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2004.02.14

仏教入門その2

 密教には随分と心惹かれた。が、今はほぼその興味を失ってしまった。そんなことを書くのもどうかと思うが、なにしかしら書いてみたい気だけはする。
 日本人として密教といえば、空海ということになる。空海は非常に難しい。原典もなんどか挑戦したが歯が立たないという感じがする。この恐ろしい知識人は本当に古代人なのか。人間離れしている。道元も恐ろしいほどの知識人だが、それでもまだ人間という感じがするが、空海に至ってはほぼ人間とは思えない。空海、つまり弘法大師はそれ自身が伝説のようでもあり、その伝説からもアプローチしたが、よくわからなかった。
 日本人はなぜこうも御大師様に惹かれるのだろうか。10年以上も前だが高野山密厳院に泊まった小雨の深夜、人っ子一人いない奥の院を詣でたことがある。四方墓ばかりの暗く湿った参道を歩きながら、そうして行けば、生きていらっしゃる大師に会いできそうな気がした。神秘的な体験はなかったが、不思議な体験だったような気もする。

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空海の風景
 空海についてアマゾンをひくと、そんなものかという本が出てくる。司馬遼太郎の「空海の風景」これはほとんど小説というよりエッセイだ。つまらないと言えばつまらないが、漫画のように読める本だ。司馬遼太郎の育った風土だと御大師様には一度向き合うしかないのだろう。
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曼陀羅の人
 陳舜臣の「曼陀羅の人―空海求法伝」も漫画仕立てだが、入唐の中国の風土の描き方が美しい。日本ではなぜか司馬遼太郎をありがたがる読者が多いのだが、司馬の作品はどれも明日のジョーと力石徹かよという感じで辟易することが多い。歴史物は陳舜臣のほうがうまいように思う。余談だが、陳舜臣は「耶律楚材」が面白いといえば面白いが、薄いといえば薄い。
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空海の思想について
 アマゾンの売れ筋は、梅原猛の「空海の思想について」も上位に出てきた。ペラっとした本だが、著作面から宗教家・思想家空海を知る入門書としてはこれがいいのだろうと思う。梅原猛の本は私などがいうとお笑いだが、どうも濃すぎて、中年以降に読むにはつらいものがある。
 空海についてお薦めできる本は他に知らない。新書できちんと整理したものがあってもよさそうなものだが、あるのだろうか。松岡正剛関連は「極める」をやっただけあって物を見ている感じは伺えるが、私は嫌いだ。
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般若心経
 私の勘違いでなければ、般若心経の原典は空海が日本にもたらしたサンスクリットのものがもっとも権威があるはずだ。空海の思想・宗教はある意味、般若心経に極まると言ってもいいのかもしれないが、そう言うにためらう。よくわからないが、なぜ多くの人は般若心経なんぞに心惹かれるのだろう。短くて暗誦しやすいからだろうか。私もたまたま高校生のとき暗記して、それなりに重宝した。密教のサマリーになっているともいえるし、寺参りに唱えれば信心者を装うことができる。般若心経の解説は最近の研究は反映されていないが、金岡秀友のものが一番よいと思う。あるいは、「般若心経 講談社学術文庫」だが、とくに薦めない。しかし、こう言うのもなんだが、金岡秀友の研究は妥当なのだが、根幹を見落としていると思う。この点については、佐保田鶴治「般若心経の真実」が面白い。面白すぎる面がもあるが、確かに般若心経の密教的な側面がわかる。幸い絶版のようだが、紀伊国屋の各地店舗在庫を見ると、数冊は残っているようだ。本として面白いかといえば文句なく面白い。奇書とも言える。
 空海は自身をその師匠恵果の師匠不空三蔵の生まれ変わりだと思っていたようだ。いずれにせよ、恵果は中国において義明、また扶桑(日本)にあっては空海を密教の正嫡と決めていた。義明の法統は廃れているので、密教の本流はこの日本となると言ってもいいのかもしれない。日本はそれほどの伝統を負った国なのだろうか。しかし、空海以後の歴史を追っていく皮肉な出来事も知るようになる。特に覚鑁について少し学ぼうとしたが、彼も空海ほどではないが歯が立たないほどの知識人だった。現代の真言宗は空海をシンボリックに扱うがもし覚鑁がなければ新義と限らず古義も存在しえただろうか。余談だが、小林よしのりの父は密教系の僧であるらしく密教文化に入れ込んでいるふうもあるが、そうした面ではひどく浅薄な印象も受ける。
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悪魔祓い
 不空三蔵(不空金剛:Amoghavajra)とはなに者だろうか、私は随分と不空三蔵のことを考え続けたことがある。北インドの出身だという。720年、長安で金剛智三蔵に師事。余談だが、金剛とはダイヤモンドのことである。不空三蔵は金剛智の死後、「金剛頂経」など密教典を求めてセイロンに渡り、龍智からさらに密教を学んでいる。そして、教典を持って746年長安に戻る。セイロンといえば、今も仏教国なので、その8世紀以前からの伝統だと誤解しやすい。しかし、それは間違いで、現代セイロンの仏教は西洋神智学から近代に発生したものだ。この歴史を端的に記した書籍はあるだろうか。記憶を辿るのだが、上田紀行「悪魔祓い」でも多少ふれていたはずだ。同書は、スリランカの民俗を知るのに面白い。その呪術のほうに竜智時代の密教の残存があるのかもしれない。この本は、難しいこと抜きに読書家にとっても面白い本である。上田紀行のその他の著作はお薦めしない。
 密教の正嫡は逆に辿るとこうなる、空海→恵果→不空→金剛智→龍智→龍猛→金剛薩タ→大日如来。これが付法八祖と呼ばれる。が、金剛薩タと大日如来は明かに実在の人間ではない。また、龍猛は大乗仏教の祖龍樹と解されているが、時代が合わない。それでも、龍智の師匠は存在したのだからそれを龍樹と別に龍猛を想定してもいいようには思う。が、こう言ってはなんだが、不空のセイロン求道の旅の話自体は間違いないだろうが、その伝承は虚構ではないかとも私は思う。もちろん、そこにある種の密教は存在しただろう。
 高野山に行けばでかでかと、付法八祖ではなく、伝持八祖の絵を見ることもできる。伝持八祖は、金剛薩タと大日如来を抜いて、善無畏三蔵と一行禅師が不空の次に追加されている。こうなっている理由は密教の初歩でもあるのだが、金剛界と胎蔵界の二系の融合(金胎不二)のためで、この二者は胎蔵界の系譜の必要性からだ。
 話が少しそれるが、日本人のイメージだと通称シルクロード経由とされる北伝仏教と異なる南伝は上座部仏教(旧称小乗)というイメージが強い。タイなどではそうだからだ。だが、アンコールワットやボロブドゥールは密教であろう。私はバリ島のウブドに二週間ほどぶらぶらしていたことがあるが、近在のゴアガジャなどもヒンズー教というより密教遺跡のようであった。6世紀から8世紀にかけてのセイロンからバリ島に至るまでの密教文明とはなんだったのか今でも気になるのだが、それを俯瞰する書物を知らない。
 私の密教関心は、不空三蔵を契機にインド系の唯識瑜伽行との関わりからチベット仏教に移ったった。偶然か知らず私が影響を受けたのか、80年代中沢新一だの暴走前のオウム真理教だのと近い関心域にあった。が、ヤッベーなこいつらと思い、できるだけ避けた。欧米でもこの時期、チベットを追われた僧たちの活動が盛んになってきた。
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タントラ叡智の曙光
 ダライラマについては私はよくわからない。彼自身の説法として書籍になっているものは俗人向けなので、物足りない感じがする。書籍では、初心者向けなのだろうが、チュギャム・トゥルンパとハーバート・ギュンターの講義録「タントラ叡智の曙光」から深く啓発を受けた。ある意味、これほど仏教についてわかりやすく解説した講義はないと思う。とくに、ギュンターの解説が優れている。
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チベットに生まれて
 トゥルンパはトゥルンパ・リンポチェ(活仏)とも言われる。私は彼に関心をもち、邦訳はすべて読んだ。本としては「チベットに生まれて」が面白い。彼は西洋世界に教えを広めたのだが、僧を捨て結婚し、そして酒に溺れて死んだ。48歳だった。その事実を知れば、彼の仏教は彼を救えなかったのかとも思うが、難しい。アリョーシャ・カラマゾフも恐らく暗殺者となったことだろう。世界には簡単に解けない問題があると私は思う。
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チベット旅行記
 チベット密教関連や立川武蔵の著作なども面白いには面白いが、お薦めしたくない。チベットと言えば、河口慧海の「チベット旅行記」が読書家には面白いだろう。私は国立博物館が所蔵している、彼が持ってきた仏像を見たことがある。美術品に耽溺する悪弊のある私は素晴らしいものに思えた。河口慧海については、その晩年の思想について、もう少し考えてみたいと思うのだが、いい書籍がない。

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食料自給率を上げる意味があるのか?

 食料自給の問題をいきあたりばったりで書く。私は、日本の食料自給なんて気にすることはないんじゃないかと思っている。日本は先進諸国の中では食料自給率40%と最低であると言う。それがどうしたと思う。なにが問題なのだと思う。そういう意見はどのくらいあるのだろうと思って、ぐぐってみる。唖然とした。見つからん。それどころか、日本の食料自給率の低さが問題だというのである。ほぉと思う。読んでみた。まるでわからん。
 朝日新聞社説「食料自給――『保護』では高まらない」を読んでもまるでピンとこない。


 牛海綿状脳症(BSE)に感染した牛が見つかった米国からの牛肉輸入が止まり、外食チェーン店から牛丼が消えた。鳥インフルエンザで、タイ、中国産鶏肉の輸入も止まった。国内消費量のうち、牛肉の3割、鶏肉の2割が手に入らなくなるという異常事態が続いている。
 一連の出来事は、食料の多くを海外に頼っているこの国の危うさを、改めて浮き彫りにした。私たちは、米国が日本に輸出する牛肉にも日本国内と同等の検査を実施する必要があると思うが、その問題とは別に、騒ぎが長引けば、「自給率を高めるべきだ」という主張が頭をもたげるだろう。

 まずわかんないのは、牛肉と鶏肉の話でどうして「この国の危うさ」なのか理解できない。米国に日本と同様の全頭検査を要求する嘘については、すでに書いたので繰り返さない。せめて米国が日本の牛肉を解禁するくらい歩み寄るなら、私は輸入再開論者になってもいい。まぁ、そんなことはどうでもいい。
 輸入の牛肉と鶏肉の減少で連鎖で他の食品の価格が上がることが問題かというと、上がればいいじゃんと思う。それこそインタゲである。ふざけているみたいだが、それはそんな悪いことでもないだろう。むしろ、それでもそれほど、その市場に影響ないかもぉの状況に見える。食料が本当に問題なのか?
 朝日の主張に戻る。それほど農本サヨク臭があるわけでもない。そーゆー意見もあるかなくらいだ。

 日本の食料自給率はカロリー換算で40%と、先進国の中でも飛び抜けて低い。無理なく引き上げられるならそれに越したことはないが、何が何でも、手段を選ばず、というわけにはいかない。
 戦後の食糧難が遠い思い出になった豊かな日本で、「食料の安全保障」はもっぱら米作りを中心とした農業保護の口実に使われてきた。自給率を高めるために保護を強めるのでは、ただでさえ弱い農の足腰をますます弱めることになる。
 味の良さや安全さで国産の優位性を高めていく地道な努力こそが、自給率向上に結びつく。それが基本だろう。

 まず、農業保護はよくないというのは、最初に抑えておいていいだろう。どうも食料自給問題は利権が絡んでいる臭くてたまらん。次に自給率というのだが、カロリー換算なのだ。これがまたわからん。朝日は結語で次のようなトンマな教訓を述べている。

 もうひとつ、忘れてはならないのは、世界一の食料輸入国であるこの国で、食べられないまま捨てられる食品が日々、大量に出ていることだ。コンビニやデパ地下から「賞味期限切れ」で廃棄される弁当だけでも大変な量だろう。食生活がいまのままでいいか、考え直すときでもある。

 勝手にしろ阿呆臭という説教だが、先の文脈に戻り、そういう状況があるのに、カロリー換算で40%っていうのはなんの意味があるのだ? すでにWHOは肥満を疫病に認定している。カロリーは問題の指標かよと思う。
 さらに先の文脈なのだが、「味の良さや安全さで国産の優位性を高めていく」というのは、自給率の話じゃねーだろと思う。SKIP野菜のように、国産のほうがうまいから買うという、いわばブランド志向だ。ちなみに、SKIP野菜・果物は国産でもなく有機農法でもない。永田農法なら全世界ユニバーサルで、この発想はものすごいものがある。私個人は、できるだけ有機農法のものを好むのだが、それにこだわらない。
 食料自給の話は、現状では、安全と絡められている。しかし、それだって、別に輸入で問題となるわけでもない。米国小麦にはポストハーベスト農薬がかかっているがそれだってオンオフの話のわけがない。他に、他国から食料を止められたらという話もたまにあるが、阿呆臭い妄想につきあってられんと思う。将来中国が食料を輸出しなくなるだの、米国が遺伝子組み換え穀物を独占するだの、それで何が問題だというのか。輸出するかしないかは経済活動で決まる。遺伝子組み換え品がどうのというのは、それを除きたいなら、それを価値としてマーケットに問えばいいだけだ。
 少し古いが朝日新聞のニュース「自給率4割、9割超の国民が食料供給に不安 農水省調査」(参照)でこうあった。

