« 2004年10月17日 - 2004年10月23日 | トップページ | 2004年10月31日 - 2004年11月6日 »

2004.10.30

あなたは偽善者ですか?

 先日「はてな」のアンケートで「『はてな』に偽善者はいると思いますか?」(参照)というのがあった。アンケートの選択肢に「義援金を払っている人ほぼ全員が偽善者」というのが含まれていることからわかるように、背景には、はてな利用者がはてなポイント(1ポイント1円相当の地域マネー)で新潟中越地震被害者に義援金を送るという話がある。もちろん、アンケート者は、その行為を偽善だと間接的に主張したいわけでもないようだが、なにか、こーゆーのって偽善じゃないかという感じは持ったのではないだろうか。私も多少わかる気がする。
 アンケート結果で多数を占めたのは「はてなユーザーの一部が偽善者」なので、アンケートとしてはほぼ意味のない結果とも言えるのだが、なんとなくこの波紋が面白かった。
 面白いというのは、その、なんというか、みなさん「偽善者」と言われるのが嫌みたいなんだなっていう感じが伝わってくることだ。他方、偽善でも困っている人に義援金を送ることはいいことじゃん、ごちゃごちゃ言わんといて、と考える人も少なからずではありそうに思えた。
 そもそも「偽善者」という言葉がなにかしら、うちあたい(沖縄語:心に自分が思い当たるっていう感じのこと)する人が多いのか、引き続き、「偽善者じゃなければ何者ですか?」(参照)という問いかけも盛り上がった。
 この件で、自分が思ったことは二つある。まず、今の自分は、あまりそういうことは考えなくなったなということ。若いころはけっこう考えていたかなとも思い出す。
 現在だと、「おまえは偽善者だ」と言われても、「ほぉ、そう見えるかね」というくらいのリアクションだ。余談だが、このブログをやっていると、「ばかみたいですよ」というコメントをいただくことが多い。これも、「ほぉ、そう見えるかね」と思う。つまり、他者がそう思う、そう見るという現象自体は正しいし、その他者の経験を私が否定できるものでもない。もうちょっと言うと、実際のところ、私は偽善者だし、ばかなんだろうなと、けっこう了解してきている。
 若いころはそういうふうに自己を受容してなかったのだろうが、どこで、そうした転換があったのか、しばし考えてみた。ただ、歳とともに身体が老化していくように、心も老化したというだけかなという感じもする。
 思ったことのもう一つは、偽善者って英語でなんて言うのだろう?ということ。もちろん、"hypocrite"という言葉は知っているが、あまり日常使わないように思う。この言葉自体は基本的に聖書から来ている言葉だろうと思う。たとえば、マタイ6章にはこうある。


 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあたながたの父から報いを受けることがないであろう。
 だから、施しをする時は、偽善者たちが人にほめられるために会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

 英語の聖書でも大抵はこんな感じで、この「偽善者」に"hypocrite"を当てている。だが、あまり詳しい考証は省略するが、よりわかりやすく工夫した英語の聖書だと、ここは「演技者」のように訳されている。
 聖書では他にも類似の箇所があるが基本的にはこの箇所が「偽善者」についての言及の代表的だと言えるだろう。とすると、聖書的には「偽善者」というのは、「私は良いことをします」と宣伝して良いことをする人ととりあえず言ってもいいのだろう。
 それだと、ちょっと日本語の偽善者の語感とは違うし、英語の生活文化でもそうした言葉はあまり使われていなさげだ。英語だと「嘘つき」"liar"だろうか。いやそれだと人間じゃないというくらいの非難になる。英辞郎を引いたら"fox in a lamb's skin"というというのもあった。それほど使われている表現でもないが、「羊の皮をかぶった狐」というのは、欧米圏の感覚としてはわかる。逆に、日本人の偽善者というのはそういう、「羊の皮をかぶった狐」ほどでもない。
 私は、たぶん、日本人の場合、特に若い人の気性だと、偽善というのは、本心を偽っている、純真にそう思っていない、という、思いの純度のようなものに関わっているのだろうと思う。偽善者の反対はまごころだけの人みたいな。私信を捨て去るみたいな。
 しかし、ある程度人間生きてみると、偽善者より困るのがこの純真な人々ってやつだ。小林よしのりが、「純真まっすぐ君」とかおちょくって言っていたが、そんな感じだろうか、と言って、最近の小林よしのりについては知らないのだが。
 話がたるくなったので、私の考えをささっと書いてしまおう。私は、五・一五事件(参照)や二・二六事件(参照)を思う。このとき、青年将校たちは偽善者ではなかった。純真な心でテロ活動をやっていたのである。
 純真な心が問答無用に彼らが悪と見たものを殺し、しかも、その殺し方は、相手に同等の武器を与えることによって自らの名誉を守ろうということもない卑怯極まるものだった。というか、そういう行為が卑怯になるという西洋的な感性はなかったのだろう。
 いや、もっとも、こうした感性は日本人だけに特有ではないのかもしれないのだが。
 ネットの掲示板などで「匿名」というのが悪の隠れ蓑のように言われることが多くなったが、聖書的な世界観で言えば、匿名とは、先のイエスの垂訓が明確に示しているように、善意をこの世に知られないように、偽善を避けることが主眼であった。聖書的には、偽善者でなく生きるには、匿名で善行を行うことである。
 じゃ、匿名で悪行をなすのは、なんというのかわからないが、ま、偽善ではないのだろう。偽悪というのかな。悪でないだけましなのかも。

| | コメント (10) | トラックバック (7)

