« 2004年1月18日 - 2004年1月24日 | トップページ | 2004年2月1日 - 2004年2月7日 »

2004.01.31

戦争の大義について

 このところ、イラク戦争について、あの戦争は大義なき戦争ではないか、というテーマをよく見かけるようになった。端的に言えば、卑怯者の負け惜しみではある。イラク開戦は突然ではなかった。その間、日本がなにが出来たかといえば、実質何もできなかった。何かできたというなら、それはあの時の日本を支えていた大衆を愚弄する「知識人」とやらの法螺に過ぎない。
 確かに、この機に、米国を叩いておき、そして、イラク戦争のような開戦が再びないような経験を国際社会を積むことはいいことかもしれないし、なにしろ、それこそ、米国人の課題だ。若い民主党支持者がその旗を振るのは理解できるが、その旗の棒の端っこを日本人が掴むのは、私は、ちょっとなぁと思う。
 そして、結局のところ、いくら自己満足的に大義なき戦争はいかんといっても、英米のやつらはやるときはやるのだ。その「やるときにはやる」というのは現実的なパワーの問題なので、このパワーをどう制御するかが問題だ。
 具体的に言えば、有志連合をどうするかだ。有志連合について言及しないで、「あの戦争は大義なき戦争」だ批判しているヤツラは、馬鹿だと思う。わからないのだろうか。思春期のガキじゃないんだ。いくら正論こいても、そこに暴走族みたいな有志連合がいていつでも動けるのだ。こいつらをどう制御するのか。制御しないかぎり、また暴走するのだ。むしろ、この暴走を止めるための実際的な努力を、批判の満足で自己慰撫していてもしかたない。現状は、米国に批判的な見える仏独だが、こいつらのEUのなかでの強権の問題も知らんぷりして、仏独の言論に尻馬に乗っているやつらは、嗚呼、ポーランドからどう見えるだろうか。そして、実質、有志連合には仏独も事実、拒絶もしてない。
 率直のところ、あの古くさいサヨクの歌がまた流れている状況に辟易としてしまう。
 個別に大義云々にしても、ようは、実は、開戦の是非ではなく、戦後統治のミスの問題を隠蔽しているだけだ。
 米国が、もっとドライにフセイン勢力を温存しておけば、スンニ派の抵抗はなかった。適当にあいつらをおだてておきながら、実質統治の面で分割統治のようにクルド人やシーア派をバックアップして、あとはスンニ派の政権下で米軍基地を置いておけばよかったのだろう。そうしなかったし、亡命勢力を根付かせようとすらしたした米国の統治はミスだ。このミスがなければ、「あの戦争の大義は?」といった問いの出てくる隙間はなかった。
 その意味で、イラク戦争の大義を問うということは、イラク戦後統治のミスを問うことと、バランスしているはずだ。だが、後者の意見を私は見かけない。
 戦争に大義はいらないとは思わない。大義とはそれを了承する人々のパワーの問題にすぎない。大義などいくらでもできる。ようは、それを、我々の大義とするか、だ。小泉は米国のケツを舐めることを大義としたのだから、それも大義なのだ。
 今さら大義を問うても、有志連合が問われないなら無意味なように、戦後統治のミスを問うことはさらに無意味だろう。だが、現実の問題は、イラクをどう統治するかということであるはずだ。特に、日本人にとっては。
 暴論ついでにいうが、日本人はサマワ=イラクだと思っているのだろうか。偽悪的に言うが、あんなもの米国に従順でしたというシンボリックな意味以上はなにもない。イラクの復興を願うなら、そこは起点ですらない。
 も一つ暴論を加えておこう。日本人はイラク友好である心情を持てば、イラクからも親密な応答が得られると思っているのではないか。イラク人といっても単一ではないが、総じて言えば、彼らは日本人を猿か中国人か韓国人くらいにしか見ていない。トルコ人ですら、知識人で歴史を知らなければ、日本人なんか見えないのだ。日本人が日本人に見えるためには、日本を知らしめなくてはいけない。亡くなられた奥克彦参事官が、イラクの無秩序の社会にあって、なぜ「おしん」を放映しようと思ったか、そのセンスを誰も理解してねーんじゃないか、と思う。
 日本人が猿なみに差別されることを、中国人や韓国人くらいには理解しておいたほうがいいと思う。特に、若者!

| | コメント (4) | トラックバック (0)

企業内特許の対価は企業経営の一部

 今朝は日亜化学工業と、その特許の対価を巡る元社員中村修二(現米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授)の訴訟を避けるわけにはいかない。結果は中村の勝訴で二百億円の請求が認められた。金額面がいわゆる庶民感覚から飛び抜けているという点で意外感はあるが、ことの成り行きやこの発明の評価という点では、ある程度予想された判決で、逆にいえば、適当な減額でとほほ感を狙ってもしかたのないことだ。下手すりゃ、中村にノーベル賞がやってきて日本がコケにされるのがオチになる。
 新聞社説の受け取り方には、意外に陰影がある。理由はおそらく、端的に言って、執筆者たちがジャーナリストというよりは大企業のサラリーマンであり、彼らもそうした巨額の報酬を得てみたいなと思っているからだろう。朝日新聞社説「200億円判決――優れた発明に手厚く」の出だしが笑える。


 サラリーマン研究者でも、能力次第でベンチャー企業の創業者やスポーツのスター選手のような巨額の報酬を得られる時代が始まったのかもしれない。

 朝日の作文は書き飛ばしで出来ているので、この先読む価値もないが、概ね、肯定的に捕らえられている。というか、そうしないと頭脳流出(死語か)になるというくらいなものだ。
 読売新聞社説「発明の対価 『報酬』巨額化の時代に備えよう」は中村という異能な発明者への理解があるものの、むしろ企業よりの発言である。が、結論は朝日新聞と同じだ。
 毎日新聞社説「200億円判決 発明補償は経営リスクだ」は鮮明に企業に立っている。ある意味で小気味よいほどだ。

 米国の高額発明補償のシステムは、契約にたずさわる濃密な法務サービスに支えられている。日本にはそうした法務サービスが発達していない。だから米国流の高額発明補償の社会に移行するのは難しいと考えられてきた。
 ところが、特許制度の変更なしに、米国にも例がないような超高額補償の判決が出た。日本の企業社会は、司法からの爆弾をどう受け止めるか迫られている。

 「司法からの爆弾」という表現が面白い。それにしても、他紙がいまだにサヨクという線で論を対峙している間に、毎日新聞はなんか奇妙な次元に突入している。読者層が他紙と違うのだろうか。論の傾向としては、産経新聞社説「特許の対価 日本社会になじまぬ判決」も似たようなものだが、こちらはいわゆるポチ保守トーンで覆われていて面白くはない。
 社説としては日経がまともと言えるかもしれない。今回の訴訟について、経営に携わったことのある人間なら日経新聞社説「社員への巨額発明報酬判決の衝撃」のこのくだりに共感を覚えるだろう。

 青色LEDは世界的発明にもかかわらず、会社側が合計2万円の報奨金しか払わないなど対応のまずさもあった。企業内の研究者の独創力をきわめて高く評価するプロパテント(知財重視)の判決で、研究者の士気は上がるだろうが、企業の研究開発強化、技術立国にプラスになるかどうかは意見が分かれる。

 率直なところ、私の意見はこの日経に近い。
 私は、今回の訴訟は、研究者対企業という一般論の構図で捕らえるのは勘違いではないかと思う。というのは、もともとも独創的な研究に支えられる企業というのはそれによって特徴づけられる企業であり、そのような企業の健全な経営のありかたに、今回の事態への対応も必然的に含まれると考えるからだ。これも率直に言うのだが、私のこの感覚のほうが一般的なものだと思うがどうだろう。新聞執筆者たちの骨の髄からサラリーマンな態度のほうがおかしいと感じる。
 話は少しそれる。気になることがあるのだ。ちょっと物騒な話題かもしれないのだが、メバロチンなどスタチンの発見をした東京農工大学の遠藤章名誉教授(現バイオファーム研究所長)についてだ。秋田県のサイトにある「カビから夢の特効薬を発見」(参照)が参考になる。

大学を卒業して会社に就職し、食品製造に用いるカビとキノコの酵素の研究を8年間続け、その後、32歳のときにアメリカに留学しました。そこで、血中コレステロール値を下げる良い薬があれば、心臓病で苦しむ1億人以上の人々の命を救うことができることを学び、カビとキノコからコレステロールを下げる薬を探す研究をしようと心に決めました。
 帰国後の1971年からカビ、キノコなどを6,000株集めて、一株ずつ調べ、2年後に青カビの一株から強力なコレステロール低下剤(スタチン)を、世界で初めて発見しました。この発見から更に10数年の歳月と100億円以上の費用をかけて、スタチンの薬効と安全性が徹底的に研究されました。この間幾度も困難に遭遇しましたがすべて克服し、ついに夢の特効薬が実現しました。スタチンは1987年の欧米を皮切りに、100ヶ国以上の国で商品化され、現在約2千万人の患者に投与されています。

 スタチン剤が生み出した富を巡り、遠藤章と当時所属の三共発酵研究所の関係については、当人と会社間に問題もないのだろう。その後の経緯にも相応の配慮がされていると思われる。だから、今回の問題とは違うのかもしれないが、こうしたケーススタディが知りたいと思う。あと、「この間幾度も困難に遭遇」についてで、そこでコレステロール低下剤の特許が国際的にどう扱われているのかが気になる。一時期調べてみたのだが、よくわからなかった。ちょっと裏がありそうな印象は持った。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2004.01.30

ざりがにの死

 私事である。年末から家に預かっていたざりがにが突然死んだ。え?と最初思った。理由が思い当たらない。もちろん、ざりがにと暮らしたことのない人間にとって、ざりがにの死の理由というのは、恐らく、他人の死と同じほどに、意味のないことかもしれない。しかし、私には、ちょっとした驚愕だった。正月あたりから、やばいな、情が移っているな、と自覚していた。こいつが死んだらどうしようと思うと眠れなくなった。すると、彼女はごそごそと騒ぐのである。そう彼女。メスだった。なぜメスかとわかるかというと、私はざりがにの雌雄を見分ける技術に長けているから、というわではない、気が付くとたくさんの子を産んでいたからだ。腹から尻尾というのか、その裏に無数といっていいほど、ある日、貼り付いていた。ふーん、と思った。やけに小さいものだなと思った。私は眼が悪いのだが、眼をこらすと、その小さい生き物はかみじんこのような形状ではなく、ざりがにの形状をしていた。あたりまえである。ざりがにの子なのだから。こんなにたくさんの子うち、どれほどが生き延びるのだろうかと、かわいいものだなとと思いつつ、暗澹たる気持ちにもなった。神秘家ゲオルゲイ・イワノビッチ・グルジェフはある秋の日、少年を連れだった時、少年にその樹を揺すってごらんと言った。少年が樹を揺するとたくさんの木の実が落ちた。そして彼は言った。この一つも樹にはならないかもしれない、と。自然は多くを与える。可能性を与える。しかし、多くは樹にならない。が、朽ちていく木の実は無意味な存在ではない。樹となるもののこやしとなる、と。もちろん、その諭しには人間の比喩がある。私など樹にはならずに、他のこやしにすらならないかもしれない。存在とはそんなものだ。たくさんのざりがに子たちもどれだけ生き延びるのだろうかわからないが、一、二匹も成長すればいいのだろう。しかたのないことだ。そして、自然の掟に従うかのように、不思議に数は減った。水の取りかえで流れてしまったのかもしれないし、共食いもあるのかもしれない。昨年の夏、かぶとえびを飼ったのだが、共食いしてしまった。そういうものなのかもしれない。生き残ったざりがにの子たちは、見ていると、面白い行動をする。親から離れている時もあり、親に腹にぶらさがるように戻る時もある。彼女は、まさに母親であり、子たちを守っているとしか見えない。こんな生き物でも子は親を守るのかと思う。本能と言えばそうなのだが、そうした下等なレベルでしっかりと本能とされてきたからこそ、人間も存在しえたのかと思うと、やはり生命への畏敬というものは感じる。その母たるざりがにが死んだ。むごたらしい形で死んでいるのだが、どうやら脱皮に失敗したらしい。脱皮で死ぬことがあるのかと思って調べると、そういうことはままあるようだ。脱皮で疲れてうずくまっているのかと数時間その死が信じられなかった。これは、人間でも同じだ。死体として横たわり、冷蔵されていても、そこにその人がいる限り、死体であるかぎり、その人はその人なのだ。死んで意識がなくなれば人間は終わりだというのは、唯我論的な誤りであって、人の存在というのはその人を愛した人たちの視野のなかにある身体のことである。キリスト教が魂の復活ではなく、身体の復活を希望しているのは、その強い愛を信じているからにほかならない。私は信じるか? わからない。それでも、ざりがにの母親の死に、ある種呆然として、それでも子が育てばいいのではないかと祈るように思った。どの生物も(おそらく中国人の一部を除けば)、親というのは子が生き延びるために死んでもかまわない存在だろう。ざりがにであったって同じことだ。死の苦しみはあっただろうが、産みの苦しみに次ぐことは、生きている存在の恩寵である。どうも、表現が仰々しくていけないが、私は東洋人だし、歳を取るに次第に仏教的になっていくので、そう思う。歩道を通行する自転車に乗った者たちを例外とすれば、衆生全体に憐れみのような感じを覚える。この感覚の延長にきれいに死の意識があるなら、人生というのも悪くない。だが、人生とは、ざりがにの脱皮の失敗のように終わるのも真実だ。中年になって、ふと死に直面して、世界の相貌を変えるを見て、苦しい思いをしたが、世界とは私にとって褪せしまったものなのだ。そう見えてしまったら、物は私を世界につなぎ止めないと知った。もともと私はあまり物を集めない。集めた物たちが私の身体になろうともくろむのを許すことができない(物は人の身体を模倣するものだ)。私は物を大切にしない。ふと、酒をやめたのも、それに近い。酒は私を麻痺させることで、仮の救いを与えてくれる。酔わなくてもいいのかもしれないが、それは私をさらに世俗的に上機嫌にさせてくれる。でも、私はそうした私の死に刃向かってくる隠蔽的な存在の、そのどれも許すことはないだろう。私は、正直なところ、このざりがにほどにもまっとうに生きてない。それは心の奥の、まるで孟子が心の官と呼んだなにか、あるいは本居宣長が直毘霊としたものに近いなにかが私を責める。書きながら、ざりがにの死を悼む心からそれて自分のことばかりに気が向いてしまったとも悔いる。眠れない夜に、がそごそと自然の音をかなでる彼女はいない。子たちを自然に帰せるくらいに育てなくてはいけないなと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