 将来の食料供給については、農業従事者の58%、消費者の44%が「非常に不安を感じる」と回答。「ある程度不安を感じる」を加えると、農業従事者の94%、消費者の90%にのぼり、国民の9割以上が不安を抱いていることがわかった。「あまり不安を感じない」という農業従事者は5%、消費者は9%で、「全く不安を感じない」は、いずれも0.4%だった。

 そんなに不安なのか?
 私が気になるのは、食料自給っていときの食料ってなんだと思う。特にそれが現状カロリー換算なんだから、どうせ、それは穀物の問題じゃないのか。穀物だよ、つまりは。だけど、それはコメであるわけがない。余っているんだし。すると、小麦とコーンか。
 つまり、小麦とコーンを外国に依存しているのはよくなっていうことか? でも、そんなもの国内でまかなえるわけないじゃないか。と考えてみるに、食料受給の問題というのは、なんか「飢え」や「食の安全」とか「国産品ブランド」みたいなぼよーんとしたイメージを醸すだけの詐術ではないのか。
 ついでにいえば、そんなに小麦だのコーンだの食っている日本人の食生活っていうのが問題じゃないのか。というのは、栄養学のおばさまたちは偉そうなことこくけど、この少子化・パラサイト、かたやど田舎の日本の食の実態として、野菜たっぷり健康手作りの食事とか言っても無意味ではないか。コンビニ食、外食、中食が現状だろう。つまり、そういう流通の問題なら、やはり、食料自給とか言う以前にマーケットの問題に還元されるはずだ。
 と、以上、暴論。こりゃ、ほんとに暴論だなと自覚しているので、違うよ、食料自給率は大切だよと私を説得してほしいものだ。

追記
農水省「日本人の食卓の現実」(参照)というPDFファイルを発見して読む。面白いと言えば面白い。ブログの見解を大幅に変更する必要性はやはり感じない。ほほとおもったのは、「国民一人一日当たり供給熱量の構成の推移」だ。畜産物の比率はコメに次ぐ。その次が油脂類で小麦はされにそれに次ぐ。ざっと見た印象では、昭和50年時点から類推して、畜産によってサポートされるべきたんぱく質がなくても日本人はそれほど困らないと思えた。ポーランドの経済改革で推進側が気にしていたのは卵だというが、卵の生産・流通が可能なら大筋でたんぱく質の問題もないだろうと思う。

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普天間基地返還可能性の裏にあるもの

 毎日新聞社説「普天間返還 膠着打開のきっかけつかめ」は評価の難しい社説だった。普天間基地(飛行場)返還問題を本土国民がすでに忘却しつつある状況で、この問題を提起することそれ自体にまず意義がある。問題はその論点なのだが、端的に言えば、毎日新聞は依然沖縄を日本から分離して議論しているに過ぎない。しかし、この話はそう言えばいいだけではすまされない。
 まず、毎日新聞がこの問題をこの時期に扱った背景を理解する必要がある。毎日の切り出しはわかりやすい。


 沖縄の在日米軍普天間飛行場の移設問題が動き出しそうな気配を見せている。
 昨年11月にラムズフェルド米国防長官が普天間飛行場を視察し、飛行場返還に伴う代替施設建設の条件を見直すよう国防総省に指示したという。
 普天間飛行場が代替なしで返還されるとしたら、政府にとっても沖縄県民にとっても歓迎すべきことに違いない。ぜひとも事態を進展させなければならない。
 普天間飛行場の返還は、96年12月の日米特別行動委員会(SACO)の最終報告に盛り込まれた。最終報告は同時に米側の意向に沿い「十分な代替施設」の建設を求めた。要は条件付きの返還だ。

 1996年12月2日SACO(Special Action Committee on Okinawa)最終報告では普天間基地返還には代替基地建設が条件になっていた。それはとりあえずその通りなのだが、毎日新聞社説は重要点を見落としている。
 この返還合意では、日米両政府は5年ないし7年以内の全面返還を合意し、全面返還に向けて取り組むことになっていた。1996+7=2003である。すでにそのリミットが来ているのだ。このリミットに対して、日本政府の沖縄県民への対処は不誠実以外の形容はない。そしてその矛先は米国にも向けられる。当面米国としては、沖縄問題を日本国内問題に都合のいいように蓋をする(それがいかに無責任なことか、沖縄は米統治下にあったのだから責務がある)のだが、それでも欧米の契約の考えからすれば、放置していい問題ではない。日本のマスメディアはラムズフェルドを鬼畜米兵の頭のごとく扱うが、彼は古いタイプの誠実なアメリカ人でもある。
 もう一点、毎日が見落としているのか、わざと隠蔽している問題がある。これは、左の朝日新聞でも右の産経・読売新聞でも同じなのだが、すでに沖縄の海兵隊は事実上削減されていると言っていい状態なのだ。
 この話をする前に、本土日本人は、「海兵隊」を理解しているか気になる。日本人は、かつても日本に存在した陸軍・空軍はわかるだろうが、海兵隊はわかるだろうか。団塊世代、つまりベトナム反戦世代ならわかるだろうか。そして、海兵隊という組織が米国においてどのような政治的な意味を持つか。これは非常に大きな意味だ。日本人からすると、低脳マッチョを集めているのではないかという印象を持つが、海兵隊とは米国の誇りの最前線にあるものであり、1995年の沖縄処女レイプ事件(この事件の実態は日本では事実上報道されなかったが、袋につめて拉致しレイプしたのである)が米国に与えたのは、その誇りを傷つける恥辱感でもあった(だから事件当初その主犯者が黒人であるかどうかが実は彼らの関心事でもあったのだが日本では報道されていない)。そんなこと日本人は知るかであろうが。
 海兵隊(Marine Corps:通称マリーン)と海軍(Navy)は同一ではない。海軍は海戦のための組織であり、海兵隊は陸上部隊である。白兵戦を戦う「勇士」でもあり、先鋭部隊だ。陸軍の前に機動する。通常、戦時では陸軍上陸開始前に海兵隊が上陸し、橋頭堡を築く。州兵といい海兵隊といい、日本の義務教育で教えておいてもいい事項だ。少し余談だが、イラク・クエート侵攻のあたりから、米国の戦闘は、米国戦闘員の被害を出さないようにということで空軍始動になっている。また、在沖の海兵隊はこのような性格から揚陸艦の機動能力に依存するのだが、その基軸は私の記憶では佐世保のままだ。ということは、在沖海兵隊の機動力は日本本土側に依存する。むしろ、沖縄米軍基地の意義はインテリジェンスと継続的なロジスティックスであり、あの地域の戦闘には直接寄与しない。このことは、1996年3月中共人民解放軍の老害軍人どもがとち狂って与那国沖(台湾より与那国に近い)にミサイルをぶちこんだときも、太平洋側から空母インディペンデンスを移動させていることでもわかる。沖縄に有事に備えて米軍基地があると考える産経新聞系のウヨは軍事のイロハもわかってない馬鹿者どもなのだ。まぁ、米ケツ舐めポチだからなと思う。日本国を愛するなら沖縄を正常化するように考えるべきなのだ。
 さらにもう一点、毎日社説の見落としとまでは言えないが、重要な背景問題がある。嘉手納基地の問題だ。この基地は残念ながら、現在世界の状況からして、サヨクに乗せられて沖縄撤退と叫ぶことは危険なほど重要性があるのは、空軍ということからでも理解できるだろう。この広大な基地に、あの街中の小さな普天間飛行場が統合できないわけがないのだ。SACOでも当初議論されていた。なにより、戦後普天間基地は早々に整理されるはずだったのだ。普天間飛行場は基地の見える丘とかいう公園から眺望できる。この眺望は日本国民の義務にしたらいいと思う。これを見るだけで、この基地の異常さがわかる。住民の居住区の真ん中にある。皇居が都心の真ん中にあるというのとはわけが違う。この基地の持つ潜在的な住民への被害はまともな理性のある人間なら、その維持に見合うものではないことがわかる。米軍は馬鹿ではないので、わかっているのだ。さっさと撤退したいというのが米軍の本音なのだが、思いやり予算で浅ましくなった物もらい根性と嘉手納空軍と海兵隊の仲の悪さで、膠着してしまった。そこへ、日本の土建屋や沖縄の土建屋の利権がからんで、辺野古沖の代替基地案が出てくる。あの位置なら金武町のキャンプハンセンと連携できるとも言えるのだが、ロジスティックスの面からも、また、その運営面からも最低なので、米国の本音としては、環境問題とやらであそこはやだよとごねていたいのだ。というわけで、愛すべきうちなーデブ下地幹郎が野中を裏切って統合案を出したが、自民党に潰されてしまった。週刊新潮など下地の選挙をコケにしていたけど、目先で判断するなよなと思う。
 この膠着した沖縄の状況を変化させたのが、イラク戦争と同時期に始まった米国の対外軍事戦略の変更だ。話がまどろこっしくなってきたので話を切り上げるため、多少飛躍もあるだろうが、先を進める。
 日本はイラク戦争について米軍の横暴だとか日本のイラク派兵は憲法に違反するだの、呑気なことを言っているが、そんなことは些細な問題なのだ。大きな問題は、米軍はすでに従来の冷戦下の米軍ではないことと国連をぶっつぶしてもいいと踏んだこと、この2点だ。冷戦構造変化でわかりやすいのがまさに最前線である朝鮮半島の38度線である。ここから米軍は撤退し、さらにソウルからも撤退した。日本人がこの問題に関心を寄せないのが私には理解できない。同様のシフトは世界規模で進んでいる。反面、ロシア内への駐留などの新展開もある。もう一点の、国連潰しだが、この実態は有志連合だ。この実態とは、従来なら米軍の軍人補給として州兵まで投入する事態(なおイラクには州兵が多数投入されている)に、米国民の代わりに、韓国人や日本人、
オーストラリア人を代替で投入させるということだ。これらの国が完全に米国の属国となりその国民の血が国民の意志でなく流される時代になる。この問題は、米国がイラクで国連に地歩をゆずるかに見えるので国連の目アリと読む呑気な輩も多いのだろうが、楽観できない。というのは、この夏あたりに、NATO軍がイラクに投入されると見ていいからだ。それが有志連合とどう距離を置くかが、世界の軍事構造の根幹を決めるだろう。日本はなんとしても国連を盛り立てなくてはいけない時期なのだ。
 これらの要因から、米軍の組織が変わり、すでに沖縄の海兵隊は事実上削減された。正確に言えばそこまで言うのはフライングの可能性もある。本土側ではニュースになっていないように思えるので、2月5日沖縄タイムスの記事を引く(参照)。

在沖海兵隊削減/外相「将来は補充」
参院予算委/島袋氏質問に答弁
 米国防総省がイラク派遣の在沖海兵隊約三千人を沖縄に戻さず、事実上の削減を検討していることに関し、川口順子外相は四日午後の参院予算委員会で、将来的には海兵隊が補充されるとの認識を示した。
 島袋宗康氏(無所属の会)の質問に対して明らかにしたもので、「今回の派遣後には、本来沖縄に駐留するはずの規模の部隊が沖縄に展開することになっていると(米側から)聞いている」と答えた。
 外相は同時に、「最も円滑、効果的な米軍の運用を確保するためには、派遣される部隊も本来、沖縄に駐留する必要があると説明を受けている」と述べた上で、派遣期間の今年三月から九月までの七カ月間は米軍の運用上の必要な手当てによって、抑止力の低下は生じないと説明した。

 島袋の質問と川口の回答を比べて、川口の回答を取る馬鹿はないだろう。つまり、これが今朝の毎日新聞社説「普天間返還 膠着打開のきっかけつかめ」の浮かれの裏にあるものだ。つまり、毎日新聞は問題の真相を、サヨク的な視点で矮小化しているに過ぎない。結語を引く。

 米軍の戦力再編の機会をとらえて普天間飛行場の返還問題を一歩でも前に進めてほしい。政府はそのための戦略を練るべきだ。
 政府は米国に積極的に働きかけ、膠着(こうちゃく)状態が続く普天間問題を動かすきっかけを早急につかまねばならない。

 この結語は白々しいし、問題の背景に日本全体が絡み取られていることに目をつぶっている。中国人が「福」という字を逆さにして壁にはり、幸運が降ってくるといいと縁起を担ぐ。毎日新聞および本土日本国民は同じような運頼みになってしまった。沖縄が日本であることに目を向けず、また、日本が国際世界でどう存立していいか、見失っているである。