2004.10.29

南無量的緩和、南無低金利

 28日付のフィナンシャルタイムズに"Japan on hold(日本は保留中)"(参照)という標題で、日銀の量的緩和政策は継続しとけという記事が掲載された。ニュース的な意味としては、20日の参院予算委員会における福井俊彦日銀総裁の表明に賛意を表した形だ。
 たいした内容ではないのだが、国際的にはそう見られているのか、ふーん、という感じ。わかりやすくまとまっているのでブログにネタにでもしようかなと思っているうちに、日本語のロイターで抄訳のようなものが出た。「日銀の量的緩和政策の堅持、適切な判断=FT紙社説」(参照)である。原文とのニュアンスの違いのようなものがあるなと思ってざっと見比べたがないようだ。なので、うざったい英文引用はやめて、気になる人はそちらを読むといいだろう。
 その内容だが、フィナンシャルタイムズが量的緩和政策は継続しろというのは、こういう危険性があるからだというのだ。


  1. 原油価格の上昇はインフレ率の上昇を招くが、日本の場合、実質賃金や企業収益の減少も招き、中期的には期待されているインフレ圧力を減少させる。
  2. 現在の日本の景気回復は中国の外需頼みなので、中国経済が減速すれば、日本経済は失墜する。
  3. また今年前半のように最近の円高ドル安基調になってきている。

 私なんぞ、原油がもっと上がれば日本の製造業に本気で価格上昇のドライブになって良し、とか思っていたが、フィナンシャルタイムズのいうように、実質賃金や企業収益になるのだろう。例の一次産品の高騰の経過をみれば、そうよそうよ、である。
 二点目の中国経済の減速については、今回の中国利上の動向が気になるところだ。すでに原油バブルは少し冷えた。もっともこの程度では石油価格が下がったといえるものではない。むしろ期待するなら、中国利上が円売り材料になるかな、くらいだろうか。
 関連して三点目のドル安基調だが、このまま続くのかは、米国大統領選挙にも関係してくるので、しばらくすると動向がはっきりするのだろうが…と、つまり、ドル高って線があるかだ。
 フィナンシャルタイムズでは、円高基調になれば、日本はまた例の介入をやる気だろうが、やめとけ、と諭している。

Now as then, the Japanese authorities stand ready to intervene against the yen if it seems to be rising dangerously quickly and adding to deflationary pressures. But the best way of weakening the yen will be to hold interest rates low, reducing the yield available on Japanese assets and creating expectations of higher inflation down the line.

 それより金利を下げろというのだが…はて、これ以下には下がらんが、と、おっと読み間違えた(わざとら)、ただ現状の低金利を維持しろ、というわけだ。それがthe best wayっていうのか英語って難しいなと思うが、要するに、円高になっても下手を打たずに我慢せいということなのだろうか。ゆっくり景気は回復するのだからってか。
 そのあたりが、よくわからん。というか、フィナンシャルタイムズは、量的緩和をもっと進めろとか、あれとかこれとかいわゆるあの政策をしろというわけでもない。そのあたりの機微がわからん。
 が、総じて福井日銀総裁を支援していると見ていいから、22日の財政制度等審議会での主張が暗に込められているのだろう。「日銀総裁が財政健全化の必要性強調、歳出カットだけでは困難」(参照)のこれだ。

 インフレを意識的に起こして、財政赤字を削減の議論があることについては、「もしこの方法を取ると、金利が急上昇するのは当然のこと。金利の上昇は、経済の活性化を損ない、経済の急速な収縮が起こる」として、否定した。

 つまり、フィナンシャルタイムズ的にもそういう含みなのだろう。
 フィナンシャルタイムズの話から離れ、量的緩和政策は、ま、それはそれとして、福井日銀総裁のこの表明だが…つまり、日本政府は無い袖は振れぬ的状況になっているわけで、どうするかと。当然、取れるところから取るぞー税なので、所得税の定率減税の廃止である。
 これはすでに計画段階のようだ。「定率減税の段階的縮小、常識的には半分ずつ実施=政府税調会長」(参照)だと、こう。

石会長は、首相発言について、「(定率減税は)あまりにも規模が大きいので部分的にやる。先行きの予測がつかない景気情勢の把握にも時間がかかる」として、段階的な縮小は現実的、との認識を示した。その上で、「一挙に全部やろうという人は不満が残るかもしれないが、少なくとも部分的にやる。その意味は半分なのか、3分の1か4分の1かわからないが、常識的に考えれば半分ずつということだろう」と語った。来年度から実施した場合は、2005、06年度の2年間で廃止することになる。

 ま、そーゆーこと。庶民的にはどんどんセピアなシビアな世界になっていくのだろうけど、餓死者がでる国というわけでもないし、ま、いいっか、なのだろう。
 これでどうやって「インフレ期待」かよとも思うけど、じわじわとなんとなるのでしょう。仮になんかのなんかでスポーンとなぜか資産バブルが起きても、以前と同じで直接に庶民に関係はないでしょう。貧乏人は気にしない気にしない。

| | コメント (11) | トラックバック (1)

2004.10.28

日本の報道の自由の順位はチリ、ナミビア、ウルグアイに並ぶ

 今年で3回目になる「国境なき記者団(Reporters Sans Frontieres)の「世界各国における報道の自由に関する年次報告(Third Annual Worldwide Index of Press Freedom)が26日に発表された(参照)。日本の順位は42位。チリ、ナミビア、ウルグアイに並ぶ栄誉である。なんかおおらかで住みやすそうな国の印象を出して好ましい、わけはない。