テコンドー

 韓国ネタである。このてのネタは物騒だからやめとこうかと思ったのだが、ま、いいや、軽く書いてみよう。話は、朝鮮日報社説「『テコンドー』五輪種目に維持すべき」(参照)からである。標題からはわかりづらいが、国際オリンピック委員会(IOC)副委員長の金雲龍(キム・ヨンウン)が先日、横領・収賄などの容疑で逮捕されたことに関連する。
 このニュース日本での扱いはなぜかしょぼんとした印象を受ける。ニュース自体の概要は、28日共同の「金雲龍IOC副会長を逮捕 韓国スポーツ外交の転機に」のほうがわかりやすい。


韓国の検察当局は28日未明、金雲龍・国際オリンピック委員会(IOC)副会長を、特定経済犯罪加重処罰法の横領・背任収財や外為取引法違反の容疑で逮捕した。

 そーゆーことなのだが、実態はけっこうえぐい。そりゃあ韓国ニュースに強いのは当たり前のYahoo!ニュースをお抹茶の名前のような「金雲龍」で検索してみると、そのえぐさがわかる(参照)。が、そうしたことはとりあえず、どうでもいい。
 先の共同のニュースの終わりにこうある。ここがポイントだ。

 IOCは23日に金副会長のすべての資格、職務を当面停止すると発表している。検察当局の逮捕で、金副会長に対してさらに重い処分を行うのは確実。金副会長が大きな役割を果たしてきたテコンドー競技の今後の国内外の役員人事や競技のあり方にも影響を与えるとみられる。

 そう、問題は金雲龍がオリンピックにおいてテコンドーをごりごりと押さなくなったので、やっぱ、やめようかという雰囲気になっていることである。ここで、ようやく、朝鮮日報社説「『テコンドー』五輪種目に維持すべき」に話が入る。

 こんな中、海外メディアは「韓国文化の看板種目であるテコンドーの地位も危うい」と警告している。2008年の北京五輪の開催を控え、中国の伝統武術「ウシュー(WUSHU)」と日本の空手が、テコンドーの代わりに正式種目として採択されるため積極的なロビーを展開している。
 IOCも来年、五輪種目の採択を全面的に見直す予定であるだけに、テコンドーを五輪の正式種目として守り抜くことは国を挙げての緊急課題となっている。

 ふーん、そうなのかである。日本が空手を推しているのが韓国にとって困るのである。なんだか、まいどおなじみのぉ…という話になってきた。そしてその先の結論が、こうだ。

 IOC委員の中には、韓国寄りの人物がまだ20人以上いる。彼らとの関係を維持できる人物とシステムをただちに探し出し、テコンドーが引き続き五輪種目に採択されるよう必要な環境を作ることが急がれる。

 なんか、すごい発想だなと思う。私の印象からいうともうついて行けない。のわりに、さらに物騒なテコンドーの話に突き進む。
 すでに日本では常識だと思うが、テコンドーは戦後日本の松涛館空手を元にできた…一種の空手である…はずなのだが、それを韓国では言っちゃだめということになっている。最近日本でもそういうふうになってきているようだ。というわけで、韓国5000年の歴史からテコンドーができたような話になってきている。なんだかなと思うが、私は、たいして気にしない。そんな話、むちゃくちゃやん、ほっときなはれである。それよりか、日本の空手、とくに沖縄の空手をどないすんねんと思う。関西弁で言うこっちゃないが。
 沖縄の空手の伝統と本土の空手がどう関連しているのか、いまいちよくわからないし、極真空手は空手なのか?とすら思う。テコンドーに対して、あれは日本の空手の亜流と言うにせよ、本流の日本の空手ってなんだ? 余談だが、「空手」は「唐手」と表記されるべきものではないか。沖縄の那覇手、首里手、泊手は唐手(とうて)と呼ばれる。
 話を戻して、テコンドーの実質的な歴史だが、「HISTORY OF TAEKWON-DO」(参照)、「また書かざるを得ないテコンドーの歴史」(参照)、「テコンドーがカラテの影響を受けたのは事実」(参照)、「テコンドーの歴史」(参照)などが参考になる。ま、偏った資料だとも言えるが。
 偏った資料を基にまとめるのだが、テコンドーは1960年年代に故崔泓熙(チェ・ホンヒ)が松涛館空手を元に「[足台]拳道」を創始したもののようだ。この際、韓国の伝統芸テッキョンを融合したとのことで、その伝統性を主調している。この点については、どこが融合されているのか具体的な研究が必要だろう。
 崔泓熙は1966年に国際テコンドー連盟(ITF)を創立し総裁となる。1973年朴正煕再選に反対し、戒厳令下の韓国からカナダに亡命。同年は金大中の拉致事件のあった年で、私などには生々しい。「朴正煕」には「ぼくせいき」という以外の読みができない。
 その後、韓国では世界テコンドー連盟(WFT)を創立。これで、ITFと分離した状態になる。どこにもある香ばしい話というには、歴史が悲惨すぎる。
 WFTとITFの違いは、「テコンドー ~WTFとITF~」(参照)が参考になる。掲載されている写真が面白い。率直にいって、ITFは空手にしか見えない。
 オリンピック2000年シドニーで五輪正式種目となったテコンドーは当然、WTFである。で、この「正式種目」の背景に金雲龍が活動していたようだが、あまり邪推するのはやめにしょう。
 以上、誤解されないように強調するのだが、テコンドーを貶めるものではない。歴史は歴史、また、五輪正式種目となったWTFの背景追及はきちんと行ってもらいたいと思う。空手については、沖縄の伝統がもっと研究されていいのではないか、と思う。それだけ。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

私はBBCを評価する

 今朝の新聞社説をザップしながら、読んでいる自分の側のやる気のなさのようなものに気が付く。あの、新聞の社説ってかったるいなぁ、という感じだ。理性的に考えれば、今朝の新聞各紙の社説の質はこんなものだろう。古賀潤一郎問題など社説に何度もとりあげる話題じゃない。また、2月に入ってのG7が大きな問題になるだろうから、今しばらくは中だるみ感もあるのだろう。
 簡単に触れるだけにするが、朝日新聞社説「制裁法案――対話につなげる圧力に」は醜い。ようは北朝鮮に金を回せということだ。制裁を今まで課さなかったほうが不思議なくらいなのに。どの社説も触れていないが、今週のニューズウィーク「市場経済が北に花開く 米訪朝団も驚く経済改革で金体制は生き永らえるのか」にあるように、北朝鮮の大衆のマーケットは動き出した。たぶん、中国側の圧力だろう。
 今朝の話題としては、毎日と産経が触れていたが、英国政府による、イラク大量破壊兵器の情報操作疑惑についての英独立司法調査委員会の決定が興味深い。結果は、ブレア首相の責任を否定し、疑惑を伝えたBBCの報道を無根拠とした。まず、ブレアの勝ちである。またしてもジョンブル魂である。イギリス人はブレアの評価相半ばといったところだろうが、私はこいつはすごいやつだと思う。英国っていうのはものすごい底力を持つのだと呆れる。
 毎日も産経は、それでもブレアを非難するトーンがあり、加えてこの件をBBCの汚点とした。産経の文章は稚拙すぎるので、毎日新聞社説「英調査委結論 大量破壊兵器の問題は残る」を引く。少し長いが雰囲気を感じて欲しい。


 調査委員会の結論が出た日の英下院本会議で野党保守党のハワード党首は「調査委員会がどうであれ、大量破壊兵器は見つからない」とブレア首相に詰め寄った。米国でも日本でも同じ問題が今も提起されている。米国によるイラク大量破壊兵器捜索を指揮したデビッド・ケイ氏の「大量破壊兵器の大量備蓄はなかった」という発言も大きな波紋を呼んでいる。戦争の大義の問題は過去のものにはなっていない。
 調査委員会の結論ではまた、世界的な名声を誇っていたBBCが編集システムの欠陥を指摘され、報道の信頼性に大きな傷を残した。ギャビン・デービス会長の引責辞任にとどまらず、報道体制の早急な点検を迫られるはずだ。メディアの報道責任も問われた事件だった。

 気取っているが、前段はタメである。政治的な正義を装ったナンセンスだ。後段は、馬鹿だ。なぜか。
 私は今回の一連の件、BBCを以前より高く評価するようになった。この問題でBBCを問いつめて断罪したのはBBC自身だと私は思うからだ。もちろん、ブレアからの防戦意識も強かっただろうとは思う。それでも、こいつらのジャーナリスト魂はブレアのジョンブル魂に匹敵する気迫だ。伊達に朝から高カロリー取っているわけじゃないなというのは軽口だが、実に感心した。
 そう思う背景の最大の理由は顧みてNHKの病巣だ。同じ公共放送でありながら、NHKは死に体である。自浄機能のかけらもない。NHKスペシャル「奇跡の詩人」のほっかむり、武蔵のパクリのあとのバックれ。醜悪だと思う。
 NHKがクオリティの高い番組を作っていることは理解できるが、なんでこうもNHKというのは醜悪な側面を持っているのだろう。子会社を組織して金儲けをしているのも変だ。
 と言うものの、報道面ではそうでもないなとは思うことも多い。「あすを読む」なども注意して聞けば、かなり辛辣な真実がずばっと提起されることがある。内部にはきちんとしたインテリジェンスがあるし、それを育成するシステムもある。NHKのアナウンサーたちのクオリティこそ今一番日本語を守っている。だが、それでも、NHKという存在の公的な立場に対する自浄作用のなさはどうにもならないのだろうか。
 日本の新聞は報道機関としてテレビと付き過ぎている。朝日新聞は朝日放送、読売新聞は日テレ、毎日新聞はTBS、産経新聞はフジテレビ。そうした、村的な意識が結果的にNHKへのジャーナリズムとしての批判を弱くさせるのだろうか。
 今回の事件の、可視な発端は端的にBBCの過ちであって、これを強弁して援護することはできない。だが、背景には、英国政府側がBBCのイラク戦争報道に不満があったことはよく考慮しておきたい。
 BBCは、30年前とはいえ、モンティパイソンを放映したラディカルな放送局なのだ。今は時代が違う。でも、BBCというのは日本人から見れば、驚嘆すべき組織だと思う。毎日と産経の評価は、浅薄過ぎる。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2004.01.29

週刊文春お薦めソフトというお笑い

 週刊文春2004年2月5日号「達人たちが薦める『無料で使える』ラクラクソフトを全紹介」がお笑いだった。というか、コケにしようと思う。リストは以下。URIは、んなものぐぐれである。


●必須ソフト
OppenOffice1.1.0
GIMP
+Lhaca
●あれば便利
壁カレ
デスクトップカレンダー


NSアウトライナー
CLCL
まめFile2
Adobe Reader 6.0
Googleツールバー
窓の手
●趣味のソフト
ViX
Exif Reader
ラベル屋さん21
iTunes
●上級者向け
MySQL
FFFTP
RemapKey
●ブラウザ
ネットスケープ7.1
マイクロソフトインターネットエクスプローラー6
モジラ1.6