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2004.02.13

漢字という虚構

 さらに漢字について書く。ご関心のないかたも多いことだと思うので、おつきあいを願うものではない。そして、おつきあい頂いたかたの反論や反感も多いのではないかと思う。ある程度、しかたがないと思う。というのは、これまでの漢字についての私の話は虚構といえば虚構なのだ。「白川静は『と』だと思う」(参照)で、なぜソーシュールなんかをひっぱり出したかというと、虚構を打ち立てるためだ。
 虚構は、ここでは、嘘という意味ではない。言語学の方法論というのは、こういう虚構を必要とする。そして、この虚構がなければ、果てしない混乱になるし、私は白川静の漢字研究はその混乱の果てであると考えている。以上の考えに変更はない。
 が、もう少し述べる個人的な必要性を感じている。私のこの分野の思想を少し展開してみたい気がするのだ。
 関連して余談めくが、この間、暗黒日記から批判のようなものがあった。ご関心のあるかたは、先の記事の長いコメントを読んでいただいて、ご自身の考えを深めていただきたい。私の考えが正しいと強弁するものではない。また、茶化していると受け止めてほしくないのだが、その後の暗黒日記の平成十六年二月十二日のコメントが、愉快だった。おそらく、私のコメントを読んでの感想であろう。私は暗黒日記の批判に対して、端的に言えば、ソーシュール言語学の根幹であるラングとパロールを理解していないよと指摘したのである。喧嘩を売る気でないことが了解されて幸いではある。


平成十六年二月十二日
服部四郎氏が時枝誠記氏を非難した時にも「ソシュールの言語学を誤解している」「ラングとランガージュを混同している」式の言ひ方をしてゐるのだけれども、「ラングの學問」に反對する人間に「ラングの學問」の信奉者のする非難のやり方はパターン化してゐる。「お前はラングを知らない」――そんなにラングと云ふものは素晴らしいのですかね。

 愉快と思ったのは、そこがソーシュール学理解の天王山なのだろうなと思うからだ。そして、その天王山は、普通の日本人の常識からすれば、「そんなにラングと云ふものは素晴らしいのですかね。」と言い捨てるべきものだろう、ということだ。それでいいのだと思う。ソーシュールの言語学など理解する必要などはない。時枝誠記の認識論とまざったヘンテコな文法論を三浦つとむが展開し、吉本隆明がさらにスターリン言語論のように発展させても、それは、近代言語学とは関係ない。けっこう脳天気な服部四郎にしてみれば時枝の議論など雑音のように聞こえたたのではないか。そんなものだ。ふと思い起こすが、吉本の言語論を川本茂雄は晩年できるだけ好意的に理解しようとしたが、川本さんは善人だなという印象を与えるだけに終わった。
 ラングの素晴らしさ、それはソーシュール学の学徒の至福でもある。それがなければ、近代言語学という虚構が成立しない。と冗談を込めていうのだが、それなくしてはブルームフィールド(Leonard Bloomfield:彼は実は巧妙にソーシュールを避けている)もなければ、構造主義言語学を大成するかに見えたハケット(Charles Francis Hockett)やハリス(Zellig Harris)もなく、ハリスからチョムスキーが出てくるわけもない。チョムスキーのLinguistic competenceとはソーシュール学のラングと中世以来の述語論理を合体させ、認知心理学だの生物学だのの装いを変えてみたもの、と冗談を込めて言えるだろう。
 ラングがなぜすばらしいかは、ソーシュール学をソーシュール自身の学の大成の過程を追って学んだものにしかわからない面がある。と同時になぜソーシュールが偉大な言語学者なのかわかりづらいだろう。と、れいの阿呆なWikipediaの「フェルディナン・ド・ソシュール」(参照)を見ると、不思議に悪くない。英語の解説よりはるかにましだ。誰が執筆したのだろうか。いずれにせよ、この記述が重要だ。

1878年暮れ、「インド・ヨーロッパ語における原始的母音体系についての覚え書き」を発表する。これは、ヨーロッパ圏の諸語の研究から、それらの祖となった印欧祖語の母音体系を明らかにしようとしたものである。この論文において半ば数学的な導出によりソシュールが提出した喉頭音仮説が、後にヒッタイト語解読によって実証され、これが20世紀の印欧祖語研究に大きな影響を与えることになる。

 この方法論も恐るべきものだが、重要なのは、この問題が19世紀の言語学の最大の課題であったという点だ。つまり、言語学とはソーシュールの一般言語学講義以前は、イコール比較言語学だったのだ。比較言語学(Comparative linguistics)は、比較文化論のような比較でではない。言語学ではその「比較」はcontrastiveと言う。comparativeとは、印欧語の祖語を探す学問なのである。
 なぜこんな学問が当時言語学の主流だったか現代からはわかりづらいし、米人の言語学者など端から関心がない。というか、Edward SapirやBenjamin Whorfなどはインディアン言語の関心に向かっている。もともと米国言語学とは人類学の下位なのである。
 話を戻して、印欧語祖語の研究とは、端的に言えば、インド植民化でインドの知的財産特にサンスクリット文献が欧州に知られ、そしてその祖語がギリシア語と同源であることに気づいた驚愕感が起点でもあっただろう。これに、18世紀以降の言語起源論がベースになる。西欧のこの時代の原形なのだが、ギリシア哲学的なアルケーの考えが、ネイチャーに変化する。そして、諸学の基礎をこの「自然状態」から説明しようとした。ホッブズの社会思想は端的にそうだし、マルクスの自然概念もこれに由来している。言語学では自然から言語の起源が課題になっていた。ルソーの「言語起源論」もこの流れにある。
 こうした経時的な組織の課題のなかから、ソーシュールは言語の共時性を発見した。この発見はその学徒にすれば革命的なものだ。同時に、文法=ラテン文法から、諸言語を開放したとも言える。ラングが概念構築されて、始めて、言語の研究が可能になったのだ。素晴らしいとしか良いようがないのだが、他分野から、また、歴史を離れた人間からは阿呆に見えるだろう。
 ラングは虚構なのである。そんなものは存在しないと言えば存在しない。実際の言語現象のなかから、ラングを帰納することは、たぶんできない。ラングはある意味、超越的な理想原理なのである。
 長い前振りになったが、漢字の起源に戻そう。漢字の起源において、意味をその音価とし、その音価を古代中国語のラングに私は措定した。それが言語学の方法論として近似的に正しいはずだからだ。
 だが、それは虚構なのである。しかも、それは近代言語より危うい虚構だ。漢字起源時の音の体系が存在すれば、漢字の起源学はこう議論しなければいけないというシミュレーションである。チョムスキーの生成文法のようなねじれがある。
 が、虚構は虚構として成り立つ。
 が、虚構は虚構である。漢字起源のどこに最大の問題があるか、といえば、その音の組織性が実は、ラングとしての古代中国語によるものではなく、「切韻」のように、ただの規範の反映かもしれないのだ。簡単にいえば、「漢字」を読むために、こういう音を与えようという便覧である。そもそも、漢字一文字に単音しか与えられていないのは、不自然極まる。これは、漢字を読み下すための便宜であると見るのが妥当だろう。
 とすれば、その音価は、ある程度しか、古代中国語の音価を反映していないことになる。たぶん、それが言語学ではなく、歴史学的に考察したときの妥当な結論だろう。
 するとどうなるのか? そもそも漢字の意味はどうなるのか。常識的に考えて、漢字一文字に単音を与えたところで、そのバリエーションはたかが知れている。日本語など「声」がないので、「ショジ」といわれても「諸事」「諸寺」「所持」「庶事」となんの意味ももたない。すでに、この日本語の熟語ですら二語(二字)の組み合わせになっているように、中国語でも、よほど基本的な語彙を除けば、二語がないと言葉にならないのである。つまり、一語の音価だけでは意味が十分に担えないのだ。そして、そのことは古代においてすらそうだったことだろう。仮借が多いのも、単一漢字の意味がない(弱い)ためだとも言える。
 すると、そういう側面で極論すれば、漢字単体の意味などないとまで言えるのか。言えるのかもしれない。じゃ、意味をなす熟語はどのように発生するのか、といえば、だから文脈が必要になるし、文脈をプールして文脈全体をコード化するしかない。
 それが、四書五経の一つの正体でもある。
 ひどい言い方をすれば、その内容はどうでもいいのだ。とまでは言い過ぎか。しかし、日本人が儒学を中国から輸入したと思い込み、論語だの研究しているが、同時代の中国人はそうした古代的な儒学などすでに廃棄している。儒教とは道教のバリエーションなのだ。ちょっと極言するが、朱子学とは道教なのである。
 こうした中国の世界、つまり、四書五経がなければ漢字が利用できないという変な世界が変革するには、別の文脈のプールが必要になる。
 それを提供したのは、明治の日本だ。大量に西洋語を翻訳して言葉=熟語を生み出した。革命なども本来は「易姓革命」である。ちなみに易姓革命というのは日本人は理解しづらいだろう。ところが、日本近代の革命はrevolutionの訳語だ。同様にこうした言葉は西洋の言葉の翻案として膨大に作成され、それが、清朝末の中国人知識人に湯水のように流れ込んだ。資本論が中国語で読めるのは、近代日本人が翻案の熟語を作ったからだ、とまで言えば、批判もあるかもしれないが、そう言っても妥当だろう。同じことは朝鮮にもいえる。朝鮮が漢字を捨てて嘆かわしいと思うが、漢字を表に出せば、近代文が日本語であることが明白になってしまうのだ。
 さらに日本の明治時代の言文一致運動は中国にも影響して、口語をなんとか漢字のようなもので記述しようと試みられた。近代日本語を日本の文学者が形成したように、その影響をうけて現代中国語もできた、といえば、中国は怒るだろう。なにも、そんなことは理解してもらう必要などない。日本人が知っておけばいいのだ。
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阿Q正伝
  ふと、この努力を行った魯迅を思い出す。現代の若い人たちは「阿Q正伝」を読んでいるだろうか。この一冊を読めば、中国の98%がわかるのではないかと思う。という私が中国を理解してなければお笑いだが、少なくとも、「阿Q」の響きの意味は知っている。気になって、アマゾンの阿Q正伝の評を見たが、嘆かわしい感じがした。お薦めしたいが、すでに読みづらい古典なのかもしれない。

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ちょっと辻元に同情する

 新聞各紙の今日のテーマは辻元判決と北朝鮮問題でまたぞろ田中外務審議官のスタンドプレーというところ。どうしてこうも社説っていうのは乗り気のしない話題なのだろうと思うが、そんなものだ。辻元判決については、執行猶予もついたのだし、これもそんなものだろう。が、朝日新聞社説「辻元判決――ひと騒ぎのあとで」がむごい。


 断罪された「秘書の名義貸し」は、企業に秘書給与を払わせていた与党議員の多さとともに、あのかいわいでは半ば公然と語られていた。彼女の共犯が土井たか子氏のベテラン秘書だったことが、ぬかるみの濁りと深さを映し出していた。その後、暴力団関係者に秘書給与を払わせていた与党議員も明らかになった。
 そんな世界だからこそ、辻元氏はもっと脇を固めるべきだった。自分が責め立てた相手のしたたかさを考えれば、あまりにも甘かった。

 違うよ。そんなふうに辻元を責めるなよ、と思う。悪いのは、社民党だよ。彼女は社民党の生け贄になったのだ。むしろかわいそうだと声をかけてやれよと思う。が、そういう人情が通じないのがサヨクのいいところ。

 ともあれ、この裁判が幕を閉じたあと注目すべきは、秘書給与をめぐる一連の事件がどう生かされるか、である。

 これも違うな。社会党・社民党がどれほど腐った存在なのかをあばけと言いたいところだが、実はこんなもの叩いても意味はない。すでに、そこに巣くっていたサヨクは奇妙な、ぬるい分散を始めている。
 この状態をなんといっていいのかわからない。「中道左寄り」かぁといういうようなぬるい話でもない。若い知性たちは、現実の問題に向き合いもしない、というか、奇妙な現実なる虚構で知性を消費し始めているが、それは自分らのエリート性の社会表出でしかないように見える。てめーらみんな下放してやると息巻きたいところだが、それも意味ない。なんだろね、この、ぬるい状況は。
 田中外務審議官のスタンドプレーもなんだかなと思う。総じて言えば、そう非難されるほどでもなかろう、というか、意外に外交官の本領ということろかもしれない。
 また朝日新聞社説になるが「日朝協議――ここは勝負どころだ」には、開いた口がふさがらない。

 しかし「子供たちが日本に行きたいと言えば帰してもいい」という条件付きでは、日本側が望む全員帰国の保証にはならない。確かに子どもたちにも北朝鮮での生活があるだろうが、もし自由意思を尊重するというのなら、いったん全員を日本に帰し、しばらく親たちとともに生活したうえで最終的な意思を確認する道もある。

 罵倒もしないよ。勝手にしろよ。でも、そんな意見は日本人に通じないよ。
 他の話題として、毎日新聞が取り上げていた「大阪市三セク 調停で2次破たん防げますか」は興味深い論点だが、どう考えていいのか私にはわからない。三セクの問題は考えたくないと逃げ腰になる。もう一つの「刑法改正 安易な一律厳罰化は避けて」は作文としてはいいがピンとこない。冗談でいうのだが、日本もシンガポールみたいにむち打ち刑でもやったらいいのではないか。しかも公開で。でも、実際にやったら変態さんの犯罪が増えるか。
 なんか冗談でお茶を濁す問題でもないのだが、萎えるなぁ。社会の問題が、水戸黄門シリーズを見ているマンネリ感があるからだろう。印籠は出てこないけど、新しいストーリーはないのだ。