世界各国の報道の自由の順位

1 デンマーク 11 スウェーデン 24 ジャマイカ 36 ブルガリア
1 フィンランド 11 トリニダード・トバゴ 25 ポルトガル 36 イスラエル
1 アイスランド 15 スロベニア 26 南アフリカ 38 カーボベルデ
1 アイルランド 16 リトアニア 27 ベナン 39 イタリア
1 オランダ 17 オーストリア 28 エルサルバドル 39 スペイン
1 ノルウェー 18 カナダ 28 ハンガリー 41 オーストラリア
1 スロバキア 19 チェコ 28 イギリス 42 チリ
1 スイス 19 フランス 31 ドミニカ 42 日本
9 ニュージーランド 21 ボスニア・ヘルツェゴビナ 32 ポーランド 42 ナミビア
10 ラトビア 22 ベルギー 33 ギリシア 42 ウルグアイ
11 エストニア 23 アメリカ 34 香港 46 モーリシャス
11 ドイツ 23 アメリカ領 35 コスタリカ 46 パラグアイ

 率直に言ってむかつくほどの低順位なので、日本の新聞やテレビ報道機関は無視するだろうかというと、無視するとすれば、その理由はたぶんそうではない。「国境なき記者団」が日本の報道の自由の問題で目の敵にする記者クラブの存在について、日本の新聞やテレビ報道機関が触れたくないというところだろう。
 「国境なき記者団」は2年前に記者クラブなんて廃止にしろよ、ということで、"Reform of Kisha Clubs demanded to end press freedom threat"(参照)という勧告を出している。これに対して、昨年末に「日本新聞協会編集委員会 記者クラブ問題検討小委員会」は「記者クラブ問題検討小委員会・2002-2003活動報告」として次のように明快に回答している。


結論から言えば、これらの疑問の大半は、誤解や曲解に基づくものです。しかし、結果として、彼らは記者クラブを「承服できない障壁」ととらえ、十分な取材ができなかった不満・怒りの矛先が<記者クラブ>に向けられる例が少なくありません。われわれ新聞協会加盟各社は「日本の記者クラブ制度は国民の『知る権利』の代行機関として重要な役割を果している」との基本認識を共有しています。

 なかなか面白いでしょ。というわけで、面白い反論がこの先と、「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」(参照)に書いてあるので、暇な人は読んみてもいいかもしれない。いずれにせよ、今年の発表でもそうだが、そんなの反論にもなってないと結果的に受け止められている。
 今回の発表について、日本のブログで触れているところはあるかとちょいと検索したら、CNNの日本語版が触れていた。"報道の自由度、中東、東アジア低く、日本42位"(参照)。

紛争地におけるジャーナリストの支援や、言論と報道の自由について調査している国際団体「国境なき記者団(RSF)」(本部パリ)は26日、世界各国における報道の自由に関する年次報告書2004年度版を発表した。経済先進国では日本が最低で42位。全体的には、最下位の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を含む東アジアと中東地域で、自由度の低さが目立った、としている。

 いったいどんな基準でこんな順位にしているのかというと、アジアというだけでベースの減点があるわけでもない。"How the index was compiled"(参照)に説明がある。具体的にこの順位が本当に気にくわないなら、これにそって反論すればいいのだろう。
 私はこの順位が気にくわないかというと、そうでもない。こんなものなんじゃないか、日本の報道ってと思う。そんな諦観で国民の知る権利はどうなる、と思うのだが、新しいジャーナリズムを模索していくしかないのではないかと思う。とはいえ、ブログや2ちゃんのようなものがすぐにその代替となると楽観しているわけでもない。
 基本的には国内問題はタレ込みがもう少し増えればなんとかなるかもしれない。外信関係はもうネットで十分でしょと思う。
 社会問題がグローバルな枠組みに置かれるようになれば、国内のボトムアップ式なジャーナリズムでなくても、大枠で抑えることができるのではないかとも思う。例えば、アメリカ産牛肉の輸入がストップしている例の問題だが、これなんか全頭検査という虚構はさすがにグローバルな照明によって維持できなくなった。類似の例だが、日本版Newsweekの編集長コラム「大統領選とすき焼きの中身」ではこんな話がある。

 狂牛病の発生によってアメリカ産牛肉の輸入がストップしている問題では、9月になって日本側の全頭検査要求の見直しという動きがあった。その背景に、大票田であるアメリカの畜産業界による圧力があったことは想像にかたくない。酪農の盛んなテキサス州出身のブッシュが当選すれば、よりアメリカ側の要求に沿った決着が図られるか、輸入の解禁がさらに遠のくかもしれない。

 コラムのユーモアと受け止めるべきかもしれないが、面白過ぎる。事態はそうではない。アメリカの畜産業界は、カナダからの牛肉輸入がなくなったので、日本に出せなくてほっとしているのが実態だ。日本との牛肉で儲かるのは、彼らがクズ肉だと見なしている部分に限定されている。そのあたりの利権はあるにせよ、米畜産業界全体としてマジに日本に外圧をかける状況ではない。また、米国からの牛肉が本当に減少して日本が困ることが確実になれば、オーストラリアのオージービーフが増産できる体制に入ることができる。現状その動向がないのは、日米に出し抜かれることを恐れているためだ。いずれにせよ、こういう問題は国際関係で成り立っているのだから、グルーバルな大枠が見えれば、国内報道の虚構は大筋でわかるようになる。
 ということは、日本の場合は、グローバルなネットリテラシーというのと、またまた英語の問題ということはあるかもしれないが、現状のコンピューターパワーの拡大で実用レベルの英日翻訳は可能になるだろう。
 むしろ、日本の場合、ブログなりが代替ジャーナリズムな志向をやめてしまう傾向が特徴的になるかもしれない。というか、そういう傾向と日本の既存ジャーナリズムが釣り合っていて、報道というより、プロパガンダやアミューズメントになっていくのかもしれない。

| | コメント (9) | トラックバック (6)