 まず、なんでこれが必須なのかあきれる。OppenOffice1.1.0、GIMP、+Lhaca。誰が薦めているのかと思ったら東大教授國井利康名誉教授。あれま。なんでこんな爺に取材しているのか。OppenOfficeですか。貧乏人のOffice。使いたい人はどうぞだな。でも、何に使うのか。ワープロユース?なわけないよね。エクセル代わり、かな。これはしかたないか。でもだったらエクセル使ったほうがいいと思うが。
 GIMP、論外。文春のあるデザイナー曰わく「九万円以上する『フォトショップ』と機能は変わらないほどで、プロでも十分に使えます」。確かにバージョン2からはCMYK分解できるんだけど、使うか、プロが? プロっていうのは、ソフトに習熟していて、ジョブの連携ができるやつのことをいう。つまり、仕事って一人で完結しないぜ。そのフローのなかでGIMP使うかね? んしても、文春の記事でGIMPにやらせている色調整ならGIMP使うまでもないんだけどな。なにより、GIMPが必須かね?
 +Lhacaがなんで出てくる? 何を解凍したいのか? LZHか。今時誰が使っているのだLZH。ちなみに、私のお薦めは、eo。LZHを使うならLhaz。でも、必須か?
 あれば便利が不可解。壁カレとデスクトップカレンダーを並べる必要はあるのか。ま、どっちかは人によっては便利か。フツーの卓上カレンダーがあればいいんじゃないか。ちなみに、私のお薦めは"Phase of the Moon"、旧暦で暮らしているのでね。
cover
Wzエディター
 「紙」はたしかに便利。でも、名称は「紙copi」ではないか。こっちはフリーじゃないからか。ちなみに、作者の洛西さんは、シュタイナー学校卒業。その体験記をCD-R出版で1000円で販売している。「風」はどうかな、これはわかんない。クジラ飛行机さんもメーラーを新種の作っていたがどうなのだろう。NSアウトライナーは、あれです、Actaですね。世界で一番優れた民族…じゃないか。薦めているのは吉岡忍ですかぁ、アウトラインプロセッサーだったら…と思うのだが、フリーにこだわるのか。なんでもそうだけど、この手のソフトは独自形式やハンドリングの悪い形式使わないほうがいい。ちなみに、私は、昔からWzです。あ、昔はVzだっか。
 CLCLやまめFile2は、率直に言って、なぜ便利なのか皆目わからん。便利だと思う人はいると思うが、なぜこのリストに掲載されているのか、が、わからん。
 Adobe Reader 6.0とGoogleツールバーなんて掲載するなよ、恥ずかしいなぁ。GoogleツールバーはPageRankのプロトコルがハックしづらいので使うしかないんだけど、これってスパイソフト。
 「窓の手」、これは確かにあれば便利だと思う。
 趣味のソフトという分類がわからない。が、ViXは優れもの。有料にして使う人を減らして欲しいほどだ。Exif Readerはスタパ斎藤が薦めているのだが、フツー要らないよ。なんか推薦が間違っている。Exif情報をキーに検索・管理するなら、AbleCVがいいと思う。フリーではないが。
 ラベル屋さん21については特に言及なし。ご勝手に。iTunesは、ま、便利か。m4uで使わないことですかね。
 上級者向けがわからない。MySQLなんて薦めてどうする? コマンドラインベースだぜ。なにかフロントを加えないと使えないよ。FFFTPもスタパ斎藤のお薦めなのだが、わかんねーなと思う。フツー要らないはずだけど。RemapKeyについては、この手のソフトはマシンを不安定にするから余程必要でなければ、やめとけ、と思う。AltIMEで十分ではないのか。
 ブラウザのお薦めは馬鹿丸出し。ネスケとモジラを並べるなよ。IE6はリストにする意味なし。Operaがないだけましか。でも、Mozillaはいい。CSSの設計には不可欠。バグもあるようだが、IEでCSSチェックしちゃだめ。ちなみに、世の中、centerタグはいかんとかいう馬鹿が多いよなと思う。DIVのalign属性のエイリアスだと考えればいいのに。文書タイプ宣言で4.01Trにしとけば別になんら問題ない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

ヒト・メタニューモウイルス(Human metapneumovirus)

 今朝も社説ネタはない。各紙ザップするに主要なテーマ、国連安保理問題と裁判員制度。どちらも朝日新聞社説が扱っているが、「国連と同盟――小泉流の一国平和主義」は支離滅裂。駆け出しライターが必ず言われることだが「あのさ、どこが悪いか言える文章ならまだいいんだよ」である。裁判員制度は、現状、善戦しているとしていいのではないか。
 他に気になるネタはと、ザップするに、ちょっとなんだかなと思われるかもしれないが、今週のNEJM(The New England Journal of Medicine)のトップ記事がちと気になった。Human Metapneumovirus and Lower Respiratory Tract Disease in Otherwise Healthy Infants and Children(参照)である。
 英文を引用しても専門過ぎてなんなので、簡単に言うと、定訳語を知らないのだが、ヒト・メタニューモウイルス(Human metapneumovirus)が、幼児の気道感染の12%を占める、というものだ。
 で? なんて言われそうだが、確かに、SARSや今話題のトリ由来のインフルエンザほど、社会的なネタではない。ヒト・メタニューモウイルスについてはSARSに関連した話題もあった。気になる方はこちらを参照のこと。SARSの原因かと疑われてもいたわけだ。この問題を決着したのも、ヒト・メタニューモウイルスの発見者アルバート・オスターハウス(Albert Osterhaus)である。
 NEJMが大きく取り上げているのは、背景にヒト・メタニューモウイルスってそんなに人間に関わっていたのかということがあるのだろう。というか、私は、その点に、へぇ~98点、という感じだった。ここでいきなり妄想をたくましくしてはいけないのだが、こいつはレトロウイルスで、しかも人間と事実上深く共生しているのは、なんか意味がありそうだ。似たようなウイルスもまだいっぱいいるのだろう。
 日本でもこの感染の状況はほぼ同じだろうと思う。すでにヒト・メタニューモウイルスは検出されているからである。
 社会問題としてみれば、日本の小児科が手薄すぎることが気になるが、実際の治療面では、この発見によって診断が変わってくるだろう。臨床面で対処に大きな変化はないのではないか。このあたり専門家のコメントが聞きたいと思うが、難しいか。
 ヒト・メタニューモウイルスが話のネタとして面白いのは、これが発見されたのは、2001年とごく最近のことという点だ。私は医学というのは20世紀で終わったと考えるのだが、逆にいえば、こうしたウイルスの発見は、新世紀の医学に大きな意味をもつだろう。人類とこれだけ深い関わりがありながら、わかっていないことが多いのだなと思う。SARSについても、社会ニュース的にはなんだかわからないが、免疫になんらかの影響をしているのではないだろうか。あまりこの手のことをうかつに言ってはいけないのだが。
 不埒な極東ブログなのでちょっと放談として先の妄想を書いておく。人間は幼児期に自然状態ではヒト・メタニューモウイルスの免疫を獲得するのだが、むしろ、この獲得過程は進化的に選択されたものではないのだろうか。こんなことを思うのも、SARS感染についてニュースを通して知る限り、子供の犠牲者が少なかった。子供を守るシステムが存在するのではないかと思う。ここで野口晴哉を出して「と」全開にする気はないが、子供の風邪の対処は自然な経過が重要なのかもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.01.28

ラジオ、深沢道子、70年代

 ラジオが好きだ。聞くのも作るのも。よく作った。最初はいつだっただろう。小学一年生以前かもしれない。エナメル線の手巻きに多数の半円形の板が回るバリコン、ゲルマニウム検波器っていうやつだ。今でも覚えている。三球、四球、五球(スーパーヘテロダイン)、一石、一石レフ、六石…ああ、こういうノスタルジーに浸るのはやだなと思うが、甘美な思いはする。完成品の高性能なラジオも好きだ。SONYのはいいぞぉと思う。聞くの好きだ。北朝鮮や北ベトナムの放送も聞いた。別に左翼っていうわけじゃない。日本じゃない変な国の日本語がよかった。
 今はAMのNHKとFENくらいしか聞かない。TBSも文化放送も聞かない。秋川リサとかすてきなお姉さんという感じだった。深町純に詩を送ったら曲を付けてくれた、ってその放送の日だけ風邪で寝ていて、あとで女の子から、あなたの詩?ときかれて、照れた。みのさんもいい人だった。小島イッケイ(どう書くのだ)。久米宏もラジオだった。なっちゃんちゃこちゃん。土曜日の夜の終わりはいつも…ヤングタウン・トーキョー。ああ、ださ。

cover
戦争をやめよう
 いっぱい持ってたヤングセンスも捨てるんじゃなかったなと悔やむ。こうしたご時世だからどっかで高い値段で売っているのだろうな。ピンクピクルスとか、今、どんなだろう。かぐや姫も初期のが面白かった。グランドファンクレイルロードの後楽園も風邪で行けなかった。今週のSPAの福田和也と坪内祐三の対談だとあれは口パクだったらしい。ピンク・フロイドも箱根に見に行きたかったけど、まだお子ちゃまだったからな。ああ、ラジオ。
 FM放送も昔は美しかったなと思う。ジェットストームは別にいいけど、深沢道子「男の心、女の心」はもう一度聞きたいなと思う。なんかあの声と、ああ、大人の世界だぁ、という感じがたまらなかったなぁ。1975年ころか。高校生だったか。あのとき、深沢道子は何歳くらいだったのだろう。ぐぐってみてもあまり情報はない。書店で検索しても、近年の著作は少ないみたいだ。知らなかったのだが、彼女、交流分析やゲシュタルトセラピーとか専門だったのか。
 私は交流分析は関心なかったが、大学生のころは、ゲシュタルトセラピーのフリッツ・パールズにけっこう入れ込んでいたことがあった。ふーん、という感じだ。
 あれから25年、いや30年近いのか。深沢道子、あのころ、30歳代だったのかな。いやもう少し上だろうか。って、もう少し上でも、今の俺より若いのか。でも、大人っていう感じだった。この永遠に到達しない大人の女っていう感じは、なんなのだろう。
 そういえば、マリーネ・デートリッヒの公演を見たことがある。いつのことだろう。白黒テレビか。終わって立ち上がる観衆が爺ぃばっかし。
cover
バエズ武道館公演
 ジョーンバエズが武道館で、アカペラで、ニクソン馬鹿野郎を歌ったとき、あれは天使のように見えた。その後、彼女は声を失ったというが、また戻ってきたという公演をテレビで見た。おばさんという感じだった。きれいだった。アメイジンググレースはなんか聖なる感じだった。
 1970年代かぁ、万博も見た。あのときの小学六年生の付録のガイドブックは実家にあるんじゃないか。
 未来が、世界が、遠いかなたにあった。学校をふけた友だちに、湖畔で、どうしたんだよとか問いつめる青春もあった。彼は今も未婚。友だちが窓越しに、オリビアニュートンジョンのLPを借りに来た。彼は離婚して子供をひきとった。感傷するにはまだまだけっこうしょっぱいなと思う。それに、いまひとつうまく思い出せない。思い出したくないっていう感じもする。
 でも、深沢道子DJの復刻CDとかあったら、欲しいなと思う。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

岸和田、雑感

 この話もためらうのだが、書いてみよう。れいの岸和田市で起きた中学三年生への虐待事件に関連したことだ。この事件は、私はまるでわからないし、世間の受け止め方や新聞社説の取り上げ方も理解できない。コメントとして述べることもできないし、批判もできない。そうした点に変わりははない。
 が、気になるブログ(はてなダイアリー)を読んだ。岸和田市出身のかたの話だ(参照)。ちょっと引用をためらうのだけど、岸和田という土地からすればああいう事件は不思議でもないというのだ。私には岸和田はよくわからないのが、地元を知るがゆえに落胆する思いというのはわからないではない。昨年沖縄北谷で中学二年生が残虐に撲殺される事件があった(参照)。私は、不思議でもなんでもなかった。現地を知っているからである。そしてしょせん本土人である私はなにも言及できない。何を言っても無駄だなと思った。こういう感じってなんなのだろうか。
 岸和田の話では、そして追記もあった(参照)。だんじり関係の話だ。これは引用してもいいかなと思う。


だんじりは、町単位で一台づつ持っています。で、各町に「年番」と呼ばれる責任者がいます。年単位で持ち回りなんですが、それは2、3人の間での持ち回りです。そして、「年番」は時に行政以上の実力者になります。はっきり言うと町のボスになるわけです。今は無いと思いますが(そう信じたい)かつては、年番が土地の境も水路の流れも決められたそうです。

 「年番」は他の山車を持つ文化でも見られる。私には語感と歴史的な由来がわからない。だが、山車がなくても、こういう組織は各地にあり、そしてそのまま行政以上の実力者になっているものだ。極東ブログ「市町村議員を減らすだけでは危険なことになる」(参照)でも書いた。

 日本の地域社会は、フィリピンの地域社会のように伝統的なパトロン-クライアント関係で成り立っているのだ。パンドーレとか言うのだったか忘れたが、地域には親分がいる。ま、社会学的な話はさておき(ほら、そこの社会学専門さん、ツッコメ)、こういうボスの安定機構が市町村レベルの議員の半数以上、およびその派生の権力構造で地域社会の実質的な治安的な権力が維持されているのだ。だから、これを潰せという単純な話では地域社会が壊れてしまう。ああ、もうちょっというと、この権力構造は地域に残留させられた弱者の保護装置でもあるのだ。

 この文脈で考えるなら、岸和田の事件は、「年番」さんの機能の問題だとも言えるかもしれない。ま、言っても詮無きであるが(年番の関心は山車だけだろう)。
 もう一点、歴史に興味を持つ人間としては、先のブログにある「水路の流れ」というくだりが気になった。
 少し地域は違うが、奈良の吉野山には、吉野分水神社がある。この地域は、奈良から大阪南部は水の配分が重要な意義を持っていた地域なのだろうと思う。
 「分水」の意味は字義通りだが、「みくまり」と読む。語源は「水配り」であろう。分水神社はなにも吉野ばかりではない。枕冊子では音転から「みこもりの神」ともある。これは、「御子守神」になっているのだろう。
 古事記など平安初期にできた偽書に過ぎないのだが、書かれている伝承にまるで価値がないわけでもない。その上巻には、速秋津日子と速秋津比売の子として、天之水分神と国之水分神が書かれている。かくしてこの二神(柱)は分水神社に祀られる。
 分水と権力の関係は、日本の歴史を考える上でもとても気になるところだが、この問題についてはまだ自分でもよくわからない。
 余談だが、岸和田ではないが、大阪南部、古市には知人の奥さんの旧家があり、大きいのをいいことに、夏その家族が帰省されているときに、訪問してなんどか泊めてもらった。20代後半から30代前半のことだ。私は、休みができればぶらっと新幹線に乗り、奈良を放浪した。京都もときおり行くが、きたねー学生の町だとばかり思うせいか、好きではない。京都人は嫌いだと言ったら、大阪の人が同意していた。
 奈良から明日香をぶらつきながら古代史を思ったのだが、自然に、奈良から二上山を越えて、河内飛鳥に関心を移した。日本の古代史にとって重要なのは、こちらの地域ではないのかと思うようになったからだ。そして、古市は非常に面白い地域だった。あのあたりは、河内のまんなかのようなイメージを持っていたが、住民の対人的な関係のありかがた、西洋人のような個人の感覚をベースにしているように思えた。不思議なエレガンスがあると思った。城壁都市の文化なのだろう。
 岸和田まで南下するとわからない。文化的には楠公の伝説がまだ生きているようでもあるし、「悪党」の文化なのかもしれない。
 観光なんかどうでもよく、ぶらぶらとすべて忘れて、あの地域を数日かけて散歩してみたいなとは思う。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