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2004.02.12

漢字は表意文字という話

 たまたま先週週刊現代を読んでいて、京大教授阿辻哲次「漢字道楽」というエッセイが面白かった。話は、数年前まで「阿辻哲次」の「辻」という字を中国人によく問われたというのだ。


数年前まで、初対面の中国人と名刺を交換する時には必ず、貴殿の苗字には奇妙な文字があるが、この「辻」とはいったいどういう意味か、まともな漢字なのか、それとも日本で作られた記号のごときものか、漢字であるとすれば、中国語ではどう発音すればいいのか、などとあれこれとたずねられたものだった。

 この話でまず五分は盛り上がったのだそうだ。ま、中国人としても承知の上の洒落である。「辻」は国字といって日本でできた漢字なので中国にはない。それ自体は別にどうっていう話でもないのだが、中国人が気になるのは、「どう発音すればいいのか」である。
 そうはいっても、国字に中国音などありようがない。が、実際には困らない。どう見ても、これは、「十」で音をとるしかない。このエッセイにもあるように、中国の最近の辞書「現代漢語詞典」には"shi"と記載され、意味も日本の国字であり云々の意味が記されている。
 いずれにせよ、漢字であるかぎり、中国では音価が与えられているし、音価は1つに決まっている。これは朝鮮でも同じなので、中国人や韓国人からすると日本の漢字の状況が理解しづらい。
 中国では、音価が同じなら別の漢字を当てることもある、というか、それが慣例化すると、漢字は入れ替わりが固定する。この現象は仮借という。歴史的に見ると、漢字のかなりの部分が仮借から成り立っているので、漢字の語源を考える場合は、仮借をまず考慮する必要がある。仮借については、山田勝美を引くだけだが、清朝朱駿声「説文通訓定声」がほぼ原典となる。
 私の言い方にすれば、漢字というのはまず音価ありき、である。音価が同じなら、どのような面を使おうがそれほど問題にはならない、というのも、音価が意味を担っているからだ。
 山田勝美は「漢字の語源」でこう説明している。

 たとえば「馬」という文字を問題にするばあい、この字の出現しない以前から、あの動物を「バ」という音で呼んでいたのである。であるから、「馬」の字は「象形字」で、ある動物の形をかたどったにすぎないが、字がまだ作られておらず、あるいはすでに作られていても、「バ」という音でこれを呼んでいた時には、なぜこの動物を「バ」と呼んだのか、その理由を考えてみることが必要となってくる。

 「馬」の意味は、「馬」という字面が担っているのではなく、「バ」なりという音価が担っているのである。さらに引く。

さらにもう一例あげると、「鼻」という字を考えるばあい、この字は字形としては「自」(鼻の象形)と「(鼻の下の部分で、音価はビ)」(音符)からなる「形声字」であるといえば、これで一応の字形は説明されたことになる。しかし、この字の作られる以前から「自」あるいは「(鼻の下の部分)」の音で「鼻」のことを呼んでいた。すなわち、「音」は文字の作られる以前から存在していたのである。すると、「鼻」を「自」あるいは「(鼻の下の部分)」の音で呼んだのはなぜか。その「音」はいかなる意味であったのか。鼻のいかなる特徴を捉えて、この「音」で呼んだものであろうか。

 仮借と音義で考えると、例えば、「商」という漢字は、女性の生殖器の形象だが、その形象の意味はなくなっている。「商売」の商は仮借で、本字は「唱」。呼び売りの意味だ。あれを買え、これを買えと呼ぶ。「商量」の商も仮借で、本字は「称」。つまり、「称量」。
 このように、漢字は基本的に、表音的な性格を持ち、表意ではない。では、なぜ、それが表意文字とされるのか?
 このブログの記事を書こうと思ったのはその点の補足だ。漢字は、表音文字ではない、という強調だ。2つ理由がある。
 一つは、漢字はそれぞれ古代の音価によって意味を担っているが、その古代の言語の音声を写し取ることができない。恐らく、日本語で言う「てにをは」に相当する格は含まれていない。つまり、漢字という音価をもつ記号をどうならべても、文章は構成できない。これは、かなり現代に至るまでの中国語の特徴で、たとえば、論語など、中国人はすらすらと音価を与えて読み出せるが、まるで、意味をもたない。その音価の羅列が中国語にならないからだ。彼らも漢籍は現代注釈書を使って読んでいる。
 もう一つは、漢字の本質的な利用法は、異言語・異民族への通知の機能を担わされてきた。漢字は音価を持つが、その音価は、意味が均質に伝達できる集団から逸れれば、音価と漢字の意味を分離して、別の音価を与えることができる。一番顕著な例はまさに日本の漢字だ。
 「日月盈昃」とあっても、「ひ・つきは、みち・かく」と読み下してしまう。そして、同様に、「ほしのやどりはつならなりはる」とつぶやいて「辰宿列張」と書くことができる。他の民族でも同じことができる。なにより、中国大陸の多数の言語間でこの便宜によって意思疎通ができる。
 もともと、漢字が中国に必要になったのは、むしろ、こうした便宜、つまり、多民族を支配するためだ(同時にいつでもいかなる民族でも王朝を打ち立てることができる)。
 その意味で、漢字は、表意文字として利用される。多民族でない中国世界すら想起しづらい。
 私の考えをまとめておこう。「漢字は表音文字的に発生したが、表意文字として利用される」ということだ。漢字の起源や原義を考察するには、音価が一義になる。しかし、漢字が多言語間で利用されるときは、表意文字となる。
 別の言い方をすれば、中国語に、会話や思いを表現するための表音文字は存在しない、ともなる。
 そんな馬鹿な。現に現代中国語は漢字で書けるではないか、と。あれは、歴史的に見ると近代日本語の影響なのだ。

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[書評]神の微笑(芹沢光治良)

 週刊新潮をめくっていて、思わず、うぁっとうめき声を上げてしまった。記事ではない。広告だ。芹沢光治良の「神の微笑」が文庫化されるのだ。

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神の微笑
 私は単行本はどしどし文庫になるべきだし、良書は文庫として若い人に提供すべきだと思う。この本だけは文庫にしちゃいけないなんって本は存在しないと…思っていた。が、ある。これだ。「神の微笑」だ。この本は、このまま歴史の彼方に奇書として消えていって欲しかった。でも、文庫で出ちゃたんだ。新潮社、本気か。いわく「芹沢文学の集大成、九十歳から年ごとに書下ろした生命の物語“神”シリーズ、待望の文庫版」。
 世の中に危険な本と呼ばれる本は多いが、本当に危険な本というのは少ない。が、これは、危険物だぞ。知らねぇぞ、俺は、とかいいつつ、こうなっちまったらしかたないだろうと思う。爺ぃファンタジーという独自分野(そんなのあるか)でこのくらい面白い本はない。私はシリーズ全巻読んで、その毒にのたうちまわった。そういう体験も読書のうちだと思う。というわけで、薦める、ことにする(いいのか?) 佐藤愛子みたいなのがちまたに溢れるのかぁ。うー、胃が痛くなる。
 このシリーズは、当時まだ続くのかよ、とはらはらしたものだ。そして、神のお恵みあれ、このシリーズは歴史の彼方に消えていくことになる…と信じた。でも、復刻かぁ。角川書店が文庫にする、大川隆法のしょーもないSFファンタジー+しょぼい人生訓や、阿含教って何よみたいなのはわけが違うのだが、むしろ、そのノリで、この社会から拒絶されることを、祈りたい気分だ。
 ちなみに、芹沢光治良をアマゾンで検索したら、絶版が多い。「人間の運命」すら切れている。と思うに、「人間の運命」の刷り増しが後回しなのかとまた絶句する。ちょっと「はてな」を検索したら、まだキーワードにはなっていないようだ。ほっとする。と同時に、芹沢光治良について説明が必要な時代になったのだなと感慨深い。ありがちな説明を端折るとこんな感じだ。
 明治29年、静岡生れ。第一高等学校から東京帝国大学経済学部を卒業。農商務省辞してフランスのソルボンヌ大学に留学。当地で結核。昭和5年帰国して書いた「ブルジョア」が「改造」に当選。「人間の運命」で、日本芸術院賞、芸術選奨を受賞。フランス政府からコマンドール(文化勲章)を受章。日本ペンクラブ会長、ノーベル文学賞推薦委員。93年死去。
 しかし、これでは、彼と天理教の関係が見えない。彼は天理教の家庭に育った。そして、彼の人生の大半はその信仰から離れていたように見えた。が、がだ。

無信仰な僕が、一生の間に経験した宗教的現象を次々に想い起すと、これらが単なる偶然な経験ではなくて偉大な神のはからいによって経験させられたのであろうかと、自然に考えるようになった―人生九十年、心に求めて得られなかった神が、不思議な声となって、いま私に語りかける…。

 そう、語りかけるのだ。樹木ですらね。これがあの芹沢光治良か。しかし、このシリーズは、本人自身「小説」と言っているように、フィクションでもある。そのあたり、ピンチョンでも読んでいるような幻惑感が漂う。
 芹沢光治良がこのシリーズで描く「中山ミキ」をどう捕らえたらいいのか。それ以前に、現在はすましこんだ天理教の歴史をきちんと近代史のなかで再評価しなくてはいけないだろうとは思う。その異端の運動も含めてだ。この小説は、押さえ込んだ天理教のパワーが新しいかたちで噴出した「異端」でもあろう。が、もはや異端ではすまされはしない。「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」これらをきちんと歴史の文脈に戻して、天理教義から独立したかたちで評価しなくてはならないだろう。村上重良の死は早すぎたなと思う。余談だが、東洋文庫の「みかぐらうた・おふでさき」にはCDがあるのか。聞きたいなと思う。私の祖母は半生リュウマチだった。天理教は信じていないが、教師は親切な人で連れられて、お地場に「帰った」ことがある。生涯一度の長旅だったらしい。お手振りもできた。思い出すと泣ける。彼女の人生を天理教が救えたわけでもないし、そんな期待を持つべきでもない。だが、天理教の末端はあの時代に生きていたことは確かだ。そこには、神聖な力があったのだとしか思えない。
 芹沢光治良とこの最後の神シリーズは、「芹沢光治良文学館 第6期」(参照)に詳しい。知らなかったのだが、「天の調べ」の後にまだ遺稿があったのか。しかし、なぁ。読みたいか。
 キューブラー・ロスもそうだが、どうしてこれだけの知性が、最晩年、こういうことになるのか。人間の知性というのはそういうふうに型取るようにできているのか。俺すらも神を賛美して死ぬのだろうか。正宗白鳥みたいに。存在の根幹がふるえるような恐怖だな。

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不正アクセスはまずシステム管理者の問題

 私が書いても面白い話にはならないだろう。日経新聞社説「不正アクセス対策、再点検を」がおざなりすぎてこんなもんかいなと思った。話はれいのoffice事件だ。


 著作権保護団体のホームページから不正に個人情報を引き出したとして、京都大学の研究員が不正アクセス禁止法違反で逮捕された。電子政府構想が本格化する中、国家公務員法の適用を受ける国立大学の職員による行為だけに許し難い話だ。

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少年動物誌
 この研究員のハンドルがoffice。最初は、offenceの間違いかなと思ったが、洒落心はないようだ。
 ユンク心理学者河合隼雄の甥、という情報も見かけた。それって河合雅雄の甥ではないのかと思ったが、そういう洒落心もないのだろう。河合兄弟、知らない? 最近は「少年動物誌」とか読まれてないか。絶版ではないようだ。買って読み直したい気になる。
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無意識の構造
 ついでに河合隼雄の肩書きが「文部科学省顧問 前国際日本文化研究センター所長」とあるのを見て、ふーんという気がした。気になって「無意識の構造」が絶版か調べてみる。大丈夫、まだある。初版は1977年。これは市民大学講座のテキストをまとめたもので、私はこの講座を全部見ていた。中公新書で出たはけっこう後だった記憶があるから、放送は1975年ころか。私は高校生だっただろうか。初回の講義は河合隼雄がぬぼっとでてきてありがちなものだったが、二回目から女子学生をスタジオに連れてきて彼女らに話すように解説したと記憶している。面白い講義だった。30年くらい前になるのか。あのときの河合隼雄は今の自分くらいの歳かと思うと、最近のヨーダ化している河合隼雄を見るに、人生は長くないなと思う。あのころ、河合隼雄はユンク心理学を日本に定着させるべく模索しながら、さすがにその後の俗流ユンク心理学者とは異なり元形論の危うさと深さに苦悩していたと思う。人生後半の危機と影とアニマに思い入れがあったようだ。45歳くらいだと、彼自身の課題でもあったのだろうと思う。
 話が逸れまくった。officeは河合の血筋なんだろうなと思うがそれでなにか言いたいわけではない。日経が社説にまで書いて問題にしているわりに、彼がやったことは、技術的にはたわいないことのようだ。その解説は「圏外からのひとこと」の「30秒でofficeになる方法」(参照)が面白く関連の話も面白い。プログラマならこのあたりは普通の感覚ではないだろうか。ついでに、「元祖しゃちょう日記」の「情報を伝えるメディアと情報を誘導するメディア」(参照)も笑えた。日経にしても朝日にしても、技術的なレビューをする者がないということなのだろう。それも問題だなとは思う。
 頭がこっちサイドになると以下のような話は、不思議な世界の出来事のような印象もある。