2004.10.27

オスカー・テマル(Oscar Temaru)を殺してはいけない

 世界のニュースをそう詳しく知りたいというものでもないのだが、私は沖縄での暮らしが長かったせいか、植民地化された島国になんとなく関心を持ち続けている。気になるのはタヒチだ。タヒチの大統領選挙をめぐって大きな社会混乱が起きている。このニュースはほとんど日本では報道されていないようなので、概要から書くべきなのだが、私自身、この問題をよく理解しているわけでもないので、取りあえず、自分の関心から書いてみたい。
 「タヒチ大統領」という呼称を使ったが正確ではない。またタヒチは国ですらはない。ナウル(参照)ですら独立国なのにタヒチは未だにフランスの植民地のままである。正式にはフランス領ポリネシアだ。その中心となるのがタヒチ島。植民地のままで独立してないのだから「大統領」なんて存在しようもない。統治機構の頂点にいるのは「正確」に言えば「行政長官」である。
 ところが、タヒチ大統領と言われることもある。例えば、原水協(原水爆禁止日本協議会)の2004年6月17日「祝:オスカー・テマルが仏領ポリネシアの新大統領に」(参照)にはこうある。


 タヒチ島を中心とするフランス領ポリネシアの新大統領にオスカー・テマルさんが選ばれました。
 ガストン・フロス前大統領は、フランスのシラク大統領とも親しく、モルロアやファンガタウファ環礁でおこなわれた核実験を推進し、20年にわたってポリネシアを支配してきました。95年にフランスが核実験を再開した際には、モルロア環礁で泳ぐパフォーマンスをして見せ、フランスの核実験はクリーンだ、などというプロパガンダをしてきた人物です。

 この記事は今年の6月の時点でテマル大統領の誕生を祝したものだ。フロス前大統領は91年から今年までこの任にあった。
 現在進行中の事態の発端は、新しいテマル大統領が廃されて、4か月ぶりに以前のフロス大統領に戻ったことだ。この点については、日本では現地からではなく、シドニー共同による報道がある。例えば、毎日新聞「仏領ポリネシア:反独立派のフロス氏が行政長官に復帰」(参照)ではこう伝えた。

南太平洋のフランス領ポリネシアの領土議会(定数57)は22日、テマル行政長官に対する不信任案可決に伴う行政長官選挙を実施、反独立派のガストン・フロス前行政長官(73)を賛成29、反対0で選出した。

 不信任案可決が反対なしということではない。28人はボイコットしたのだ。それなりの思いがあった。この状態で不信任案は正しく可決したと言えるのだろうか疑問だ。いずれにせよ、行政長官選挙、つまり実質再度の大統領選挙で、フランス支配下の自治を主張する人民連合のフロスが投票で返り咲いたのだから、これでよしということにしたい勢力がある。
 それにしても、なぜ4か月でテマル政権は転覆したのだろうか。これは別ニュースで補うと、テマル大統領が、フロス行政長官時代の会計検査を命じたことに、フロス勢力が反発したことがきっかけらしい。
 それでも、この間、国民側にテマル大統領に目立った不満があったかといえば、社会不安やそれに伴う事件は起きていない。デモやストライキもなかった。
 もっとも、結果的にフロスにも投票が集まったことを見れば、国民の状態は議会同様に拮抗して割れていたのだろうは推測できる。だから、テマル政権を国民すべてが支持していたわけではない。
 だが、テマル大統領が議会の不信任投票で罷免された16日に大規模な民衆デモが起きた。タヒチ島で一万五千人近く、他島で数千人がデモに参加した。BBC"Tahiti crisis sparks mass protest(タヒチ危機で群衆の抵抗た高まる)"(参照)は18日の時点でその状況を伝えている。

A political crisis has escalated in French Polynesia, where at least 15,000 people have staged the Pacific territory's biggest ever protest rally.
【試訳】
フランス領ポリネシアで政治危機が高まってきている。少なくとも一万五千人もの民衆が太平洋地域の植民地でかつて無い規模の反対運動に参加している。

 テマルとしては、一旦大統領に選挙されたのに、植民地制度の議会で罷免できるわけがないとしているようだ。私はそれが普通の大統領の意識というものだと思う。
 テマルへの国際的な支援層は厚いことは、先の原水禁のページからも伺える。

新大統領のオスカー・テマルさんは、長年、核実験反対運動を続け、原水禁大会にも参し、フランスの核実験被害を訴えて日本の反核運動がポリネシアの核実験被害問題に関わるっかけの一つをつくりました。非核・独立・太平洋運動の立て役者の一人でもあり、ポリシア--マオヒの人々のフランスからの独立を求めてきた政党、タビニ・フイラーティラ(ポリネシア解放戦線)の党首、タヒチ第2の都市ファアアの市長でもあります。95年には、核実験再開反対の大運動を組織し、世界の注目する中でミスター・反核実験と呼ばれていました。

