の買い越し額が前年の5倍近い1489億ドル(約15兆9000億円)に達し、財政赤字が膨らむ米国を買い支える日本という構図が鮮明になった。その「立役者」は昨年、日本が行った20兆円超(約1860億ドル)の円売りドル買い介入。介入で得たドルの大半で日本の財務省が米国債を買った。その突出した規模は、日米双方にゆがみをもたらしつつある。

 しかし、記事からは、なにが「ゆがみ」なのかわかりづらい。ほとんど反米のくさしのようにも受け取れる。

米国債の買い支えは、米国の長期金利の安定と株高を促し、それが日本の株高にもつながる「微妙なバランス」を維持している。三菱証券の水野和夫チーフエコノミストは「バランスが崩れるのを恐れ、介入を麻薬のようにやめられず、外国為替資金特別会計は米支援会計のようになった。米国債の大量購入は、米国の財政規律を緩めるおそれもある」と指摘する。

 鉄面皮に「米国の長期金利の安定と株高を促し、それが日本の株高になるなら、日米双方にけっこうなこと」と言ってみたい気もする。
 だが、こうした朝日のくさしとは別に、私は、そうしないと世界経済はやってらんないのだろうなと思う。
 私の視点はこのあたりから「と」かもしれないが、こうした必死の日米のマッチポンプのような背景にはもう一つ中国があるのだろうと思う。
 ふーんと思ったのだが、邱永漢の「保険株・銀行株が続々香港で上場へ」(参照)の指摘だ。中国の銀行は大量の不良債権を持っているが、現状の湯水のような外資の流れ込みでなんとななるというのだ。中国政府についてこう彼はこういう。

政府は不良債権や不良資産を消す資金に
困らなくなりました。
いま現にやっていることは
代表的な金融機関の不良債権を
政府資金で帳消しにして
きれいな身体にして嫁に出すことです。

 うぁ~という感じがする。米国と日本と中国で、なにか必死に演劇をしてるような印象を受ける。
 で、どうする? 踊るしかないのではないか。カーニバルの季節だし。

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医師の偏在はまずは金で解決せよ

 社説ということでは今朝は目立ったテーマはない。しいていうとイラク統治勧告とアナン来日に併せた国連問題だろうが、これは理想論(きれいごと)を書いても意味はないだろう。ということで話題として気になった朝日新聞社説「医師の偏在――金で釣るより知恵を」を取り上げる。幸い、サヨクがどうのいう話ではない。
 問題提起は標題のとおり、医師の偏在の問題だ。医師の絶対数が少ないわけでもないし、あまり議論されないが、これから縮退していく日本では医師は余るのだ。
 医師偏在の問題が最近一段と悪化したのは、新人医師の新しい研修制度だと、朝日は言う。


 新制度は、日常的な病気を幅広く診ることができる医師の育成をめざして、一人の研修医にいくつもの診療科で手ほどきを受けるよう義務づける。研修医の受け入れ病院も増える。
 これまでは新人の大半が大学病院の一つの診療科に所属して、下働きの役割を担ってきた。ところが新制度の下では研修医があちこちに散らばるし、研修医を受け入れる病院は研修の内容を充実させなければならない。このままでは人手が足りなくなると考えたのだろう。大学病院が地域の病院に送り込んでいた医師を呼び戻す動きが広がっているのだ。

 話が読みづらい。研修医(新人)を受け入れるために、従来田舎にいた熟練医師を都市部の病院に集合させている、ということか。とすると、その規模の実態が気になるが、朝日新聞社説にはフォローはなく、名義貸し問題に文脈を移っている。
 名義貸し問題に朝日は怒ってみせるのだが、これは無意味だと思う。この話は旧極東ブログ「医師の名義貸し問題は単純ではない」(参照)で触れた以上のことはない。
 しかし、話をごく単純にすれば、事態は金(かね)の問題ではないのか。「金で釣るより知恵を」ではなく、「小賢しい知恵より金で釣ろう」でいいのではないか。医療というのは金のかかるものなのだから。
 もっとも、それで根幹の問題(医師の偏在)が解決するわけもない。朝日はいろいろと理想論を掲げてみせる。

  1. 病院の適正な配置(県立病院と市立病院を隣接させない)
  2. 地域の中核病院や大学病院と密接なつながりを持たせる
  3. 医学部入試で地元出身者を優遇する
  4. へき地医療の報酬を増す

 悪い意見ではないし、実現可能なようだが、実際は4以外はダメなのではないかと思う。
 私は日本の医療を規制緩和したらどうかと思う。変な意見に聞こえると思う。どういうことかというと、医療相談の窓口を医師以外に広めるネットワークを作ってはどうかということだ。例えば、夜中に高熱で引きつけをおこした子供が病院たらい回しで死ぬといった事件を見るに、医療の前段となる基本介護があると思える。子供が40度近い熱を突発で出したら、まず、子供の年齢に合わせて少量アセトアミノフェンを使うといった指導は欧米の育児書には記されている。OTCで対応できる部分もある。アトピーの問題でも、それが皮膚科なのか内科なのかということは、大衆にはわかりづらい。総じて、ごく初歩的な健康問題でも、専門が違うことで対処がとんちんかんになることもある。
 と、この私の意見も、実際に運営するには組織化が必要だし、それは日本の現状を考えると無理だろう。せめて、実践的な大衆向けのガイドブックがあるといいのだが、私は知らない。インターネットにも類似の情報があるが、現実としてはこれがGoogleなどサーチエンジン系に頼るか、特定の視点のリンク集に頼るしかない。しかも、その大半の情報は「あるある大辞典」レベルの嘘情報か、正しいけれど役に立たない情報ばかりなのだ。

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