給食費払いたくないというネタ

 言い訳じゃないが、あまり面白いネタは書かないことにしている。が、これは面白ろすぎるので書く。河北新報社「給食費『払いたくない』 身勝手な親、滞納が急増 仙台」(参照)だ。


 仙台市の小中学校で給食費の滞納が急増している。2002年度は滞納が過去最高の1568世帯、約3501万円に上った。生活困窮も少なくないが、半数以上は「払いたくない」などの身勝手な理由。滞納のしわ寄せで給食の質を落とさざるを得ない学校もあり、親の間で不公平感が強まりそうだ。

 なんかすごい話だなと思うが、実際のところは、未納者は10%に満たない。河北新報社では、義務教育だから払う必要はないと抗弁する親の例を挙げているが、ま、ネタっていうあたりだろう。端的に言えば、これこそ親の義務の放棄なのだが。

 太白区のある小学校では近年、11月ごろから給食のデザートが1品少なくなったり安い食材が使われたりと、献立に変化が生じている。独自に給食を作っている「自校方式」の小中学校で見られる光景になった。

 常識的に考えれば、給食費払わないなら、食わせなければいいじゃん。昔といっても私の世代にはないが、私の上の世代にまじでそういうことがあった。
 しかし、現場では、給食を差別化したり、給食を廃止するなんてことはできないことになっているのだろうと察する。
 それにしても日本の給食制度っていうのはすごいものだ。こんなもの辞めろよと思うが、しかし、冷静に世界を見渡すと、この制度は優れていると判断してよさそうだ。アメリカなんか、学校のなかにファーストフード店があるようなものだし、ジャンクフード会社からの補助金とかも学校の運営費用なのだ。
 話を河北新報のニュースに戻して、この事態だが、生活困窮という理由は42%ということなので、嘘もあるだろうが、実態調査して、そこまで給食したいなら、補助金にすればいいじゃないかと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

イギリスの大学学費値上げ

 今朝の国内各紙社説は特に触れることもないだろう。端的にネタにならん。というわけで別の話。iLifeのGarageBandってAcid?、おっと、そんな話は極東ブログでやらんでもよろし、で、イギリスの高等教育法案についてだ。ブレアやったね、こいつなんだかんだ言ってもすごいよ、ジョンブルっていう感じだ。
 話は、イギリスで大学の学費値上げを決めるにあたって、世論の一部が猛反発。これはドイツも韓国も似たようなもの。ブレアの場合、与党労働党の議員まで公然と造反しているので、下院審議で敗北かと注目されていた、って日本で注目していたか? 共同ではベタなニュースを流していた(参照)。


 法案は、一律で年間1125ポンド(約22万円)の現在の学費を2006年から同3000ポンドを上限に、各大学が裁量で決められるようにする内容。導入されれば全国の大学の4分の3が3000ポンドまで引き上げるとみられている。

 1ポンド200円くらいとして、大学の学費が年間60万円。え?って日本人は思うだろう。公選法違反者古賀潤一郎だってうらやましいと思うのではないか。なんでそんなんでもめるのだ。と日本人は思うし、実際、この法案は日本を参考にしてできたと聞いたことがある(裏なし)。
 学費値上げの背景には、当然、財政の問題があるが、ブレアの意識は単に財政の問題というのではない。先進各国の大学進学率が半数を越えるようになったので、イギリスもそうした時代背景に遅れないようにしようということだ。それには、その体制が可能な制度に変えようと。見方によれば極めて労働党的ともいえる。もともとイギリスは階級制度がひどくて低階級だと大学なんか行かない。それ以前に学校自体に行かない家庭も多い。親も子供を学校に行かせるっていう認識がないことが多いので、厳罰の制度も作っている(親を刑務所に入れるまでする)。神奈川県が夜間徘徊の子供の親を罰するか、なんてネタで議論しちゃうような甘い世界じゃない。だいたい居住区つまり郵便配達区分を見るだけで、差別されるようなものだ。あいつら、だらか、日本に来ているとホットするっていう感じだった、というのは昔のことなので、私の認識が古いかもしれない。
 共同のニュースからはわかりづらいが、これまで1215ポンドも安過ぎるように、実は以前は無料だった。私学もである、というか私学が少ないせいもあるが。そういう意味で、日本の旧文部省はうまくやっていたといえるかもしれない。もっとも、そのせいで日本社会は構造的なゆがみをおっている。余談だが、日本の大学のいいところは、フリーターを隠蔽することだ。すでに日本の大学は無試験同様になっており、知性のレベルなんて問題にすんじゃないよ、の、状態だが、社会の消費と労働力のバッファとしてはかなり有効な装置なのだ。
 話を戻して、27日夜の下院では、賛成316票、反対311票の僅差。CNNニュースでは「大学授業料値上げ法案を僅差で可決 英下院」(参照)にある。ニュースはちょっと面白い。

ブレア首相は同日、同法案に反発していたニック・ブラウン元農漁業食糧相ら労働党主要議員の説得工作を行い、土壇場で賛成票へ転じさせた。野党保守党は、同法案が影響しないスコットランド選出議員が賛成票を投じたと批判している。

 「同法案が影響しないスコットランド」というのは、そう、スコットランドは関係ない、というか、ウェールズとスコットランドはすでにほとんど独立している。外交・軍事ではイングランドと共同だが、教育・司法制度は独自のものだ。サッカーだけではないのだ。
 とま、たいした話ではないが、ヨーロッパってやつはなと思う。頭固いよね。反面、世界動向で見ると、大陸中国人教育熱心だから、これから所得が上がれば、いろいろ世界は変貌してくるだろうと思う。すでにハイテク系は中国人ばっかだと思うのだが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.01.27

[書評]秋日子かく語りき(大島弓子)

cover
(C)角川書店
 個人的な話から始める。先日実家に行って死んだ父に線香をあげ、母の愚痴を聞きいた後、10年前に出奔したままの自分の部屋にこっそりと入り、書架を見ると、一番手前に「秋日子かく語りき」があった。他に大島弓子は1冊のみ。人に貸して返ってきていない。誰に貸したかも覚えていない。大島弓子が、あすかコミックに移り、それからサバの話ばかりになるまで、よく買っては読んだ。  あの時代、と言って何年前だろう。1987年、15年前か。つい昔のような気がする。井の頭公園にはまだビーバーがいたころだ。ハナ子さんは今でも元気でほっとする。私は30歳になった。少女漫画なんか読んでいたのか? 多少はね。そういう時代だった。なにより、大島弓子の作品は、ものすごいクオリティが続いていた。こんな作品を人間が書き続けることが可能なだろうかとも思った。不安な感じがした。  日焼けた「秋日子かく語りき」をぱらぱらとめくって読みかえしてみた。きっかけは、NHKの「ちょっと待って、神様」(参照)である。つまり、これの原作である。ふとしたきっかけで放映されると知り、HDレコーダーに予約セットして見ることにした。見た。面白い。映像も音楽いい。よく出来たドラマだなと思った。原作と違う点も多いなとも思った。フランクリンのエピソードはよく活かしているなと思う。  1週目が終わり、どんどん原作から離れていく。あれ?という感じがした。ただ、どうもドラマが心にひっかかる。原作を読み直してみようと思った。まさか、自分の昔の書架の度真ん前に待っているかのようにあるとは思ってもいなかった。  10年ぶりに読む原作は、意外なほど強烈だった。昔の漫画だなとも思うのだが、最後シーンで、自分の心のなかのなにかが氷になるように静止した。ネタバレで申し訳ないが、恐ろしいとも思える言葉が記されていた。10年前の私には、読みながら読み落としていたのだ。その言葉は、秋日子の友人、薬子のものだ。キャラクターは高校生である。
夜空に
”美しく青木ドナウ”が
流れて
秋日子の言葉が
みんなの心を
一瞬ホッとさせ
そして
それぞれが
未来の転生のことを
夢見ていた

しかし
わたしは

花や蝶になりたいと
いうのでなければ
我々はとってもちかい
今生(みらい)のうちに
それぞれの夢を
かなえることが
できるのだと
固くそう思っていた


 薬子は絶望を抱いているキャラクターではない。シニックではあるが、冷静である。だが、その冷静さのなかに、ひっそりとした、ある種の絶望があるのだと思う。それは、未来に自分の夢など叶うことがないと諦めている高校生だ。人生には、夢などないと思って生きている少女である。
cover
(C)角川書店
 が、その少女の前に現れた、少女秋日子---その内実はおよそ人生に夢などなかったかのような竜子54歳---がどたばたを起こした。そして、7日の後、薬子は、生きることが可能なのだと確信するようになる。
 この奇妙な確信は、ドラマ「ちょっと待って、神様」の宮崎あおい演じる秋日子に与えられている。ドラマの秋日子は、生きることをほとんど断念した少女であったからだ。その意味で、このドラマは、単に原作をアレンジした別ものではなく、原作のもっともコアな部分をストレートに展開しているとも言える。他の主人公たちも、みな、生きることの緩慢な絶望に浸されている。脚本家浅野妙子はある意味、徹底的に大島弓子を読み抜いているし、ディテールには大島弓子的な配慮も多い(キースジャレット趣味は違うだろうが)。
 しかし、原作を読み返し、この言葉に立ち止まりながら、その生きる確信が、過去形で語られていること、「それぞれの夢をかなえることができるのだと固くそう思っていた」ということ、これは、当然ながら、陰影がある。ふと大島弓子が何歳の時の作品だったかと思って、愕然とした。大島弓子は私よりちょうど10歳年上である。私が30歳のとき、彼女は40歳である。私は今46歳だし、彼女は56歳なのだ。
 「秋日子かく語りき」を書いた40歳の大島弓子という存在を、私は考えていなかった。30歳から見れば、40歳とははるか彼方の存在であり、まして女性である。30歳の男の私は、それほど若い女に関心があるわけではないが、まだ青春の失恋に5年後も打ちのめされていた分、年若い女性しか見ていなかった。
 このところ、岸本葉子の癌のこと、酒井順子の「負け犬」だの読みながら、自分の世代から自分より一回りくらい歳が違う女性の、生き様を決するあたりの言葉を読みながら、そのすべてにおいて(マンションを買う、癌になる…)など、結果的に先行していた大島弓子の40歳ということを考えた(浅野妙子も40少し過ぎである)。40歳の大島弓子にとって、秋日子による薬子の啓示、「それぞれの夢をかなえることができるのだと固くそう思っていた」ということはどういう意味を持っていたのだろう。
 かつてはそう信じていたが今は信じられないといった単調なものではない。しかし、かなえるべき夢の時間は、40歳という歳ではすでにある程度の総括をしてもいい時期だ。
 作中の竜子54歳は、それでも少女の秋日子として、「そう遠くない」青年期の生の可能性を語るのだが、それを越えた大島弓子と竜子の人生の時間の距離は、どのような生の可能性の意味をもっていたのだろうか。それとも「セイシュンっていうやつ」が、完成したあとで、そのような、後年の生の可能性を問うことは、あまり意味がないのだろうか。いや、この作品自体がそういう「セイシュンっていうやつ」が花となったものだろうな。
 そうか、「セイシュンっていうやつ」だなと、46歳の男である私は思う。思えば、10年前、すべてをかなぐりすてて出奔した自分はかろうじてセイシュンっていうやつだったかのかもしれない。言いながら、照れて苦笑するが、嘘の気持ちでもない。
 ヘッセの「ガラス玉演技」の主人公ヨーゼフ・クネヒトは、ものの最初に籠もる不思議な力を詩にうたっていたが、「セイシュンっていうやつ」は人生に意味を与えるのだろうと思う。それは、失われてみえるかのようでいながら、ある青年期一時期の問題でもないのだろう。「秋日子かく語りき」の洒落のもとであるツァラトゥストラは、至高の午後をもって、永劫回帰という生のナンセンスを受諾しているのである。
 ドラマ「ちょっと待って、神様」まだ終わっていない。原作のように、深夜のフォークダンスで終わるのだろうか、気になる。すでに決まった脚本だろうが、そう期待したいなとも思う。

追記 2.7
ドラマ「ちょっと待って、神様」は最終回をむかえた。それに合わせてブログのリンクを修正した。このブログで期待していた、原作に近い最終回の映像とは少し違った。ドラマでは一種のキャンプファイアーシーン。なので原作のエンディングが考慮されていたとも言えるだろうが、むしろ、ドラマの海の朝焼けのシーンが良かった。あれは脚本家の意図だろうか。それでも制作側の強い意志がないとできないので、あのロケはよくやるなと思った。これだけドラマで見ると宮崎あおいのファンになってしまうのはしかたがないか。泉ピン子もよくやっていた。父役津嘉山正種はかっこよすぎ。勝地涼君は好演。裕木奈江演じる、ドラマだけのキャラ原田ゆかりは不思議な印象を残した。ある意味、美しく描いてはいない。脚本家のある種の自省が反映しているのだろうか。結果的に若い人たちに見て欲しいドラマだったなと思う。

| | コメント (20) | トラックバック (2)