 私も率直に言うとテマル支持なのでこうした心情を共感する。その分だけ、事態が気になる。
 現状では混迷を深めているようだ。26日のBBC"French Polynesia crisis mounts"(参照)では、テマルのハンガーストライキを伝えている。

French Polynesia's former President, Oscar Temaru, has gone on hunger strike to protest against his ousting.
【試訳】
フランス領ポリネシアの前大統領、オスカー・テマルは、彼の追放への抗議としてハンガーストライキを続けている。

 また、ダルフール危機情報などで最近参照することの多いロイター・アラートネットでは"Ousted French Polynesia leader starts hunger strike"(参照)で伝えている。

The ousted leader of French Polynesia began a hunger strike on Tuesday to protest against his removal and try to prevent an ally of French President Jacques Chirac from taking office.
【試訳】
フランス領ポリネシアで追放された政治指導者が、その追放とフランス大統領ジャック・シラクの同盟者たちをタヒチ政府から排除することを訴えて、火曜日からハンガーストライキに入っている。

 私はテマルは本気だと思う。本気というのは、彼はタヒチ独立に人生を賭けた人間だし、ここが彼の人生の最後の山場になると決意しているに違いない。だめなら死ぬ気だなと思う。国際社会は彼を殺すような状況にしてはいけない。
 ここでフランスのシラク大統領が出てくるのは宗主国ということもだが、この追放劇に、フランス本国からの政治工作が疑われているからだ。BBCは次のようにほのめかしている。

The new leader, Gaston Flosse, is a close ally of French President Jacques Chirac. Mr Temaru has accused France of political manoeuvring, but Paris has denied any involvement.
【試訳】
新しい指導者ガストン・フロスは、フランスのシラク大統領の強い同盟者である。テマルはフランスの政治工作を非難しているが、フランス政府はその関与を否定している。

 この問題を力でねじ伏せることは、より多くの禍根を残すことになるだろう。
 だが、と、少し奇妙な思いにかられるのだが、このニュースは人権意識が高いといつも思っていたVOA (Voice of America)に現時点でもないようだ。米国のニュースサイトでもあまり報道されていないように見える。所詮、フランスの国内問題だというのだろうか。とすると、この問題は、テマルを弾圧することで取り敢えずの収束とするといった国際的な暗黙の合意がすでにあるのだろうか。もちろん、日本国内でもこの問題は、ほとんど取りあげられていないように見える。
 さて、ここで変な話にずっこける。タヒチ危機について調べているうちに、奇妙な別のニュースがYahoo!で見つかった。"EnCana says Tahiti joint venture could produce 30,000 barrels a day"(参照)がそれだ。標題を試訳すると「エンカナによれば、タヒチのジョイントベンチャーは一日三万バレルの石油を生み出す」とのこと。これはなんだ?
 実際に石油の埋蔵がありそうなのは、メキシコ湾内のようではある。タヒチとのジョイントベンチャーというのがどういう意味を持つのかわからない。ついでにメキシコ湾内での石油開発のニュースをざっと見ていると、えっ?みたいな埋蔵量が想定されているようでもある。
 石油というとやはり陰謀論でしょ、みたいにすると話が面白いのだが、当方には想像力というものがない。
 現在の原油高が無茶苦茶にサウジを潤して(そして実際はサウジにつながっている政治グループを利して)、反面、中国をきりきりと締め付けている。しかし、こんな高値が続くわけもないし、その気になれば、地球はまだまだぶちゅーっとあちこちで石油を吹き出すようでもある。
 タヒチのジョイントベンチャーというのが、タヒチ危機やフランスの思惑に関わっていないといいと思うが、そこはまるでわからない。
 でも、なんか変だなとは思うし、率直に言って、フランスにきな臭い感じがする。

追記(2005.5.5)
その後この問題を十分にフォローしてこなかったが、いろいろな経緯もあって、テマルは行政長官に復帰した。エントリについていだいたコメント、及びトラックバックに有益な情報があるので参考にしてほしい。

| | コメント (7) | トラックバック (2)

2004.10.26

ODA(政府開発援助)についてのよくある話とシラク商売人

 Japan Timesの昨日のオピニオン欄に掲載されていた"ODA looks wasted on China(中国へのODAは無駄遣いみたいだ)"(参照)が面白かった。三つの点から日本のODAの見直しを提言したものだ。標題通り中国向けODA批判が際だっていた。
 中国向けのODA(Official Development Assistance:政府開発援助)については、もうその役目を終えたという意見は多い。特に中国は軍事費が毎年10%ずつ増えているわけだが、そんな金(かね)どこから出ているのか。昨年は中国に円借款として日本は967億円を投じているわけで、それが軍事費の潤沢につながるように見えるのもおかしな話だ。
 Japan Timesでも、この問題は2点目の課題しとて取り上げられていた。


Second, Japan should strictly observe the principles of its ODA charter by suspending or reducing aid to countries that contravene them. China clearly flouts the principles as it is increasing military expenditures and has produced weapons of mass destruction and missiles.
【試訳】
二点目に、日本はODAの原則を厳格に守り、これに違反する国への援助を削減すべきだ。中国が明確にこの原則を踏みにじっていることは、増大する軍事費や、ミサイル、大量破壊兵器の製造といった点からもわかる。

 しかし、重要だなと思ったのは、一点目のほう。ODAの金(かね)をアフリカに回せというのだ。

First, Japanese ODA should now be focused on Africa and other non-Asian regions. Asia, which has received 50 to 60 percent of the aid, has achieved fast economic growth.
【試訳】
一点目は、日本のODAは今後アフリカと非アジア地域に焦点を当てるべきだ。アジア諸国は現在ODAの50%から60%を得ているが、すでに急速な経済成長を遂げてきている。