問題はなぜこうした事件が起きたかである。研究員は首相官邸や都市銀行など多くのホームページの問題を専門誌などで指摘するマニアだったが、いずれも「CGI」と呼ばれるプログラムの欠陥を問題にしている。ホームページに必要事項を記入すると欲しい情報を返してくれる一般的なシステムだが、古いプログラムでは意図的に操作を加えると蓄積された情報を見ることができた。

 コメントしようもない。結語は「侵入者は当然罰せられるが、情報を扱う側にも守る責任がある。」というつまらないしろものだ。
 うまく言えないのだが、プログラマはシステム管理者たちは、この問題をどう考えているか、というと、ぬるい困惑というところだろう。その辺の「ぬるさ」というのは、社会とどう関わっているのかよくわからない。日経社説はピンボケだがピンボケとして笑って済むことでもない。
 関連して住基ネットだが、これもヤッシーが言うほど問題でもないし、ヤッシーが誰かに乗せられているのだろうが、その方向からつっついても、技術的にはどってことない。RFIDについても似たようなもので、技術的には、それほど問題でもない。office事件のような話も、技術的には、間抜けでお笑い、なのだ。
 社会の危機の問題で言えば、今朝の毎日新聞社説「住基カード 露呈した本人確認の危うさ」がいいところを突いている。問題は、そうした技術と関係したところで起きる。事件はこうだ。

 事件は、有印私文書偽造・行使などの容疑で逮捕された男が知人になりすまし、申請書に自分の顔写真を添付して知人名義の住基カードの交付を受けた、というものだ。たまたま男がカードを紛失したため犯行が発覚したが、名義人も同市役所関係者も虚偽申請の事実に気づいていなかった。

 そういう社会になるのだ。というか、日本とはそういう社会だった。今だって健康保険証は本人確認に十分なわけないし、フリーター君たちがやっているように、「風邪ひいたぁ、保険証、かしちくれぇ」という互助の社会は暗黙の了解である。今週のSPAのくらたまの漫画にあるように、婚姻届や離婚届なんか、偽装は簡単なものである、というか、むこうさんも手慣れたもので、痴話に適当に距離を置くというくらいだ。のわりに、国籍が絡むと陰湿だがな。ちょっとここに書けないネタも私は知っているのだが…ちょっとだけいうと、戸籍の係のとこに康煕字典が置いてあるんだよね。ついでに相続についても、けっこう杜撰だ。私の父は叔父に全財産を盗まれている。
 いい加減なまとめだが、日本のそういう間抜けというのは、それなりに意味があり、機能しているのだとしか思えない。それにIT化というのは別のルールを持ち込むということだ。そして、そのルールはつい、阿呆な視点か技術の視点で語られる。そして技術の視点がつい勝ちになる。そりゃ、ね。
 だが、私は社会に技術が関連しているとき、その説明責任は技術に依存してはいけないと思う。昔アメリカの人生論だったか、「あなたの問題をコンピューターのせいにする言い訳をけして認めてはいけません」というのがあった。これは、断固として認めてはいけないのだ。そのカラクリを理解しようとしてもいけない、というのがポイントだ。
 私は昔流しのプログラマをしていたし、8ビットCPUくらいの論理回路を組むこともできた(今はつらいか)。だから、情報技術のトラブルの説明で技術情報をされてもたいていは、嘘こくんでねーとか思う。しかし、そんな背景は、結局必要ない。
 問題は市民社会の問題なのだから、その文脈で筋を通せばいい。そうした観点で言えば、今回の事件の不利益を起こしたのは誰か? officeか、システムの管理者かということになる。私は、金庫に入れない金は盗まれてしかたがないと思う市民なので、システム管理者が一義的には問題だなと思う。

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2004.02.11

[書評]男の人って、どうしてこうなの?(スティーヴ・ビダルフ)

 

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男の人って、
どうしてこうなの?
 「男の人って、どうしてこうなの?」(草思社:スティーヴ・ビダルフ)について、「これってどう、あなたにあてはまるの?」と訊かれた。女にである。「よく当てはまるし、男についてこれほどきちんと書かれた本はないと思う」と答えた。「ちょっと、オーストラリアっぽい感じはするけど」と付け加えた。女はけげんそうな顔をして、またその本をぱらぱらとめくっていた。読んでもわからないと思うよ、とは口に出せなかった。
 自分でもいつ読んだものか、まだ書架にあったのかすら忘れていたのだが、翻訳は2003年3月とあるのでそんな昔でもないのか。原作"Manhood"は1994年が初版。オーストリアの本だ。米国でも売れたと聞くが、どの程度だったのだろう。原作と翻訳との差がきつそうなので、原書も読んでみたいと思いつつ忘れた。訳本は日本で売れただろうか。自分では面白い本だなと思ったが、書評などをみかけたことはない。
 もともと、この本は、「男の子って、どうしてこうなの?―まっとうに育つ九つのポイント」(参照)の、二匹目のドジョウといった感じだ。こちらの本は、男の子を持つお母さんがたに売れただろうと思う。
 「男の人って、どうしてこうなの?」はこんな構成だ。これを見ると、男の人は読まないのではないか。うざい感じがするからな。

    【男が大人になるための7つのステップ】
  1. 父親との関係を修復する
  2. セックスに神聖さを見出す
  3. パートナーと対等に向きあう
  4. 子どもと積極的にかかわる
  5. 同性の親友をもつ
  6. 自分の仕事に愛情をもつ
  7. 野性のスピリッツを解放する

 しかし、これはどれもけっこう重要な問題だ。が、なるほどと実感できるのは40歳過ぎてからだろう。この構成からはわからないが、男の40歳のというのは、この本の大きなキーワードになっている。それは後でふれよう。
 私がこの本を読んで、記憶に残ったのは3点ある。1つは、この本が別の本から引用している部分でもあるのだが…これだ。

(前略)多くの男性にとって、射精はいっさいのクライマックスの感覚がなくて起こることが多い。
 このことを理解しないかぎり、女性は男性の性の肝心な部分がわからないだろう。多くの男性もそうだ。(後略)

 言葉の定義にもよるのだろうが、射精は生理的な反応でもあるので、当然、その反応の感覚はあり、その強度の感覚は通常男性にとって快感であるとされている。が、本当か、というと男ならちょっとためらうものがあるだろう。性欲が刺激され勃起し、射精するというプロセスは、どうも、それほどには精神的なプロセスでもない。起点の、性欲が刺激され勃起しというのは、ある程度、そういう部分に自我を追い込まなくはならないか、あるいは追い込むようなオカズが必要だったりする。これは意外にうざいというか、そういう存在に追い込まれているのは自我にけっこう負担がある。20代ではまだそうでもないか。
 また、その性欲の対象は、通常は女の身体に連結されるのだが、女の身体といってもそこには、男の側から見た「心」の幻想を必要とするので、こういう言い方は偏見かもしれないが、20代前半の女性にはなかなか、そういう幻想を満たしてくれる部分が少ないだろう。もっともその年代の女性にしてみれば、そんなこと言われてもなぁであろうし、そのあたりの男の幻想の制御ができて、不細工でもなければ、それだけで金も儲けられる。
 と、うだうだ書いたが、射精にまつわるやっかいな問題は依然やっかな問題であり、率直なところこの本の解決案は、なんか方向違うようにも思える。それでも、問題の指摘としてはよくできていると思う。
 2つめは、ローンだ。え? 話の次元が違うのではないかと思えるかもしれないが、これもうまく書いている。ちょっと長いが痛烈なので引用する。

 わたしたちは大人の生活をはじめるときに家をもち、一生かかってその負債を支払ってもいいという抵当システムをもっている。(中略)銀行に借り入れの相談に(言うまでもなくネクタイを着用して)行ったあなたは、十万ドルを手にして戻ってくるのだ。それは軌跡としか言いようがない!
 だが、彼らがあなたに告げない何かが起こる。あなたが睾丸を置いてくるということだ! 銀行の経営者は、それをほかの人のものと一緒に、つぼに入れて金庫に保管する! もしあなたが人生で何か冒険をしたい、エキサイティングなことやリスクのあること、あるいは一風変わったことをしたいという思いにかられても、そのチャンスはない。なぜなら、そうするための金玉をもっていないからだ!
 ともかく、自由な人間であるためには、この罠から逃れなくてはならない。(中略)子供たちを私立の学校に通わせるかわりに、自分の時間をもっとさいて子どもたちに教えることもできる。(後略)

 ま、そういうことだ。金玉の比喩は宦官のイメージだろう。たいしたことではないようだが、30過ぎて金玉を抜かれると男はかなりきつい。日本ではパラサイトが問題だが、このあたりのことも関係しているように思う。むしろ、貧乏な男やフリーターのほうが、ローンなんか組めないから、30半ばくらいまで金玉をぶらさげていられる。その先は? わからない。まだ日本はその先まで展開していない。40歳負け犬女と同様に、その30歳かろうじて金玉フリーター男がどうなるのか、まるでわからない。
 3点目は、男の灰の時代についてだ。大人の男になるためには、一度、灰になる必要があるのだと著者はいう。ユング心理学あたりの援用でもあるのだが、それはある意味、真理でもあると思う。40歳くらいでそれが訪れる。
 本書にはその解決はない。灰になるのだ。しいていえば、灰になり大人になった男同士の助け合いが必要だというのは、確かだろう(灰についての表現はヨブ記かもしれない)。
 男が灰になるということを、女はどう捕らえるのだろうかと思うことがある。わからない。だが、その時、実は初めて男は女を愛するようになる、だろうとは思う。