幻想のクルディスタン、クルド人

 クルド人問題に触れる。非常に難しい問題だし、極東ブログの姿勢などに政治的な一貫性を期待しているむきもたぶんないだろうが、イラク・シーア統治を述べたところで、ポロっと「シーア派を使ってクルド人を抑制するほうがいい」という趣旨の本音を言ってしまった手前、補足しておきたい。「本音」というが、心情としては本音でもない。クルド人の歴史を見ると胸が熱くなる。クルド人が望むように支持してあげたい、そのほうがいいではないかという思いも強い。だが、なのに先のポロが出る背景を書いておきたい。
 クルド人問題について、ネットではどんな情報が飛び交っているのか見ると、「クルド人問題研究」(参照)という良質なサイトがあった。内容を見るまえに参考文献とあるので、それを見たほうが見識がわかると思って見ると、国内文献が多くしかも新しいので、研究者ではないのかと多少落胆した。非難しているわけではない。専門家のサイトを期待しすぎた。

cover
トルコのもう一つの顔
 プロフィールを見ると運営者は1972年生まれとのこと。そのことを非難するわけではないが、そういえばと思って、参考文献を見ると、トルコ関連の資料がないことに気が付く。ノー天気な大島直政などに言及する必要などないが、このトルコ関連の手薄さは少し気になる。また、奇書「トルコのもう一つの顔」(小島剛一著、中央公論社 1991年)が参考文献に含まれているが、この本の影響はどのくらいなのだろうか。
 同サイトに「クルド人問題とは」という総括があり、概ね正しいのだが、が、と躊躇するのは、すでにここに私の認識とは大きな乖離があるのだ。

 クルド人は、中東のトルコ、イラン、イラクにまたがる一体の地域(「クルディスタン」:クルド人の土地)に居住するインド・ヨーロッパ系の民族である。人口は推定2000万~3000万人で、アラブ、ペルシャ、トルコに次ぐ中東で4番目に多い人口を持つ大規模な民族である。しかし、現在の世界地図上に「クルド」もしくは「クルディスタン」という名の国は存在しない。クルディスタンは現在、トルコ、イラン、イラク、シリア等の国家に分断されている。数千万の人口規模があり、一定の領域に居住しながら、独自の国家を持たない民族は他に存在しない。

 間違っているとは言わない。そういう見解のほうが主流かもしれない。だが、私は本質的にこの認識は間違っていると思う。理由は、クルディスタンは排他的な領域ではないのだ。クルディスタンとされる地域にザザ人を筆頭として、多民族が存在している。また、「現状の世界地図」の現状の時刻は、現代ではなく、セーブル条約の時代だろうとみなす。
 セーブル条約は、第1次世界大戦後を終えた1920年フランス、セーブルで連合国側とトルコとの間に結ばれた講和条約である。講和とはいうが、ようするに、オスマントルコを列強が分割することだ。この条約が実現すれば、現在のトルコ南東部にクルド自治区ができることになっていた。これは狭義の国家としてのクルディスタンの原形と言えないでもないが、この時代の広義のクルド人居住域としてのクルディスタンの南部であるモスール州は、イギリスの手前勝手でイラクに編入ということになった。すでに国家としてのクルディスタンの原形の段階で分裂させられていたのである。しかも、イギリスの勝手。恣意である。ご都合である。こうした歴史を持つイギリスは熱心にイラク戦に参戦する素地がある。
 しかし、ご存じのようにと言っていいのか、日本をモデルにしてできた近代国家トルコ共和国は、列強とローザンヌ条約を1923年に締結し、トルコ領土を確立。ということで、モスール州を除くクルディスタンはトルコに編入させられた。かくして、クルディスタンという国家樹立の夢は消えた。
 この歴史に消えたクルド自治区とモスール州を加えると、幻想のクルディタンができる。「クルド人問題研究」でなんの限定もなく、クルディタンとされているのがこれである。極東ブログはこれを幻想のクルディスタンとするのである。もっとも、「クルド人問題研究」の「クルディスタンとは」(参照)では、アルメニア虐殺問題を含め、かなりきちんと状況認識が書かれているが、結論は読みづらいだろう、と思う。
 問題は、この幻想のクルディスタンに、一つの民族としてクルド人が住んでいるのだろうかということだ。もちろん、クルド人は住んでいる。だから、つい「一定の領域に居住しながら、独自の国家を持たない民族」と言ってしまいたくなる。
 おまけに、トルコはひどい。建前としては、トルコ共和国に住んでいるのがトルコ人=トルコ民族、よって、トルコにはクルド民族はいない。ということになる。だが、これを笑う資格は日本人にはない。まったくない。ゼロだ。クルド問題に関わる日本人ならまず日本の状況から関わってもらいたいとすら思う。目を遠くに向けるのは偽善だ。
 しかし、こうしたトルコの言い分は、時代とともに緩和されてくる。世界に散ったクルド人やその支援を受けて、トルコも建前だけでは通らない時代になってきた。そこで、現状のトルコ共和国では、それを構成する多民族の一つとしてクルド人を認めるものの、クルド人もトルコ共和国という国民国家の構成員としてトルコ人なのだから独立の必要はない、ということになってきているようだ。
 こうしたトルコについて、なお、クルド人は非難するし、独立を求めている、というふうに、欧米ジャーナリズムは時折あおり立てる。日本でも同じだ。私も、その口に乗せられていた、10年前、イスタンブルを見るまでは。
 イスタンブルの郊外をドライブしていると、やけにスラムが多い。先日イランで地震のあったバルではないが、泥煉瓦でできたような速成のスラム街である。しかも、そのスラムの形状が、なんというか、無秩序に増殖しているとしか見えない。なにが起きているのかとトルコ人に訊くと、クルド人だという。「東部から一族でやってくる」と言う。「やつらはすごい、子供を10人産む」と言う。どこまでが本当なのかわからない。それから、その人口の流れについて、簡単に説明してくれたが、その数値を忘れた。公式統計などないだろう。
 その後、トルコはますます下層民からイスラム原理主義が強くなっていったが、トルコのイスラム原理主義というのは民衆の互助組織である。つまり、国家の福祉が及ばないのだ。なぜこんな事態になるかというと、中国の盲流と同じ現象が起きていると考えるのが妥当であり、クルド人ばかりとはいえないせよ、クルド人などが都市スラムにかなりの量流れ込んでいるのは間違いない。
 そして、イスタンブルの町を見ながら、クルド人について考えた。まるでわからなくなった。夕暮れにホテルにつくと、人なつっこくよってくる靴磨きの少年がいて、同行のトルコ人は追い払おうとしたが、ま、ホテルに着いたことだしと別れ、少年に靴を磨いてもらった。翌日、トルコ人は、あれがクルド人だよ言った。
 以上、大局的な話と個人的な話を奇妙にくっつけたので「と」のような珍妙な話に聞こえたことだろう。私もこの体験と観察を公的に言う確信はない。だが、事態の総合的な意味での認識に間違いはないと思うようになった。クルド人の少なからぬ人口がすでにトルコの都市スラムに流動し、その住民になっているのだ。幻想のクルディスタンに残されたのがクルド人の全てではないし、そこにクルディスタンという国ができても、もはや、クルド人が帰れるわけもないのだ。
 小島剛一によれば、クルド人同士もすでに言葉が通じるわけでもないようだ。まして、イラク北部のクルド人たちと、トルコのクルド人と言語が通じるのだろうか。この点もはっきりとはわからないが、通じないのではないか。少なくとも、トルコで都市民化したクルド人は、クルド語を捨てているのではないか。
 こうした状況下で、イラクにクルド人の自治区ができるとすれば、それはどんな意味を持つだろうか? クルド人がクルディスタンの幻想を持つのはしかたないし、そこが幻想の拠点になるだろう。そして、トルコは猛反発を始め、トルコで都市民化したクルド人は取り残されていく。
 EUの勝手な思惑でトルコはEUに編入されるかもしれない。いずれにせよ、トルコ側にクルド人の自治区ができる可能性は少ない。結局、イラク北部だけが残されるだろう。クエートのように石油に依存した小さな国家を作ることはできるが、そのようにしてできた国家は拡大と統合の幻想を放棄することはないだろうから、つねに火種を持ち続けるだろう。
 なんという悲劇だとは思う。だが、現状では、クルドが新しい火種になることを避けて、歴史の時間の進み方を遅くするしかないのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

昔の大人の思い出

 どうも世事に疎くていけない。実家に立ち寄ると母親が中学三年生の男子虐待事件の話をしていたが、他の話のごとく馬耳東風でいた。今朝新聞社説を見ると社説の話題になっている。これが、まるでわからない。いや、わからないものでもないのだが、まず思うことは、この事件は極めて特定の事件なのだから、社会がそれほど目を向けるべきなのかということだ。産経新聞社説「子供虐待 連係プレーで早期対応を」のこの言及の疑問と同じだ。


 今回のケースは最初、長男と二男(一四)が虐待を受け、兄弟は何度か祖父母の家に逃げたが、連れ戻された。二男はさらに実母(三五)を頼って逃げたが、長男は逃げなかったという。恐怖心のためと思われるが、中学生なら、体が衰弱する前に、弟と一緒に自力で逃げられなかったのかなど疑問も残る。

 錯綜した内実があるのだろうし、そういう問題にまで、社会の構成員としての他者として存在しえない私がどう考えていいのかわからない。あるいは、極めて文学的な課題だとも思う。
 こうした世相に子供の虐待というくくりで社会問題にしたがる傾向があるが、子供の虐待という点では、このブログでも紹介した「芸者」など、その最たるもので、昔からあんなものだ。そうあってはいけないが、人間の境遇というのはそういうものだ。
 もう一点。こうしたオヴァートな虐待を社会の言説は取り繕うのだが、私の思春期の感性を思うと、大人たちの子供への常在する心理的虐待のほうが大きな問題だと思う。みな、子供から大人になったはずなのに、あの頃の思いを忘れるのだろうか。私ですら、些細なことではあるが、ああ、僕は死んじゃうのかと伏せって息も絶え絶えに苦しんでいるとき、家族はテレビの馬鹿番組で笑い転げていたことを覚えている。家族を恨んでいるとは思わない。そういうものだとは思うし、あの時の自分を思うと、誰からひと言さりげない声をかけてくれてもいいのでないかとも思う。
 思い出に浸りたくはないが、学校もひどくなった。小学校のころは、まだ復員兵の味のある先生や戦争未亡人の先生がいた。「でもしか先生」というのもいた。死線をさまよう経験や女や酒にやすした経験をもったが子供に適当に向き合う大人がいた。子供はそうした大人の大人らしさや不思議な優しさを感じ取った。だが、中学・高校とそういう先生はいなくなった。自分でも感じるのだが、そこに戦前と戦後の線があったようにも思う。戦前がいいわけではないが、そこにはそれを緩和する人間の経験があった。それは「芸者」を読んでもわかる。
 そうした、感性と言いたくはないのだが、なにかを社会は失っている。し、それを復権することはできないのだが、こうしたトンマなサラリーマンの高校教師の作文みたいな社説を読むと、人間の薄っぺらさを感じる。
 余談で締めたい。先日ラジオ深夜便をきいていて、ほぉと思ったのだが、フランスなどでは、子供を一人家に置いて大人が外出することすら法に触れる虐待になるそうだ。ホントかなと思うが、自分が外人家庭を覗いた経験からすれば、そうした精神が根幹にあるのはわかる。大人は大人、子供は子供といった社会だからこそ、大人たちは子供の最低ラインはきっちり守るのである。ああいう大人たちと日本人のへなちょこが戦ったら勝てるわけもないか、いや、戦前は日本にも大人がいたか。などと思う。今は、日本には、大人語をしゃべるシミュラクルばかりだ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

自衛隊イラク派遣は話題か

 日々主要紙社説を読みながら未だに社説というがわからないと思うことがある。今朝などそうだ。各紙こぞって石破防衛庁長官の派遣命令を話題にしているが、この話のどこに話題性があるのだろう。まるで理解できない。朝日新聞社説は「陸自本隊に派遣命令――『ここまで来たら』を排す」は標題から連想されるものを越える内容はない。もともと、自衛隊を合憲としたのは、自民党政権ではなく、おまえさんたちのお友達村山富市だったのをお忘れ無く。そして、なんか極東ブログもサヨかよと思われるかもしれないが、言っておいたほうがいいのかもしれない。今回の派兵は、日本国憲法をあの成文法と見るなら違憲だ。そもそも派遣ですらなく「派兵」だ。


自衛隊を派遣する以上、憲法や法律に沿わない事態になれば、首相は活動の停止や撤収もためらうべきではない。国会や国民に対して活動内容や現地の治安状況などを十分に知らせる務めもある。

 日本憲法を成文法と見るなら、すでに違憲だ。だが、実質日本の憲法は解釈改憲を経ているのであり、とすれば、日本国憲法など歴史文書でしかない。原典すらきちんと確認されていないという考証を読んだことがある。古典文書なら伊勢物語から偽書である古事記に至るまで各種異本というのがあり、校訂作業が必要になる。日本国憲法の原本は存在するのか端的に疑問だ。もちろん、国立公文書館所蔵のは知っているが、あれがそうなのか。いずれにせよ、憲法というは概念であって成文法である必要ない。この議論が余談に逸れすぎた。
 朝日をくさす意図はないが、現地状況を十分に知らせる勤めと朝日新聞が言っている意図がわからない。例の報道規制だろうか。文脈をなしていないよ、この文、と思う。