 このところ私もアフリカ問題に関心を持つようになったせいか、日本政府のこの分野での立ち後れには戸惑うものがある。日本の企業や民間援助では違うのかもしれないが、EUがスーダン・ダルフール危機鎮静のために、アフリカ連合(AU)に1億ドル以上拠出しようとき、日本はなにやってんだと苛つく(参照)。これに対して日本はというと、国連諸機関2,100万ドルの拠出の予定だというのだ(参照)。はぁ?
 ついでに三点目はNGOとの連携がうまくいってないということ。それもそうだろう。この話は省略。
 話の焦点を中国に移すのだが、先日のシラク仏大統領ご一行様(仏企業トップ50名ほど)の中国商談の旅もあきれた。8日から5日間の旅で、40億ユーロ(約5400億円)の契約をまとめた。たいしたセールスマンである。あ、salesmanじゃなくて、vendeur? 中国の死刑制度についてはどう考えているでしょうね、シラクって。政治家じゃなくて、あきんどってやつかな。
 読売新聞(2004.10.13)「中仏大接近、シラク大統領が中国で“商談の旅”仏企業40億ユーロ規模契約」ではこう。

 中国の国営新華社通信などによると、仏エアバス社は大型旅客機計二十六機を中国東方航空などに販売する契約を結んだ。また、仏重電大手のアルストム社は、時速二百キロを出せる高速鉄道車両六十編成のほか、水力発電タービンなど合計10億ユーロ(約1350億円)の契約を結んだ。
 このほか、仏石油大手のトタール社は、石油大手の中国中化集団とガソリン小売りの合弁会社設立で合意し、北京、天津などで、ガソリンスタンド二百店を展開する計画という。

 それでも、北京―上海高速鉄道とエアバスA380の売り込みには失敗したのだそうだ。成功してたらよかったのにと皮肉も言いたくなる。
 現状、こうした中仏の動きは、米国大統領選挙への牽制もあるのかもしれない。武器輸出についてもあらためて賛意を表明。これについては6月以降、EUでは、フランスが主導になって、対中武器禁輸の解除に向けた検討に入っていた。ブッシュ政権は、そんな事態になれば、NATOもやめるぜ、EU向けの軍事技術供与を停止するぜ、と脅した経緯もある。
 米国がケリー大統領になると各国との協調とかいう名目でEUに擦り寄るだろうから、こうしたEUっていうかフランスの行動はさらに露骨になるだろう。
 うがった見方をすれば、EUのダルフール危機鎮静のためにAUへ拠出するというのもフランスの米国封じという意味合いがあるだろう。中国のスーダン利権への配慮もあるかもしれない。しかし、それはそれでダルフールの人々の平和が維持できればいいのであって、この点については結果オーライではある。

| | コメント (1) | トラックバック (3)

2004.10.25

[書評]超恋愛論(吉本隆明)

 吉本隆明についてこのブログで書くのは、このブログが続くなら、あと一回ということになるのだろうかとも思っていたが、意外にもと言っては失礼だが、「超恋愛論」(参照)が面白かったのでネタにしてみる。標題はこーゆーのやめとけ系だが、編集はよく出来ていた。対談すると何を言ってんのかわからん吉本翁の言葉なのだがかなりくっきりしている。もっとも、漱石を語る当たりで少しボケてしまったのは、編集者の力量が問われるところか。

cover
超恋愛論
 気になったのは、この本、吉本隆明だのといった面倒くさい前提をいっさい抜きにして、ある過激な恋愛をした爺ぃの話として読めるだろうか?ということだ。そう読まれるべきだろうと思うのだが、そこが、岩月謙司先生なみにトンデモ本となってしまうのか。
 吉本隆明の思考の癖みたいのがわかるともっとわかりやすいのだが…というあたりで適当に恋愛論的にざらっと書いてみたい。
 恋愛について、爺さんがまず頑固に言っているのは、もてるもてないっていう話はどうでもいいというあたりだ。ライブドアの社長さんなんかを気にする人が多い昨今、こうした頑固話が通じるのか。

 ただ単に、たくさんの異性にちやほやされるとか、出会いのチャンスが多いとか、そんなのは本質的に恋愛となんの関係もありません。
 つまり、いわゆる「もてる」「もたない」みたいなものは、恋愛において意味がない。
 恋愛というのは、男女がある精神的な距離の圏内に入ったときに、始めて起こる出来事です。最初にぼくが精神的距離感を問題にしたのも、そういうことです。
 その距離の圏内に入ってしまうと、相手に対する世間的な価値判断は、どうでもよくなる。

 「精神的な距離の圏内」ってなんやねん?みたいだが、簡単に言えば、「あいつは見知らぬ他人じゃないよな」っていう感じだろうか。例えば、新潟で地震があったとき、あいつ新潟出身だけどどうしてるかな、と気になるような、その気になり具合が翁のいう距離ということだ。だから、男女の場合でも、ある種の好悪の感じが前提になるのだろう。
 じゃ、恋愛ってどうよだが、こうだ。