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仏教入門その1

 私は仏教を理解しているとはとうて思えない。私の仏教入門など、お笑いぐさだろうと思う。が、メモがてらに書いてみたい。自分の人生のちょっとした追想のようなものであるからだ。
 仏教を知るのに最適な書籍はなにか。私の結論は「大乗起信論」である。現代語訳付きで安価な岩波文庫のものが近年出ているのだが、アマゾンを見たらすでに在庫がない。ある意味、よいことだと思う。大学の教科書などで利用されているのだろうと推測する。皮肉を言えば、よって、古書でより安価にありそうなものだが、アマゾンの古書にもない。
 現代思想かぶれには、井筒俊彦の「東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 中公文庫BIBLIO」が受けるだろうが、井筒俊彦はあまりお薦めしたくない。デリダとかお薦めしたくないのと同じ理由だ。私は井筒のファンとも言ってもいいのだが、こうした本は若い人には害があるように思う。
 現状、大乗起信論は安価なものはなさそうだ。「訳注 大乗起信論」はデータベースを見る限りよさそうだが、私は読んだことがないので、お薦めはできない。リンクはあくまでご参考まで。
 大乗起信論を薦めておきながら、大乗起信論をおまえは理解しているのかと言われると、胸をはってそうだとは言い難い。迂回した経緯がある。私は大乗起信論を英語で読んだ(正確には大乗起信論解説書)。"Outlines of Mahayana Buddhism"である。おそらく仏教を研究する人間でこの書物を読まない者はモグリである。マックス・ヴェーバーですらこれを基礎文献とした。この翻訳は全集などに存在していないのかと思って、戯れに検索してぶったまげた。あるのだ。しかも、しかも新刊ではないか! 岩波書店から「大乗仏教概論」。残念なことに値段が6300円なので、おいそれとお薦めできない。しかし、この書籍を読まずに現代で仏教を語ることは、やはりモグリと言っていいだろう。
 著者は鈴木大拙である。私は、大拙の著作の大半は読んだ。大衆向けの啓蒙書も多いので読みやすい。が、現在私は大拙の仏教理解には批判的だ。それはなにも彼が戦時国粋主義だったとかいう浅薄な問題ではない。禅について、私はまったく異なる立場に立つようになったからだ。恥ずかしい言い方だが、私は道元の徒である。臨済禅や禅文化など認めない。禅文化が日本文化に寄与した美については恥ずかしいが耽溺しているのも事実だが。
 Outlines of Mahayana Buddhismは大拙の30代の若いころの作品で、英米圏の読者をターゲットにしているせいか、逆に英米圏の文学的な参照やレトリックが多いので、現代人には辟易する部分もあるかと思うが、それでも仏教の抹香臭い概念を英語でずばりと置き換えていく大拙の明治人の胆力には驚嘆する。おそらく、英文とつきあわせてよめば、仏教とはこういうものだったのかと愕然とする人もあるかと思う。私がそうだったからだ。
 大拙の著作もまた薦めない。彼の弟子気取りの秋月龍岷の啓蒙書など読む意味はない(ひろさちやなど噴飯)。が、「一日一禅」は手頃な便覧として便利である。彼の解説はご無用。大拙については、例外として、岩波文庫の「日本的霊性」は薦める。教養人の必読だろう。だが、この書物も実際にはあまり読み込まれていない。重要なのは、この「第4篇 妙好人(赤尾の道宗)浅原才市」の信仰なのだ。つまり、親鸞・蓮如を経由して出現する妙好人という存在をどう考えるかは大きな課題であり、大拙の実は難しいところだが、彼は禅よりも親鸞に傾倒している。余談だが、大拙は今から40年くらい前か、現代人は漢文が読めないで困るとぼやいていた。
 大拙は、仏教理解に大乗起信論、そして禅の理解に楞伽経を薦めている。楞伽経については、中村元の「『華厳経』『楞伽経』現代語訳大乗仏典」がある。初期禅の持つ存在論的な経緯を知るにはよいのだが、難しいすぎると思う。それでも、昨今の日本の浅薄な禅ブームから離れるために、目を通されるとよいのではないかとも思う。
 中村元の著作についても薦めない。文藝春秋の仏教入門で宮崎哲弥は彼の訳書「ブッダのことば―スッタニパータ」を薦めていた。私はこの本をよく読んだ。絶えず携帯し紛失しては再購入した。でも、これも私は薦めない。この本は、あたかも仏教の原点を早呑み込みして宮崎哲弥のような浅薄な者を生み出すだけだからだ。読むならこの本に描かれている「ブッダ」の伝承が、実は、どれほど呪術にまみれているのかをよく読み取らなくてはいけない。また、オウム真理教の小利口な者たちもこうしたパーリー語文献の世界に墜ちていったが、パーリー語文献から原点となる真の仏教なるものが発見できるわけではない。諸宗教に言えるのだが、原点の集団はあくまで社会学的な再構成モデルに過ぎない。教義もまさに社会学的モデルとしてその歴史社会の相関としてみなくてはいけないものだ。それをいきなりエクストラポーズして現代に持ち込んではならない。
 私は、仏教理解には、大乗起信論がよいとしたが、これには大きな問題がある。人をこの迷路に誘うのではないかと懸念もある。この問題を端的に表しているのが、「本覚思想批判」だ。現代の仏教書でこれほど面白い本はないとも言えるが、6500円は学生の小遣いで買う本でもないだろう。内容は、まさに大乗起信論を批判する点にある。類書といってはなんだが、「縁起と空―如来蔵思想批判」も面白い。
 と書いていて、中論や唯識まで触れる気力が失せてきた。唯識からチベット仏教にまで触れなくてはいけないし(欧米の仏教学はチベット仏教が主流だ)、途中、密教の問題にも触れるべきだろう。迷路のようだ。また、日本民俗のなかの仏教には、こうした教典系の知識は役にたたない。なぜ日本の仏像は阿弥陀、薬師、観音なのか、端的に考察した書物を知らない。
 なにも知識をひけらかしたいわけではない。
 大乗起信論で本当の仏教が理解できるのかと言えば、私は「本覚思想批判」の袴谷に近い。しかし、歴史的に仏教がなんであったかという問題にすれば、やはり大乗起信論を理解しなければいけない、とは言えるだろう。つまり、歴史学の視点だ。騙すようだが、宗教学なり私自身の宗教的な見解ではない。
 ついでだが、「道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元」について、私はよく理解できない。私は近代に出来た「修証義」は総体としては間違いだと考える。私は曹洞宗にはまるで関心がない。修証義を講ずる僧をまるで信じない。そして、道元については、―十二巻本「正法眼蔵」は不要なのではないかと考えている。
 袴谷が「法然と明恵―日本仏教思想史序説」で明恵を廃するのは理解できる。だが、日本史の理解にとって、明恵は北条泰時という傑物の文脈で見なくていけない。また、法然はその実践である親鸞に下るしかないだろう。そうした、袴谷と私の考え方のズレは、―十二巻本「正法眼蔵」の理解にも影響している。端的なところ、私は道元の晩年というものがよく理解できない。

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年金法案提出と新生銀行

 今朝の新聞各紙社説を見渡して、ぼんやりとした感じがする。テーマとしては二つある。一つは年金改革の関連法案であり、もう一つは新生銀行公開価格(525円)が決まったことだ。しかし、この二点に言及すべきことが思い当たらない。ぼんやりとした感じというのは、このたるい既視感のようなものだ。
 年金改革については、このブログでもなんどか扱ってきた。私の考えは、それはテクニカルにはそんなに難しい問題じゃないだろ、が基本である。だが、社会問題はテクニカルな点にあるわけではない。問題は二つある。一つは世代間の闘争的な含みだ。毎日新社説「年金法案提出 安心のメッセージが伝わらぬ」がうまく表現している。


 年金改革にパーフェクトな案はない。給付と負担のバランスの取り方で、負担する若い世代か、年金を受給している高齢者のどちらかに不満や不公平感が出る。これまでは、右肩上がりの経済成長がその矛盾を隠してきた。しかし、現状ではそれを期待できない。

 つまり、そういうことだ。この問題についての私の意見は、若い世代を優遇せよである。関連して、新聞各紙は議論を避けているようだが、年金問題は、おそらく、日本が積極的にリフレ政策をとれば自然に解決する可能性がある。しかし、政府はじりじりと小出しにリフレ政策を応用しているものの、日本社会の解決を志向しているわけではない。端的な話、現在の日本の構造にうまみのある人間が日本の政治を握っているのだ。雑駁に言えば、公務員と地方だろう。この問題は放置しておくと危険だとは思う。
 年金についてのもう一つの問題は、このブログのコメントからも示唆されるのだが、年金族への怨嗟の問題だ。私は率直なところ、年金族をつるし上げる必要はなかろうと考える。だが、実際の歴史というのはそう進むものではない。今朝の新聞各紙の社説はこの問題についてあえて触れていない。率直に言って、新聞社と年金族とのつるみがあるように見える。広義にいえば、公務員的になりつつある新聞(宅配料は一戸建て都市民の税金ではないか)にはもはや年金を扱う資格などないのだ。
 新生銀行については、日経新聞社説「新生銀行の再上場が示す金融の課題」が大きくとりあげていたが、ちょっと薄気味悪い内容だった。しかし、こうした見解もアリかもとは思う。テクニカルな問題面では私も理解できないこともあるし、あまり言及したい気にはならない。というか、そういうリングを前提にされるとなという感じだ。
 毎日新聞社説「新生銀行再生 見事さと後味の悪さと」はよく書けていると思う。といってその論に賛成するわけでもない。評価するのは、次のようなジャーナリズム的な記述だ。

 後味の悪さの第一は、この公的資金は何に使われたかだ。債務超過の解消と不良債権の買い取りは、元本保証ではなかった金融債の元本保証と、大手ゼネコンや大手流通グループの救済などに使われた。外資系投資家の懐に入ったわけではない。この不透明さは今も解明されていない。

 公的資金=税金、その支途が見えない。そんなことがあっていいのかと思う。毎日が指摘する二点目は「瑕疵担保条項」だ。日経のほうはハゲタカファンド論否定を打ち上げているが、私は腑に落ちない。三点目の「日本の民間企業は何をしていたのか」はタメなので無視。
 毎日の結語はよくわからない。

 新生銀行の再生を嫉妬(しっと)するのはお門違いだ。むしろ不透明だった金融行政を反省し、新生銀行の再生に学ぶべきだ。

 全然方向が違うと思う。しかし、それに私が関心を持つものでもない。UFJやみずほの危機はこのままだらーっと見過ごされていくのだろうか。卑近な話だが、私は大学の育英資金のために富士銀行の口座を開いた。四半世紀にわたる顧客だが、一遍もこの銀行のメリットを感じたことはない。不快感はいくつも上げられる。身近なATMも封鎖されるようだ。セブンイレブンのIY銀行のほうがましだ。庶民感覚からして、銀行はふざけたやつらだなと思う。こんなものが温存されているかというのはあまり納得できるものでもない。
 が、だからといって目先で批判しても大局を失うだろう。大局とはと大上段に言うまでもなく、デフレ対策だろう。デフレじゃないという薄気味悪い声が聞こえるからなおそう思う。
 余談だが、今日は建国記念日だ。くだらない。産経新聞社説もさすがに内心くだらないと思っているようすが読めて、それは笑えた。あまり歴史議論には立ち入らないが、建国の神武神話というのは、天智王朝のパロディだ。百済が滅亡したので建国の神話を作り出したのだ。日本の建国は7世紀ことであり、それは昭和天皇もそう発言されていた。

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2004.02.10

この外に仏法の求むべき無きなり

 雑談である。しかも愚痴である。文藝春秋三月号を買ったら「仏教入門」が載っていた。愚劣な内容だった。文藝春秋もここまでくだらなくなったか。まったく大学を出て文藝春秋なんか読んでいるようじゃだめってことだな、と思う。
 玄侑宗久、こいつに一喝する者はいないのだろうか。臨済宗か、それで禅か。勝手にしろだな。ひどい世の中になったものだ。お次が本願寺派の門主。「一日五分、語感を研ぎ澄ませよ」か。親鸞ならなんと言うだろう。これも勝手にしろの部類だな。


詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 親鸞には弟子はいない。僧ですらない。面々の御はからひなり、勝手にしろってことだ。
 山折哲推については、今は言及しない。成仏(餓死)するか俺は見ているぜ。石原慎太郎はどうでもよい。
 四国遍路、そんなもの仏教に関係ない。森永卓郎、なぜ? 養老孟司、お笑い?
 宮崎哲弥。なんなんだろう、この兄さん。

 私は仏教者である。だが仏教徒ではない。
 「徒」という語は、「徒党」などいう熟語を構成することからもわかるように「なかま」「ともがら」を意味していて、どうも仏教を信奉する者を表わすのに相応しくない。

 のっけからくるよな。仏教は出家集団の宗教である。出家しないものは、ただの衆生である。それだけだ。仏教徒とは出家者を意味するのだ。おめーには関係ない。もっとも、維摩経など持ち出せば理屈はどうにでもつくか。とこで、その「仏教書案内」を見るに、維摩経はあるか? ない。
 と、宮崎哲弥をくさしても意味はない。このてのやつら根は深いからだ。明治時代になって、東大の印度哲学あたりが、単なる理論的な構築でしかない原始仏教なるものを、ファンダメンタルな仏教と考えていく傾向があった。どこかに宗教の原初があり、そこに真理があるとう発想は極めて近代的なものだ。
 と、書いて、これでおしまい。日本の仏教の堕落は日本仏教とまったく同じだ。戒もなき仏教などあるわけもない。日本の僧侶は他国の仏教徒からは僧侶扱いされない。肉食妻帯がなぜ僧侶なんだ?
 日本の仏教の堕落は道元の時代でも同じだった。道元は千年先まで届く正法を日本に残した。あとはどこかに正師がいるかだ。日本のどっかに一人くらいいるんじゃないか。一人いたらいいのでないか。道元もそう考えていた。
 本当の仏法を継いでいく僧が日本にたった一人でもいるだけで、衆生の希望となるのだから。

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白川静は「と」だと思う

 白川静の漢字についての話は、膨大な「と」(「とんでもない」法螺話)だと思っている。こんなものをありがたがるの知識人がいるのも、なさけないことだなと思っている。が、そういう意見を見かけたことがない。ま、いいか。自分ではそれで決着が付いている。だが、どうも最近、天声人語など白川説を使ったエッセイのようなものをみかける機会が多く、不快というか、阿呆臭くてしかたない。誰かきちんと専門家が批判せーよと思うのだが、批判というのがあまり見あたらない。と、そんなことを思っていたら、面白い話をブログで見つけた。羊堂本舗(2004-02-06)「ここはひどいインターネットですね」(参照)である。そこから関連の話を読んだ。
 知らなかったのだが、2ちゃんねるで白川静が「と」じゃねーのということで話題になっていた。ふーんという感じだ。やっぱ、白川静は「と」だと思う人は少くないようだ。やっぱなと思う。対極で出てくる藤堂明保といえば、昔教育テレビで中国語を教えていたなとか思い出す。
 「みんなの味方大漢和辞典!!」という掲示板を読むとなかなか面白い(参照)。


名無しさん :2001/08/16(木) 23:13
>>45に関してですが、白川静は氏の文字学体系中において
具体的にいうと、たとえば「師」や「埠」に共通するつくりを
「賑肉」と見なしたり、「告」の「口」を人間の口ではなくて
「祝詞を入れる器」と分析したりしましたが、それはたしかに
「想像でしょ」といえばそれまでです。しかし、白川氏の
分析法が精確な甲骨文や金文に基づいていること、「説文」や
「単語家族」の呪縛から解き放たれたこと、この二点はひじょうに
重要でしょう。批判するならするで、かなりの論証が必要になる
ことも確かだし、また文字学のみを論って白川批判、というのでは
それこそ噴飯ものでしょう。文字学は地味~な学問ですし、非常に
むつかしい。体系だった学問を独りで打ち立てた白川氏はまあともかく
「すごい」わけです。そういう意味でも「偉大」なのでしょう。
ただ学閥至上主義によって、長い間白川氏は冷や飯を食わされていたこと、
これは事実です。