 忘れてならないのは、理を後回しに、既成事実の積み重ねで国の針路を決めてはならないことだ。問われているのは、この国の民主主義と法治なのである。

 私はまったく違うと思う。戦後日本の歩みそのものがは成文法の憲法の「理」を踏みにじってきた。それが私たち日本国民の歴史であり経験なのだ。そしてそれがどれほど「理」からそれようが、それが私たちの姿である以上、そこからしか進むことができない。全てのファンダメンタリズムは歴史性を無視なり偽装した「理」(アルケー)から始まる。そしてそれが何をもたらすかを歴史は教えてくれる。歴史は人が愚か者であってはいけないことを映し出す鏡だ。
 他紙について、毎日は朝日と同じ。読売と産経も読むまでもない内容。馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいが、防弾チョッキすら兵器と見なす日本に見合った馬鹿馬鹿しい光景なのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2004.01.26

極東ブログ近況

 極東ブログ近況、といっても、finalvent近況じゃありません。なんでこんな駄文ばかすか書いているのかね、てふ御疑問無用事。ついでながら、仮面ライダーBlade、まだ見てません。
 年明け、ココログのトップで極東ブログが紹介されて、いや参った。こんな黒いブログを紹介しちまっていいのか。というわけで、紹介の文言は毎度ながら新聞社説批評だよーん、みたいなもの、はい。ま、それでいいのだが、で、リファラ件数を見るに、アクセス件数が上がったみたい。で、ちと、どうすべとか思った。数日後落ち着いた。有名どころのリンクがあると、アクセスが血圧みたいに上がります。
 あ、極東ブログではアクセス解析はやってません。関心ないっす。でも、「はてな」でリファラを眺めていた癖がぬけねーんで、リファラは取っている。リファラ件数からアクセスが多いんだべな、という感じを持つわけ。もっともリファラといってもJavaScriptだし、けっこうみなさん、セキュリティソフトが普及しているみたいで、リファラ、そんなに出てない。というか、けっこういいかげんなリファラ検出なので、「はてな」みたいにはいかない。が、「はてな」みたいにリファラが取れても、うざったい。ところで、リファラって何ですか?なんて訊かないでね。
 リファラを見ていて、おやまぁと思うのは、Googleのランキングがもろに反映していること。ちと、こりゃまいったなという感じ。当方、極東ブログ、話題によっては、デープなこと書いているので、そういうデープネタに関心ある人がぐぐったときに情報提供できればいいじゃーん、とか思っていたが、実際のところ、世人の行動パターンつうか、GoogleのSERPの10位くらいしか、Googleって使われてないのがよくわかる。こりゃ、SEOが血道をあげるわけだ。
 いやまぁ、よく来るリファラが「雑煮の作り方」、え、なんでそんなものが極東ブログに来るのか? って自分で記事書いているのすっかり忘れてましたよ。Googleで検索したら、SERPの1位でやんの。おい、どっかの食品メーカー、雑煮のアフィリエトをくれぇ、リンク貼ったるでぇ、と、これは嘘。もともと、雑煮の作り方なんぞ、関心ないし。でも、世の中、なんでまた雑煮の作り方なんかに関心持つんだ? 他に多いのが、キャット・スティーブンス。うーん、俺っち昔のファンだからもっとデープな話でも書いたるかぁ?(やめとけ)
 ちょっとはっとしたのが、「荻生徂徠」と「弁明」、おい、それって誤字だ。って、極東ブログがこんな恥ずかしい誤字してたか、ってよく誤字するので、ありかな、とGoogleで調べたら、別の文脈で偶然マッチしただけでした。ホ。が、ついでに世の中、「荻生徂徠」「弁明」のWebページがあるのを見て呆れた。ソクラテスじゃあないんだよ、って教養カマしてどうする。
 それにしても奇妙なキーワードでSERPを勝っているのは、なーぜなのか、そんなに極東ブログのPageRank高いか? な、わけねーべ。
 実測。極東ブログのPageRankを計ったら4でした。「はてな」のときが4、ココログに引っ越したとき3。「はてな」のほうが、構造的にリンクファームなんで、1ランク上みたいですね(って悪口だったりして)。ニフティの社長のが6。例の「詞織」が5。えっと、詞織にコメントないのかって? あるわけないじゃん。H2の空タグ打っておけばいいのになんて言わない言わない。
 それにしても、最近、GoogleのSERPで「はてな」と「ココログ」がのさばってんじゃないのか、っていう感じがする。他のブログってあまりヒットしない。2ちゃんねるとかブログサービスやっていたのじゃないか。なぜ、出てこない。Google八分か。
 って、笑っているけど、最近、極東ブログもこのまま悪態を続けていると、Google八分かなとふと思う。け、勝手にしろ、とも思うが、それでいいのだろうか。というのもだ、ココログルで毎回文字数の多いブログで極東ブログが掲載されるのがこっ恥ずかしいんで、あ、そうか、じゃ、ココログの新着を止めればいいのかと思って、止めた。ホッとしたが、あれま、副作用。Googleのクローラーが怠け出したぜ。
 実は、先日、Googleのクローラーがいよいよ極東ブログをフレッシュクロールやりだしたようで、うひゃ~とか思っていたのだが、すぐに態度変えてしまった。今だと5日インタバールくらいかな。極東ブログにアンテナ貼ってくださる方のアンテナのほうが先にクローリングされているので、うーん、それもなんだかなと、新着にまた顔を出すことにした。結局、なんであれトラヒック(NTT用語)量の下支えがないとクローラーは動かない、ようだ。
 話をリファラに戻すと、圧倒的にというほどのことはないけど、「はてな」のアンテナが多い。ふーんていう感じ。が、リファラ無しも多い。カットされているのもあるだろうけど、多分にリンク集なんでしょう。ネット上のリンク集ではない、っていうか、極東ブログはあんましリンクされてない。なんか、黒いですし、ここ。2ちゃんねるとかにも出てないみたいでほっとします(見たくもないっす)。
 最近はリファラ数が安定していて、ま、こんな感じかな。悪たれつくから、でも早晩、Google八分かな、と。しかし、恐らくそうなってアクセスが半減というあたり。ふーむ、ですね。そのくらいいいのかも。
 アクセス数自体は私本人にはあまり意味がない。NIFTYのフォーラム時代、そのまた前のアスキー時代でもそうだったけど、ま、結局、読まれて20人っていう線があればいいかな。違うかな。そのあたりが、ブログの新しい感覚。私のように鼻っ柱の強い青二才が、気が付けばもう46歳。爺ぃだよ。ブログの世界にいる歳じゃねーよっていう感じ。わかんないですね。
 これで話は終わり。えっと、ついでなんで、新聞社説執筆者のみなさん、いつも悪口書いてごめんなさい、と頭を下げる。ついでに、一言ずつ、えー。朝日さん、サヨ反米はもうやめましょう、つまらない。読売さん、ナベツネって怖いですか。毎日さん、また反リフレの作文読みたいです。産経さん、ポチ保守って辛い? 日経さん、うーむ、日経さんがわからない。韓国紙さん、翻訳のかたけっこう年配ですね。言葉遣いでわかります。ごくろうさまです。日韓の友好にもがんばってください。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

牛肉の話

 狂牛病問題については、極東ブログは、それなりにつっこんだネタを出してきたと思うし、これ以上言うこともないのだが、ちと、気になる余談めいた話を書いてみたい。ちなみに、私はBSEとは言わない。先日のクローズアップ現代でもハーバード大の担当がどうどうと、mad cow diseaseと言っていた。字幕でBSEって訳すなよと思った。
 まず、気になるのは、私が目にする意見が偏っているのか、米国牛肉の輸入再開なんで許せない、国が米国に屈しても消費者は許さない、みたいな意見をよく見かけること。なんだ、それ?という感じがする。確かに、米国は日本の狂牛病のときは、日本からの輸入を全面的に禁止したのだから、米国お得意のダブルスタンダードかよ、と思う。だが、このとき日本も統計的に有効とかぬかして適当な検査態勢をとれば米国は折れたのではないか。つまり、このとき日本は全頭検査だぁ!とかやったわけだけど、これって、どうせ米国で狂牛病の牛が出るのはわかっていたことだから、振り返ってみるに、しかけたのはどっちなんだ? しかも、若年検査までやって新種の狂牛病を発見した。このタイミングが絶妙だったという話もすでに書いた。
 お笑い本「買ってはいけない」が出たとき爆笑したのだが、あの感覚からすると、だ、今の日本の状況は、またお笑いやってんじゃないかと思う。なんかこの雰囲気で言うのはスッパマン勇気の指みたいだが(ってギャグ通じる?)、米国が全頭検査をしないでも大丈夫というのは、ちゃんと科学的なことじゃないのか。もっとも、検査の現場が、あの怠慢な米人のことだから大丈夫かなとは思うが、理論的な部分では検査態勢はこれでいいのではないか。それと、日本の国民もそんな馬鹿でもないから、米国牛肉が入ってきたら、ほいほい食うと思う。でも、と、ちょっと口ごもるけど、私は食べません。米肉、小売りのはまずいんだもの。
 米国人はいまでもがつがつ牛肉食っている。怖くねーのと思うが、そうでもないらしい。なぜなのだろう。馬鹿?というのもあるかもしれないし、米国って民衆レベルでは情報の流通がすげー悪いのもあるだろう。っていうのは、一部健康志向な人はオーガニックな牛肉にちゃんとシフトしたというのを私は確認しました。やるぜ、である。それと、もう一点、米国って知的階層がまだあるので啓蒙が意味を持つ面がある。政府が安全っていうのだもの、である。で、この米政府が日本なんかと比べものにならないほど、てんこ盛りに科学的なのだ。まいど、FDA文書を読むたびに、うんざりするほどである。ちと気になるのは、狂牛病が人間に感染するには人間側の遺伝子の条件があるとの噂があるのだが、まだ確認していない。調べるの、面倒臭ぇとか思ってしまった。
 日米の牛肉問題の落としどころは、結局、あのちんたら検査の現場の問題になるから、そこで日本の商社あたりがなんか三者団体でも作って日本チャネルを作るっていうことになるのだろうか。どうも吉野屋問題とかで騒いでいるが、米国牛肉の日本の消費総量は1/4くらいだ。それほど問題になるわけでもないし、吉野屋の悪口言うわけじゃないけど、あの肉は米国人にとってはくず肉なんだから、ちと問題の観点が違うよと思う。
 ところで、この話をぐだぐだ書くにあたっては、実は、オーストラリアからのセーフガード撤廃陳情のその後が気になったからだ。オーストリアからの陳情というかは先週くらいはニュースになったのが、その後はどうなったのか? 日本政府はどう対応しているのか。情報がねーぞ!
 そもそも、あのセーフガードっていうのはなんなんだよと思う。お忘れの方は、「『自動発動』批判続々 牛肉関税引き上げ 」(参照)。同記事にあるこの下りが気になる。


「世界貿易機関(WTO)で認められた措置を実行しなければ、現在交渉中の新ラウンド(新多角的貿易交渉)でも譲歩を迫られかねない」(農水省の貿易担当者)との思惑もあるようだ。

 なんか、おいおいじゃないのか。世界の安全問題は国連主義でいいかもしれないけど、WTOを傘にして日本は誰と戦うつもりなのか。間違ってねーか。関連して「豪経済外交、米・中に照準 熱冷める日豪のFTA協議」(参照)もなんだかなと思う。日本の国策が間違っているなと思う。
 さらに余談。セーフガードでちとぐぐったら愉快な記事があった。「2004/07/30 牛肉セーフガード発令について」(参照)である。どういう文脈の話なのか、親ディレクトリが不明なのだが、ようはこう言いたいらしい。

皆さんは輸入牛肉を心から「おいしい♪」と思って食べていらっしゃるでしょうか。もしそうだとするならば私は心からその方を哀れみます。なぜならば食べ物の味を理解する舌を持たない可哀想な人だからです。私自身決して富豪の家に生まれたわけでは無いですし牛肉に関する専門知識があるわけでも無いですが、幸いにして国産牛肉と輸入牛肉の味の違いは理解する事が出来ます。正直に言わせてもらいますがおそらくスーパーで売っている一番高い輸入牛肉よりも一番安い国産牛肉の方がおいしいと思います。輸入牛肉は私の舌には合いません。っていうかマズイです。とってもとってもマズイ。というか味が無いっていう言い方の方が正解かも知れませんね。

 ふーんである。別に批判はしない。正直だなとは思う。
 で、ご存じのとおり、日本の牛肉の嗜好と欧米は違う。だから嗜好の違いを云々言ってもあまり意味はない、というのはある。だが、どうも米人の動向を見ていると、彼らも実は霜降り肉がうまいと思っているみたいだなというのもありそうだ。
 も一つなのだが、牛肉って冷凍すると不味くなる。これは沖縄在のとき、元米領事館のピザハウス本店で冷凍してないプライムリブ食ったのだが、うまい。ほぉと思った。牛肉をうまく食わせるには技術がいる。
 また、韓国料理屋でもそこそこの値段でめっぽううまい店もある(荻窪とか)。牛肉を食わせる技術の問題はある。
 ちなみに、私はホテルとかフレンチの店で牛肉がうまいと思ったことはない。鉄板焼きとかサイテーだと思う。
 で、この話もおしまい。沖縄に行ったら、浦添の元米領事館のピザハウス本店でプライムリブがあるか訊いてみるといい。あ、米国輸入だからもうないのか、残念。ちなみに、米軍内は冷凍肉ばっかだった。でも、きっと、あの肉、フェンスの向こうにあると思う。フェンスの向こうは米人のつてがあれば、簡単に入れますよ。ただ、うろうろしていると銃口向けられますが、撃たれたことはありません。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