 細胞と細胞が呼び合うような、遺伝子と遺伝子が似ているような--そんな感覚だけを頼りにして男女がむすばれ合うのが恋愛というものです。

 どっひゃである。動物学的には遺伝子と遺伝子が似ているのを避けるのがメイティングのシステムだよねというツッコミは、なしよ、としても、細胞レベルで遺伝子レベルで引き合うような実感があるのが恋愛だと翁は言うのである。ほんとかね?
 これが、ほんとなのだ、というその「本当」が人生のなかで確信できるかどうかが、まさに人生における恋愛が問われているところで、この「本当」のありかたが非常に難しい。
 ぶっちゃけ、誰でも「私って恋愛中」みたいなとき、実は計算というか打算というかがある。これならイケルみたいな。あるいはそんなのないとしても、「いつまでもつかな計算」とかがあったりする。
 ということは、この計算がない理想状態ってどうなのだろう。真空状態で物体を落下させたら羽でもパチンコ玉でも同速度で落下するみたいなことだ。自分のなかに恋愛の本当の姿が予感されているとき、どこまでそれを本当だと信じるか?
 吉本の発想はこの理想状態と、それを阻みうる社会歴史文化制度という二元論からできている。
 つまり、吉本的には(ってお笑いじゃないが)、私たちの実社会における恋愛の現象を考えるとき、その理想形態の側から社会を相対化しようという意図がある。
cover
不美人論
 そんな枠組み自体が間違ってんじゃないのか、という議論もありうるのだが、問題は、むしろ、恋愛に付きまとう、計算感や妥協感ってなんだろ?というあたりだ。
 社会側のパラメーターをうんと高くして、あるのは恋愛の現象だけ(「本当の恋愛なんてない!」)とすれば、ライブドア社長の言うように、いい女は金についてくるぞがはは、となる。
 あるいは、「不美人論」(藤野美奈子、西研対談)(参照)みたいにブス意識を知的な問題にするのはもうやめて、それなりに相応のオシャレでもしたら、というようになる。
 で、吉本の問いかけに戻るのだが、問題は、その逆があるのか? つまり現在の社会を基準にそれって現実だよね、おしまい、ではないありかたというのはアリ? つまり、私たちは本当の恋愛を想像しつつ恋愛しているのか?
 ここで実際的に重要なのは、吉本の考えの枠組みでは、「精神的な距離」というのと、「細胞が引き合う体感」だが、それらが仮に虚構だとしても、そうした虚構にどこまで人生賭けられんのかよ、ということだ。つまり、精神的な距離を目安に、細胞が引き合うような異性を探し当てることはできるのかね? 「電車男」…違うって。
 残念ながらまるで答えはわかんないのだが、人生終局近くなった吉本翁が言うのだから、それなりのすごみはあるかもねである。
 それと、吉本読みの私からすると、自分の主張や好みといったものが手薄のときに、そうした本当の恋愛に、不意に襲われるというものだろうかとも思う。そして、それは、その人の全てを奪っていくと思う。ま、そう思う。絵として描けば、駆け落ちってやつだな。
 現代の恋愛の多くは、失いたくない自分というものの延長に、他者としてのパートナーの個性を調和するというふうに、自分というものと他者の関わりが積極的に問われる。
 だが、恋愛というのは、その逆としてあるのが本質なのかもしれない。そして、その逆さ加減が、「細胞」というか身体性を開いていくっていうか緩めていくことにつながるのだろう。下品に言うと、本当の恋愛でなければ細胞というか身体は性的な開花はしないのだろう、と。
 ただ、身体が社会的に性的に開花するということはありえるかもしれない。つまり、社会のなかで人の存在が性的なあり方として可換であっても(あっちの女/男でなくてもこっちの女/男でも可とか)、そこから性的な快楽を得られるというような。というか、現代はそっちに向かっているようにも思う。下品に言うと、性的にうまくいく相手ということだけで快楽の相手を見つけうるものなのかもしれない。このあたりを含めて、吉本はほのめかしているだけが、性の問題は大きい。
 吉本は、この本ではあまり強調していないが、本当の恋愛というのは、誰でもそういう相手はいるんだよともよく言う。これも逆説があって、そういう相手と一緒にならんなら人生なんて意味ないよという含みがある。
 吉本がなぜそんなふうな恋愛に、つまり本質っていうのに、そんなんにこだわるかというと、先にも触れたが、そういう恋愛が社会(国家)のパラメーターをひっくりかえすという確信を持っているからだ。
 ただし、このあたりに十分に整理されていない問題がある。具体的には「籍」だ。吉本はこの本で初めてというわけでもないが、籍を入れる問題を重視している。私などの感覚からしても籍を入れるか入れないかはプライベートな領域の問題と税制の問題じゃないかという気もする。

 ぼくはそれまで法律婚というものにほとんど価値を置いていませんでした。男と女が一緒に暮らすその生活の内実こそが大切なのであり、国に届けを出すということは、ほとんど意味がないと思っていたのです。
 けれども、実体験としてはそうではなかった。正式に届けを出すとか抜くとかいうことが、自分たちにかなりの重みを持っているのだと、やってみて初めてわかった部分がありました。