 ほぉ~という感じだ。「説文」の呪縛なんか、白川に限らず、ないんじゃないかと思うが、白川静の批判は「かなりの論証が必要になる」ものなのだろうか。

52 :名無しさん :2001/08/17(金) 11:35
>>50
いえいえ、深謝なさる必要はござんせん。
なぜ白川氏は「告」の口を「祝詞を入れる器」と見なしたか。
そこに白川氏の努力があるわけですね。
氏は甲骨文、金文を研究すること(トレースしながら)によって、
その微妙な筆画の相違に着目して、「人間の口」の場合と
「祝詞を入れる器」の場合とを峻別していったわけです。
つまり、「口」を描いた象形文字と、「祝詞を入れる器」
(あくまで白川氏の説ですが)を描いた象形文字とは微妙に
その形が異なっておるわけです。だからそれなりに説得力
もあり、藝術家や歴史学者、民俗学者、学閥主義から逃れた
中国文学者に受け容れられるようになったわけです。
しかも例えば「告」の場合、口を除いた部分を「牛」と解釈
せずに、木の枝(祝詞を括り付けるための)と見なしたわけです。
それもやはり根拠があって、牛の象形とは異なっておるんですね。
…とまあそんな感じなのですが、あなたの仰るとおり、
「何もかも呪術で解釈していいんだろうか」という問題はあります。
いくら古代中国の習俗より生まれたものが漢字だったとはいえ、
それが民俗学的呪術的な見地から全てを解釈すればそれでよい、
という蓋然性は恐らく「ある」とは言いきれないのではないかと。

しかし白川氏の強みはそれだけではないので、すなわち「音系」の
問題にも立ち入っていることなのですね。音系と文字体系、これを
分析しながら文字同士の音の相関関係も明らかにしました。
ですから、白川氏を批判するならそれでよいわけです。
しかし批判するならするで、恐ろしく巨大な文字体系を打ち立てない
限り、むつかしいのではないかなと、まあそう思うわけです。


 これも、ほぉ~である。
 私はなぜ白川静を「と」だと思ったか。ちょっと振り返ってみたい。そんなに難しい話ではない。まず、漢字であれ、それが言語なら言語を扱う原則に従わなくてはいけない。それは、言語とは「音」であって、漢字などは「表記(Writing System)」だということだ。だから、漢字の意味というのは、「音」に付属するのものである。そして、表記は音を写し取る性質を持つ
 しかし、漢字の語源を研究するときやっかいなのは、それが、言語の表記システムではなく、中国にありがちなのだが、呪術の符号になりがちだ。しかも、漢字の起源自体にそれが関わっていると見なすことはそれほど不思議ではない。その意味で、白川静がトラップしてしまったのは、しかたがない面がある。
 では、白川静はどこで間違ったか? 漢字を「言語の表記システム」と見ていない点だ。言語というのはソーシュールの言うラングである。ラングは音の体系だが、以上のように、表記の体系は音から写像されるものだ。正確な写像ではないし、そのパロールに相当するエクリチュールは、音声言語の持つパロールとは違う。しかし、そうした問題には今は立ち入らない。とりあえず、ラングだの、パロールだのエクリチュールといったそそる用語はどうでもいいと言えばどうでもいい。
 問題は、「言語の表記システム」であるということは、コミュニケーションのモデル、つまり、それが共通に理解できるコードである、ということだ。
 このあたりなにを言っているのか理解しにくいだろうと思う。補足しよう。
 漢字が呪術的な符号であるとき、それは、言語の表記システムではない、ということが重要だ。呪術符号なら、それは、謎の神秘的な概念を表すのであり、特定の呪術集団のなかでその理解のレベルが階層化される。例えば、その教団の師匠のみが「器」なる呪術の意味を体得しているが、平信徒にはその意味が卑近にしかわからない、といった感じだ。つまり、ここにはコミュニケーションのモデルがない。共通に理解できるコードにはなっていないのだ。
 漢字の起源にそのようなものが関係しているとしても、我々東洋人が継承している漢字について言えば、そんな呪術は無意味なのである。
 始皇帝は焚書坑儒をしたとして、非難されることが多いが、とんでもない。始皇帝は、この馬鹿馬鹿しい呪術なる「漢字」を廃棄させたのだ。同様のことは、音については「切韻」についていえる。あれは、古代の音価を反映していない。ただのコードだ。しかし、このコードから逆に中国語が形成される。同様に、漢字が形成される。
 少しまとめる。つまり、呪術的なレベルでの漢字の研究は、漢字が言語の表記システムであるという点から見れば、まったく無意味な作業なのだ。あるいは、その作業を行うなら、その呪術集団を特徴づけるしかなく、しかも、その呪術集団の単一性は保証すらされていないのだ。それが単一なら、始皇帝はその集団を規格化すればよかったことになる。
 漢字の研究は、それが、表記システムとして共通のコード化された状態をいわばラングのように、共時システムとして取り出し、そのモデルのなかで、まず音と意味のネットワークが考察されなくてはならない。端的に言えば、漢字の語源は、音に意味を与えなくてはいけない。
 さらに、漢字は表記システムとしては、つねに、リプレースしていく性質を持つ。つまり、より単純な代替文字や、より頻繁な文字に置き換わる性質がある。これは、おかしなことに現代日本でも行われているが、ある意味で、漢字という表記システムの持つ自然的な傾向なのだ。
 そうした点で、私が、妥当な漢字のリファレンスとしているのは、「漢字字源辞典」(山田勝美・進藤英幸)だ。この本の、その分野での妥当性を評価するほど私は漢字学に詳しくないが、以上のような言語学の原則がきちんと守られている。
cover
漢字字源辞典
 それと、山田勝美の師匠にあたると思われる加藤常賢「漢字の起源」(角川)もあるが、私が読み比べた範囲では、山田勝美のほうに個々の漢字の説明に妥当性を感じる。山田勝美のほうが方法論的に貫徹しているようにも思える。
 「漢字字源辞典」については、私は、この前の版「漢字の語源」(昭和51年初版)から使っていた。優れた著作だったのか、改訂されて、しかもまだ絶版になってなくて、よかったと思う。
 白川静「常用字解」を買いたいと思う人がいるなら、「漢字字源辞典」(山田勝美・進藤英幸)と比べてみて欲しい。私が始皇帝なら、白川静の辞書を焚書とするだろう。

【関連】
 ⇒極東ブログ: 漢字は表意文字という話
 ⇒極東ブログ: 漢字という虚構

追記その1(2004.2.11)

 闇黒日記平成十六年二月十一日(参照)に批判が掲載されていた。総じて批判点は当たってないように思う。というか、批判意識が先行して、私の論点は理解されていないように思う。が、読み比べて各人判断されるといいだろう。
 少しだけ例を(表記ママ)。


そもそも、同じ「階層」の人の間でも、言語の理解は異る、と言ふか、個人個人で理解のしか他派事なるものです。

というコメントは、ソーシュールのラングを本当に理解しているのかな、とちょっと疑問に思う。それはパロールの問題だろう。総じて、ラングとパロールの違いを理解されていない印象を受ける。
 次の指摘はタメっぽい。

西歐のアルファベットをベースとしたソシュールのラングの學問の原則を、そつくりそのまま表意文字である漢字の研究に適用せよと言ふのが無理なのですが。

 私が述べたのは、漢字の研究を言語の研究にするということ。また、「西歐のアルファベットをベースとしたソシュールのラングの學問」というのはユーモアと理解したい(アルファベットではなく音素記号。音素をたまたまアルファベットのような記号で表記するだけで、諸言語に適応できる)。

追記その2(2004.2.11)

 暗黒日記からのリファラが多く、もしかすると、言語学の基本的な概念を理解されていないかたもいるやもしれないと思い、長めの文を起こした。
 当初、ブログ本文中に記したが、無益な論争になるのを恐れる。暗黒日記の筆者も軽い気持ちで書かれた批判のようでもある。白川静が音を考慮していないわけでもないということなど、当方、知ってはいるが捨象している部分でもある。そうした指摘は尊重したい。また、極東ブログのこの見解は、欧米の言語学の基本原理のままだが、中国語学なり漢字の学では異端であるだろうとも思う。
 ま、ご関心あるかたは、参考にしてほしい。

暗黒日記の批判?を受けて参照

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G7、お楽しみはこれからかも

 G7が終わった。というわけで、社説はこれを書かねばならない。で、何を書くんだ? まぁ、原稿埋めるかというつぶやきが聞こえるような各紙の社説である。
 ところで、G7の成果はなにか? 日経新聞社説「G7は言葉より成果を出せ」と言うが、成果は市場が出す。お楽しみはこれから、かもね、である。ま、前回のようなことはなさそうだ。
 で、G7の声明はどうかというと、日経が言うように、どんな色が好き♪玉虫色が好き♪というお笑いである。


日本の関心が強かった当面の為替相場については、玉虫色の内容にとどまった。緩やかなドル安ならOKと考える米国。ドル一段安は市場介入で止めたい日本。ユーロの対ドルの上昇率が円に比べて高いことに不満を抱く欧州。声明はそれぞれに都合よく解釈できる内容になった。すれ違いは何ら解消されていない。

 というわけで、でもないが、声明に言及するのは無意味。朝日新聞社説「G7――もたれ合いは続くのか」はナンセンス。

 その意味で注目したいのは、G7声明の中に「健全な財政政策が国際的な経常収支不均衡への取り組みにおけるカギだ」との指摘が盛り込まれたことだ。米国の双子の赤字を意識したものである。

 無意味である。むしろ、次の指摘に意味がある。

 だが、ドル安の影響を一手に引き受けている欧州の不満は依然大きい。日本の大規模な介入にも限界がある。日本などアジア各国の政府が米国債を購入して米国の財政赤字を支えるのは、不健全なもたれあいともいえる。こうした危うい構図がいつまで続けられるかは心もとない。

 すでに極東ブログで触れてきたように、EUを潰せのチキンレースじゃないんだろうか。EUから金を引き上げたいというのが米国の思惑でもあるだろうし。
 といっている内に米国が崩壊したりして。なんかいまいち笑えないことが、現実というのは起きうる。

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今日の日本人の誇りは日露戦争にある

 標題を「馬鹿野郎、毎日新聞」としようかと思った。やめた。ブログもあんまり粗野に物が言える雰囲気でもない。それに、そこまで直情的になるのもどうかとも思う。しかし、その思いはあるな。毎日新聞社説「日露関係 『開戦100年』から『下田150年』へ」についてだ。
 詳しく書かないといけないし、私が書いても、特に新しい指摘などない。私は右翼じゃないが、日本国民の常識として、こんな社説は許せないという思う。そのあたりを、簡単に書く。
 毎日の出だしを引く。


 日露戦争から100年になる。(1904年2月8日開戦、10日宣戦布告)。最初の戦闘で攻撃を受けた巡洋艦「ワリャーグ」は仁川港内で自沈し、砲艦「コレーツ」も自爆した。100年後、ロシア太平洋艦隊に所属する同名の「ワリャーグ」「コレーツ」を含む3隻の艦船が10日、韓国親善訪問として仁川に入港する予定だ。日露戦争に対するロシアのこだわりが伝わってくる。

 そりゃこだわるだろう。ロシアが負けたからだ。それだけのことだ。負け面して、さらに原潜解体の費用に賄賂を乗せてせびるのが現代のロシアだ。ふざけんな。
 次の文で私は切れたね。

 日露戦争は世界史的意義を持った。10年後の第一次世界大戦に先立つ総力戦の様相を帯びたほか、列強の植民地となっていた国々の民族独立志向を刺激した。帝政ロシアでは第1次革命の引き金となり、社会主義革命につながった。日本においては、軍事大国ロシアに勝利したという慢心がその後の韓国併合、日中戦争、太平洋戦争へと日本を引きずり込んだ。

 「民族独立志向を刺激した」じゃねーよ。そのおかげで、トルコで日本人は韓国人や中国人とは違うとして扱われる。そういう言い方もねーな、とは思うが、それは我々の祖先の誇りの利息を貰っているのだ。日露戦争に勝ったことは日本のためだけじゃない。
 たしかに「軍事大国ロシアに勝利したという慢心」はあったと思う。そして、それが日本の命運を迷わせたとも言えると思う。だが、「韓国併合、日中戦争、太平洋戦争へと日本を引きずり込んだ」と言われると違うぜ、と言いたい。そんな短絡的なものじゃない。日本が単独で慢心とやらをいましめれば、「韓国併合、日中戦争、太平洋戦争」はなかったか。歴史のIFは無意味だが、なかったかもしれない、が、別の気持ちの悪いものがあっただろう。そして、日本たるかけらもない陰惨な姿だ。現代の日本に少し似ているという皮肉は言いたくはないが。