電子政府なんて、要らない

 自分の考えがまとまらないので、書くだけ間抜けな次第となるだろう。でも、率直な思いをメモ書きにしておきたい。日経新聞社説「便利な電子社会へ万全の安全対策を」が提起する問題だ。社説自体は、なんともぼよ~んとしたトーンで書いてある。それが悪いわけでもない。ヤッシーみたいに騒いでも、もうオマエは門外漢だよレベルの事態を別のレベルで騒いでも、意味なんてない。というのは、住基ネットの問題。その安全性についてのバトルだ。厳密に言えば、ヤッシーが正しいが、実用面でヤッシーの危機感はほぼ無意味だ。むしろ、危機のポイントはヤッシーや櫻井よし子が騒いでいる点ではないと思う。ちょっと悪口を言うのだが、このレベルの人が騒ぐだけ問題がおちゃらけになるし、本当はもっと発言して欲しい人が産業と国家に巻き込まれ過ぎている。じゃ、オメーがなんか言え、なのだが、難しいには難しい。RFIDについても、技術系の知識がある人ですら、トンチキな話になりがちだ。
 日経からネタとして引用する。


「e―Japan戦略」に基づく電子政府構想が本格始動する。19日から電子納付システムがスタートし、29日には公的個人認証サービスが始まる。これで2月から国税の電子申告・納税、3月からはパスポートの電子申請が可能になる。行政手続きの電子化は国際的な流れだが、成功させるには万全な安全対策を急ぐ必要がある。

 まず、気になることだし、識者と思われる人が言及していないのは変だなと思うこと、から書く。日本が公的個人認証サービスができるって、すげーなである。私の感覚からすれば、そんなこと米国が許すわけねーだろ、である。どうですか、みなさん?
 で、私は古い人間だし、頭も固くなっていて、おまけにひねくれた性格なので、やっぱ、米国は許すわけないよ、と思う。陰謀論めきたいわけじゃないが、私の常識からすればだね、この話には、裏があるよ、きっと。どっかにホワイトハウスへのバックドアがあるんだろうなと思う。
 次に思うことは、ひたすら呑気なことだ。端的にいう、「そんな、システム、要らん」 便利になってなにが悪いと言われそうだが、そうなのか。あのさ、思うのだが、みなさん、郵便番号が7桁になって便利になりましたか? あれってなんのためにやったのだろう? 秋田県孫様、だったっけかな、で、届く郵便配達システムが未だに成立しているから郵便事業が成立しているのであって、システム的な問題は従属的だし、もっとコストパフォーマンス優先の解法があるではないか。と言いつつ、郵便事業まで民営化してしまうのか。なんだかなと思う。お役所の不便さには、いちいち立腹する私ではあるが、世の中多少不便であってもいいと思うし、その不全さは、ポストマンパットとぶち猫の世界を守っていると思う。
 住基ネットで気になるし、いろいろ発言してみるが、空虚だなと思うのは、これって、今後日本の移民問題の予備なのではないかと思うことだ。端的に言えば、日本国家に外人を入れないよ、外人は電子的に区別してやっからね、ということではないかと思う。あれまぁ、である。ちと、余談だが、極東ブログがどんなふうに検索されているかというと、端的にはGoogle様の気まぐれ評価どおりのキーワード検索なのだが、それでも、例のフランスのスカーフ問題、つまり、ライシテ関連で覗きに来られるかたが多いようだ。あの記事で、フランスのライシテをむしろ擁護したのだが、でも、ドイツじゃ問題ないんじゃんと思われているとしたら、とんでもない。どっちがより開かれた国家と考えてみるといい、ドイツも日本と同じ血統主義だ。いつまでたってもトルコ人は外人なのだ。むしろ、国家を理念から開くフランスのほうが近代国家だし、ライシテというのはその不可欠な条件なのだ、っていうのが、呑気な日本人はわかりづらいし、この呑気さはこれから、電子システム的に保護されることになる。で、いいのか?
 日経の先の社説だが、結末がけっこう微笑ましい。個人情報は自分で守れというのだ。

 だが最も大事なことはまず国民一人ひとりがセキュリティー意識を持ち、自分の情報は自分で守る姿勢を持つことである。電子社会の進展は利便性が高まる代わりに個人情報が社会に流れることを意味する。自分の情報が正しく扱われているか常に政府や企業へ情報開示を求め、確認していく姿勢が求められている。

 なにが言いたいのでしょうね。個人情報は個人で守れ、って、無意味。それが無意味だとわからない人に解説するのがうざったいくらい。利便性とプライバシーのバランスはこういうフレームワークでは当然のこと。日経もうっすらわかっているらしく、だから、公的機関を市民が監視しなくてはいけない、と正論を吐く。確かに正論なんだけど、そのためには、国家に取り込まれない識者と団体が必要なのだ。日本にあるか。サヨだったら、やめちくれよ。
 最後に余談で締める。極東ブログ、誰が読んでいるのか、もうどうでもいいやではあるが、読んでいるかたに問いかけたい。「あなた、表札に名前書いていますか?」 書いているならなぜですか? 表札になんて書いていますか? と問いかけられて、あれれ、って変な気になりませんか。ちなみに、他の国のご事情知ってますか?

| | コメント (8) | トラックバック (0)

確かに大量破壊兵器は見つからない

 今朝の朝日新聞社説「イラク戦争――脅威が幻だったのなら」を読みながら、重苦しい感じがした。ようは、朝日は、イラク戦争の大義はないだろう、脅威は幻だったのではないか、というのだ。もちろん、この当の問題については極東ブログとしては少し距離を置いていた。この戦争の是非については、このブログを開始する以前にごく小グループのなかでしか発言していない。しかし、それでも、どちらかと言えばそこで私はイラク開戦を支持していた。朝日新聞が言うように、今となれば、大量破壊兵器の認識において私は欧米に乗せられ、間違っていた、とも思う。
 が、2点、フセインがイスラエルを突く可能性と、それと、独仏露がイラクに対して兵器輸出や裏の石油取引していた状態は放置しておくべきではないと考えていた。結局のところどうかと言えば、その2点の理由で、今でもあの戦争を肯定している。
 だが、それゆえに、朝日新聞がことさらに「脅威は幻だったのではないか」として米国の非を責めることを、排除できるものでもない。
 むしろ、問題はイラク戦後統治の問題だったという点で、実は、今日の朝日新聞社説の見解は、新しい幻想を語っているに過ぎないと考えている。もし、フセイン体制を支えていた勢力、主にスンニ派を支持していたら、今日のイラクの混乱はなかっただろう。朝日がこんな時期にサヨの気炎を上げる目はなかっただろう。
 不味かったなと思うのは、米国は、あの時点で、亡命勢力を国家中心に据えようとぶれたのではないか、という点だ。もともと、この戦争の条件は、フセインの亡命だったように、戦争の大義はフセイン本人に絞られていた。詭弁のように聞こえるかもしれないが、開戦の条件という点では、大量破壊兵器(これをWMDと略す朝日新聞のセンスを疑う)は副次的な問題だった。もちろん、それは米国流のレトリックに過ぎないとも言えるだろうし、現状のリビアの折れ方を見ればあながちレトリックでもないとも言える。いずれにせよ、あの時点で、戦後体制は、暗黙の内に、現状を維持しスンニ派を温存することが想定されていた。そして、戦後の混乱は、マスメディアではフセイン派と想定したが、すでにシーア派の権力闘争の構図があった。米国の統治には大きなミスがあった。
 もう一点、朝日の論調で気になることがある。


 しかし、国際秩序の土台である国連憲章は、明らかに自衛の場合か、安保理が承認した場合にしか戦争を認めていない。大義を後付けして、あの戦争が正しかったか否かをあいまいにすることは、国際社会のためにも米国のためにもならない。

 率直に言って、こんなことをしゃーしゃー言うやつは偽善者であると思う。「国際秩序の土台である国連憲章」と言われて、鼻の穴がむずかゆくならない神経はどうかしている。問題は国連が機能できなかったことであり、国連憲章が国際秩序の土台たり得ていないことが問題なのだ。朝日のこの前提は、一見正しいように見えて、果てしない倒錯でしかない。
 だが、私も国連を機能させるべきだと思う。極東ブログはその視点からそれたことはない。国連をどうやったら機能させることができるのか。有志連合構想を破綻させ、日本を国連に組み入れる、という点で、小沢の常接軍構想を支持した。いずれせよ、国連をどう機能させるというのか。現実的な課題が残るだけだ。
 繰り返すが、朝日新聞の、大量破壊兵器をダシにした米国非難は、大きく的が外れているともに、極めて非現実的な幻想を日本国民に撒いている。日本は長いこと国連史上主義の平和の歌を歌っているだけでよかった。今でもその歌が歌えると思っているのなら、馬鹿では済まない。危険だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.01.25

マーミナー・チャンプルーの作り方

 極東ブログでチャンプルーに言及することが数回あった。どうも、皆さん違うなぁと思うからだ。じゃ、どうなの?ということもあって、マーミナー・チャンプルーの作り方でも書いておこう。
 こんなもの作り方もなんもないような料理だが、本土の食材ではできない。まず、島豆腐がない。沖縄のスーパーとかで売っている島豆腐も鍋の香りがきつすぎてうまいものがないのだが、それでもチャンプルーの素材にはなる。
 マーミナーの語源は「豆菜」である。といっても、エンドウ豆の若葉ではなく、ようするに、もやし、だ。が、このもやしがくせ者なのである。本土のもやしはブラックマッペから作る。しかたないのだが、沖縄のものは緑豆から作る。緑豆についてはいろいろ言及したいことがあるが、省略する。本土で作るなら、ブラックマッペでいいから、必ず根を切る。これにちょいと手間がかかる。この手間を省くと、マーミナー・チャンプルーはできない。中華料理の銀絲と同じ。
 チャンプルーの語源はインドネシア語のチャンプールに由来するが、現在の沖縄料理とナシ・チャンプールなどのチャンプールとは違う。うちなーんちゅでも、チャンプルーといえば、いろいろ混ぜて炒めると理解されているが、豆腐を入れるのがチャンプルーとしたい。
 以下の作り方は多分に私のオリジナル。でも、うまいと思う。
 用意するものは、木綿豆腐一丁(国産大豆だのうるさいこと言う必要なし)、もやし一袋、塩(自然塩がベター)、豚バラ肉100g(できれば肉は上等なのがいい)、ニラ1/4束、そして、泡盛大さじ1か2(できれば43度以上がいい)。珍しいのは泡盛くらいだろうか。ニラがなければネギでもいいにはいいし、なくてもいい。
 もやしは丁寧に根を切る。手間を惜しむな。
 豆腐は電子レンジ500Wか600Wで2分加熱し、一口大よりちと大きめくらい切って、3分くらい置く。すると、水がだいぶ出るので、この水をよく切っておく。島豆腐ならこんな手間はいらないのだが。
 ニラは1~2センチに切る。ひとつまみくらいの量でいい。沖縄料理は香り付けにニラを多用する。根に近いほうは細かく刻むほうがいい。
 豚バラ肉は3センチくらいに切る。薄いほうがいい。
 さて、作り方。中華鍋を中火で熱する。フッ素フライパンでもいいにはいい。熱したら、さっと油を引く。弱火にする。肉を入れる。焦げないように炒める。このとき、脂、つまりラードを出す。チャンプルーの味はこのラードで決まる。フィリピン料理も同じ。豚はかりかりに炒めるする必要はないが、適度な堅さをもつくらいまで丁寧に炒める。ちと手間がかかる。5分はかからない。
 ラードが出たら塩を小さじ2くらい入れて、脂と塩をよく馴染ませる。ここが味の決め手になる。
 少し火力を上げ中火程度でもやしを入れ、さっくり炒める。もやしに少し熱がまわったかなというあたりで、水を切った豆腐(まだ少し温かいもの)とニラを入れ、木べらで丁寧にかき混ぜる。
 味が全体に回り、もやしが少し透き通るくらいで、泡盛を回しがけし、少し強火にして泡盛のアルコールを飛ばしたら、終わり。
 これで終わり。これだけで終わりだ。
 もやしや豆腐から水をあまり出さないようにするのがコツ。塩加減と豚の品質の目利きもコツのうちだが、練習して勘を掴むしかない、と思う。
 なお、島豆腐があれば、もやしの前に豆腐を入れ、少し焼き目を付けるようにする。また、バラ肉ではなく、スーチカー(塩漬け肉)を使うほうがいい。超本格なら、島豆腐ではなく六十(るくじゅう)を使う、が、そんな料理、沖縄でもお目にかかることは、たぶん、ない。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

朝日新聞社説のいやったらしい文章について

 ブログに書くほどの話でもないし、のわりに雑談でもないよーな話なので、書くのをためらうのだが、気になるといえば気になるので書いておこう。ことは朝日新聞社説「学歴疑惑――ほんとは深刻な笑い話」だ。この社説は、つまーんない、ただのスカの作文なのだが、以下の下りだけがひっかかる。どうってことないと言えば、どってこないのだ。


 「高卒」の肩書では選挙に不利と考えた候補者が過去にいた。92年に当選した参院議員だ。「大学入学」のうそがばれて、公選法違反に問われ失職した。
 あれから世の中は変わったのだろうか。