 吉本学的にいうと共同幻想領域ということになる。国家の宗教性とも言える。が、問題はこれがそういう知的な部分で現在のわたしたちの大半は籍というものを扱えないという事実だけだろう。
 同様の構造は、実際に恋愛から結婚という形態での男女の関わりだ。吉本は端的に女性は結婚して不利だよということをはっきり書いている。それはそうなんだろと思う。面白いのは、吉本は恋愛の本質とか言っておきながら、実際は、彼自身は従順な奥さんのほうがいいなというのをぼそっと正直に言っているあたりだ。そこが現在の日本の男の限界でもある。吉本はその限界を明確に意識しているわけでもある。
 そういえば、私が吉本隆明からいろいろ影響を受けた中で、ひとつ際だった一枚の写真がある。吉本が買い物籠をさげて商店街で買い物をしている写真だ。これが思想家というものだと私は思った。たとえば、誰でもいいのだけど、いわゆる哲学者とか文学者とか、けっこうカッコつけているじゃないですか。というか、意外にそのカッコが人気だったりする。で、そのカッコというのが、どうにも買い物籠をさげて商店街に行くのと似合わない。私は、それは、だからそういう思想家はダメなんだと思う。思想とそういうのには関係ないとか言えばいえるけど、どのような思想であれ、それが生身の人間として社会に存在している、ということは性的な存在としてある、というとき、いわゆる家族的な問題にどうきちんとケリをつけるか。生活というのは炊事洗濯掃除なわけですよ。そこから乖離した思想など、少なくとも私には無意味だと実感した。ま、私はそうというだけのことだが。
 この本では、中盤、三角関係についての話もあって面白い。あれれと思ったのは、私もけっこう好きで調べたのだが、小林秀雄、長谷川泰子、中原中也の関係だ。私は小林秀雄寄りの人だからもあるが、このどろどろの関係で、吉本は中原が一番傷ついたとしている。私はそう思ったことがなかった。が、言われてみるまでもなくそうだ。というあたりで、実は、私なども、日本的な三角関係というか同性愛的な性向への感性を失っているのだなとは思った。

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2004.10.24

新潟県中越地方地震雑感

 昨日午後5時56分ごろから発生した新潟県中越地方を震源とする連続地震は、今朝の時点で14人が死亡、700人以上が怪我という惨事になった。東京でもかなり揺れた。今朝の新聞各紙社説では読売新聞と日経産業新聞が触れていた。すぐに社説で触れるべき問題だとも言えないが、朝日新聞社説「東京映画祭――変化の芽を生かしたい」といったことを書くなら、小泉首相がこの地震発生後現地で余震の続くなか、東京国際映画祭開会会場で一時間以上も映画観賞していた点についても触れるべきかなと、八つ当たり的に思う。追記:小泉が映画をぼけっと見ていたというのはガセ・ヤラセ情報の可能性があるとのご指摘を受けた。ただ、官邸に戻るまで結果的に1時間の待機はあったようだ。毎日エントリを書くブログも同じで、この災害に触れないわけにもいかないような気がする。しかし、結果的には情報の混乱を招きかねないのかもしれないので、簡単に自分の思いの部分を書いておくだけにしたい。
 地震発生と同時に私はラジオをオンにした。停電も多い沖縄の暮らしが長かったせいか、電灯線に依存しない情報源としてラジオをいつでもオンにできるようにしている。同時にテレビも付けた。NHKでは数分後にニュースが始まったのでラジオをオフにした。震度6とのことで、被害が出るなと印象を持った。その後のニュースでマグニチュード6.8と知った。
 新潟で地震といえば、1964年(昭和39年)、東京オリンピックが始まる前の6月に起きた新潟地震を思い出す。1957年生まれの私でも印象深く、被害報道についての記憶がある。ネットで情報を補足すると、当時の地震は日本海新潟沖を震源とするマグニチュード7.5。新潟市や長岡などで震度5。死者26人、全壊家屋1960戸とのこと。
 今回の地震で個人的に驚いたのは、新幹線が脱線したことだ。私は新幹線というのは脱線しないようにできていると思いこんでいた。幸いこの点で大きな被害は出さなかったので、新幹線技術はそれでも優れていたと見るべきなのかもしれない。
 今朝のニュースを見ると今回の地震では都市インフラの破損が印象的だ。約27万戸で停電。送電設備は案外もろい。約1.4万戸でガス供給停止。この地域ではプロパンが多いのだろう。そしてプロパンの事故は少ないように見える。火災も少ないようではある。関東大震災の大被害はその大半は火災だった。秋も深まり冷えが厳しいが極寒であればもっと厳しい状況になったことだろう。
 今回の地震で、私は少し淡い期待を抱いていたのだが地震予知はできないものだとも悟った。一昨日サイエンス誌に発表された、地上近い震源の地震と月の引力の相関がふと脳裡に浮かんだが、旧暦を見るに関係ない。もちろん、予知についての各種の科学的な努力が無意味だとは思わない。今回の地震でも、事後の説明にはこうした科学知見に依存しなくてはならない。
 読売新聞(2004.10.14)「長岡平野西縁断層帯、30年以内にM8程度の地震の確率は2%以下=新潟」では、10月13日の地震調査委員会が、全長83キロの長岡平野西縁断層帯について、「今後三十年以内にマグニチュード8.0程度の地震が起きる確率は2%以下」と発表したことを伝えている。また、直下型地震を起こす可能性のある全国98か所の活断層の発生予測評価では高い確率になるとしている。だが、この発表の活断層が今回の地震に関係しているかについてはまだよくわかっていない。別のものではないかという指摘も多いようだ。
 昨年の東京地震予知騒ぎのおりに自分なりに調べたときの印象では、いわゆる周期型の地震としては関東ではあと200年くらいは問題なさそうだが、阪神大震災のような活断層型のものはわからないようだ。またマグニチュード8以下はそれほど問題視されないふうでもあった。
 防災は重要だが、実際的には比較的広範囲の地域で地震の起きる可能性についてはまるで予想できそうにもないので、事後の体制が問われてくるように思う。今回の地震でも、現在の救援活動を注視したい。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

« 2004年10月17日 - 2004年10月23日 | トップページ | 2004年10月31日 - 2004年11月6日 »