日露関係を概観した場合、日露戦争だけでなく、その前も後も不信と警戒の時代が長く続いた。シベリア出兵、シベリア抑留も両国関係における負の歴史だ。

 これも酷いこと言うよな。シベリア抑留を「両国関係における負の歴史」にするのか。執筆者の親族にはシベリアで殺された者はいないのか。
 あまり引用を多くするのはなんだが、「日露戦争から100年後の日露関係は、領土問題を除いてはおおむね良好である。」というのは、そりゃ、日本が舐められてねーからだよ。日露戦争に勝ったからだ。
 ロシア=ソ連は、8月9日のぎりぎりまで日本を恐れていた。条約を守っていたわけではない。父祖の誇りが抑えていたのだ。
 と、書きながら、これじゃ、ウヨか小林よしのり、じゃねーか、と苦笑する。でもなぁ、と思う。これじゃ、なぁと思う。
 ああ、むかつく。朝日新聞社説よりむごいもの見ると思わなかったぜ。

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2004.02.09

ニューカッスル病

 今日は新聞休刊日である。社説はない。ので、気になる話題を書く。鳥インフルエンザ関連だ。といっても、この問題は私はよくわからない。WHOが大騒ぎしすぎかとも思ったが、その対応は妥当なところだろう。極東ブログが扱うのは、「米国がアジアからの鳥の輸入を禁止した」というニュースである。
 逆ではない。このニュースが国内で報道されていたか気になったので少し調べたがなかったようだが、私の勘違いか(勘違いでした。追記を参照。国内では、日本が米国の鶏肉輸入を禁止したというニュースばかりだった。こちらは共同によればこうだ。


 米国デラウェア州で鳥インフルエンザが鶏に感染したことが確認されたとの報道を受け、農水省は7日夜、「念のための措置」(消費・安全局)として、米国からの鶏肉など家禽(かきん)肉すべての輸入を一時停止した。

 背景ついて同記事では、米国は、「タイ、中国、ブラジルに次ぐ輸入量第4位の鶏肉の輸入元」と補い、国内では、「総輸入量の10%に当たる年間約5万トン(2002年度)」と述べている。米国に注目すればそれほど大きな問題ではない。また、現状、タイ、中国を加算しても、20%ほどでもある。
 まして、米国がアジアからの鶏肉輸入を禁止したとしても日本にはなんの関係もないから、ニュースにもならんということではないか。おっと、ちょっと書き方におふざけがかった。申し訳ない。禁止したのは鶏肉だけはなく生きた鳥も含まれる。
 ソースはU.S. Bans Asian Birds to Prevent Flu Spread(参照)である。

05 February 2004

U.S. Bans Asian Birds to Prevent Flu Spread
Eight Asian nations affected by import prohibition

The United States is banning importation of birds from eight Asian nations in order to prevent the introduction of avian influenza into U.S. poultry flocks or the human population. The U.S. Department of Health and Human Services and the Department of Agriculture jointly announced the ban in a February 4 press release.


 英語は公的なアナウンスだけあって高校生レベルなので、訳は省略する。ようは、鳥インフルエンザを恐れて、アジアから米国へ生きた鳥と卵の輸入を禁止するというだけの、つまらんアナウンスである。しかも、この禁止は米国社会にほとんど影響しない。規模が小さすぎるからである。こうした背景はロイターがわかりやすい(参照)。

RIVERDALE, Md. (Reuters) - The U.S. Agriculture Department said on Wednesday it would temporarily ban imports of live birds, poultry products and hatching eggs from Asian countries affected with a deadly bird flu.

The temporary ban is largely a symbolic gesture and will have "little impact" on shipments because the United States already prohibits most poultry from Asia due to another ailment known as exotic Newcastle disease, said Jim Rogers, a spokesman for the USDA's Animal and Plant Health Inspection Service.


 後段のジム・ロジャーの発言部分だけ意訳しておこう。

 今回の一次措置はみせかけのポーズといったくらいなもので輸入への影響はわずかだ。というのも、米国はすでにアジアからの鶏肉輸入の大半をニューカッスル病を理由に禁止しているからだ。

 まどろこしい書き方をして申し訳ないが、問題はむしろ「ニューカッスル病(Newcastle disease)」である。そんな病気が懸念されるなら、日本はなぜ米国に似た措置をとっていないのか、ということも気になるはずだ。
 ニューカッスル病の問題はすでに韓国で話題になっている。昨年12月25日中央日報社説「忠北陰城で今度は『ニューキャッスル病』」が参考になる。

忠北陰城で今度は「ニューキャッスル病」
 鳥類インフルエンザにに続き、鶏や鴨に感染すると致死率が9割というニューキャッスル病が広がっている。
 忠清北道(チュンチョンブクド)が25日発表したところによると、今月23日から24日にかけ、陰城郡(ウムソングン)甘谷面丹坪里(カンゴックミョン・タンピョンリ)にある金(キム、56)某さんの養鶏場で、鶏3000羽が死んでおり、国立獣医科学検疫院に検査を依頼したところ、ニューキャッスル病の疑いがあるという1次報告を受けた。

 日本でも問題になるのでは……いえいえ、話題どころか、すでに日本でも発生している(参照)。むしろ、発生していないのは国際的に見て米国くらいのようだ(参照)。
 日本人庶民の感覚からすれば、じゃ、その病気は人間に感染するのか、であろう。これについては、ご心配なく、人間には感染しない。しかも、鳥にはワクチンが効く。
 じゃ、問題ない? そのあたりが、びみょーっていうやつではないだろうか。鳥インフルエンザ絡みの風評被害もおきやすいだろうから。
 ニューカッスル病についての正確な情報は、動物衛生研究所の「ニューカッスル病(Newcastle disease) 」(参照)を参照されたい。

追記
 国内でも報道されていた。
 鳥インフルエンザ、米国がアジアからの家きん類輸入を停止 (ロイター) - goo ニュース(参照

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2004.02.08

朝日新聞、ロシア大本営代理となる

 なんだか毎度朝日新聞をくさすのも芸のない話だなと思う。今朝の朝日新聞社説「日露戦争――『坂の上の雲』の先に」を読みながら、この馬鹿たれ、どうしたものか、と思ったものの、さすがに言葉につまった。阿呆臭くて話にもならない。ちょっと書いたけど破棄…、ま、いいか、というわけで以下。
 朝日新聞の社説は、今日が日露戦争開戦の日にあたることをきっかけに、昨今日露戦争を肯定的に評価しようとしているがそれはイカン、とブルのである。


 だが、歴史を未来に生かすには、そのできごとの全体を正確にとらえる必要がある。日露戦争は多面的で複雑な性格を持っていた。そうした見方が、最近の研究の成果をみても深まっている。
 たとえば、日露戦争が朝鮮や満州(現中国東北部)の支配をめぐる帝国主義戦争の性格を持つことは、定着した評価となっている。戦争で朝鮮の支配権を得た日本は、併合による植民地化へと進み、中国侵略へと行き着いた。こうした対外進出路線の火種となったロシアの東アジア進出の脅威は、実際にはそれほど強くなかったとする研究がロシアにもある。
 逆に、中朝国境にロシアが軍事施設を造ったという情報が、十分に確認されないまま日本の軍部から政府にあげられ、開戦論の有力な根拠となったことを示す研究が現れている。イラク戦争での大量破壊兵器の脅威を思わせるような話である。

 歴史の評価が多面的なのは当たり前のこと。こうした修辞は無意味。歴史の評価というのは、全体のバランスを取ることが大切だ。朝日はまるで基本がわかっていない。
 日露戦争は日本の帝国主義戦争の正確を持つという評価が定着している、というのは、基本的には正しい。が、それってあの時代を背景に入れれば、ほぼ無意味な評価でしかない。朝日はそれがイカンといいたいのだろうが、ちょっとあの時代の世界全体を見渡してみたらいい。
 異論があるのは知っているが、言っておくべきことだと思う。あの時代をテーマに「中国侵略」って無定義に「中国」っていうのを持ち出すなよな、ということ。「中国」とやらは、歴史の文脈において、清朝なのか、中華民国なのか? まさか、共産党じゃないだろ。清朝だとしたら、「中国」と呼称する場合の関係はどうなのか? 同じものだというなら、てめーらこそ未だに帝国主義者だぜ。台湾の国民党と同じ。大陸の共産党と同じ。モンゴルを分断し、チベットを支配し、ベトナムにもちょっかいだす。「中国」が中華民国だというなら、歴史の流れを見ても、満州は所属していない。孫文すらそう考えていた。
 「ロシアの東アジア進出の脅威は、実際にはそれほど強くなかったとする研究がロシアにもある。 」にいたっては、朝日新聞の大本営はロシアかよ、と思う。ロシアっていう国はいまだに帝国侵略で日本国土を侵略しつづけている国ということ忘れているなら、とほほだな。「黒竜江上の悲劇」は無視か。1900(明治33)年、ロシアは満州に侵入し、五千人もの清国人を虐殺した。ま、そのくらいなら脅威じゃないと朝日新聞がいうなら、それはそれで上等!
 そして、朝日新聞のネタである「中朝国境にロシアが軍事施設を造ったという情報が未確認」というのは、1903(明治36)年、ロシアが鴨緑江河口を占領して、要塞工事を始めたことを指すのか? それって「中朝国境」と言うかぁ? と、それ以前になぜそこにロシアがいるのか説明しろよ。
 最後に朝日新聞タレて曰わく。

 作家の徳冨蘆花は、日露戦争の勝利に浮かれ軍拡に走る日本を批判し、「戦勝はすなわち亡国の始(はじめ)とならん」と警告した。
 戦争の大義、実像、影響などを繰り返し問い、本質に迫る努力を続けて後世を誤らないようにする。それは、いまだに戦火が絶えない21世紀に生きる我々にとっても重要なことである。

 そうこく前に、おめーらの先輩たちが日露戦争後なにやっていたか調べてみるのが先決だぜ。「バイカル湖以東を割譲せよ」って新聞はがなり立てていた。国民をまどわし続け、冷静な外交の足をひっぱり、国民暴動を誘導するようなことをやっていたのが、まさに新聞なのだ。
 とはいえ、徳冨蘆花かよ。気骨をもって幸徳秋水を出せよ。そこまできちんとサヨクの筋を通してみい。

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一次産品高騰、で?

 今朝は日経新聞社説「世界経済の構造変化映す一次産品高騰」が気になった。率直に言ってよくわからないのである。だからなんなの?という感じだ。事態は標題どおりだ。


 原油、石炭、鉄鉱石、金、大豆、綿花など世界の一次産品の市況が昨年から高騰している。代表的な指標であるCRB先物指数は年初に266まで上昇、現在も260前後で高止まりしている。2年足らずで40%近く上昇した計算だ。
 原油価格は昨年春のイラク戦争後下落するとみられていたが、米WTI原油が1バレル=30ドル台半ばで高止まりしている。石炭は発電用の一般炭のスポット価格が1トンあたり40ドル前後と昨春に比べ、70%近く値上がりした。

 で? みたいな感じがする。日経によれば、その原因は中国なのだそうだ。

 一次産品の全面的な値上がりの背景には第一に経済成長に伴う中国の需要爆発がある。中国の昨年の原油輸入量は前年比31.2%増の9110万トンと過去最大となった。中国はすでに2002年に石油消費量で日本を抜いて米に次ぐ世界第2位となったが、原油輸入量も急速に日本に追いつきつつある。一般家庭の電力需要の増加、「世界の工場」としての産業用エネルギー需要の伸びもあって、エネルギーの輸入急増が起きている。

 これも、ふーんという感じだけだ。数字に間違いはないだろう。読んでいてなんか、腑に落ちないなと思うと、途中でこうある。ちんたらした引用で申し訳ないが、問題は、この「とらえどころのなさ」なのである。

 ただ、過去の石油危機などと違って、今回の一次産品市況の高騰局面では世界的に目立った形でインフレ傾向が出ていないことに特徴がある。原料コストが上昇しても製品価格が上昇しにくい構造が世界経済に生まれているからだ。

 でしょ。で、終わり、じゃないのか。何が問題なのだ?
 引用がもううざったいので、簡略にするが、とりあえず問題は、一次産品に依存する産業分野がもたないから、価格に反映すべきではないか、ということか。反映すりゃいいじゃん。
 それと、その問題についての中国の影響はどんなものだろうか、よくわからなかった。
 まどろっこしい話になったのは、私はこの日経の話は基本的に法螺ではないかと思うからだ。だが、うまく説明できない。私は素人、日経の執筆者は玄人のはずである。少なくとも何が問題なのか、それをえぐり出すように玄人は書くべきではないのか、とは思う。
 それとも、この世界の変化はたんに変化というだけのことではないか。いずれにせよ、現状、債券相場は落ち着いている。というか、一次産品の問題は、投機の思い込みには影響しても、単純な影響はないということだろう。
 一次産品に依存する産業の製品の価格が上げられないのは、マーケットの力のほうが強いとからだろう。そのマーケットとはなにか? 単にデフレということか。もっと簡単な話、この問題は、中国がクローズアップされるが、世界的には、先進国と途上国の労働格差のなかで、実質的な解消に向かっている、というだけのことではないだろうか。
 もちろん、今後の中国の一次産品輸入は増える一方だろう。むしろ、中国にマーケットが機能しないかもしれない、あるいは、中国が世界市場に統合できないかもしれない、ということが危機の可能性ではないか。

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