 この参議院議員は新間正次である。ご存じと言ってもいいだろう。余談だが、新間正次についてぐぐったら面白い話もあった(参照)。
 で、単純な話、朝日新聞の社説はなんでこういう書き方をしているのだろうか。新間正次に同情的だから、武士の情け、名前は秘す、ということじゃないだろう。新間正次なんて言及するのもけがらわしい、に近いような気がする。コケにしているとは思う。だけどなぁ、私は朝日新聞のこの執筆者より新間正次のほうがなんぼか偉いように思うのだけどな。
 ま、話はそんだけ。ついでなので、もうちょっと言及。

 だが、問題の根は深い。学歴信仰がまだまだ社会にはびこっていることをうかがわせる「深刻な笑い話」に見えるのだ。
 人間としての中身よりも学歴に価値を見いだすかのような風潮を批判するのは簡単だ。採用の条件から「大卒」をはずす企業も増えている。それでも大学の名前が教育内容より話題になりやすく、大学ランキングもなくならないのが実情だ。

 表面的にわからない文章でもないけど、なにが言いたい文章なのか皆目わからんという感じがする。「学歴信仰」っていうタームも、なんか、今にしてみるとよくわからん。いまさら大卒が意味を持つわけでもない。意味を持つのは、すでに大学間の序列だけ。もっと言えば、センター試験の得点だけ。で、そんなの馬鹿みたいに阿呆臭いのだが、低い得点だった人間にしてみると、阿呆臭とは言いづらいのだろうなと思う。私は、共通一次も受けなかったし、傲慢にも当時から、友人・知人を見るに、東大生なんてたいしたことないなとか思っていたので、この感覚はわからないが、共通一次試験やセンター試験を受けていたら、たいした得点は取れなかっただろうなと思う。それをなんらかの劣等感のように思うだろうな、とも思う。
 で、その朝日さんの言う「実情」なのだが、現実的に、入試難易度の高い大学の卒業生は、統計的に見れば、企業としても、頭いいのはたしかだし、露骨にいうのだが、すでに階級社会化している日本だと、階層のスクリーニングにもなる。それはそれで企業なんかはメリットがある。第一、朝日新聞っていうのが、その最たる大企業で、現場の宅配の事情には目をつぶるだけの良心を持ち合わせてないとできない、っていうか、良心かぁ?である。
 極東ブログでも、これ以上書くとイヤミだけど、も一つ、気になるといえば気になる。

 外国の大学を持ち出した点も、いかにも日本的だ。海外ブランド品というだけでありがたがるのと根は同じなのかもしれない。だからこそ、政治家は経歴に留学経験を書き連ねるのだろうか。

 あのさ、この執筆者、米国の大学の学生の様子、全然知らないのだろう。外国イコール米国でもないし、米国の大学すべてレベルが高いわけでもない、っていか、かなり低いところが多いのだが、UCLAレベルと単位交換ができる大学だと、学生はすげー勉強してまっせ。ま、政治家の経歴だとブランドっていうことかもしれないけど、日本の大学とは雲泥くらいに、アメリカの大学は勉強させられるものなんだけど、なっと。なんせ、教官がマジだぜ。
 ま、いいか。学歴なんか。朝日新聞のサラリーマン記者って、大学出てから14年とか歌ってみてはどうかな。知らない? 地球温暖化音頭も知らないの?

追記
新聞正次について追記。週刊文春新年号「学歴詐称 新聞正次元参院議員が最高裁まで争った理由」で彼はこう言っている。


最高裁まで裁判をやったのは、前に言ったように辞めどきを逸したこと、政党の身勝手な言い分への反発もあった。また、私の騒動の頃、自民党の金丸さんの事務所から金塊が出た事件があったでしょう。そんな巨悪は放置して、私の些細な学歴詐称を大げさに取り上げ、”政治の世界は不正は許されないんだ”と世間に印象づけようとする永田町やマスコミの姑息さに納得いかない思いもあった。

 ああ、マスコミは今でも姑息なのである。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

韓国フリーペーパーの話など

 先日ラジオ深夜便で韓国在住日本人による大衆文化の話があって、面白かった。まず、れいの日本文化解禁のようすなのだが、ごくフツーに受け止められているらしい。反発もなく熱狂もない。視聴率の面でも韓国ドラマとどっこいどっこいといった程度らしい。解禁はケーブルテレビに限定されているせいもあるのかもしれない。放映されているのは、ちと古い作品のようだ。実際に見た韓国の若い女性の話では、登場人物が少ないとのこと。そうした話を聞いて、あ、そうかもねと思う。そういえば、NHKの大河ドラマを見なくなって久しいが、昔は、けっこう登場人物がいた。歴史ドラマのせいもあるのだが。
 現状、韓国では日本のドラマは熱狂的に受けているわけではないが、ある種新鮮な感じはあるらしい。どのあたりかというと、家族が出てこない、ということらしい。それもわかるなと思う。私は韓国には疎いが、沖縄には長く暮らしていたのでああいう家族はわかる。ある意味、「渡る世間に鬼は鬼ばかり」も、そうした時代の名残りであるかもしれない。ついでだが、韓国ドラマは、大企業の御曹司と貧乏な娘の恋愛というのがパターンらしい。すごく、つまんなさそうである。
 私はあんまりドラマを見ない。最近のものでは、って最近でもないか、沖縄にいたので「ちゅらさん」は見た。もちろん、いろいろ思うことはある。その続編は、しょっぱな挫折した。今度パート3ができるらしい。どーでもいいよと思う。あんな番組本土で受けているのだろうか。昨年だが、テレビガイドを見ていて「幸福の王子」というドラマのシノプシスにちと関心があって、最終回だけ、ザップしつつ見た。最終回だけ見たというせいかもしれないけど、ひどいシロモノだった。みなさん、青春の残骸をどう始末して生きているのか気になるが、あんなお笑いなのか。
 このところ、ちょいとした偶然で「ちょっと待って、神様」を見ている。といって、HDに自然に溜まるのを見るだけだが、原作大島弓子「秋日子かく語りき」じゃ、見るっきゃないじゃないか。マンションを買った金策もあってなのか、角川ベースになってから数年の大島弓子の作品は、ものすごいクオリティだった。あれはいったいなんなのだろう。その後、なんだかサバの話ばっかで、大島弓子の作品は追っていないが、井の頭公園でぼーっとしていると、大島さん何を考えているのだろうと思う。
 話を戻す。韓国での日本ドラマは字幕らしい。吹き替えじゃない。大衆ものは吹き替えがいいのだがなと思うが。台湾で見た日本のトレンディ・ドラマみたいな感じなのだろう。今韓国でどのくらいの人が日本語の口語を聞いてわかるのだろうか。60歳より上なら、聞いてわかるだろうが、衛星放送で入ってくる日本の放送を定期的に見ていた層はどのくらいなのだろう。そう少なくもないはずだ。私の歳、40歳半ばくらいになると韓国人は漢字がどのくらい読めるのだろう、と、同級生の朝鮮人留学生を思い起こすが、ま、たいしたことないな。漢字がわかれば、日本語の印刷物はたいていわかる。わからなくなるのは、カタカナ語が増えるあたりだろうが、それにしても英語の基礎があれば、発音してみればカタカナ語もわかるだろう。印刷メディアの間では、ハングルでべた書きしなければ、日韓にあまり隔たりはない。
 現状、韓国では日本ドラマを見る世代にとって日本語は外国語だろう。たぶん、でいうのだが、日本に遊びに来ている層も多くなっているのではないだろうか。ネットで阿呆なこと書いている韓国人はダサイやつらなんだろう。
 話が少しずれるのだが、韓国ではフリーペーパーが盛んらしい。部数から言えば、主要紙を抜くようだ。ほほぉである。極東ブログもネットから韓国主要紙をちらちら覗くのだが、注意しないといけないのは、主要紙といっても日本の新聞事情とは異なることだ。韓国でも基本は地方紙。地方から発言される、か、というと、やはり都市集中はさけられない。が、その都市部がフリーペーパー志向らしい。
 韓国のフリーペーパーは地下鉄ベースで配布されていて、内容はというと、けこうベタなニュースと広告だけらしい。エディトリアル、つまり、社説みたいのはないようだ。広告取りの関係から、主張などはうざったいのだろう。
 日本ではなぜフリーペーパーがいまいちなのだろうか。逆にチープな雑誌が盛んだ。チープといってもその英語の語感とは逆に雑誌の作りとしてはクオリティが高い。基本的に日本の雑誌なんか、フリーで配布してもよさそうなものだが、そうもなっていない。年明け早々、またまた各種雑誌が統廃合される気配だが、なんとも経営面で踏ん切れないのだろうか、という感じはする。
 日刊ゲンダイや夕刊フジなど、フリーペーパーにしてしまえばいいと思うのだが、経営的に無理なのだろうか。そんなわけないと思う。一番構造改革が遅れているのが出版界だしな。
 関連して気になるのだが、特に日刊ゲンダイなのだが、なぜああもサヨくずれなのだろう。あれ読んでいるとサラリーマンの知性が摩滅していくような気がする、が、ま、そういうものでもないのか。ニュース性はなんもない。ジャーナリスト魂などフォーカスの100分の1もないように思うが。
 日本になぜフリーペーパーがないかというと、ようは、出版界でいうところの棚の問題だろう。キオスクに置けるかということだ。韓国だと無人の台に置いてあるだけだが、日本ではそれができない。昔、レディコングというタブロイドの試みがあったが、早々にずっこけた。後続は無理だろう。
 じゃ、コンビニで撒けばと思うし、実際ある程度撒かれているが、どれもサブカルというかポップカルチャー系ばかりだ。TVブロスあたりが価格といいビミョーな線だが、サイゾーといい、日本のサブカルっていうのは、なぜ、ぐだぐだ物が言いたいのだろう、って、なんて言えば、極東ブログがせせら笑われるようではあるが。
 そういえば、昔、六本木レオパードキャットがつぶれたころだったか、Tokyo Journalが面白かった。港区でナイトライフに飢えた流しの米人とかがけっこう情報交換に使っていた。私も暇になるというか、適当にまざったりした。FENも地域コミュニティ情報が多い。あの時代、そうした話からつるんでいると、六本木で金がなくても遊べた、といって、「六本木で遊ぶ」という現代の表現ではない。
 話にオチはない。私にはサブカルの関心もない。おわり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地銀の問題は国の補助金問題ではないのか

 新聞各紙社説のテーマはそれぞれまばらという日だ。そしてどの社説もそれなりに読ませるものがあるが、なにか、こう奥歯にものがはさまったと昔の人が言うような、あるいは隔靴掻痒といった感がある。一巡ザップしてみて、印パ問題や狂牛病問題よりも、身近な生活に関わる経済面が気になる。余談だが、国内では狂牛病の呼称はBSEで統一されているが、先日NHKクローズアップ現代を見ていて、米人の英語の発言を聞いていると大半は狂牛病と言っているのに翻訳でBSEにしていた。やりすぎじゃないか。
 朝日新聞社説「企業の再生――この好機を逃さずに」にもう少し明確な主張が欲しかった。問題の取り上げはいいし、展開も政治思想が絡んでいるわけでもない。よって、冒頭からある程度読みやすい。


 足利銀行の一時国有化をきっかけに、地方の金融機関が抱える不良債権が注目を集めている。
 不良債権の解消は、その裏側にある借金漬け企業の再建や処理と一体である。小泉首相は施政方針演説で、産業再生機構や各県に設けられた中小企業再生支援協議会の役割を強調した。03年度の経済財政白書が「早期に事業再生等が図られるべき」上場企業が132社に達すると、あえて具体的な数字を挙げたのも、企業再生の加速を促すためだ。
 企業の業績は持ち直してきており、株価も一時の低迷を脱し上昇している。今こそ、長年の懸案を片づける好機だ。

 そう主張したい気持ちはわかる。そしてこの先、どんな解決案があるのかと読み進めても、たいした展開はない。
 自分が気になる点だけ、書いてみようと思う。まず、些細なことだが、足利銀行の国有化と北朝鮮送金の問題については、大手新聞は皆解明を避けていたように見えたのはなぜだろう。私はてっきりこの手の話題はガセかと思ったが、そうでもないようだ。きちんとした記事を読んでみたいと思う。いずれにせよ、足利銀行のケースは特例だったのだろうか。もちろん、週刊誌などで危ない地銀の一位にあったことは知っている。
 次に、地銀の不良債権なのだが、これは朝日が言うように「不良債権の解消は、その裏側にある借金漬け企業の再建や処理と一体である」ということなのか。もちろん、そうした側面があることはわかる。
 率直な疑問を出したい。地銀の不良債権というのは、国の地方ばらまき金でふくれあがった、地方権力と結びついた企業の国頼みの経営の破綻がしわ寄せしたものではないのか。ある地方と秘す意味もないが、地域経済の実態を見ていると、いわゆる民間企業の問題ではないように思える。
 もちろん、産業再生機構に預けられた企業名を見ると、そうした傾向は少ないのかもしれない、が、現状の地銀の問題はそこなのだろうか。
 「企業再生の加速を促すためだ」と朝日は言うが、舌の根の乾かぬうちに「再生機構には焦りの色が見えるが、むやみに件数をこなせばいいという話でもなかろう」と断ずる呑気さ加減はなんなのだろう。これは国の方策が間違っているのだから、ジェネラルな部分で方針の転換が必要なはずだ。
 曖昧な話を引き延ばしてもなんなので、私のこの問題へのコメントはここまでにしたい。だが、結局、これは企業と一括されているものの、補助金産業と地域産業と別であり、前者については、つまるところ不動産価の問題ではないか。地域産業については、酷いことを言うようだが、救い道なんかないのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2004年1月18日 - 2004年1月24日 | トップページ | 2004年2月1日 - 2004年2月7日 »